結局、神谷さんが席を立ったのは、それからもうしばらく経ってからだった。
気づけば、窓の外に残っていた夕方の明るさもずいぶん薄くなっている。昼間の熱を残していた空はゆっくりと深い色へ変わり始め、通りに灯った街灯の明かりが、行き交う人たちの足元に淡い影を落としていた。
店内も少し前までの賑わいが嘘のように落ち着いている。時折聞こえてくる食器の触れ合う音や、遠くを走る車の音に耳を澄ませていると、いつの間にこんなに時間が経っていたんだろうと思う。
「じゃあ、そろそろ帰るわ」
カウンター席から立ち上がりながら、神谷さんが苦笑する。
その言い方には、ついさっきも同じことを言ったような、そんな呆れとも諦めともつかない響きが少しだけ混じっていた。
「……ええ」
短く答えたマルガレーテちゃんは、神谷さんが玄関へ向かって歩き出すと、何も言わずにそのあとをついていった。見送りに行く、と口にしたわけではない。神谷さんも、ついてきてほしいと頼んだわけではなかった。それでもマルガレーテちゃんは当然のように立ち上がり、神谷さんもそんな彼女が後ろにいることを確かめようとはしない。
たぶん、二人にとってはそれで十分なのだ。
その様子を見ていると、なんだか私だけここで戻るのも変な気がして、結局そのまま二人のあとを追うことにした。
店の扉を開けると、昼間の熱気がすっかり和らいだ空気が流れ込み、少し火照っていた頬を静かに撫でていった。
外はもう、ほとんど夜だった。
空の端にはまだ夕方の名残がわずかに残っているものの、通りに並ぶ街灯にはすでに明かりが灯り、少し離れた道路では行き交う車のライトが絶え間なく流れている。店内から漏れる柔らかな明かりも、昼間よりずっと鮮明に三人の足元を照らしていた。
「じゃあな」
店の前まで出たところで、神谷さんが足を止める。
「……ええ」
マルガレーテちゃんも短く答えた。
これで、そのまま神谷さんは帰っていくのだと思った。
けれど、マルガレーテちゃんは店へ戻ろうとはせず、その場に立ったまま神谷さんを見上げている。神谷さんもすぐに背を向けることはなく、そんな彼女と向かい合ったまま、どちらからともなく言葉を止めてしまった。
ほんの少し前まで、あれだけ途切れることなく話していた二人が、今は何も言わずに互いの顔を見ている。それでも、不思議と気まずそうには見えなかった。
何を話せばいいのか分からなくて困っているわけでも、別れの言葉を探しているわけでもない。もう帰らなければいけないことも、今日でお別れになるわけではなく、明日になればまた会えることも、きっと二人とも分かっている。
だからこそ、もう少しだけこの時間を終わらせたくないのかもしれない。そんなふうに思えてしまって、私は二人のすぐ横にいながら、声を挟むこともできずにその様子を見守っていた。
このまま神谷さんが何か言うのか、それとも、さっきみたいにマルガレーテちゃんがもう一度引き止めるのか。どちらだろうと思いながら待っていると、やがて神谷さんが仕方なさそうに、それでいてどこか優しげに小さく息を吐いた。
「そんな顔すんなよ」
「……どんな顔よ」
「俺がもう二度と来ないみたいな顔」
図星を突かれたように、マルガレーテちゃんの眉がわずかに動いた。
「してないわよ」
「してる」
「してない」
すぐに言い返したものの、神谷さんはまともに取り合うつもりがないらしい。「はいはい」と慣れた調子で受け流す。
「ちょっと、何よその——」
なおも言い返そうとしたマルガレーテちゃんの言葉が、途中で止まった。神谷さんの手が伸びて、その金色の髪の上へそっと置かれたからだ。
「…………」
くしゃり、と髪を撫でる。
少しだけ乱すような手つきなのに、決して乱暴ではない。何度もそうしてきたことがあるのだろうと思えるくらい自然な仕草で、神谷さんの手のひらがゆっくりとマルガレーテちゃんの頭を撫でていく。
さっきまであれだけ言い返していたマルガレーテちゃんも、今度は文句を言わなかった。頭に置かれた手を振り払うこともせず、ほんの少しだけ目を細めて、その手に身を任せている。
「また明日な」
神谷さんが口にしたのは、それだけだった。
大袈裟な約束をするわけでも、明日も必ず会うのだと念を押すわけでもない。今日こうして別れたところで、明日になればまた隣にいるのが当たり前だとでもいうような言い方だった。
「……分かってるわよ」
返ってきた言葉は、相変わらず素直とは言い難い。
それでも、さっきまでより少しだけ柔らかくなった声を聞けば、マルガレーテちゃんにとってはその一言だけで十分だったのだと思う。
神谷さんもそれ以上は何も言わず、最後にもう一度だけ髪を撫でてから、ゆっくりと手を離した。
「じゃあ、澁谷さん。お邪魔しました」
「うん。また来てくださいね」
私にも軽くお辞儀をすると、今度こそ神谷さんは背を向けて歩き出した。マルガレーテちゃんは、もう追いかけなかった。
さっきみたいに服の裾を摘まんで引き止めることも、もう少しだけいてほしいと態度で訴えることもない。ただ店先に立ったまま、少しずつ遠ざかっていくその背中を黙って目で追っている。
神谷さんの金色の髪が街灯の下へ入るたび、夜の中に明るく浮かび上がる。次の街灯までの暗がりへ入ればその輪郭は薄れ、やがてまた明かりの下へ姿を現す。
それを何度か繰り返したあと、神谷さんは通りの角を曲がって見えなくなった。
「…………」
それでも、マルガレーテちゃんはすぐには視線を戻さなかった。もうそこには誰もいないのに、ほんの少し前まで神谷さんの背中があった場所を、名残惜しそうに見つめている。
さっきまで、帰ってほしくない気持ちを隠しきれずにいたのに、今度はちゃんと見送った。
その代わりに——姿が見えなくなる、その最後の瞬間まで。
ずっと、目で追い続けていた。
……やっぱり。
今日一日、何度も「幼馴染ならこれくらい普通なのかもしれない」と自分に言い聞かせてきたけれど。
どう考えても、ただの幼馴染にしては——少し、近すぎる気がする。
でも、それを今ここで口にするのは、なんとなく違う気がした。
「マルガレーテちゃん」
「……何?」
呼びかけてみても、マルガレーテちゃんはすぐにはこちらを向かなかった。もう神谷さんの姿なんてどこにも見えないのに、それでもあと少しだけ名残を惜しむように、しばらく彼が消えていった通りの先を見つめている。
「おうち、入ろっか」
もう一度そう声をかけると、マルガレーテちゃんはようやく道路の先から視線を外し、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
「……そうね」
返事をする頃には、表情もすっかりいつものマルガレーテちゃんに戻っていた。少なくとも、本人はそのつもりなんだと思う。
いつもと同じ少し澄ました顔をして、何事もなかったように店の中へ戻ろうとしている。けれど、ついさっきまで神谷さんの背中を見つめていた横顔を思い出すと、私にはもう、それをそのまま信じることはできなかった。
だからといって、わざわざ口にするつもりもない。
私は何も言わずにマルガレーテちゃんの隣へ並ぶと、そのまま一緒に明かりの灯る店の中へ戻った。
◇
それから、数時間後。
夕食を終えて後片づけを済ませ、お風呂から上がる頃には、昼間の賑やかさが嘘のように家の中も静かになっていた。
私は自分の部屋に戻る前に、用意していたタブレットを抱えて二階へ上がる。
窓の外はすっかり夜も深まり、昼間なら店内の話し声や通りを行き交う人の気配が絶えず聞こえてくるのに、今は廊下を歩く自分の足音と、ときどき遠くを走っていく車の音が聞こえるくらいだった。
そんな静かな廊下を奥まで進み、今は出張で家を空けているお父さんの部屋の前で足を止める。
マルガレーテちゃんがうちで暮らし始めてから、この部屋は彼女が使っていた。中にいるはずだと思い、扉を軽くノックしてみる。
「…………」
けれど、返事はない。
もう寝てしまったのかな、と一瞬考えたものの、さすがにまだ早い。少し待ってから、今度はさっきより強めにもう一度扉を叩いてみると、ようやく向こうから何かを叫ぶような声が聞こえてきた。
「——てるわよ!」
「え?」
一部分しか聞き取れず、思わず聞き返す。
たぶん、「開いてるわよ」と言ったんだと思う。そう気づいた直後、扉の向こうから響いてきたのは、ぶおおお、と低く唸るようなドライヤーの音だった。
どうやら、返事が聞こえなかった理由はこれらしい。
「入るねー」
ドライヤーの音に負けないよう少し声を張ってから、私は扉を開けた。
ところが、部屋へ一歩入ったところで思わず足が止まる。
「……わ」
「何?」
ベッドの端に腰掛けていたマルガレーテちゃんが、不思議そうな顔でドライヤーを止めた。
どうやらお風呂から上がったばかりらしく、普段より少しだけ頬が赤い。まだ完全には乾いていない髪もいつものようには整えられておらず、肩から背中へ柔らかく流れている。
それだけでも普段とはずいぶん印象が違ったけれど、何より目を引いたのは、マルガレーテちゃんが着ている服だった。
淡い紫を基調にした、見るからに柔らかそうな生地のパジャマ。襟元や袖には薄いピンクが入っていて、いつもの彼女から受ける印象とはかなり違っている。
「……何よ」
何も言わずに見ていたせいか、マルガレーテちゃんが訝しそうに眉を寄せた。
「いや、なんでもないよ」
「絶対なんかあるでしょ」
じろりと向けられた視線から逃げるように笑いながらも、頭に浮かんでいたのはずいぶん単純な感想だった。
——かわいい。
もちろん、普段からマルガレーテちゃんの顔立ちが整っていることくらい知っている。ただ、いつもの服装や強気な振る舞いを見ていると、どちらかといえば格好いいとか、凛としているとか、そういう印象の方が先に来る。
だからこそ、目の前のふわふわしたパジャマ姿との落差が余計に大きく感じられた。
「そのパジャマ、かわいいなって」
「そう?」
正直に答えると、マルガレーテちゃんは自分の服へちらりと視線を落とした。
「うん。こういうの着るんだなって、ちょっと意外だった」
「部屋着なんだから、好きなの着ればいいでしょ」
「そうなんだけど。すごく似合ってるよ」
「ならいいじゃない」
本人にとってはそれで話が終わったらしく、特に照れる様子もなくドライヤーを持ち直した。
「それで? 何か用があるから来たんでしょ」
「あ、うん」
「ちょっと待って。もう少しで乾くから」
再びドライヤーの音が響き始め、温かい風に金色の髪がふわりと揺れる。
私は邪魔にならないよう部屋の中へ入ると、近くにあった椅子を借りて腰を下ろした。
こうして待っていると、いつの間にかこの部屋にマルガレーテちゃんがいる光景にも、すっかり慣れてしまったことに気づく。
最初の頃は、お父さんの部屋を同年代の女の子が使っているという状況そのものが少し不思議だった。それが今では、棚の一角に彼女の荷物が置かれていても、机の上に見慣れない私物が並んでいても、ほとんど違和感を覚えない。
一緒に練習をして、帰ってきたら同じ家で夕食を食べて、夜になればそれぞれの時間を過ごす。
そんな毎日の繰り返しが、いつの間にか私にとっても当たり前になっていた。
しばらくしてドライヤーの音が止まり、急に部屋へ静けさが戻ってくる。
「お待たせ。それで、何?」
マルガレーテちゃんが乾いた髪を手櫛で軽く整えながら尋ねてきたので、私は膝の上に置いていたタブレットを持ち上げた。
「これ。次のイベントで歌う曲、歌詞がまとまったから、ちょっと見てほしくて」
「ああ、それね」
すぐに話を理解したらしく、差し出された手へタブレットを渡す。マルガレーテちゃんは画面へ視線を落とすと、指先でゆっくりとスクロールしながら歌詞を読み始めた。
こういうときの彼女は真剣だ。
普段の会話とは違って余計なことはほとんど口にせず、画面に並んだ言葉を順番に追っていく。ときどき何か引っかかるところがあるのか指を止め、少し考えてからまた続きを読み進めていた。
曲そのものについては、これまでにも三人で何度も話している。今日は一から方向性を相談したいわけではなく、ようやく一つの形になった歌詞を見てもらうことが目的だった。
「……悪くないんじゃない?」
一通り読み終えたところで、マルガレーテちゃんが画面から顔を上げた。
「ほんと?」
「まだ一回読んだだけよ。でも、今の段階なら大きく変だと思うところはないわ」
「よかったぁ……」
思わず肩の力を抜くと、マルガレーテちゃんが少し呆れたようにこちらを見る。
「そこまで安心する?」
「だってマルガレーテちゃん、変だったら普通に変って言うでしょ」
「当然じゃない」
「だから安心したの」
そう答えると、マルガレーテちゃんは何がおかしいのか分からないとでも言いたげな顔をしながら、もう一度タブレットへ視線を落とした。
「あとでもう一回ちゃんと見るわ」
「うん、お願い」
短く頷くと、マルガレーテちゃんはひとまず確認を終えたタブレットを机の端へ置いた。
これで、今日ここへ来た用事のひとつは終わった。
「じゃあ」
「うん」
マルガレーテちゃんがこちらを見る。
私もなんとなく見返したものの、そのまま立ち上がることもなく椅子に座り続けていると、しばらくして彼女の表情にわずかな疑問が浮かんだ。
「……何?」
「え?」
「まだ何かあるんでしょ」
あまりにもあっさり言い当てられて、思わず目を瞬く。
「なんで分かったの?」
「分かるわよ」
「そんなに顔に出てた?」
「顔っていうか……」
マルガレーテちゃんはそう言いながら、私の顔から視線を外すと、今も私が座ったままの椅子へちらりと目を向けた。
「用事終わったのに、帰る気ないじゃない」
「あ」
言われてみれば、その通りだった。
歌詞を見てもらうことだけが目的なら、タブレットを受け取った時点でお礼を言って立ち上がればいい。それなのに私は、最初からここですぐに話を終えるつもりなんてなかったから、そんなことにも気づかず当然のように座り続けていた。
「……もう一個だけ、聞きたいことがあって」
「何?」
マルガレーテちゃんに促され、私はすぐには答えず、どう切り出そうかと少しだけ考える。
聞きたいこと自体は、昼間からずっと頭の中にあった。
というより、正確には——神谷さんが突然現れてから、気になることが一気に増えすぎたのだ。
「あのさ」
「うん」
「神谷さんのこと、ちょっと聞いてもいい?」
そう口にした、その瞬間だった。
「……湊の?」
マルガレーテちゃんの目が、ほんの少しだけ細くなる。さっきまで歌詞について話していたときとは、明らかに反応が違った。
「うん」
「何を?」
「え?」
「湊の、何が聞きたいの?」
声そのものはいつもと大きく変わらない。それなのに、さっきまで普通に話していたはずの空気が、ほんの少しだけ張りつめたような気がした。
——なんだろう。
別に悪いことを聞こうとしているわけでもないのに、妙な圧がある。
「いや、色々……?」
「色々って?」
「ええと……」
曖昧に答えてみても、マルガレーテちゃんは納得してくれない。
むしろ私が言葉を濁したことで余計に気になったのか、何を聞き出そうとしているのか見極めるように、さっきよりもじっとこちらを見つめてくる。
何から説明すればいいんだろう。そんなことを考えながら言葉を探している間も、マルガレーテちゃんの視線が私から逸れることはなかった。
そして、しばらく私の顔を探るように見つめていたマルガレーテちゃんが、不意に口を開いた。
「——狙ってるの?」
「何を?」
「湊を」
一瞬、本当に何を言われたのか分からなかった。
狙うって、何を?
神谷さんを——?
「ええっ!?」
ばらばらだった言葉の意味が頭の中で繋がった瞬間、思わず自分でも驚くくらい大きな声が出た。
「違うよ!」
「ほんとに?」
「本当だよ!」
反射的に否定したのに、マルガレーテちゃんはまだ疑っているらしく、じっとこちらを見たまま目を逸らそうとしない。
「じゃあ、何でそんなに知りたいのよ」
「そういう意味じゃなくて、今日初めて会ったし、それにマルガレーテちゃんとすごく仲いいから、どんな人なのかなって気になっただけ!」
「ふーん」
「本当だって!」
どうして何も悪いことをしていない私が、こんなに必死になって弁解しなきゃいけないんだろう。そう思いながらも、このまま疑われ続けるのも嫌で、なんとか納得してもらおうと言葉を続ける。
「いや、確かにかっこいいとは思うけど——」
そこまで言ったところで、自分の口から何が飛び出したのかに気づいた。
「——あ」
言ってしまった。しかも、この状況で一番言わない方がよさそうなことを。
案の定、マルガレーテちゃんの眉がぴくりと動いた。
「——かっこいい?」
「待って」
「かっこいいんだ?」
「そういう意味じゃないから!」
慌てて否定するけれど、もう遅かったらしい。さっきまで以上に疑わしそうな目を向けられて、私はますます焦ってしまう。
「じゃあ、どういう意味よ」
「一般論!」
「何よ、一般論って」
「顔が整ってるとか、背が高いとか! そういう意味!」
必死になって説明するけれど、マルガレーテちゃんは「へえ」と短く返しただけで、どう見ても納得したようには見えなかった。細められた目も、わずかに不満そうな表情も、まだ私を疑っているのがありありと伝わってくる。
「……その顔やめてよ」
「別に何もしてないけど」
「してるよ!」
絶対にしている。何もしていないと言い張っているけれど、その顔はどう見ても「本当に?」と言っているようにしか見えない。そもそも、私が神谷さんをどう思っているかなんて、そんなに気にすることなんだろうか。
「マルガレーテちゃんだって、神谷さんがかっこいいって言われたら普通に分かるでしょ?」
「知らない」
返事は驚くほど早かった。
「絶対分かってるよね!?」
「興味ない」
「嘘だぁ」
「何よ」
むっとしたように睨まれたけれど、さすがに今のは私だって納得できない。
「だって今日ずっと——」
そこまで言いかけて、私は口を閉じた。
「……何?」
「いや……」
言葉にしようとした途端、今日一日見てきた二人の姿が次々と頭の中に浮かんできたからだ。
何の迷いもなく手を繋いで歩いていたこと。
神谷さんが飲んでいたものを、マルガレーテちゃんが何の躊躇もなくそのまま飲んでいたこと。
カフェに着いてからも、気づけばまたカウンターの下で手を繋いでいたこと。
肩に頭を預けることも、頭を撫でられることも、二人にとっては特別なことでも何でもないみたいだった。
そして帰るときには、神谷さんの服をつまんでまで引き止めて、最後には姿が見えなくなるまでずっとその背中を見送っていた。
——それで、興味ない?
さすがにそれは、無理があるんじゃないかな。
こうして今日一日の出来事を改めて並べてみると、自分で思い返しておきながら、やっぱりすごい。
「……何?」
いつの間にか黙り込んでいた私を不思議に思ったのか、マルガレーテちゃんが小さく首を傾げる。
「なんでもない」
「気になるんだけど」
「ほんとに何でもないよ」
これ以上考えていることを悟られないよう、私はぶんぶんと首を振った。
うっかり口にしたら、また話が変な方向へ行ってしまいそうだ。
そもそも今は、私が神谷さんを狙っているわけではないと説明していたはずなのに、どうして私はこんなにも必死になってマルガレーテちゃんへ弁明しているんだろう。
そう考えてから、ふと引っかかる。
……あれ?
でも、今日一日ずっと二人の様子を見てきたあとだと、神谷さんにそういう意味で興味がないことを弁明する相手として、マルガレーテちゃんはむしろ正しいような気もしてくる。
いやいや、違う。
二人は恋人じゃないって言っていたんだから、そんなことを気にする必要はないはずだ。
——たぶん。
「と、とにかく」
考えれば考えるほど分からなくなってきて、私は一度咳払いをすると、無理やり話を元へ戻すことにした。
「聞きたかったのは、そういうことじゃなくて。音楽のこと」
「音楽?」
予想していた話とは違ったらしく、マルガレーテちゃんの表情から、それまでわずかに残っていた警戒が少しだけ薄れた。
「うん」
どうやら、これでようやく本題に戻れそうだ。
「神谷さん、今日ヴァイオリンのケース持ってたでしょ」
「ええ」
「やっぱり、ヴァイオリン弾くんだよね?」
「弾くわよ」
返ってきたのは、あまりにもあっさりとした答えだった。マルガレーテちゃんにとっては、わざわざ説明するほどでもないくらい当たり前のことなのかもしれない。
「昔から?」
「昔からよ」
「じゃあ、マルガレーテちゃんが小さい頃からずっと?」
「そうよ」
そこまで聞いたところで、ふと以前マルガレーテちゃんから聞いた話が頭に浮かんだ。
「……あ」
「何?」
「ううん。なんでもない」
まだ彼女が小さかった頃、家族がいない夜にひとりで過ごしていて、寂しくて、心細くて仕方がなかったときのこと。
そんな彼女の耳に、隣の家からヴァイオリンの音と歌声が聞こえてきた。そして、そのヴァイオリンを弾いていたのが、隣の家に住んでいた幼馴染だった。
——神谷さんだ。
改めて確認するまでもない。
あのとき話を聞いたときには、まだ顔も名前も知らなかった。マルガレーテちゃんが音楽を始めるきっかけになった、大切な思い出の中にいた幼馴染。
隣の家から、ひとりだった彼女のところまでヴァイオリンの音を届けていたその人が、今日突然目の前に現れた神谷さんだったんだ。
そう思うと、これまで話の中にしかいなかった誰かと、今日一日見てきた神谷さんの姿が、ようやく自分の中でひとつに重なったような気がした。
「……そっか。あのときのヴァイオリンも、神谷さんなんだ」
独り言のように口にすると、マルガレーテちゃんは少しだけ間を置いてから頷いた。
「ええ」
返ってきたのは、それだけだった。
けれど、その声はさっきまでよりも少しだけ柔らかく聞こえた。
マルガレーテちゃん自身にとっては、わざわざ説明するようなことでもないのかもしれない。幼い頃からずっとそばにいて、あの夜に聞いた音も、それから何度も一緒に重ねてきた音も、全部同じ人のものなのだから。
そう考えながら彼女を見ると、ほんの一瞬だけ、その表情まで柔らかくなったような気がした。
「じゃあ、神谷さんってヴァイオリニストなの?」
「ヴァイオリニストっていうか……ヴァイオリン
「違うの?」
てっきりそうなんだと思っていたけれど、マルガレーテちゃんは少し考えるように首を傾けた。
「別に、ヴァイオリンしか弾かないわけじゃないもの」
「え?」
「弦楽器なら、大体弾けるし」
さらっと言われて、一瞬その意味を理解するのが遅れた。
「……大体?」
「ヴィオラとか。チェロも弾けるわよ」
「ちょっと待って」
ヴァイオリンの話をしていたはずなのに、急に情報量が増えた。しかもマルガレーテちゃんの言い方があまりにも自然だから、まるでそれくらいできて当然のことのように聞こえてしまう。
「それって、普通なの?」
「普通ではないんじゃない?」
「だよね!?」
思わず身を乗り出すと、マルガレーテちゃんはどうしてそんなに驚いているのか分からないとでも言いたげな顔をしている。本人があまりにも当然のように話すから、もしかして私の感覚の方がおかしいのかと思ってしまった。
「それに、ピアノも弾くし」
「……ピアノも?」
「ええ」
さらに付け足された一言に、今度こそ言葉が詰まった。
「……すご」
ようやく口から出てきたのは、そんな単純な感想だった。
ヴァイオリンを弾けるというだけでも、私からすれば十分すごい。今日持っていたケースを見たときから、きっと昔からきちんと習っている人なんだろうとは思っていたけれど、どうやら私が想像していたより、神谷さんの音楽はずっと幅が広いらしい。
「神谷さんって、本当に音楽が得意なんだね」
「湊なんだから、それくらい普通でしょ」
マルガレーテちゃんは、本当に何でもないことのように言った。その答えに、私は思わず彼女の顔を見つめてしまう。
「……いや、普通じゃないよ」
「そう?」
マルガレーテちゃんは少し不思議そうな顔をしたものの、それ以上は何も言わなかった。
ただ、私が神谷さんのことをすごいと思っているのが伝わったからなのか、ほんの少しだけ口元を緩めると、どこか満足そうに小さく頷いた。
自分が褒められたわけでもないのに、少し得意そうに見える。
たぶん、本人はそんな顔をしていることにも気づいていない。
でも、神谷さんのことを話しているときのマルガレーテちゃんは、いつもより言葉に迷いがない。それくらいできて当然だと、湊ならできないはずがないと、最初から疑う余地すらないみたいだった。
きっと、小さい頃からずっとそういう神谷さんを見てきたのだろう。
私なら一つ聞くたびに驚いてしまうようなことも、マルガレーテちゃんにとっては「湊ならそれくらいできる」と受け入れられるくらい、昔から当たり前のことなのかもしれない。
「それで、音楽学校から推薦もらったんだ」
昼間に聞いた話を思い出して口にすると、マルガレーテちゃんは当然のように頷いた。
「そうよ」
「それを断って、日本に来たんだよね」
「……そうね」
今度の返事は、さっきまでよりほんの少しだけ短かった。
昼間、この話になったときのマルガレーテちゃんの反応を思い出す。神谷さんが推薦を断ったことを、彼女がよく思っていないのは私にも分かっていた。それに、神谷さん本人がそのあたりを詳しく話そうとしなかったことを考えると、これ以上ここで掘り下げるのはやめておいた方がよさそうだった。
私はそれ以上尋ねるのをやめ、何気なく机の上へ視線を移す。
そこには、さっきマルガレーテちゃんに見てもらったタブレットが置かれていた。
「……じゃあさ」
「何?」
「神谷さんにも、これ見てもらう?」
歌詞の入ったタブレットを指さすと、マルガレーテちゃんもつられるようにそちらへ目を向けた。
「湊に?」
「うん。音楽のことそんなに分かるなら、ちょっと意見聞いてみたいなって」
マルガレーテちゃんは少し考えるようにタブレットを見つめたものの、特に反対する理由はなかったらしい。
「別にいいんじゃない?」
「ほんと?」
「私に聞かれても困るけど。かのんが見せたいなら、見せればいいじゃない」
言われてみればその通りなのだけれど、私はすぐには頷かず、少し考えてからマルガレーテちゃんを見る。
「じゃあ明日、お願いしてみようかな。マルガレーテちゃんも一緒に言ってくれる?」
「何で私が」
「だって、私がいきなり『歌詞見てください』ってお願いするより、マルガレーテちゃんからも一言あった方が頼みやすいし」
「今日初めて会ったからって、別にそれくらい自分で言えばいいじゃない」
「そこをなんとか。お願い!」
両手を合わせて頼んでみると、マルガレーテちゃんは心底呆れたような顔をして、長く息を吐いた。
「……分かったわよ」
「ほんと?」
「ただし、頼むのは自分でやりなさい。私は横にいるだけだから」
「うん、それで十分!」
私が笑って頷くと、マルガレーテちゃんは「まったく……」とでも言いたげにこちらを見たあと、もうこの話は終わりだというように小さく肩をすくめた。
これで明日の話が一つ増えた。
けれど、私の中に残っている興味は、まだもう一つあった。
「あとさ」
「まだあるの?」
「……もう一個だけ」
さすがに聞きすぎだと思われたのか、マルガレーテちゃんは少し呆れたような顔をした。それでも追い返すつもりはないらしく、続きを促すようにこちらを見る。
「神谷さんのヴァイオリン、聞いてみたいな」
そう口にすると、マルガレーテちゃんは少しだけ意外そうに目を瞬いた。
「聞けばいいじゃない」
「お願いしたら弾いてくれるかな?」
「それは知らないわよ」
あまりにもあっさり返されてしまったけれど、考えてみれば当然なのかもしれない。どれだけ長く一緒にいた幼馴染だからといって、今の神谷さんが何を考えているのか、その全部が分かるわけではない。
……今日一日の二人を見ていると、普通の幼馴染よりはずっと分かっていそうな気もするけれど。
「でも、聞いてみたいな」
「だったら、明日自分で聞けばいいでしょ」
「うん。そうしてみる」
歌詞を見てもらえるかどうかと一緒に、明日会ったときに頼んでみよう。
そう決めたところで、ふと別の疑問が浮かんだ。
小さい頃からヴァイオリンを弾いていて、それ以外の弦楽器も扱えて、ピアノまで弾ける。そのうえ音楽学校から推薦を受けるほどなのだから、神谷さんが上手いことくらい、私にだって想像できる。
それでも、マルガレーテちゃんはそのどれを話すときも、神谷さんならできて当然だというような顔をしていた。
だったら——実際の演奏は、どれくらいなんだろう。
「……神谷さんって」
「何?」
「どれくらい上手いの?」
深く考えたわけでもなく、純粋に気になったことをそのまま尋ねただけだった。これまでの質問と同じように、「上手い」とか「すごく上手い」とか、そんな分かりやすい答えがすぐに返ってくるものだと思っていた。
けれど、マルガレーテちゃんは何も答えなかった。
「…………」
最初は私の方を見ていた視線が、ゆっくりと下へ落ちていく。
「マルガレーテちゃん?」
呼びかけてみても、すぐに返事はない。
一瞬、聞こえなかったのかと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。俯き気味になったまま何かを探すように黙り込んでいる姿を見ているうちに、答えに迷っているのだと気づいた。
今までの質問には、ほとんど迷うことなく答えていた。
ヴァイオリンを弾くことも、他の弦楽器を扱えることも、ピアノまで弾けることも、マルガレーテちゃんにとっては改めて考える必要すらない事実だったのだろう。
なのに——。
どれくらい上手いのか。ただそれだけを尋ねた途端、初めて答えが止まった。
マルガレーテちゃんの唇が、何かを言おうとするようにわずかに動く。
けれど、結局そこから言葉が続くことはなく、もう一度考え込むように口を閉ざしてしまった。
どうしてそんなに迷うのかは分からなかったけれど、答えたくないようには見えない。むしろ、頭の中にあるものをどう言葉にすればいいのか分からず、困っているように見えた。
だから私はもう一度尋ねることも、答えを急かすこともせず、黙ったままその横顔を見つめていた。
しばらくして、ようやく何か言葉を見つけたのか。
マルガレーテちゃんが、小さく息を吸った。
◇
——どれくらい上手いの?
かのんにそう聞かれて、私はすぐに答えることができなかった。湊が上手いことなんて、わざわざ考えるまでもない。
ヴァイオリンはもちろん、他の弦楽器も扱えるし、ピアノだって昔から上手かった。私が日本にいる間も向こうで音楽を続けていたのだから、きっと今では、私の知らないことまでできるようになっているのだろう。
だから、ただ質問に答えるだけなら簡単なはずだった。
——上手いわよ。
そう言えば、それで済む。なのに、いざその言葉を口にしようとすると、どうしても喉の奥で引っかかってしまった。
間違っているわけじゃない。
ただ、それだけではあまりにも足りない気がした。
かのんが聞きたいのは、きっとそんな難しいことじゃない。湊のヴァイオリンがどれくらい上手なのか、それを知りたいだけなのだと分かっている。
それなのに、湊の音を思い浮かべようとした途端、私の中に浮かんできたのは演奏の上手さなんかではなかった。
幼い頃、隣の家から聞こえてきたヴァイオリン。
初めて一緒に音を重ねたときのこと。
上手くできなくて悔しかった日も、負けたくなくて何度も同じところを繰り返した日も、私が歌えば当然のように隣で音を重ねてきたことも。
思い出そうとしなくても、次から次へと浮かんでくる。
ひとつの音を思い浮かべれば、その隣に別の音があって、その音にはまた別の日の記憶が結びついている。
どれもずっと昔のことのはずなのに、不思議なくらい遠く感じなかった。たぶん、それだけ長い間、湊の音が私のすぐそばにあることを当たり前だと思っていたからだ。
上手いとか、才能があるとか、そんな言葉で湊を評価したことなんて、今までほとんどなかった。
もちろん、すごいと思っている。負けたくないと思ったことだって、一度や二度じゃないし、悔しいくらい先へ行かれて、その背中を追いかけたこともある。それでも、私にとって湊は、ただ音楽が上手い人でも、競い合ってきただけの相手でもない。
——幼馴染。
それは間違いなく私たちの関係を表す言葉なのに、今こうして誰かに説明しようとすると、それだけでも足りない気がした。
湊は湊。
私にとっては、ずっとそれで十分だった。隣にいることも、その音を聞くことも、私のことを分かったような顔で余計なことをしてくることも、全部まとめて「湊」だった。
だから、それを誰かに説明するための言葉なんて持っていない。けれど、かのんは今も答えを待っている。
私は視線を落としたまま、もう一度だけ湊のことを考えた。
あの夜、ひとりだった私のところまで届いた音。何度追いかけても、少し先を歩いていた背中。腹が立つくらい何でもできて、それでも私が立ち止まれば、勝手に戻ってきて手を差し出す人。
遠くにいるときでさえ、そこにいることを疑ったことはなかった。そうやって一つずつ思い浮かべているうちに、不意に、ひとつの言葉が頭に浮かんだ。あまりにも大袈裟で、口にするのは少し恥ずかしい。
それでも、他のどんな言葉より、今の私にはしっくりきた。
私はゆっくりと顔を上げる。
目の前では、かのんが急かすこともなく、不思議そうに私の答えを待っていた。
「彼は——」
一度、そこで言葉を切る。
自分でも、こんなふうに湊のことを誰かに説明しようとしたのは初めてだった。
だから、この言葉が本当に正しいのかは分からない。
それでも、今まで頭に浮かんだどんな言葉よりも、ずっと近い気がした。
「私にとっての——太陽なの」