人の記憶というものは、不思議なものだと思う。
顔より先に、声を覚えることもある。
名前より先に、温度を覚えることもある。
私の場合は——音だった。
暗い部屋の向こうから聞こえてきた、ひとつのヴァイオリンの音。
あの夜、私はまだ彼の顔も知らなかった。
名前さえ知らなかった。
それなのに、その音だけはずっと覚えていた。
そして数日後。
その音に、初めて名前がついた。
——神谷湊。
私より二つ年上の、少し生意気な男の子だった。
◇
家族が帰ってきてから、家の中はすっかり元通りになっていた。
朝になれば誰かの足音が聞こえて、食事の時間になれば自然と人が集まる。廊下を歩けば向こうから誰かがやってきて、部屋の扉を開ければ人の気配がある。
少し前まで当たり前だったはずのそんなことが、家族と離れて過ごした一週間を挟んだだけで、妙に賑やかに感じられた。
もう、寂しくはなかった。
夜になっても、暗い部屋でひとりきりになることはない。
だから、あの夜の音を待つ理由だってなくなったはずだった。
それでも私は、時折窓の向こうへ耳を澄ませていた。
隣の家から聞こえてきた、あのヴァイオリン。
細い弦から生まれているとは思えないほど豊かな音が、静まり返った夜の中へ広がっていく。その途中には、ときどき少年らしき歌声まで重なっていた。
上手だったから覚えていたのかと聞かれても、当時の私には答えられなかったと思う。
五歳の私に、演奏の良し悪しを正確に判断できるほどの知識なんてなかった。
ただ、好きだった。
家族のいない夜を、ほんの少しだけ寂しくないものにしてくれた。
だから、もう一度聞きたかった。
それだけだった。
「
階下からお母さんの声が聞こえてきたのは、そんなある日の午後だった。
「
読んでいた絵本から顔を上げて返事をすると、少し間を置いてもう一度声が届く。
「
私に用事のあるお客さんなんて思い当たらなかった。
それでも呼ばれた以上は行かなければならない。開いていた本を閉じてソファから降りると、私は部屋を出て階段へ向かった。
一階へ近づくにつれて、お母さんとは違う女性の声が聞こえてくる。
随分楽しそうだった。
お母さんも普段より声を弾ませていて、時折二人の笑い声まで混ざっている。知らない人が訪ねてきたというより、久しぶりに会った友達と話しているような雰囲気だった。
リビングへ入ると、お母さんの向かいにひとりの女性が座っていた。
そして、その隣に男の子がいる。
私より少し背が高い。見たことのない顔だった。
けれど、その子自身より先に私の目を引いたものがあった。
椅子の脇に立て掛けられた、黒いケース。
私は入口で足を止めた。
「
お母さんに呼ばれて、ようやく顔を上げる。
「
紹介された女性が、私を見て柔らかく笑った。
「
「……
挨拶を返しながらも、私の意識はどうしてもその隣へ向いてしまう。
知らない男の子。
そして、黒いケース。
そんな私に気づいたのか、お母さんが続けた。
「
名前を呼ばれた男の子がこちらを見る。
「
そう言って、軽く頭を下げた。
私も自分の名前を言った方がいいのだろう。
けれど、その前にどうしても確かめたいことがあった。
私は湊ではなく、彼の足元を指差した。
「……
「
湊が私の指先を追って視線を落とす。
「
「
「
その答えを聞いて、私は一歩だけ湊へ近づいた。
近くで見れば、やっぱりヴァイオリンのケースだった。家にも似たものはあるし、街中で見かけたことだってある。
もちろん、それだけで決めつけられるわけじゃない。
でも。
聞かずにはいられなかった。
「
「
湊は、どうしてそんなことを聞くのか分からないという顔をしていた。
私は少しだけ考えてから、もうひとつ尋ねる。
「
「
「
今度は湊が考える番だった。
何日前のことだったか思い出しているのか、少し視線を上へ向ける。
それから。
「……
胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
「
「
そこで初めて、私は神谷さんの方を見た。
彼女は少し驚いたあと、どこか嬉しそうに笑った。
「
「
——この子だ。
あの夜、ヴァイオリンを弾いていた男の子。顔も名前も知らなかった、その音の持ち主。
「
少し気まずそうに自分のお母さんを見る湊に、私は首を横へ振った。
別に、うるさかったと言いたいわけじゃない。
「
「
「……
上手く説明できなかった。
家族がいなくて寂しかったあの夜、あなたの音が聞こえてきて——そんなことを、初めて会ったばかりの男の子に素直に言えるような子供ではなかった。
それに、たとえ言おうとしたところで、当時の私自身、あの夜に感じたものを上手く言葉にすることなんてできなかったのだと思う。
ただ、それでもひとつだけ分かったことがある。
あの夜、顔も知らず、名前さえ知らないまま、ただその音だけを知っていた相手が、今こうして目の前にいる。
ずっと音だけで知っていたその相手と、ようやく目の前の男の子がひとつに重なってしまえば、次に言うことなんて、もう決まっていた。
「
「
あまりに突然だったのか、湊が間の抜けた声を出した。
私は構わず、足元のケースを指差す。
「
「
「
「
「
当時の私には、それで十分な理由だった。
聞きたい。
だから弾いてほしい。
それの何がおかしいのか分からない。
けれど湊はそうではなかったらしく、少し困ったような顔で私を見ていた。
そんな私たちを見ていたお母さんたちは、顔を見合わせると楽しそうに笑った。
「
神谷さんにそう言われ、湊はますます困った顔になる。
「
「
今度はお母さんまで余計なことを言う。
私は別に珍しいことをしているつもりなんてなかった。
ただ、もう一度あの音を聞きたいだけなのに。
「
湊はそう言いながら、自分の母親へ助けを求めるような視線を向けた。
けれど、返ってきたのは期待していたものとは違ったらしい。
「
「
小さく息を吐く。
それでも断るつもりはないらしく、湊は椅子の横に置いてあったケースへ手を伸ばした。
「……
そう念を押す湊を連れて、私はリビングを離れ、そのまま自分の部屋へ向かった。
お母さんたちはまだ話の途中だったらしく、そのままリビングに残っている。だから部屋へ入ったときには、私と湊の二人だけになっていた。
湊はヴァイオリンケースを手にしたまま私のあとをついてきて、部屋へ入るなり、珍しそうに辺りを見回した。
淡い色の壁紙に、白を基調とした家具。ベッドの上には柔らかな色合いのクッションがいくつか並び、窓辺には小さなぬいぐるみや飾りが置かれている。別に特別なものがあるわけではないけれど、こうして誰かに見られていると、普段は気にも留めない自分の部屋が妙に気恥ずかしく感じられた。
「
「……
さっきから部屋の中を見回している湊が気になって声をかけると、ようやくこちらへ視線を戻した。
「
「
「
「
そう言い返しながらも、なんとなくこれ以上部屋を見られているのが落ち着かなくて、私は湊が持っているケースへ視線を向けた。
「
「
湊は小さく笑うと、それ以上からかうこともなく、持っていたヴァイオリンケースを床へ下ろした。
その瞬間、私の意識も部屋のことから、目の前のケースへと移っていく。
留め具が外され、ゆっくりと蓋が開かれる。
中からヴァイオリンを取り出した湊は、慣れた手つきで楽器を構えると、そのまま顎を添え、弓を握った。
その一連の動きを、私は何も言わずに見つめていた。
あの夜、私が知っていたのは音だけだった。
壁の向こうに誰がいて、どんな顔をして、どんなふうにヴァイオリンを弾いているのかなんて、何ひとつ知らなかった。ただ暗い部屋の中で、どこからか聞こえてくるその音に耳を澄ませていただけだった。
でも、今は違う。
ヴァイオリンを支える手も、楽器へ顎を添える仕草も、弓を握る指先も、その向こうにある湊の顔も、今はちゃんとこの目で見ることができる。
あの夜には音しか知らなかった相手が、今はこうして私の部屋で、目の前に立っている。
そのことがなんだか不思議で、私はこれから聞こえてくるはずの音を待ちながら、湊から目を離すことができなかった。
「
準備を終えた湊が尋ねてきた。
答えは決まっていた。
「
「
「
「……
湊はすぐには思い当たらなかったらしく、困ったように眉を寄せた。
「
「
「
「
呆れたようにそう言いながらも、湊は私の頼みを断るつもりはないらしい。ヴァイオリンを構えたまま視線を宙へ彷徨わせ、あの夜に自分が何を弾いていたのか、ひとつずつ記憶を辿っているようだった。
私も急かすことなく、その様子をじっと見つめながら待つ。
やがて何か思い当たったのか、湊の表情がわずかに変わった。確信まではないのか、少し首を傾げながら弓を持ち上げる。
「
そう言って弓が弦へ触れた次の瞬間、部屋の中に最初の一音が響いた。
ほんの一音だった。
それなのに、耳へ届いた途端、私は思わず息を止めていた。
聞き間違えるはずがない。
目の前にいる湊の姿も、自分の部屋に差し込む光も、一瞬だけどこか遠くへ消えていくような感覚とともに、あの夜、暗い部屋の中でひとり耳を澄ませていたときの記憶が鮮明に蘇ってくる。
——あ。
これだ。
間違いなかった。耳へ届いた瞬間に分かるくらい、それは確かにあの夜、壁の向こうから聞こえてきた音だった。
けれど、同じ曲のはずなのに、あのときとはどこか違って聞こえる。
壁一枚を隔てた向こう側ではなく、ほんの数歩先にいる湊のヴァイオリンから直接届く音は、記憶の中に残っていたものよりもずっと鮮明で、弓が弦の上を滑るたびに生まれる響きが空気を震わせながら、私の部屋いっぱいに広がっていった。
そして何より不思議だったのは、ヴァイオリンを弾いている湊の顔だった。
ついさっきまで、どの曲だったか思い出せと言われて面倒そうにしていたくせに、弓を動かし始めた途端、その表情から余計なものが消えていく。
目の前にいる私のことさえ気にしていないようだった。
視線は手元とヴァイオリンへ落ちたままで、ただ自分の手から生まれていく音を追いかけるように、湊は静かに演奏を続けていた。
そんな湊を見ているうちに、私もいつの間にか動くことを忘れていた。
座ることすら頭から抜け落ち、その場に立ったまま耳を澄ませていると、ひとつの音が響くたび、その次に来る音が待ち遠しくなる。
次はどんな音が聞こえるのだろう。
その次は。
もう少しだけ、この音を聞いていたい。
そう思いながら夢中で耳を傾けているうちに、いつしか曲は終わりへ近づき、最後に残った音がゆっくりと細くなりながら、名残惜しむように部屋の中へ溶けていった。
その余韻が消えるのを待つように、湊が静かに弓を下ろした。
「
確かめるように尋ねられ、私は迷うことなく一度だけ頷いた。
間違いなく、あの夜に聞いた曲だった。
そして、それが分かった途端、次に口から出てきた言葉も決まっていた。
「
「
「
「
「
「
「
「
湊は本当に不思議そうだった。
一度聞いた曲を、どうしてすぐにもう一度聞きたがるのか。その理由が分からないらしい。
けれど、私にとっては何も不思議なことではなかった。
好きなものなら、もう一度聞きたい。
もう一度聞いて、それでも足りなければ、また聞きたくなる。
ただ、それだけだった。
「
「
そう答えると、湊はしばらく私の顔を見つめた。
どうやら私が冗談を言っているわけでも、ただ困らせようとしているわけでもないと分かったらしい。
やがて小さく息を吐くと、少し呆れたように肩を落とした。
「……
「
「
「
「|Nur weil du „bitte“ sagst, heißt das nicht, dass du nicht eigensinnig bist.《お願いって言えば、わがままじゃなくなるわけじゃないだろ》」
そんなことを言われるとは思っていなくて、私は少しだけ言葉に詰まった。
ちゃんとお願いしたのだから、それでいいと思っていたのに、どうやら湊にとってはそういう話ではないらしい。
「
「
呆れたように返しながらも、湊はすぐにヴァイオリンを片付けようとはしなかった。
私も何も言わず、そのまま湊の顔をじっと見つめる。
しばらくそんな睨み合いが続いたけれど、先に折れたのは湊だった。
「……
「
「
得意げに指摘されて少し腹が立ったけれど、言い返したところで、また「わがまま」と言われそうな気がして黙っておいた。
湊もどこか納得がいかないような顔をしていたけれど、それでも約束した以上は弾いてくれるらしい。小さく息を吐いてから、もう一度ヴァイオリンを肩へ乗せた。
二度目の演奏が始まると、私はさっきよりも注意深く、その音へ耳を澄ませた。
弾いているのは同じ曲で、使っている楽器も同じヴァイオリン。それどころか、目の前で弓を動かしているのも、もちろん同じ湊だった。
それなのに、不思議なことに、さっき聞いたものとまったく同じには聞こえない。
あるところでは先ほどより少し強く聞こえたかと思えば、別のところではもっと優しく感じられる。弓が素早く弦の上を走るところもあれば、反対にゆっくりと音を確かめるように動いていくところもあった。
どうしてそう聞こえるのか、何が違っているのかなんて、五歳の私にはまだ分からない。
音楽について知っていることなんてほとんどなくて、それを説明するための言葉だって持っていなかった。
それでも、一度目と二度目が同じではないということだけは、はっきりと分かった。
同じ曲なのに、弾くたびに少しずつ違う音になる。
そのことが、たまらなく面白かった。
もっと聞いていれば、また違う音が聞こえるのだろうか。そんなことを考えているうちに二度目の演奏も終わりを迎え、最後の余韻が消えると、今度こそ湊は「これで終わり」とでも言いたげに、すぐヴァイオリンを下ろした。
「
今度こそ終わりだと言わんばかりの湊を前に、私は少しだけ考えた。
二回聞いても、やっぱりまだ足りない。さっきと同じように、もう一度弾けばまた少し違って聞こえるかもしれないと思うと、どうしてもその音を聞いてみたくなった。
「……
「
今度は考える間すらなく、すぐに断られた。
「
「
どうやら私がもう一度頼むことまで予想していたらしい。湊は呆れたようにそう言うと、これ以上頼まれても弾かないという意思を示すように、ヴァイオリンをケースへ戻そうとした。
けれど、その途中でふと手を止める。
何かを思いついたのか、少しだけ考えるような顔をしてから私へ視線を向けた。
「
「
「
突然何を言い出すのかと思い、私は意味が分からないまま湊を見返した。
「
「
「
「
「
当たり前のことを言っているだけなのに、湊はなぜか納得できないような顔をしている。
しばらく何かを考えるように私の顔を見つめていたかと思うと、やがて本当に大したことでもないような調子で、ひとつの呼び方を口にした。
「……
「
自分の名前から取られたものだということはすぐに分かったけれど、そんなふうに呼ばれたのは初めてだった。
家族からも、これまでに会った友達からも、一度だってそう呼ばれたことはない。
だから本当なら、勝手に変な呼び方をしないで、と言ってしまってもよかったはずなのに、私はすぐにはそうしなかった。
頭の中でもう一度、今聞いたばかりの呼び方を繰り返してみる。
——マル。
たった二文字になってしまった自分の名前は少し変な感じがしたけれど、不思議と嫌ではなかった。
それどころか、初めて聞いたはずなのに妙に耳へ残って、もう一度その呼び方で呼ばれたらどんなふうに聞こえるのだろうと、そんなことまで考えてしまっていた。
「……
「
こうして、決まるときは驚くほどあっけなかった。
何か特別な約束を交わしたわけでも、その呼び方に大きな意味があったわけでもない。ただ湊がそう呼びたいと言って、私が好きにすればと許した。それだけのことで、それまで誰からも呼ばれたことのなかった「マル」という名前は、あっさりと湊のものになった。
「
覚えたばかりの呼び方を確かめるように、湊がもう一度私を呼ぶ。
「
「
「
「
そんな顔をしているつもりなんてないのに、湊は私の反応がおかしかったのか、呆れたように笑っている。
「
「
「
その言葉にはさすがに腹が立って、今度は考えるより先に言い返していた。
「
「
「
「……
呆れ果てたようにそう言った湊が、本当に帰るつもりなのかヴァイオリンをケースへ収め、そのまま蓋へ手を伸ばす。
その動きを見た途端、私は思わず手元へ視線を落とした。
このままケースを閉じられて、湊が隣の家へ帰ってしまったら、もう今日はあの音を聞けない。それはなんとなく嫌だった。
「
「
まだ少し聞き足りない気持ちはあったけれど、さすがに何度もお願いするのは悪い気がした。
また聞かせてくれると言ったのだから、今日はこれでいい。
次にその機会が来たときに、またお願いすればいい。
そう思って、この日は大人しく湊がヴァイオリンを片付けるのを見送った。
その日から、夜になると隣の家から聞こえてくるヴァイオリンの音を、私は以前より少しだけ楽しみにするようになった。同じ音のはずなのに、もう知らない誰かが奏でている音ではない。
壁の向こうで誰がヴァイオリンを構え、誰がその弓を動かしているのかを、私はもう知っている。
——湊だ。
そう思えるようになっただけで、隣の家から聞こえてくる音は、以前よりほんの少しだけ近く感じられるようになった。
◇
それからというもの、私は何かにつけて湊のところへ遊びに行くようになった。
最初のうちは、お母さんたちが会う日に一緒に顔を合わせる程度だったのに、いつからか隣の家からヴァイオリンの音が聞こえてくるだけで、何を弾いているのか気になるようになっていた。
この前聞いた曲だろうか。それとも、まだ一度も聞いたことのない曲だろうか。
そんなことを考え始めると、部屋でじっと耳を澄ませているだけでは物足りなくなってくる。結局はお母さんに「湊のところに行ってくる」と告げ、そのまま隣の家へ向かうのが、いつしか当たり前になっていた。
神谷家の人たちも、そんなふうに頻繁にやってくる私にはすぐ慣れたようで、何度目かになる頃には、私が訪ねていっても特に驚かれることはなくなっていた。
「
私がやってきたことに気づいた湊は、練習の手を止めると、ヴァイオリンを持ったまま当たり前のように尋ねてくる。
「
「
いつの間にか湊も、以前のように「また?」と呆れることはなくなっていた。
私が来れば、自分のヴァイオリンを聞きに来たのだと最初から分かっている。私の方もそれを否定することなく、湊が演奏を始めるのを当然のように待つようになっていた。
「
そう尋ねられたところで、当時の私は曲名なんてほとんど知らない。何度も聞いて気に入った曲であっても、それが何という名前なのかまでは知らないのだから、当然、湊への注文も曖昧なものになった。
「
「
「
「
「
これなら分かるだろうと思ったのに、湊はますます困ったように眉を寄せる。
「
「
「
毎回そんな文句を言われながらも、湊が本当に断ることはほとんどなかった。私の曖昧な説明から候補になりそうな曲をいくつか考えては、これかと確かめるように少しずつ弾いてくれる。
そして不思議なことに、大抵はその中に私が聞きたかった曲があった。
そんなやり取りを繰り返しながら、私は何度も隣の家へ通い、そのたびに湊のヴァイオリンを聞くようになっていった。
そんな日々がしばらく続いた、ある日のこと。
その日も私はいつものように湊の近くで床に座り、ヴァイオリンの音へ耳を傾けていた。演奏しているのは、これまでにも何度か聞いたことのある曲だった。
初めて聞いた頃には、次から次へと流れていく音をただ追いかけることしかできなかった。けれど、同じ曲を繰り返し聞いているうちに旋律が少しずつ頭に残り、次にどんな音が来るのか、どこで静かになって、そこからどこでまた強くなるのかまで、なんとなく分かるようになっていた。
もちろん、完璧に覚えているわけではない。それでも、湊の弓が動くのを見ていると、この次はきっとこうなる——そんなふうに、流れてくる旋律の続きをなんとなく想像することができる。
そうして音を追いかけているうちに、気づけば私は、覚えたばかりの旋律を小さく口ずさんでいた。
最初は自分にしか聞こえないような鼻歌だった。
けれど、湊のヴァイオリンから聞こえてくる旋律に自分の声を重ねてみると、それまでただ聞いていたときとは違う感覚があって、それが妙に面白かった。
もっと合わせてみたい。
そんなことを考えているうちに、いつしか鼻歌だったはずの声も少しずつ大きくなり、私は湊の演奏に合わせて、すっかり夢中になって歌っていた。
——そのときだった。
それまで途切れることなく続いていたヴァイオリンの音が、曲の途中で不意に止まった。
「
突然音が消えたことに驚いて顔を上げると、ヴァイオリンを構えたままの湊がこちらを見ていた。
「
「
「
「
あまりにも当然のことのように言われたものだから、せっかく気持ちよく歌っていたところを止められたこともあって、少し腹が立った。
「
「
「|Nein. Ich hab genauso gesungen wie du gespielt hast.《そんなことない。湊が弾いたのと同じように歌ったもの》」
「
「|Dann hast du vielleicht anders gespielt als vorher.《だったら、湊がさっきと違う音で弾いたんじゃないの》」
「
「
「
呆れたように言われても、私だって簡単に譲るつもりはなかった。
自分ではちゃんと合っていたと思っているのだから、湊が違うと言うだけで納得できるはずがない。それなら、どちらが正しいのかもう一度やって確かめればいい。
「
「
「
「
「
「
「
お互いに一歩も譲らないまましばらく見つめ合っていたけれど、やがて根負けしたのは、やっぱり湊の方だった。小さく息を吐くと、諦めたように肩を落とした。
「
そう言って湊はもう一度ヴァイオリンを構えた。
私も今度はただ聞くのではなく、最初から一緒に歌うつもりで姿勢を正す。さっき間違っていると言われたところがどこなのか、それを確かめるためにも、今度こそ湊の音をひとつも聞き逃さないつもりだった。
やがて弓が動き出し、ヴァイオリンの旋律が部屋の中へ流れ始める。
私はさっきよりも注意深くその音を聞きながら、覚えた旋律を声にして重ねていった。
最初のうちは何も言われなかった。このままなら合っているんじゃないかと思い始めたところで、不意に弓の動きが止まる。
「
「
「
湊が弓を短く動かすと、ひとつの音だけがはっきりと鳴った。
続けて、今度は少しだけ高さの違う音を鳴らす。
「
「……
「
「
「
「
「
文句を言いながらも、湊はもう一度二つの音を順番に鳴らしてくれた。
こうして続けて聞き比べてみると、確かにまったく同じではない。二つ目の方がほんの少し低いような気はするけれど、それが自分の歌っていた音だと言われても、どう直せばいいのかまでは分からなかった。
「……
仕方なく尋ねると、湊は勝ち誇るでもからかうでもなく、ヴァイオリンを構え直した。
「
「
湊がひとつの音を長めに鳴らす。
私はその響きを追いかけるように声を出してみた。
「
「
「
言われた通り、少しだけ声を高くしてみる。
「
「
「
「
「
湊だって誰かに歌を教えたことなんてなかったのだから、今思えば無茶を言っていたのは私の方だったのかもしれない。
けれど、そんなことを五歳の私が素直に認めるはずもない。
「……
「
結局、文句を言い合いながらも、どちらからもやめようとはしなかった。
湊が音を鳴らして、私がそれに合わせて声を出す。高いと言われれば少し下げ、低いと言われれば今度は上げすぎないように気をつける。
お互いに文句を言いながら、それでもやめようとはしなかった。何度やってもほんの少しずれて、そのたびに湊から「もうちょっと」と言われるのがだんだん悔しくなってきた。
だから、次こそは絶対に合わせてやるつもりで、私はもう一度湊のヴァイオリンへ耳を澄ませた。
「
「
「
「
もう一度、同じ音が鳴る。
今度はすぐに声を出さず、その響きを耳の中に残してから、そっと同じ高さを探すように声を重ねた。
すると、それまで何度も聞こえていた湊の「もう少し」が返ってこない。
代わりに、湊が少しだけ目を見開いてから頷いた。
「
その反応を見て、私は同じ高さを保ったまま湊を見る。
「
「
忘れないように、もう一度同じ音を声にしてみる。
湊は今度もすぐに頷いた。
「
返ってきたのは、それだけの短い言葉だった。
それなのに、自分の声と湊のヴァイオリンがようやく同じところへ重なったことが、なぜだか妙に嬉しかった。
「
「
「
「
呆れたように返しながらも、湊は結局またヴァイオリンを構えてくれた。
三度目の演奏が始まる。
今度はただ覚えている旋律を歌うのではなく、湊のヴァイオリンをよく聞きながら、その音に自分の声を重ねていった。
さっき止められたところが近づいてくると、少しだけ緊張した。
けれど、湊の弓は止まらない。
そのまま次の旋律へ進んでいくのを見て、今度はちゃんとできているのだと分かった。
そこからは余計なことを考えず、ただ聞こえてくるヴァイオリンを追いかけながら歌った。湊の音と私の声が重なったまま、今度は一度も演奏が途切れることなく、最後の一音まで辿り着く。
余韻が消えると同時に、私は確かめずにはいられず湊の顔を見た。
「
「
「
「
「
「ああ」とでも言いたげな顔をしてから、湊は何でもないことのように頷いた。
「
「……
それだけ聞くと、私は何でもないふりをして小さく頷いた。
大袈裟に褒められたわけでもなければ、すごいと言ってもらえたわけでもない。ただ、さっきまで何度やっても合わなかった音を、今度はちゃんと合わせられた。それを湊にも認めてもらえたことが、自分でも不思議なくらい嬉しかった。
そして一度できてしまうと、今度はそれだけでは満足できなくなった。
次はもっと上手く歌ってみたい。湊に途中で止められることなく、最初から最後まで当たり前のように音を合わせて、できることなら、聞いた瞬間に「いい」と言わせてみたい。
そんなことを考えるようになってから、私の中で音楽というものは少しずつ形を変えていった。
それまでは、隣の家から聞こえてくる音に耳を澄ませているだけで満足していた。好きな曲を何度も聞ければ、それだけで楽しかった。
けれど、湊のヴァイオリンに初めて自分の声を重ねてからは、聞いているだけでは物足りないと思うようになった。
自分でも
もっと綺麗に歌えるようになりたい。
そしていつか、湊のヴァイオリンに負けないくらい上手くなりたい。
そんな気持ちが自分の中に生まれていることに気づいた頃には、私にとって音楽は、ただ「好きだから聞くもの」ではなく、「自分も上手くなりたいもの」へと変わっていた。
だから、ある日の夕食後。
私はひとつのことを決めて、お母さんのところへ向かった。
「
食器を片付けていたお母さんが、私の声に気づいて振り返る。
「
いざ顔を見ると、ほんの少しだけ迷った。
今まで自分から何かを習いたいと言ったことなんてなかったし、どう伝えればいいのかも分からない。
それでも、言いたいことだけはもう決まっていた。
「
お母さんの手が止まった。
少し驚いたように私を見つめたあと、その表情がゆっくりと柔らかくなる。
「
「
「
「
そう答えてから、少し違うと思った。
湊と一緒に歌うのが楽しいから、それだけで習いたいわけではない。
もっと上手くなりたいと思ったからだ。
「
今度こそ言いたかったことを伝えられた気がして、私はまっすぐお母さんを見上げた。
けれど、お母さんはすぐには答えなかった。
喜ぶでも、駄目だと言うでもなく、しばらく私の顔を見つめている。その視線が思っていたより真剣だったものだから、私も何も言わずに返事を待った。
やがてお母さんは手にしていた食器を置くと、近くにあった椅子を引き、私にも座るよう静かに促した。
「
そう聞かれて、私は少しだけ考えた。
歌が上手くなりたい。その気持ちはもう決まっている。
けれど、どうしてそう思うようになったのかと聞かれると、答えはひとつしかなかった。
「
その名前が出てくるとは思っていなかったのか、お母さんがわずかに目を見開いた。
「
「
そう口にしても、別に悔しいとは思わなかった。
今の私が湊に敵わないのは当たり前だった。湊は私より二つ年上で、ずっと前からヴァイオリンを習っている。それに比べれば、私は歌い方を習ったことすらなく、音の高さだってこの前初めて湊に教えてもらったばかりなのだから、同じようにできるはずがない。
でも、それなら上手くなればいい。
今は届かなくても、これから追いかければいい。
「
そう考えたら、答えに迷う理由なんてなかった。
「
いつか追いついて、今度は湊の方を驚かせてやる。
私にとっては、それくらい単純な話だった。
けれど、お母さんはすぐには何も言わなかった。
それまで私の話を穏やかに聞いていた表情が、ほんの少しだけ真剣なものへ変わっていく。
「
「
「
「
「
自分では分かっているつもりだったのに、はっきり否定されると少しだけ腹が立った。
けれど、お母さんの声には、何も知らない子供だと決めつけて笑うような響きはなかった。むしろ、私が本当に音楽をやりたいと言ったからこそ、きちんと話そうとしてくれているように感じられた。
だから私は反発する代わりに口を閉じ、その続きを待った。
「|Es wird Dinge geben, die nicht so funktionieren, wie du willst《上手くいかないこともある》. |Du kannst sehr viel üben und trotzdem nicht so gut sein,wie du sein möchtest《たくさん練習しても、思ったようにできないことだってある》. Willst du es trotzdem wirklich?《それでも、本当にやりたい》」
今度は、すぐには答えなかった。
お母さんの言う「上手くいかないこと」がどんなものなのか、私にはまだ想像できない。どれだけ練習してもできないという経験だって、音楽を習ったことすらない私には分かるはずがなかった。
だったら、分からないことを無理に分かったふりする必要もない。
私はそう思いながら、自分が本当に答えられることだけを探した。
「……
しばらく考えた末にそう答えると、お母さんは少しだけ目を細めた。
「
「
「
「
今度はすぐに答えられたけれど、お母さんの確認はそれだけでは終わらなかった。
「
「……
ほんの少しだけ返事が遅れた。
やりたいという気持ちは本物だったけれど、「毎日」と言われると、一日も休まず練習している自分を想像してしまう。それでもやると答えたのだから問題ないはずなのに、お母さんはその一瞬の迷いまでしっかり見ていたらしい。
「
「
「
「
そう言って誤魔化そうとすると、それまで真剣な顔で話していたお母さんが、とうとう堪えきれなくなったように笑った。
こっちはちゃんとやると言っているのに、どうして笑われなければならないのか分からない。私は不満を隠さず頬を膨らませた。
「
「
そう言って、お母さんはまだ少し笑いながら、私の頭へそっと手を置いた。
「
その一言の意味がすぐには分からなくて、私はお母さんの顔を見上げた。
「……
「
その言葉が耳へ届いた瞬間、さっきまで膨らませていた頬のことなんて忘れて、顔が勝手に明るくなっていくのが自分でも分かった。
「
「
喜びかけた私を留めるように、お母さんの声が少しだけ強くなった。
「|Wenn du dich dafür entscheidest, unterstützen wir dich ernsthaft《始めるなら、私たちも本気で支えるわ》. Also musst du es auch ernst nehmen.《だからあなたも、本気でやりなさい》」
さっきまでのように笑っているわけではない。その目を見れば、お母さんが本気で言っているのだということくらい、五歳の私にも分かった。
けれど、不思議と今度は迷わなかった。
「
毎日練習することがどれくらい大変なのかも、上手くいかないことがどれほど苦しいのかも、このときの私はまだ何も知らない。
それでも、湊ともっと一緒に音楽をやりたい。もっと上手くなって、いつか追いついて、今度は私の歌を聞いた湊を驚かせてみたい。
その気持ちだけは、はっきりと自分の中にあった。
こうして、私は歌を習うことになった。
その日の夜、自分の部屋へ戻ろうと廊下を歩いていた私は、窓の向こうから聞こえてきた音に気づき、途中で足を止めた。
すぐ隣の神谷家から、ヴァイオリンが聞こえている。
少し前までの私なら、壁の向こうで誰がヴァイオリンを弾いているのかさえ知らず、ただ聞こえてくる音に耳を澄ませることしかできなかった。
けれど、今はもう違う。
誰が弾いているのかも、どんな顔でヴァイオリンを構えているのかも、その弓をどんなふうに動かしているのかも知っている。
——湊だ。
私はその音に誘われるように窓辺まで歩いていくと、すっかり暗くなった隣の家を見つめた。
もちろん、ここから湊の姿が見えるわけではない。今どの部屋で弾いているのかも分からないし、声を出したところで、演奏している湊のところまで届くこともないだろう。
それでも、どうしても言っておきたかった。
「……
誰にも聞こえないくらいの小さな声で、私は窓の向こうにいる湊へそう告げた。
今はまだ、湊の方がずっと上手い。
それなら、これから私も練習して、いつか追いつけばいい。もっと上手くなって、今度は私の歌を聞いた湊を驚かせて、絶対に「すごい」と言わせてやる。
窓の向こうでは、そんな私の決意なんて知るはずもない湊が、変わらずヴァイオリンを弾き続けている。
あの夜、ひとりきりの部屋で初めてその音を聞いたとき、私はただ耳を澄ませていることしかできなかった。
けれど、その音の向こうに湊がいることを知って、一緒に音を重ねる楽しさを知って、追いつきたいと思うようになった。
そうして私は、あの夜に聞こえてきた湊の音を追いかけるように、自分の意思で音楽の世界へ足を踏み入れた。