「アットホームで風通しの良い職場です」
という求人の文句は、今思えばブラック企業特有のテンプレだった。
みなし残業という名の定額働かせ放題プラン。終わりの見えないタスク。ホワイト企業だと思って入社した俺を待っていたのは、絵に描いたような社畜ライフだった。
そして死因は、シンプルに過労死。
26時の残業中に起きた目眩、手足の痺れ、過呼吸。やば、これ死ぬかも。薄れゆく意識の中で最後に思ったのは、あー……死ぬほど美味いもんが食いてえ。例えば、GODとかさ……という、叶うはずもないただの現実逃避だった。
次に目を開けた時、視界は真っ暗だった。
いや、暗いのではない。バカみたいに巨大な『足』が、俺の真上を覆い尽くしていたのだ。馬鹿でかい…マンモス…?
手足を動かそうとして、自分が赤ん坊になっていることに気づく。同時に、頭上からその巨大な足がゆっくりと下ろされてくるのが見えた。
えぇ……俺、生まれ変わって数秒でマンモスに殺られるんや……。
前世の行いがよっぽど悪かったのだろうか。悪さする暇無いぐらい働き詰めだったはずだけど。諦めて目を閉じたが、いつまで経っても踏み潰される気配がない。
恐る恐る目を開けると、巨大な鼻がフンフンと俺の頬を優しく撫でていた。
……ん? 鼻、二個あるな?
てか、あまりにもデカすぎない? 動物園で見た象の比じゃない。ビルか?
パニックになりかけた俺の横で、ズシン、ズシンと大地をゆっくり揺らす足音が響いた。見上げると、俺を撫でているマンモスが小犬に見えるほどの、さらにバカデカいマンモスが立っていた。もう笑うしかない。
親玉らしきマンモスは、二本の鼻を器用に使い、どこから採ってきたのかもわからない果物のようなものを俺の口元に運んできた。
どうやら、完全に保護対象として扱われているらしい。促されるままに、小さな口でそれを齧ってみる。
……くっそ美味い。
なんだこれ。甘み、酸味、溢れ出す果汁。俺の知っている果物の次元を遥かに超えている。死に際に美味いもんが食いたいと願ったからか?
鼻が二つの超巨大マンモス。そして、この異常なまでに美味い食材。死に際に最後に望んだGOD。
うーん。
これ『世はグルメ時代〜〜』ってやつですか?
そりゃないよ。あんなの少年漫画の主人公だから生きていける世界であって、一般通過の転生者にとっては地獄みたいに危険じゃん。過労死の次は捕食死の可能性が出てきた。俺そんなに悪いことした??
◇
やはりこの世界は『トリコ』の世界で間違い無いようだった。転生してから数年。
俺は子どものリーガルマンモス──通称チビとすっかり兄弟のように育ち、この規格外の自然環境にも順応しつつあった。
だが、そんなある日。空から降ってきた二人の男によって、俺の平穏なニート生活は少しだけ騒がしいものになる。
「ほっほっほ、リーガルマンモスの背中に謎の少年が乗っておると聞いた時は耳を疑ったが、本当のようじゃのう。見た感じトリコ達と同年代かの」
金髪ガングロ爺さんと、顔面に傷のある屈強なスキンヘッド。
IGO会長の一龍と、所長のマンサムだ。
突然の侵入者に、親マンモスが警戒して低い唸り声を上げ始めた。このままでは世界最強の爺さんと戦闘になりかねない。俺は親マンモスの鼻をポンポンと叩いて宥めながら、二人に声をかけた。
「あ、大丈夫だよ。この人たちは敵じゃないから」
俺がそう言うと、親マンモスは少しだけ警戒を解いて鼻を下ろした。一龍はそれを見て、感心したように顎髭を撫でる。
「ほう……完全に意思疎通ができとるようじゃな。お前さん、いつからここにいるんじゃ?」
「いつからって言われても……気づいた時にはもう、この子たちと一緒にいたからね。育ての親みたいなもんかな」
そこから、俺たちはしばらくの間、他愛もない雑談を交わした。
赤ん坊の頃からここでどうやって生き延びてきたのか。普段はどんなものを食べているのか。俺が淡々と答えるたびに、一龍は時折うんうんと頷きながら耳を傾け、マンサムは酒を飲みながらガハハと豪快に笑っていた。
ひとしきり話し終えた後、一龍はふと、少しだけ真剣な色を帯びた目を向けてきた。
「どうじゃ、お前さん。一度、外の世界に出てみる気はないか?」
外の世界。
確かに、少しだけ外に出てみたい気持ちはあった。人間界の街なら美味い料理屋もあるだろうし、何より便利な生活も捨てがたい。
しかし、一龍の言葉を聞いた途端、横にいたチビが不安そうに鳴き声を上げ、俺の服の裾を鼻でギュッと掴んだ。背後にいる親マンモスも、心なしか寂しそうな目をこちらに向けている。
……まあ、そうだよな。
「うーん、やめとくよ。僕がいないと、こいつら寂しがるみたいだし」
チビの頭を撫でながら、俺は一龍に向かってひらひらと手を振った。
「それに、ここで大人しくしてる分には迷惑かけないでしょ。悪さはしないから〜」
俺の気の抜けた返答を聞いて、一龍は呆れたようにポカンとした後、腹を抱えて笑い出した。
「ほっほっほ!お前さんがそう言うなら、好きにするがいいわい!」
そう言って背を向けた一龍は、口元に微かな微笑みを浮かべていた。
──あやつらに並ぶかもしれんなぁ。
そんな呟きを残して。
◇
それから、さらに十数年の月日が流れた。
俺は、ビオトープの豊富な食材を喰らい続けた結果、自分でも引くほど身体能力の高い青年に育っていた。
最近、定期的に巡回に来るIGOの職員たちが、興味深い噂話をしているのを耳にした。
なんでも、腕利きの美食屋『トリコ』が、IGOの依頼でバロン諸島の『ガララワニ』を捕獲に向かったらしい。
いよいよ始まっちまったか、原作。
俺は今ではすっかり戦車よりもデカく成長しているちびの広い背中で寝転がりながら、もぎたてのフルーツを齧る。
これからこの世界は、四獣だの美食會だの、とんでもないインフレバトルに巻き込まれていくことになるはずだ。
「まあ、関係ないけどね」
大きく欠伸を一つ。
空はどこまでも高く、通り抜ける風は心地いい。今日の昼飯は何にしようか。
俺はそんなことをぼんやりと考えながら、ゆっくりと目を閉じた。
◇
第一ビオトープ内で生活を続ける俺は、IGOの職員たちともすっかり顔なじみになった。
そして、普通に言葉を交わすことが増えてきた頃。
俺には『モノク』という名前が与えられていた。
名付け親は、あのガングロ爺さんこと一龍会長だ。
事の発端は、巡回ついでにやってきた会長が、さも自慢げに人間界の食材について語り出してきたことだった。
「どうじゃ、外の世界には美味いもんが溢れとるぞ。お前さんが食ったこともないような極上の肉もな。ま、そのうちもっとすげぇ、グルメ界の食材も……」
ニヤニヤしながら未開の地の存在まで軽く匂わせてくる爺さんが、なんだか無性にムカついたのだ。
だから俺は、かじりかけの果物を置き、鼻をほじりながら適当に相槌を打ってやった。
「ああ、知ってる知ってる。そのうち四獣とかも来るんでしょ? あれ街に行く前に止めなきゃいけない人達めちゃくちゃ大変だよねー。毒の雨とか降るし」
「…………ほう?」
一龍の動きがピタッと止まった。
かと思えば、少しだけ驚いたように目を丸くして、ニッカリと人懐っこく笑いかけてきた。
「……お前さん、もしかしてどっかの大物か? 元の魂は誰じゃ?」
世間話でもするような、驚くほど軽いノリだった。ちょっとした冗談交じりのカマかけのつもりだったのだろう。
だが、俺はかじりかけの果物を置きながら、あっけからんと言い放つ。
「あ、ブルーグリルの魂の取引を疑ってるの? 僕は取引はしてないよ?」
「…………なっ」
ニコニコと明るく聞いてきたあの世界のトップは、今度こそ完全にフリーズし、口をあんぐりと開けた間の抜けた顔になっていた。
四獣の話の時点で少し驚いていたところに、IGOトップクラスしか知り得ない『ブルーグリル』や『魂の取引』という超特大の機密ワードまで、鼻をほじりながらサラリと出されたのだ。流石にキャパオーバーを起こしたらしい。
なんとか再起動した一龍は、コホンと一つ咳払いをして、俺に向き直った。
「……まあええ。それだけの知識があるなら、IGOで少し働いてほしいんじゃが……」
働、く
その二文字を耳にした瞬間。
俺の全身の毛穴という毛穴がブワッと開き、ガチガチと激しい震えが止まらなくなった。
残業……みなし……週休二日制※週に二日休めるとは言っていない……
ブラック企業での終わらないタスク。太陽を見ない生活。そして過労死。
前世に深く刻まれた社畜のトラウマがフラッシュバックし、俺は地面に蹲った。
「な、なんじゃ!? 突然ガタガタと震え出して……背負っとるもんに、とてつもない何かがあるのぉ……!」
得体の知れない拒絶反応を起こす俺を見て、流石の一龍もドン引きして困惑していた。
……そんな経緯があって、結局労働の誘いは有耶無耶になり、代わりに俺には『モノク』という名前が付けられたのだ。
後日、すっかり落ち着いた俺が、ふと名前の由来を聞いてみた時のことである。
「ああ、名前か? なんかおぬし、ものっそい苦労してそうだったから!これからも苦労しそうじゃしな!」
ビシッと親指を突き立て、眩しいくらいに白い歯を見せて笑う一龍。
……いや縁起わる
物凄い苦労人でモノク。ネーミングセンス皆無か。
というか、絶対あの時機密情報で逆にマウントとられたことへの腹いせも入っているだろ。
それからさらに時間が過ぎ、定期的にやってくる職員たちの口からは、あの男の話が増えていく。
虹の実の収穫。フグ鯨の捕獲。さらには、古代の王者であるバトルウルフを手懐けたなどなど。
どうやら世界は、着々と原作のストーリー通りに進んでいるようだった。
そしてついに、俺のダラダラとしたニート生活を脅かす『あの日』がやってきてしまったらしい。
◇
「パォオオオンッ!!」
昼寝の最中、少し離れた水飲み場の方から、チビの切羽詰まったような鳴き声が響いた。
ただ事ではない気配に、俺は渋々身を起こして現場へと向かう。
そこで俺が見たものは、色鮮やかな細い糸のようなものに全身をグルグル巻きにされ、身動きが取れなくなっているチビの姿だった。戦車よりデカい巨体が、見えない力で強引に引き倒されようとしている。
そしてその糸の先には、派手なピンク色や青色の長い髪を持った、中性的な顔立ちの男が立っていた。
美食屋四天王、サニー
彼が狙っているのは、リーガルマンモスの体内にある宝石肉ジュエルミートだ。
サニーはチビの巨体を自身の髪の毛で拘束しながら、
「あのー、すいません。…その髪解いてもらえますか?」
振り返ったサニーは、不審者を見るような目で俺を上から下まで舐め回した。
「あー解かねーよ? つか誰だしっ。とりまこのまま捕獲して帰って、トリコ達の目の前でドヤってやるん……っ!!」
サニーの言葉が途切れた。
俺はチビを締め付けていた彼の髪の毛の束を、ピースサインを作った二本の指で挟み、チョキリ、と軽く交差させて切り落としたのだ。
ほんの少しだけ指先を硬化させた、ハサミの要領。ただそれだけのことだったが、サニーは目を見開いて硬直していた。
「俺の髪を切ったか今っ!?」
「いや、解いてくれないなら切りますよそりゃ…一応兄弟みたいな存在なんで」
「何もんだてめっ! つかなんで原始人みたいなかっこだし!!?」
サニーが額に青筋を浮かべて怒鳴り散らしてくる。
原始人みたいな格好、というのは心外だ。職員が置いていってくれた特大サイズの服が破れてボロボロになり、適当な獣の毛皮を腰に巻いているだけである。機能性重視だ。
しかし、これはマズいことになった。
サニーにとって、触覚でもあるこの髪の毛は彼自身のプライドそのものだ。それを初対面の得体の知れない男に、指先一つで断ち切られたのだ。痛みも凄いらしい。激怒するのも無理はない。
しかし原作通りとはいえ、兄弟同然のちびを捕獲されそうになった俺が少しムカついてしまうのも無理はないだろう?俺は切り落としてしまった色鮮やかな髪の毛が風に舞うのを見つめながら、頭を掻いた。
「あー、ごめんって。そんな怒るなよ。髪なんてすぐ伸びるでしょ?」
「伸びる伸びないの話じゃねーっ!
少し煽るぐらいで収めたつもりだったが、完全に地雷を踏み抜いたらしい。
サニーの周囲で、残った数十万本の髪の毛が、まるで生き物のように蠢き始めた。一本一本が数百キロの張力を持つという、凶悪な極細の鞭。
戦う気など毛頭ないのに、完全に戦闘態勢に入られてしまった。ま、煽ったのが悪いんだけどね。
チビは俺の後ろに隠れている。デカくて隠れるも何もないが本人は隠れているつもりだ。
どうする。なんとか穏便に済ませられないだろうか。
俺は深くため息を吐きながら、もう一度その場に寝転がりたい衝動に駆られていた。
四天王最初のエンカウントはつくしいさん