九歳の冬、私は初めて湊に勝った。
それまで何度挑んでも届かなかった相手を、結果の上で初めて上回った。最優秀賞を取れたことはもちろん嬉しかったけれど、あの日のことを今でもよく覚えている一番の理由は、たぶんそれだけではない。
湊が初めて、私に向かって「次は俺が勝つ」と言ったのだ。
それまでずっと、私は少し前を走る湊の背中ばかりを追いかけていた。だからこそ、その言葉を聞いたとき、ようやく同じ場所まで辿り着いて、今度は湊にも私の姿が見えるようになったのだと思えた。
そして、それは私の思い込みではなかった。
あの日を境に、私たちは何度も互いを追い越すようになった。私が声楽部門で最優秀賞を取り、湊がヴァイオリン部門で優秀賞なら私の勝ち。逆なら湊の勝ち。二人とも同じ賞なら、その日の演奏はどちらが良かったかで散々言い争って、結局決着がつかないことだって珍しくなかった。
「
ある日のコンクール帰り、結果を確認するようにそう告げると、隣を歩いていた湊はすぐに首を横へ振った。
「
「
思わず聞き返すと、湊は待ってましたとばかりに口元を上げる。
「
「
そう結論づけてそのまま歩き続けようとすると、今度は湊が慌てて足を止めた。
「
ついさっきまで舞台の上であれだけ澄ました顔をしていたくせに、私の前ではどうしても負けを認めたくないらしい。その様子が妙に子供っぽく見えて、私は少しだけ得意な気分になりながら振り返った。
「|Wenn du selbst sagen musst, dass du besser warst, dann warst du es wohl nicht.《自分で上だったって言わなきゃいけない時点で、大したことなかったってことでしょ》」
湊は一瞬ぽかんとしたあと、心底納得できないとでも言いたげに眉を寄せる。
「
「
それだけ言って今度こそ先に歩き出すと、背後から小さなため息が聞こえた。それでも置いていくつもりはないらしく、少しもしないうちに足音が近づいてきて、湊はいつものように私の隣へ並ぶ。
そんなふうに勝った、負けていないと言い争っては、最後までどちらも譲らない。そんなやり取りを、私たちは何度繰り返しただろう。
それからは、私が勝つ日もあれば、湊が勝つ日もあった。
以前の私なら、湊に負ければただ悔しくて、次こそ追いついてやると少し前を歩くその背中を睨んでいた。けれど、一度追いついてからは、同じ負けでも以前とは少しだけ感じ方が変わっていた。
新しく覚えた歌があれば、まず湊に聞かせる。湊が新しい曲を仕上げれば、私が最初に聞くことも多くなり、どちらが勝ったかだけではなく、互いの音そのものを意識することが当たり前になっていった。
そんな中で、私が歌い終わったあと、以前なら間髪入れずに「あそこが駄目」「今の音が少し低い」と口を出してきた湊が、何も言わずに腕を組んだまま黙り込むことが増えた。
「
待っていても何も言わないのでこちらから尋ねると、湊は難しい顔をしたまま小さく手を上げた。
「
「
湊はすぐには答えず、眉間に皺を寄せたまましばらく考え込んでいた。けれど、いくら待っても見つからなかったらしく、やがて諦めたように息を吐く。
「
その答えを聞いた瞬間、私は思わず口元を緩めた。
「
「
すぐに否定してきたけれど、今さら遅い。私は少しだけ顎を上げて、わざと得意げに言い返した。
「
「
そんなふうに、湊が私の歌へすぐには文句をつけられなくなるたび、胸の奥が少しくすぐったくなった。それはたぶん、ずっと追いかけてきた相手から、言葉にしなくても自分の成長を認めてもらえているように感じたからだった。
実際、私だってこの数年間、何もせずに湊の隣まで辿り着いたわけではない。
毎日の発声も、ソルフェージュも、楽典も、先生から出される課題も、一度だって手を抜いたつもりはなかった。思うように声が出なくて腹を立てる日もあれば、何度繰り返しても同じところを指摘されて、自分の才能そのものが嫌になることだってあった。
それでも私は続けた。
練習を重ねるうちにコンクールでも結果が出るようになり、先生から褒められることも増えていく。自分でも、五歳や九歳だった頃とは比べものにならないほど多くのことが分かる。以前ならできなかったことができるようになっていくのが、はっきりと実感できた。
そして何より、あれほど遠いと思っていた湊にも、いつしか勝てるようになった。
もちろん、いつだって私が勝てるわけではない。次のコンクールではあっさり抜き返されることもあるし、そうなれば当然悔しい。今度こそまた勝ってやると、そのぶん練習にも力が入る。
けれど、それでよかった。
私が追いついて少し先へ出れば、今度は湊が追いついてくる。湊に追い越されれば、私はまたその背中を追いかける。そうやって何度も互いの前へ出ながら進んでいくことが、いつの間にか私たちにとって当たり前になっていた。
湊だって、きっと同じように私を意識している。私が湊を追いかけるのと同じように、湊も私を追いかけている。
少なくとも、私はそう思っていた。
◇ ◇ ◇
十二歳になった年の冬。
ウィーンの街は、朝から降り続く細かな雪に覆われていた。
厚い雲に遮られた空は、まだ昼過ぎだというのに薄暗い。石畳にはうっすらと雪が積もり、吐き出した息もすぐに白く染まって消えていく。マフラーの隙間から入り込んでくる冷気に何度も肩をすくめながら、私は市内にあるコンサートホールへ向かっていた。
今日は、そこで湊が演奏会に出演する。
といっても、今さら珍しいことではない。私も湊も、この数年で人前に立つ機会はずいぶん増え、コンクールだけではなく、先生から声をかけられて演奏会へ出ることもある。だから今日、湊がここでヴァイオリンを弾くこと自体を、特別な出来事だとは思っていなかった。
そもそも私たちは、互いがいつ、どこで何をするのかをほとんど把握している。
数日前だってそうだった。湊は私が来るかどうかを確認するというより、最初から来るものと決めているような調子で声をかけてきた。
「
「
即答すると、湊はそれで満足したのか、あっさり頷いた。
「
その反応がなんとなく気に入らなくて、私は眉を寄せる。
「
「
「
そう言い返すと、湊は少しだけ不思議そうな顔をした。
「
まるで何がおかしいのか本当に分かっていないような顔をされると、それ以上文句を言うのも馬鹿らしくなってくる。
「
結局そう答えるしかなくて、湊はまた当然のように頷いた。
そこで話は終わった。
今さら「聞きに来てほしい」なんて言葉にするような関係でもないし、私だって湊が出演すると知っていて行かない理由はない。そんなやり取りを思い出しながら受付を済ませ、ホールへ入ると、自分の席を見つけて腰を下ろした。
開演時刻が近づくにつれて客席は少しずつ埋まっていく。厚手のコートを脱ぐ音やプログラムをめくる音、小さく交わされる会話があちこちから聞こえる中、私は何気なく舞台へ目を向けていた。
別に緊張しているわけではない。湊が人前で弾く姿なんて、これまで何度見てきたか分からないのだから。それよりも、周囲の客席を眺めているうちに、少しだけ不思議な気分になった。
ここにいる人たちは、湊のことをどれくらい知っているのだろう。
舞台に立つヴァイオリニストとしての神谷湊しか知らない人もいれば、今日初めて名前を知った人だっているかもしれない。これから舞台へ出てきてヴァイオリンを弾き、演奏が終われば拍手を送る。その人たちが知っている湊は、きっとそのくらいだ。
けれど、私は違う。
七年前からずっと、すぐそばで見てきた。上手く弾けなくて同じ場所を何度も繰り返すところも、演奏を終えた途端にお腹が空いたと言い出すところも、集中していると声をかけたってろくに返事をしなくなるところも、私にとってはどれも見慣れた湊の姿だった。
そして何より、私は湊の音を知っている。私が五歳だった頃に初めて聞いてから今日まで、何度も同じ部屋で耳を傾け、ときには隣から好き勝手に口を出しながら、その音が変わっていくところをずっと聞いてきた。
だから、この会場にいる誰よりも湊の音を知っているのは、きっと私だ。
そんなことをぼんやり考えているうちに客席の照明がゆっくりと落ち、あちこちから聞こえていたざわめきも次第に静まっていく。
やがて舞台へ向けて、拍手が起こった。舞台袖から姿を現した湊は、普段私が見ている彼とは少しだけ違って見えた。
きちんとした衣装に身を包み、ヴァイオリンを手に舞台の中央へ向かっていく。その表情に緊張した様子はなく、客席へ一礼すると、いつものように静かに楽器を構える。私は小さく息を吐き、背もたれへ身体を預けた。
さて、今日はどこに文句をつけてやろうか。
そんなことを考えるくらいには、いつも通りの気分で湊の演奏を待っていた。
やがて弓が動き、最初の旋律がホールいっぱいに広がった瞬間、私はわずかに目を見開く。
この曲を聞き間違えるはずがない。
七年前、まだ五歳だった私が初めて湊の家へ行き、目の前でヴァイオリンを弾いてほしいと頼んだあの日。演奏が終わるたびに「もう一回」と何度もせがんで、結局何度も弾かせた、あの曲だった。
懐かしい、と素直に思う。
あの日だけではない。その後も何度となく湊が弾くのを聞いてきたし、自分で音楽を学ぶようになってからは、ただ耳を傾けるだけではなく、譜面を追いながら聞いたことだってある。
だから、この曲ならよく分かっているつもりだった。どこで音が動き、どこで旋律が膨らむのか。そして、湊がそれをどう弾くのかまで。
そのはずだったのに——。
——あれ?
演奏を追っていた耳に、ほんの小さな違和感が引っかかった。音を外しているわけでも、テンポがおかしいわけでもない。むしろ、そんな分かりやすい粗を探す方が難しいくらい、湊の演奏は整っている。
それなのに、何かが違う。
最初は、久しぶりにこの曲を聞いたせいだと思った。
けれど、演奏が進むにつれて、その違和感は消えるどころか少しずつ形を変え、重さを増しながら胸の奥へ沈んでいく。
私はこの曲を知っている。そして、湊の音だって知っているはずだった。
どこで呼吸を置くのか。どこでほんの少し音を溜めるのか。昔はどんなところで癖が出て、それがどう変わってきたのか。何年も隣で聞き続け、何度も感想を言い、ときには私が口を出したせいで湊が弾き直したことだってある。
九歳になった頃には、演奏を聞けば、湊がそこで何をしようとしているのかくらい分かるようになったと思っていた。
だから今だって、分かるはずなのに。
——分からない。
今の音は、何?
どうして、そこでそんなふうに弾くの?
いつもなら演奏を聞いているうちに勝手に浮かんでくるはずの言葉が、今日は何一つ形にならない。それでも何か見つけようと、私は必死に湊の音を追いかけた。
ここは前の方がよかった。今の入りは少し早い。その音は、もう少し——。
けれど、どの言葉も途中で止まってしまう。口に出す前から自分の中で否定され、それどころか、文句をつけられる場所を探している自分の方が何かを間違えているような気さえしてきた。
——こんな音だった?
胸の奥がざわつく。
曲は同じで、使っているヴァイオリンだって同じ。目の前で弾いているのも、七年前からずっと隣にいて、何度となくその音を聞いてきた湊のはずだ。
それなのに、知らない。
私の知らない音がする。
気づけば背もたれへ預けていた身体を起こし、私は舞台から目を離せなくなっていた。いつの間にか周囲の気配まで遠ざかり、この広いホールの中に自分と湊しかいないような錯覚さえ覚える。
けれど、違う。
少し遅れて、それが私だけではないことに気づいた。
先ほどまで客席のあちこちから聞こえていた衣擦れも、咳払いも、誰かがプログラムをめくる音さえ聞こえない。これだけ大勢の人がいるはずなのに、誰もが息を潜めるように舞台を見つめている。
みんな、湊の音を聞いていた。
まるでこの場所には、湊のヴァイオリンしか存在しないみたいに。
そんな光景なら、これまでだって何度も見てきた。湊が演奏を褒められることも、コンクールで高く評価されることも珍しくない。そのたびに私は、自分のことでもないくせに少しだけ得意な気分になっていたのだから、本当なら今日だって嬉しいはずだった。
なのに、今はその気持ちがどこにも見つからない。
代わりにあるのは、胸の奥へゆっくりと広がっていく冷たさだけだった。
——どうして。
どうして私は、こんな気持ちになっているのだろう。
答えを見つけられないまま、最後の音が響いた。
長く伸びたその余韻がホールの高い天井へ溶けていっても、ほんの一瞬、誰も動かなかった。
そして静寂が破れる。
次の瞬間、客席を埋め尽くすような拍手が一斉に湧き上がった。
私も周囲につられるように手を叩いた。
いや、そうするしかなかったのだと思う。
素晴らしい演奏だった。そんなことは誰かに教えられるまでもなく、七年間ずっと湊の音を聞いてきた私自身が一番よく分かっている。
だからこそ、苦しかった。
客席を満たす拍手はますます大きくなり、その中心で湊が静かに頭を下げる。何人もの人が舞台の上にいる彼を見つめ、その演奏を惜しみなく称えている。
本当なら、私だって同じように喜べるはずだった。
湊が褒められれば嬉しかったし、誰かがあいつの演奏をすごいと言えば、別に私が褒められたわけでもないのに少し誇らしい気持ちになった。それが今までの私にとって当たり前だったのに、今日は胸の奥につかえたものが取れず、息をすることさえ少し苦しい。
拍手を送りながら舞台を見つめても、そこにいるのは間違いなく私の知っている湊だ。
七年前からずっとそばにいて、その背中を追いかけ、ようやく追いついてからは何度も追い越してきたはずの相手。
それなのに——。
どうして今、あんなに遠く見えるのだろう。
◇ ◇ ◇
演奏会が終わったあと、私はホールを出たところで湊と合流した。
舞台衣装からいつもの服へ着替えた彼が、ヴァイオリンケースを手にこちらへ歩いてくる。その姿を見た瞬間、胸の奥に残っていた息苦しさがほんの少しだけ和らいだ。
いつもの湊だ。
さっきまで大勢の視線を一身に集め、あの音を響かせていた人間と同じだとは思えないくらい、何も変わらない顔で私の前までやってくる。
「
「……
「
聞かれたことまで、いつもと同じだった。
湊は演奏を聞かせたあと、決まって私に感想を求める。私も遠慮したことなんてなくて、気になったところがあればその場で口にするし、納得できなければ何度だって文句をつけてきた。
だから今日だって、いつもと同じように答えればいい。
そう思って口を開こうとしたのに、言葉が出てこなかった。
——すごかった。
真っ先に浮かんだのは、そんなありきたりな一言だった。
けれど、それだけは口にしたくなくて、喉まで出かかった言葉をそのまま飲み込む。今ここで「すごかった」と認めてしまえば、演奏を聞いているあいだずっと感じていた何かまで認めることになるような気がした。
その何かが何なのか、自分でもまだ分かっていないのに。
「……
しばらく迷った末にようやく絞り出すと、湊は気を悪くするでもなく、いつもと変わらない様子で小さく頷いた。
「
返ってきたのは、それだけだった。
いつもより声が小さかったことにも、たった一言を返すまで妙に時間がかかったことにも、湊は気づいていないらしい。
それも当然なのかもしれない。
私自身にすら、まだ自分の中で何が起きているのか分からないのだから。
「
何事もなかったように聞かれて、私は少し遅れて頷いた。
「
「
普段なら、それで話は決まっていた。どこへ寄るかで少し揉めて、結局どちらかが折れる。そんな帰り道になるはずだった。
けれど今日は、どうしてもそんな気分になれない。
「
思いがけない返事だったのか、歩き出しかけていた湊がこちらを振り返る。
「
その顔には、わずかな戸惑いが浮かんでいた。けれど、その戸惑いもほんの一瞬だった。
「……
そう付け加えると、湊はそれ以上理由を聞こうとはせず、いつものようにあっさり頷いた。
「
「……
それで話は終わった。
湊はいつもと同じように軽く手を上げ、私もそれに応えるように背を向ける。ただ一つ違うのは、普段なら当然のように隣を歩いているはずの湊が、今日はそこにいないことだった。
ホールを出ると、朝から降り続いていた雪はまだ止んでいない。頬へ触れる空気は痛いほど冷たく、息を吸い込むたびに喉の奥まで冷えていく。それでも今は、その冷たさが火照った頭を少しだけ落ち着かせてくれる気がした。
けれど、いくら歩いても、さっき聞いた音だけは頭から離れてくれない。
何が違ったのだろう。どこで、あんなふうに変わったのだろう。そして何より、どうして私はそれが分からなかったのか。
考えても答えは出ないまま、足だけが雪の積もった石畳を進んでいく。
これまでだって、湊に負けたことなら何度もある。悔しくて眠れなかった日もあれば、次の日から意地になって練習量を増やしたことだって、一度や二度ではない。
それでも、あの頃の私は迷わなかった。
次はもっと上手く歌えばいい。上手くできなかったところがあるなら直せばいい。足りないものを一つずつ見つけて埋めていけば、また湊に追いつける。追いついたら、今度こそ追い越してやればいい。
ずっと、そうやってきた。
けれど今日は、それまでのどんな負けとも違う。そもそも私は、まだ湊と勝負すらしていない。今日はコンクールでもなければ、どちらが上だったか言い争ったわけでもない。ただ客席に座って、湊の演奏を聞いていただけだ。
それなのに、初めて分からなくなった。何をすれば、あそこまで行けるのか分からなかった。
◇ ◇ ◇
家に帰ると、私はコートを脱いですぐに自分の部屋へ向かった。
少し休んだら、と途中で母に声をかけられた気がする。それでも適当に返事をしただけで足を止めず、部屋へ入ると楽譜を開いた。
まずは呼吸を整え、いつものように発声から始める。一度声を出して、感覚を確かめながらもう一度。声はきちんと出ているし、喉の調子だって悪くない。
そのまま先生から注意されていた箇所を意識しながら曲を歌ってみると、以前なら崩れていたところも、今ではずいぶん安定している。
ちゃんと上手くなっている。それくらい、自分でも分かる。
けれど、曲が途切れたほんのわずかな隙間へ、今日聞いたヴァイオリンの音が入り込んできた。
——湊の音。
何年も聞いてきたはずなのに、今日初めて聞いたように感じた音。私は眉を寄せ、楽譜の最初へ視線を戻した。もう一度、今度はもっと丁寧に歌ってみる。
呼吸を深く取り、音程を意識しながら、一つ一つの言葉だけではなくフレーズ全体を捉える。先生から何度も教えられてきたことを頭の中で確かめながら歌えば、さっきよりも声は安定し、自分でも悪くないと思えるところまで仕上がった。
むしろ、さっきよりいい。それなのに。
「……
曲を止めた瞬間、思わずそんな言葉が漏れた。
何が違うのかは分からない。音程を外したわけでもなければ、呼吸を失敗したわけでもない。今までなら直すべきところを見つけて、そこをやり直せばよかったのに、今はその肝心の「どこを直せばいいのか」が見つからなかった。
それでも、立ち止まっていることだけはできない。
もう一度、最初から。
さっきより丁寧に。今度こそ何かを掴めるように。
息を吸って、声を出す。
最後まで歌い終えても、やっぱり違う。
もう一度。
深く息を吸い、また声を出す。
けれど今度は、曲の途中で声が止まった。
「
誰に聞かせるでもなく呟いて、私はまた楽譜の最初へ戻った。
それから何度繰り返したのか、もう覚えていない。気づけば喉には少しずつ疲れが溜まり、声を出すたびにさっきまでとは違う重さを感じるようになっていた。
それでも、やめたくなかった。
ここでやめてしまえば、自分の歌ではなく、今日聞いたあのヴァイオリンの音だけが頭の中に残ってしまうような気がした。
「
楽譜を握る指に、知らず知らずのうちに力が入る。
私だって、ちゃんと上手くなっている。何もせずにここまで来たわけじゃないし、遊んでいたわけでもない。毎日練習して、先生に叱られて、思うように声が出なくて腹を立てても、それでも投げ出さずに続けてきた。
その努力が無駄ではなかったことだって、結果で証明してきた。
湊に勝った。一度だけじゃなく、あの日から何度も。
湊だって私の歌を真剣に聞くようになったし、すぐには文句をつけられず、悔しそうな顔で粗を探していることだってあった。
だから私は、ちゃんと隣にいたはずだ。
追いついていたはずなのに。
「……
当然、返事をする人はいない。
分かっている。湊は何も悪くない。
今日だって、ただ舞台に立ってヴァイオリンを弾いただけだ。私に勝ったと自慢したわけでもなければ、もうお前とは違うなんて言ったわけでもない。私を置いていこうとしたわけですらない。
それなのに、私は勝手に置いていかれたような気持ちになっている。
「
いったい何をすればいいのだろう。
どこを直して、どれだけ練習すれば、今日の湊が見ていた場所まで行けるのか。今までなら負けても、少なくとも次に何をすればいいのか、その答えを探すことはできた。
けれど今は、その探し方さえ分からなかった。今日は、その入口さえ見つからない。
そのことが、たまらなく怖かった。
もう一度歌おうと息を吸ったのに、喉の奥で何かがつかえたように、今度は声が出てこない。
どうしたのだろうと俯いたまま楽譜を見つめていると、開いたページの上に小さな染みができた。何だろうと思うより先に、すぐそばへもう一つ、ぽつりと雫が落ちる。
そこでようやく、自分が泣いていることに気づいた。
慌てて袖で目元を拭うけれど、泣く理由なんてないはずだった。今日は湊に負けたわけでも、何か大切なものを失ったわけでもない。明日になればまた湊に会って、きっとあいつはいつもと同じ顔で、いつもと同じように私の歌を聞く。
何も変わっていない。
そう思おうとしているのに、一度溢れた涙はなかなか止まってくれなかった。
悔しい。それ以上に、怖かった。
湊の背中を追いかけ始めてから、こんな気持ちになったのは初めてだった。追いつけるかどうかではなく、どうすれば追いつけるのか、その方法さえ分からないと思ったのは。
しばらくしてようやく涙が落ち着くと、私は残った雫まで乱暴に拭い、もう一度楽譜へ視線を落とした。それでも、音楽をやめようとは少しも思わない。
湊から離れようとも思わなかった。
怖いからといって、ここで立ち止まる方がずっと嫌だった。だって私は、一度はあの背中に追いついたのだ。ようやく手が届いて、それから何度も追い越し、追い越されながら、湊の隣を走ってきた。
だったら、また追えばいい。
今はまだ、何をすればいいのか分からない。それなら見つかるまで探して、分かるまで何度でも歌えばいい。
足りないものが見えないのなら、見えるようになるまで続ければいい。そうすれば、いつかまた湊の背中に手が届くはずだ。
「……
まだ涙の跡が残る頬をそのままに、私は誰もいない部屋でそう呟いた。それから楽譜を見つめ、気持ちを切り替えるようにもう一度深く息を吸う。
「——
◇ ◇ ◇
あの頃の私は、まだ知らなかった。
あの日、湊の音に感じたものが何だったのか。その正体を理解できるようになるまでには、もう少し時間が必要だった。
五歳だった私にとって、湊のヴァイオリンは、暗い部屋の向こうから差し込んできた光だった。その音をもっと聞きたくて、もっと近くで感じたくて、私は自分から音楽の世界へ足を踏み入れた。
それから四年が経ち、九歳になった私はようやくその背中に追いついた。初めて湊に勝ってからは、何度も追いつき、追い越し、また追い越されながら、そのたびに互いを追いかけた。日常ではずっと隣にいた彼と、ようやく音楽の中でも同じ場所を走れるようになったのだと、疑うことなく信じていた。
そして、十二歳の冬。
ずっと知っていると思っていた人の音が、ある日突然、自分には理解できないほど遠く感じることがあるのだと、私は初めて知った。
もちろん、今なら分かる。
湊だって、何もせずにあの場所へ辿り着いたわけではない。誰より長く楽器に触れ、何度も失敗を重ね、私が知らないところでも数え切れないほど音楽と向き合ってきたはずだ。
けれど、それだけでは説明できないものも、確かにあった。
同じだけ努力すれば、いつか同じ場所へ辿り着ける。頑張ったぶんだけ距離は縮まり、追い続けていればいつか追いつける。あの頃の私は、どこかでそれを当たり前のことのように信じていた。
けれど湊は、それがいつだって正しいとは限らないことを、言葉ではなく自分の音で私に教えた。
五歳の私を暗闇の中で暖め、音楽の世界へ連れ出してくれた光。九歳の私が追い続け、ようやく手が届いたと思えた光。
それは、ただ優しく私を照らしてくれるだけのものではなかった。
あまりにも近くでまともに見つめれば、思わず目を逸らしたくなるほど眩しい。その眩しさに圧倒され、ときには傷ついてしまうことさえある。
——それでも。
私は、その光から目を逸らすことができなかった。