「……なんで、あなたが日本にいるのよ」
ようやく口から出てきたのは、そんな当たり前の疑問だった。
本当なら、他にも聞きたいことはいくらでもあるはずなのに、今はそれらを整理する余裕すらない。頭の中では、どうして湊がここにいるのかという疑問ばかりが、答えを見つけられないまま何度も繰り返されていた。
だって、そうでしょう。
ここはウィーンから遠く離れた日本で、私がいつも練習に使っている公園だ。一年前まで話していた幼馴染が、その彼の話を終えた途端に何の前触れもなく目の前へ現れるなんて、そんな出来すぎた偶然があるはずがない。
何より、湊は今もウィーンにいるものだとばかり思っていた。少なくとも、彼が日本へ来るなんて話を私は一度も聞いていないし、こちらへ来る予定があるとも知らされていなかった。
それなのに、当の本人には私と同じように混乱している様子など欠片もない。
ここまで私を探し回っていたのか、まだ少し乱れている呼吸を整えながら、ようやく目的のものを見つけたとでも言いたげな顔でこちらを見ている。そのあまりにも普段通りの様子を眺めていると、驚いている自分の方がおかしいような気さえしてきた。
もちろん、そんなわけがない。
おかしいのは、どう考えても湊の方だ。
そして、そんな私の疑問に対して、湊はあまりにもあっさりと答えた。
「お前に会いに来た」
「…………」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
聞こえなかったわけではない。一つひとつの言葉は理解できるのに、それを繋げた途端、どういう意味なのか分からなくなる。
「…………えっ!?」
私が聞き返すよりも先に、隣から素っ頓狂な声が上がった。
何をそんなに驚いているのかと横を見ると、かのんは目を大きく見開いたまま固まっていた。けれど、やがて湊の言葉を頭の中で反芻したらしく、その頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
「マ、マルガレーテちゃんに、会いに……?」
「そうだけど」
「……それって、どこから?」
「ウィーンから」
「ウィーンから!?」
かのんの声が思わず裏返る。
湊はそんな反応をされる理由が分からないらしく、不思議そうに首を傾げていた。
「うん」
「…………!」
とうとう耳まで真っ赤にしたかのんは、声にならない何かを飲み込むように両手で口元を覆い、私と湊の顔を何度も交互に見始めた。
……何、その反応。
どうやら湊の言葉を、私とはまったく別の意味で受け取っているらしい。何を想像しているのかまでは知らないけれど、その顔を見れば、どう考えてもろくなことではないのは分かる。
普段なら一言くらい文句を言ってやるところだけれど、今はかのんの勘違いに付き合っている場合ではなかった。
改めて湊へ向き直り、聞き間違いであってほしいとでも願うように問い返す。
「今、何て言ったの?」
「だから、お前に会いに来たって」
「それは聞こえてる!」
聞こえているからこそ、意味が分からないのだ。
私が日本にいるから、自分も日本へ来た。
湊の口ぶりだけを聞いていると、まるで近所の店にでも私を探しに来たような気軽さだった。けれど、私たちが今いるのはウィーンの隣町でもなければ、少し電車に乗れば着くような場所でもない。ここは日本で、ウィーンとの間には国境どころか大陸すら横たわっている。
それを「会いに来た」の一言だけで済ませるには、あまりにも距離がおかしい。
冬毬も同じ点が気になったらしい。さっきまで黙って成り行きを見守っていた彼女が、湊へ真っ直ぐ視線を向ける。
「確認ですが、マルガレーテに会うことを目的として来日された、という意味でしょうか」
かのんとは違い、そこに妙な勘違いは一切ない。ただ事実関係を正確に把握しようとする、いかにも冬毬らしい問いだった。
それに対して湊は、少し考える素振りすら見せなかった。
「うん。そうだけど」
「…………」
今度は、冬毬が黙った。
思わずそちらへ目を向けると、普段なら何を聞いても冷静に返す冬毬が、ほんのわずかに目を見開いたまま湊を見つめている。表情そのものはほとんど変わっていない。それなのに、いつまで経っても次の言葉が出てこない。
——あの冬毬が、絶句している。
どうやら、聞き方を変えれば納得できるような話ではなかったらしい。かのんは、未だに頬を赤くしたまま私たちを見ている。冬毬は、珍しく返す言葉を失っている。
そして湊だけが、そんな二人の反応を不思議そうに眺めながら、どうしてそこまで驚かれているのか本気で分かっていないような顔をしていた。
——頭が痛くなってきた。
「ちょっと待って。意味が分からない」
「何が?」
「全部よ!」
本気で分かっていないらしい湊の顔を見ていると、呆れを通り越して頭を抱えたくなってくる。やっぱり、昔から何も変わっていない。
自分の中で話が成立してしまうと、その過程をろくに説明もしないまま、相手にも当然伝わっていると思い込む。そういうところまで、私の知っている湊のままだった。
「ま、待って、マルガレーテちゃん!」
いい加減どういうことなのか説明させようと一歩詰め寄ったところで、かのんが慌てた様子で間に入った。
「何よ」
「あの、その前に……」
さっきまでよりは落ち着いたものの、まだ少し頬に赤みを残したまま、かのんはどこか困ったように湊へ視線を向ける。
「私たち、この人の名前くらいしか知らないから……」
そう言われて、ようやく私もそのことに気づいた。
私にとっては、今さら説明する必要なんてない相手だった。幼い頃から隣にいて、何年も一緒に過ごしてきたのだから、知っているどころか、知りすぎていると言ってもいい。
けれど、かのんと冬毬にとっては違う。二人からしてみれば、突然この公園に現れたかと思えば、私に会うためだけにウィーンから日本まで来たと言い出した、名前以外ほとんど何も分からない男でしかない。
「……そうね」
確かに、このまま問い詰めるわけにもいかない。不本意ではあるけれど、私は一度湊から離れて話の続きを譲ることにした。
湊も私たちのやり取りを眺めているうちに、ようやく自分がまだまともに名乗ってすらいなかったことに気づいたらしい。二人へ向き直ると、それまでより少しだけ姿勢を正した。
「神谷湊です。さっきも言ったけど生まれも育ちもウィーンで、歳はマルガレーテの二つ上。今は高校三年」
そこまで言ってから、湊は一度私へ視線を向けた。
「マルガレーテとは……まあ、昔からの幼馴染」
「何よ、その『まあ』は」
「いや、間違ってないだろ」
「だったら普通に言いなさいよ」
「そこ気にする?」
「気になるから言ってるの」
思わず口を挟むと、湊はどうしてそこに引っかかるのか分からないとでも言いたげに、困ったような笑みを浮かべた。
その表情まで昔とほとんど変わっていなくて、なんだか妙に腹が立つ。
「ウィーン出身なんですね」
かのんは先ほどまでとは違う意味で驚いたらしく、改めて湊の姿をまじまじと見る。
「でも、神谷さんって……日本人、ですよね?」
「うん。両親とも日本人。俺がウィーンで生まれただけ」
「そうなんだ……」
そこでようやく納得したらしく、かのんは小さく頷いてから自分の番だとばかりに姿勢を正した。
「私は澁谷かのんです。神谷さんと同じ、高校三年生です」
私たちのやり取りが一段落したところで、かのんも改めて名乗りながら軽く頭を下げた。それに続いて、冬毬もいつも通りの落ち着いた調子で口を開く。
「鬼塚冬毬、一年生です。よろしくお願いいたします」
「よろしく」
二人の紹介に対し彼もまた軽く会釈を返す。ひとまず最低限の自己紹介は済んだ。これで、少なくとも二人にとって湊が「名前しか分からない男」ではなくなった。
だったら、もういい。
今度こそ———私の番だ。
「それで?」
「何が?」
湊が本当に分かっていないような顔で首を傾げるのを見て、私は大きく息を吸った。怒鳴るな。まだ怒鳴るところじゃない。
そう自分に言い聞かせながら、胸の奥に溜まり始めていた苛立ちをどうにか押さえ込み、できるだけゆっくりと尋ねる。
「あなた、音楽学校はどうしたの?」
「…………」
ほんの一瞬だけ、湊が黙った。
他の二人なら気にも留めなかったかもしれない。本当にわずかな間だったけれど、幼い頃から何年も一緒に過ごしてきた私には、それだけで十分だった。
何かある。
「……何よ」
「いや」
「何?」
「行かないよ」
あまりにも平然と返されて、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……どこに?」
「音楽学校」
今度は、私が言葉を失った。聞き間違えたのだと思いたかった。だって、そんなはずがない。
湊には、進むはずだった道があった。
幼い頃からずっと音楽を続け、誰に言われるでもなく努力を重ねてきた彼にとって、その先へ進むことは決して突然決まったものではない。それまで積み重ねてきた時間の先に、当然のようにつながっている未来なのだと、少なくとも私はそう思っていた。
それを、まるで今日の予定でも変えたかのように「行かない」の一言で済ませる意味が分からない。
そんな私の混乱をよそに、湊は少し言いづらそうに視線を逸らしてから、さらりと続けた。
「推薦、断ったから」
その一言を聞いても、すぐには意味を理解できなかった。
いや、言葉そのものは分かる。ただ、それを湊が口にしたという事実を、頭が受け入れることを拒んでいた。
「推薦、断ったから」
「……断った?」
「うん」
「……あの推薦を?」
「うん」
その返事を聞いた瞬間、頭の中で何かが切り替わった。
驚きが消えたわけではない。どうしてそんなことをしたのか、何を考えてそんな決断をしたのか、聞きたいことはいくらでもある。
けれど、それ以上に強い感情が胸の奥から一気に込み上げてきて、今までどうにか押さえていたものをあっさりと吹き飛ばした。
「何考えてるのよ!」
抑える間もなく張り上げた声が、静かな公園に大きく響いた。
すぐそばにいたかのんが驚いて肩を揺らし、冬毬もわずかに目を見開いてこちらを見る。それでも、一度溢れ出した言葉を止めることなんてできなかった。
「あなた、ずっと音楽やってきたでしょ! それを、推薦を断ったって……何でそんな簡単に言えるのよ!」
「音楽はやってるよ。今も」
「そういう話じゃない!」
そんなことは分かっている。
湊が音楽そのものを辞めたわけでも、ヴァイオリンを捨てたわけでもない。日本へ来たからといって、これまで積み重ねてきたものがすべてなくなるわけではないことくらい、私だって理解している。
でも、それとこれとはまったく別の話だ。
あの推薦が、望めば誰にでも与えられるようなものではないことを私は知っている。
——いいえ。
知っているなんて、そんな軽い言葉では足りない。私が、どれほどそれを欲しかったと思っているの。
ウィーンの音楽学校に進むことは、ずっと私が目指してきたものだった。姉が先に進んだその場所へ、自分もいつか辿り着くのだと信じていた。
そのために歌って、努力して、結果を求め続けてきた。それでも、私には推薦が下りなかった。
——欲しかった。
喉から手が出るほど欲しかったし、誰かに認められて、そこへ進んでいいのだと示してもらえるその資格を、私はどうしても手に入れたかった。けれど、どれだけ願っても私には与えられなかった。
だからこそ、私は今、日本にいる。
ラブライブ!で優勝する。学校から示されたその条件を満たして、今度こそ自分の力であの場所へ辿り着くために、私はここでスクールアイドルを続けている。
それほどまでに私が欲しくて、今も必死になって手を伸ばし続けているものを、湊はすでに手にしていた。もちろん、それを妬んだことがないと言えば嘘になる。
どうして私は駄目だったのに、湊には与えられたのか。そんなことを考えたことだって、一度や二度ではなかったし、推薦が決まったと聞いたときには、素直に喜ぶより先に悔しさが込み上げたことだって覚えている。
それでも、その悔しさを理由に湊の推薦まで否定したいと思ったことはなかった。湊が何の苦労もなくそこまで辿り着いたわけではないことを、ずっと隣にいた私は誰よりよく知っているから。
幼い頃から何度も楽器を手に取り、同じ曲を飽きるほど繰り返して、思うような音が出なければ納得できるまでやめようとしなかった。私が歌っているすぐ隣で、湊もまた、自分の音を追いかけるようにずっと音楽と向き合い続けてきた。
確かに、湊には才能がある。
私だって、それを否定するつもりはない。けれど、ただ「才能があったから」の一言だけで片づけてしまえるほど、湊が積み重ねてきた時間は軽いものではなかった。
それを知っていたからこそ、推薦が決まったことが悔しくても、同時に思ったのだ。
——湊なら、当然だと。
私がどれだけ望んでも手に入れられなかったものを、湊はそれだけの時間を積み重ねて、自分の力で掴み取ったのだから。だから私は、その先へ進んでいく湊を疑ったことなんてなかった。
私は日本で自分の条件を果たし、湊はウィーンでそのまま音楽の道を進んでいく。進み方は違っても、いつか同じ場所に辿り着くのだと、どこかで当たり前のように思っていた。
それなのに———。
私が今も必死になって手を伸ばしている、その場所へまっすぐ続いていたはずの道を、この人は自分から手放した。
しかも、その理由が他でもない私だという。私に会うために日本へ来ると決めたから、推薦を断った。
そんな馬鹿みたいな理由を、湊は「俺にはなる」とでも言うような顔で、何の迷いもなく肯定する。私がどれだけ欲しかったのかも、どれだけあの場所へ行きたいと思っているのかも、湊は知っているはずなのに。
それなのに、どうして———。
——どうして、そんな簡単に手放せるのよ。
「——馬鹿じゃないの」
「何でそうなるんだよ」
「なるに決まってるでしょ!」
なおも何がおかしいのか分からないような顔をしている湊に言い返したところで、ふと、さっきまで隣で騒いでいたかのんが何も言わなくなっていることに気づいた。
横目で様子を窺うと、ついさっきまで私と湊を交互に見ながら真っ赤になっていた頬からは、もうすっかり赤みが引いている。今のかのんが湊へ向けているのは、戸惑いを含んだ真剣な眼差しだった。どうやら、ようやく分かったらしい。
湊の「お前に会いに来た」という言葉は、かのんが最初に想像したような甘い意味で口にされたものではない。少なくとも、本人はそんなつもりで言ったわけではないのだろう。
それよりも問題なのは、その言葉を文字通り実行するために、湊が自分の進むはずだった道まで変えてしまったことだった。
「どうしてそこまでするのよ……」
問い詰めると、湊はわずかに眉を寄せた。
その表情は、答えに困っているというよりも、どうしてそんなことを聞かれるのか分からないとでも言いたげだった。
「お前が日本にいるから」
「それは理由になってない!」
「俺にはなるけど」
「…………」
その返事に、今度は私が言葉を詰まらせた。
理解できなかったからではない。むしろ、その逆だった。
湊がどうしてそんなことを言うのか、その理由が分かってしまったからこそ、すぐに言い返すことができなかった。
———分かってる。
そんなことは、今さら言われなくたって昔から知っている。湊は、そういう人間だ。
私が困っていれば、頼んでもいないのに手を貸そうとするし、大丈夫だと言っても勝手に心配する。放っておけばいいようなことにまで首を突っ込んできて、それで私が余計なお世話だと文句を言えば、決まって困ったように笑う。
幼い頃から、ずっとそうだった。
そして、そんな湊にとって私が大切な存在であることだって、今さら疑うようなことではない。
わざわざ言葉にして確かめたことなんてないし、そんな必要があるとも思っていなかった。それでも、幼い頃から何年も隣にいて、互いのことを見てきたのだから、それくらいはとっくに分かっている。
「……分かってるわよ」
「え?」
「あなたがそういう人だってことくらい、昔から知ってる」
思ってもいなかった返事だったのか、湊がほんの少しだけ目を見開いた。けれど、私が言いたいのはそこではない。
遠く離れたウィーンにいても私のことを気にかけて、心配してくれていたこと。そのうえ、離れているだけでは足りないとでもいうように、実際に日本まで会いに来てくれたこと。
そのこと自体が嫌なわけではない。むしろ、素直に嬉しかった。
日本まで私に会いに来たと聞いたときだって、あまりにも突拍子がなさすぎて、驚きと呆れの方が先に立ってしまっただけだ。
一年ぶりに湊の顔を見られたことも、こうしてまた昔と変わらず私のことを気にかけてくれていることも、本当は嬉しくないはずがなかった。
……本人を目の前にして、そんなことを素直に口にしてやるつもりはないけれど。
それに、きっと私だって同じだ。
もし立場が逆で、湊が遠く離れた場所で本当に困っていると知ったなら、何もせずに放っておくことなんてできない。できることがあるのなら手を貸したいと思うだろうし、そばにいた方がいいのなら、きっとそうしたいと思う。
だから、私を心配するなとも、私のために何もするなとも言いたいわけではない。
でも———だからこそ、これは違う。
大切な人を心配して、その人のために何かをしたいと思うことと、そのために自分が積み重ねてきたものや、これから先の人生まで変えてしまうことは、決して同じではない。私は、湊にそこまでしてほしいなんて一度も言っていない。
何より———私を大切にしてくれるのなら、そのために湊自身の大切なものまで手放してほしくなんてなかった。
私のためなら何もかも捨てていいなんて、そんなふうに思ってほしいわけじゃない。
「だからって、自分の将来まで私を基準に決めないでって言ってるの!」
ずっと胸の奥に溜まっていたものを、そのまま湊へ叩きつけるように言い放った。私が言いたいことなんて、それだけだった。
私を大切にしてくれるのなら、それと同じくらい、自分自身のことだって大切にしてほしい。どうして、そんな当たり前のことがこの人には分からないのだろう。
「別に、疎かにしたつもりはないよ」
それまで私の言葉を黙って聞いていた湊が、静かな声でそう返した。
言い訳をするような口調ではなかった。本当に、自分の人生を投げ出したつもりなんてないのだろう。
「推薦を断ったのも、日本に来たのも、俺が決めたことだから」
「だからって……」
「マルガレーテが気にすることじゃない」
「私のために来たって言っておいて、気にするなって何よ!」
「……確かに」
「そこで納得するな!」
ほとんど間を置かずに言い返すと、湊はそこでようやく自分の言っていることの矛盾に気づいたらしい。ほんの少しだけ気まずそうに視線を逸らし、それ以上反論してこなかった。
……まったく。
昔から、こういうところは何ひとつ変わっていない。
こっちは本気で怒っているというのに、時々こうして妙に素直に納得するものだから、それ以上どう怒ればいいのか分からなくなる。
真剣に話していたはずなのに、いつの間にかこちらばかり調子を狂わされて、さっきまであれほど腹が立っていたはずなのに、今は怒っているのか呆れているのか、自分でもよく分からない。
それでも、目の前で少し気まずそうにしている湊の姿を見ていると、こんなやり取りまで一年ぶりなのだということを、嫌でも思い出してしまう。
離れていた時間なんてなかったみたいに、昔と同じように腹を立てて、昔と同じように調子を狂わされる。
……本当に、変わらない。
「湊さん」
そこへ、静かな声が割って入った。
声の方を見ると、かのんが真剣な表情で湊を見つめていた。先ほどまで頬を赤くして慌てていた面影はもうなく、今はただ、目の前にいる彼がどんな気持ちでここまで来たのかを確かめようとしているように見える。
「ちゃんと考えて決めたことなんですよね?」
「うん」
湊も、その問いには茶化すことなく短く頷いた。
「後悔、していませんか?」
「…………」
今度は、ほんの少しだけ間があった。
それまで何を聞かれても迷うことなく答えていた湊が、すぐに言葉を返さなかったことが、かえって私には意外だった。
何も考えずに口にできるような問いではないということくらい、湊自身も分かっているのだろう。
やがて、何かを確かめ終えたように顔を上げる。
「……していないよ」
今度の答えには、迷いがなかった。
大きな声でもなければ、何かを誇示するような言い方でもない。それでも、その一言が簡単に覆るものではないことだけは、長い付き合いの私にはよく分かった。
だから、私は何も言わなかった。
腹は立つし、納得だってしていない。できることなら今すぐウィーンへ送り返して、もう一度ちゃんと自分の進路を考え直せと言ってやりたいくらいだった。
それでも、湊が何も考えず、ただ勢いだけでこんなことをしたわけではないことくらいは分かっている。昔から、妙なところで頑固なのだ。
普段は適当なことを言ってこちらを苛立たせるくせに、一度自分で考えて決めたことだけは、誰に何を言われても簡単には曲げようとしない。そういうところも、私は昔からよく知っている。
……もっとも、人のことを言えた義理ではないけれど。
それからしばらく、誰も口を開かなかった。
さっきまで私たちの声が飛び交っていた公園には、急に取り残されたような静けさが戻っている。風に揺れた木々の葉が擦れ合う音や、少し離れた場所を通り過ぎていく人の足音が、妙にはっきりと耳に届いた。
やがて、その空気に耐えかねたのか、それとも単に話が終わったと思ったのか、湊がふと私たちから視線を外し、辺りを見回した。
「……ところで」
不意に口を開いた湊の声は、さっきまで推薦のことであれだけ言い合っていたとは思えないほど、すっかりいつもの調子に戻っていた。
「何よ」
「何してたの?」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。本気で聞いているのだろうかと思いながら、その視線を追うように私も辺りを見回す。
私たちは三人とも練習着姿で、少し離れたところには音源を流すためのスピーカーが置かれ、その隣には冬毬が映像の確認に使っていた端末もある。飲みかけのボトルやタオルだってそのままだし、何より湊が現れる直前まで、私たちはここで実際に歌って踊っていたのだ。
これだけ分かりやすい状況が揃っていて、何をしていたのかと聞かれても困る。
「見れば分かるでしょ。練習よ」
「それは分かるけど、何の練習?」
「ライブ」
「ああ、スクールアイドルの?」
意外にも、そこはすぐに話が通じた。
てっきり、そこから説明しなければならないのかと思っていた私は、わずかに眉を上げる。
「知ってるの?」
「そりゃ知ってるよ。お前が日本で何してるのかくらいは」
「…………」
あまりにも何でもないことのように言われて、少しだけ返事に困った。
そういえば、湊が私を追って日本まで来たという事実ばかりに気を取られていたけれど、何も知らないまま闇雲に私を探しに来たわけではないのだ。
私が日本へ来てから何をしていたのか。どうして今もここにいるのか。そのくらいは事前に調べてきたのだろう。
……まあ、私に会うためだけに進路まで変えてしまうような人なのだから、考えてみれば当然なのかもしれない。
「ラブライブ!で優勝するんだろ?」
「……ええ」
「それが、ウィーンの学校に行くための条件」
「そこまで知ってるのね」
少し驚きながら答えると、湊は何を今さらと言いたげな顔をした。
「だから、お前に会いに日本まで来たんだけど」
「それとこれとは別の話でしょ」
またそこへ話を戻されそうになって、すぐに切り上げる。
せっかく少し落ち着いてきたところなのに、これ以上推薦の話を蒸し返したら、また腹が立ってくるに決まっている。
ただ、スクールアイドルについて知っているといっても、どうやら詳しいわけではないらしい。
湊はスピーカーや端末へ視線を向けたかと思えば、今度は私たちが練習に使っていた辺りへ目をやっている。何か珍しいものでも見るようなその様子からして、知っているのはあくまで私に関係する範囲だけなのだろう。
「実際に見るのは初めてですか?」
その様子に気づいたのか、かのんが尋ねる。
「ちゃんと見るのは初めてかな。映像なら少し見たことあるけど」
「そうなんですね」
「マルガレーテがやってるのは知ってたけど、どういう練習してるのかまでは知らなかったし」
なるほど、と心の中で納得する。
私が日本でスクールアイドルをしていることも、その理由も知っている。ラブライブ!で優勝することが私にとって何を意味するのかまで把握しているくせに、スクールアイドルそのものについては、それほど詳しく調べていないらしい。
その偏り方が、あまりにも湊らしかった。昔からそうなのだ。
興味を持ったものについては驚くほど細かいところまで覚えているくせに、そうでないものには呆れるほど無頓着。その基準がどこにあるのか、昔はよく分からなかった。
けれど、今なら嫌でも分かる。
おそらく湊にとって重要なのは、スクールアイドルというもの自体ではない。
——私がそれをやっている。
ただ、それだけなのだろう。そこまで考えてしまってから、なんとなく居心地が悪くなって、私は湊から視線を逸らした。
「じゃあ、せっかくだし見ていきませんか?」
「え?」
不意にかのんからそんな提案が飛び出し、私は思わずそちらを見る。
かのんはもう、先ほどのように湊を警戒している様子も、妙な勘違いをして頬を赤くしている様子もなかった。短いやり取りの中で、少なくとも湊がどういう人間なのか、彼女なりに少しは掴めてきたらしい。
「私たちの練習です。神谷さん、ちゃんと見るのは初めてなんですよね?」
「まあ、そうだけど」
「ちょっと、かのん」
思わず名前を呼ぶと、かのんがきょとんとした顔でこちらを向いた。
「何?」
「別に見せる必要ないでしょ」
「でも、マルガレーテちゃんの幼馴染なんだよね?」
「それとこれとは別よ」
幼馴染だからといって、私たちの練習をわざわざ見せる理由にはならない。
それに、昔から私の歌を聞かれること自体は珍しくなかったとはいえ、今やっているのはスクールアイドルとしての練習だ。歌うだけではなく、振り付けも含めて三人で合わせている途中のものを、わざわざ目の前で見せるとなると少し話が違う。別に、恥ずかしいわけではない。
……ただ、何となく落ち着かないだけだ。
そう言い返したところで、それまで私とかのんのやり取りを黙って聞いていた湊が、あっさりと口を挟んだ。
「俺は見たいけど」
そこに迷う時間なんて欠片もなかった。
あまりにも即答だったので、私は何も言わずに湊を睨みつける。けれど当の本人は、どうしてそんな目を向けられているのか分からないらしく、わずかに首を傾げた。
「何?」
「……別に」
小さく息を吐いて、それ以上言うのを諦めた。
どうせ帰れと言ったところで、素直に帰るような人ではない。まして、一度「見たい」と口にした以上、私が何を言ったところで簡単には引き下がらないだろう。
そういうところまで、昔から嫌というほど知っている。
「……勝手にすれば」
結局、私の口から出てきたのはそんな言葉だった。
すると湊は、それを許可だと受け取ったらしい。ほんの少しだけ目元を緩め、どこか満足そうに笑った。
その表情を見た瞬間、ふと胸の奥に妙な感覚が広がった。一年前までなら、こんなやり取りは珍しくも何ともなかった。
私が文句を言って、湊が気にせず自分の意見を口にして、最後には私が折れる。何度繰り返したか分からないくらい、ありふれたやり取りだった。
それなのに今は、そんな当たり前だったものが、少しだけ懐かしく感じられる。日本にいるはずのない人が目の前に現れて、推薦を断っただの、私に会うために来ただの、訳の分からないことばかり聞かされて。まだ納得していないことも、聞きたいことも山ほど残っている。
それでも、こうして話していると———一年も離れていたことの方が、嘘だったように思えてくる。
……本当に、昔から変わらない。
* * *
音楽が流れ始めると同時に、私は意識を切り替えた。
いつも通りに歌って、いつも通りに踊ればいい。
さっきまで何度も繰り返していた練習と、やることは何ひとつ変わらない。湊が一人増えたところで、私たちが合わせるべき歌も、振り付けも変わるわけではないのだから、わざわざ意識するようなことではない。
そう思っていた。
なのに、曲が始まってしばらくもしないうちに、自分の意識が普段とは違うところへ向いていることに気づいてしまった。
——気になる。
視界の端に、湊の姿がある。練習の邪魔にならないよう少し離れた場所に立ち、何も言わずこちらを見ている。ただそれだけのことなのに、身体を動かしている最中でも、そこに湊がいるという事実だけが妙にはっきりと意識に残っていた。
別に、湊にどう思われようと関係ない。私が歌うところなんて、昔から何度も見られてきた。家族以外で私の歌を一番多く聴いてきたのは、もしかしたら湊かもしれない。
それは私だって同じだ。ヴァイオリンを弾く湊の姿なら、幼い頃から何度となく見ている。お互いの演奏を聴くことなんて、ウィーンにいた頃は特別なことですらなかった。だから今さら、見られていることを気にする理由なんてない。
本当に、今さらなのだ。
それなのに———スクールアイドルとしての私は、湊の知らない私だった。
かのんや冬毬と一緒に歌って、同じ振り付けで身体を動かして、一人ではなく三人で一つのステージを作ろうとしている。そんな姿を湊の前で見せるのは、これが初めてだった。
たったそれだけの違いのはずなのに、いつもなら意識する必要すらない動きの一つひとつが、今日は妙に気になってしまう。
しかも、湊はずっとこちらを見ていた。からかうような笑みを浮かべているわけでもなければ、初めて見るスクールアイドルの練習に退屈している様子もない。
ただ、真剣な顔で私たちの歌と動きを追っている。その表情を、私はよく知っていた。
昔から、湊は音楽を聴くときだけ少し雰囲気が変わる。
普段の適当なところが嘘のように静かになって、聞こえてくる音の一つひとつを拾い上げるように耳を傾ける。演奏している人の指先や呼吸まで見ているのではないかと思うほど集中して、曲が終わるまでは滅多なことでは口を開かない。
今も、まさにその顔をしていた。だからこそ、余計に気になる。
ただ幼馴染に見られているだけなら、ここまで意識しなかったかもしれない。けれど、音楽に向き合っているときの湊が、どれだけ真剣に聴いているのかを私は知っている。何となく眺めているのではなく、私たちが出しているものをきちんと受け取ろうとしていることが分かってしまう。
そう思った途端、無意識にいつもより大きく身体を動かしていた。
振り付けを間違えたわけではない。歌だって外していない。それでも、普段ならもっと自然にできているはずの動きが、今日はどこか自分の身体ではないように感じられた。
「マルガレーテちゃん」
やがて音楽が止まり、かのんの声に呼ばれて我に返った。
「何?」
何でもない顔で振り返ったつもりだったけれど、かのんは少しだけ首を傾げながら私を見ている。
「ちょっと力入ってない?」
「入ってない」
考えるより先に即答した。
かのんは私の返事を聞いても納得していないらしく、少し困ったように笑いながら、自分の肩を動かしてみせる。
「でも、さっきよりちょっと動きが固いような……」
「気のせいよ」
「通常時と比較すると、肩に力が入っています」
まさか冬毬まで同じことを言い出すとは思わず、思わずそちらを睨む。
けれど冬毬は、いつものように淡々とこちらを見返しているだけだった。からかっているわけではなく、本当に練習中の変化として指摘しているのだろう。それが余計に腹立たしい。
「入ってないって言ってるでしょ!」
「そうですか」
「そうよ」
二人して、どうしてそんなところばかり見ているのよ。自分でも少しだけ心当たりがあるせいで、それ以上強く否定することもできず、私は気持ちを落ち着けるように小さく息を吐いた。
いつも通りにやればいいだけなのだ。湊が見ているからって、何かを変える必要なんてない。そもそも、あいつに良く見せようとしているわけでも———。
そこまで考えたところで、無意識に視線が動いた。つい、湊の方を見てしまう。そして、目が合った。
「…………」
どうやら最初からこちらを見ていたらしい。
私と目が合った瞬間、湊の真剣だった表情がわずかに崩れ、口元に小さな笑みが浮かんだ。その笑顔が何を意味しているのかは分からない。
私が妙に力んでいることに気づいて笑ったのか。それとも、ただ目が合ったから笑っただけなのか。
どちらにしても———。
……何笑ってるのよ。
無性に腹が立った。
さっきまで感じていた落ち着かなさまで、その笑顔ひとつで全部悔しさに変わっていく。次は絶対に何も言わせない。
そう心の中で決めると、私はさっきよりも意識して肩の力を抜き、もう一度自分の位置についた。かのんと冬毬が何か言いたそうにこちらを見ている気配がしたけれど、今度はそちらも気にしない。
湊が見ていようが、誰が見ていようが関係ない。次こそ、いつも通りにやってみせる。
* * *
「……今日はここまでにしよっか」
何度か最初から最後まで通したところで、かのんがそう言った。
私も冬毬も異論はなかった。何度も歌って踊った身体には心地よい疲労が残っていて、呼吸もまだ少しだけ弾んでいる。ただ、今日は普段より余計に疲れたような気がした。
練習そのものが特別きつかったわけではない。むしろ、いつもとほとんど変わらない内容だったはずなのに、途中から余計なことばかり意識してしまったせいで、身体よりも別のところが疲れている。
……誰のせいとは言わないけれど。
「神谷さん」
練習を終えたかのんが、少し離れたところで見ていた湊の方へ歩いていく。
「どうでした?」
「え?」
「初スクールアイドル」
「ああ」
そう言われて、湊はすぐには答えなかった。
何かを思い返すように少しだけ目を細め、さっきまでの私たちの練習を頭の中で振り返っているらしい。
……何よ。
そんなに考える必要ある?
別に私が聞かれているわけでもないのに、なぜか答えを待っている自分に気づいて、少しだけ居心地が悪くなる。
「……すごかった」
「ほんとですか?」
「うん。ちゃんと見るの初めてだったけど、歌いながらあれだけ動くんだな」
素直な感想だった。
かのんは嬉しそうに笑い、冬毬もその言葉を好意的に受け取ったのか、ほんの少しだけ満足そうに頷いている。
それで終わり。
初めてスクールアイドルの練習を見た人間の感想としては、それで何もおかしくないはずだった。 なのに、私はなぜか、その答えだけでは物足りなかった。
「……それだけ?」
口から出た直後、自分自身が一番驚いた。
……何を聞いてるの、私は。
別に湊から感想をもらうために練習していたわけではない。どう思われようと関係ないし、見られていることだって気にする必要なんてない。さっき、自分でそう思っていたばかりだ。
それなのに、あれだけ真剣な顔でこちらを見ていた湊が口にした感想が「すごかった」の一言だけだと、どうにも納得できなかった。
何が良かったのか。何か気になったところはなかったのか。
昔から音楽をやってきた湊なら、もっと何か———。
「それだけって?」
「……何でもない」
これ以上聞けば、まるで私が感想を期待していたみたいじゃない。それが妙に恥ずかしくなって、私は話を切り上げようとした。
「マルガレーテは———」
「何よ」
名前を呼ばれ、反射的に湊を見る。
目が合うと、湊はほんの少しだけ目元を緩めた。それは、さっき練習中に目が合ったときとも違う、どこか懐かしい笑い方だった。
「楽しそうだった」
「…………」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。いや、意味は分かる。
ただ、私が勝手に予想していた答えとは、まるで違っていた。歌がどうだったとか、ダンスがどうだったとか、そんな話ではない。
音程も、動きも、三人の完成度も関係ない。上手かったとも、まだ足りないとも言わなかった。
ただ———楽しそうだった、と。
それだけだった。
「……別に」
どう返せばいいのか分からなくなって、私は湊から視線を逸らした。
「普通よ」
「そっか」
湊はそれ以上、何も言わなかった。からかうこともなければ、どういう意味だったのか説明しようともしない。ただ、私の返事をそのまま受け取ったように、小さく頷いただけだった。
なのに、その「そっか」が妙に耳に残った。湊は昔から私を知っている。
私がどんなふうに歌ってきたのかも、どんな顔で音楽に向き合ってきたのかも、近くでずっと見てきた。
上手くできれば嬉しかったことも、思うようにいかなくて苛立ったことも、姉に追いつきたくて必死になっていたことも。
きっと、私自身が思っている以上に。
だからこそ、あれだけ真剣に見たあとで湊が最初に私へ言った言葉が、「上手かった」ではなく「楽しそうだった」ことが、妙に引っかかった。
今の私がどんな顔で歌っていたのか。自分では、そんなことを考えたこともなかった。何か、自分でも気づいていなかったものを見抜かれたような気がして、どうにも落ち着かない。私は誤魔化すように視線を巡らせてから、もう一度だけ湊を見る。
本当に、そこにいる。
今日ここへ来るまでは、ウィーンにいるものだと疑いもしなかった幼馴染が、今はほんの数メートル先に立って、さっきまで私たちの練習を見ていた。こうして目の前にいるのだから、いい加減現実だと認めるしかない。それでも、ふとした瞬間にどうしてここにいるのか分からなくなる。
音楽学校からの推薦を断って、それでも自分の意思を曲げずに日本まで来た。
理由を聞けば、たった一言。
私に会うため。
呆れるほど単純で、馬鹿みたいで、どう考えても納得なんてできない。
それなのに、その理由が湊の口から出たものだと思えば、どこかで納得してしまう自分もいた。
昔から、本当に昔から、湊はそういう人だった。
頼んでもいないのに心配して、勝手に手を貸して、私のためなら自分のことまで後回しにしようとする。そのたびに私が怒っても、結局また同じことを繰り返す。
分かっている。そんなことは、誰よりも分かっているはずなのに。
それでも———ウィーンにいるはずだった彼が、こうして当たり前のように私のすぐ近くに立っているという事実にだけは、まだ全然慣れそうになかった。