黄金色の研究   作:名主権兵衛

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四章「自己顕示欲」

 それからしばらく、オルフェーヴルは時間を忘れたかのように古地図の前で考え込んでいた。

 三件の現場を頭の中で結びつけているのか、それとも私には見えない何かを地図の中から探しているのか。菫色の瞳は一点に留まることなく、古い道路を辿るようにゆっくりと動き、ときおり思い出したように細められる。私も下手に声をかける気にはなれず、メモ帳を持ったまま、その背中を黙って眺めていた。

 

「写真を」

 

 写真。

 何の写真だろう。

 独り言にしては妙だが、かといってこちらを見ているわけでもない。意味を測りかねて黙っていると、数秒経っても何も起こらないことに痺れを切らしたのか、オルフェーヴルの耳がぴくりとこちらへ向いた。

 

「おい」

 

 今度は明らかに私へ向けられていた。顔こそ地図へ向けたままだったが、菫色の瞳だけが横へ滑り、どうして一度で理解できないのかと責めるようにこちらを睨んでいる。

 

「あ、あたしっすか」

 

「他に誰がいる」

 

「いや、独り言かと……。っていうか、写真って何の写真っすか?」

 

 そこで初めて、オルフェーヴルは心底意外そうにこちらへ顔を向けた。

 

「今回の現場だ。当然、持ってきているだろうな」

 

「…………」

 

 あまりに当然のこととして言われたので、一瞬こちらの常識の方が間違っているのかと思った。

 もちろん、そんなはずはない。

 現場写真はれっきとした捜査資料である。被害者の遺体はもちろん、室内の状況や遺留品、場合によっては一般には公開していない情報まで写り込んでいる。それを警察官でも鑑識官でもない一般人の自宅へ持ち込み、「どうぞ好きに見てください」と広げるなど、できるわけがない。

 そもそも私は今日、捜査協力を正式に依頼しに来たわけではなかった。

 あの『推理の宮殿』第四十六号を読んだことで、こいつが単なる口先だけの変人ではないとわかってしまった。それで三件について何を考えているのか聞きに来ただけであって、少なくとも警察の内部資料まで開示するつもりなど毛頭ない。

 

「持ってきていないのか」

 

 私の沈黙をどう受け取ったのか、オルフェーヴルは眉を寄せた。その声音には呆れすら混じっていて、まるで宿題を忘れてきた生徒へ、教師が最後の確認をしているかのようだった。

 

「……いや、持ってきてないっすよ」

 

「何故だ」

 

「何故って……」

 

 思わず聞き返しそうになった。

 

「あなた一般人でしょうが」

 

 今度こそ、はっきりと言ってやった。

 ところがオルフェーヴルは、そこで自分の非常識に気づくどころか、ますます理解できないという顔をした。

 

「それがどうした」

 

「どうしたじゃないっすよ。捜査資料なんですから、勝手に部外者へ見せられるわけないでしょう」

 

「くだらん」

 

 一蹴された。

 しかも本当にくだらない話を聞かされたように、オルフェーヴルは小さく鼻を鳴らして古地図へ視線を戻してしまう。

 

「ならば思い出せ、シオン。あの現場を隅々まで」

 

 オルフェーヴルは、まったく悪びれる様子もなく言い放った。

 写真がないのなら仕方がない、と諦めるのではない。ならば見た人間が思い出せばよい──そんな無茶な理屈を、さも当然の代替案であるかのように提示してくる。しかも、その口ぶりには頼んでいるという殊勝さなど欠片もなく、事件を解きたいのなら貴様が協力するのは当然だ、とでも言わんばかりだった。

 普通なら、その場で断っていただろう。

 けれど、考えてみれば私がここまで来た理由も、結局は似たようなものだった。正式な捜査協力を頼むつもりこそなかったが、少なくともヒントを得たいという下心がなかったと言えば嘘になる。

 それに──少しばかり、見返してやりたい気持ちもあった。

 私は昔から、見たものを覚えることには自信がある。瞬間記憶能力などと言えば大層に聞こえるし、実際そこまで万能なものでもないのだが、一度しっかり目にした光景は、時間が経っても細部までかなり鮮明に思い返すことができた。人の顔や服装はもちろん、机の上に何が置かれていたか、物がどちらを向いていたかといったことまで、意識して見てさえいれば頭の中に焼きつくように残る。

 捜査官になってからは、その性質に随分助けられてきた。

 現場を離れた後になって証言との食い違いに気づいたこともあるし、写真を見返すより先に「あそこにはそんな物はなかった」と思い出せたこともある。少なくとも、目の前の女に何から何まで教えを乞わなければならないほど、私だって無能ではない。

 ならばちょうどいい。

 あの倉庫の光景を写真もなしに再現してみせれば、さすがのオルフェーヴルも少しくらい驚くかもしれない。先ほどから好き放題にこちらを出来の悪い生徒扱いしてくれたのだから、一度くらいその澄ました顔を崩してやりたいという自尊心もあった。

 

「……いいっすよ。やってみます」

 

 私は立ち上がると、改めて部屋を見回した。

 頭の中では、数時間前に見た倉庫の光景がすでに形を取り始めていた。鉄扉を開いた時に差し込んだ細長い光、その奥にあった机と椅子、そこへ突っ伏していた女性。窓の位置、壁までの距離、床に置かれていた物──目を閉じる必要すらない。思い出そうと意識を向ければ、記憶の中の景色は現在見えているものへ重なるように浮かび上がってくる。

 そこで私は、この部屋そのものを使うことにした。

 

「ええと……まず、ここが入口だとして──」

 

 自分が入ってきた扉を指差し、それを倉庫の鉄扉に見立てる。もちろん部屋の広さも形も違うから、完全な再現にはならない。それでも物の位置関係を説明するだけなら十分だった。

 

「扉は倉庫の南側。内開きで、開けると正面の少し右に机が見える。距離は……この部屋なら、だいたいあの辺りっすね」

 

 私は数歩進み、テーブルの位置を基準にして指を動かした。

 

「被害者が座っていたのはこっち。机にかなり椅子を寄せて、腹が縁につきそうなくらいの距離だった。上半身は前へ倒れて、顔は横向き。両腕は机の上。口元には白い泡が残ってた」

 

 そこまで説明して、ちらりとオルフェーヴルを見る。

 驚いているだろうか。

 少しくらい感心していてもいい。

 そんな期待とは裏腹に、彼女は壁際に立ったまま腕を組み、目を細めて私の説明を聞いていた。その顔からは、感心しているのか退屈しているのかさえ読み取れない。

 私はその圧に負けじと、頭の中に残っている倉庫の光景をさらに辿った。

 

「それから……机の上。フィリップ──現場に一番に着いた警官なんですけど──そいつによると、金色の小瓶のほかに、空のペットボトルが一本置いてあったそうです」

 

「──ペットボトル?」

 

 その時だった。

 それまで腕を組んだまま私の説明を聞いていたオルフェーヴルの様子が、わずかに変わった。

 左右で色の違う耳が揃ってこちらを向き、それに続いて菫色の瞳がまっすぐ私を捉える。先ほどまでも話を聞いていなかったわけではないのだろうが、どこかこちらの記憶力を試すような余裕があった。それが今、初めて消えた気がした。

 今日初めて、この女の意識をすべて自分へ向けさせた。

 

「えぇ、ペットボトルっす。……何か引っかかるんすか?」

 

「内容物は」

 

 返事が早い。

 

「空だったそうです。鑑識に回してるんで詳しいことはまだわかりませんけど、今のところは毒物を服用する時に使ったんじゃないかって見てます。ほら、錠剤か何かだったなら、水で流し込むために──」

 

 最後まで言い終えるより早く、オルフェーヴルが動いた。

 こちらへ向けられていた視線を切ると、大股でテーブルへ向かい、椅子を引くことすらせず身を屈めるようにしてノートパソコンを覗き込む。そして、それまでの静けさが嘘のように指が乱暴なほどの速さでキーボードを叩き始めた。

 

「ちょ、何を──」

 

「黙れ」

 

 短く制され、私は口を噤んだ。

 画面には『推理の宮殿』とは別に、新聞記事や過去の報道を保存したらしいファイルが次々と開かれていく。テムズ川で発見された男性。雑居ビルの非常階段で死亡していた女性。オルフェーヴルはそれぞれの遺留品について記された箇所だけを拾うように読み進め、やがて、ぴたりと指を止めた。

 

「……ない」

 

「え?」

 

 今度は勢いよく顔を上げた。

 

「これまでの二件にはなかった痕跡だ」

 

 その言葉を聞いて、私もようやく気づいた。

 慌てて記憶を辿る。テムズ川で見つかった男性の所持品。財布、スマートフォン、鍵、それから例の金色の小瓶。雑居ビルで死亡していた女性についても同じだ。鞄の中に私物はいくつもあったが、少なくとも遺留品として記録された中に、飲み物らしいものはなかった。

 

「……今回だけ、必要だった?」

 

 口にしてから、私は改めてその可能性を考えてみた。

 いや、別に不思議なことではないのかもしれない。そもそも、あの金色のラベルは明らかに工場で製造されたものではなかった。市販品の印刷とは違い、ただ金色の紙を切って瓶の周囲へ貼りつけただけの粗雑な代物で、あれ自体が薬品本来の包装でないことは素人目にもわかる。

 ならば、三本の瓶の中身まで同じだったとは限らない。

 一人目には水を必要としない毒を、二人目には別の毒を、そして三人目には服用するために水が必要な毒を使った。そう考えれば、今回だけペットボトルが残されていたことにも説明はつく。

 むしろ、金色のラベルそのものが犯人の署名なのではないか。

 三人をそれぞれ異なる毒で殺しただけでは、警察は別々の事件として処理してしまう。実際、私たちはそうしていた。だから犯人は、自分の犯行であることを示すため、毒を入れた瓶へわざわざ同じ金色の紙を貼りつけた。三つの死を結びつけるための目印として。

 そう考えれば、これまでの不自然さにも一応の筋が通る。

 

「ありえん」

 

 ところが、私の考えがまとまりかけたところへ、刃物で断ち切るような声が飛んできた。

 

「……なんでっすか」

 

 さすがに今度は食い下がった。

 

「犯人は三人を毒殺した。でも、毒が全部違えば誰も同一犯だとは思わない。実際、あたしたちだって三件を別々の自殺として扱ってた。だったら犯人が、自分の犯行だと気づかせるために共通する印を残したとしてもおかしくないでしょう」

 

 私はメモ帳をテーブルの上に広げ、三つの丸を描いた。その中央へ一本ずつ線を引き、同じ文字を書き込む。

 

「毒は違っても、三件とも金色の瓶がある。これが犯人の署名なんすよ。自分がやったと誇示したい、承認欲求の強い犯人なら十分あり得る。むしろ、あんたの言う『三件は同一犯による殺人』って考えとも合ってるじゃないっすか」

 

「ありえん」

 

 まったく同じ声色で、もう一度否定された。

 

「だから、なんで──」

 

「──美しくない」

 

 その瞬間だけ、部屋の時計が止まったような感覚を覚えた。

 私は何も言えず、オルフェーヴルの顔を見る。

 美しくない。

 何が。

 同じ言語を話しているはずなのに、前後の繋がりがまるで理解できない。犯罪捜査の話をしていたはずが、いつの間に芸術論へ移ったのだろう。あまりに脈絡のない一言に、意味を理解できないというより、こちらの脳が理解すること自体を拒んだような気さえした。

 

「……美しくない?」

 

 結局、私はその言葉をそのまま反芻することしかできなかった。

 

「そうだ。美しくない」

 

 オルフェーヴルは当然のことのように言うと、テーブルの上に両肘を乗せ、手を固く組んだ

 

「貴様の説を採用しよう。犯人には強い承認欲求があり、三件すべてが自らの犯行だと警察に気づかせたがっている。だから異なる毒を用いながら、共通する金色の瓶を残した。ここまではいい」

 

 細い指が、両の人差し指が天井へ向けられる。

 

「ならば一件目」

 

 次に中指。

 

「二件目」

 

 薬指。

 

「三件目。この三つを見た時、捜査する者に何を考えさせたい?」

 

 小指。そうして両手は全て開かれ合わされた。まるで祈りを捧げるかのような形で。

 

「……同じ犯人の仕業だってことを」

 

「そうだ。ならば犯人がするべきことは、その推測を補強することだ。同じ場所、同じ時刻、同じ死に方、同じ毒、同じ遺留品──何でもよい。反復する要素が多ければ多いほど、偶然では説明できなくなる。三度同じ型を見せれば、愚鈍な警察でもいずれ関連性を疑う」

 

「一言余計っすよ」

 

 オルフェーヴルは無視した。

 

「ところが貴様の説では、犯人は自ら作った型を自ら崩している。一件目と二件目では必要のなかった飲料を三件目にだけ持ち込み、それによって『毒の服用方法が違うのではないか』『そもそも使用された毒物自体が異なるのではないか』という余計な可能性を生じさせた」

 

「自分の犯行だと気づいてほしい人間が、自分から関連性を弱める情報を混ぜる。署名を残しておきながら、その署名を疑わせる材料まで同時に残す。目的と手段が互いに喰い合っている」

 

 そこでオルフェーヴルは顔を上げた。

 

「美しくない」

 

 今度の一言は、先ほどより少しだけ意味がわかった。

 

「故に、前提を疑え」

 

 そう言うと、オルフェーヴルはテーブルの引き出しへ手をかけた。中を探るでもなく迷いなく奥へ指を伸ばし、何かを摘まみ上げる。

 取り出されたものを見た瞬間、私は息を呑んだ。

 小さな瓶だった。

 大きさも形も、そして外周へ巻きつけられた粗雑な金色の紙も、つい数時間前まで事件現場で見ていたものと寸分違わない。

 

「ちょ、それ!」

 

 私は声を上げ、思わず瓶を指差した。三件の現場すべてに残されていたものと同じ物が、重要参考人だった女の自宅から出てきたのである。警察官として反応するなという方が無理な話だった。

 ところがオルフェーヴルは、私が何に驚いているのかさえ理解していないような顔をした。

 

「騒ぐな。これは、とある闇市で流通している品だ」

 

「いや、だからそれをなんであんたが持ってるんすか!」

 

「買ったからに決まっているだろう」

 

「どこで! 誰から!」

 

「話を進めるぞ」

 

「進めるな!」

 

 当然問い質したいことは山ほどあった。どこの闇市なのか、いつ買ったのか、誰と取引したのか、そもそもなぜそんな場所へ出入りしているのか。だが、当の本人が答える気など毛頭ないことも、ここまで付き合えば嫌というほどわかっている。

 私はこめかみを押さえ、ひとまず目の前の話を聞くことにした。

 

「これは──“薬”だ」

 

「……見ればわかりますけど」

 

「違う。“薬”という名で売られている」

 

 オルフェーヴルは瓶の口を摘まむようにして持ち上げ、灰色の外光へ透かしてみせた。

 

「名称が、そのまま“薬”。効能も、成分も、製造元も保証されておらん。そもそも販売している側ですら、この瓶の中に何が入っているのか正確には把握していないらしい」

 

「……そんなものを売ってるんすか?」

 

「闇市だ。品質保証でも期待したか」

 

 言われてみればその通りなのだが、納得したくはなかった。

 

「出どころの怪しい錠剤、廃棄された薬品、正規の流通から弾かれた品、素性もわからぬ液体──そういった雑多なものが流れ着き、それらを同じ容器へ詰め、同じ金色の紙を巻いて売る。故に、この金色は製品固有のラベルではない」

 

 オルフェーヴルは指先で瓶を半回転させた。

 

「向こうでは、これそのものが“薬”を示す記号なのだ」

 

 そこでようやく、先ほどの言葉の意味がわかった。

 前提を疑え。

 私はずっと、金色のラベルは犯人が貼ったものだと思っていた。三件の犯行を結びつけ、自分の存在を警察へ誇示するための署名。だからこそ、中身が違うなら犯人の目的と矛盾する。

 けれど、そもそも犯人が貼ったものではないのなら。

 

「……犯人のメッセージじゃない」

 

「ようやくわかったか」

 

 オルフェーヴルは満足そうに口角を上げると、瓶を軽く振った。中から、ぴちゃ、と小さな水音がする。

 

「三件に同じ金色の瓶が残されたのは、犯人が三件を同一の犯行に見せたかったからではない。単に、同じところから同じ名目の商品を手に入れ、それを三度使った結果だ」

 

「でも、それなら中身も同じなんじゃ……」

 

「そこだ」

 

 待っていたと言わんばかりに、菫色の瞳が細められた。

 

「少し調べればわかる。この“薬”には個体差がある。同じ棚に並び、同じ瓶に詰められ、同じ金色の紙を巻かれていようと、中身まで同じとは限らん。液体もあれば錠剤もある。作用も違う。それでも同じ“薬”として売られている」

 

「じゃあ……」

 

 私は三件目の現場に残されていたペットボトルを思い出した。

 

「今回だけ水があったのは──」

 

「三本目だけ、水を必要とするものだった」

 

 オルフェーヴルはそう言い切ると、手にした瓶をテーブルへ置いた。

 

「そして、ここから犯人について一つわかる」

 

「犯人について?」

 

「奴は闇市で取引をすることには抵抗がない。少なくとも、この品を三度手に入れられる程度にはな」

 

 そこまでは私にもわかる。

 

「だが、詳しくはない」

 

「……なんで?」

 

「詳しい者ならば、同じ金ラベルだからといって中身まで同じだとは考えん。この品が雑多な薬物を一括りにして売るためのものだと知っているからだ。殺人という明確な用途があるなら、作用のわからぬものを三つも掴むより、目的に適した品を選ぶ」

 

 オルフェーヴルは三本の見えない瓶を並べるように、テーブルの上を順に指した。

 

「ところが犯人はそうしなかった。同じ金ラベルの品を複数手に入れ、それを順番に使っている。そして三つ目になって初めて、水を用意しなければならない品を引いた」

 

 私は黙ってその言葉を追った。

 

「つまり奴は、“薬”を買える場所と方法は知っている。だが、商品の性質までは理解していない。常連でも、薬物に精通した者でもない」

 

 オルフェーヴルは金色の瓶を指先で弄びながら、楽しげに笑った。

 

「闇市を利用するが、闇市の人間ではない。必要に迫られて足を踏み入れた素人──その程度が妥当だろう」

 

 犯人の顔は、まだ見えない。

 けれど、それまで何の形も持たなかった影に、ほんの少しだけ輪郭が生まれた気がした。

 

「……闇市を利用している。けれど、そこに精通しているわけじゃない。それから、ロンドンの道に詳しくて、被害者と一緒にいても不自然に思われない人物……」

 

 気づけば私は、これまでに出揃った条件を一つずつ口にしていた。

 しかし、並べれば並べるほど、その先に大きな空白が残っていることにも気づかされる。

 まだわからないことが多すぎるのだ。

 一見したところ何の関係もない三人へ、犯人はどうやって接触したのか。三人とも脅されて連れ出された形跡がないのなら、なぜ見知らぬ人間についていったのか。テムズ川沿い、雑居ビルの非常階段、そしてあの古い倉庫──犯人はどうして、その時間なら人目につかない場所を知っていたのか。そもそも、生活圏も年齢も職業も違う三人を、どうやって選んだのか。

 私はメモ帳へ書き連ねた条件を睨みながら、何度も頭の中で組み替えた。

 隣を見ると、オルフェーヴルも黙っている。先ほどまでならこちらが考えを口にするより先に答えを投げつけてきた女が、今度ばかりは何も言わず、菫色の瞳を伏せていた。

 どうやら、さしもの彼女にもまだ答えは見えていないらしい。

 二人の間にどうしようもない沈黙が覆いかぶさった。

 

「コンコン?」

 

 不意に、そんな声がした。

 二人揃って顔を上げると、開いた扉から夫人が顔を覗かせていた。どうやら今の「コンコン」は、ノックの代わりだったらしい。

 

「オルちゃん、外にお迎えが来てるわよ」

 

「待たせておいてください」

 

 私は思わずオルフェーヴルを見た。

 敬語。

 この女にもそんなものが使えたのか。

 

「あら、でもUMERって言ってたわよ?」

 

 夫人は廊下の方を振り返りながら続けた。

 

「誰かと待ち合わせでもしてたんじゃないの?」

 

 ──UMER。

 その名前が耳に入った瞬間だった。

 それまで伏せられていたオルフェーヴルの耳が、ぴくりと立った。

 顔が上がる。

 

「…………」

 

 何かを見つけたような顔だった。

 いや、違う。

 何かを見つけたのではない。それまで彼女の頭の中に散らばっていたものが、たった今、一つの形を成した──そんな顔だった。

 私がその変化の意味を尋ねるより先に、階下からキッ、キッ、と階段の軋む音が聞こえてきた。一段、また一段と近づいてきたそれは踊り場で止まり、やがて夫人の背後から一人の中年男が姿を現した。

 四十代の半ば、といったところだろうか。酒でも飲んでいたのかと思わせる赤みが頬にあり、男にしては長いブロンドの髪が灰色のキャップから覗いている。手入れにはあまり頓着しないらしく、毛先には少し脂が浮いていた。茶色のジャケットも随分と着込まれていて、胸元には名札の代わりに数字とアルファベットの並んだ小さなバッジが留められている。

 UMERの登録ドライバーが身につける、管理番号だった。

 

「オルフェーヴルさま、お迎えに参りました」

 

 男は人のよさそうな笑みを浮かべた。

 私は何の気なしに彼を見て、それからオルフェーヴルへ視線を戻した。

 その時にはもう、彼女の顔から思案の色が消えていた。

 ただ一言。

 

「そうか」

 

 それは納得というより、答え合わせを終えた者の声だった。

 

「……何が?」

 

 訊ねても、オルフェーヴルは答えない。先ほどまで睨んでいた古地図にも、私のメモ帳にも、金色の瓶にも、もう興味を失ったようだった。

 ゆったりと立ち上がり、服の裾を整える。

 

「用事を思い出した」

 

「は?」

 

 そのまま男の方へ歩いていくので、私は慌てて立ち上がった。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。謎解きは? 犯人はどうするんすか」

 

 オルフェーヴルの足が止まった。

 振り返った菫色の瞳には、先ほどまであれほど楽しげに揺れていた未知への興味が、もうない。

 

「余はもう済んだ」

 

「……え?」

 

「貴様にはすべて見せた。後は自ら考えろ」

 

 口元に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。

 

「解き明かし、追いつけ」

 

 それだけを残して、オルフェーヴルは男の横を通り抜け、階段へ向かった。

 私は呼び止めることも忘れ、その背中を見送った。

 何がわかった?

 何を見つけた?

 つい数秒前まで、こいつだって私と同じところで行き詰まっていたはずだ。それなのに、夫人がやってきて、迎えが来たと言った。ただそれだけで──。

 パタン、と階下で玄関扉の閉まる音がした。

 ほどなくして家の外からエンジンの低い唸りが聞こえ、濡れた舗道をタイヤが擦る音がそれに続く。車はゆっくりと走り出し、その音も数秒のうちに遠ざかっていった。

 私はまだ、二階の部屋に立ち尽くしていた。

 迎え。

 UMER。

 運転手。

 その三つの言葉が頭の中で結びついた瞬間、今まで別々に転がっていた疑問が、恐ろしいほど綺麗に一つの答えへ収束した。

 被害者本人にも、その周囲の人間にも不審に思われることなく、一対一になることのできる人物。ロンドン中の道を走り、人通りの多い時間と少ない時間を日々の仕事の中で知ることのできる人物。生活圏も職業も違う三人へ、何の共通する人間関係も持たずに接触でき、しかも相手を自分の選んだ場所まで運ぶことのできる人物。

 そして、人気のない場所へ被害者と二人で現れたとしても、それ自体は何ら不自然ではない人物。

 

「──送迎サービスの運転手」

 

 声にした途端、身体が動いた。

 メモ帳を掴み部屋を飛び出し、一足飛びに階段を駆け下りる。途中で夫人が何事か声をかけてきた気がしたが、聞き取っている余裕などなかった。玄関へ飛びつくようにして扉を開け、その勢いのまま濡れた歩道へ出る。

 右。

 左。

 何台もの車が通りを行き交っていたが、どれが先ほどの車なのかわからない。

 

「遅かった……」

 

 もう、オルフェーヴルを乗せた車は見当たらなかった。

 冷たいものが背筋を伝った。

 

「どうする……どうする、どうする……」

 

 考えろ。

 いや、その前に──なぜだ。

 オルフェーヴルは気づいていた。

 夫人がUMERの名を口にした、あの瞬間。あいつの顔から思案の色が消えたのを、私は確かに見ている。「余はもう済んだ」と言ったのだ。ならば当然、今しがた私が辿り着いた答えにも、あの時点ですでに到達していた。

 それなのに、あいつは乗った。

 自分を迎えに来た男が、三人を殺した犯人かもしれないと知りながら。

 

「……まさか」

 

 そこで、さらに嫌な考えが浮かんだ。

 三人がどうやって現場へ連れていかれたのか。それはわかった。だが、まだ一つ、決定的にわからないことが残っている。

 ──どうやって毒を飲ませた?

 脅したのか。騙したのか。それとも、被害者自身に毒だと知らせたうえで飲ませたのか。

 オルフェーヴルは、それを知らない。

 そして、あの女なら。

 

「犯行を……再現させる気だ」

 

 血の気が引いた。

 犯人が三人に何をしたのか。それを知るために、自分から四人目の被害者になろうとしている。あの女なら、それくらいの無茶を平然とやる。危険だとか、殺されるかもしれないとか、そんなものは謎を解くことを諦める理由にすらならないのだろう。

 

「馬鹿……!」

 

 助けなければ。

 けれど、どうやって追う。

 車種も、ナンバーも確認していない。今から周辺の防犯カメラを洗うにしても時間がかかりすぎるし──。

 そこまで考えたところで、記憶の中にある一つの光景が浮かんだ。

 茶色のジャケット。

 その胸元。

 名札の代わりに留められていた、小さなバッジ。

 

「……管理番号」

 

 私はスマートフォンを取り出した。

 覚えている。

 ほんの数秒しか見ていない。それでも、あの文字列なら頭に残っている。

 UMERのカスタマーサービスを呼び出し、祈るような気持ちで発信ボタンを押す。もし、あの男が正規の登録ドライバーではなかったら。適当にそれらしいバッジを作り、UMERを装っているだけなら、この番号には何の意味もない。

 呼び出し音が二度鳴った。

 

『はい、UMERカスタマーサービスです』

 

 電話口から聞こえてきたのは、こちらの切迫した状況など知る由もない、愛想だけを綺麗に整えた明るい声だった。

 

「スコットランド・ヤード捜査課、ウインバリアシオン警部っす。緊急で確認したいことがあります」

 

 自分でも驚くほど早口になっていた。

 

「そちらの登録ドライバーと思われる男が、現在捜査中の連続服毒死事件に関与している可能性があります。登録番号を照会してください」

 

『登録番号をお願いします』

 

「PNMG564-3」

 

 即答した。

 キーボードを叩く音が聞こえる。その数秒が、ひどく長い。

 

『──確認いたしました。登録番号、PNMG564-3ですね』

 

「はい」

 

『確かに弊社へ登録されているドライバーです』

 

 息を呑んだ。

 繋がった。

 

「今、その車両の位置はわかりますか?」

 

『位置情報、ですか?』

 

「緊急です」

 

 私は通りへ目を向けながら、スマートフォンを強く握り締めた。

 

「その運転手は、現在捜査中の殺人事件における重要参考人です。乗客にも危害が及ぶ可能性がある。現在地を確認してください」

 

 電話の向こうで、先ほどまで淀みなく応対していた女性が初めて黙った。

 やがて、今度は少し硬くなった声が返ってくる。

 

『……少々お待ちください』

 

 その言葉を最後に通話は保留へ切り替わり、代わって流れ始めたのは『Stayin' Alive』だった。ビージーズ往年の大ヒットナンバーで、聞き慣れた軽快なビートがスマートフォン越しに響いてくる。もっとも──今の私にとっては、そんなことはどうでもよかった。

 返答を待つ間もじっとしていられず、私は濡れた歩道を行ったり来たりしながら、何度も車の消えた方角へ目をやっていた。焦燥に駆られて落ち着きなく動く足と、どこまでも一定の調子で刻まれる曲のビートはひどく噛み合わず、普段なら耳に残るはずの名曲も、今ばかりはただ時間だけを浪費していく、ひどく場違いな音にしか聞こえない。

 

『お待たせいたしました』

 

 やがて音楽が途切れ、オペレーターの声が戻ってきた。

 

「それで!」

 

『確認が取れました。該当車両は現在も移動中です。現在地は──』

 

「走りながら聞きます。ナビをお願いします!」

 

 言い終えるより先にスマホをスピーカーモードに切り替え道の端へ寄り、片脚ずつ軽く引いて両のアキレス腱を伸ばす。本気を出して走ることなど、いったいいつ以来だろうか。ましてや車を相手にロンドンの街を追いかけようなど──いや、私はウマ娘だ。必ず追いついてみせる。

 

『現在地からでしたら、まずベイカー通りを南東へ──』

 

 案内を聞きながら、私は濡れた舗道の先を見据えた。

 どうか、まだ間に合ってくれ。

 それだけを願って地面を蹴る。

 

 そして私は、ロンドンを駆けだした。

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