4000メートルより、四千メートルのほうが読みやすくない?と気づいた今日この頃。
「ただいまー」
再び四千メートルの石段を踏破し、俺はひょっこりと工房の入り口から顔を出した。
「だからなんで上まで来るんだ! 下で待ってるポチコがかわいそうだろう!!」
奥の作業場から、メルクの怒声が飛んでくる。ドタドタと足音を荒げ、つかつかと外へ歩いてきたメルクだったが——工房の外に出た瞬間、俺の背後に広がる光景を見てピタリと動きを止めた。
そこには、大きな翼を畳んで佇む、ヴァンパイアコングのポチコの姿があった。
「僕もかわいそうだと思って、ちゃんと下でポチコに会ってから来たよ」
「なっ、ポチコ……なんでお前、彼を帰してないんだ!」
俺が下山口でポチコに声をかけ、調達した材料を渡そうとした時のことだ。ポチコはなぜかニカッと笑ってサムズアップを決めたのち、背後の巨大な階段を親指でクイッと指し示してきたのだ。
「上に行きな」と言わんばかりの漢気あふれるジェスチャーに、俺はとりあえず素直に登ってきたというわけである。どうやら、ポチコには気を許してもらえたらしい。
当のポチコは、呆然とするメルクに向けてもバッチリとサムズアップを決めると、バサッと飛び立っていつもの止まり木へと移動し、腕を組んでビシッと直立不動の姿勢をとった。
「なんなんだ全く……」
「反抗期とか?」
「ないよ! そんなの!」
メルクはムキになって否定しつつも、ドッと疲れたように深いため息をついた。
「とりあえず、一体分しか取れてないけど、これ」
俺は背中に背負っていた、無骨なオックスチキンの角を下ろす。
「本当に取ってきたのか……。たった二日間で、デビル大蛇の牙もオックスチキンの角も集まるなんて……」
メルクは信じられないものを見るように目を丸くし、ごくりと息を呑んだ。
「でも、ごめん。片方の角が折れちゃってて……」
俺は少しバツが悪そうに頭を掻きながら、ボッキリと根元から折れたもう片方の角を取り出して見せた。せっかく取ってきたのに包丁の素材としての価値が落ちてしまっていたら申し訳ない。
メルクは折れた角を受け取ると、先ほどの呆れ顔から一転、職人としての鋭い目つきに変わった。
真剣な表情で角の断面を指先でなぞり、コンコンと軽く叩いて音を確かめ、まじまじと見つめる。
「……見た感じ、綺麗に折れているし、内部にヒビが入ってる感じもない。うん、全然大丈夫だよ」
数秒の精査ののち、メルクはふっと職人の顔を和らげてそう言った。
「本当に? よかったー」
俺は心底ホッとして、大きく胸を撫で下ろした。
その後、俺とメルクは少しだけ言葉を交わした。
「それ、本当に折れてても使えるの?」
「あぁ。逆にこの断面の形を利用して、柄との接合部に深く噛み合わせることもできる。……君が余計なヒビを入れずに折ってくれたおかげかもしれないな」
「お、じゃあ結果オーライってこと?」
「ハハ、まぁそうなる」
作業台の前で角を弄りながら、メルクが小さく口角を上げる。
無事に包丁の素材が手に入った安堵からか、その表情は最初に出会った時よりは柔らかくなっていた。工房の暖炉からパチパチと爆ぜる火の音が響き、山頂の冷たい空気をじんわりと温めている。
そんな穏やかな時間がしばらく続いた後、メルクがふと真面目な顔になり、小さな革袋を差し出してきた。
「これ、約束の報酬だ。受け取ってくれ」
「いや、いいよ。いらない」
「なに? しかし……」
「報酬なら I GO……というか会長からたっぷりと貰う予定だから。メルクは気にしなくていいよ」
俺が笑って手をヒラヒラと振ると、メルクは少し戸惑ったように差し出した手を引っ込めた。
「そうか」
「うん」
「……なら、オレから君に頼むことはもう何もない。目的の材料も集まったんだ、わざわざこんな険しい山頂に、君が足を運ぶ必要ももう無いだろう」
それは、明確な「終わり」の宣言だった。
彼女の表情から、先ほどまでの柔らかさがスッと消え失せ、暗く張り詰めた表情へと変わる。
そんな顔を見せられて、はいそうですかと帰れるわけがない。
「いや、でもさ。オックスチキンの角、一体分じゃまだ全然足りないでしょ? それに片方折っちゃったし。また僕が集めて持ってくるよ」
「……いや、いい。これ以上は……」
「遠慮しないでよ。もうオックスチキンの動きはわかったし、これからどんどん——」
さらりと手伝いを申し出た、その時だった。
メルクの顔に、ギリッと苦渋の色が浮かんだ。
初代は、材料集めを他人に委託などしなかった。
自分で材料すら集められない。そんな不甲斐ない自分が、どうして『メルク』を名乗れるのか。
「オレは……ッ!」
「メルク?」
「オレは、研ぎ師メルクだ!! 材料はすべて自分で集めると言っているだろう!!」
ビクッと肩が跳ねるほどの、鋭く、感情的な怒声だった。
メルクは俺を強く睨みつけ、声を荒げた。
「これ以上はありがた迷惑なんだ……!! さっさと…さっさと帰ってくれっ……!」
つい先ほどまでの穏やかな会話が嘘のように、空気が一転して粉々に砕け散った。
あまりの剣幕に、止まり木でビシッと直立不動の姿勢を保っていたポチコでさえ、心配そうにそろり、そろりとこちらへ近づいてくる。
……そうか。
彼女にとって、他人の手助けを受け入れるということは、自分が「偽物」であると認めることと同義なのだ。
「……わかった」
俺は短く告げ、それ以上は何も言わずに背を向けた。
そして、冷たい風が吹きすさぶ工房を後にした。
「……これで、いいんだ。ポチコ」
遠ざかる俺の足音を聞きながら、メルクは力なく呟いた。
だが、心配そうに見つめてくるポチコの真っ直ぐな瞳に耐えきれなくなったのか。彼女はポチコの分厚い胸に顔を埋め、ギュッと手を握りしめる。
——これでいい。
自分は孤独に、ただ包丁を打ち、研ぎ続けるだけの存在でいい。
そして、
「やっほー。オックスチキンの角、今回は二体分捕獲できたよー。置いとくね」
「オレは昨日、断ったはずだが!?」
ドサッと真新しい角を置き平然と笑うモノクに、メルクが絶叫した。
その、次の日。
「今回はね、エレファントサウルスの牙! 捕獲レベル17! めっちゃデカくない? なんかに使えると思うんだけど、どう? デカすぎて血も凄くてさー、ほらめっちゃ血」
「聞いてるのか!? 昨日も昨日であれだけ言ったのに! 血は外の温泉でもなんでも使っていいから、もう帰ってくれ!!」
そのさらに、次の日。
「ってなんでお風呂に君が入ってるんだ!!」
「いや、温泉でもなんでも使っていいって……」
「それは昨日の話だよ!! 早く出るんだッ!!」
「ちょ、引っ張んないで! 服、服着てないって!!」
「ひゃあ! な、なんで裸なんだ!! 見せるな! し、下のそれ!」
「お風呂なんだから裸でしょ!! 見ないで——ごぼぼぼぼっ!?」
さらにさらに、次の日。
「はい、これお昼ご飯。Barメリアのメリアさんにハンバーガー多めに作ってもらって、テイクアウトしてきたから。冷めないうちに食べてね。冷めてるけど」
「いらない!! オレは忙しいんだ、そんなもの食べる暇は——」
「……モグ、モグ……ハンバーガーなんて……久々に食べたよ……」
「ね? 美味しいでしょ!? あとコーラもあるけど飲む?」
「…………飲む」
作業台の隅。
両手で大切そうにオックスチキンバーガーを持ち、小動物のようにモグモグと頬張るメルク。その横で、俺はニコニコとコーラの注がれたコップを差し出していた。
原作のトリコたちがここへやって来るまで、あと半年以上ある。
彼女が一人で思い詰める辛い時間を少しでも紛らわすため、こうして美味しい飯を押し付けて、ウザ絡みし続けることくらいはできる。
それが、俺なりのやり方だった。
◇
それからの、一ヶ月あまり。
毎日のように顔を出す俺のハイペースな押し売りに巻き込まれる形で、俺とメルクの奇妙な関係は、すっかり定着しつつあった。
最初の数日こそ、「いい加減にしろ!」と顔を見るたびに怒鳴っていたメルクだったが、俺が通い詰め、食材を置き、勝手に風呂に入り、そして怒られ、飯を作って並べているうちに、いつしか彼女の強固な拒絶の壁は少しずつ崩れていった。
シュッ……シュッ……
静寂に包まれた工房に、砥石と刃が擦れ合う規則正しい音が響き渡る。
俺は邪魔をしないように、作業台から少し離れた椅子に腰掛け、温かいお茶を啜りながらその様子を眺めていた。
火花が散り、くすんでいた鋼が磨かれ、鋭い命が吹き込まれていく。包丁と向き合う彼女の横顔は、一切の迷いがない。張り詰めた空気の中で振るわれるその技術は、誰がなんと言おうと『世界一の研ぎ師』のそれだった。
「……よし」
刃の輝きを蛍光灯にかざして確認し、メルクが小さく息を吐く。
「お疲れ様。キリがいいなら、そろそろご飯にしない? 温かい鍋作ってみたんだけど」
「あぁ……いい匂いがすると思っていたよ」
俺が声をかけると、メルクは自然な足取りでテーブルのそばへとやってきた。もう、俺が用意した飯は拒否されなくなった。
今日のメニューは、新食材をふんだんに使った鍋だ。俺は料理人ではないから、基本的に鍋かスープか、炒めるか、揚げるか。その程度の簡単なことしかできないけど。
俺は鍋を二つの木のお椀によそい、手渡す。
「いただきます」
両手でお椀を包み込むように持ち、メルクが鍋を一口飲む。
「……美味しい。この鍋……野菜しか見えないのに、濃厚な肉汁みたいな出汁が溢れてる……」
「でしょ? 水にぶち込んで煮ただけなんだけど、ステーキ白菜が勝手に美味しい出汁を出してくれるからね」
「すごいな……それに、このオニオントマト。噛んだ瞬間に甘みがジュワッと弾けた。一切味付けしてないって言ってたが、完成された味がする……」
メルクは驚いたように目を瞬かせ、次々と鍋の具材を口へと運ぶ。
「こっちのキャロッとうがらしも、ピリッとした辛味が、濃厚なスープを心地よく引き締めてて……箸が止まらないよ」
「あ、そのゴロッとした貝は『憤怒貝』ね。直前まで筋トレさせてたから身がパンパンに詰まってるよ」
「筋トレ……? ……んっ……」
メルクが貝を噛み締めた瞬間、ふわりと香ばしい匂いが立ち上った。
「コリッとしてるのに、噛めば噛むほど焦がし醤油が鼻を抜けて、口の中でトロトロに溶けていく……。それに、奥底から微かに甘い自然の香り、なんだろう。とてもいい香りだよ……」
「ウィスキぃ茸だね。アルコールは完全に飛んでるから、キノコの旨味と甘い香りだけが残ってるでしょ?」
「あぁ……本当に、ただ切って煮ただけとは思えない美味しさだよ。体の芯から温まる」
パチパチと爆ぜる暖炉の火を見つめながら、二人でゆっくりと食事を進める。
ふと、メルクが鍋を食べる手を止め、静かに口を開いた。
「……君は、本当に不思議な奴だな」
「そう? 至って普通の一般人だけど」
「普通の一般人は、この四千メートルの山を毎日登ったりしないし、新食材を6種も生み出さない」
クスッと、メルクが小さく笑みをこぼす。彼女がこうして自然に笑うようになったのは、ここ数日のことだ。
「まさか君があのモノクだとはね。本当に驚いたよ」
数日前、メルクが街へ買い出しに行った際、偶然テレビに俺が映っているのを見たらしい。
その日の夕方、工房に行くと、メルクが外でポチコのように腕を組み、直立不動で待っていたのだ。
何か怒らせるようなことしたかな?と身構えたが、彼女は複雑な表情で、開口一番に「今すぐ自己紹介してくれ」と言ってきた。
なんとなく状況は把握できたが、圧がすごい。なんと言っていいものか。とりあえず「モノク…と申します」と答えたが、メルクは小さくため息をつき、無言で工房に入っていってしまった。そして、そのまま背を向けて研ぎの作業を始めてしまったのだ。
完全に気まずい空気。どうしていいかわからなかった俺は、とりあえず一旦山を降り、待たせていたチビの食料袋——もとい俺の間食用としてぶら下げている袋から、オニオントマトやその他諸々の新食材を持って再び登った。
そして、無言で作業しているメルクの横へそろーりと近づき、そっと食材を置いたのだ。
俺のその不審者みたいな行動を見たメルクは、呆れたように小さく吹き出し、そのまま食材を食べてくれた。
『……もうどうでもよくなったよ』
そう笑いながら言われた。俺の差し入れの前では怒りも無くなるらしい。ちなみにこの日から、こうして夜ご飯を一緒に食べるようになった。食材の力は偉大だ。
「驚くほどじゃないでしょ」
「いや、まさかここまで頑固なやつだとは思わなかったよ」
「えぇ、急に悪口……」
彼女の飾らない物言いに、俺は肩をすくめる。
ただ一人の人間として軽口を叩き合えるこの距離感が、今は心地よかった。
「ハハ……本当に、君といると調子が狂うよ。モノク」
「え、ありがとう?」
空っぽになったお椀を置き、メルクは「おかわり」と俺に差し出した。
「もちろん」と俺は鍋の蓋を開ける。
たった一ヶ月程の出来事だったが、俺の不安は、どうやら杞憂だったらしい。
彼女の心は、俺が思っていたよりもずっと強く、そして美しい。
これならきっと大丈夫だ。
お玉で具材をすくいながら、俺はふと思い出したように口を開いた。
「そういえばさ、明日からしばらく顔出せなくなるんだよね」
ぽろりと箸が滑り落ちてテーブルを叩いた。
「会長に報告に行かなきゃいけないし、それとは別に野暮用がね」
そろそろ、『彼ら』の様子を見に行かないと。
「しばらくって……どのくらいだ?」
「ん……?」
「ちゃんと、戻るのか……?」
かすれた、少し震えるような声。
だが、自分の口から出た言葉の響きにハッとしたように、メルクは慌てて首を振った。
「い、いや……すまない。何を言ってるんだオレは……。忘れてくれ」
その声の端々には誤魔化しきれない動揺が滲んでいた。少し間が空き、気まずい空気が流れる。
ここで「もしかして寂しいの?」と茶化せば、いつも通りの空気に戻っただろう。でも、それは違う気がした。
「戻るよ。ちゃんと戻る。ただ、友達に会いに行くだけだからさ」
「…………」
押し黙るメルクに、俺は少しだけ考え、思いついたことを提案した。
「そうだなぁ。じゃあ、戻ってきたら今度はどこか出かけようよ気分転換に。なにか美味しいものを捕獲しに行ってもいいよね、BBコーンとか。それか、僕の家とか?」
その瞬間、メルクの動きがピタリと止まった。
瞬きすら忘れたように固まっている。やがて、彼女の真っ白な頬から耳の先まで、ボフッと音が鳴りそうなほどの勢いで一気に朱に染まっていった。
「な……っ!? い、家……!? き、君の家に、オレが……っ!?」
ひどく上擦った声。お椀を持つ手が小刻みに震え、視線がものすごいスピードで宙を泳いでいる。
「家っていうか、第一ビオトープだけどね。チビも、前話した僕の育ての親のリーガルママもいるし、意外とちゃんとしてる僕の菜園もあるよ? ずっと仕事詰めだし、気晴らしにはいいと思うんだけど、どう?」
「ビ、ビオトープ……なんだ、そういう……」
俺の言葉を聞いて、メルクはふぅーっと長すぎる安堵の息を吐き出した。だが、まだ顔の赤みは引いていない。
彼女はコホンとわざとらしく咳払いをして、普段通りを装う。
「じゃあ、また用事が済んだら、来るからさ」
「……勝手にしてくれ」
そっぽを向いているメルクだったが、その声には以前のようなトゲはなく、むしろどこか照れてるような響きが混じっていた。
その後はいつも通りに別れた。けれど、以前と違うのは、次に会う時の『約束』があることだ。待っていてくれる人がいる別れは、不思議と足取りを軽くしてくれた。
メルクマウンテンの下り。吹き上げる山風を全身に受けながら、俺は新たな明日へと足を踏み出すのだった。
◇
「わしは2、3日のつもりで頼んだんじゃが……随分と通い詰めておったのぉ」
久しぶりに顔を出した俺を、一龍は椅子に深く腰掛けたまま、なんとも言えないニヤニヤ顔で出迎えた。
会長の頼みでメルクマウンテンへと足を運んだわけだが、結果的に一ヶ月以上通い詰めた。
「いやー、材料集めが楽しくなっちゃってね」
「ほう」
「何せ美食屋になって初めての遠出だったし? ワクワクも止まらなくって——」
「ほうほう」
一龍は立派な髭をピクピクと動かしながら、なおもニヤニヤと俺を見つめている。
完全に勘繰っている顔だ。面白がっているのがバレバレである。
「……なんですかね、その目と髭は」
「な〜んでもないぞ。ただ、子の親離れを実感すると悲しいのぉと思ってな。オ〜イオイオイ」
わざとらしく着物の袖で顔を覆い、大袈裟な泣き真似を始める一龍。
あまりの茶番っぷりに、俺はジト目を向けた。
「僕の親はリーガルママだよ」
「父はわしじゃろ?」
袖からスッと顔を出し、バッチリ自分を指差す一龍。
「違うよ!!」
「ガァーーーン……」
俺が即答すると、一龍は口をあんぐりと開けてあからさまにショックを受け、トボトボと肩を落としていじけ始めた。
「わしはどうせ天涯孤独じゃろうてなんじゃもんで……」
「意味わかんない落ち込み方しないで!?」
変な語尾にツッコミを入れると、一龍は「コホン」と咳払いをして、すっと真面目な顔つきに戻った。
「……トリコたちが、アイスヘルから帰還しておる」
帰ってきてからはまぁまぁ経ってるだろう。そろそろ落ち着き出した頃かな。
「おぬしの言うておった通り、グルメショーウィンドウはだめじゃった。少なからず残っておったセンチュリースープもな。得られたのは、一雫のみじゃ」
「美食會……」
「あぁ。与作のやつ、弟子の鉄平に行かせおって……。まぁあやつが直接行っておってもだめじゃったとは思うが、ルール無用なやつだからのう。センチュリースープは確保できたとは思うが」
確かに、与作さんが直接向かっていれば、GTロボ相手に遅れは取らなかっただろう。でも、どうなんだろうか。もし彼が現場にいたとして、あのグルメショーウィンドウは再生できたんだろうか。
「まぁ、今は託すしかないのぉ。スープに選ばれた料理人に」
「小松シェフだね」
「おぬし、初めから分かっておったの。スープの行方」
「まぁ……なんとなくね」
俺の返答を聞いて、少し考える素振りを見せる一龍。
「スープのおもむくまま……スープは彼を選んだようじゃ。おぬしのフルコースの唐揚げを作ったのも彼なんじゃろ? なんともまぁ、とんでもない才能を持っとるの」
「だねー。彼は食材と相思相愛みたいでして……」
「他人事のように言いおって、全く」
一龍は呆れたように息を吐くと、少しだけ視線を泳がせた。
「トリコは重傷を負って、癒しの国『ライフ』におる。あやつもまだまだじゃ。アイスヘル程度で大怪我しおって……修行が足りんのぉ。……モノク、ちょっと行って様子見てきてくれんか」
顔を逸らしながら、ぶっきらぼうに頼んでくる一龍。
口では「まだまだ」と厳しいことを言っているが、チラチラとこちらを窺うその目は、完全に心配でたまらない親の目だった。なんともないふりをしているのがバレバレである。
「はいはい。元から2人には会いに行くつもりだから、全然いいよ。てか心配しすぎ。トリコなら大丈夫だって、すぐ治るよ」
「し、心配なんぞしとらんもーん! 戻ったら食材いっぱい依頼するつもりだしー!」
「うわ、めんどジジイだ」
大袈裟に首を振り、唇を尖らせて反論してくる一龍に、俺はたまらず苦言を呈した。すると、一龍はピシッと俺を指差した。
「はい、バカにしとるからおぬしにも依頼決定!」
「ハア!? そんなのあり!?」
「ありあり、おおあり」
「いやまぁ、強くなれるならありがたいけどさ……」
依頼食材。
原作で、一龍が四天王たちの修行用に準備した食材リストのことだ。その修行メンバーに俺を入れてもらえるということなら、素直に嬉しい。でも実感があまりないな。どこか不思議な感じがする。
俺が少し感慨に浸っていると、一龍は満足げに頷いた。
「うむうむ。向上心があるのはいいことじゃ。んじゃ、発表するぞい」
(あれ、メモ紙じゃないのか)
「おぬしに取ってきてもらう食材は、天空に咲く花——『オゾン草』じゃ」
「えっ、うれし!!」
俺の即答に、一龍がパチクリと目を瞬かせる。
「なんじゃ、行きたかったのか?」
「めちゃくちゃ行きたかったよ! 緑豊かな楽園、野菜の王国ベジタブルスカイ! ここの野菜をどれだけ食べてみたいと思ったか! いやー、行ってみようとは思ったんだけどね。行くにしても途中までヘリでしょ? そうなるとヨハネスさんに出してもらうしかないし。でもプライベートでヨハネスさんに出してもらうのも忍びないなーと思ってたから、依頼っていう口実ができてよかったぁ! じゃあ、ヨハネスさんに差し入れ準備しないとだ!」
俺は両手を握りしめ、早口でまくし立てた。
無理もない。前世で極度の野菜嫌いだったモノクは、トリコのベジタブルスカイ編を読んだことで野菜嫌いを克服し、今や大の野菜好きになってしまった男なのだ。新食材『オニオントマト』が生み出せたのも、ベジタブルスカイのおかげと言っても過言ではない。
「お、ぉぉ……そこまで喜ばれると、調子が狂うのう。美食屋らしい一面が見れたから良いが……ちと引くの。メルクの娘に引かれないか心配じゃ……」
あからさまにテンションが振り切れた俺を見て、一龍は少し後ずさりしながら頬を引きつらせた。
(行くならなるべく早く行かないとな。トリコと小松シェフのコンビ結成のタイミングと被ったら良くないし。それに、トリコたちの後に行ったら、野菜を片っ端から食い尽くされてそうだ。いやー、楽しみだなぁ!)
ちょい引き気味の一龍をよそに、俺の頭の中はすでに、まだ見ぬ天空の野菜たちへの期待でちぎれんばかりに膨らみ上がっていた。
◇
日が沈んで数刻。巨大なホテルグルメの客室の明かりが順々に消えていき、やがて星空の下でビル全体が静かな眠りにつく。
しかし、外からは決して見えない場所——お客様の目には触れないホテルの奥底に灯る一つの明かりだけは、いつまで経っても消えることはなかった。
その明かりの下、厨房の中に一人と、外に一匹。
「はぁ——ダメだ……全然できない……」
ステンレスの調理台に両手をつき、小松はひどく暗い表情で項垂れていた。
何十、何百という食材の組み合わせを試し、寝る間も惜しんで鍋と向き合い続けてきた。しかし、あのアイスヘルで味わった『センチュリースープ』の幻影には、いくら手を伸ばしても届かない。
心に、ほんの少しの諦めがよぎりかけた、その時だった。
『もっとたらふく飲みてぇ! だから俺が飲むスープは小松!! お前が作れ!!』
脳裏に蘇るのは、自分を信じて背中を押してくれた、あの時のトリコの力強い言葉と笑顔。
「……よし! まだまだやるぞ!!」
小松は両手でバチッと気合を入れるように頬を叩き、再び鍋へと向き直った。
すると、厨房の外の廊下から、聞き慣れた可愛らしい鳴き声が響いてきた。
「ユンユン。ユンユンユン? ユーン」
「うんうん……かわ……飼……たい……」
アイスヘルから持ち帰り、毎日厨房の外で待ってくれているウォールペンギンの子供、ユンの声。だが、誰かと話しているような、というか誰かが漏らす呟きが混ざっている。
「ユン?」
小松が訝しげに呼びながら厨房の扉を開ける。
「お、小松シェフ」
そこには、廊下にしゃがみ込み、ユンのモチモチとした体を撫でたり、揉んだり、伸ばしたりして完全にメロメロになっている男の姿があった。
「——モノクさん!!」
「苦労してるみたいだね。久しぶり!」
厨房の外に続く通路のはし。従業員用の長椅子に腰掛け、二人と一匹は言葉を交わしていた。
「いやぁ、驚きました。こんな時間にモノクさんが訪ねてくるなんて」
「小松シェフがセンチュリースープを再現しようとしてるって小耳に挟んでね。様子を見に来たんだ」
「はいぃ……僭越ながら、再現をしようと覚悟を決めております。……まだ全然近づけていないんですけどね。すみません……」
小松は申し訳なさそうに眉尻を下げて縮こまった。
俺は明るく首を横に振る。
「なんで謝ってるの! あの節婆ですら再現できてないのに、一筋縄でなんていかないでしょ! 焦らなくていいんだよ!」
「モ、モノクさん……!」
俺の励ましの言葉に、小松は両手を胸の前で合わせ、感極まったように目を潤ませた。
「あ、でも半年ぐらいで完成はさせて欲しいかも……」
「めっちゃ焦らせるようなこと言ってきてるゥ——!?」
「いや、ごめんごめん冗談だよ。気にしないで」
「やめてくださいよ! そういうの!」
「ごめんごめん、気を紛らわせようと思って。根詰めすぎても良くないからさ」
俺が苦笑しながら手を合わせると、小松もホッと息を吐いて笑った。
「そ、そうですね。たしかにここのところ、ずっと食材のことばかり考えていて、周りが見えなくなっていたような気がします。気をつけます」
「うんうん。それに、必ずしも一人で考えなきゃいけないわけじゃないよ。僕もいるし、他の人だって小松シェフの相談を断る人はいないよ。もっと周りを頼っていいと思う」
俺の言葉に、小松の顔がパァッと晴れ渡り長椅子からバッと勢いよく立ち上がった。
「そうですね! 相談ぐらいはいいですよね! 実は、節乃さんに見てもらおうと思ってたんです。僕のスープ!」
「おぉー、いいね。グッと再現に近づけるんじゃない?」
「だといいですけど……。でも、節乃さんのスープは透明だしなぁ……」
流石に2ヶ月弱では透明まで到達しないなぁ。
「あ、センチュリースープは実は透明なんです! 透明すぎて見えないくらいには! それで、その器の上に小さいオーロラができて……。オーロラが完成の指標だと思うんですけど……僕はその手前の、透明なスープすらまだできてなくて……」
アイスヘルに居合わせなかった俺に、小松シェフは身振り手振りを交えながら、センチュリースープの美しさと特徴を丁寧に説明してくれた。
そのひたむきな優しさに、俺の胸の奥でチクリと罪悪感が痛んだ。
俺は、原作の変化にビビってアイスヘルへ行かなかっただけだ。グルメショーウィンドウが崩壊する結末も、そこで起こる凄惨な戦いも知っていたのに、変える勇気がなくて逃げた。
なのに彼は、そんな傍観者の俺にまで、しっかり伝わるように一生懸命に説明をしてくれている。
「小松シェフ」
「トゲうなぎの出汁は……あ、はい! なんでしょう?」
説明に夢中だった小松シェフが、俺の呼びかけに答えて振り返る。
俺の存在によって、物語の根幹が壊れる可能性がある。だったら、いっそ——。
「——もし、僕がスープの食材を知ってるって言ったら、知りたい?」
「え……?」
言ってしまってから、俺は激しく後悔した。
彼自身の力で辿り着くべき答えを、俺が奪ってどうする。
「なーんて、知るわけないけどねハハハ」
慌てて冗談めかして誤魔化そうとした俺を、小松シェフの静かで、それでいて力強い声が遮った。
「聞きませんよ」
「ん……?」
「モノクさんが、もし本当に必要な食材を知っていたとしても、僕は聞きません」
彼は真っ直ぐに俺の目を見据えて言った。
「トリコさんと約束しましたから。僕が、トリコさんの飲むスープを作るって。……まぁ、モノクさんが先に完成させるのであれば、諦めるしかないかもですけど……」
最後は少し困ったように片手で頭を掻く小松シェフ。
「いや、本当に知らな——」
「というか! 教えるつもりないですよね、モノクさん!」
「……え?」
「初めから教えるつもりだったら、さっきの僕にかけてくれた励ましの言葉が、意味無くなっちゃいますもん! モノクさんは、そういう意地悪をする人じゃないのは僕でもわかります!」
満面の笑みで、俺の逃げ道すら全肯定するように、彼はそう言い切った。
——本当に、この人は……。
視界が不意にぼやけ、俺は慌てて目元を腕で乱暴に擦った。
「な、泣いてる!? 久々に見れました! ピュアモノクさん!!」
「その呼び方やめて……」
熱くなった目頭を擦りながら、なんとか憎まれ口を返す。
ホント、何やってんだろ俺。
原作が壊れるのが怖い? 傍観者でいたい? こんな真っ直ぐな主人公たちを前にして、そんな中途半端な姿勢じゃだめだ。
ちゃんと覚悟を決めないと。この『トリコの世界』に、自分の足で立ち、自分の意志で参加する覚悟を。
「ふぅーっ……ありがとう、小松シェフ。僕が励ましに来たはずなのに、逆に励まされちゃったよ」
「いやいや、僕もとても励まされましたよ! それに、僕なんかがモノクさんを励ませたなら本望です!」
「本望って……」
俺は苦笑しながら長椅子から立ち上がった。心の内にあった蟠りが、すっと消え去っていた。
「ん、よし。そろそろ行くね。明日はトリコの様子を見に行ってくる。会長にも頼まれてるし」
「ト、トリコさん……! すごい重傷なんです! 左腕が無くなっちゃって……! 今、再生屋の方に治してもらってて……!」
「聞いてる聞いてる。その様子を伺いにね」
「はい! 僕の分まで伺ってきてください!!」
「なにそれ」
俺たちは軽く笑い合いながら、ホテルグルメの裏口へと向かって歩き出した。
夜の冷たい空気が、火照った顔に心地いい。
「あ、あと! モノクさん!」
出口での見送り際、小松シェフが呼び止めてきた。
「なに?」
「モノクさんも、一人で抱え込まなくて良いと思います!」
「……え?」
「トリコさんも! サニーさんも、ココさんも! 僕もいます! もっと、もっと頼ってください!!」
俺は思わず目を見開いた。
ただの励ましの言葉じゃない。俺が「何か」に葛藤していることを見透かしたような、温かくて力強いエール。
どうやら彼は、あらゆる食材の声を聞き届けるだけでなく、俺の隠した内面の声まで聞き取ってくれるらしい。
「……ありがとう。頼らせてもらうよ」
モノクが彼に向けて、今日一番の自然な笑顔を向ける。
「じゃあ、またね。スープ……できたら呼んでよ?」
「はいッ!! 必ず、呼びますッ!!」
夜空に響く小松シェフの元気な返事を受け止めながら、俺は静かに眠るホテルグルメを後にした。
足取りは、ここへ来る前とは比べ物にならないほど、確かな熱を帯びていた。
きりよくライフまで書きたかったんですが、中々まとまらなくて。
メルクが1番好きなのに、メルクのセリフ、シーンを考えるのが1番難しいです。変なところがあったらすみません。メルク視点も書きたいけど断念しそうです。