十六夜は、心の底から込み上げる高揚感を全身で表現していた。
「ヤハハハ! いいねいいぞいいなぁオイ!! 最高じゃねぇかヴェーザー!!!」
叫びながら、左腕でヴェーザーを殴りつける。
それを大笛で受け止めたヴェーザーが後ろに跳んだ。
「ったく、嫌になるな。せっかく神格を得たってのに、万能感もクソもない」
不満げに吐き捨てるヴェーザーの顔には、薄くだが笑みがあった。
十六夜が舌打ちを零す。
「気に食わねぇな。何を笑っていやがる」
「おいおい、最高だって叫んでたばっかりだろ。急に不機嫌になるなよ」
大笛を肩に置いたヴェーザーの視線が、十六夜の右腕に落ちた。
完全に折れている。だらりと垂れ下がったその右腕は、もはや剛力を振るえる状態ではない。しばらくは使い物にならないだろう。
「何。少し安心しただけさ」
「安心だ?」
十六夜が訝しむ。
近くで戦っているディーンの余波で飛んできた瓦礫を蹴り崩しながら、ヴェーザーを睨んだ。
「そうだ。そうだよな。骨折ってのは、普通はしばらく治らないもんだ」
一人でうんうんと頷くヴェーザーを訝しげに見たあと、十六夜は「なるほど」とさらに不満を顔に出す。
「ローリーの野郎、ヴェーザーと闘りやがったな?」
ここにはいない、ルールに縛られているくせに自由に動き、好き勝手に盤面を荒らす魔王の顔を思い浮かべる。想像の中でローリーがヒャハハと笑っていた。
「どうせその義手も、ローリーが与えたんだろ」
「なんだ、知ってたのか」
ヴェーザーは銀の義手を一瞥し、辟易とした様子で答える。
「なんなんだあいつは。お前ら、どうしてあんな化け物を喚び寄せた?」
「俺に聞くなよ。黒ウサギが勝手に召喚したんだ」
「そうかい。だったら《月の兎》に言っとけ。お前のせいで箱庭はこれから大変なことになるぞ、ってな」
「へぇ。随分と殊勝だな? 俺たちを生かして返す気かよ」
「あの世で、って意味だ」
ヴェーザーと十六夜が同時に跳び出す。
強い衝撃波が地面を抉り、街並みを廃墟に変えた。それでも二人は止まらず、十、二十と激突を続ける。
「ちょっと十六夜くん! もう少し離れてやってもらえる!?」
堪らず、少し離れたところでラッテンと戦っていた飛鳥が、ディーンの肩の上から叫んだ。
随分と飛鳥たちに近付いてしまった、逆に言えばペストから引き離されてしまったと、十六夜が内心で舌打ちする。
「無事だったかお嬢様。なんだよそのイカした鉄人形は」
一度ヴェーザーから離れ、適度に飛鳥とも距離を取りながら周囲を確認する。
レティシアは三体のシュトロムを倒したようだが、火蜥蜴に苦戦している様子だった。耀も同じだ。
今回のゲームには『同士討ちを禁ずる』というルールがある。操られているとはいえ、火蜥蜴たちは《サラマンドラ》の構成員。彼らを殺してしまえば同士討ちになってしまうし、かと言って手加減して楽に勝てる相手でもない。
「色々あったのよ。ところで、春日部さんはどうしたの? 何を言っても返事がこないのだけれど」
耀はラッテンの能力に抗えない。それを心配して何度か声をかけた飛鳥だが、返答は一度も得られていなかった。
「春日部は耳栓をしてる。聴力も、モグラか何かの力にまで落としてるらしい。魔笛対策だ」
「そうなの。それじゃあ、私はあの女に集中すればいいのね。こっちは私がどうにかするけれど、そっちは手助けが必要?」
「ハッ、馬鹿言え。手を出したら恨むぜ」
「言ってくれるじゃない、小娘が!」
二人の会話を聞いていたラッテンが笛を吹く。ネズミたちが束になってディーンに向かった。
それに焦ることもなく、ディーンが巨大な腕を地面に叩きつけ、ネズミたちを散らす。
十六夜もまた、地面を砕いてヴェーザーに突撃した。
「作戦会議は終わりか、小僧?」
「ああ、俺がお前を殴り飛ばすっつー作戦が決まったところだ!」
再度衝撃波が起こり、突風と砂塵が舞う。砂塵が目に入った飛鳥が「あっちでやって!!」と怒号のように声を張り上げた。
「やーねぇ、男ってホントに野蛮。優雅さがないのよ。そう思わない?」
上空に浮遊していたラッテンが呆れたように言う。
目を擦った飛鳥が、少しの痛みとともにラッテンを見上げた。
「そうね。野蛮で凶暴で、加えて十六夜くんは快楽主義も揃ったダメ人間。でも、強いわよ?」
「なにそれ。貴女たちのところの魔王と同種? あ〜、ヤダヤダ。変なのばっかり集めちゃって。品性を疑っちゃう」
ふわりと、ラッテンがさらに上空に飛ぶ。
それを追いかけるようにディーンの腕が伸びるが、ラッテンはそれを躱した。
「なぁに、それ? 伸びる金属なんて、神珍鉄でも使ってるの?」
「あら、物知りなのね」
「...ホントに、なんで貴女たちみたいなのが《ノーネーム》なんかにいるワケ?」
冗談のつもりだったが、まさか本当に神の霊鉄が使われているとは。世の中にはまだまだ不思議なことがたくさんあるなと、どうでもいいことを考える。
「う〜ん、どうしようかしら。その鉄人形に勝てる手駒って、私持ってないのよね」
「あら、泣き言? 降参したら、一発お腹を殴るだけで許してあげなくもなくてよ? ディーンの拳でね」
「嫌よ。そんなの死んじゃうじゃない」
ラッテンが笛を吹く。ネズミたちが呼応し、ディーンに群がった。
「蹴散らしなさい、ディーン!」
「DEEEeeEEEeEEEEEN!!!」
咆哮とともに大きく震脚し、戸惑ったネズミたちを巨大な腕で薙ぎ払う。
ここまでは先程と同じだ。違うのは、その次。
「っ! ディーン、止まりなさい!」
慌てた様子で飛鳥が指示を飛ばした。ピタリと、電池が切れたようにディーンが静止する。
ディーンの腕が振り下ろされる予定だった場所にいたのは、ネズミではない。熱に浮かされた赤い顔をした、十数人の人間だった。
「あら、惜しい。もう少しで私たちの勝ちだったのに」
クスクスと薄く笑いながら、ラッテンが上空から飛鳥を見下ろす。
「貴女が考え無しに私を投げ飛ばしたりするからよ。何がどこにあるのか、きちんと把握しておかなくちゃね、お嬢ちゃん?」
ディーンの前に立ち塞がったのは、黒死病に倒れた人々だった。
高熱に苦しみ、本陣営の広間に雑魚寝させられていた、このゲームの《
「卑怯な真似を...!」
「卑怯? 随分と甘っちょろいことを言うじゃない。これも立派な作戦よ、さ・く・せ・ん♪」
ウィンクまでして見せたラッテンを飛鳥が睨み上げる。
ディーンは強力な恩恵だ。一騎当千、例え相手が魔王の臣下であろうと簡単に負けはしない。
だが、それ故に、目の前の人間たちもアリのように潰せてしまう。
「ところで、黙って睨んでるだけでいいの?」
「何を...きゃあ!?」
不意に、飛鳥の足元───ディーンが大きく揺れた。
ディーンの頭にしがみつき、なんとか落下を免れたものの、ディーンは耐えられず片膝を付く。
「テメェ、俺との戦いの最中に道草食ってんじゃねぇぞ!!」
何事かと下を確認するよりも前に、十六夜の怒号が響いた。
見れば、ディーンの足元で大笛を構えているヴェーザーの姿がある。ヴェーザーが大笛でディーンの脛を打つと、再度、大きな振動が飛鳥を襲った。
先程の振動も彼が原因か、と飛鳥が推測すると同時、跳んできた十六夜がヴェーザーに拳を振るう。大笛で防御しながらも後方に飛ばされたヴェーザーは、すぐさま体勢を整え、跳躍して上空のラッテンの前で止まった。
「ちょっとヴェーザー、あんた押されてるじゃない。ちゃんと倒せるんでしょうね?」
「どうだろうな。あの小僧、パワーだけならローリー以上だ。スピードもある。一発、いいのが決まれば勝てると思うんだが」
上空で並んだ二柱の悪魔のやり取りを、地上から十六夜と飛鳥が見上げる。
十六夜が舌打ちした。
相手にこうも密着されると、一対一での戦闘を続けることは難しい。二柱纏めて倒す、というのも手だが、ラッテンの操る人間たちが邪魔だ。ディーンと同じく、十六夜の力では人間たちを巻き込んで殺してしまう可能性が高い。
「(かと言って、そっちを気にして手加減してたらヴェーザーを倒せねぇ)」
想像よりもラッテンの能力が厄介だと、苛立ちが募る。
「おいお嬢様、またラッテンをどこか遠くに投げ飛ばせないか」
「...無理、とは言わないけれど、ここまで距離を取られていると難しいわね。距離を詰めようとディーンを走らせれば、操られている人たちを踏み潰してしまうかもしれないわ。十六夜くんがラッテンを捕まえて投げ飛ばせば?」
「ハッ。そうしたいのは山々だがな。そんな隙を見せたらヴェーザーにやられる。一撃で沈む気はないが...その間にお嬢様を狙われたら厄介だ」
「私が足手纏いって言いたいの?」
不満げに返してみるが、現状では飛鳥自身それを否定できない。
ラッテンの相手だけなら十全にこなしてみせる。だが、ヴェーザーはどうか。スピードもパワーも、ラッテンとは比較にならない。
ディーンであれば負けはしないかもしれない。だが、直接飛鳥を狙われてしまったら話は変わってくる。
「とにかく、操られてる奴らが邪魔だ。あいつらだけでもどうにかしなきゃ始まらねぇな」
「───分かった。ならそっちは私たちに任せて」
ビュウ、と風が吹く。
少し鼻をつく腐敗臭とともに、風は操られている人々の下へと向かい、そして人々が次々と倒れていった。
飛鳥が声のした方を振り向く。
「春日部さん! ...と、アーシャさん、だったかしら?」
十六夜もそちらを横目で見る。
耀と、耀に背負われている《ウィル・オ・ウィスプ》の精霊、アーシャ=イグニファトスがいた。
ふと、十六夜はアーシャの恩恵を思い出す。
「...なるほど。可燃性ガスを操る恩恵を、春日部が風に乗せて、あいつらの周りに充満させて酸欠状態にしたのか。風で飛べるだけじゃなかったんだな」
「うん。やったことはなかったけど、やったらできた」
ブイ、と耀が指を二本立てて十六夜たちに向ける。アーシャも得意げに、耀の背で胸を張った。
「アッハハ! このアーシャ様にかかればこんなもんよ! もっと泣いて、咽いで、頭を垂れて感謝しな、《ノーネーム》!」
「アーシャだけじゃガスの操作がしきれないから、私が補助してるんだけど」
「うっさいな春日部耀! さっき助けてやったってのにさァ!」
火蜥蜴たちに囲まれて身動きが取れなかった耀を助けたのは、何を隠そうアーシャだった。瓦礫の陰からこっそりと、ゆっくりとガスを充満させていき、火蜥蜴たちを酸欠状態にして昏倒させた。
その際、ガスの操作が上手くできず、耀まで酸欠に陥りかけた。火蜥蜴たちが倒れた後もガスは残り、耀が風で散らさなければ、彼らは昏倒を超えて死んでしまっていたかもしれない。
それでも、打開策には違いないと感謝の方が大きかった。
「だが、お前はステンドグラス組だろ? なんでこんな所にいやがる?」
十六夜が問う。
アーシャは六桁に拠点を構える、格上のコミュニティに属する精霊だ。だが、個人の力で見た時に、魔王を相手にするにはあまりに力不足。そう判断され、戦闘には参加しない予定だった。
アーシャはグッと唇を噛んだ後、震えそうになる声を気合いで抑え込み、口を開く。
「...ジャックさんがいないんだ。今この場では、私が《ウィル・オ・ウィスプ》の代表で、コミュニティの旗を背負ってんだ。安全な場所でただ見てるだけなんてできるもんかよ」
決意が込められた表情に、十六夜がクッと喉で笑う。
その間に、地面から生えた影の槍が、倒れていた人々の衣服をその穂先に引っ掛け、そのまま人々を方々へと投げ飛ばしていた。同じく耀とアーシャによって火蜥蜴の包囲網から抜けたレティシアの仕業だ。
「少々手荒だが、道は空けたぞ、主殿。だが、まだまだ出てくる。キリがないな」
十六夜たちのそばに降り立ったレティシアが言う。言葉通り、虚ろな目でフラフラと歩く人々が本陣営の中から出てきていた。
黒死病を患い寝かされていた参加者は数百から数千人。全員が操られていることはないだろうが、一部でも百人は超えるだろう。
「あの人たちは私とアーシャ、レティシアで止める。行って、飛鳥、十六夜」
耀が両腕に風を纏わせながら、操られている人々を見る。飛鳥は耀へ目を向けた。
「いいの? 露払いをお願いしても。春日部さんだって、ラッテンに負けてばかりではいられないでしょう?」
「もちろん、やられっぱなしは悔しいよ。でも、私じゃどうにもできないから」
言いながら、耀は少しだけ眉間にシワを寄せる。
「この距離なら大丈夫だけど、近付いたら、いくら聴力を退化させても笛の音は届く。そうなったら、私はまともには動けないから」
「そもそもお前らだけじゃ
「アーシャ、うるさい」
「なっ!?」
耀が上半身を左右に激しく揺らす。背に乗っているアーシャも振り回され、数秒後には目を回していた。
「ヴェーザーの相手も、十六夜との戦いを見てて、今の私じゃ厳しいかなって」
何事も無かったかのように耀が続ける。
「だから、今回は二人に任せる。その代わり、二人が手間取ってる人たちは私に任せて。知ってる、飛鳥? こういうの、『協力』って言うんだよ」
得意げに胸を張る耀に、飛鳥は一瞬呆けた後、クスリと笑ってみせる。レティシアもどこか嬉しそうに笑っていた。
「...ええ、そうね。協力しましょう、春日部さん。十六夜くんも、それでいいわね?」
「ハッ。断る理由が無いだろうが」
十六夜が不敵に笑い、胸の前で拳を合わせて関節を鳴らす。
グッと脚に力を込め、今にも上空のヴェーザーに突撃しようとしたところで、ふと、嫌な風を感じた。
「ッ! 全員散れッ!!!」
「きゃあ!?」
同時に、十六夜は飛鳥を抱えてヴェーザーたちとは逆方向の空に跳躍する。
出鼻を挫かれた耀とレティシアも一足遅れて空へと舞い、そして少し前まで自分たちがいた場所を見下ろした。
黒い風が、大地を埋めつくしている。
✿ ❀ ✿ ❀ ✿
猛り狂う稲妻と、燃え盛る炎。
二つの巨大なエネルギーに挟まれたペストは、棒立ちのままに遠方を見ていた。
稲妻と炎は黒い風の壁に阻まれ、ペストに届くことなく霧散する。
「やはり、効果はありませんか...」
稲妻が迸る金剛杵を握りしめ、黒ウサギが悔しさを滲ませる。ペストを挟んで向こう側にいるサンドラも疲れた表情だ。
これまで、挟撃、タイミングをズラした波状攻撃、一点集中の雷炎、死角からの攻撃と、色々と試してきた黒ウサギたちだったが、そのどれもがあの黒い風壁を突破できずにいた。
「神霊というのは、ペストの虚勢ではなさそうだ」
サンドラが呟く。
少し前、『ペストは神霊ではないか』という黒ウサギからの問いに、ペストは肯定で返していた。
それを疑っていたわけではないが、実際に戦い、ここまでの実力差を見せつけられたサンドラが奥歯を噛む。
そんなサンドラを、ペストは冷めた目で見た。
「あなたたち、少し弱すぎない? あの魔王が『強い』だなんて言っていたから警戒していたのだけれど...騙されたかしら」
「ローリーさんと話をしたのでございますか!?」
黒ウサギが困惑の声を上げる。瞳には困惑の他に、焦燥も含まれていた。
ローリーがペストと話したこと自体が問題なのではない。ローリーがペストに何を話したのか、あるいは何をしたのかが問題だった。
「(ローリーさんは面白いと思えば、きっとなんでもする御方...もしペスト側に、何かしらの情報や力を与えていたとすれば...!)」
ローリーは、ルイオス戦でアルゴールの封印を解いた前科がある。今回も同じく、『《ノーネーム》の成長のため』などと言って敵に施しを与えていたとしたら、ただでさえ勝率が低かった戦いがさらに厳しくなる。
そんな焦りなど知ったことではないペストは、苛立たしげにため息を吐いた。
「...過ぎたことよ。出来るなら思い出したくもない。あんな男を飼っているなんて、随分と趣味が悪いのね?」
言いながら、ペストは視線を遠方に戻した。
黒ウサギがその視線を追うと、
「でもまぁ、あの男の言っていたことも間違いだけではないみたい」
ペストが見ているのは巨人ではなく、十六夜だった。
ローリーが『俺と同格と思え』とまで評価している人間。あんな化け物と肩を並べる存在がそうそう居てたまるかと思っていた。実際、ペストから見て、十六夜がローリーと同格のようには見えない。
だが、ヴェーザーは神格を得ている。ハーメルンの街を召喚したことで能力も底上げされ、さらにローリーによって強化されたヴェーザーと互角以上に殴り合っている様子を見るに、少なくともただの人間ではないことは分かる。
ペストの視線の先で、ラッテンとヴェーザーがともに上空に浮遊していた。それを見て、ペストは少し考える。
「...この無駄なやり取りにも飽きてきたわ。少し、スパイスでも振ってみようかしら」
「っ!?」
ペストが呟いた、その直後だった。
ペストから、先程までよりも黒色の濃い風がどんよりと溢れ出す。
黒ウサギとサンドラは危険を感じ、ペストから大きく距離を取った。
「あら、勘が良いのかしら? その行動は正解。これはさっきまでとは質が違う。触れただけで終わりの、死の恩恵よ」
厭らしく嗤うペストに黒ウサギが稲妻を放つが、やはり風壁に防がれる。
その間にも、黒い風は地面を這うように、十六夜たちのいる方角へと進んでいった。
「しまった...!」
サンドラが焦りを顔に出し、黒い風を追うように飛翔する。
十六夜たちを助けよう、というつもりではない。その場所が問題だった。
「本陣営前! あそこには、黒死病に罹った人々が留置されて...!」
遅れて黒ウサギも気付き、サンドラに続いて駆け出す。本陣営まで二〇〇メートルはあったが、二人であればものの数秒で辿り着く距離だ。
黒い風が本陣営に辿り着くより少しだけ早く、サンドラが風に追い付く。そのまま本陣営を覆うように炎を放ち、炎壁として黒い風の侵攻を阻んだ。
そこにいくつもの稲妻が落ち、黒い風を散らす。だが、それでも完全に霧散させることはできず、サンドラが炎壁を出し続けなければ、中にいる病人たちはすぐに死の恩恵に触れてしまうだろう。
「おいこの駄ウサギ! そんなポンポンと雷を落とすな! その辺には
「申し訳ありません! ですが、あの風に触れた人たちは、もう...!」
黒ウサギが目を伏せる。
十六夜が転がっていた参加者たちを見るが、状態までは見た目では分からない。だが、黒ウサギの様子を見るに、おそらくすでに命を落としているのだろう。
「チッ。レティシア、お嬢様を頼むぞ!」
十六夜が飛鳥をレティシアに投げ渡し、未だ黒い風が蔓延る地上に落下していく。飛鳥が文句を言っていたが、十六夜は聞く耳を持たない。
「い、十六夜さん! その風は、」
触れてはダメです。そう忠告しようとした黒ウサギの目の前で、十六夜は黒い風を
黒ウサギの稲妻でも払いきれなかった黒い風が、たった一つの拳で叩き潰される。
「...相変わらず無茶苦茶するわね、彼。危険度で言えばローリーくんとそう変わらないんじゃない?」
「ローリー対策会議の後、十六夜対策会議もやる?」
「いいわね、それ。そっちの会議はローリーくんも呼びましょう」
「無駄口を叩いている暇はない。また来るぞ!」
レティシアが叫び、飛鳥を連れてさらに上空へ飛翔する。
耀がチラリと周囲を確認すると、また黒い風がこちらに向かってきていた。慌てて、耀もレティシアの後を追う。
「死の風の大盤振る舞いか! とうとう手段を選ばなくなったじゃねぇか、黒死斑の魔王!!」
地上に残っていた十六夜が、黒い風を蹴り潰す。そして跳躍し、少し離れていた場所に浮遊していたペストに迫った。
勢いのままにペストへ蹴りを入れる。風壁ごと後方に飛ばされたペストだが、外傷は一つもない。
ペストは「へぇ」と十六夜を見る。
「中々やるじゃない。これじゃ、ヴェーザーが苦戦するのも納得ね」
「おいおいマスター。俺はまだやれるぞ?」
「別に、貴方が負けるとは言っていないわよ」
不満をぶつけてきたヴェーザーへ、ペストがため息混じりに返した。
そして十六夜は、随分と楽しそうにペストとヴェーザーを睨んでいる。
「ヤハハ、まるで効いてねぇな。おい黒ウサギ。秘策があるとか言ってやがったが、通じなかったか?」
だったらペストも俺に寄越せ。
そんな訴えを視線に込めて、十六夜が黒ウサギを横目で見る。だが、黒ウサギは首を横に振った。
「秘策はこれからでございます。ちょうど今、準備が整いました」
黒ウサギが白黒のギフトカードを取り出した。
眩い光が溢れ出るギフトカードを口元に当て、黒ウサギが愛嬌たっぷりに微笑む。
「それでは只今より、皆様を纏めて月へとご案内します♪」
は? という疑問の声は、刹那に消えた。
周囲の光は暗転し、星が巡る。温度は急激に下がり、大気が凍てつくほどの過酷な環境が十六夜たちを襲った。
激しい力の奔流が収まり、瞳を開けて天を仰ぐ。
天には、箱庭の世界が逆様になって浮かんでいた。
石碑のような白い彫像が数多に散乱する月の神殿を見て、ペストが目を細める。
「...《
自身の知識を確認するかのように、小さく呟いた。
「YES! このギフトこそ、我々《月の兎》が招かれた神殿! 帝釈天様と月神様より譲り受けた、《月界神殿》でございます! ...が、これは予想外。そこまで驚いてはいないようですね?」
黒ウサギが、本当に意外そうに問いかける。ペストはそれに答えず、代わりに、ペストの近くに来たヴェーザーが「ヒュウ」と口笛を吹いた。
「さすがは最強種の眷属だ。ゲーム盤から出ることは禁止されてる。だってのに、ルール違反になっていない。つまり、ここはあの街の真上ってこった」
「え、何? 天体を動かしたの? そんなことまでできちゃうんだ、月の兎って。私のネズミたちもいないし」
ラッテンもペストの隣に浮かび、嫌そうにそう零した。彼らの態度に、黒ウサギはさらに不審感を募らせる。
別に驚かれないことが不思議なのではない。だが、それにしても落ち着きすぎている。まるで最近、これ以上の現象を見たばかりのような、そんな反応だ。
「月界神殿自体はどうということはないわ。少し寒いだけ。問題は、この間に下...いや、今は上と言うべきかしら。ゲーム盤の方で、先にステンドグラスを全て破壊されること。その前に終わらせれば問題ない」
「ハッ! やれるもんならやってみな!」
ペストが双掌を合わせ、内に渦巻く怨嗟を高める。一層強い気配を放つ黒い風がペストから噴き出し、十六夜がそれを蹴り破った。しかし、今度は十六夜の体勢も少し崩れる。
その隙を狙い、ヴェーザーが十六夜に急接近。大笛を振り被り、十六夜に叩きつけようとしたところで、横から飛んできた耀が大笛を蹴り、軌道を逸らした。
「アーシャ!」
「お、おうよ!!」
耀の背に乗っていたアーシャが両手をヴェーザーに向けて突き出す。ガスがヴェーザーを包み、そこに耀が指先から小さなスパークを発生させ、ガスに触れた。電気ウナギから得た力だ。
瞬間、ドン、と腹に響くような低い破裂音が響き、青い炎がヴェーザーを一瞬で包み込む。
「っ、!」
「あっちぃ!?」
耀とアーシャから苦悶の声が漏れた。
直接スパークを当てたため、引火の衝撃は耀たちも受けてしまう。風である程度は防御できたが、それでも月面に叩き付けられた。
痛む体にムチを打ち、耀がヴェーザーを見上げる。ヴェーザーは健在だった。同じく衝撃に巻き込まれたはずの十六夜もほぼ無傷のまま。一応、十六夜のことも耀が風で守りはしていたが、意味があったかは分からない。
まるでガス爆発など無かったかのように、両者は再び大笛と拳を交差させている。
「なんだなんだよなんですかァ!? 私たちの苦労は無意味ってかアイツらクソ野郎!!!」
アーシャが悔しそうにヴェーザーたちを睨む。
耀もまた、無力感に奥歯を噛み締めた。
周りを見れば、レティシアはラッテンと戦っている。ネズミも、シュトロムも、火蜥蜴たちも失ったラッテンは防戦一方。笛を吹く暇も与えず、このまま進めばレティシアはラッテンを倒すだろう。
「(飛鳥は...)」
友の姿を探せば、何やら彫像の陰で黒ウサギと話している。その後、黒ウサギは飛鳥を置いてすぐに飛び出し、サンドラと合流してペストとの交戦に入った。
飛鳥はディーンをギフトカードに収納し、移動を始める。何かの役割を黒ウサギから与えられたのかもしれない、と耀は考えた。
《ノーネーム》の中で、何もできていないのは自分だけ。
不安にも似た焦燥が募っていく。
ようやく掴んだ自分の役割も、黒ウサギが月界神殿に主力のみを転移させたことで、必要がなくなった。
ほかに何か、何かできることはないかと必死に周りを見渡して思考を巡らせるが、答えは何も出ない。
「(このままじゃ、私は...)」
協力すらできない。他者が自分に協力を持ちかけるだけの価値がない。
無力に打ち震え、耀はアーシャとともに、ただただ皆の戦いを眺め続けた。
✿ ❀ ✿ ❀ ✿
十六夜が飛び出した直後、黒ウサギは飛鳥を連れてペストの死角になる彫刻の陰に移動した。
衝撃音が響く中、黒ウサギは自身のギフトカードから三又の槍が描かれた紙片を取り出して、飛鳥に手渡す。
「...? 何、これ」
「御静かに。これは《叙事詩・マハーバーラタの紙片》と呼ばれるギフトでございます」
飛鳥はやや驚いたように目を見開いた。
「飛鳥さんは、マハーバーラタをご存知ですか?」
「え、ええ。名前だけなら知っているわ。確か、世界三大叙事詩の一つでしょう? 日本で例えたら、桃太郎くらいには有名だと聞いたけれど」
黒ウサギが頷く。
「この紙片から、インドラ神に縁のある
飛鳥の表情に緊張が走った。
「...もしかして、これを私に使えと?」
「YES! その通りでございますヨ」
一点の曇りもない目で、黒ウサギは真っ直ぐに飛鳥を見た。
グッと、黒ウサギが飛鳥の手を握る。すると、紙片が雷鳴とともに槍へと形状を変えた。飛鳥の手に、ズシリと重い感覚が乗る。
帝釈天の神格が宿る槍。仄かな輝きを纏うその姿は息を飲むほど眩く、飛鳥は思わず息を呑んだ。
「どうして私なの?」
一度しか使えないのなら、適任は他にいるはずだ。十六夜や、それこそ黒ウサギ本人が使えばいい。
「飛鳥さんにはギフトの力を十全に発揮する才能がございます! ...大丈夫。ご自身の才能を、もっと信じてください。飛鳥さんの才能は黒ウサギが保証致します。黒ウサギだけでは足りないというのならば、ローリーさんの言葉を思い出して下さい」
「...一番弱いと言われたことを思い出したわ」
「そ、そこではなく...!」
そういえば、直接ローリーが飛鳥に伝えたわけではなかったな、と黒ウサギが思い出す。
コホンと咳払いを一つ。黒ウサギは改めて口を開く。
「ローリーさんは、飛鳥さんと耀さんの
その後に「でも箱庭基準じゃ弱い」といった旨の発言もしていたが、そこは省く。伝える必要が無い。
「ローリーさんのことを、心から信頼できるわけではありません。今回も、何やらペスト陣営に接触しているようですし」
「ああ。そういえばラッテンもそんなことを言っていたわね」
「ですが、誰よりも飛鳥さんを見ていたのは、間違いなくローリーさんです。そのローリーさんが『強い』と仰ったのですから、飛鳥さんも自信を持ってくださいまし」
飛鳥が、手元の槍に視線を落とす。
飛鳥の身体能力だけでは絶対に扱えない投擲槍。だが、今はディーンがいる。
「......『止まるな、進め』、だったわね」
立ち止まることを許さず、進むことだけを求める。そんな、王の言葉を思い出す。
それが正しいのかは分からない。けれど、今はそれに従ってみようと思った。
グッと槍を握り締め、弱気に逃げた思考を、頭を振って追い出す。
「分かったわ。私が、ペストに引導を渡してあげる」
覚悟を決めた飛鳥の瞳に、黒ウサギは笑い、頷いて答える。
すぐに踵を返した黒ウサギは、もう一枚の紙片を取り出し、死の風の渦の中に飛び込んでいく。
飛鳥はディーンとインドラの槍を一度ギフトカードに収納し、確実にペストを狙える場所を探して移動を始めた。
✿ ❀ ✿ ❀ ✿
飛鳥が槍を撃ち込む隙を作るために跳び込んだ黒ウサギは、サンドラを追い抜いてペストに接敵する。
その手には金剛杵もない。無手のまま一気に直進していく黒ウサギ。その無謀な突撃に、サンドラは焦って声を上げた。
「だ、駄目だ黒ウサギ! 何を考えて...!?」
「死の風を吹き飛ばします! サンドラ様は援護を!」
灰色の月面を、黒ウサギが緋色の髪を靡かせて駆け抜ける。ペストは変わらず冷めた瞳で、上空から黒ウサギを見下ろしていた。
「貴女を倒せば、私たちは地上に戻れるのかしら」
「余裕を持っていられるのも今のうちでございます。太陽への復讐を掲げた魔王、なればこそ、この輝きを乗り越えてごらんなさい!」
死の風が迫る。
黒ウサギはそれでも止まらず、紙片を掲げた。紙片が放ち始めた輝きは、蒼い雷光ではない。太陽の光にも似た、黄金だった。輝きは徐々に黒ウサギを神々しく染め、黄金の鎧を纏わせる。
黒ウサギとの戦闘で焦りの一つも見せなかったペストに、初めて明確な焦燥の表情が浮かんだ。
「(黄金の弓...いや、あれよりももっと...!?)」
自分の脚を吹き飛ばし、胸に風穴を空けた、あのローリーの権能を嫌でも思い出す。反射的に、黒い風の防壁を全力で展開した。
だが、鉄壁を誇った風壁は、黄金の光に焼かれ、一瞬で霧散して消える。
「な...!?」
ペストから驚愕と困惑の入り交じった声が上がった。
それは、ペスト自身も把握していなかった弱点。ローリーとの戦闘でさえ露呈しなかった、圧倒的な経験不足ゆえの死角。
黒ウサギの放つ黄金の輝き────目覚めた太陽の極光こそが、死の風を振り払う奇跡だった。
「...
「な!?」
立場が代わり、次は黒ウサギから驚愕と困惑の声が漏れ出た。
黒ウサギにとって、完全なる想定外。
「(まさか、この状況でこちらの懐に入ってくるなんて...!)」
黒ウサギの反応が遅れ、ペストの掌底が黒ウサギの腹に打ち込まれた。
太陽の輝きによって死の風は霧散していく。だが、完全に消え去るまでのわずかな間、風そのものが生む衝撃までは消えない。
鎧越しにも衝撃が伝わり、黒ウサギの身体が大きく揺れた。
本来であれば、今のペストに日天鎧を撃ち抜く力などない。実際、黒ウサギ自身にダメージはほとんどなかった。それでも、動揺は生まれる。
その隙を逃すことなく、ペストはもう一度、全力の掌底を打ち出す。
黒ウサギが月面に堕ちた。
「残念だったわね。太陽の光は想定外だったけれど、所詮は鎧。私を打ち砕く力はない。それに、死の風が使えないからといって、私に攻撃手段が無いとでも思った?」
クスクスと、ペストの小さな笑いが月に響く。
決して余裕があるわけではない。それでも、ペストは不敵に笑う。
黒ウサギは悔しげにペストを見上げた。
黒ウサギの想定では、焦ったペストが後退し、その隙を飛鳥に狙わせるつもりだったが、それは瓦解した。
隙と呼ぶにはあまりにも不十分。だが、ペストが油断していることも事実。そして、最も厄介だった風の壁は著しく弱体化している。
ここで攻めるしかないと黒ウサギは判断し、それは飛鳥も同様だった。
「飛鳥さん!」
「撃ちなさい、ディーン!!」
岩陰から、飛鳥が右手を翳してディーンに命令を下す。
「DEEEeeEEEEEeEEEeEN !!!」
紅い鋼の巨人が、咆哮と共にインドラの槍を投擲した。
飛鳥がさらに続ける。
「インドラの槍よ、
飛鳥の言葉に応じ、インドラの槍は千の天雷を束ねて、ペストに向かって真っ直ぐに飛翔する。
余裕の表情とは裏腹に、太陽の光に対して警戒を強め、黒ウサギに気を取られていたペストは反応が遅れた。
インドラの槍の穂先がペストに被弾する、その直前。
「────俺らを無視して大将を取れると思うなよ」
槍とペストの間に、ヴェーザーが飛び込んだ。
迸る千の雷を、ヴェーザーがその身一つで受け止める。
「ヴェーザー!」
ペストが叫ぶが、その声はヴェーザーに届かない。そんな余裕はヴェーザーには無かった。
気を抜けば、勝利の運命を宿した槍はヴェーザーを貫き、ペストに至るだろう。それではわざわざ死地に飛び込んだ意味がない。
「悪いな、マスター。命令は守れそうにない...!」
身を焼く雷を受けて、ヴェーザーの身体はすでに限界だ。それでも、ヴェーザーは主を守るため───主の勝利のために、その身を捧げる。
「オォオオぉおおオオぉおお!!!!」
喉が擦り切れんばかりの怒号と共に、神格と呪力を全力で解放した。
十六夜を倒すために温存していた、ヴェーザーのとっておき。星すら砕けるであろう力の奔流は千の雷と拮抗し、そして大きな爆発と共に弾け飛んだ。
義手と下半身。身体の六割を失ったヴェーザーが、力無く月面に落下する。辛うじて息はあるようだが、それもすぐに尽きるだろう。そうしている間にも、ヴェーザーの身体は崩れ、端から光の粒子となっている。
命の灯火が消える刹那の時間で、こちらに悔しそうな視線を向けているペストを見上げていたヴェーザーは、不意に舌打ちした。
「...チッ。最期に聞く声がテメェかよ」
誰にも届かないほどの、ヴェーザーの小さな呟き。消えゆく意識の中、ヴェーザーは静かに笑う。
「......ああ、そうだな。悔いはあるが...まぁ、それなりに楽しめた」
そう言い残し、ヴェーザーは完全に消滅した。
✿ ❀ ✿ ❀ ✿
「...本当に、男って馬鹿なんだから」
消滅したヴェーザーを横目で見て、ラッテンが呟く。
そんなラッテンの身体も、少しずつ崩れてきていた。ネズミも火蜥蜴も、そしてシュトロムも失ったラッテンでは、レティシアとまともに戦える術がない。奮闘はしたものの、すでに限界がきていた。
「命懸けで主を庇った同志に向かって、とんだ言い草じゃないか」
すでに勝負は着いている。レティシアは槍を構えつつも、ラッテンにこれ以上の攻撃を仕掛けることはしない。それは彼女の騎士道に反する行為だ。
そんなレティシアを一瞥した後、ラッテンは悲しげにペストを見る。ペストはヴェーザーの消滅に憤慨しているのか、いつも涼しげだった表情を歪めていた。
「あーあ。このゲームが始まってからずっと、私って役立たずのままだったなぁ。あいつみたいに馬鹿をできるくらいの力が欲しかったわ」
ため息と共にラッテンは続ける。
「だいたい、ズルいと思わない? 神格に加えて、あの化け物の力まで与えられちゃって。私だってそのどっちかがあれば、マスターを助けるために動けたっていうのに」
ケッ、と不貞腐れたように言い放つ。
「...
「あら、知らなかった? まぁそうよねぇ。だってあの化け物、ゲーム中は貴女たちとは接触できないんですもの」
ラッテンは笑って、視線をレティシアに移した。
その後、再度ペストを慈しむように眺める。ヴェーザーのためにあそこまで怒る主に、心の底から頭を下げ、そして眉間に皺を寄せた。
「...なによ。もう消えるってのに、なんで最期にアンタの声なんて聞かないといけないワケ?」
「...? 突然なんだ?」
レティシアが訝しむ。
ラッテンはレティシアをもう一度見て、諦めたように笑った。
「ハァ。まぁ、最後にあんな美少女と会えたし? マスターのためにもっと働きたかったけど...うん、ま、悪くなかったんじゃない?」
「なんだ、誰と喋っている?」
「別にぃ? それじゃ、マスターと...それから一応、あの赤いドレスの子にも宜しくね♪」
フフ、と零したラッテンは、そのまま風に乗って消滅した。
✿ ❀ ✿ ❀ ✿
「チッ...!」
ペストが大きく舌打ちする。
ヴェーザーに続き、ラッテンも消滅した。自身に尽くしてくれた二柱の忠臣を、何も出来ず、ただ目の前で失った。
相手を侮っていたわけではない。全力で戦っていた。その上でこの結果という事実が、ペストの感情を逆立たせる。
「...でもこれで、軍神の槍はもう使えないのよね?」
「...っ!」
黒ウサギが奥歯を噛んだ。
ヴェーザーの献身のおかげで、黒ウサギたちは奥の手を失った。ペストという神霊を打倒するには、星を砕くに値する一撃が必要だ。
インドラの槍は、一ゲームの中で一度しか使用できない。もう、黒ウサギたちにペストを打ち倒す手段はない。
しかし、それはペストも同じ。死の風を封じられた今、眼下に構える面々を一人で倒せる手段がない。
やられはしないが、やれもしない。
────そう思ったペストは、やはり《ノーネーム》への認識が甘かった。
太陽の光とは別の極光が、月面を照らす。
思わず腕で顔を覆ったペストが、目を細めて発光源を見た。
そこにいたのは十六夜だ。
光り輝く柱のような“何か”を持ち、不敵にペストを睨みつけている。
「しくじったな、黒ウサギ。だったら魔王は俺が貰うぞ」
返事は待たず、十六夜は極光の柱を持ったまま、第三宇宙速度でペストに肉薄した。
このまま睨み合いになると踏んでいたペストの反応が遅れる。気が付いた時には、もう避けられない位置にまで十六夜が迫ってきていた。
極光の柱が目の前に迫る中、不意に、頭の中に声が流れ込んでくる。
─────三つ目の質問だ。《ノーネーム》との戦いは、楽しかったか?
聞き覚えのある声。
もう二度と聞きたくないとまで思った声。
意識だけが引き伸ばされたように、身体はまるで動かないくせに、周りの動きだけがやけにゆっくりと見える。
「......楽しかったわけがないでしょう。何もかも失って、最悪の気分よ。この化け物ども」
最後の足掻きで死の風を出してみたが、下から照らす太陽の光を受けて霧散する。
それでも最期まで、ペストは十六夜を────ここにはいない魔王の姿を睨み付け、そして、極光に呑まれて爆ぜた。