使っていたスピーカーや端末を片づけ、飲み終えたボトルやタオルもそれぞれの鞄へしまっていく。ついさっきまで歌声と音楽が響いていた公園には、少しずついつもの静けさが戻り始めていた。
空を見上げれば、練習を始めた頃よりも陽はずいぶん傾いている。
結局、今日は予定していた練習だけで終わるはずだったのに、途中から予定外のことばかり起きた。
それも、原因はほとんど一人しかいない。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか」
荷物をまとめ終えたかのんがそう言って、私も自分の鞄を手に取りながら頷いた。
「そうね。明日も練習するんだから、今日はもう帰りましょう」
「うん。さすがに私も今日は疲れたかも」
「あれだけ何度も通したんだから当然でしょ」
私が呆れながら返すと、かのんは「だよね」と苦笑しながら肩を回した。
冬毬も特に口を挟むことなく、練習中に映像の確認へ使っていた端末をしまい、自分の荷物を手に取っている。
その姿を横目に見ながら、私も帰り支度を済ませようとして———少し離れたところに置かれていた黒いヴァイオリンケースが目に入った。
見間違えるはずもない。ウィーンにいた頃から何度となく目にしてきたもので、その持ち主も当然のようにまだそこにいる。
「…………」
湊はベンチの近くに立ったまま、私たちが片づけを終えるのを待っていた。
途中で帰る様子もなければ、急かしてくることもない。練習が終わったのなら次は一緒に帰るものだとでも思っているのか、本人はそこに残っていることを何ひとつ不思議に感じていないらしい。
その姿を見ていると、改めて妙な気分になる。
今日ここへ来たときには、こんなことになるなんて考えてもいなかった。
いつも通り練習して、終わったらそのまま帰る。それだけの一日になるはずだったのに、今はそこに、一年前までウィーンで当たり前のように隣にいた幼馴染が立っている。
しかも、旅行でたまたま日本へ来たわけではない。
音楽学校からの推薦を断って、私に会うために日本へ来た。
その事実だけは、嫌というほど分かった。
けれど、あまりにも大きな話を立て続けに聞かされたせいで、その先のことまで考える余裕なんてなかった。
湊が日本へ来た。
なら、これからこの人はどうするつもりなのだろう。
そんな当たり前の疑問がようやく頭に浮かんできたところで、湊と目が合った。
「…………」
「…………」
少しの間、どちらも何も言わない。
やがて湊は、私たちの片づけが終わったことに気づくと、傍らに置いていたヴァイオリンケースを持ち上げた。
「もう帰る?」
「見れば分かるでしょ」
「じゃあ行こうか」
あまりにも当然のように言われて、私は思わず湊の顔を見た。
「何?」
「……あなたも一緒に来るの?」
「帰るんだろ?」
「そうだけど」
「俺も帰るよ」
「それはそうでしょうけど……」
何かがおかしい気がするのに、どこがおかしいのかをうまく説明できない。
というより、湊の中ではすでに、私たちと一緒に公園を出ることが当然の前提になっているらしい。
こういうところも、昔から変わっていない。
一度そばにいると決めたら、こちらが何も言わなくても当然のようについてくる。
「マルガレーテちゃん?」
先に歩き始めていたかのんが振り返る。
「行かないの?」
「……行くわよ」
小さく息を吐いて歩き出すと、湊も何事もなかったように私の隣へ並んだ。冬毬もその少し先を歩くかのんに続き、四人で公園をあとにする。
ほんの一年前までは、それが当たり前だった。
私が歩けば、すぐ近くに湊がいる。わざわざ約束する必要もなければ、隣にいる理由を考えたことだってなかった。
それなのに今は、その当たり前だったはずの距離が妙に懐かしく感じられる。
夕方の街へ出て、かのんと冬毬のあとを歩きながら、私は隣にいる湊をちらりと見上げた。
聞きたいことは、まだいくらでもある。
学校はどうするつもりなのか。いつから日本で生活する準備をしていたのか。それ以前に、推薦を断ってまでこちらへ来たこの人が、これから何をするつもりなのか。
さっきは推薦のことで頭がいっぱいだったけれど、少し冷静になってみれば、知らないことばかりだった。
……まあ、いい。
私はひとまず前を向き直り、三人と一緒に夕方の街を歩き始めた。
「湊?」
名前を呼ぶと、湊はすぐにこちらを振り向いた。
その反応すら昔と変わらないことに、ほんの少しだけ妙な気分になる。離れていた一年の間、こうして名前を呼べばすぐ近くから返事が返ってくることなんてなかったはずなのに、実際に目の前でやられると、それがあまりにも自然に感じられた。
「聞きたいことがあるから、このあと時間——」
「いいよ」
私が何を聞きたいのか確認することもなく、ほとんど間髪入れずに返事が返ってきた。
「……まだ何も言ってないけど」
「時間あるかって聞いたんだろ?」
「そうだけど」
「なら、あるよ」
本当に、昔からこういうところは変わらない。
私が何を聞こうとしているのかも、どれくらい時間がかかるのかも関係なく、私が必要だと言えばそれだけで予定を空ける。さっきあれだけ自分のことも大切にしろと言ったばかりなのに、本人にはまるで響いていないような気がして、少しだけ頭が痛くなった。
「……そう」
今さらそこまで突っ込んでいても仕方がないので、それだけ返しておく。
「どこで話す?」
「そうね……」
聞きたいことは山ほどある。
このまま歩きながら話せないこともないけれど、どうせなら腰を落ち着けられる場所の方がいい。どこか適当な店に入るか、それとも別の場所を探すかと考えていると、すぐ横から声がかかった。
「だったら、うちに来ますか?」
思いがけない提案に、私はかのんの方を振り向く。
「かのんの家?」
「うん。ここで立ち話するよりいいでしょ?」
確かに、それなら周囲を気にせず話せるし、私にとっても知らない場所ではない。悪くない提案だと思っていると、今度は湊が少し意外そうに自分を指差した。
「俺も?」
「もちろんです」
「澁谷さんの家に?」
「はい」
かのんは当然のように頷くと、そこで何でもないことのように続けた。
「マルガレーテちゃん、今うちに住んでるんです」
「……そうなの?」
今度は湊の視線が私へ向いた。
「そうよ」
「聞いてないけど」
「言ってないもの」
何よ、その顔。
どこか呆れたように言われる筋合いはない。そもそも、この一年は離れて暮らしていたのだから、私が日本でどこに住んでいるのか逐一報告する義務だってないはずだ。
「いろいろあって、今はうちで一緒に暮らしてるんです」
「そっか」
かのんの説明を聞いて、湊の表情がほんの少しだけ緩んだ。
何かを考えるように一度私を見て、それから改めてかのんへ視線を戻す。
「ありがとう」
「え?」
「マルガレーテのこと」
予想していなかったらしく、かのんが目を丸くした。
「あ……いえ。私の方こそ、一緒にいてもらってるっていうか……」
「ちょっと」
聞いているうちに黙っていられなくなり、思わず二人の間へ割って入った。
「なんであなたがお礼言うのよ」
「別にいいだろ」
「よくない。私の保護者みたいな顔しないで」
呆れて睨みつけると、湊は何か言い返そうとして———結局、困ったように笑った。
「……相変わらずだね、マルガレーテちゃん」
「何がよ」
「ううん。なんでもない」
かのんはそう言いながら笑っているけれど、絶対に何かある顔だった。
問い詰めようとしたところで、かのんが何かを思い出したように「あ」と声を上げ、少し先を歩いていた冬毬へ視線を向ける。
「でも……冬毬ちゃんはいいの?」
少し先を歩いていた冬毬が、その声に振り返った。
「私ですか?」
「うん、このあと。私の家に一緒にどう?」
「いえ、お気になさらず。私この後は予定がありますので」
冬毬は特に迷う様子もなく、いつもの落ち着いた調子で答えた。
「それに、マルガレーテが神谷さんに確認したいことがあるのでしたら、私が同席する必要性もないかと」
「まあ、それはそうね」
もともと湊について聞きたいのは私だし、冬毬にまで付き合わせるような話でもない。そう考えて頷くと、かのんも納得したようだった。
「じゃあ、またね、冬毬ちゃん」
「はい。かのん先輩もお疲れさまでした」
「お疲れ、冬毬」
「お疲れ」
湊も軽く手を上げる。
「神谷さんも、それでは」
「ああ」
短く挨拶を交わしたあと、冬毬は私たちとは反対の方向へ歩き出した。
三人でその背中をしばらく見送っていると、やがてかのんがこちらへ振り返る。
「じゃあ、行きましょうか」
「ええ」
湊がヴァイオリンケースを背負い直す姿を見ながら、ふと思う。
今日この公園で再会することも、そのまま一緒に帰ることも、ましてやこれからかのんの家へ連れていくことになるなんて、少し前の私には想像すらできなかった。
それなのに、いざ隣に並んで話してみれば、一年前までと何も変わらない。
私が文句を言って、湊が言い返して、それでも最後には困ったように笑う。あれだけ長く離れていたはずなのに、その時間を飛び越えてしまったみたいに、昔と同じやり取りが当たり前のように続いている。
懐かしいと思うより先に、それを自然だと感じてしまう自分がいた。
「マルガレーテちゃん?」
少し先へ進んだかのんが、立ち止まっていた私を振り返る。
「行くよ?」
「……分かってるわよ」
私は小さく息を吐いて歩き出した。すぐに湊も隣へ並ぶ。
日本へ来たことも、推薦を断ったことも、その理由も聞いた。それでも、これからこの人がどうするつもりなのかについては、まだ分からないことの方が多い。
そのあたりは、かのんの家に着いてからじっくり聞けばいい。
そう考えながら、私はかのんと湊と一緒に公園をあとにした。
◇
マルガレーテちゃんと湊さん。
二人が幼馴染だということは、さっき聞いた。
小さい頃からずっと一緒に育って、音楽を通して何度も競い合ってきた。マルガレーテちゃんが日本へ来るまでは、同じウィーンでずっと近くにいた人なのだという。
だから、これだけ仲がいいのも不思議なことではないのだと思う。
一年ぶりに会ったとは思えないくらい自然に話しているのも、少し言い合いになったかと思えば次の瞬間には何事もなかったように会話を続けているのも、きっと二人にとっては昔から当たり前のことなのだろう。
実際、公園を出てからも二人の間に久しぶりの再会らしいぎこちなさはほとんどなかった。
「それで、湊。今どこに住んでるの?」
三人で家へ向かい始めて間もなく、マルガレーテちゃんが隣を歩く湊さんへ尋ねた。
「――の辺り」
「ここから遠くない?」
「電車ならそんなでもないよ」
答えを聞いたマルガレーテちゃんは、頭の中でだいたいの距離を思い浮かべているのか、少し考えるような顔をしてから次の質問を続けた。
「一人?」
「一人」
「……ちゃんと生活できてるの?」
住んでいる場所を聞くだけかと思っていたのに、ずいぶん細かいところまで気になるらしい。
「お前、俺を何だと思ってるんだよ」
「湊よ」
「答えになってないだろ」
あまりにも当然のように返すマルガレーテちゃんに、湊さんは呆れたような声を漏らした。
二人のやり取りを隣で聞いていて、思わず笑いそうになった。
マルガレーテちゃんは本人なりに普通に聞いているつもりなのかもしれないけれど、質問の内容を一つずつ聞いていると、湊さんのことをかなり気にしているのが分かる。
住んでいる場所を聞いて、遠くないのかを確かめて、一人暮らしだと分かれば、今度はちゃんと生活できているのかと心配する。
それだけではない。
さっきだってそうだった。
湊さんが音楽学校からの推薦を断ったと聞いた瞬間、マルガレーテちゃんは本気で怒っていた。あんなに感情を露わにするところを見るのは、私も少し驚いたくらいだった。
でも、二人の話を聞いているうちに、その理由もなんとなく分かった気がする。
きっと、湊さんの将来が心配だったから。
自分に会うためという理由で、湊さんがそれまで積み重ねてきたものを手放してしまったことが、マルガレーテちゃんには許せなかったのだと思う。
——自分のことを大切に思ってくれるのは嬉しい。でも、そのために相手が自分の大切なものまで捨ててしまうのは嫌だ。
マルガレーテちゃんが口にしていた言葉を思い返せば、たぶんそういうことなのだろう。それに、こうして二人を見ていると、心配しているのは湊さんだけではないこともよく分かる。
こうして二人を見ていると、湊さんだけが一方的にマルガレーテちゃんを気にかけているわけではないことくらいは、私にも分かった。 ただ、本人にそう言ったら、たぶんすごい勢いで否定されるんだろうけど。
そんなことを考えながら歩いているうちに、ちょうど横断歩道の前へ差しかかった。
信号は赤だった。
私たちは横断歩道の手前で足を止め、青に変わるのを待つ。その間にも二人の会話が途切れることはなく、マルガレーテちゃんはさっきから気になっていたことを一つずつ確かめるように、湊さんへ質問を続けていた。
「それで、学校はどうするの?」
「学校?」
「あなた、高校三年生なんでしょ。音楽学校の推薦を断ったからって、今の学校まで辞めるつもりじゃないでしょうね」
マルガレーテちゃんの声には、わずかに疑うような響きが混じっていた。
普通なら、そこまで心配するようなことではないのかもしれない。でも、推薦を断って自分を追いかけるためだけに日本まで来たと聞かされたばかりなのだから、今日に限っては湊さんの常識を信用しきれないらしい。
「さすがにそこまで無計画じゃないよ」
「……今日のあなたを見てると、素直に信用できないのよ」
そう言われると湊さんにも思い当たるところがあるのか、困ったように笑うだけで、それ以上は反論しなかった。
湊さんが困ったように笑った、そのとき、歩行者用の信号が青に変わった。
周りで待っていた人たちが一斉に歩き始め、私たちもそれに続く。
そして———そのときだった。
マルガレーテちゃんが歩き出すのとほとんど同時に、その手がすぐ隣にいた湊さんへ伸びた。
何かを意識したような様子はなかった。
相手の顔を見ることもなければ、声をかけることすらない。ただ、そこにあるのが当然だとでもいうように湊さんの手を取ると、そのまま指を絡めるでもなく、ごく普通に手を繋いだ。
——けれど、私がそれ以上に気になったのは、湊さんの反応だった。
マルガレーテちゃんに突然手を取られたというのに、驚いた様子がまるでない。視線を落として繋がれた手を確認することも、何かを言うこともなく、ごく自然にその手を握り返している。
まるで、こうして手を繋ぐことなんて二人にとって珍しくもないとでもいうように。
「向こうの学校はもう辞めたよ。こっちの高校に通うつもり」
「……そう。そこはちゃんと考えてたのね」
「だから、そこまで無計画じゃないって」
「推薦を断って日本まで来た人に言われても、説得力ないのよ」
「まだ言う?」
「当たり前でしょ」
マルガレーテちゃんは呆れたように返していたけれど、さっきまでより少しだけ声が柔らかくなった気がした。少なくとも、何もかも投げ出して日本へ来たわけではない。それが分かって、少し安心したのかもしれない。
「それで、どこの学校に行くの?」
「この辺からでも通えるところ。普通の高校だよ」
「……普通の?」
「うん。音楽科とかじゃない」
その答えには、マルガレーテちゃんも少し意外そうな顔をした。
「てっきり、こっちでも音楽を専門に勉強できるところへ行くのかと思ってた」
「それも考えたけど、やめた」
「どうして?」
「高校は卒業できればいいかなって。音楽は学校に行かなくても続けられるし」
「……あなたらしいと言えば、あなたらしいけど」
「だろ?」
「褒めてないわよ」
「分かってる」
そう言いながら湊さんが笑うと、マルガレーテちゃんは小さく息を吐いた。
「……音楽をやめるつもりはないのよね?」
それまでより、ほんの少しだけ真剣な声だった。
「ないよ」
今度は湊さんもすぐには茶化さなかった。
「それは絶対にない」
迷いのない答えを聞いた瞬間、マルガレーテちゃんの表情がわずかに変わった。さっきまでどこか心配そうに寄せられていた眉がほどけて、湊さんを見る目がふっと穏やかになる。
笑ったわけではない。それでも、私にはなんとなく分かった。
———嬉しいんだ。
湊さんが日本へ来たことでも、同じ街にいることでもなく。これからも、この人が音楽を続けていくことが。
「……そう」
マルガレーテちゃんは、もう一度だけ繋いだ手の先にいる湊さんを見上げた。
「なら、いいわ」
その声はさっきまでよりずっと柔らかくて、どこか安心したようにも聞こえた。湊さんもそんなマルガレーテちゃんを見て、ほんの少しだけ笑う。
それから二人は何事もなかったように前を向いて、また並んで歩き始めた。
———手は、繋いだままで。
気づけば前を歩く二人から少し遅れていて、私は慌てて横断歩道を渡りながらそのあとを追った。
すぐに追いついたものの、どうしても視線が二人の間へ向かってしまう。さっきマルガレーテちゃんが取った湊さんの手は、今も当たり前のように繋がれたままだった。
……手、繋ぐんだ。
しかも、マルガレーテちゃんからあまりにも自然に手を伸ばして、湊さんもそれを何のためらいもなく受け入れていた。二人にとっては、わざわざ意識するようなことですらないらしい。
でも、幼馴染ならそんなものなのかもしれない。
私にだってちぃちゃんがいる。小さい頃からずっと一緒に育ってきて、普通の友達とは少し違う距離感があることくらい、自分でもよく分かっている。
小さい頃なんて何度も手を繋いだし、今だって絶対にないかと言われれば———。
……どうだろう。
少しだけ考えてから、私は深く追及するのをやめた。
きっと、これくらいは普通なんだ。
二人は私とちぃちゃん以上に長い時間を一緒に過ごしてきたのだから、幼馴染同士ならこれくらい距離が近くても不思議ではないのかもしれない。そう自分の中で納得して、私は二人の隣を歩き続けた。
———このときは、まだ。
「いつから準備してたの?」
「結構前」
「結構前って、いつよ」
マルガレーテちゃんがすぐに聞き返すと、湊さんは少し考えるように視線を上げた。けれど、答えそのものに迷っているわけではなかったらしい。
「マルが日本に行くって決まった頃には、もう考えてた」
「……そんな前から?」
「うん」
さすがに予想していなかったのか、マルガレーテちゃんが驚いたように湊さんを見る。
「なんで何も言わなかったのよ」
「言ったら止めただろ、だから言わなかった」
「当たり前でしょ」
呆れた声を返されても、湊さんは特に悪びれた様子を見せない。そんな態度がまた気に入らないのか、マルガレーテちゃんはさらに何か言いたそうな顔をしていた。
そのやり取りを横で聞きながら、私はふと二人の手元へ視線を落とす。
さっきの横断歩道なんて、もうとっくに渡り終わっている。それなのに、二人の手はまだ当たり前のように繋がれたままだった。どちらも離そうとする様子はないし、そもそも手を繋いでいること自体、もう意識していないように見える。
……まあ、幼馴染だし。
さっきもそう納得したばかりだ。きっと二人にとっては、これくらい昔から普通のことなのだろう。
「……喉乾いたんだけど」
それからしばらく歩いたところで、マルガレーテちゃんが唐突にそんなことを言った。
「練習終わったとき飲んでなかった?」
「あれでなくなったの。何かない?」
「あるけど」
湊さんは繋いでいない方の手で鞄を探ると、中から一本のペットボトルを取り出した。中身はお茶で、すでに一度飲んだものなのか封は開いている。
「これでいい?」
「いい」
マルガレーテちゃんは何のためらいもなく受け取った。湊さんが口をつけたものだということを気にする様子もなく蓋を開け、そのまま何口かお茶を飲む。
「全部飲むなよ」
「そんなに飲まないわよ」
「前に俺のジュース、ほとんど飲んだだろ」
「いつの話よ」
「十二歳くらい」
「そんな昔のこと、まだ覚えてるの?」
そんな昔の話まで持ち出しながらも、二人の様子はどこまでも自然だった。マルガレーテちゃんはもう何口か飲むと蓋を閉め、そのまま湊さんへペットボトルを差し出す。
「ありがと」
「ん」
湊さんもごく普通に受け取った。
本当に、それだけのやり取りだった。
二人にとっては。
私は湊さんの手元へ戻ったペットボトルを見つめながら、ほんの少しだけ考えてしまう。
——今、同じところに口つけたよね?
もちろん、それくらいで大騒ぎするようなことではない。家族や、それこそ小さい頃から一緒にいる相手なら、飲み物を分けても不思議ではないと思う。
私だって、ちぃちゃんとなら———たぶん、できる。もう何年もした記憶がないけど。
だから、これもきっと幼馴染なら普通のことなんだろう。
そう考えている私の目の前で、湊さんが受け取ったペットボトルの蓋を開けた。
そして、そのまま何のためらいもなく口をつけてお茶を飲んだ。思わずマルガレーテちゃんの方を見る。
けれど、本人はそんなことを気にしている様子すらなく、湊さんが飲み終わるのを待ちながら、さっきの学校の話を続けようとしている。
湊さんの方だって同じだ。
マルガレーテちゃんが飲んだ直後だとか、そんなことは最初から意識にも上っていないようだった。
——私が気にしすぎなのかな。
改めて考えてみても、二人は幼い頃からずっと一緒に育ってきた幼馴染なのだ。私が知らないだけで、昔からこうやって飲み物を分けることだって何度もあったのかもしれない。だったら、きっとこれも二人にとっては普通のこと。
そう自分を納得させながら、私は再び二人と並んで歩き始めた。
ちなみに———。
さっきから繋がれていた二人の手は、途中で離れることもなく。
結局、私の家に着くまでずっとそのままだった。
◇
「ただいまー」
家に入ると、そのまま店の方へ顔を出した。
聞き慣れた話し声に、カップや食器が触れ合う小さな音。店内にはコーヒーの香りが漂っていて、外から帰ってきたばかりの私を、いつもと変わらない空気が迎えてくれる。
うちは喫茶店をやっているから、帰ってきたあとに時間があれば、そのまま店を手伝うことも珍しくない。今日もまだお客さんが何組か残っているし、二人が話している間に少しくらい手伝えそうだった。
「……本当に上がって大丈夫ですか?」
後ろから聞こえた声に振り返ると、湊さんは入口のところで少し遠慮するように立っていた。
公園ではあれだけ堂々とマルガレーテちゃんに会いに来たと言っていたのに、他人の家へ上がるとなると、さすがに少しは気を遣うらしい。
「もちろんですよ。気にしないでください」
「何してるの? 早く入りなさいよ」
そんな湊さんとは対照的に、マルガレーテちゃんはすでに慣れた様子で靴を脱いでいた。
「お前の家じゃないだろ」
「今は住んでるんだからいいでしょ」
「それ本人の前で言う?」
「あはは、私は全然いいですけど」
私がそう答えると、マルガレーテちゃんは当然とでも言いたげに湊さんを見る。
「ほら」
「ほら、じゃないだろ」
また始まった。さっきから何度見たか分からないやり取りに思わず笑いながら、私は二人を店の中へ案内した。
「奥の席、使ってください。私、二人が話してる間にちょっとお店を手伝ってくるので」
「分かった」
「ありがとう、かのん」
「いえいえ。あ、何か飲みます?」
「私はアイスショコラ」
ほとんど考える間もなく返事が飛んできた。やっぱりというか、こういうときに甘いものを選ぶのはなんだかマルガレーテちゃんらしい。
「湊さんはどうします?」
「じゃあ、アイスコーヒーで」
「分かりました」
マルガレーテちゃんは甘いアイスショコラで、湊さんはアイスコーヒー。
さっきまであれだけ息の合ったやり取りをしていたのに、こういう好みはずいぶん違うんだなと、なんとなく面白く感じた。
二人にはカウンター席の一番奥に座ってもらうことにした。
そこなら他のお客さんから少し離れているから、込み入った話をするにも都合がいい。それに私もカウンターの中から近いので、店を手伝いながら必要があれば声をかけられる。注文された飲み物を用意して、それぞれの前へ置いた。
「はい。アイスショコラと、アイスコーヒーです」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
マルガレーテちゃんは早速ストローを手に取り、湊さんも軽く頭を下げてからグラスへ手を伸ばした。
こうして並んで座っている二人を見ていると、公園で再会したばかりだというのがなんだか不思議に思えてくる。さっきまでずっと手を繋いで歩いていたことも含めて、二人の間には一年ぶりという時間をほとんど感じさせるものがなかった。
まあ、これから二人で話したいこともたくさんあるだろうし、いつまでも私がここにいるのも邪魔だろう。
「じゃあ、ごゆっくり」
そう声をかけて、私は二人を残してカウンターの中へ戻った。カウンターへ戻ってからは、いつも通り店の手伝いに入った。
空いたグラスを下げ、新しく入った注文を運び、お客さんが帰ったあとのテーブルを拭いていく。何度も繰り返してきた作業だから、身体はほとんど考えなくても動いてくれる。
その合間に———本当に、何となく。
カウンターの一番奥へ視線を向けた。
「…………」
思わず、手が止まった。
二人はさっきと変わらず隣同士で座っている。マルガレーテちゃんの前にはアイスショコラ、湊さんの前にはアイスコーヒーが置かれていて、何やら真面目な顔で話を続けていた。
そこまではいい。
問題は、カウンターの下だった。
二人の間で、また当たり前のように手が繋がれている。
……また繋いでる。帰り道だけじゃなかったんだ。
しかも、いつそうなったのか全然分からない。二人を席へ案内したときには繋いでいなかったはずだから、私が飲み物を用意している間か、それともカウンターへ戻ってからなのか。
少なくとも、どちらかが改めて手を伸ばした瞬間にはまったく気づかなかった。
それくらい、二人にとっては自然なことらしい。
「それで、学校は本当に大丈夫なの?」
私の視線など知るはずもなく、マルガレーテちゃんは話を続けている。
「大丈夫だって。手続きも進んでるし」
「手続きの話じゃないわよ。日本の学校に通うんでしょう?」
「そうだけど」
「あなた、日本語が話せるからって安心してない?」
少し疑うようにマルガレーテちゃんが目を細めると、湊さんは何を心配されているのか分かったらしく、苦笑した。
「授業のこと?」
「当たり前でしょ。日常会話ができるのと、日本語で授業を受けるのは別じゃない」
「そのくらい分かってるよ。読み書きもずっとやってたし、こっちの勉強もしてる」
湊さんは慣れた様子で答えているけれど、それだけでは納得できないらしい。マルガレーテちゃんは確かめるように、その顔をじっと見つめた。
「……本当に?」
「なんでそこで疑うんだよ」
「あなた、今日だけで信用なくしすぎなのよ」
きっぱりと言い切られて、湊さんは一瞬言葉に詰まった。どうやら自分でもまったく心当たりがないわけではないらしく、少し困ったように視線を逸らす。
「……まだ推薦のこと怒ってる?」
「当たり前でしょ」
間髪入れずに返ってきた答えに、湊さんは諦めたように小さく息を吐いた。
「ですよね……」
それ以上反論するのはやめたらしく、湊さんはアイスコーヒーへ手を伸ばした。
話している内容だけを聞けば、進路について真面目に確認しているだけだ。マルガレーテちゃんが心配するのも分かるし、湊さんだってちゃんと答えている。
ただ———二人の手は、その間もずっと繋がれたままなのだけれど。
「…………」
いや。
まあ、幼馴染だし。
さっきから何度目になるか分からない言葉を心の中で繰り返し、止まっていた手を動かそうとした、そのときだった。
「お姉ちゃん」
「うわっ!」
すぐ横から突然声をかけられ、思わず肩が跳ねる。
振り向くと、そこには学校から帰ってきたばかりらしいありあが立っていた。制服姿のまま鞄を肩に掛けていて、どうやら私が二人に気を取られている間に店へ入ってきていたらしい。
「びっくりした……。いつ帰ってきたの?」
「今だけど。お姉ちゃんが全然気づかなかっただけ」
「声かけてよ」
「かけたよ」
「……そうだっけ?」
ありあは呆れたように私を見ると、そのまま私がさっきまで向けていた視線を追った。
「何見てたの?」
「え? 別に何も」
「何もって顔じゃなかったけど」
ふーん、と明らかに信じていない返事をしながら、ありあの視線がカウンターの奥へ向かう。
当然、その先にいる二人へ行き着いた。
「…………」
ありあの目が、マルガレーテちゃんの隣にいる見慣れない人を捉える。
それから少し視線が下がって———二人の間で繋がれている手のところで止まった。
「お姉ちゃん」
「何?」
「あの人、誰?」
「湊さん。マルガレーテちゃんの幼馴染なんだって」
「幼馴染?」
「うん。ウィーンにいた頃からずっと一緒だったみたい」
ありあは興味を持ったのか、もう一度二人を見る。
マルガレーテちゃんはまだ湊さんと話していて、こちらの様子には気づいていない。その手も当然のように繋がれたままだ。
しばらく二人を眺めていたありあが、不思議そうに首を傾げる。
「……彼氏じゃなくて?」
「え?」
あまりにも自然に聞かれて、一瞬返事が遅れた。
「違う……みたいだよ。本人たちは幼馴染って言ってたし」
「そうなんだ」
ありあはもう一度だけ二人へ視線を向けた。
「仲いいんだね」
「うん。小さい頃からずっと一緒だったみたいだから」
「ふーん……」
納得したのかしていないのか、なんとも判断しづらい返事だった。けれど、ありあはそれ以上追及することもなく、鞄を置きに行くためか店の奥へ向かっていった。
その背中を見送りながら、私はなぜか少しだけほっとしていた。
そう。
仲がいいだけなんだ。
二人は小さい頃からずっと一緒だった幼馴染なのだから、普通の友達より距離が近いのは当然だと思う。
私だって、ちぃちゃんとはずっと仲がいい。それと同じようなものだと考えれば、別におかしなことでは———。
「…………」
そこまで考えたところで、もう一度だけ二人を見る。
まだ、手は繋がれていた。
……うん。
たぶん。
「それで、学校はいつからなの?」
「手続きが全部終わってから。そんなに先にはならないと思う」
「ふうん……」
マルガレーテちゃんはストローでアイスショコラを混ぜながら、まだ何か言いたそうに湊さんを見ていた。
「何?」
「別に。ただ、ちゃんと準備してるのかなって思っただけ」
「してるよ。さっきから何回それ聞くんだよ」
「だってあなた、昔から自分が興味ないことは適当じゃない」
「学校に興味がない前提で話すのやめない?」
「違うの?」
湊さんが答えに詰まる。その反応だけで十分だったのか、マルガレーテちゃんは「ほら」とでも言いたげに小さく息を吐いた。
私は洗い終えたグラスを手に取り、布巾で水気を拭き取りながら、また何となく二人の方へ目を向けた。
そして、そのまま視線を戻せなくなった。
「…………」
マルガレーテちゃんの身体が、いつの間にか少しだけ湊さんの方へ傾いていた。最初は、ただ姿勢を変えただけなのかと思った。
けれど、そのまま距離が縮まっていって———最後には、何の前触れもなく湊さんの肩へ頭を預けた。
本当に、それだけだった。
湊さんの方を見ることもなければ、寄りかかっていいかと尋ねることもない。疲れたから少し姿勢を変えた、というくらいの自然さで、そのまま話を続けている。
「制服とか、必要なものは?」
「もう揃えてるよ。あとは学校から連絡が来たら取りに行くくらい」
「へえ。思ってたよりちゃんとしてるのね」
「それ褒めてる?」
「褒めてるわよ。一応」
「一応いらなくない?」
少し不満そうな声が返ってきても、マルガレーテちゃんは気にした様子もなく、湊さんの肩に頭を預けたままだった。
「でも、教科書とかも全部日本語なんでしょう?」
「まあね」
「分からないところがあったら、ちゃんと聞きなさいよ」
「誰に?」
「先生でもクラスの人でもいるでしょ」
「いいよ。その時はマルに聞く」
「なんで私なのよ。というか、『マル』って呼ぶのやめなさい」
「いいだろ、減るもんじゃないんだし。それにマルは頭もいいし、教え方も上手いから。どうせならマルを頼りたい」
「……勝手にしなさい」
そう言いながらも、本気で嫌がっているようには聞こえなかった。
そして、驚くべきなのは湊さんの方も同じだった。突然寄りかかられたはずなのに、気にする様子すらない。それどころか、マルガレーテちゃんが頭を乗せやすいように、ほんの少しだけ肩の位置を下げている。
たぶん、無意識なんだと思う。
マルガレーテちゃんが寄りかかることも、それを湊さんが受け止めることも、二人にとってはわざわざ意識するほどのことではない。
「…………」
……慣れてる。
絶対、慣れてる。
しかも、よく見ればカウンターの下では、さっきからずっと手まで繋いだままだった。私はいったん二人から目を離し、手元のグラスへ視線を戻した。
ここで、どうしてもちぃちゃんの顔が浮かんでくる。
私とちぃちゃんだって幼馴染だ。
小さい頃からずっと一緒で、私にとっては誰より大切な幼馴染の一人。だから、長い時間を一緒に過ごしてきた相手にしかない距離感というものは、私にも分かっているつもりだった。
手を繋ぐくらいなら、まあ、分かる。
同じ飲み物を気にせず飲むのだって、ずっと一緒に育ってきた相手なら———まあ、分からなくもない。
家の中に入ってからもずっと手を繋いでいるのは……少しだけ怪しくなってきたけれど、それでもまだ、そういう幼馴染もいると言われれば納得できるかもしれない。
でも。
手を繋いだまま、その相手の肩へ当たり前のように頭を預ける。
「…………」
私はグラスを拭く手を止めた。
……ちぃちゃんと、するかな。
今度ばかりは、すぐに「するかも」とは思えなかった。
「ちゃんとご飯は食べてるの?」
「食べてるよ」
「何を?」
「そこまで聞く?」
「聞いてるんだから答えなさいよ」
少し面倒そうに返す湊さんに対して、マルガレーテちゃんはまったく引く気がないらしい。肩に頭を預けたまま、疑うような目だけを隣へ向けている。
「今日は適当に———」
「適当に?」
言葉の途中でマルガレーテちゃんの声が一段低くなった。湊さんもまずいと思ったのか、そこで一度口を閉じる。
「……ちゃんと食べました」
「だから、何を?」
「なんでそんなに細かく確認するんだよ」
「あなたの『ちゃんと』は信用できないの」
きっぱりと言い切られて、湊さんはさすがに心外そうな顔をした。けれど、マルガレーテちゃんはそんな反応など気にも留めず、肩に頭を預けたままじっと返事を待っている。
「ひどすぎだろ。幼馴染を信用できないなんて……」
「昔、自分で大丈夫って言っておいて、三日くらい似たようなものばっかり食べてたの誰だった?」
すぐに具体的な話を持ち出されると、湊さんの勢いが目に見えてなくなった。どうやらまったく身に覚えがない、とは言えないらしい。
「……よく覚えてるな、そんなこと」
「忘れるわけないでしょ」
呆れたような言い方だったけれど、その声はどこか柔らかかった。
何年前の話なのかは分からない。
けれど、マルガレーテちゃんの言い方を聞く限り、一度や二度のことではなさそうだった。
私は手元のグラスを拭きながら、また二人へ視線を向ける。
マルガレーテちゃんの頭は、まだ湊さんの肩の上にある。
「そういうマルは?」
「……何が?」
聞き慣れた呼び方に、マルガレーテちゃんの眉がほんの少しだけ動いた。さっきまではそのたびに訂正していたのに、今度はもう何も言わない。たぶん、何度言ったところで湊さんが直すつもりなんてないと分かっているのだろう。
それでも完全に聞き流せるわけではないらしく、わずかに不満そうな顔だけは残っている。その反応さえ、湊さんにとっては見慣れたものなのかもしれない。
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるわよ」
「本当に?」
「なんで私まで疑われるのよ」
今度は自分が問い詰められる側になるとは思っていなかったのか、マルガレーテちゃんが少しだけ不満そうに湊さんを見上げた。それでも、肩に預けた頭を離す気はないらしい。
「人のこと散々疑ったんだからいいだろ」
「私はちゃんとしてるもの」
「昔、練習に夢中になって———」
湊さんが何かを思い出したように口元を緩めた瞬間、マルガレーテちゃんの表情がわずかに変わった。
「それ以上言ったら怒るわよ」
「もう怒ってるじゃん」
「誰のせいよ」
ぴしゃりと言い返されても、湊さんはどこか楽しそうに笑っている。マルガレーテちゃんもそれ以上追及することはなく、少しむっとした顔のままアイスショコラへ口をつけた。
どうやら、マルガレーテちゃんにも湊さんに掘り返されたくない昔の話がいくつかあるらしい。
湊さんが小さく笑うと、マルガレーテちゃんは不満そうに眉を寄せた。それでも肩から離れようとはしないし、繋いでいる手をほどく様子もない。
私はいつの間にか止まっていた手を動かし、拭き終えたグラスを棚へ戻した。
……なんだろう。
さっきまでは、マルガレーテちゃんが一方的に湊さんの生活を心配しているだけだと思っていた。
でも、こうして聞いていると、それだけでもないらしい。
マルガレーテちゃんは湊さんが放っておくとどうなるのかを知っていて、湊さんもマルガレーテちゃんがどんなときに無理をするのかを知っている。何年前のことなのか分からないような失敗まで覚えていて、それを今さら当たり前のように持ち出している。
幼い頃からずっと一緒だったのだから、それ自体は何もおかしくない。
私とちぃちゃんだってそうだ。昔から一緒にいたからこそ知っていることはたくさんあるし、言葉にしなくても分かることだってある。
だから、そこまでは分かる。
ただ———。
私はもう一度、カウンターの奥へ視線を向けた。
マルガレーテちゃんは相変わらず湊さんの肩に頭を預けたまま、何事もないようにアイスショコラを飲んでいる。その隣で湊さんもアイスコーヒーへ口をつけ、ときどき思い出したように言葉を交わす。
そして二人の間では、繋いだ手だけがずっとそのままになっていた。
さっきから私は、何度も自分とちぃちゃんを思い浮かべている。同じ幼馴染なんだから、きっと似たようなものなんだろうと。
でも。
……私とちぃちゃんって、こんな感じだったっけ。
考えてみても、今度はすぐに答えが出てこなかった。
いや。
たぶん———違う。
というか———。
ここまで二人のやり取りを眺めていて、今さらになって一つのことが引っかかった。
ほんの数時間前、公園で湊さんはマルガレーテちゃんに会うために日本に来たのだと、そう言った。
ただそれだけのために、ずっと続けてきた音楽の先にあったはずの推薦まで断って、ウィーンから日本へやって来た。
あの話を聞いたとき、私は単純に、湊さんがマルガレーテちゃんのことをものすごく大切にしているんだと思った。
たぶん、それ自体は間違っていない。
普通なら簡単にできるはずもない選択をしてしまうくらい、湊さんにとってマルガレーテちゃんは大切な人なのだろう。
でも———。
「ちゃんと朝も食べなさいよ」
「分かってるって」
「さっきの話を聞いたあとじゃ信用できないのよ」
「明日からちゃんと食べます」
「明日からじゃなくて、これからも、でしょ」
また訂正されて、湊さんが困ったように笑う。それでもマルガレーテちゃんはまだ言い足りないらしく、肩に頭を預けたまま少しだけ顔を上げた。
「それと、何か困ったことがあったらちゃんと言いなさい」
「マルに?」
「だから『マル』って呼ばないで。……別に私じゃなくてもいいけど」
「じゃあマルに言う」
「人の話聞いてた?」
呆れたような声だった。
けれど、本当に嫌そうには聞こえない。むしろ湊さんが日本でちゃんと暮らしていけるのか、これから何か困ることはないのか、それを確かめずにはいられないように見えた。
「…………」
ここまでなら、まだ分かる。
長く一緒にいた幼馴染だから、相手の生活が心配になる。昔の失敗を覚えていて、同じことを繰り返さないように口を出す。
私とちぃちゃんだって、きっと似たようなことはある。
ただ。
それだけなら、こんなふうに手を繋いだまま肩を寄せ合って、互いの生活を自分のことみたいに心配する必要まであるんだろうか。
私はもう一度、二人を見る。
本人たちは、自分たちのことをただの幼馴染だと言っている。
だったら、きっとそうなんだろう。
……たぶん。
私はそう自分に言い聞かせながら、いつの間にか止まっていた手をもう一度動かした。
——けれど。
さっきまでなら、それで納得できていたはずなのに。
今度ばかりは———どうしても、そうは見えなかった。