「地球を管理する」──その言葉がどれだけの重さを持つか、当時の僕は全然わかっていなかった。ただ、ドラえもんに「自分のケツは自分で拭け」と言われて、途方に暮れてただけだ。
未来のデパートでもらった『新天地開拓マニュアル(子供用)』には、「水は大事!」とか「森は大事!」とか、まるで小学一年生の道徳の教科書みたいなことしか書いてない。
だから僕は、クラスで一番頭がいい出木杉に相談に行った。彼なら、何かヒントをくれるかもしれないと思ったのだ。
「へえ。のび太くんは自分で地球を作った上に、その後始末まで任されるとはね。」
出木杉は驚いた顔をしたけど、すぐに真面目な表情になって、ホワイトボードに一枚の図を描いた。
そこには「物理法則」と「生態系」と「意思決定」という三つの言葉が、丸で囲まれていた。
「のび太くん。君に必要なのは“道具”じゃない。この三つを自分で動かす“思考の筋肉”だ。」
第2話「人類はもはや孤独ではない/もう1人じゃない君たち」
放課後の公園。春の日差しはまだ暖かく、校庭からは野球部の掛け声がかすかに聞こえてくる。
東くんはいつものように、公園の奥にある土管のそばに腰を下ろしていた。背中を土管の冷たいコンクリートに預け、膝の上で本を開く。表紙は『幼年期の終わり』──彼が図書館で借りてきたSF小説だ。数日前から読み始めたが、なぜかこの本を手に取った理由が自分でもよくわからない。ただ、無性に読みたくなったのだ。
「……人類が進化を放棄した先に、何が待ってるんだろうな。」
彼は小さく呟き、ページをめくった。夕日が紙面をオレンジ色に染めている。
「東くん、ちょっといいか?」
突然かけられた声に、東くんは顔を上げた。そこには、転校生のノビスケが立っていた。彼はいつもの軽い笑顔ではなく、どこか真剣な表情を浮かべている。その異様な雰囲気に、東くんは本を閉じた。
「……何だよ。また変な話か?」
「変な話、かもね。」
ノビスケはそう言うと、土管の隣に腰を下ろした。彼もまた、東くんと同じように背中を土管に預け、空を見上げる。夕暮れの空は、橙色から紫色へとゆっくりとグラデーションを変え始めていた。
「さっきの、神さまの話の続きなんだが……」
「ああ、『進化を禁止する神』と『知恵の実で罰する神』の話か。」
東くんは本を膝の上に置き、ノビスケに向き直った。この話題は、数日前の昼休みに交わしたものだ。ノビスケがふと言い出した「世界の創り方の違い」についての議論。当時はただの雑談だと思っていたが、今の彼の真剣な表情を見ると、どうやらそれ以上のことだったようだ。
「お前の世界の神さまは、人間が知恵を得たことに怒って追放したんだろ? それで『原罪』ってレッテルを貼った。俺の世界の神さまは、人間に進化を強要して失敗して、それが神さま自身の罪になった。」
「……よく覚えてるな。」
「だって、俺の世界の常識が『おかしい』って初めてはっきり分かった瞬間だったからな。」
東くんは少しだけ笑った。しかし、その笑顔はすぐに引っ込む。彼の目には、何かを探るような光が宿っていた。
「それで? その話の続きって、何だ? まさか、今日はお前の世界の神さまの話を聞かせてくれるってわけじゃないだろ?」
ノビスケはしばらく黙っていた。夕風が、二人の間を通り抜けていく。遠くで、犬の鳴き声が聞こえた。チャッピーだろうか──いや、チャッピーはあまり吠えない。そんなことを考えながら、東くんはノビスケの次の言葉を待った。
「……東くん、君のクラスの久世しずかって子は、昔、もっと苦しんでたんだろ?」
東くんの手が、一瞬止まった。彼はゆっくりと息を吸い込み、ノビスケを見た。
「……よく知ってるな。確かに、昔はもっと暗かった。今でもたまに思い出したように遠くを見てるけど、少なくとも昔みたいに怯えた目はしてない。」
「ああ。それで、何がきっかけで変わったんだ?」
「さあな……。俺にもよく分からない。ある日を境に、まりなとの喧嘩が『いじめ』から『対等な喧嘩』になったんだ。それだけでも大きな変化だと思うけど、他に何があったのかは……」
東くんはそこで言葉を切った。何かが引っかかっていた。思い出そうとしても、ぼんやりと霞んでしまう。まるで、夢の中で見た光景のように、輪郭が曖昧で、触れようとすればするほど遠ざかっていく。
「……思い出せないのか?」
「……そうだな。何かあった気がするんだが、どうしても形にならない。まるで……記憶の前に、一枚ヴェールがかかってるみたいだ。」
東くんは自分の手のひらを見つめた。そこには何もない。しかし、なぜか彼の手は微かに震えていた。何かを掴みかけているのに、それが何なのか分からない。そのもどかしさが、彼の心をざわつかせていた。
ノビスケはうなずいた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「その『何か』を、確かめに来たんだ。」
「……は?」
「父さんが見てたんだ。君たちのクラスの久世しずかが、酷く苦しんでるのを。」
東くんが眉をひそめた。彼の目には、理解と困惑が入り混じっている。
「お前の父さんが? どうやって?」
「父さんは、この世界のことをずっと見てるんだ。創った本人だからな。」
東くんの目が見開かれた。彼の脳裏に、数日前のノビスケの言葉がフラッシュバックする。「重力が弱い」「この地球」「父さんたち」──あの時、土管の中で交わしていた謎の通信。あの言葉たちが、今、一つに繋がろうとしていた。
「……お前、もしかして。さっきの『神さま』って話、お前の父さんの話だったのか?」
ノビスケは軽くうなずいた。その表情には、覚悟のようなものが浮かんでいた。
「ああ。この世界を創ったのは、父さんだ。『創世日記』っていう道具を使ってね。父さんは昔、進化光線で大失敗をやらかした。その贖罪として、この世界をずっと見守ってるんだ。まあ、贖罪と言うと大げさだけど、その時に父さんと一緒に居たロボットから
『君の作った地球だから君がなんとかしろ」
と世話を押し付けられた結果、
父さんはこの地球を壊さないために猛勉強して
結果的に自分の世界でも環境に関する仕事を得られて無事結婚して家族も出来たんだ」
「…………」
「父さんは、自分の失敗をずっと引きずってる。この世界を見守ってるのも、その贖罪だ。でも、それだけじゃ足りないって思ってるんだ。父さんは──もう直接手を出せないけど、それでも誰かを救いたいって願ってる。」
ノビスケの声は、次第に熱を帯びていく。彼は土管の縁に手をかけ、東くんの目をまっすぐに見つめた。
「父さんは、この世界を見守り続けてきた。何せ、自分が失敗して創った世界だからな。責任があるって思ってたんだ。それで──ある日、久世しずかが酷く苦しんでるのを見つけた。いじめられて、怯えて、誰にも助けを求められずに、一人で泣いてる日々を。」
東くんは何も言わなかった。ただ、ノビスケの言葉を噛みしめるように聞いている。彼の心の中で、何かが静かに動き始めていた。
「父さんは迷った。助けたいけど、世界の因果を歪めて大惨事にならないかって。過去に進化光線でやらかした経験があるから、余計に慎重になってたんだ。自分が手を出せば、また何かを壊すかもしれない。その恐怖が、父さんを縛ってた。」
ノビスケは一度言葉を切り、深く息を吸った。彼の目は、遠くの夕日を見つめている。
「そしたら母さんが言ったんだ。『子供の頃のあなたなら迷わず行って何とかしたでしょ?』って。」
「……それで?」
「その直後だった。あのピンクのタコみたいな生き物が、しずかの前に現れたんだ。」
東くんの背筋が伸びる。その言葉は、彼がずっと感じていた「思い出せない何か」に、かすかに触れていた。彼の頭の中で、ぼんやりとした映像が浮かんでは消える。ピンク色の、丸い形──。
「……ピンクのタコ?」
「ああ。父さんはそれを見て、『カレルレン』を思い出した。この本だ。」
ノビスケは東くんの膝の上の本を指さした。東くんは一瞬驚いたように目を見開き、手に取った『幼年期の終わり』の表紙を見つめた。
「この本の……カレルレン?」
「そうだ。人類に介入する宇宙人。父さんは昔、この本を読んで、カレルレンみたいな存在がいたらいいのにと思ってたんだ。誰かを救うために、迷わず介入できる存在が。」
ノビスケは土管から飛び降り、東くんと向き合った。その目は、真剣そのものだった。
「父さんは大人になってしまったから、直接近づけない。この世界に直接干渉すれば、また何かを壊すかもしれない。あのタコが何者か分からない以上、迂闊に動けなかった。だから僕が来たんだ。あのタコが、どうやって彼女を救ったのか。その方法が、長続きするのか──それを確かめるために。」
沈黙が、二人を包んだ。風が止み、周囲が一瞬静かになる。遠くで、鳥の鳴き声が聞こえた。
東くんはしばらく動かなかった。彼の頭の中では、いくつもの疑問が渦巻いている。なぜ自分だけがこの話を聞いているのか。なぜ自分は、この「思い出せない記憶」にこんなにも引きずられているのか。そして──。
「……つまり、お前は『神さまの息子』ってことか?」
「そういうことになるな。父さんはこの世界の創造主で、僕はその息子。」
「……お前、結構すごい話を平気でするんだな。」
「父さんに似たんだと思う。昔の父さんなら、こんな話も軽く流してたって母さんが言ってた。何せ、父さんは小学生の頃から宇宙人や未来人と友達になってたような奴だからな。」
東くんは深く息を吐いた。そして、小さく笑った。
「……なるほどな。だからお前、あんな変なこと言ってたのか。体育の授業で『重力が弱い』なんて言うわけだ。」
「ああ、バレてたか? 父さんが作った世界は、どうやら重力が本物の地球より少し弱いらしい。僕は父さんの子供だから、その違いがはっきり分かるんだ。父さん自身は気づいてないみたいだけど。」
「ああ。でも、あの時は『変な転校生だな』くらいにしか思わなかったけどな。まさか、本当に別の世界から来たやつだとは思わなかったよ。」
東くんは土管の上に戻り、空を見上げた。夕日が沈みかけ、空の色が深い藍色に変わり始めている。
「で、結論は出たのか? お前の『検証』は。久世さんは、あのタコによって救われたんだろ? それで何か問題があるのか?」
ノビスケは一瞬、驚いた顔をした。そして、笑った。その笑顔には、どこか安堵のようなものが混ざっていた。
「……まだだよ。彼女が今、どういう状態かを見極めないと。あのタコが何をしたのか。それは単なる一時的な救済なのか、それとも長く続く変化なのか。僕はそれを確かめなきゃいけないんだ。」
「でも?」
「でも、少なくとも、昔よりは確かに軽くなってる。あのタコの介入が、悪い方向には働いてないことは分かった。今の彼女は、ちゃんと笑えてる。まりなと対等に喧嘩もできる。それだけでも、僕は父さんに報告できる。」
東くんはうなずいた。
「それで十分だろ。少なくとも、久世さんは今、ちゃんと笑えてる。昔みたいに怯えた目をしてない。それで十分じゃないか?」
「……そうだな。」
ノビスケはもう一度、空を見上げた。夕暮れの空に、一番星が輝き始めている。
「……父さん、ちょっとだけ安心するかもしれないな。」
その言葉は、誰に言うでもなく、風の中に消えていった。
東くんはそれ以上何も聞かずに、そっと本を開いた。『幼年期の終わり』のページが、風にめくれる。
「……なあ、ノビスケ。」
「何だ?」
「お前の父さんは、この世界を創った後も、ずっと見てるんだろ?」
「ああ。時々、この公園にも来てるらしい。土管の中に隠れて、誰にも気づかれずに。」
「……それって、結構寂しいんじゃないか? 自分が創った世界を見てるだけって。」
ノビスケは一瞬、言葉を失った。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……多くな。父さんは、それでいいと思ってる。自分が手を出せば、また誰かを傷つけるかもしれない。だから、見守るだけで十分だって。」
「でも、お前は来た。父さんの代わりに。」
「ああ。それが僕の役目だ。父さんができなかったことを、父さんが確かめたかったことを──僕がやる。」
東くんはうなずいた。そして、小さく笑った。
「……お前、いい息子だな。」
「そりゃあ、父さんだしな。」
ノビスケはにっと笑った。その笑顔は、さっきまでの真剣な表情をふっと和らげた。
土管の上で、二人の影が夕闇に溶けていく。遠くの街灯が、ぽつりぽつりと灯り始めていた。
「……あの二人には、言わないほうがいいな。」
東くんがぽつりと呟いた。彼の目は、公園の入り口の方を見ている。そこには、チャッピーの散歩に来たしずかとまりなの姿があった。また何かで言い争っているのか、二人とも顔を赤らめて大声を上げている。
「ああ。言ったら、多分世界が壊れる。彼女たちはあのタコのことを忘れてる。それが彼女たちの平和なんだ。」
「……そうだな。」
二人は同時に、しずかとまりなを見つめた。彼女たちはまだ喧嘩を続けている。しかし、その声には、かつてのような鋭さや憎しみはない。ただの、取るに足らない日常の一部だ。
「久世さんは、昔よりずっと元気になった。雲母坂さんも、ああやって対等に張り合えるようになった。それでいいんだ。」
東くんは本を閉じ、立ち上がった。
「明日も、授業がある。早く帰らないと。」
「ああ。俺も、そろそろ帰るよ。」
ノビスケも立ち上がり、土管の横を通り過ぎようとした。その時、彼はふと立ち止まり、東くんに向き直った。
「……東くん。お前がこの世界で一番、『違和感』を感じてる奴だってことは、分かってる。」
東くんは何も言わなかった。しかし、その沈黙が答えだった。
「もし、何か気づいたら教えてくれ。俺は、あのタコが何をしたのか、それで久世しずかがどう変わったのか――それを確かめたいんだ。」
「……わかった。約束する。」
東くんはうなずいた。その目には、確かな決意の光が宿っていた。
「じゃあな、東くん。明日、また学校で。」
「ああ。」
ノビスケは軽く手を振り、公園の出口へと歩いていった。その背中は、夕闇に溶けていくように見えた。
東くんはもう一度、土管を見つめた。冷たいコンクリートの感触が、彼の指先に残っている。
──この土管は、何かを隠している。自分が忘れている何かを。
彼はもう一度、手にした本を見た。『幼年期の終わり』。カレルレン。ピンクのタコ。
「……明日も、平和な一日でありますように。」
東くんは空を見上げ、小さく呟いた。満天の星空が、彼の頭上で輝いている。
遠くから、しずかとまりなの声が聞こえてくる。今日もまた、何かで喧嘩をしているのだろう。しかし、その声はなぜか、とても温かく感じられた。
──明日も、きっと大丈夫だ。
彼はそう思いながら、土管を後にした。
その時だった。
「こらっ! 男子二人で何こそこそ話してるの!?」
突然の声に、ノビスケと東くんは同時に跳び上がった。
振り返ると、まりなとしずかが立っている。まりなは腰に手を当て、まさに「捕まえた」という表情だ。一方のしずかは、二人の背後に立って、興味深そうに首を傾げている。チャッピーは二人の足元で、尻尾を振っている。
「……いや、別に、何でもないんだけど。」
東くんが慌てて答える。しかし、まりなは疑いの目を向けたままだ。
「何でもないわけないでしょ! さっきまでずっとこそこそ話してたの、見てたんだからね! 二人で土管の影に隠れて、何か企んでたでしょ?」
「企んでないって!」
ノビスケも慌てて手を振る。しかし、まりなはますます疑いを深めたようだ。
「ふん……まさか、この辺でエロ本でも見つけて、二人で見てたんじゃないだろうね?」
その言葉に、東くんは真っ赤になった。ノビスケも目を逸らす。
「ち、違うよ! そんなんじゃない!」
「じゃあ、何を読んでたんだ?」
まりなは東くんの手から本をひったくった。彼女はパラパラとページをめくりながら、しばらく中身を眺める。
「……何これ? 『幼年期の終わり』? 宇宙人が来る話?」
「あ、ああ。SF小説ってやつだよ。」
まりなは数ページ読み進めたが、すぐに「ふん」と鼻を鳴らし、東くんに本を返した。
「……つまんないの。もっとこう、エッチな話かと思ったのに。」
「そんなわけないだろ。」
東くんはホッとしたように息を吐き、本を受け取った。しかし、その時だった。
しずかが東くんの手から本をそっと取り上げた。彼女は何も言わずに表紙を眺め、そして数ページをめくる。
「……『幼年期の終わり』ね。」
彼女の声は、いつもの軽やかさとは少し違っていた。どこか、遠くを見るような響きがある。
「これね、宇宙人が地球に来て、人類とたくさんお話するお話でしょ? でも、ただ話すだけじゃ終わらないんだよね。」
ノビスケと東くんは、同時に固まった。しずかの言葉が、あまりにも核心を突いていたからだ。
「……久世さん、読んだことあるの?」
東くんが恐る恐る尋ねると、しずかは首を振った。
「読んだことはないけど、なんとなく。こういう話、好きそうだなって思って。」
彼女は本を東くんに返しながら、悪戯っぽく笑った。
「でも、面白いね。東くんとノビスケくんが、こんなに難しい本を読んでるなんて。まさか、何か秘密の計画でも立ててるんじゃないの?」
「ち、違うよ! ただの趣味で!」
「そうだよ、本が好きなだけだ!」
二人は声を揃えて否定した。しかし、その声は少しばかり上ずっていた。
しずかはそれ以上問い詰めずに、肩をすくめた。
「はいはい、分かったよ。でも、こんな場所でこそこそ読んでると、まりなちゃんみたいに変な疑いかけられるから気をつけなよ。」
「ちょっと、あんた何言ってんのよ!」
まりなが怒ると、しずかはさっさと公園の出口へ向かって歩き始めた。
「チャッピー、帰るよ! また明日ね、東くん、ノビスケくん。」
「お、おう……」
「……また明日。」
まりなも二人に一瞥をくれて、しずかの後を追いかけた。チャッピーが嬉しそうに尻尾を振って、その後ろをついていく。
三人の姿が遠ざかるまで、ノビスケと東くんはその場に立ち尽くしていた。
「……東くん。」
「……ああ。」
「今の、気のせいか? 久世さん、『宇宙人が地球に来て、人類とたくさんお話する』って言ったよな?」
「……ああ。」
「しかも『ただ話すだけじゃ終わらない』って。これ、完全にカレルレンの話だよな?」
「……ああ。」
二人は顔を見合わせた。その顔は、青ざめている。
「……彼女、何か知ってるのか?」
「……分からない。でも、もし知ってたら……」
「……考えるな。考えるだけ無駄だ。」
東くんは深く息を吐き、本を鞄にしまった。
「……明日も、平和な一日でありますように。」
その呟きは、誰に言うでもなく、夕闇に溶けていった。
遠くから、しずかとまりなの声が聞こえる。今日も今日とて、くだらないことで喧嘩しているのだろう。その無邪気な喧騒が、今はなぜか、とても愛おしく感じられた。
しかし、二人の胸には、一つだけ不安が残っていた。
──久世しずかは、どこまで知っているのか。
その問いに答える術は、まだ誰も持っていなかった。
(完)