あれから、四年が経った。
四年という時間が長いのか短いのか、九歳だった私にはよく分かっていなかった。ただ、五歳の頃には両手で抱えるようにしていた楽譜を自分で読めるようになって、先生から言われたことの意味も少しずつ理解できるようになって、それでも上手くいかなければ悔しくて何度も同じところを繰り返す——そんな毎日を重ねているうちに、気づけばそれだけの時間が過ぎていた。
そして、その四年間で変わったものはたくさんあったけれど。
「
ヴァイオリンを顎から離した湊が、いかにも不満そうに眉を寄せた。
十一歳になった湊は、初めて会った頃よりずっと背が伸びていた。幼かった顔つきも少しずつ変わり始めていて、ヴァイオリンを構える姿だって、七歳の頃よりずっと様になっている。
けれど、演奏が終わったあとに私から何か言われることには、もうすっかり慣れていた。
「
「
「
「
言い切ると、湊は何か言い返そうとして口を開いたものの、結局何も言わずに楽譜へ視線を戻した。
私は湊のベッドの端に腰掛けたまま、その様子を眺める。
昔なら、この部屋へ入るだけでも少し緊張していたような気がする。けれど、いつからだったのか、そんな感覚はとっくになくなっていた。レッスンが終われば神谷家へ寄ることも珍しくなく、玄関を開けた神谷さんから「湊なら部屋よ」と言われるだけで二階へ上がる。逆に湊がうちへ来るときも似たようなもので、母だっていちいち用件を尋ねたりはしなかった。
隣の家だったから、というだけではない。
音楽を始めてからの私にとって、ここへ来ることも、湊の音を聞くことも、もう毎日の延長にあった。
「
「
「
湊は呆れたように笑いながら、もう一度ヴァイオリンを顎へ添えた。
弓が弦へ触れる。
さっきと同じフレーズが流れ始めた。
私は目を閉じることもなく、湊の左手と弓先を交互に追った。以前なら、ただ綺麗だと思って聞いていた音だった。でも今は違う。音の入り方も、フレーズのつながりも、どこで息を置こうとしているのかも、少しずつ分かるようになっていた。
最後の音が、今度は急ぐことなく静かに収まる。
私は少しだけ考えてから頷いた。
「
「
「
「
「
湊がため息をつく。
その顔がおかしくて、私は少しだけ笑った。
四年前。
私はこの部屋で、湊の演奏が終わるたびに「もう一回」と頼んでいた。
どこが良かったのかなんて説明できなかった。ただ聞きたくて、もっと聞きたくて、同じ言葉を何度も繰り返していた。
あの日、母に音楽をやりたいと告げてから、私の日常は大きく変わった。
歌うことを中心に、音を聞き分けること、楽譜を読むこと、音楽がどう組み立てられているのかを知ること。最初は楽しかったことも、深く学ぶほど簡単ではなくなった。何度やっても思ったように声が出ない日もあれば、自分では上手くできたつもりなのに先生から同じところを繰り返し直される日もあった。
——母が最初に言っていた通りだった。
音楽は、楽しいだけのものではなかった。
それでも、辞めたいと思ったことは一度もない。
悔しい日ほど、家へ帰る途中で隣の家から音が聞こえた。
私が同じフレーズを何度も歌っている頃、湊もまた、同じ小節を何度も弾き直していた。
私が先生に叱られた日には、湊だって母親に演奏を止められていた。
上手くいかないのは、自分だけではない。
そして何より——少し前を歩いている人が、いつもすぐ隣にいた。
◇
「
最後の音を伸ばしきるより先に、隣から湊の声が飛んできた。私はそのまま歌い続けようとしたものの、あまりに迷いのない言い方が気に障って途中で声を切り、楽譜から顔を上げて湊を見る。
「
「
湊は私の視線など気にした様子もなく、手元の楽譜へ指を置いた。指摘された箇所を目で追ってみるけれど、私にはやっぱり納得がいかない。入りのタイミングなら意識していたし、少なくとも自分では早かったとは思わなかった。
「
「
即答だった。少しくらい考えてから言えばいいのに、と腹を立てながら、私は楽譜から湊へ視線を戻す。
「
「
いつもなら「マル」と呼ぶくせに、こういうときだけ名前を全部呼ぶ。しかも、聞き分けのない子供に言い聞かせるみたいな声までついてくるものだから、ますます腹が立った。
私は膝に広げていた楽譜をいったん閉じると、隣に座っている湊へ身体ごと向き直る。
「
ただ否定しているわけではない。そこは自分でも気をつけていたところなのだと伝えたかったのに、湊は少し考えるように首を傾けただけで、私が期待していたような反応を見せなかった。
「
「
思わず睨みつけると、湊は困るどころか、どうして自分が怒られているのか分からないとでも言いたげに肩をすくめた。
「
その言葉には、すぐに言い返せなかった。
確かに、聞いてほしいと言ったのは私だ。それも、ただそこに座っていればいいという意味ではなく、ちゃんと聞いて、何か気づいたら言ってほしいと思って湊を隣に座らせた。
都合のいいことだけ褒めてもらいたいわけではない。
それくらい、自分でも分かっている。
分かっているからこそ素直に認めるのが悔しくて、私はしばらく湊を睨んだあと、何も言わずに身体を正面へ戻した。膝の上で閉じていた楽譜をもう一度開き、指摘された箇所を目で追いながら、まだ納得していないことだけは伝えるように唇を尖らせる。
そんな私を横から見ていた湊が、小さく笑った。
ここは私の家の練習室だった。けれど、湊が私の隣で楽譜を覗き込んでいることに、今さら違和感を覚える人はいない。少し前に母が飲み物を持ってきたときだって、私の分だけではなく最初から二人分だった。
湊の肩が、私の肩に触れている。
それも別に気にならなかった。楽譜を一緒に見るなら、近くに座るのは当然なのだから。
「
「
「
湊が小さく笑った。
「
私は一度息を整えて、もう一度最初から歌い始めた。四年前とは、立場が逆になっていた。
あの頃の私は、湊に「もう一回」と言っていた。今は、自分から「もう一回」と言って、湊に聞かせている。
新しい曲を習えば、最初に聞かせたくなった。先生から褒められた日は、家へ帰るより先に隣の家へ行って話したくなった。
反対に、上手くいかなかった日は会いたくないと思うこともあった。そういう日に限って、湊は気づく。
「
以前、玄関先で顔を合わせただけなのに、そう言われたことがあった。
「……
「
「
「
その言い方が妙に癪に障って、私はむっと眉を寄せた。だったら本当に噛みついてやろうかと、すぐ目の前にいる湊の腕へ視線を落とす。
「
そう言って一歩近づくと、私は湊の腕を両手で掴み、口を開けながら顔を寄せた。
「
「
冗談のつもりだったのに、湊が本気で腕を引っ込めようとするものだから、なんだか余計に腹が立つ。逃がすものかと私も腕を掴んだまま追いかけて、結局その日は玄関先でしばらくくだらない攻防を続けることになった。
それでも最後には、私はいつものように神谷家へ上がり込んで、今日のレッスンで何が上手くいかなかったのかを全部話した。
湊だって、そういうところは私と同じだった。
新しい曲を覚えれば、まだ完全に仕上がっていなくても私を呼んで聞かせてきたし、自分で上手く弾けたと思ったときには、どこか得意そうな顔をしながら感想を求めてきた。反対に、思うように弾けなかった日は分かりやすく口数が減って、こちらから何を聞いても「別に」としか答えなくなるから、隠しているつもりでも私にはすぐに分かった。
そんなことを何年も繰り返しているうちに、新しく覚えた音を最初に聞かせることも、上手くいったことを真っ先に話すことも、悔しかった日に相手の顔を見ればなんとなく気づいてしまうことも、いつの間にか私たちにとって特別なことではなくなっていた。
約束をしていたわけでも、そうしようと二人で決めたわけでもない。それでも私が音楽と向き合ってきた四年間を思い返せば、その時間のすぐそばにはいつも湊がいて、嬉しかった日にも悔しかった日にも、振り返れば当たり前のように彼の音が聞こえていた。
そしてきっと、それは私だけではなかったのだと思う。
湊が音楽と向き合ってきた時間の中にも、いつの間にか私の声があることが、同じくらい当たり前になっていた。
◇
最初にその変化を意識したのがいつだったのかは、もう覚えていない。
ただ、九歳になる頃には、私はもう昔のように湊の演奏を聞いて、何も考えずに「すごい」と思うだけではなくなっていた。もちろん、湊が上手いことに変わりはないし、それについては誰より近くで聞き続けてきた私が一番よく知っているつもりだった。
けれど、だからこそ分かることも増えていた。小さな違いに気づき、気に入った演奏には、どこがよかったのかを自分の言葉で伝えられる。そして何より、私が何かを指摘したとき、湊が少し考えてから本当に弾き方を変えることが増えていた。
初めて出会った頃の私には、そんなことはできなかった。
あの頃は、ただ湊の背中を追いかけていた。追いつきたくて必死に走っているつもりなのに、顔を上げればいつも少し前に湊がいて、その距離はなかなか縮まらない。
それは、コンクールに出るようになってからも同じだった。
私が優秀賞を取って喜んでいれば、湊はヴァイオリン部門で最優秀賞を取っていた。別のコンクールで私が奨励賞だったときにも、湊は当然のようにその一つ上の賞を持って帰ってくる。そもそも声楽とヴァイオリンでは部門が違うのだから、賞の名前だけを並べて勝ち負けを決めることに意味はない――そんなことは、先生や両親から何度も言われていた。
それでも、私たちには関係なかった。
賞の名前が上だった方が勝ちで、同じ賞ならその日の演奏について互いに好き勝手なことを言い合う。それでも決着がつかなければ、その日は仕方なく引き分けにする。それがいつ、どちらから始めた勝負だったのかは覚えていないけれど、いつの間にかコンクールへ出るたびに繰り返す、私たちだけの決まりになっていた。
そして、その勝負で私はまだ一度も湊に勝ったことがなかった。
だからコンクールが終わるたび、今度こそという悔しさを込めて、私は決まって同じ言葉を湊へぶつけた。
「
けれど、何度そう宣言しても、勝っている湊には余裕がある。私が本気で悔しがっていることなんて全部分かっているくせに、いつも少し楽しそうに笑いながら、同じ言葉を返してくるのだった。
「
そんな湊の余裕が悔しくて、コンクールが終わればまた練習した。次こそは絶対に勝つと決めて、できなかったところを何度も繰り返し、先生から指摘されたことを一つずつ直していく。それでも次のコンクールになれば、また少しだけ湊の方が上にいて、私は同じ言葉を口にしながら次の機会を待った。
けれど、最近になって、その距離が以前とは少し違って見えるようになっていた。
湊の音を聞けば、昔よりずっと多くのことが分かる。どこが上手いのか、どこがいつもと違うのか、自分ならそこをどう聞きたいと思うのか。それを言葉にして伝えれば、湊もただ聞き流すのではなく、ときには私の意見を受け入れて、本当に演奏を変えるようになった。
私の歌を聞いているときの湊も、いつの間にか変わっていた。
以前なら、私が何かを指摘されて言い返せば、湊は面白そうに笑っているだけだった。それが今では、私が歌い直すと真剣な顔で最後まで聞いて、そのうえで「さっきよりいい」と言ったり、ときには何も直すところを見つけられず、「今のはよかった」と素直に認めたりすることも増えている。
もちろん、それだけで湊を追い越したなんて思ってはいなかった。
それでも、ずっと少し前にあると思っていた背中が、今は手を伸ばせば届きそうなところまで近づいている。そう感じられるだけのものを、この四年間で自分なりに積み重ねてきたつもりだった。
だったら、もしかしたら。
私はもう、湊に追いついているんじゃないだろうか。
そんな考えが、それまでのような負け惜しみではなく、本当にあり得ることとして胸の中へ浮かぶようになった頃、私たちはまた一つのコンクールを迎えた。
◇
会場には、朝早くからたくさんの音が溢れていた。
長い廊下の向こうからは、誰かが最後の確認をしているのだろう、途切れ途切れにピアノの音が聞こえてくる。控室の近くを通れば、弦を小さく鳴らして調子を確かめる音が混じり、そのさらに奥からは、声楽部門に出る参加者たちが発声を繰り返す声も聞こえていた。
それぞれが別の音を奏でているのに、不思議とうるさいとは感じなかった。自分の出番を待ちながら楽譜を見つめている子もいれば、先生や家族と言葉を交わしている子もいる。普段の家やレッスン室とは違う、期待と緊張が入り混じった空気が建物全体を包んでいて、その中にいるだけで、私の胸にも少しずつ本番が近づいている感覚が広がっていった。
もっとも、私たちにとってコンクールそのものは、もう初めての場所ではなかった。
舞台袖で自分の名前が呼ばれるのを待つ時間も、演奏や歌唱を終えたあとに結果発表まで落ち着かなくなる感覚も、これまでに何度も経験している。そして、そのたびに私は今度こそ湊に勝つのだと意気込んでは、結局少しだけ上にいる彼の結果を見て、悔しい思いをしながら帰ることになった。
だから本来なら、この日だって同じだったはずだ。
けれど、不思議とそうなる気がしなかった。
これまでの私は「次こそ勝つ」と言いながら、心のどこかではまだ湊の背中を追いかけていたのだと思う。けれど今日は、その背中が以前よりずっと近くに見えている。ここまで積み重ねてきたものをきちんと出せれば、本当に手が届くかもしれない――そんな感覚が、根拠のない強がりではなく、確かな手応えとして胸の中にあった。
少し前を歩いていた湊の背中を見ながら、私は手元のプログラムを閉じる。
「
呼びかけると、ヴァイオリンケースを片手に歩いていた湊が足を緩め、何気ない様子でこちらを振り返った。
「
私はその隣まで追いつくと、少しだけ顎を上げて湊を見上げた。
これまでのコンクールでも、同じようなことを何度も言ってきた。負けるたびに次こそはと宣言して、そのたびに湊から軽くあしらわれてきた言葉だった。
けれど、今日だけは違う。
今までで一番、本当にそうなると思いながら口にした。
「
何度も言ってきた言葉だった。
けれど、この日だけは、負けたくないという意地だけで口にしたわけではなかった。これまで積み重ねてきたものへの手応えがあったからなのか、自分でも驚くほど自然に言葉が出てきて、言い終えたあとも不思議と不安にはならなかった。
そんな私の様子がいつもと違って見えたのか、湊は一瞬だけ目を丸くした。それでもすぐに、何度も聞いてきた宣言だとでも言いたげに、いつもの笑みを浮かべる。
「
「
今度こそ本当に勝つのだという意味を込めて言ったのに、湊は素直に受け取らなかった。少しだけ首を傾けると、わざとらしく考えるような顔をしてから聞き返してくる。
「
「
思わず大きな声が出てしまい、ちょうど近くを通りかかった大人が何事かとこちらを振り返った。その視線に気づいた私は慌てて口を閉じたものの、行き場をなくした苛立ちは、そのまま目の前の湊へ向けるしかない。
声を出せないぶんまで込めるように睨みつけると、湊は悪びれるどころか、堪えきれなくなったように肩を揺らして笑い始めた。
「
今度は周囲を気にして声を抑えながら言うと、湊は笑いを残したまま片手を軽く上げる。
「
絶対に分かっていない。
そう言い返してやりたかったけれど、また声が大きくなりそうだったのでやめた。代わりにもう一度だけ思いきり睨んでから、私は胸の中で改めて決める。
——絶対に勝つ。
そうすれば、今みたいな余裕のある顔もできなくなるはずだ。少し先へ歩き出した湊を追いかけながら、私はその袖を掴んだ。
「
引かれた袖へちらりと目を落としてから、湊は廊下の先にある時計を確認する。
「
それなら十分に間に合う。私は自分の出番までの時間を頭の中で確かめると、袖を掴んだまま迷わず答えた。
「
「
湊がこちらを見下ろしたけれど、そんなことは言われなくても分かっている。自分の準備に必要な時間まで考えたうえで、一緒に行けると判断したのだ。
「
それだけ答えてようやく袖から手を離すと、私はそのまま湊の隣へ並んだ。湊もそれ以上は何も言わず、私がついてくることを当然のように受け入れて歩き出す。
考えてみれば、私は自分の出番だけではなく、湊が何時に演奏するのかも最初から知っていた。そして湊もまた、私の声楽部門が何時から始まるのかを、わざわざ尋ねなくても覚えている。
どちらからそうするようになったのかなんて、もう覚えていない。
相手の出番を見届けてから自分の舞台へ向かうことも、終わったあとに真っ先に相手のところへ行くことも、私たちにとっては特別な約束ではなく、何度もコンクールへ出るうちにいつの間にか当たり前になっていた。
◇
湊の演奏を聞くとき、私はいつも少しだけ悔しくなる。
舞台の中央でヴァイオリンを構え、湊が弓を動かし始めると、それまで会場のあちこちに残っていた咳払いや衣擦れの音が、少しずつ遠ざかっていくように感じられた。最初の一音から自然と耳を向けさせられるのは、昔から変わらない湊の演奏だった。
けれど、十一歳になった湊が奏でる音は、初めて私の前でヴァイオリンを弾いてくれた七歳の頃とは、当然ながらもう同じではない。
あの頃よりも弓の動きは滑らかになり、音はずっと正確になっていた。難しい箇所でも迷うことなく先へ進み、曲の流れが途切れることもない。何度も同じ部屋で練習を聞き、ときには隣から好き勝手に口を出してきた私には、それが四年間で積み重ねてきたものなのだということもよく分かっていた。
だからこそ私は、客席から湊の音を一つも聞き逃さないように追いかけた。
今のフレーズは綺麗だった。次の入りもいい。けれど、その少し前に弾いたところだけは、いつもよりほんの少し音が硬かったように思う。
そんなふうに、演奏を聞きながら一つひとつ自分なりに考えられることが、私は少し嬉しかった。
昔の私なら、きっと最初の一音から最後の一音まで夢中になって聞いて、演奏が終われば「すごい」としか言えなかった。どこが好きだったのか、何がすごかったのかを尋ねられても、上手く答えることなんてできなかったと思う。
——でも、今は違う。湊の音が分かる。
何年も聞き続けてきたからこそ知っている癖もあれば、今日の演奏がいつもと違うところにも気づける。上手いところは上手いと認められるし、気になったところがあれば、舞台を下りてきたあとに本人へ言ってやることだってできる。
もう、ただ憧れて見上げているだけではなかった。
同じように音楽を学び、自分にも自分の音がある。そのうえで、湊の演奏を聞くことができるようになっていた。
やがて曲が終わりへ近づき、最後の一音が会場の中へ長く響いた。湊が静かに弓を止めると、一拍ほどの余韻を置いて客席から大きな拍手が起こり、私も周囲に混じって両手を叩いた。
上手かった。
そこに負け惜しみを挟むつもりはない。今日の湊も、やっぱり上手かった。
けれど、舞台の上で一礼し、そのまま袖へ下がっていく背中を見送っても、以前のように「やっぱりまだ敵わない」とは思わなかった。
むしろ胸の奥にあったのは、それとは反対の感覚だった。
私は小さく息を吸いながら、湊の姿が見えなくなった舞台袖を見つめる。
——今日の私なら、負けない。
◇
やがて自分の名前が呼ばれ、私は舞台へと足を踏み出した。
頭上から降り注ぐ照明の眩しさも、その向こうに並んでいる大勢の観客も、もう初めて目にするものではない。これまでにも何度か同じような舞台へ立ってきたし、舞台袖で自分の順番を待っているあいだの落ち着かなさにも、以前ほど振り回されなくなっていた。
それでも、緊張しないわけではなかった。
舞台の中央まで進むにつれて、胸の奥で鼓動が少しずつ大きくなっていく。私は決められた位置で足を止めると、すぐに歌い始めるのではなく、一度だけゆっくりと息を整えた。
湊に勝ちたいという気持ちは、もちろんあった。
これまで何度も同じコンクールへ出て、そのたびに少し先の結果を持って帰る湊を見てきた。負けるたびに「次は私が勝つ」と言い続け、その悔しさを練習へぶつけてきたのだから、今日こそはという思いがないはずもない。
けれど、舞台に立った私の胸にあったものは、それだけではなかった。
四年前、まだ何も知らなかった私は、自分から音楽をやりたいと母に言った。
音楽は楽しいことばかりではないと教えられても、それでもやりたいと答えた。あのときの私には、その言葉が本当は何を意味しているのか、きっとまだ分かっていなかったのだと思う。
実際に始めてみれば、思ったように声が出ないことはいくらでもあった。何度練習してもできなくて悔しくなった日もあれば、自分では上手く歌えたつもりなのに先生から同じ箇所を繰り返し直されて、腹を立てながら帰ったこともある。悔しくて泣いた日だって、一度や二度ではなかった。
——それでも、次の日になれば私はまた歌った。
誰かに続けろと言われたからでも、湊に勝たなければならなかったからでもない。もっと上手くなりたい、自分が思い描いたように歌えるようになりたい――そして何より、私はやっぱり音楽が好きだった。
あの夜、壁の向こうから聞こえてきた一本のヴァイオリンに耳を澄ませ、初めて音の中に温かさを感じたところから始まったものを、私はこの四年間、自分の意志でずっと続けてきた。
だったら今日は、誰かの真似をする必要も、湊のことばかり考える必要もない。ここまで自分が積み重ねてきたものを、今の自分にできる形で全部出せばいい。
そう思うと、胸の奥に残っていた緊張がほんの少しだけ軽くなった。
私はもう一度、今度は歌うために深く息を吸い、その息に最初の音を乗せるように、ゆっくりと声を放った。
静まり返った会場へ伸びていった声は、普段の練習室よりもずっと広い空間へ溶けていく。それを確かめながら次の音へつなげていくうちに、最初は意識していた客席の人たちの顔も、どこかに座っているはずの湊のことも、少しずつ頭から消えていった。
今はただ、歌えばいい。
これまで何度も繰り返してきたものを思い出しながら、一つひとつの音を丁寧につないでいく。息を置く場所も、声を伸ばすところも、先生から何度も直された箇所も、今まで積み重ねてきたものが自然と身体を動かしてくれた。
そして最後の音まで歌い切り、その余韻が会場の中へ消えていったとき、私は誰かの評価を聞くより先に、自分の中で一つの答えを感じていた。
——できた。
もちろん、完璧だったなんて思わない。先生が聞けば、きっと直すところをいくつも見つけるだろうし、あとから自分で振り返れば気になるところだって出てくると思う。
それでも、今日の私にできることは、ちゃんと全部出せた。
やがて客席から拍手が起こり、私はその音を受けながら深く頭を下げた。顔を上げて何気なく客席へ目を向けると、大勢の人の中から、不思議なくらいすぐに湊の姿を見つけることができた。
目が合った湊は何も言わなかった。ただ、少し嬉しそうに笑いながら、まっすぐこちらを見て拍手をしている。
その姿を見た瞬間、歌い終えたばかりの胸の奥に、じんわりと温かいものが広がった。
◇
結果発表は、何度経験しても落ち着かなかった。
舞台に立っているあいだは、次の音や息を置く場所に意識を向けていればいい。けれど、すべてを歌い終えてしまった今は、もう自分にできることなど何もなく、ただ審査員から名前を呼ばれるのを待つしかない。そのせいなのか、結果が発表されるまでの時間は、実際に歌っていたときよりもずっと長く感じられた。
先に発表されたのは、湊が出場したヴァイオリン部門だった。
私は湊から少し離れたところに立ちながら、次々と読み上げられていく名前へ耳を傾けていた。自分の結果ではないはずなのに、湊の名前がまだ呼ばれていないことが気になって、賞が一つ発表されるたびに妙な緊張が胸の中へ積み重なっていく。
そして、優秀賞の発表になったところで、聞き慣れた名前が会場に響いた。
——神谷湊。
一瞬、私は聞き間違えたのかと思って瞬きをした。
優秀賞という結果は、もちろん十分にすごい。これまでのコンクールだって簡単に取れるような賞ではなかったし、今日の演奏を聞いた私自身、湊が上手かったことはよく分かっている。
それでも、少し意外だった。
今日も湊は最優秀賞を取るのだろうと、私はどこかで当たり前のように思っていたからだ。
少しだけ視線を動かして湊の横顔を窺うと、本人も納得しているわけではないらしい。大きく表情を崩したり、露骨に落ち込んだりはしていなかったけれど、いつもよりわずかに唇を固く結んでいる。
長いあいだ隣でその顔を見てきた私には、それだけで十分だった。
——悔しいんだ。
それでも、自分の名前を呼ばれれば湊はきちんと前へ進み、賞を受け取って一礼した。戻ってきたところで何か声をかけようかと思ったけれど、結局私は何も言わなかった。
湊が今は話しかけられたくないだろうと思ったのもある。
それに、まだ私自身の結果が残っていた。
ほどなくして声楽部門の発表が始まり、私は改めて前へ向き直った。さっきまでは湊の結果ばかり気にしていたのに、いざ自分の番になれば、今度は鼓動の音がやけに大きく聞こえてくる。
一人、また一人と名前が読み上げられていく。
自分の名前は、まだ呼ばれない。
今日の歌には手応えがあった。それでも、舞台を下りたあとの自分の感覚と、審査員が下す評価が同じだとは限らない。
やがて発表は最後の賞を残すだけになった。
最優秀賞。
会場が静まり、私は無意識に息を止める。
そして審査員の口から聞こえてきたのは——
私の名前だった。
自分の名前を聞いた瞬間、胸の奥が大きく跳ねた。
——取った。
今日の歌には、自分でも手応えがあった。それでも実際に結果として認められたことが嬉しくて、私は少しだけ高鳴る気持ちを抱えたまま前へ進み、審査員から賞を受け取った。
何度も練習してきた。上手くいかない日があっても歌い続けて、今日の舞台では今の自分にできることをきちんと出せた。その積み重ねを最優秀賞という形で認めてもらえたことが、まずは何より嬉しかった。
けれど、賞を手に自分の場所へ戻ろうとしたとき、ふと先ほどのヴァイオリン部門の結果が頭をよぎった。
湊は、優秀賞。
そして私は、最優秀賞。
その二つを頭の中で並べた瞬間、危うく足を止めそうになった。
もちろん、私たちは同じ部門で競っているわけではない。湊はヴァイオリンで、私は声楽なのだから、審査されるものも評価される基準も違う。本当なら二つの賞を単純に比べられないことくらい、九歳だった私にも分かっていた。
——でも、そんなことはどうでもよかった。
これまでだって、私たちはそうやって勝ち負けを決めてきたのだから。
私は顔を上げ、ほとんど無意識に湊の姿を探した。
大勢の人がいる中でも、見つけるまでに時間はかからなかった。湊もこちらを見ていて、自分の結果には悔しさが残っているはずなのに、それを私へ向けることもなく、いつものように少し笑いながら拍手を送ってくれていた。
その顔を見た瞬間、最優秀賞を取ったこととは少し違う喜びが、遅れて胸の奥から込み上げてきた。
何度挑んでも、一度も届かなかった。次こそはと言い続けて、それでもいつも少しだけ前にいた相手に、今日初めて——。
——勝った。
そう思った途端、胸の奥からじわじわと熱いものが込み上げてきた。
四年前の私は、湊の奏でる音をただ夢中になって聞くことしかできなかった。演奏が終わるたびに「もう一回」と頼んでは、少し前にいるその背中をただ見上げていた。
それから自分で歌うようになり、少しでも追いつきたくて練習を重ねた。コンクールへ出るようになってからは、結果が出るたびに湊と比べて、何度負けても「次は私が勝つ」と言い続けてきた。
それでも、今日まで一度も届かなかった。
いつも少しだけ前にいた湊の背中へ、何年もかけて少しずつ近づいてきて、ようやく今日、初めてその隣まで辿り着いたのだと思えた。
そして、その日初めて——
私が、湊に勝った。
◇
会場を出てからも、どうしても頬が緩むのを止められなかった。
腕には、さっき受け取ったばかりの賞状を大事に抱えている。何度見てもそこに書かれている結果が変わるわけではないのに、気を抜けばまた確認したくなってしまうくらい、初めて手にした湊への勝利が嬉しかった。
そんな私の少し前を、湊がヴァイオリンケースを片手に歩いていた。
いつもなら自然と隣を歩いているのに、今日は少しだけ先にいる。その背中を見た瞬間、さっきまで胸の中だけで味わっていた喜びを、どうしても本人へ直接言ってやりたくなった。
私は足を速めて湊の隣まで追いつくと、その横顔を見上げる。
「
呼びかけられた湊は歩く速度を少し緩め、何の用だと言いたげにこちらへ顔を向けた。
「
私は口元に浮かびそうになる笑みを隠そうともせず、ずっと言いたかった言葉を得意げに口にする。
「
湊は一度だけ瞬きをして、それから何を言われているのか分からないという顔をした。
「
絶対に分かっているくせに。そう思うとますます言ってやりたくなって、私は抱えていた賞状を少し持ち上げ、湊の目の前へわざと見せつけるように傾けた。
「
それでようやく私が何を言いたいのか理解した——はずなのに、湊は素直に負けを認めようとはしなかった。少し呆れたように眉を寄せながら、自分のヴァイオリンケースを軽く持ち直す。
「
「
間髪入れずに返してやると、今度は湊が足を止めた。
「
私も一緒に立ち止まり、賞状を胸の前で抱え直しながら、わざと勝ち誇った顔で湊を見上げる。
「
「
また名前を全部呼ばれた。けれど今日は、それくらいで引き下がってやるつもりなんてなかった。何しろ、今まで一度も言えなかった言葉をようやく言える日なのだから、少しくらいしつこくても許されるはずだ。
私は湊から目を逸らさないまま、今度は一語ずつ、これでもかというほどはっきり区切って言ってやった。
「
すると湊は、もう何を言っても無駄だと悟ったのか、眉間に皺を寄せて露骨に嫌そうな顔をした。その顔を見られたことまで含めて、私はますます嬉しくなった。
けれど、ふと気になった。今まで私が負けるたびに感じていた悔しさを、今日は湊も同じように感じているのだろうか。
少し考えてみたけれど、たぶん違う。
これまでの勝負では、いつも湊が私より少し上にいた。私が悔しさを隠しもせずに「次は私が勝つ」と宣言しても、湊は余裕のある顔で笑いながら「じゃあ頑張れ」と返すだけだった。
そんなやり取りを、これまで何度繰り返してきたのか分からない。だからこそ、その次に湊の口から出てきた言葉を、私はすぐには理解できなかった。
「
一瞬、何を言われたのか分からなくて、私はその場で足を止めた。
湊はそのまま数歩先まで進んでから、隣にいたはずの私がついてきていないことに気づいたらしい。足を止めて振り返ると、不思議そうにこちらを見る。
「
何でもない、と答えるつもりだった。
ただ、いつもと反対のことを言われただけなのだから、別に驚くようなことではないはずだった。それなのに、どうしてなのか口元が勝手に緩んでしまって、湊に見られないようにしようとしても上手く隠せなかった。
嬉しかった。
もちろん、初めて湊に勝てたことも嬉しい。けれど、それとはどこか違うところで、今の言葉が胸の奥に残っていた。
どうして「次は俺が勝つ」と言われただけで、こんなに嬉しくなったのか。当時の私には、まだその理由が分からなかった。
どうして嬉しいのか自分でも分からないまま、私はその気持ちを誤魔化すように、いつもの調子で少しだけ顎を上げた。
「
これまで何度も湊から言われてきた言葉を、今度は私の方から返してやる。それがよほど生意気に聞こえたのか、湊はしばらく私の顔を見つめたあと、呆れたように目を細めた。
「
「
私は胸に抱えていた賞状を少し持ち上げてみせる。今日ばかりは何を言われても、この一枚がある限り私の方が強い。
けれど、湊はまったく納得していないらしく、すぐに眉を寄せた。
「
「
迷わず言い返すと、湊は納得できないとばかりに眉を寄せた。
「
「
最後は私が有無を言わせぬ調子で言い切り、そのまま止めていた足を動かした。
数歩で湊へ追いつき、いつものようにその隣へ並ぶ。さっきまで少し前を歩いていた湊との距離はすぐになくなり、互いに普通に歩いているだけで、ときどき肩が触れそうになるくらい近くなった。
それは私たちにとって、わざわざ意識するような距離ではなかった。
神谷家へ遊びに行けば隣に座って楽譜を覗き込み、コンクールへ来れば互いの出番を見届け、終わればこうして並んで帰る。いつからそうなったのかなんて覚えていないくらい、湊の隣は昔から私にとって当たり前の場所になっていた。
けれど、音楽の中では少し違った。
あの日までの私は、ずっと湊を追いかけていた。
初めてその音を聞いた四年前の夜から、湊はいつも私より少し先にいた。何も知らずにただヴァイオリンへ耳を澄ませていた頃も、自分から音楽を始めて必死に練習するようになってからも、コンクールへ出て勝ち負けを意識するようになってからも、それは変わらなかった。
——もっと上手くなりたい。
——いつか追いつきたい。
——そして、いつか湊に勝ちたい。
そんな思いを抱えながら、私はずっと、少し前を走る湊の背中を追いかけていた。
——でも、あの日。
湊は初めて、私に向かって「次は俺が勝つ」と言った。
当時の私は、その言葉が持つ意味なんて深く考えていなかった。ただ、何度挑んでも勝てなかった湊に初めて勝てたことが嬉しくて、いつも余裕そうにしていた彼が少し悔しそうな顔をしていることまで嬉しくて、次のコンクールでも絶対に勝ってやろうと、そればかり考えていた。
けれど、今なら分かる。
あの日を境に、私たちの間にあったものは少しだけ形を変えたのだ。
それまでの私は、少し前を走る湊の背中を一方的に追いかけていた。けれど初めてその隣まで辿り着いたことで、湊もまた、私の背中を見るようになった。
それからは、どちらか一人がずっと前を走ることはなくなった。
私が少し先へ出れば、次は湊が追いついてくる。湊に追い越されれば、悔しくなった私がまたその背中を追いかける。互いの音を聞いては好き勝手に口を出し、ときには腹を立てながら、それでも新しく覚えたものや上手くできたものは真っ先に相手へ聞かせたくなった。
そうやって追いついて、追い越されて、また追いかけて。
気づけば私たちは、互いの音を意識しながら、同じ道を並んで走るようになっていた。
あの日、私は初めて湊に勝った。
それは、四年前から追い続けてきた背中へ、ようやく手が届いた日だった。
そしてたぶん——あの日初めて。
湊も、私を追いかけ始めた。