——ウィーンの夕暮れは、いつもより少しだけ長く感じられた。
石畳を照らしていた陽はすでに傾き、歴史を重ねた建物の壁を淡い橙色に染めている。通りを行き交う人々の声に、遠くを走る路面電車の音が重なり、夕刻を迎えた街には穏やかなざわめきが広がっていた。
どれも、二人にとっては聞き慣れた街の音だった。この道だって、これまで何度となく並んで歩いてきた。目に映る建物も、足元に続く石畳も、昨日までと何ひとつ変わっていない。
それなのに、その日だけは、いつもと同じ景色がどこか違って見えた。
理由を口にすることもなく、二人は並んで歩き続けていた。
やがて、隣を歩いていた青年が不意に足を止める。
そのことに気づかないまま数歩先へ進んだ少女は、それまで隣にあった足音が聞こえなくなったことに気づき、ようやく足を止めた。
振り返る動きに合わせて、淡い紫色の髪が夕暮れの風にさらりと揺れる。左右で結われた長い髪が肩の後ろを流れ、その隙間から覗いた紫がかった瞳が、少しだけ訝しげに細められた。
「……?」
振り返る。
夕暮れに染まる石畳の上で、青年は何も言わずにこちらを見つめていた。
「
聞く必要など、本当はなかった。
彼女が日本へ行くと決めたことも、その決意が今さら変わるようなものではないことも、青年はもう分かっている。
それでも、もう一度だけ尋ねた。
少女は一瞬だけ怪訝そうな顔をすると、迷うことなく答えた。
「
「
「
「
青年は小さく息を吐いた。
一度こうすると決めた少女は、簡単にはその意志を曲げない。長い付き合いの中でそれを誰よりよく知っているからこそ、青年も彼女の決断そのものを否定するような言葉は口にしなかった。
「
「
「
その先に続ける言葉を探すように、青年は少女から視線を逸らした。
目を向けた先には、夕暮れに染まった見慣れた街並みが広がっている。何度も歩いてきた石畳も、通りに並ぶ古い建物も、少し離れた場所から聞こえてくる路面電車の走行音も、二人にとって特別珍しいものではない。
明日になれば、この街にはまた同じように朝が訪れる。人々が通りを行き交い、路面電車がいつもの軌道を走り、昨日までと変わらない一日が始まっていくのだろう。
それでも———。
青年は、もう一度隣に立つ少女へ視線を戻した。
ただ、その明日からは、いつも隣にいたはずの少女がここにはいない。
そう思うと、胸の奥にわずかな寂しさが残った。
「
数秒。
少女は呆れたように眉を寄せた。
「
「
「
「
「
そう言って、少女は再び歩き出した。
青年もいつものようにその隣へ並ぼうとして———やめた。
数歩進んだところで少女が一度だけ振り返った。
「
「ああ」と答えそうになって、青年は慌てて言い直す。
「
それだけだった。
二人の間に、これから先を確かめ合うような特別な約束が交わされることはなかった。離れてしまうことを惜しむような、大袈裟な別れの言葉を口にすることもない。
きっと、また会える。離れている時間がどれだけ続いたとしても、いつかまたこうして同じ場所に立ち、今までと変わらず言葉を交わせる日が来る。
そのことを疑う理由など、二人にはなかった。
やがて少女は青年に背を向け、夕暮れに染まった石畳の上を歩き出す。淡い紫色の髪が歩みに合わせて揺れ、その後ろ姿は行き交う人々の中へ少しずつ紛れ、やがて見慣れた街の景色へと溶け込んでいった。
青年はその場から動かず、少女の姿が見えなくなったあともしばらく同じ方向を見つめていた。
何かを伝えようとしたのか、ふいに唇がわずかに開く。けれど、そこから言葉が続くことはなかった。
夕暮れの街のざわめきだけが変わらず流れる中、青年は結局、胸の奥に浮かんだ言葉を声にすることなく、静かに口を閉ざした。
* * *
音楽が止まり、最後まで残っていた余韻が、公園の静けさの中へ溶けていく。それを確かめるように、私は大きく息を吐いた。
激しく上下する肩をどうにか落ち着かせながら、手の甲で額を拭う。それでも拭いきれなかった汗がこめかみから頬へと伝い、顎の先で小さな雫になった。
これで何度目だっただろう。途中までは数えていた気もするけれど、いつの間にかそんなことを気にする余裕もなくなっていた。
「……今の最後、もう一回合わせたいかも」
かのんが膝に手をつき、乱れた呼吸を整えながら言った。
私はすぐには答えず、さっきまでの動きを頭の中でもう一度なぞってみる。歌い終える直前、三人の動きが重なるはずだった瞬間に、ほんのわずかな違和感が残っていた。
「私も気になってた。最後に入るところ、ほんの少しだけずれてたわ」
「そうですね」
冬毬はそう答えると、手元の端末へ視線を落とした。練習中に撮影していた映像を慣れた手つきで巻き戻し、私たちが気になった箇所まで戻して再生する。
画面の中で三人が動き、やがて最後の振りへ入る。その瞬間、冬毬が映像を止めた。
「映像でも確認できます。ですが、大きなずれではありません」
「だからこそ、今のうちに合わせておきたいの」
私がそう返すと、隣で画面を覗き込んでいたかのんもすぐに頷いた。
「うん。私もそう思う。じゃあ、最後のところからもう一回やってみよっか」
「異論ありません、澁谷先輩」
短い確認を終え、三人でもう一度それぞれの位置へ戻る。呼吸を整え、互いの立ち位置を確かめたところで、再び音楽が流れ始めた。
歌って、踊って、三人の動きを重ねていく。
この三人で練習するとき、誰か一人のやり方に残りの二人が従うわけではない。気づいたことがあればその場で伝えるし、納得できないところがあれば何度でも確認する。かのんだから気づけることもあれば、私だから気になるところもあるし、冬毬が撮影した映像を見返して初めて見つかる違和感だってあった。
そうして三人で意見を交わしながら、一つずつ余計なずれを消していく。
最初の頃と比べれば、この三人で歌い、踊ることにも随分と慣れた。互いがどんな動きをするのか、どこで息を吸い、どの瞬間に声を重ねるのかも、今では以前ほど意識しなくても自然に分かる。
だからこそ、今までなら見過ごしていたような小さな違和感の方が、かえって気になるようになっていた。
一度合わせて、それでも気になるところがあれば映像を確認し、また位置へ戻る。そうして何度も同じ部分を繰り返しているうちに、頭上から降り注いでいた陽の光はいつの間にか傾き始め、地面や木々、遊歩道を照らす色も少しずつ夕方のものへと変わっていた。
「一回休憩しよっか」
かのんの声に、私は小さく頷いた。
「そうね」
近くのベンチへ移動し、置いていたボトルを手に取る。蓋を開けて口をつけると、冷たい水が熱を持った身体を内側から冷ましていくように喉を通り抜けた。ようやく呼吸も落ち着いてきたところで隣へ目を向けると、冬毬は休憩に入ったというのに、相変わらず端末の画面から目を離していなかった。
「冬毬ちゃん、休憩なんだからちゃんと休もうよ」
「確認しているだけです」
「それ休憩って言うのかな……」
かのんが困ったように笑いながら冬毬の顔を覗き込む。それでも冬毬は気にした様子もなく、さっき撮影した映像を指先で操作し続けていた。
「かのんこそ、喋ってないで休んだら?」
「えぇ、マルガレーテちゃんまで?」
「事実でしょ」
私がそう返すと、かのんは「そんなぁ」とでも言いたげに肩を落とした。それでも口元には笑みが残っていて、その様子を見た冬毬もほんの少しだけ端末から顔を上げる。
そんな二人を眺めながら、私はもう一度ボトルに口をつけた。
少し前までの私なら、こうして三人で同じ場所に立って練習することも、その合間にどうでもいいことで言葉を交わすことも、きっと想像すらしていなかった。
練習が始まれば気になったところを遠慮なく指摘して、納得できなければ何度でもやり直す。休憩になれば、今みたいにくだらないことで言い合って、気づけば誰かが笑っている。
いつからそれが当たり前になったのか、自分でもよく分からない。
別に、それについて何か特別な意味を見つけたいわけでもなかったし、わざわざ口に出して確かめようとも思わない。
ただ、こういう時間も———悪くはないと思う。
「ねえ、マルガレーテちゃん」
「何?」
名前を呼ばれて横を向くと、かのんがボトルを両手で持ったまま、こちらを見ていた。
「マルガレーテちゃんって、どうして音楽が好きになったの?」
「……何よ、急に」
あまりにも唐突な質問に、思わず眉を寄せる。さっきまで練習の話をしていたはずなのに、どうして突然そんなことを聞くのか分からなかった。
「ちょっと気になって」
「どうしてって……」
すぐに答えようとして、言葉が止まった。
音楽を好きになった理由なんて、今までわざわざ考えたことがあっただろうか。
私にとって、音楽はあまりにも身近なものだった。物心がつくよりも前から家の中には当たり前のように音楽があり、家族の会話にも自然と音楽の話が混じっていた。何か特別なきっかけがあって出会ったものではなく、気づいたときにはもう、自分の生活の一部としてそこにあった。
だから、改めて理由を尋ねられても、すぐに思い浮かぶものなんてない。
「うちは代々音楽に関わってきた家系だし、物心ついた頃から音楽が身近にあったから。それだけよ」
そう答えてから、私はもう一度ボトルに口をつけた。それで十分な答えのはずだと思っていた。
「うーん……」
「何?」
「そうじゃなくて」
私の答えでは少し違ったらしい。かのんはどう説明すれば伝わるのか考えるように視線を宙へ向け、それから何か思いついたのか、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「もっと純粋にさ。音楽を聴いて、心がキラキラした瞬間っていうのかな」
「心が……キラキラ?」
思わず聞き返してしまう。いかにもかのんらしい言い方だと思ったけれど、不思議と何を言いたいのかは分からなくもなかった。
「うん。『音楽っていいな』って初めて思ったとき」
「…………」
今度は、すぐに言葉が出てこなかった。そんなもの、私にはない。
そう答えようとして、なぜか口を閉ざす。
音楽は、私が自分で選ぶよりもずっと前から、当たり前のように生活の中にあった。家族も音楽に関わっていて、姉も同じように幼い頃から音楽を学んでいた。私自身も、物心がついた頃にはそれが日常の一部になっていて、音楽のない生活がどんなものなのかを考えたことすらない。
だから、「好きになった瞬間」なんてものがあるはずがない。
そう思っていたはずなのに、かのんの言った「心がキラキラした瞬間」という言葉を頭の中でもう一度なぞった途端、胸の奥に妙な引っかかりを覚えた。
「……あ」
思い当たるものが、ひとつだけあった。
別に忘れていたわけではない。むしろ、今でも思い出そうとすれば、そのときのことは驚くほど鮮明に浮かんでくる。
ただ、それを「音楽を好きになった瞬間」と呼んでいいのかは、自分でもよく分からなかった。
何より———。
それを今、この二人に話すのは、なんとなく嫌だった。
「……何よ」
思わず漏れた声を聞き逃さなかったのか、かのんがこちらを覗き込んでくる。
「いや、今絶対なんか思い出したでしょ」
「別に」
「その反応は絶対あるやつだよ」
「……うるさい」
顔を逸らしながら、私は手にしたボトルを意味もなく握り直した。
「あるの?」
「……まぁ」
どう答えたものか迷いながら、私はわずかに視線を逸らした。自分から話したいようなことでもないし、そもそもこれがかのんの言う「心がキラキラした瞬間」に当てはまるのかどうかも、いまひとつ自信がない。
それでも、思い当たるものがあるとすれば———きっと、あのときだ。
「小さい頃の話よ」
あれは、私がまだ幼かった頃のことだった。
家族全員が仕事の都合で、一週間ほど家を空けたことがある。もちろん、本当の意味で一人きりにされたわけではない。家には身の回りのことをしてくれる人が残っていたし、食事にも生活にも困ることはなかった。
一週間もすれば、みんな帰ってくる。それだってちゃんと聞かされていたし、頭では分かっていた。
それでも———。
「……寂しかったの」
いざ言葉にしてみると、妙に気恥ずかしかった。
今の私が口にするにはあまりにも子供じみた感情に思えて、無意識に二人から視線を逸らす。けれど、かのんも冬毬もからかうようなことは言わなかった。ただ黙って、私が続きを話すのを待っている。
「夜になっても家族は帰ってこないし、家の中はいつもより静かで。分かってたのよ。一週間したら帰ってくるって。でも……子供だったから」
あの頃の私には、それだけのことがひどく心細かった。
普段なら何とも思わなかった大きな家が、あのときだけは嫌いだった。誰もいないわけではないのに、家族がいないだけでいつもよりずっと広く感じられて、夜になれば静けさばかりが際立っていく。
自分の部屋へ戻ってベッドに入っても、なかなか眠ることができなかった。普段なら意識することもない時計の針が進む音までやけに大きく聞こえて、その音を数えているうちに、余計に目が冴えてしまう。
そんな夜だった。
「そのとき、音が聞こえてきたの」
「音?」
「そう——ヴァイオリンの、綺麗な音色がね」
答えた瞬間、あの夜に聞いた音が、記憶の中から鮮明に浮かび上がってくる。
隣の家から聞こえてきたヴァイオリンの音だった。
静まり返った夜の中を、その旋律だけがまっすぐこちらへ伸びてくるように聞こえた。そして耳を澄ませていると、ヴァイオリンだけではないことに気づいた。その旋律に寄り添うように、誰かの歌声まで重なっていた。
気づけば私はベッドから抜け出し、音に引かれるまま窓辺まで走っていた。
カーテンを開けると、暗い夜の向こうに隣の家の明かりが見えた。その窓の向こうには、ヴァイオリンを構えた一人の少年が立っていた。
「不思議だった」
話しているうちに、当時の感覚まで少しずつ胸の奥へ戻ってくる。
「さっきまであんなに寂しかったのに……聴いてたら、なんだかどうでもよくなってきて」
そう言ってから、自分でも少し違うと思った。
もちろん、本当にどうでもよくなったわけではない。家族のいない夜が寂しいことにも変わりはなかった。
ただ、窓の向こうから流れてくる音を聴いているうちに、それまで冷たく感じていた部屋の空気が、ほんの少しだけ変わったような気がした。
静かな部屋へヴァイオリンと歌声だけが流れ込んでくる。その音を聴いている間だけは、時計の針の音も、広すぎると感じていた部屋も、それまでほど気にならなくなっていた。気づけば、胸の奥にあった寂しさも少しずつ和らいでいた。
「元気になれたの。音楽を聴いただけなのに」
口にしてみれば、本当にそれだけのことだった。
けれど、幼い私にとっては、それまで当たり前のように身近にあった音楽が、初めて別のものに感じられた瞬間だったのかもしれない。
そして、あの夜のことを思い返せば、音と一緒に必ず浮かんでくる姿がある。
隣の家の窓辺で、ヴァイオリンを弾いていた金色の髪の少年。
私とそれほど年齢が離れていたわけでもないはずなのに、ヴァイオリンを構えているときの彼は、なぜか普段よりずっと大人びて見えた。
弓を滑らせるたびに途切れることなく旋律が生まれ、弦を押さえる指先にも迷いがない。その音に自分の歌声まで重ねながら演奏する姿を、幼い私は窓越しにただじっと見つめていた。
音楽そのものに心を奪われていたのか。それとも、そんな音を奏でている彼に目を奪われていたのか。
今となっては、どちらだったのかなんて分からない。
ただ一つ覚えているのは———あの夜、窓の向こうでヴァイオリンを弾いていた彼のことを、子供ながらにどうしようもなく格好いいと思ったこと。
「…………」
そこまで思い出したところで、私は無意識に口元を引き結んだ。
——さすがに、これは二人には言わなくていい。ましてや、今さら本人に伝えるつもりなんて絶対にない。
「そのヴァイオリンを弾いてたのが……隣に住んでた幼馴染」
「幼馴染!」
さっきまで黙って話を聞いていたかのんの声が、突然大きくなった。あまりにも分かりやすい反応に、私は思わず眉をひそめる。
「何よ」
「いや、なんか急にすごく気になる話になったから」
「最初から同じ話でしょ」
私が呆れながら返しても、かのんの興味は薄れるどころか、むしろ強くなったらしい。少し身を乗り出すようにして、さらに質問を重ねてくる。
「その人も今、音楽やってるの?」
「……ええ」
ほんの少しだけ間を置いてから、私は頷いた。
「昔から、ずっと」
あの夜よりも前から、そしてあの夜よりもずっと後まで。私の記憶の中にいる彼は、いつだって音楽と一緒だった。
「どのような方なのですか、マルガレーテ」
かのんだけなら適当に話を切り上げることもできたのに、いつの間にか冬毬まで端末から顔を上げ、こちらへ視線を向けていた。
「どんなって……」
改めて聞かれると、答え方に困る。幼い頃から隣にいて、数え切れないほど同じ時間を過ごしてきた相手を、たった一言や二言で説明しろという方が無理な話だ。どんな性格なのか。どんなふうに音楽と向き合っているのか。昔と今で変わったところもあれば、呆れるほど変わっていないところもある。
頭の中にはいくつもの答えが浮かんできた。
けれど、その中で最初に口にすべき言葉だけは、考えるまでもなく決まっていた。
「——お節介」
「そこなの?」
間髪入れずに返すと、かのんが予想外の答えを聞いたように目を丸くした。
「頼んでもないのに勝手に心配するし、余計なことするし。昔からそう」
思い返してみれば、それを裏付ける出来事なんていくらでも出てくる。
こっちが聞いてもいないことに口を出してきたり、私が大丈夫だと言っているのに勝手に心配したり、自分には関係ないはずのことまでいつの間にか手を貸そうとしていたり。
昔から、何度「余計なお世話」だと思ったか分からない。
「でも、その人がきっかけなんだ」
「……きっかけ?」
かのんが何を言いたいのか分からず聞き返すと、彼女は少しだけ笑って続けた。
「マルガレーテちゃんが、音楽を好きになったきっかけ」
「…………」
その言葉には、すぐに返事をすることができなかった。
違う、と否定してしまうのは簡単だった。私が音楽を始めたのは彼と出会ったからではないし、音楽そのものなら、それよりもずっと前から身近にあった。
代々音楽に関わってきた家に生まれて、物心がつく前からたくさんの音に囲まれて育った。家族から受けた影響も大きいし、私より先を歩いていた姉の存在だって、今の私を形作っているものの一つだ。
だから、今の私につながっているものを、たった一つの出来事だけで説明することなんてできない。
それでも、かのんが聞いたのは、そんな話ではなかった。
初めて音楽を聴いて、心が動いた瞬間。ただ流れてきた音に耳を奪われ、それまであった寂しさを忘れるほど胸の奥が温かくなって、もっと聴いていたいと素直に思えた瞬間。
そんな記憶を一つだけ選べと言われたら、私の中に浮かぶものは、どうしたってあの夜しかなかった。
そして、その記憶の中には、いつだってあの幼馴染がいる。
「……まあ」
私は小さく息を吐き、二人から逃れるように空へ視線を向けた。ここまで話してしまった以上、今さら意地になって否定するのも違う気がする。
「そうなのかもね」
仕方なくそう認めると、かのんはなぜか少し嬉しそうに笑った。
——何よ、その顔。
そう言ってやろうかとも思ったけれど、これ以上この話を続ければ、また余計なことまで聞かれそうな気がしてやめた。
「さて」
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、膝に手をついて勢いよく立ち上がった。
「そろそろ再開しよっか」
「そうですね、澁谷先輩」
冬毬もそれに続き、ようやく端末から顔を上げて立ち上がる。私も残っていた水を一口飲んでからボトルの蓋を閉め、ベンチの上へ戻した。
「次は最初から通すわよ」
「うん」
三人でそれぞれの位置につき、立ち位置を確認する。私は一度大きく息を吸ってから、ゆっくりと吐き出した。
休憩は終わり。さっきまでの話も、これで終わり。
幼い頃のことも、あの夜に聞いたヴァイオリンの音も、窓の向こうにいた金色の髪の少年のことも、いったん頭の隅へ追いやる。
今は練習に集中すればいい。かのんも表情を切り替え、音源を再生するために端末へ手を伸ばした。
その指先が、画面に触れようとする。
あと少しで、また音楽が流れ始める———はずだった。
けれど、その直前。
音楽の止んだ公園に、私たち三人のものではない声が響いた。
「———
その声を耳にした瞬間、時間が止まったような気がした。隣でかのんが声のした方へ振り返る気配がする。冬毬も同じように入口へ視線を向けていた。
けれど、私だけはすぐに動くことができなかった。聞き間違えるはずがない。
幼い頃から何年も聞いてきた声なのだから、確かめるまでもなく誰なのか分かってしまった。
ましてや、ほんの少し前までその人の話をしていたばかりだ。幼い頃の記憶を辿って、あの夜に聞いたヴァイオリンの音も、窓の向こうにいた金色の髪の少年の姿も、ついさっきまで鮮明に思い浮かべていた。
だからこそ、余計に理解が追いつかなかった。
——どうして、ここにいるの。
ここはウィーンじゃない。日本で、それも私たちが練習に使っている公園だ。あの声の主がいるはずなんてない。
そう何度頭の中で否定しても、胸の奥では心臓がもう答えを知っているかのように強く脈打っていた。私はそれを確かめるように、ゆっくりと振り返った。
視線の先、少し離れた遊歩道に青年が一人立っていた。短く整えられた金色の髪が、傾き始めた陽の光を受けて淡く輝いている。ここまで急いできたのか、肩を上下させながら少し息を切らしている。
いったい、どれだけ私を探し回ったのだろう。そんな疑問が頭をよぎった直後、青年の視線がまっすぐ私を捉えた。
そして———それまでどこか焦りを滲ませていた表情が、目に見えて緩んだ。
「……やっと見つけた」
その言葉を聞いた瞬間、息の仕方を忘れたように胸が詰まった。ほんの少し前まで思い出していた、あの夜の光景がもう一度脳裏をよぎる。
静まり返った夜。カーテンを開けた窓の向こうで、ヴァイオリンを構えていた金色の髪の少年。
もちろん、目の前に立っている彼は、もうあの頃の子供ではない。
あの頃よりずっと背が伸び、幼さの残っていた顔立ちも変わっている。ヴァイオリンを抱えていた小さな少年の面影は残っていても、今はもう一人の青年と呼ぶ方がずっと自然だった。
それでも、分からないはずがない。どれだけ時間が経っても、どれだけ姿が変わっても。
私が、彼を見間違えるはずなんてなかった。
「———
ようやく口からこぼれた名前は、自分で思っていたよりも小さな声になった。
「湊……?」
横にいたかのんが、確かめるように同じ名前を繰り返す。その直後、何かに気づいたらしく「あっ」と声を上げた。
その反応を見た瞬間、嫌な予感がした。
「もしかして……さっきマルガレーテちゃんが話してた幼馴染?」
「え?」
今度は湊が驚いたようにこちらを見る。
「俺の話してたの?」
「してない」
考えるより先に即答していた。
「え、でも今———」
「してない!」
「していました」
間髪入れずに訂正したのは冬毬だった。よりによって、そこで余計なことを言わなくてもいいでしょう。
「冬毬!」
「事実です、マルガレーテ」
「あなたはどっちの味方なのよ!」
「どちらの味方でもありません」
表情一つ変えずに答える冬毬を睨んでいると、そのやり取りを眺めていた湊が小さく息を漏らした。
「——相変わらずだな」
笑いを含んだその声に、私はすぐさま視線を向ける。
「何よ」
「いや、別に」
何が別に、よ。そう言い返してやるつもりだったのに、開きかけた口からその先の言葉が出てくることはなかった。
改めて目の前の姿を見つめた途端、それまで驚きに追いつけていなかった実感が、少しずつ胸の内へ押し寄せてきたからだ。
——本当に、いる。ウィーンにいるはずだった幼馴染が、今こうして私の目の前に立っている。
ついさっきまで、私は昔のことを思い出していた。夜の静けさの中、窓の向こうから聞こえてきたヴァイオリンの音。その音に耳を傾けているうちに、あれほど寂しかった気持ちが少しずつ和らいでいった、幼い頃の記憶。
その音を奏でていた本人が、何の前触れもなく目の前に現れた。
——どうして、今ここにいるの。
そんな疑問ばかりが頭の中を巡る一方で、湊も何も言わずに私を見つめていた。
やがて、さっきまで浮かべていた笑みが少しだけ薄れる。からかうような様子もなければ、いつもの調子で何かを誤魔化そうとする様子もない。ただ真っ直ぐに私を見て、少しだけ懐かしむように目を細めた。
「久しぶり、マルガレーテ。一年ぶりだな」
「…………」
その言葉にも、すぐには答えられなかった。不意に思い浮かんだのは、ウィーンで最後に会った日のことだった。
夕暮れに染まった、いつもの街。何度も二人で歩いた見慣れた道で、私たちは特別な約束を交わすことも、大袈裟な別れの言葉を口にすることもなく別れた。また会えると思っていたから、次にいつ会うのかも、どこで会うのかも、わざわざ考えたりはしなかった。
ただ、あのときの私に一つだけ教えてやれるとしたら———。
次に彼と顔を合わせる場所が、日本の、それも自分たちの練習場所になるなんて、きっと想像すらしなかっただろう。
しばらくの間、言葉を探すように湊の顔を見つめる。
ようやく口から出てきたのは、再会を喜ぶ言葉でもなければ、久しぶりだと懐かしむ言葉でもなかった。
「……なんで、あなたが日本にいるのよ」