つかの間雨の上がったロンドンは、それでも長く降り続いた雨の名残から逃れられずにいた。雲は依然として低く垂れこめ、濡れた舗道は鈍い空の色を映し、建物の軒や街路樹の葉からは、忘れた頃に雫が落ちてくる。タクシーの窓も薄く曇っており、その向こうを流れていく街並みは、水気を含んだ空気の中でどこか輪郭を失って見えた。
私は後部座席で手帳を開き、そこに書き留めておいた三件の記録を読み返していた。
正確には、三件の自殺である。
少なくとも、スコットランド・ヤードはそう判断している。先の二件はいずれも服毒による自殺として処理され、今回についても現場の状況を見る限り、今のところそれを覆すだけの証拠は見つかっていない。三人の間に明確な接点もなく、同一の事件として捜査するだけの根拠もないのだから、現時点でこれを「連続殺人」と呼ぶのは、捜査官としては明らかに先走りだった。
──もし、あいつの言う通りならば。
私は手帳の端を親指で押さえながら、三人の被害者について書き留めた箇所へ目を落とした。
三人はいずれも服毒によって死亡し、その傍らからは金色の紙を巻いた小瓶が見つかっている。そして三件目の現場付近では、金色の長髪に茶色のパンツを穿いた人物が目撃され、その特徴に合致するウマ娘が、規制線の外から現場を眺めながら、警察が関連づけてもいない三人の死を「三件目」と呼んだ。
その上で、あいつは言ったのだ。
三人とも殺されたのだ、と。
もしそれが正しいのなら、話はまるで違ってくる。
三件の服毒自殺ではない。同じ特徴を持った三つの現場があり、同じような方法で三人の人間が殺されたことになる。そうなれば、これまで「偶然」で片づけるしかなかった金色の瓶も、まったく別の意味を持ち始めるだろう。
もっとも、私はまだそこまで認めたつもりはなかった。
あいつが怪しいことにも変わりはない。三件目の現場付近で得られた目撃証言と特徴が一致し、警察が公表していない事柄を知っていた。重要参考人として事情を聞くには十分すぎる理由があり、今でも疑いが完全に消えたわけではない。
ただ、その女が運営しているという『推理の宮殿』を読んでしまった。
第四十六号。スコットランド・ヤードでいうところのケース百四について記された、あの記事。そして、そこに書かれていた指摘を確かめるため鑑識へ電話をかけた結果、モリーから聞かされた当時の鑑識結果。
それらを知ってしまった今では、単純に「怪しいから犯人だ」と決めつけることも、あいつの言葉を「素人の妄言だ」と切り捨てることもできなくなっていた。
何より癪なのは、私自身が確かめたくなってしまっていることだった。
本当に三人は自殺したのか。
それとも、私たちが自殺だと思い込んでいるだけなのか。
もし後者だとすれば、あいつは規制線の外から一体何を見つけ、何を根拠にそこまで言い切ったのか。
これから向かう先では、きっとその辺りについて、またあの女と言い争うことになるだろう。ならばせめて、今度は現場でのように次から次へと言い負かされるわけにはいかない。私は手帳のページを戻すと、三件それぞれの発見時刻、発見場所、検視結果を、もう一度最初から読み直した。
やがてタクシーは、ベイカー通りへ入った。
言ってしまえば、なんてことのないロンドンの通りである。近年は再開発も進み、現代的な商業施設やオフィスが立ち並び、観光客らしい人影も珍しくない。その一方で、脇へ目を向ければ昔ながらの建物もまだ残されており、新しいガラス張りの建物に挟まれるようにして、古い煉瓦造りの家々が今なお現役で使われている。
その一つに、あいつがいる。
『推理の宮殿』の主。そして三件目の現場付近で目撃され、警察の知らない何かを知っているかもしれない重要参考人。
あるいは──もし本当にあいつの言う通り、三人が殺されたのだとすれば。
私たちがまだ入口にすら立てていない事件を、すでに何歩も先から眺めている女。
ひどく尊大で、ひどく癪に障る、名前すらまだ知らないウマ娘だった。
「…………」
そこで、ふと思った。
そういえば私は、まだあいつの名前すら知らない。
あれだけ偉そうに講釈を垂れ、取調室ではこちらの質問をことごとく「答えぬ」の一言で退けておきながら、結局、名前一つ聞き出せていないのである。
思い返した途端、腹の底からまた無性に苛立ちが込み上げてきた。
今度こそ絶対に聞き出してやる。
そう決意したところで、タクシーが滑るように速度を落とし、やがて通りの端へ静かに停まった。
「着きましたよ」
運転手が料金を読み上げる。私は手帳を閉じて鞄へ押し込み、クレジットカードを決済端末へかざすと、認証音を待ってすぐに車を降りた。
湿った空気が頬に触れた。
道路の向こうに、古い建物が並んでいる。
目当ての家は、すぐにわかった。
周囲の建物と比べて格別に立派なわけではない。むしろ古びていると言った方が正しく、雨に晒されてくすんだ外壁には年月相応の傷みが見えた。それでも完全に朽ちているわけではなく、窓辺や玄関には人の手が入った跡がある。古く、少し退廃的でありながら、そこに誰かが暮らし続けることによって、どうにか住居としての体裁を保っている──そんな奇妙な印象の家だった。
私は玄関先まで歩み寄った。
扉には、表札の代わりなのか、金属製の数字が取りつけられている。
“221”
間違いない。
ここだ。
ただ、記事に書かれていた住所には、その後ろにもう一文字あったはずだ。
私は建物を見上げる。
二階の窓。
その向こうに、薄暗い部屋が見えた。
ここまで来てしまった以上、引き返す理由もない。私は一度だけ息を整えると、意を決して拳を持ち上げた。
ゴン、ゴン、ゴン。
大きく三度、扉を叩いた。
応答はすぐにあった。
扉の向こうで何かを置くような音がして、それからぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。小さく金属の擦れる音がしたかと思うと錠が外れ、古い木製の扉が内側へ開かれた。
姿を現したのは、小柄な老婦人だった。
最初に目についたのは、ふんわりと丸みを帯びた白髪だった。きちんと整えられてはいるものの堅苦しさはなく、額や目尻には年齢相応の皺が刻まれている。その皺さえ笑みの名残のように見えるほど顔立ちは柔和で、淡い色のカーディガンを羽織った小柄な身体と相まって、どこにでもいそうな人の好い老婦人という印象を受けた。
ただし、目だけは妙に生き生きとしていた。
こちらを見上げる瞳には年齢を感じさせない茶目っ気があり、それと同じくらい、長年いろいろな面倒事を見てきた人間特有の図太さが覗いている。玄関を開けた相手が警察官であろうと、少しも怯むような人には見えなかった。
「あ、突然すみません。あたしは──」
名乗りながら警察手帳を取り出そうとしたところで、老婦人は「ああ、いいのいいの」とでも言いたげに眉を寄せ、目の前を飛ぶ小虫でも追い払うように片手をひらひらと振った。
「オルちゃんから聞いてるわよ。あなたも大変ねえ、あんな狂人の妄言に付き合わされて」
「……狂人」
あまりにも自然に出てきた言葉だったので、思わず復唱してしまった。
声音だけを聞けば、近所の子供にお菓子でも勧めるような穏やかさである。それなのに口から出てくる言葉には、砂糖菓子の中へ針でも仕込んだような毒があった。
何より引っかかったのは──。
「……オルちゃん?」
「そうよ。オルちゃん」
夫人は何がおかしいのかわからないという顔で答えた。
あの女を、オルちゃん。
取調室で自分を「余」と呼び、警察官相手に一歩も退かず、こちらの質問すべてを「答えぬ」で突っぱねた女を、オルちゃん。
頭の中でどうしても二つの像が結びつかなかった。
すると夫人は、私の困惑など気にも留めずに身体を半分だけ家の中へ戻し、階段の上を仰いだ。
「オルちゃん! お客人よ! あなたが呼んだんでしょう、少しくらい自分で出迎えたらどうなの!」
びりびりと玄関の空気が震えた。
「っ……!」
私は思わず耳を伏せた。
いったい、その小柄な身体のどこにそんな肺活量が収まっているのだろう。先ほどまでの柔らかな声からは想像もつかない大音声が階段を駆け上がり、家中へ響き渡っていった。
しかし。
「…………」
返事はない。
夫人はしばらく階上を睨んでいたが、やがて「あの子はもう」と小さく呟き、深々とため息を吐いた。その様子には怒りというより、同じことを何百回と繰り返してきた人間だけが持つ諦観が滲んでいる。
「ごめんなさいねえ。あの子、自分が興味を持ったこと以外には、本当にびっくりするくらい何もしないのよ」
「はあ……」
「頭だけはいいんだけどね。ああいうのを何ていうんだったかしら。ほら……」
夫人は少し考え、
「社会不適合者?」
「私に訊かれても……」
「あら、警察の方なら詳しいかと思って」
にこりと笑う。
やはり、この人も少し怖い。
「まあ、どうぞ。上がっていってちょうだい」
夫人は私を中へ招き入れながら、階段を指さした。
「上がって目の前の扉。たぶんいつもの部屋にいるから。勝手に入って構わないわよ」
「勝手に?」
「ええ。それで、もしムカつくことを言われたら──」
そこで夫人は私へ顔を寄せ、何か内緒話でも教えるように声を潜めた。
「一発くらい殴っても、私は見てなかったことにしてあげる」
「……警察官に言うことじゃないっすよ、それ」
「あら、だから言ってるのよ」
そう言って、夫人は実に穏やかに微笑んだ。
目尻の皺が深くなり、それだけを見れば孫でも見送るような優しい老婦人そのものだった。
チャーミングなのか、恐ろしいのか。
たぶん、その両方なのだろう。
「……お邪魔します」
結局、私は会釈とともに苦笑を返すことしかできず、夫人の横を通って家の中へ足を踏み入れた。
キッ、キッ、と足を踏みしめるたび、古い階段が小さく鳴いた。踏板は長年の使用で中央だけがわずかに沈み、手摺にも幾度となく人の手が滑った跡が艶となって残っている。階段は途中で右へ折れ、狭い踊り場へ出ると、その正面に一枚の木製扉があった。
古びた壁紙や黒ずんだ枠に比べれば、扉だけが妙に新しい。おそらく何度か付け替えられたのだろう。飾り気はなく、表札もなければ部屋番号すら見当たらず、ここに誰が住んでいるのかを示すものは何一つなかった。
私は右手を上げ、控えめに二度ノックした。
返事はない。
「……あの」
呼びかけてみても同じだった。先ほどの夫人の様子からして、不在ということはなさそうなのだが、もう一度、今度は少し強めに叩いても、中からは物音一つ返ってこない。
三度目まで無視されたところで、さすがにしびれを切らした。
「入りますよ」
一応そう断ってからノブを回してみると、驚いたことに鍵は掛かっていなかった。扉を静かに押し開けると、蝶番が低く軋み、その隙間から部屋の空気がゆっくりと廊下へ流れ出してくる。
最初に感じたのは、時代を一つ間違えたのではないか、という奇妙な錯覚だった。
部屋そのものは決して広くない。通りに面した二つの窓から灰色の光が差し込み、その前には重たげなカーテンが左右へ寄せられている。壁にはくすんだ色の壁紙が残り、天井との境には古めかしい縁飾りが巡らされていた。暖炉まである。もちろん今では実用品というより、この建物が建てられた頃から取り残された遺物なのだろうが、その上には燭台や置時計、何に使うのかわからない小瓶が雑然と並べられ、壁にはロンドンの古地図が画鋲で留められていた。
家具もまた、揃えるという発想を途中で放棄したような有様だった。使い込まれた革張りの肘掛け椅子が暖炉の前に二脚あり、その間には小さなテーブル。少し離れたところには大きな木製の机が置かれているが、机として機能しているのかは怪しい。新聞の切り抜き、開いたまま伏せられた本、ルーペ、ボールペン、付箋の束、薬品らしきものの入った試験管、それに飲みかけらしいティーカップまでが、領土争いでもしているかのように天板を埋め尽くしていた。
その一方で、机の端には薄型のノートパソコンが開かれ、何本ものケーブルが床を這っている。壁際では無線ルーターのランプが忙しなく点滅し、その隣には充電中のタブレットまで立て掛けられていた。
古い。
なのに、古くない。
ヴィクトリア朝から残っているような部屋へ、現代の電子機器だけを無理やり持ち込んだような、ひどくちぐはぐな空間だった。
だが、もう少し眺めているうちに、単にレトロ趣味という言葉で片づけるのも違う気がしてきた。
壁という壁が、何かを考えるために使われている。
古地図には何本もの線が引かれ、その余白には細かな文字が書き込まれていた。その隣には新聞記事の切り抜きが数枚貼られ、写真や印刷された文書がピンで留められている。棚には法律、毒物学、医学、犯罪史といった背表紙が並んでいるかと思えば、その間に植物図鑑、ロンドンの道路地図まで無造作に差し込まれていた。
床にも本がある。椅子にもある。窓辺にもある。
乱雑、と言ってしまえばそれまでだった。
けれど、不思議と汚くはない。
ゴミが散らかっているのではなく、使われたものが使われた場所にそのまま残されているのだ。読みかけの本には鉛筆が挟まれ、地図の傍には定規があり、新聞記事の横には同じ事件について書かれたらしいメモが置かれている。一見すれば無秩序なのに、下手に何か一つ動かせば、この部屋の主にはすぐ気づかれてしまうのではないか──そんな妙な規則性があった。
もしここが事件現場で、私が捜査のために踏み込んだのなら、まず写真を撮る前に頭を抱えていただろう。
「お邪魔します……」
扉を開けてもなお返事がないため、私は恐る恐る声を滑り込ませながら中へ足を踏み入れた。
途端に、独特の匂いが鼻についた。
古い紙と木材、それに紅茶の残り香。わずかに薬品めいた刺激臭まで混じっている。埃っぽいことには違いないが、長年放置された部屋のそれとは少し違う。むしろ、換気することさえ忘れて何日も本を読み、物を調べ、考え続けていた人間の部屋──そんな空気だった。
ふと、テーブルの上に置かれたままのノートパソコンが目に入った。
薄型のそれは閉じられることもなく、ロゴマークの入った背中をこちらへ向けている。当然ながら、他人のパソコンを勝手に覗き見るべきではない。それくらいの常識は私にもあるし、まして警察官という立場を考えれば、ここで余計な真似をするべきではないことくらい、誰に言われずともわかっていた。
それでも、どうしようもない好奇心が胸の内から湧いてきた。
──いったい、何を調べているんだろう。
今回の事件に関することかもしれないし、『推理の宮殿』へ掲載する新しい記事を書いていたのかもしれない。あるいは案外、今日の晩飯の献立でも調べていたのか。それが何であれ、あれほど高慢で、自らの運営するサイトに『宮殿』などという大仰な名前をつける女が、誰も見ていない自室で何をしているのかというのは、どうにも興味をそそられた。
私は一度、部屋の左右へ目をやった。人影はない。これだけ呼びかけても出てこないところを見ると、トイレにでも行っているのか、それとも寝室に引っ込んでいるのだろうか。どちらにせよ、ほんの少し画面を見るくらいなら──と、誰にするでもない言い訳を胸の内で並べながら、私はなるべく床を鳴らさないようテーブルへ近づき、そっと画面の正面へ回り込んだ。
開かれていたのは、ごく普通のメモ帳だった。
事件についての考察もなければ、何かの検索結果が表示されているわけでもない。真っ白な画面の中央に、たった一言だけが打ち込まれている。
『上を』
「……上?」
意味を考えるより先に、私は素直に顔を上げていた。
古びた天井を見渡してみると、ちょうど頭上から少し離れたところに、一枚の白い紙が貼りつけられているのが目に入った。部屋へ入った時にはまるで気にも留めなかったが、よく見れば中央に大きな字で何かが書かれている。
『後ろの棚を』
私はしばらく、その文字を見上げたまま動かなかった。
ここでようやく、胸の内に小さな違和感が生まれた。これはいったい誰に向けて書かれたものなのか。パソコンを覗き、その指示に従って天井を見上げた人間がいることを、最初から想定していたとしか思えない。
そう気づいたのなら、そこでやめておけばよかったのだ。
けれど、人間というのは「見るな」と言われれば見たくなるもので、「この先に何かある」とわかってしまえば、なおさら途中で引き返しにくくなる。何より、あの女がわざわざこんな馬鹿げた仕掛けを用意してまで何を見せようとしているのか、それを確かめたいという好奇心が、警察官としての慎みをとうに追い越してしまっていた。
私は天井から視線を下ろし、言われるままに後ろを振り返った。
壁一面を占める本棚には、法律書や医学書、毒物についての専門書から古い地図帳まで、脈絡のない背表紙が隙間なく並んでいる。その中を眺めていると、一冊だけ、まるでこちらに見つけてもらうのを待っていたかのように、他より少し前へ突き出された本があった。
近づいてみれば、単語辞典だった。
その表紙にもまた、一枚の紙が貼られている。
『四十八ページを』
「…………」
さすがに、この辺りで嫌な予感がした。
私はもう完全に、何者かの指示に従って動いている。パソコンを覗き込み、上を向き、振り返り、棚へ近づき、今度はそこにある本を手に取ろうとしているのだから、ここまで来れば罠だと疑わない方がおかしい。
だが同時に、ここまで来て四十八ページだけ見ずに本を戻せるほど、私は聞き分けのいい人間でもなかった。
「……四十八、四十八……」
半ば意地になって辞書を棚から引き抜き、ぱらぱらとページを繰っていく。四十六、四十七と数字を追い、指定された四十八ページを開いたところで、私の指がぴたりと止まった。
そこには、いくつもの単語が整然と並んでいた。ただ、そのうちの一つだけが、わざわざ赤い線で囲まれている。
『操り人形――他者の意のままに操られる者』
「……っ」
頬が熱くなるのを感じた。
やられた。
というより、馬鹿にされた。
そう気づいた刹那だった。
「遅かったな」
背後から、聞き覚えのある声が響いた。
あまりにも突然だったものだから、私は辞書を取り落としかけながら勢いよく振り返った。誰もいなかったはずの部屋、その奥から聞こえてきた声の主を確かめるより早く、現場で散々こちらを小馬鹿にしてくれた、あの尊大な声音だけは嫌でも思い出していた。
「っ、おまえ……」
何か言ってやらなければならないのに、いざ口を開けば喉は言葉の出し方を忘れたように詰まり、まともな文句の一つも出てこない。対する彼女は、そんな私の有様まで最初から見越していたとでもいうように、心底愉快そうな笑みを浮かべていた。
「余興だ。楽しんだか」
「楽しんだ……わけないだろ!」
ようやく飛び出した怒声にも、彼女は悪びれるどころか、ハッ、と短く笑った。それがまた癪に障り、今度こそ一言言ってやろうとしたのだが、その前に彼女の方からこちらへ歩み寄ってくる。
現場でも顔は見ていたはずなのに、こうして真正面から、それも手を伸ばせば届くほどの距離まで近づかれてみると、改めてその容貌が目についた。
美しい顔立ちだった。
それも、愛嬌や柔らかさで人目を引く類ではない。鼻梁はすっと通り、輪郭には余分な丸みがなく、ひとつひとつの造作が彫刻刀で削り出したようにはっきりとしている。長い睫毛も決して華美ではなく、青紫を帯びた菫色の瞳を縁取るためにそこにあるかのように整い、自然に引き締まった唇には、光を受けた時にだけわかる程度の艶があった。その上には形よく整えられた眉が鋭い線を描き、ただでさえ強い眼差しをいっそう際立たせている。
これだけ個々の造作が強ければ、普通ならどこか一つが悪目立ちしてもよさそうなものなのに、不思議とそうはならない。睫毛も、唇も、眉も、それ自体が主役になることなく、すべてが一つの顔を形作るための部品として収まっている。その均整の取れた美しさが、かえって彼女の近寄りがたさを強めていた。
そして今、その顔がまっすぐ私を見つめている。
「…………」
別に、見惚れたわけではない。
ただ、あれほど尊大な態度を取る人間がこれだけ近くまで来れば、嫌でも圧を感じるというものだ。そう自分に言い聞かせてはみたものの、気づけば私は半歩ほど身を引きかけており、それを悟られるのが癪で、慌てて足へ力を込めた。
「な、なんすか」
彼女は答えなかった。
ただ菫色の瞳で私を見据えたまま、さらに一歩近づいてくる。互いの距離がほとんどなくなったところで、その右手がゆっくりと持ち上がり、まっすぐ私の頭の方へ伸びてきた。
何をするつもりだ。
反射的に肩へ力が入り、私は身構えた。ところが、その手は私の頭へ触れる寸前で軌道を変えると、肩口を掴むでもなく、ただ掌でぐいと押した。
「邪魔だ」
身体の位置を入れ替えるように押し退けられ、二、三歩よろめく。何とか踏みとどまって振り返ると、彼女はもうこちらなど見ておらず、つい先ほどまで私が立っていた場所を悠々と通り抜け、その先にあった肘掛け椅子へ腰を下ろした。
深く背を預け、脚を組む。
どうやら、私が椅子までの道を塞いでいた。ただ、それだけらしい。
一瞬でも妙な緊張を覚えた自分が急に馬鹿らしくなり、同時に、それをこの女に悟られてはいないだろうかという別の恥ずかしさが込み上げてくる。私は乱れた服を直すふりをしながら姿勢を整え、何事もなかったような顔を作った。
「……それで」
肘掛け椅子へ深く腰を沈めた彼女は、脚を組んだままこちらを見据えた。その声音にも表情にも、客人を迎えているという意識はまるで感じられない。むしろ講義の途中で学生を指し、課題の進捗でも尋ねる教授のような眼差しだった。
何を訊かれているのかは、わざわざ確認するまでもなかった。
三件の服毒死について、あれから何かわかったのか──そういうことだろう。
けれど、その話を始める前に、私にはどうしてもはっきりさせておきたいことがあった。考えてみれば、私はこの女を署まで連れていき、取調室で向かい合い、その後には運営しているサイトまで調べ、こうして自宅へ押しかけているというのに、いまだ名前すら知らないのである。
「まず、自己紹介から始めましょうよ」
そう言いながら懐へ手を入れ、警察手帳を取り出した。開いたそれを彼女から見えるように掲げる。
「ウインバリアシオンです。スコットランド・ヤードの──」
「──捜査課の警部。言わずとも知っている」
最後まで言わせてもらえなかった。
こちらの名前も所属もとうに調べがついているらしく、彼女はさも当然のことのように言うと、それ以上の説明など時間の無駄だとばかりに視線を逸らした。
「……そうっすか」
現場で出会ってからというもの、何度この態度を取られただろう。腹を立てるのにもそろそろ疲れてきて、今度は怒りより先に乾いた苦笑がこぼれた。
「なら話が早いっすね。次はそっちの番です」
「名乗りなど無意味だ」
「無意味じゃないっすよ。こっちはあなたを何て呼べばいいのかすら知らないんすから。それに、今後も話をするなら名前くらい知ってないと色々ややこしいでしょう」
しばらく睨み合うような形になった。
こちらとしては至極当たり前のことを求めているだけなのに、彼女にとってはそれすら面倒な手続きらしい。形のよい眉が不機嫌そうに歪み、頬がほんの僅かに引き攣る。それでも私が引く気配を見せないでいると、やがて観念したのか、肺の底に溜まったものを追い出すような長い息を吐いた。
「……オルフェーヴル」
初めて聞く名前だった。
私は頭の中で一度、その響きを繰り返した。
オルフェーヴル。
ようやく、目の前の女に名前がついた。
「それで……オルフェーヴルさん。私から聞きたいことが山ほどあるんですけど──」
私はメモ帳を取り出し、膝の上で新しいページを開いた。どうせまた途中で遮られるか、質問の仕方が悪いとでも難癖をつけられるのだろうと身構えていたのだが、意外にもオルフェーヴルは何も言わず、肘掛け椅子へ深く腰を沈めたまま、続きを促すようにこちらを見ている。
「──まず、どうして今回だけじゃなく、前の二件まで殺人だと思ったんすか?」
「答えるまでもない──が、『推理の宮殿』読者からのファンレターだと思って答えてやろう」
「誰がファンですか」
私の抗議など聞いていないのか、オルフェーヴルは人差し指を、とん、とテーブルへ落とした。
「まず、テムズ川の男だ。最近、大学への進学が決まったばかりだった」
「……大学?」
「マサチューセッツ工科大学。そう悪くはない」
そう悪くはない、で済ませる大学だろうかと思ったが、口を挟めば話が逸れそうなので黙っておいた。
「合格しただけではない。渡米を見越して住居を探し、必要な書類を揃え、周囲にも進学後の予定を話していた。ところが、入学手続きを済ませる直前になって、突然テムズ川沿いで毒を呷って死んだ」
オルフェーヴルはそこで一度言葉を切り、組んだ脚の上で指先を遊ばせた。
「無論、将来の予定がある者は自殺しない、などという愚かなことを言うつもりはない。人間の内心など、外から完全に推し量れるものではないからな。だが、少なくとも死の直前まで数か月先の生活を具体的に組み立てていた人間が、何の前触れもなく自ら命を絶ったとなれば、疑問を差し挟むには十分だろう」
私は頷きながら、急いでメモを取った。
「じゃあ、二人目は?」
「雑居ビルの女か。あれは──」
そこまで言って、オルフェーヴルは不意に口を閉ざした。
「……なんすか」
「これは言わずともわかるだろう」
「え?」
菫色の瞳が、じっとこちらへ向けられる。
どうやら答えを待っているらしい。
突然試験問題でも出されたような気分になり、私は開きかけた口をそのまま閉じた。ここで「わかりません」と答えるのだけは、どうにも癪だった。
──考えろ。
私だって、あの事件には違和感を覚えていたはずだ。
被害者は女性。服毒死。現場は、本人とは何の関係もない雑居ビル。発見されたのは非常階段で、傍には金色の瓶があった。そこまでは一件目や今回と大差ない。では、あの現場にだけあった不自然なものは何だ。
雑居ビル。非常階段。遺体の位置──。
「……階段」
口に出した瞬間、頭の中で何かが繋がった。
「階段っすよ。なんでわざわざ、階段で毒を飲んだんだ?」
思わず顔を上げると、オルフェーヴルは何も言わず、小さく頷いた。それだけの反応だったが、不覚にも正解をもらったような気がして、口元が僅かに緩む。
「そう、階段だ」
私が続きを言うより先に、オルフェーヴルが引き取った。
「自殺場所として、自分が住んでも勤めてもいない雑居ビルを選ぶ奇特な趣味については、ひとまず置いておこう。より不自然なのは、その中でもわざわざ非常階段を選んだことだ。毒物など、服用した直後に必ず意識を失うとは限らん。苦しむかもしれんし、痙攣するかもしれん。平衡感覚を失うこともある。ならば自ら毒を呷る人間が、転落の危険がある場所にわざわざ腰を据える理由がない」
とん、と二度目の指がテーブルを叩いた。
「案の定、女は階下まで転がり落ちている。検視記録には、死因となった中毒症状とは別に、転落による複数の打撲痕が記載されていたな」
「……知ってたんすか」
「公開されている検視記録くらい読め」
「一般人が言う台詞じゃないでしょう、それ」
呆れながらも、私はメモ帳へ視線を落とした。
一件目は、死ぬ直前まで未来へ向けて具体的に生活を組み立てていた。二件目は、自ら毒を飲む場所としては不自然な非常階段。そして三件目は、被害者とは何の関係もない古びた倉庫。
一つ一つなら、偶然と言えるのかもしれない。人がどこで、何を考えて命を絶つかなど、他人にはわからないのだから。
「そして、小瓶」
オルフェーヴルは続けながら、テーブルの上を指先で軽く叩いた。
「これこそが、三件を結びつける鍵になる」
私はメモ帳へ視線を落とした。三人の死に共通しているものは、服毒という死因と、傍らに残された金色の小瓶。もし三件が本当に自殺なら、同じ薬物が何らかの経路で出回っていたと考えることもできる。だが、これまで挙げられた不自然な点まで合わせて考えるなら、別の見方もできる。
「……つまり、誰かが被害者をそれぞれの現場へ連れていって、そこで毒を飲ませた」
考えているうちに、言葉が自然と口からこぼれていた。
顔を上げると、オルフェーヴルは小さく頷いた。
それだけだったが、今度は不思議と嬉しかった。現場で一から十まで間違いを指摘されていた時とは違い、ようやくこの女が見ているものと同じものを、私にも少しだけ見ることができたような気がしたからだ。
「だったら……いったい誰が?」
「わからん」
あまりにもあっさり返されたものだから、私は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「……はい?」
「犯人が誰なのか、余にはまだわからんと言った」
オルフェーヴルほどの人間なら、当然その先まで答えを用意しているものと思っていた。現場ではこちらが何を言っても即座に否定し、まるで事件の始まりから終わりまで見てきたような顔をしていたのだから、犯人の正体についても何かしら目星をつけているのだろうと、いつの間にか私はそう決めつけていたらしい。
ところが本人は、それを恥じる様子など微塵もなかった。
「何者なのか。三人にどのような接点があるのか。なぜ三人とも抵抗せず現場まで赴いたのか。どうやって毒を飲ませたのか。あの小瓶には何の意味があるのか──何一つとして、まだ答えには届いておらん」
そう言いながら、オルフェーヴルはカタリと肘掛け椅子から立ち上がった。そのまま私の横を通り過ぎ、コツ、コツ、と床を鳴らしながら壁際へ向かう。
そこには、先ほど目にしたロンドンの古地図が貼られていた。
年代物らしく、今の街並みとはところどころ形が違っている。その上には新しい道路を補うように線が書き加えられ、何枚もの付箋や写真、新聞の切り抜きが貼りつけられている。オルフェーヴルはその前で足を止めると、三件の現場を探すように菫色の瞳をゆっくりと這わせた。
「まったく、わからん」
もう一度、今度は噛み締めるように呟いた。
「…………」
けれど、その横顔を見た私は妙な違和感を覚えた。
悔しそうではない。
苛立ってもいない。
むしろ──笑っている。
「……フフ」
小さな声が漏れた。
口元がゆっくりと吊り上がり、菫色の瞳には、現場で見せていた退屈そうな色とはまるで違う光が宿っている。わからない、と口にした人間の顔ではなかった。まるで長いあいだ探し求めていたものを、ようやく目の前に差し出されたかのような顔だった。
「面白い」
古地図を見つめたまま、オルフェーヴルは呟いた。
「久方ぶりに、余を退屈させぬものが現れた」
その声音に混じっていた歓喜を、私は聞き間違えなかった。
三人が死んでいる。
もしかすると、今この瞬間にも四人目が選ばれているかもしれない。そんな事件を前にして、この女は笑っている。
やっぱり、『推理の宮殿』の管理人はサイコパスだ。
この時の私は、割と本気でそう思った。