「……名前は」
スコットランド・ヤード、取調室。
人権保護と取調べの適正化を目的として設置された監視カメラが、天井の隅で赤いランプを灯している。灰色の壁に囲まれた室内には、床へ固定された机と二脚の椅子があるだけで、窓すらない。話したことも、黙っていた時間も、ここで起きたことはすべて記録に残る。
そして私の向かいには、つい先ほどまで事件現場で滔々と講釈を垂れていた金色のウマ娘が座っていた。
「答えぬ」
連行されて多少は殊勝になるかと思えば、むしろ逆だった。彼女の不遜な態度はここへ来てますます悪化しており、特徴的なウマ耳は露骨なほど真後ろへ絞られ、苛立つたびに長い尻尾が鞭のようにしなっている。
「……住所は」
「答えぬ」
「職業」
「答えぬ」
こんな問答を、もう十回は繰り返していた。
黙秘、というのとも少し違う。少なくとも私にはそう思えた。彼女は口を閉ざしているのではなく、こちらが質問するたびに、明確な意思をもって「お前には答えてやらない」と宣言しているのだ。
私は机の上の調書へ視線を落とした。記入できた箇所はほとんどない。
「あのねぇ……こっちも捜査であなたに質問してるんすよ。正直にパッと答えて、必要な記録さえ取れれば、こっちだっていつまでもあなたをここに座らせておくつもりはないんすから」
我ながら、情けない声だった。
もし後日この映像を見返す機会があったなら、この時の私は見るに堪えないほど疲れ切った顔をしていただろう。事件の捜査だけでも手一杯だというのに、目の前の女はまるで拗ねた子供のように同じ返答を繰り返す。怒鳴れば余計に意固地になる気がするし、下手に出ても聞く耳を持たない。もはや、どう扱えばいいのかわからなかった。
そんな私をしばらく眺めていた彼女が、ふいに鼻で笑った。
「くだらん建前だな」
私は顔を上げた。
ここへ来て初めて、「答えぬ」以外の言葉を口にした。
「貴様らの捜査に協力してやる」
真後ろへ伏せられていた耳が、ゆっくりと起き上がる。
「余に被せた濡れ衣だ。ならば余自身の手で焼き尽くしてやろう」
そう言って彼女は机へ身を乗り出し、不敵な笑みを浮かべた。
できるものならやってみろ。
喉元まで出かかった言葉を、私はどうにか飲み込んだ。ここで挑発に乗れば、また話が振り出しに戻る。一度深く息を吸い、なるべく平静を装って答える。
「……無理です。捜査に協力する以前の問題っすよ。これ以上、身元確認に必要な質問にすら答えないというのなら、こちらとしても──」
「余がいれば、次の殺人は未然に防げるぞ」
その一言で、頭に血が上った。
こちらだって、次の事件をただ待っているわけではない。
警らを増やし、市民への注意喚起を行い、過去二件の記録を洗い直している。現場の捜査員は寝る間も惜しんで証拠を拾い、鑑識は僅かな痕跡を見落とすまいと何度も検査を繰り返している。
それを、何も知らない一般人がたった一言で踏みにじった。
「ほざくな!」
気づいた時には、机を叩いていた。
「こっちは事件を防ぐために、何人もの捜査員が寝る間も惜しんで動いてるんすよ。もしも本当にお前が言うように殺人だとしたら一大事だからって、、みんな必死に証拠を集めてる。それを何も知らないお前が、まるで自分一人なら簡単に止められるみたいに──!」
そこで一度、息が詰まった。
それでも昂った感情は止まらなかった。
「それに状況と目撃証言を総合すれば、現時点で一番疑わしいのはお前なんだ! 事件の情報を知っていて、犯行時刻には似た人物を見たという証言もある。名前も住所も言わない。そんな人間を『捜査に協力する』の一言で、はいそうですかと外へ出せるわけないでしょう!」
声が狭い取調室に反響し、やがて天井の監視カメラへ吸い込まれていった。
言い終えたところで、さすがに後悔した。取調べで感情的になるなど、警部として褒められたことではない。まして、その一部始終が記録されている。
けれど彼女は、そんな私を咎めるでも、怒鳴り返すでもなかった。
ただ、静かにこちらを見ていた。
やがて、その口が開く。
「──『推理の宮殿』」
「……は?」
「余の運営しているサイトだ」
あまりに脈絡のない言葉に、昂っていた頭が一瞬で冷えた。
「捜査に携わる者ならば、当然一度くらいは目を通しているな?」
聞き覚えはあった。
むしろ、警察関係者の間では悪い意味で有名なサイトだった。
世間を騒がせた事件について、公開情報をもとに独自の推理を展開する個人サイト──そこまでなら珍しくもない。しかし『推理の宮殿』は、殺人事件、それも残酷なものを好んで取り上げるうえ、記事の端々でスコットランド・ヤードの捜査方針にまで容赦なく口を挟んでいた。
曰く、初動捜査に無駄が多い。
曰く、証言の扱い方を誤っている。
曰く、この物証を重要視するなど愚の骨頂。
その尊大な文章と異様なまでに殺人事件へ精通した内容から、一部の捜査員の間では、運営者は相当な変人──もっと露悪的に言えば、サイコパスの類ではないかとまで噂されていた。
私は、目の前の女をまじまじと見た。
「……あれ、あんたが書いてるんすか?」
妙に納得してしまった。
彼女は椅子の背へゆっくりと身を預けると、こちらの動揺など意にも介さず続けた。
「中には、貴様らが最後まで明かしきれなかった事件の真相も記してある」
「そんなもの──」
「第四十六号のケースだ」
私の言葉を遮り、彼女はそう言った。
それまで浮かべていた不敵な笑みが消え、菫色の瞳だけが真っ直ぐに私を捉える。
「一度、読み返してみるといい」
挑発ではなかった。
少なくとも、その時の私にはそう聞こえなかった。
まるでそこに、自分が何者であるかを証明するものがすでに置かれているとでもいうような──そんな確信に満ちた声音だった。
何か一つくらい言い返してやろう。そう思って口を開きかけた、その時だった。
ガン、ガン、と取調室の扉が乱暴に叩かれた。
せっかく喉元までせり上がっていた言葉が、行き場を失ってそのまま引っかかったような気がした。どうにもつかえの取れない気持ち悪さが残ったものの、だからといって訪問者を無視するわけにもいかない。私は目の前のウマ娘をひと睨みしてから椅子を立ち、扉を開けた。
そこにいたのはフィリップだった。
いつにも増してバツの悪そうな顔をしている。眉間には皺が寄り、こちらと目が合っても、なぜかすぐに視線を逸らした。
「どうしたんすか」
「いや、それがですね……たった今、上の方から連絡があったみたいで。その……」
そこで言葉が止まる。
普段から大抵こんな調子の男ではあるが、今の私には、その煮え切らない態度が妙に癇に障った。
「しゃきっとしてください。何があったんすか」
「はい……ええと」
フィリップは一度、私の肩越しに取調室の中を覗き、それから声を潜めた。
「その女を、釈放しろとの命令が出ました」
一瞬、頭の奥でキンと甲高い音がした。
「……は?」
どういうことだ。
誰がそんな命令を出した。そもそも「上」とはどこの誰だ。署長なのか、それともさらに上なのか。こんな素性もわからない人間を、事情聴取の最中に突然放免しろなどという命令が出るものなのか。まさか偽物の電話ではないだろうな。いや、それならフィリップがここへ来る前に確認しているはずで──。
いくつもの疑問が一度に頭の中を駆け巡り、どれから口にすればいいのかさえわからなくなった。
だから、その後のことはあまりよく覚えていない。
もちろん本当に記憶がないわけではない。私が抗議して、フィリップが困った顔をして、結局のところ命令を覆すことはできなかった。それから、あのウマ娘は悠々と取調室を出ていったはずだ。ただ、あまりにも腹が立っていたせいか、それらの出来事は今振り返っても妙に輪郭がぼやけている。
はっきり覚えている次の光景といえば、自分のデスクに座り、パソコンの画面を睨みつけていたところだった。
『推理の宮殿』
検索すれば、すぐに出てきた。
飾り気のないサイトだった。事件ごとに番号と題名が振られ、それを選べば運営者による考察が表示されるらしい。私はマウスホイールをせわしなく回しながら、目的の番号を探していった。
「四十六号……四十六号……」
正直に言えば、この時の私はどうかしていた。
あの女が本当に何者なのかを確かめたい、というのは建前で、実際にはもっと子供じみた感情だったのだと思う。どうにかして推理の穴を見つけてやりたい。偉そうに警察へ講釈を垂れていたくせに、実際には大したことのない人間なのだと証明してやりたい。あわよくば何か怪しい記述でも見つけて、今度こそ署へ引っ張り戻してやろう──そんなことさえ考えていた。
「あった。四十六号」
クリックすると、画面いっぱいに文字が表示された。
私は上から順に目を走らせる。
「『杜撰な捜査の手腕を露呈したと言わざるを得ない』……『あり得ぬ凡ミスであり』……」
読み始めて数分もしないうちに、また頭が痛くなってきた。
腹立たしいことに、推理そのものには筋が通っている。公開された現場写真、報道機関が伝えた時系列、関係者の証言、それらを一つずつ拾い上げて論拠を組み立てているのだが、その合間合間に挟み込まれる小言がいちいち我々を刺してくる。
──この確認を怠った理由が理解できない。
──証言を額面通りに受け取るなど、捜査ではなく御用聞きである。
──この程度の矛盾を見落とすのであれば、捜査本部ではなく観光案内所と名乗るべきだろう。
「……性格悪っ」
思わず声に出た。
しかし、そこで読むのをやめる気にはなれなかった。
悔しいが、先が気になったのだ。
記事はやがて事件の核心へ近づいていき、警察が採用した自殺という結論について論じ始める。私は頬杖をつきながら画面を追っていたが、その途中で、マウスホイールを動かしていた指が止まった。
『スコットランド・ヤードはこれを自殺と結論づけたが、余の見解は異なる。捜査本部はいくつかの事実を、証拠として扱うに値しないものとして切り捨てているからだ。第一に、遺体の首に掛けられていた──』
「…………」
そこまで読んだところで、私は姿勢を正した。
もう一度、同じ一文を読む。
それから記事の掲載日を確認し、事件の記録が公表された時期を頭の中で照合した。
嫌な感覚がした。
先ほどまで抱いていた「あいつの粗を探してやる」という気持ちは、いつの間にか消えていた。
私はサイトを開いたまま、デスクの電話を手に取った。
鑑識課へ繋ぐ。
呼び出し音が一度、二度、三度と続き、やがて若い女性の声が聞こえてきた。
『はい、鑑識課です』
「あ、すいません。捜査課のウィンバリアシオンです。ちょっと、過去の事件の証拠について確認したいことがありまして……」
『過去の事件、ですか?』
電話口の女性──モリーの声には、明らかな困惑が滲んでいた。それも当然だろう。これから新しい証拠を調べてくれというのならまだしも、私が頼もうとしているのは、すでに解決したことになっている事件の証拠をもう一度確認してほしいというものだ。自分でも妙な依頼をしている自覚はあった。
「はい。ケース百四についてなんすけど、当時押収された証拠品の記録って残ってます?」
『百四……少々お待ちください』
電話の向こうでキーボードを叩く音が聞こえた。私はその間もパソコンに表示された『推理の宮殿』の記事を眺め、例の一文を何度も読み返していた。
やがてキーを叩く音が止まる。
『ケース百四……ケース百四……あっ』
モリーの声色が変わった。
『ケース百四の首吊り縄!』
「え?」
『ようやく取り合ってくれるんですか!?』
さっきまでの困惑はどこへやら、電話の向こうから勢いよく声が飛んできたものだから、私は思わず受話器を耳から離した。
「いや、取り合うというか……その縄について聞きたくて」
『やっぱりそうですよね! おかしいと思ってたんです、あれ!』
どうやら、触れてはいけないところに触れてしまったらしい。
聞けば、問題の首吊り縄からは被害者本人とは異なるDNAが検出されていたという。ところが当時の捜査本部は、それを事件と直接結びつく証拠として扱わなかった。縄は密封包装された商品ではなく、量り売りに近い状態で販売されていたため、製造、運搬、陳列、販売、そのいずれかの過程で第三者の痕跡が付着した可能性を排除できない──それが当時の見解だったらしい。
「じゃあ、やっぱり店員か誰かのものだったんじゃないんすか?」
『違うんですよ! そこなんです!』
また声が大きくなった。
『私もそれなら納得します。でも、あり得ないんですよ。だって──』
そこから先のことは、詳細に語るのを控えたい。
いや、モリーの説明がわかりにくかったわけではない。むしろ逆で、彼女は当時の検査結果から縄の材質、検出されたDNAの位置、付着状態、保管方法、──さらには自分が当時の捜査主任へ何度説明しても取り合ってもらえなかったか──まで、実に懇切丁寧に語ってくれた。
ただし、あまりにも懇切丁寧すぎた。
五分が過ぎ、十分が過ぎ、気づけば私は受話器を肩と頬の間に挟んだまま、『推理の宮殿』の記事と鑑識記録を交互に睨んでいた。
そして話を聞けば聞くほど、笑えなくなっていった。
モリーが当時から疑問視していた点と、『推理の宮殿』に書かれている指摘が、ほとんど同じだったからだ。
ただし、一つだけ決定的に違うところがあった。
モリーは実物を調べていた。
捜査資料にもアクセスできた。
それでも、その痕跡が何を意味するのかまでは突き止められなかった。
対して、あの女にはそのどちらもない。
記事の日付を見る限り、彼女が材料にできたのは報道記事や公開された現場写真、警察発表といった、誰にでも手に入る情報だけのはずだった。
それなのに──辿り着いている。
私たちが証拠品を手にしながら見落とした場所へ。
『──だから私、当時も言ったんですよ。これは絶対に再検査した方がいいって。そうしたら主任がですね──』
「あ、はい」
『──そもそもあの縄の撚り方だって妙だったんです。一般的な三つ打ちとは少し違って──』
「なるほど……」
『あと検出位置なんですけど、これが本当に重要で──』
「……はい」
その後も話は続いた。
永遠に。
これは比喩ではない。少なくとも、あの時の私には本当の意味で永遠に感じられた。
ようやくモリーが満足して受話器を置くことを許してくれた頃には、時計の針が一時間近く進んでいた。
受話器を置いてからも、私はしばらく動けなかった。
モリーから聞かされた話と、目の前の記事とを頭の中で何度も照らし合わせる。『推理の宮殿』における第四十六号──スコットランド・ヤードの記録でいうケース百四。その事件について、あのウマ娘は当時の捜査本部が見落とした事実を、公開された僅かな情報だけから拾い上げていた。
偶然、と片づけるには出来すぎている。
だからといって、素直に彼女の推理を認めるのも癪だった。
「…………」
私はもう一度、記事を上から読み返した。
先ほどまで鼻につくだけだった尊大な文章も、今では無視することができない。一つ一つの事実が拾い上げられ、結びつけられ、最後には警察とは異なる一つの結論へ収束している。何より腹立たしいのは、モリーの話を聞いた後では、その結論をただの素人推理と笑い飛ばせなくなっていることだった。
気づけば私は、粗を探すためではなく、彼女がどうやってそこへ辿り着いたのかを確かめるために文章を追っていた。
そして、記事の末尾まで来たところで、一つの記述に目が留まった。
それは第四十六号に限ったものではなかった。試しに別の記事を開いてみても、やはり同じように最後に添えられている。
名前でもなければ、経歴でもない。
ただ、自らの在処だけを示す短い一文。
「……ベイカー通り、二二一B」
思わず、声に出して読んでいた。
画面の中では、それ以上の説明もなく、その住所だけがひどく当然のように記されている。
私は椅子の背にもたれ、しばらくその文字列を眺めていた。
聞きたいことなら、いくらでもあった。
いや──問い質したいことがあった、と言った方が、この時の私には正しかったかもしれない。
私は手帳を取り出し、その住所を書き留めた。