王が姿を消してから、一年が経とうとしていた。
王とまつろわぬ神々との戦闘で草の一本すらまともに育たなくなったオーストラリア。王と我々の築き上げた、磐石とすら思えた王国はすでに存在しない。
あの日、あの憎き悪神のせいで、私達は大切だったものをほとんど全て失った。
城も、街も、港も、大好きな王も。
唯一残ったのは民だ。だが、それも瓦解が始まっている。王無き今、この国は───いや、この世界は混沌の時代に向かっていた。
「...はぁ......」
この一年、止まることを知らないため息がまた一つ溢れる。
ため息は幸せを逃がす、と王が昔言っていたが、すでに逃げてしまった幸せを取り戻す方法は無いのかと本気で思う。
街の復興はこの一年で随分と進んだ。
元の姿には程遠いが、なんとか民が生活できるくらいには整い始めている。
近々の課題である食糧問題も、つい先日諸外国との交渉が進み、少なくとも向こう一年はなんとか凌げるだろう。
だが、それも猶予付きの安心だ。今はただ、今までの借りを諸外国に返させているだけ。交渉とは魔法ではない。切れるカードが無くなれば、ローリー・コリンズという王と、世界の中心とまで言われた巨大なマーケットを失ったこの国の肩を持つ国は中々現れないだろう。何の旨みもないどころか、下手をすれば大損なのだから、国の責任者としてそれは当たり前だ。私が逆の立場でもそうする。
死んだ大地を蘇らせ、最低限の食糧自給を行えるようにしなければ、この国に未来はない。待っているのは、緩やかな餓死か、あるいは他国の勢力下に置かれる未来だろう。
王の愛した民達を死なせるものか。
王が帰って来るべきこの国を他国の属国などにしてたまるか。
そんな気持ちで力強くペンを握る。
コンコン、とノックの音が聞こえた。
どうぞ、と短く答えると、部屋の扉がゆっくりと開く。
「失礼する」
少し堅い声音で部屋に入ってきたのは、初老の男性。
白い髪をオールバックに固め、白い髭は適度に整い、顔の皺のわりには随分と筋肉質の老紳士────マルコ・パスクウィーニは、手にトレーを持ち、その上にはティーカップが二つ乗っている。
「紅茶を持ってきた。少し休め」
書類が山積みになった私の机に、マルコさんがカップを置く。薔薇のような、ほんのりフラワリーな香りが鼻腔を突いた。
「ありがとうございます」
気合いを入れたばかりだが、せっかくのマルコさんの気遣いを無碍にするのも忍びない。
そう思い、持っていたペンを置いてカップを手に取る。
紅茶を口に含めば、薔薇の香りが強く鼻に抜け、少しばかりクドい味が口の中に広がる。安物だな、と分かる味だ。
私はどちらかとどっしりとした渋みや茶葉のコクを楽しみたい派なのだが、このような状況で選り好みなど言っていられない。こうして室内で紅茶が飲めるようになっただけマシというものだ。
───王がいた頃は、王と紅茶の話に華を咲かせたな。
美食を好む王は紅茶にもうるさい。安物だからと言って怒るようなことはなかったが、安物を飲まされた次の日には自分の足で外国を周り、王が気に入った味の茶葉を持ち帰ってきていた。
自分が気に入った紅茶を飲み、スコーンを頬張り、満足げに零した笑顔のなんと可愛らしかったことか。
「随分とやつれたな。眠れているのか?」
つい一年前まで当たり前に広がっていた日常を思い返し感慨に耽っていると、マルコさんにそう言われた。
自身も紅茶を一口飲み、心配そうにこちらを見ている。
「正直、あまり。ですが、弱音を吐いている場合でもないので」
復興は随分と進みはしたが、先の食糧問題以外にも課題は山積みだ。
元々、国の運営や外交関係は私が任されていたけれど、特に外交については王の存在がどれほど大きかったのかを再確認させられる。王がいるのといないのとでは、他国の態度がまるで違った。
各国の重鎮たちが赤子だった頃から王は君臨し続けており、「良い子にしないと魔王が来るぞ」と王の存在を子供の躾に使っている地域さえある。当たり前のように存在していた王が突然姿を消したというのは、各国にとってもかなり衝撃だっただろう。
「...今朝、また亡命船が出港しました」
「そうか。嘆かわしいことだ。王が知ったら悲しむだろうな」
マルコさんがいつも通り淡々と、けれど少しだけ寂しそうに呟く。
王は悲しみはしないだろう、と私は思う。「それもそいつらの選択だ」と受け入れ、民の旅路を祝福するかもしれない。
けれど、責任は感じるだろうな。王はどこまでも王だった。「民を不安にさせ、亡命という手段を取らせた俺が悪い」と、たった一人で全ての責任を背負い込んでしまうだろう。
私は王にそんなことを思ってほしくない。王は偉大だ。今回の失踪だって、何か事情があってのことに違いない。そんな優しい王に責任を押し付けるなんて、絶対に嫌だ。
「しかし、悪いことばかりではない。もちろん亡命なぞ喜ぶものではないが、その分養うべき胃袋が減るのだ。食糧難も多少は息をつくだろう」
「...本気で言っているのですか?」
王の愛した民が離れることを口減らしのように言うなんて、マルコさんらしくない。
「悪い側面ばかりを見るな、ということだ」
「それは...そうかもしれませんが...」
城下に出ては子供たちと遊び、酒場で皆と笑いあっていた王の姿を思い出す。
いざ戦いになれば鬼神が如き荒々しさで暴れていたが、普段、民と交流する時はいつも笑顔で、民に慕われる温情溢れる王だった。
日々、とまでは言わないものの、月に一度は我が国からの亡命船が出ている。その中には、王とよく話していた者の姿もあった。
王という絶対的な傘を失い、国の未来に不安を抱きすぎた結果だろう。あれだけ美しく、愛おしかった日常が、今はもう見る影もない。
民の暮らしは日に日に苦しくなっている。配給だけでは腹を満たせず、仕事を求めて国外へ出る者も増えた。食糧の確保ができたといっても、たった一年。精神的にも肉体的にも限界は近い。
「
マルコさんが励ましてくれる。
私が本当に一人だったなら、私はとっくに押し潰されていただろう。マルコさんや、ここにはいないもう二人の騎士たち。そして、辛抱強く復興に協力してくれている民たちがいるから、私もこうして頑張ることができる。
そして何より、王が戻ってきた時に褒めて頂きたい。
よく頑張った、お前は自慢の騎士だ。そう言って、あの温かい手でまた頭を撫でてもらいたい。
王は死んだと思っている者は多く、特に王のご加護に縋っていただけの魔術結社の半数近くはそう判断しているようだった。
だが、王は死んでなどいない。どこにいるのかは分からないが、私達騎士は魂で王の生存を確信している。
別に、スピリチュアルで盲目的な希望、というわけではない。私達は王ととある契約を結んでいた。その影響でできた魂の繋がりとしか呼べないものが、王と私達の間にはある。その繋がりが今も消えていないことが、王が生きていることの何よりの証拠だ。
「私はこれからイタリアに発つ。いくつかの魔術結社に不穏な動きが見られた」
紅茶を飲みきり、マルコさんがそう言う。
王は優しい御方だった。その寵愛は我が国だけでなく全ての人類に向けられ、その甘い蜜を吸ってきた組織は多い。
だが、その寵愛のせいで立場が弱くなってしまった者たちもいる。
特に、他の魔王が誕生した際、そちらを担ごうとしていた者たちが問題だ。
他の魔王など、誕生してもすぐに我が王によって殺害されるというのに、人間とはよく分からない思考で愚行を犯す。
しかし王は寛大で、一度他の魔王に鞍替えしても、その者たちを簡単に許し愛す。それこそが問題で、他の組織からすれば、裏切り者が自分たちと同じだけの寵愛を受けていることが許せなかったらしい。
そのようなこともあり、王がいなくなった今、王に守られてきた者たちの間で色々と衝突が起こっている。
マルコさんは王の不在中、そのような問題を解決してくれていた。
私が諸外国との外交を、マルコさんが魔術結社やそれに準ずる組織への干渉を。
外部に対する問題は、私たち二人が担っている。
「よろしくお願いします。...すみません。荒事になった場合、私では力不足で...」
「気にするな。王もおっしゃっていただろう? 適材適所、というやつだ」
不得意を克服するに越したことはないが、出来ないなら他人に任せてみるのが良い。
王はそう言っていた。事実、王も外交はそこまで得意だったわけではなく、私に一任してくれていた。
まぁ、王自らが外交を行うと、王の意思に関わらずそれは交渉ではなく脅迫になってしまうので無理はないのだが。
協力するとは、何も手を取り合って仲良しこよしを演じることではなく、一人では補いきれない部分を他人という外付けの力を使って解決するということ。
王から学んだ数多くの叡智の一つだ。
「お前もあまり根を詰めすぎるな。お前が倒れてしまっては復興は立ち行かなくなる。そしてそれ以上に、王が悲しむ」
「はい、承知しています」
今は自分が国の支え。無茶をするべき時ではあるが、それで倒れてしまったら元も子もないことは私も理解していた。
今日はちゃんと寝ようかな。ここしばらくの間は特に忙しくてあまり眠れていなかったし、いくら騎士として強靭な肉体を持っているとは言っても、睡眠を取らなければいずれ限界はくる。
「ああ、そうだ」
飲みきって空になったカップを持ち、部屋を出ようとしていたマルコさんが振り返る。
「ルーナが張り切っていた。今日の夕食は、お前の好きなラタトゥイユだそうだ」
ルーナ───ルーナ・パスクウィーニ。マルコさんの孫であり、この国の料理長であり、王の騎士の一人。
私と彼女は普段はそこまで仲が良い方ではないのだが、そんな彼女が私の好物を作ると気合いを入れているらしい。
それだけ、私は傍から見れば疲れきっているということだろうか。
「そうですか。それでは、夕飯を楽しみにもうひと仕事頑張ろうと思います」
私の返答に柔和な笑顔で答えたマルコさんが、今度こそ部屋を出ていく。
一人になった部屋に響くのは、外から聞こえてくる大工工事の音。今日は重機が入っているのか、いつもよりもけたたましい。
だが、そんな音が私は嫌いではない。民が前を向き、自らの足で進もうとしている証拠だから。
...王がいなくて寂しい。王がいなくて不安だ。早く王に帰ってきてもらいたい。
一人になると、そんなことばかり考えてしまう。そんな思考も、こうして大きな音を聞いていれば少しだけ紛らわすことができた。
残った紅茶を一気に飲み干し、ペンを執る。
王の不在を支える。その使命を胸に、私────ソフィア・クラニチャールは再び書類の山と対峙した。
お疲れ様です。作者です。
ここで第一章は終了となります。
ここまで読んでくださり、誠にありがとうございました。
これまで物語の流れを切らないよう、まえがき・あとがきは控えておりましたが、第一章終了という区切りですので、ここで一度ご挨拶を。
ここまでのたくさんの応援、感想、高評価、誠にありがとうございます。日刊ランキングにも掲載させていただき、非常に多くの方に目を通していただけたことを嬉しく思います。
合わせて、感想の返信として「ネタバレ防止のため答えられない」という旨のコメントを多く返してしまい、大変申し訳なく思います。感想欄でのネタバレはあまり良いものではないと考えており、ご容赦ください。
感想をいただけることは非常に嬉しいですし、日々の執筆のモチベーションになっています。
また答えられないと言っておいてなんですが、皆さまからいただける考察は大変鋭く、ドキリとするものも数多くございました。私も非常に楽しんで読ませていただいています。
第2章以降ですが、少し投稿ペースを落とす予定です。遅めの夏休みが終わり、執筆に割ける時間の不足が理由となります。申し訳ございません。
物語の着地点や、大雑把ではありますが全体的な構想などは固まっています。投稿ペースは落ちてしまいますが、物語は最後までしっかりと書き上げるつもりです。
第2章では、舞台が北側へと移ります。
北側は、今ローリー達がいる東側とは文化や風土の異なる地域です。まだ見ぬ未知に触れ、例の斑ロリらと遭遇したローリーがどのような反応を見せるのか、どのように遊び尽くすのか。また原作から少しだけ乖離してきたノーネームたちはどう活躍するのか。
ぜひお楽しみいただければ幸いです。
今後も、物語や考察などを皆さまに楽しんでいただけるよう、執筆を続けてまいります。
これからも応援の程、よろしくお願いいたします。