灰色の雲に覆われた空は、いつしかわずかな光さえ透かさなくなり、本格的な夜の闇がロンドンの街並みを呑み込んでいた。私は電話口の向こうから聞こえてくる案内に耳を澄ませながら、少しも速度を緩めることなく走り続けていた。
『二つ先の角を右です。その先で……止まりました』
言われた通りに角を曲がると、少し走った先に大きな建物が見え、その前には一台の車が停まっていた。
「……車……ありました」
息を切らしながらそう伝え、電話口へ意識を残したまま慎重に車内を覗き込んでみるが、そこはすでにもぬけの殻で、運転席にも後部座席にも二人の姿はない。となれば、恐らく目の前にある建物へ入ったのだろう。
それは廃校だった。ロンドン市内に古くからある由緒ある学校で、私も名前くらいは知っている。しかし数年前に廃校が決まり、去年の卒業生を最後に生徒はいなくなっていた。敷地を囲う門は人が一人通れる程度に開かれているものの、その向こうに建つ校舎には一つとして明かりがついておらず、闇に沈んだ窓からは人の気配も感じられない。
「ご協力ありがとうございました。……もう一点、お伺いしたいことが──」
私はそう前置きして、犯人と思しき男の電話番号を訊ねた。緊急事態が起きた際の連絡先として、会社ならば当然管理しているはずだ。もし番号を教えてもらえれば、それだけで二人の居場所を探る手掛かりになる。
番号を聞きながら門をくぐり、私は改めて校舎を見上げた。外から眺める限りでは、どの窓も黒く沈んでいて二人の居場所を知る術はないが、何も目で探す必要はない。男の電話へこちらから発信し、その着信音を拾えばいいのだ。
教えられた番号をスマートフォンへ入力すると、そのまま発信する。男が電話に出てくれることを期待したわけではない。むしろ出なくても構わなかった。必要なのは着信音だけであり、それさえ聞こえれば、ウマ娘である私の耳なら音のした方向から大体の居場所を割り出せるはずだった。
スピーカーからコール音が流れ始めると、私は足を止め、両耳へ神経を集中させた。校舎のどこかから同じ音が聞こえてくるはずだと、風の音や遠くを走る車の音まで意識の外へ追いやっていく。ところが、その居所を明かすより早くコール音が途切れ、男はあっさりと電話に応答してしまった。
『もしもし? ……あぁ、警察の方ですね』
──遅かったか。
こちらが何者なのか知っている。それなのに、その声には焦りも驚きもなく、むしろ私からの電話を待っていたかのような落ち着きさえあった。その余裕が嫌でも最悪の想像を掻き立てたが、私はそれを振り払うように校舎へ目を向けた。
「それがわかっているのなら、あたしがここまで来てることもわかってるっすね。大人しく出てきなさい」
『いえいえ、それには及びません。……これからが面白いところですから』
男がそう言った直後、カタリ、と硬いものが触れ合う音がした。声が少し遠くなったところから察するに、どうやらスマートフォンを机の上へ置いたらしい。
『──誰だ』
代わって遠くから聞こえてきた声に、私はすぐさま反応した。間違いない、オルフェーヴルだ。
「オルフェーヴルさん! 危険です、逃げてください!」
そんな言葉であの女が素直に逃げ出すはずもない。それでも、警察官として言わないわけにはいかなかった。
『断る』
やっぱり。
予想通りすぎる返答に頭を抱えたくなったが、今はそんな暇もない。私は開きっぱなしになっていた校舎の扉を押し開け、中へ足を踏み入れた。奴が開けたのか、それとも廃校になってから施錠すらされていなかったのかはわからない。ただ一つ確かなのは、この暗い校舎のどこかに二人がいるということだけだった。
『警察の方には証人になってもらいましょう。……この決闘の勝者について』
『──決闘。それが毒を飲ませる方法か』
電話口から聞こえるオルフェーヴルの声音は、犯人と向かい合っているとは思えないほど平然としていた。私はスマートフォンの音量を上げながら廊下を進み、わずかな物音も聞き逃すまいと耳を動かす。
『えぇ。そしてあなたも、わたしに負ける』
ことり、ことり、と二度、何かが机へ置かれた。
『瓶が二つ。どちらかに毒が仕込まれております』
姿など見えないというのに、男が笑っていることだけはわかった。声そのものに笑みが滲んでいる。その直後、対照的に呆れきったようなため息が聞こえた。
『そんなことか……くだらん』
『くだらない?』
『余は飲まぬ。そう言ったらどうする』
『いいえ、あなたは飲みますよ。……そうせざるを得ない』
そこで会話が途切れた。
何が起きているのか、電話越しでは完全には把握できない。互いに何を見て、どんな表情をしているのかもわからず、ただ不気味な沈黙だけがスピーカーから流れてくる。それでも私は足を止めず、教室を一つずつ確かめながら廊下の奥へ進んでいった。
やがて、その沈黙を破ったのはオルフェーヴルだった。
『何かと思えば。銃で余を脅す気か?』
『いつもなら。しかし、あなたには必要ないでしょう』
続いて、ゴトリ、と先ほどの瓶よりも明らかに重い何かが机へ置かれる音がした。おそらく銃だ。つまり男は、少なくとも前三件ではそれを使って被害者に選択を迫った可能性がある。
『なにゆえ』
オルフェーヴルの問いに、男は待っていましたとばかりに答えた。
『なぜなら、あなたは気になっているからです』
その声には、奇妙な確信があった。
『どうしてわたしが一度も毒を飲まず、被害者三名だけが毒を飲んだのか』
私は廊下を進みながら、思わず奥歯を噛んだ。
こいつは、わかっている。
オルフェーヴルという女が、何を餌にすれば自ら罠へ足を踏み入れるのかを。
『気になってなどおらぬ。運だ。貴様はただ運が良かっただけに過ぎない』
その声は心底冷めきっており、少なくとも犯人の安い挑発に乗る気はないらしい。そのことに私はひとまず胸を撫で下ろしながら、最後に残っていた教室の中を確認した。これで一階はおおかた見尽くしたはずだ。二人の姿がないことを確かめると、私は近くにあった階段へ向かい、足音を忍ばせながら二階へと昇っていく。
『運だなんて、とんでもない。チェスと同じですよ。同じ駒、同じ盤面、同じ手番、そして同じルールが与えられている。それでも最後は、必ず勝者と敗者に分かたれる。その二人を分かつのは──』
男はそこで言葉を切った。
ほんのわずかな沈黙のあと、コン、と何かが机の上を滑る音がした。
『──最善の一手』
それだけだった。
けれど、動いた。
姿の見えない私にさえわかった。今の一手で、それまで停滞していた戦局が確かに動いたのだ。
『……瓶を一つ、我が方へ寄せたな』
オルフェーヴルが静かに言った。私に状況を伝えようとしているのか、それとも自ら目の前の事実を整理するためなのかはわからない。しかし、その声音は先ほどまでとは明らかに違っていた。
冷笑も、退屈もない。
犯人を取るに足らないものとして見下していた響きが消え、代わって一本の芯が通ったような鋭さが宿っている。
オルフェーヴルは、今の一手を無視できなかったのだ。
『どうです? こうしてわたしは生き延びてきた。これまでも、そしてこれからもね』
男はすでに勝ち誇ったかのように声を低めた。姿こそ見えないものの、二人の間でとてつもない心理戦が始まっていることくらいは、私にもわかる。
『……そうか』
対するオルフェーヴルは、拍子抜けしたとでも言いたげにひとつため息を吐いた。
『ならば、こちらも指し返さねばな』
それきり、しばし沈黙が続いた。この二人の心理戦がどこへ行き着くのか、もっと聞いていたいという欲がないと言えば嘘になる。しかし同時に、一刻も早く二人を見つけなければならないという焦燥も膨らみ続けており、私はその二つに板挟みにされながら、二階の廊下を進んで一部屋ずつ中を確かめていった。
『まず、運転席に貼ってあった写真。二人の息子か。余白の一部が不自然に切り取られていたが、そこに誰が写っていたのか想像するのは難しくない。妻──いや、元妻だろう。あの乱雑な破られ方を見るに、貴様が捨てられた側だな』
始まった。
今度はオルフェーヴルの口撃だった。犯人をいたずらに刺激するな、と警告したくなる気持ちをぐっと堪え、私は電話の向こうへ意識を向けながら次の教室を覗き込む。
『愛想を尽かされたか、あるいは──余命』
クッ、と小さく喉の鳴る音が聞こえた。おそらく男が息を詰めたか、唾を飲み込んだのだろう。その僅かな反応を、オルフェーヴルが聞き逃すはずもなかった。
『ダッシュボードに挟まれていた書類。あれは処方箋だな。常用薬にしては量も種類も多い。病を患っている、それも軽いものではない。余命いくばくもないと知らされ、妻には見限られたか。より稼ぎのいい男にでも乗り換えられたのだろう』
『……そうだ。あいつはわたしを捨てた』
それまで余裕を崩さなかった男の声に、初めて剥き出しの感情が混じった。
『途端に世の中が憎くなった。何もかもどうでもよくなった。だから──』
『──だから殺した? 否。そんなに単純なものか』
自白とも取れる言葉を、オルフェーヴルは最後まで言わせなかった。男が用意していたであろう身の上話など興味がないとばかりに切り捨て、その奥にあるものへ踏み込んでいく。
『妻への憎悪と、二人の息子への愛情は別物だ。写真から妻だけを破り捨てながら、息子たちは残した。それも運転席からいつでも見えるところにな。貴様はすべてを失ったわけではない。死ぬまでに、あの二人へ何かを残したかった。父親の威厳などとうに失われただろう。であれば金か──』
『……金を残したい人間が、闇市で毒物を買い、人を殺しますか?』
男の反論にも、オルフェーヴルは少しも間を置かなかった。
『依頼殺人』
きん、と空気が張り詰めたような沈黙が電話の向こうに落ち、私は思わず足を止めた。
『殺人一件につき、報酬を与えられた。自分にはもう使う時間のない金でも、息子たちには残せる。故に貴様は依頼を受け、見ず知らずの人間を殺した。違うか』
返事はない。
だが、その沈黙こそ何より雄弁だった。
『……三人より長生きできた』
ようやく男が絞り出したのは、反論ですらなかった。
三人より長く生きた。三度の勝負に勝った。だから自分の方が優れている──そう言い聞かせることで、辛うじて自分を保とうとしているように聞こえた。
少なくとも、電話に応答した時にあったあの不気味な余裕は、もう声のどこにも残っていなかった。
『……ふん』
その言葉を実質的な敗北宣言と受け取ったのだろう。オルフェーヴルが短く鼻を鳴らした直後、ガッ、と椅子を引く音がして、続いてあの尊大な主を象徴するような硬い靴音が鳴り始めた。
その音を聞いた瞬間、私は耳をそばだてた。
今度は電話越しではない。スピーカーから遅れて響く音に重なるように、廊下の奥から同じ足音が直接この耳へ届いている。
近い。もう少し先──しかも、同じ階だ。
『……最後に一つ』
靴音が止まり、オルフェーヴルが口を開いた。
『此度の脚本、貴様が一人で書き上げたものとは思えん。依頼を受けた際、殺害の手順や方法についても何者かから指示を受けていた。余はそう考えている』
男は何も答えなかった。だが、オルフェーヴルはその沈黙など意にも介さず、淡々と核心へ踏み込んでいく。
『そやつの名を教えよ』
私はスマートフォンを握ったまま廊下を進んだ。いくつかの扉を通り過ぎるうち、電話から聞こえる微かな呼吸音が、やがて壁の向こうからも聞こえるようになってくる。
数秒の沈黙の後、男が観念したように長く息を吐いた。小さく咳払いをして、それから妙に落ち着いた声で呟く。
『……あの方のおっしゃる通りだ』
カタ、と椅子が動く音がした。
ほとんど同時に、私は一つの扉の前で立ち止まっていた。上部にはめ込まれた細長い窓。その向こうに、見覚えのある黄金の髪が見える。
見つけた。
「彼女の名は──」
男の声が、今度は壁一枚を隔てて直接聞こえてきた。
しかし、その先は続かなかった。
言葉が不自然に途切れたかと思うと、何か大きなものが床へ倒れ込む鈍い音が響いた。
「おい!」
オルフェーヴルの声に、私は反射的に扉を押し開けた。
「いったい何が──」
室内へ飛び込んだところで、言葉を失った。
男が床に倒れていた。
身体を痙攣させ、口元からは白い泡が溢れている。先ほどまで二人が向かい合っていた机の上には例の金色の瓶が二つ並んでいたが、どちらにも開封された形跡はなく、少なくとも今ここで毒を飲んだようには見えなかった。
オルフェーヴルは男の傍らへ膝をつき、その様子を確かめると、すぐに顔を上げた。
「シオン、急ぎこやつの車へ戻り、全ての薬を持て」
「あ──」
何を、と聞き返しかけた瞬間──
「疾くせよ!」
雷鳴のような一喝が飛んだ。
「っ、はい!」
その声に正気を取り戻すと同時に踵を返し、私は来たばかりの廊下を全速力で駆け戻った。
それから私は大急ぎで車へ引き返し、ダッシュボードや収納に入っていた薬を手当たり次第にかき集めてオルフェーヴルの元へ戻った。彼女の指示に従って応急処置を施したことも功を奏したのか、男の容態は救急隊が到着するまでそれ以上悪化することはなく、そのまま病院へと搬送されていった。今後については搬送先での治療次第だろうが、おそらく一命は取り留めるだろう、というのがオルフェーヴルの見立てだった。
救急車が走り去った後も、廃校の周囲には慌ただしさが残っていた。応援に駆けつけた数台のパトカーが門前を塞ぎ、回転する赤色灯が、闇に沈んでいた校舎の壁や窓を一定の間隔で赤く染め上げている。つい先ほどまで人の気配一つなかった場所には制服警官や鑑識が出入りし、夜の静寂はすっかり失われていた。
私はその様子を眺めながら、隣に立つオルフェーヴルへじろりと目を向けた。
「まったく、無茶苦茶にも程があるっすよ。犯人だってわかっていながら、わざと車に乗ったんでしょう? しかも応援も呼ばず、一人で」
ここまで走らされ、廃校中を探し回らされ、挙げ句の果てには犯人が目の前で倒れるところまで見せられたのだ。溜まりに溜まった鬱憤を少しくらいぶつけても罰は当たらないだろうと思ったのだが、当の本人はそんなものなどどこ吹く風で、こちらを見ようとすらしなかった。
「犯人は見つかり、事件は解決した。それ以上に何が必要だ」
「あたしは結果じゃなくて、そこに至るまでの過程の話をしてるんすよ。もしあそこで本当に毒を飲まされてたらどうするつもりだったんすか」
「飲まぬ」
「そういう話じゃないっす!」
思わず声を荒らげたものの、オルフェーヴルは涼しい顔をしたままだった。こちらがどれほど危険性を説いたところで、結果として自分は無事で、犯人も捕まり、事件も解決したのだから問題はない──本気でそう考えているらしい。
その横顔を眺めているうち、ふとベイカー通りで夫人が口にしていた言葉が脳裏に蘇った。
あの時は随分な言い草だと思ったものだが、今ならよくわかる。
「……社会不適合者」
「誉め言葉か」
間髪を容れず返ってきた。
減らず口、というわけでもないのだろう。この女の場合、本気でそう受け取っていそうなところが、なおさら腹立たしい。
私は深々とため息を吐き、赤色灯に照らされては闇へ戻るその横顔から目を逸らした。
と、視線の先に、ふと妙な違和感を覚えた。何か目立つものがあったわけではない。ただ、暗闇の向こうから誰かにじっと見つめられているような、背中を細い針でなぞられるような感覚があり、私は自然と目を凝らして、パトカーのさらに先にある鉄門の向こうを見据えた。
そこに、一人のウマ娘が立っていた。
遠目にもわかるほど小柄で、背丈だけを見れば子供と見紛いそうになる。しかし、その装いは幼い容姿から想像されるものとはまるで異なり、格式ある社交界へ出入りする紳士のように隙なく整えられていた。それだけでも十分に奇妙だったが、何より目についたのは、彼女が頭上に広げている黒い傘だった。雨などとうに上がっており、重く垂れ込めた雲から一滴の雫さえ落ちてはいない。それでも彼女は傘を閉じようともせず、その下からこちらをじっと見つめている。
パトカーの赤色灯が回るたび、その小さな姿は闇の中から浮かび上がり、また沈んでいく。そのたびに傘の縁が顔へ濃い影を落とし、表情のすべてを窺わせてはくれなかった。
「……来たか」
隣でオルフェーヴルがそう呟いたところを見るに、どうやら彼女もその存在に気づいていたらしい。しかも、その口ぶりは明らかに相手を知っている者のそれだった。
「知り合いっすか?」
訊ねても答えはなく、オルフェーヴルは当然のように一人でその人物へ向かって歩き始める。
「ちょ、待ってくださいって」
また勝手な行動をされてはたまらない。今度こそ遅れまいと私も後を追い、少し速足になってその隣へ並ぶと、二人でパトカーの脇を抜けて鉄門へ向かった。
距離が縮まるにつれて、闇に紛れていた人物の姿も次第にはっきりとしてくる。
長い髪は刃物で線を引いたように鋭く整えられ、一筋の乱れも見当たらない。鼻梁には細身の眼鏡が掛けられており、その奥にある瞳は一見すると穏やかで、口元にも礼儀正しい微笑が薄く浮かんでいた。それなのに、なぜだろう。近づけば近づくほど、私はむしろ警戒心を強くしていた。
その視線には、人を見る時にあるはずの曖昧さがなかった。こちらが何者なのかを知ろうとしているのではなく、すでに知った上で、その価値まで測っているかのように感じられる。眼鏡という知性や気品を感じさせるはずの装飾も、彼女の場合はその鋭さを覆い隠す薄い膜にしか見えず、穏やかな微笑と相まって、かえって何を考えているのかわからない不気味さを際立たせていた。
細身の身体を包むスーツも、この場所にはあまりに似つかわしくない。肩から腰へ落ちる線は身体へ寸分なく沿い、襟元から袖口に至るまで乱れ一つない仕立ての良さで、その上から黒い傘を差して佇む姿は、まるで晩餐会へ向かう途中で偶然ここへ立ち寄ったかのようだった。しかし、殺人事件の捜査が続く真夜中の廃校を前に、そんな格好で静かにこちらを待ち受けていること自体が、私にはひどく異様に思えた。
──もしかして。
ふと、一つの考えが頭をよぎった。
こいつが、あの男に指示を出していた黒幕なのではないか。
思いついてしまえば、目の前の人物が放つ得体の知れない雰囲気も、ただの印象として片づけることができなくなってくる。あの男は依頼を受けて三人を殺し、その手順や方法についても何者かから指示されていた。そして最後には、その人物を「あの方」と呼び、続けて「彼女の名は」と口にしかけている。
女だ。
少なくとも、あの男が従っていた人物は女性だった。
それだけではない。オルフェーヴルをベイカー通りまで迎えに行くよう指示したのも、おそらくはその黒幕なのだろう。だとすれば、黒幕は私たちの動きをどこかで把握していたことになるし、オルフェーヴルが男の正体を見抜き、そのまま後を追うことさえ想定していた可能性がある。
そして今、すべてが終わったこの場所へ、素性の知れない女がまるで頃合いを見計らったように姿を現した。きっとそうだ。
やがて私たちが数歩の距離まで近づくと、彼女は差していた黒い傘をわずかに持ち上げた。そうして露わになった顔には相変わらず非の打ち所のない微笑が浮かんでおり、眼鏡の奥の瞳はまずオルフェーヴルを、それから私をゆっくりと捉える。
ほんの一瞥だった。それなのに、目が合った瞬間、私は自分の知らないところで何かを一つ知られてしまったような、ひどく居心地の悪い感覚を覚えた。
私は臨戦態勢を取った。今度ばかりは後れを取らない。そうして身構えた。
「お疲れ様、オル。今日も大活躍だったようだね」
私の警戒など知る由もないといった様子で、小柄なウマ娘は穏やかに声をかけた。あれほど得体の知れない印象を抱かせておきながら、その声色は拍子抜けするほど柔和で、長い仕事を終えた家族を迎えるような親しみさえ含まれている。
「うむ。出迎え苦労である、姉上」
続いて返ってきたオルフェーヴルの言葉を、私はすぐには理解できなかった。
姉上。
今、こいつはそう言ったのか。
「あ、姉上!?」
それはもう、今日一番の大声だったと思う。犯人を見つけた時も、オルフェーヴルがその車へ乗ったと知った時も、ここまで素っ頓狂な声は出さなかった。
「なんだ。事件の黒幕とでも思ったか」
私の反応だけで考えていたことを察したらしく、オルフェーヴルは口元へ嘲笑を浮かべると、いかにも愉快そうに鼻を鳴らした。
「そ、そりゃ思いますよ! こんな時間に、こんな場所で、雨も降ってないのに真っ黒な傘差して待ってる人がいたら!」
「ふむ。それは申し訳ないことをしたね」
そう応じたのは、姉と呼ばれた方だった。
彼女は気を悪くした様子もなく、むしろこちらの無礼を許すように柔らかく微笑むと、黒い傘をわずかに傾けて会釈した。その動作には妙なほど隙がなく、頭を下げる角度から片手の添え方に至るまで、どこか格式ある社交場で身につけた作法をそのまま持ち込んだように洗練されている。
「こちらが、かのウインバリアシオン警部だね」
眼鏡の奥の視線が、改めて私へ向けられた。
「私、ドリームジャーニーと申します。妹のオルが、ずいぶんとお世話になったようで」
「あ、いえ……こちらこそ」
反射的に頭を下げながら、私は何ともいえない居心地の悪さを覚えていた。
妹とはまるで違う。
オルフェーヴルは尊大で、傲慢で、自分が他人より上に立つことを隠そうともしない。言葉遣いにも態度にもそれが露骨に表れているから、腹こそ立つものの、ある意味ではひどくわかりやすい。
ところが、目の前のドリームジャーニーにはそれがなかった。
声音は柔らかく、言葉遣いは丁寧で、所作にも名乗りにも何一つ粗相がない。こちらを見下すこともなければ、威圧するような口調を使うこともなく、今のところ非礼と呼べるものは一つとして見当たらない。
それなのに。
なぜか私は、オルフェーヴルと初めて向かい合った時よりも、この姉の前に立っている方がずっと緊張していた。
何が怖いのか、自分でもうまく説明できない。
ただ、眼鏡の奥から向けられる穏やかな眼差しを見ていると、私が何を考え、何を疑い、つい先ほどまで彼女を何者だと思っていたのかまで、すべて承知した上で微笑まれているような気がしてならなかった。
「夜も更けてまいりました。ウインバリアシオンさん、よろしければ、ご自宅までお送りいたしましょう」
柔和な笑みを崩さないジャーニーはそう言うと、先導するように踵を返し、少し離れた場所に停められていた黒塗りの車へと歩き始めた。赤色灯を受けて艶やかに光る車体は見るからに高級そうで、こんな廃校の前に停まっていること自体が、持ち主と同じくらい場違いに思えた。
「オルは後部座席を一人で使いますので、どうぞ助手席の方へ」
促されるまま助手席へ乗り込むと、そこにはタクシーやパトカーとはまるで違う、落ち着いた革張りの内装が広がっていた。余計な装飾はないのに、触れるものすべてが上等だとわかる。今日一日で随分な距離を走った脚をようやく休ませ、思わず深く背もたれへ身体を預けたところで、後部座席からオルフェーヴルの声がした。
「姉上はイギリス政府の高官──いや、政府そのものである」
ぱたん、と助手席の扉が静かに閉められ、その向こうを回ってジャーニーが運転席へ向かっていく。その僅かな間に告げられた話は、もう驚く気力さえ残っていなかった私の頭を素通りしていった。
「……へぇ」
我ながら、ひどく間の抜けた返事だったと思う。
朝にはいつも通りヤードへ出勤し、昼には三件目の服毒死を調べ、そこで金色の髪をした得体の知れない一般人と出会った。その女を重要参考人として連行したと思えば上から釈放を命じられ、ベイカー通りまで押しかけた挙句、殺人犯を追ってロンドンを走り回り、夜には廃校で毒を使った決闘に立ち会った。そして最後に、その一般人の姉が「イギリス政府そのもの」だと聞かされている。
もう何が起きても驚くまい。そんなことを考えながら、私は窓の外へ目をやった。いつの間にか警察車両の赤色灯も遠ざかり、濡れた夜のロンドンが窓の向こうを静かに流れている。
事件は終わった。
三人の服毒死は一人の男による殺人であり、その男も身柄を確保された。背後に依頼人らしき人物がいることだけは気掛かりだったが、それは男が回復してから聞き出せばいい。そしてオルフェーヴルという奇妙な女とも、これでもう関わることはないだろう。
少なくともこの時の私はそう思っていた。
「──というわけです」
長い話を終え、シオンはようやく受話器の向こうへそう告げた。
窓の外では相変わらず細かな雨が降り続いている。つい先ほどまで彼女の意識を占めていた夜の廃校も、赤色灯も、黒塗りの車もすでになく、そこにあるのは湿気を帯びた朝のスコットランド・ヤードと、書類の積み上がった見慣れたデスクだけだった。
受話器の向こうから、長い沈黙が返ってきた。
『……この件は内々で処理する。くれぐれも捜査に一般人が介入した、などという話を外に漏らすなよ』
トーマスの声は暗く、管理職の憂鬱を嫌というほど滲ませていた。当然、シオンにもそうせざるを得ない事情くらいは理解できる。事件の捜査に行き詰まったスコットランド・ヤードが、偶然現場に居合わせた一般人の推理を頼り、その一般人が単独で犯人と接触するところまで許してしまったなど、世間へ知られて愉快な話ではない。
それでも、どこか居心地の悪さが残った。三件の死を自殺ではなく殺人だと見抜き、犯人へ辿り着いたのはオルフェーヴルである。その事実まで覆い隠してしまえば、まるで警察が彼女の手柄を横取りしたようではないか。
「……『推理の宮殿』はどうします? また好き勝手書かれてしまうかもしれないっすよ」
『放っておけ。そこまで人気のあるブログには見えんし、この件だけ触れないというのもかえって不自然だろう。捜査上問題になる情報さえ出さなければ構わん』
それからもしばらくやり取りは続いたが、そのほとんどはその行動に対する小言だった。現場で一般人に情報を与えるな、重要参考人を安易に信用するな、勝手に単独行動をするな──どれも警察官としては至極もっともな話であり、シオンも殊勝に相槌だけは打っていた。
やがて長い説教から解放され、受話器を置く。
途端に、いつものヤードの喧騒が戻ってきた。
電話の向こうから聞こえていた署長の声に代わって、キーボードを叩く音や書類を繰る音、遠くで誰かを呼ぶ声が耳へ入ってくる。
事件は解決した。
犯人は捕まり、被害者三人の死も改めて捜査される。背後にいる依頼人についても、男が回復すれば追及できるだろう。警察としてやるべきことは残っているものの、少なくとも事件について、シオン個人が今すぐしなければならないことはもうない。
ない、はずだった。
それなのに、どうにも落ち着かない。
あの時の光景が何度も頭へ浮かんだ。規制線の向こうで腕を組んでいた黄金のウマ娘。誰も疑わなかった三つの自殺を殺人だと言い切り、わずかな違和感を繋ぎ合わせて犯人へ辿り着いた女。そのくせ犯人だとわかっている男の車へ平然と乗り込み、毒を前にしても眉一つ動かさなかった、とんでもない一般人。
その働きは、これから作られる公式の記録にはほとんど残らない。
──それでいいのか。
受話器を置いてからというもの、そんな問いが胸の内で何度も繰り返されていた。
シオンとて、トーマスの判断が間違っているとは思わない。捜査に一般人が関与し、あまつさえその一般人が警察より先に犯人へ辿り着いたなどと公になれば、スコットランド・ヤードの信用にも関わる。組織に属する者として、内々に処理するという判断には納得できるだけの理由があった。
だが、理屈で納得できることと、気持ちよく受け入れられることは別だった。
椅子に座っているというのに、身体の内側だけが妙に浮ついて落ち着かない。じっとしていればしているほど、胸の奥に居座った罪悪感がじわじわと膨らみ、とうとうシオンは耐えかねたように立ち上がった。
コートを掴み、再びロンドンの街へ繰り出す。向かう先について迷う必要はなかった。
ベイカー通り、二二一B。
「あら、いつぞやのお巡りさん」
相変わらず人のよさそうな笑顔で迎えられ、シオンも軽く挨拶を返す。夫人は来訪の理由を尋ねることもなく、「上にいるわよ」とだけ言って当然のように道を空けた。
階段を上り、扉の前で足を止める。数度ノックをしてから中へ入ると、オルフェーヴルはパソコンの前に座り、頬杖をつきながら画面を眺めていた。訪問者が誰なのか確かめようとすらせず、菫色の瞳を画面へ据えたまま、言葉だけをこちらへ寄越す。
「何用だ」
「まあ、その……提案というか、ちょっと話があって」
ここへ来るまでは、言うべきことなど決まっていた。それなのに、いざ本人を前にすると妙に気恥ずかしくなり、シオンの言葉は途端に歯切れを悪くした。
「疾く言え」
「その、この前の事件なんすけど……」
いつまでも要領を得ない物言いに痺れを切らしたのか、ようやくオルフェーヴルが画面から目を離した。その菫色の瞳に真っ直ぐ見据えられ、シオンは観念したように息を吐く。
「……あたしが、ブログを書くっすよ」
「なに?」
初めてオルフェーヴルの表情が崩れた。
「『推理の宮殿』っすよ。内容は……まあ、悪くない。でも文章とか言い回しとか、なんていうか……大衆向けじゃないっていうか」
「余の文章に難癖をつけに来たのか」
「そうじゃなくて」
シオンは言いながら、オルフェーヴルの座る机へ近づいていった。
「あんたが事件を解いても、それを知る人がいなきゃ何も残らないでしょう。でも警察には警察の事情があるから、何もかも公表するわけにもいかない。だったら、書ける範囲であたしが書くっす。あんたが何を見て、何を考えて、どうやって真相まで辿り着いたのか。あたしなら警察側の事情もわかるし、どこまでなら書いていいかも判断できる」
そこまで一息に言い切ってから、シオンは少しだけ視線を逸らした。
「……それくらいしないと、なんか気分悪いんすよ。このまま全部あたしの手柄みたいになるの」
オルフェーヴルは何も言わなかった。
ただ、シオンを見ていた。
規制線の前で初めて出会った時と同じ、何もかも見透かそうとするような菫色の瞳だったが、今度ばかりはシオンも目を逸らさず、その視線を正面から受け止める。
「だから──」
一歩、踏み込んだ。
「あたしが代わりに書くっす。『推理の宮殿』を」
しばらく、二人は黙って見つめ合っていた。
やがてオルフェーヴルの口元が、ほんの僅かに持ち上がる。それは嘲笑でも、いつもの尊大な笑みでもなく、差し出された挑戦を面白がるような笑みだった。
「──やってみろ」
許可でも感謝でもなかった。
ただ、挑戦状を返すような一言だった。
それで十分だった。
シオンが椅子へ腰を下ろして画面を見ると、そこには『推理の宮殿』の記事入力フォームがすでに開かれていた。本文はまだ一文字も書かれていない。おそらくオルフェーヴルも、今回の事件をどのように記すべきか思案していたのだろう。
「まずは、題名からっすね」
これまでオルフェーヴルが記事につけていた題名は、どれも事件を番号で区別しただけの簡素なものだった。本人にしてみれば、推理の中身さえ正しければ題など何でもよかったのだろう。しかし、これから誰かに読ませる文章として書くのなら、それではあまりに味気ない。せっかくなら一目見ただけで興味を引き、読み終えた後にも事件の印象が残るような名前がいい。
「題名、か」
その考え方自体が珍しかったのか、オルフェーヴルが興味深そうに画面を覗き込んできた。シオンの背後に立って腕を組み、口を挟むでもなくその手元を見下ろしている様子は、さながら自らの玉座を一時だけ他人へ貸し与え、その働きぶりを品定めしている王のようだった。
そんな視線を背中に感じながら、シオンは昨日の出来事を順に思い返していく。
三人の服毒死。誰もが関連性がないと思っていた三つの現場。送迎サービスを装って被害者へ近づいた男。そして、すべての現場に残されていた、金色のラベルを巻いた小さな瓶。
金色。
その言葉を頭の中で転がした瞬間、シオンの脳裏には瓶とは別のものが浮かんだ。雨に濡れた規制線の向こう、周囲の野次馬から一人だけ切り離されたように佇んでいた、黄金の髪のウマ娘。
「……そうだ」
シオンの指が、思いつきに弾かれるように動き出した。
事件を象徴する金色の小瓶と、その謎を解き明かした黄金の女。その二つを重ね合わせながら、迷うことなく文字を打ち込んでいく。
やがて題名欄に、一つの名が完成した。
『黄金色の研究』
オルフェーヴルはしばらく無言でその文字を眺めていた。どうせまた一言二言、難癖をつけてくるのだろう。そう身構えていたシオンの耳へ、やがて思いがけない評価が落ちてくる。
「……悪くない」
シオンは思わず振り返った。
「ただし」
やはり来た。
オルフェーヴルは画面へ視線を据えたまま、顎へ片手を添える。
「『研究』という語には、一考の余地があるな」
「そこはいいでしょうよ!」
結局、最後まで素直に褒めるつもりだけはないらしい。
シオンは呆れたように息を吐きながらも、その題名を消そうとはしなかった。オルフェーヴルも、それ以上訂正を求めることはなかった。
そのまま、シオンは本文へと指を滑らせた。わずかに考えた後、最初の一文を打ち込んでいく。
『これは私が、とある事件の調査に赴いたときの話である──』