キャラが多いから自ずとセリフも増え…。マッチとの会話が特に難航しました。遅れてすみません。スープの味がわからなすぎます…伝わって…!
翌朝。
ビオトープに差し込む眩しい朝日を浴びながら、俺は急いで買ってきた真新しいスーツに袖を通していた。
シャツの第一ボタンを留め、池のほとりで紺色のネクタイを手にする。
その瞬間、ほんの少しだけ指先が微かに震えた。
前世の記憶。毎朝、鏡の前でこの布切れを首に巻きつけるという行為は、息苦しい日々へと向かう象徴だったからだ。無意識のうちに身体を強張らせる。
「……ぱお?」
俺の動きが止まったのを不思議に思ったのか、チビが心配そうに見つめてきた。その後ろでは、リーガルママがその巨体を屈め、優しい瞳でこちらを見守っている。
二匹の姿を見て、俺は小さく息を吐き、ふっと笑みをこぼした。
「大丈夫だよ。……今はもう、全然違うからね」
首に回したネクタイを、キュッと締め上げる。
息苦しさはない。今の俺が着ているこのスーツは、伝説のスープを味わうための誇り高き『正装』だ。
ピシッとネクタイの位置を直し、水面に映る自分に気合を入れる。よし、完璧だ。
「——って、うわっ! ヤバい、もうこんな時間じゃん!!」
ふと端末の時計に目をやって、俺は慌てて上着を引っ掴んだ。
「チビ、リーガルママ、行ってくるね!」
俺は二匹に元気よく手を振ると、伝説の味が待つ『ホテルグルメ』へと向かって、全速力でビオトープを飛び出した。
◇
「すみません〜、ちょっと通してね〜。あ、そこ通りますよ〜」
大量の記者たちでギチギチに埋め尽くされている『ホテルグルメ』の入り口。俺は、その隙間をなんとかすり抜けようともがいていた。
それにしても、なんて数だ。世紀の瞬間に立ち会おうとする記者の執念、恐るべし。
「おい押すなよ! 映像ブレるだろ!」
「被ってる! 前のやつは屈めよ!」
「マイクもっと前出せ! 良い会話が録れるまで絶対引くなよ!」
怒号に近い声が飛び交い、フラッシュの嵐が焚かれている。こりゃきついな。他社に1ミリでも割り込まれまいと誰も道を譲ろうとしないため、入り口は完全に強固な『肉の壁』と化していた。
だが、約束の時間は少し過ぎてしまっている。何としても行かなければ。
俺は姿勢を極限まで低くし、半ば
(いでっ、今誰か思いっきり踏みやがったな……!)
もみくちゃにされながら、なんとか最前列を抜けた先で、俺はたまらず床に突っ伏した。
「つ、つかれた……」
大きく息を吐きながら立ち上がり、買ったばかりの真新しいスーツの汚れを手でパンパンと払う。初日からシワと埃まみれだ。最悪である。
すると、いきなり最前列の足元から這い出てきた俺に、ピリピリしていた記者たちの視線が一斉に突き刺さった。
「おい、順番守れ! 勝手に前に——って……モ、モノクだ! 美食屋モノクだぞ!!」
「なに!?」
「なんだと!? あのモノクも呼ばれているのか!」
「どういう繋がりが!?」
一気に騒然となる現場。
やべ、面倒くさいことになる……! 俺は咄嗟に身構えたが、不思議なことに、記者たちはその場から踏み出してはこなかった。
(なんだ? 見えない壁でもあるのか?)
そう不思議に思っていると、前方から声がかかった。
「モノク!!」
「モノクさん!!」
声の方向を見やると、そこには見知った顔ぶれが揃っていた。
左腕の再生を終え、万全の状態らしきトリコ、と小松シェフ。その後ろにはココと鉄平の姿もある。
そして、初めましての面々。あのオレンジ色のぐるぐるターバンは『グルメ
記者たちがこれ以上前に踏み出してこないのは、マッチたちがいるおかげだな。
そして——彼らの中心に立つ、一人の小柄な人物。
上下ピンクのタイトな服に、足元は健康サンダル。
美食人間国宝、節乃。
直接見ても、ただの気のいいお婆ちゃんにしか見えない。
だけど、俺はこの人が物語の終盤までずっと強キャラとしての株を下げなかった、とんでもない実力者だということを知っている。
その本物の凄さを知っている分、いざこうして直接目の前にすると、やっぱり少し緊張するな……。
俺は小さく一つ深呼吸をして、スーツの襟を正すと、彼らの元へと歩みを進めた。
「いやぁ、遅れてごめん! 久しぶり小松シェフ。スープ完成、本当におめでとう」
俺が歩み寄りながら声をかけると、小松シェフはパァッと顔を輝かせて出迎えてくれた。
「間に合ってるから全然問題ないですよ! 忙しい中、来ていただいてありがとうございます! ……ええ、おかげさまで完成、しました! モノクさんがあの時、もっと周りを頼っていいって言ってくれたので、狭まっていた僕の視野がパッと広がったんです! 自分が一人で作るんじゃない、みんなが命懸けで繋いでくれた想いを、この鍋の中で一つにまとめればいいんだって!」
「僕が行かなくても、小松シェフなら絶対その答えに辿り着いてたと思うけどね」
「そんなことないですよ! それに、連日の徹夜で疲労が溜まってた体に、モノクさんからの差し入れが本当に染み渡って……って、そういえばあれ、なんだったんですかモノクさん! 貰った袋を覗いたら、全然知らない食材が入ってたからびっくりしましたよ! バナナと柚子!!」
興奮気味にまくしたてる小松シェフの横から、ニカッと笑う大男が顔を出した。
「お、小松も貰ってたのか。そいつは『ナナバナナ』と『葛柚子』だ。またモノクが作った新食材だぜ」
会話を聞いていたトリコが、こともなげに言い放つ。
「また平然と新しい食材を追加ですか……」
呆れたように肩を落とす小松シェフ。そのやり取りに苦笑しつつ、俺はトリコの左腕へと視線を移した。
「トリコも、腕の再生無事に終わったんだね。よかった」
「あぁ。スープに呼ばれたからな」
トリコは真新しい左腕をグッと握り込み、嬉しそうに歯を見せて笑った。
スープに呼ばれた。本人はサラッと言っているが、確か原作だと、小松シェフのスープが完成した瞬間にトリコの尋常じゃない食い意地が反応して、一瞬で細胞が活性化して腕が治ったんだよな。
意味わからん。癒しの国ライフとこのホテルグルメで、どんだけ距離が離れてると思ってるんだ。
トリコの食い意地の凄さを改めて感じていると飄々とした声が割り込んできた。
「いやいや、本人はケロッとしてるけどよ。腕の再生治療、後半は常にギリギリだったんだからな。死と隣合わせだったんだぜ」
「へへっ、結果的に治ったんだからいいだろ!」
「能天気なやつだぜ……あ、そうそう」
鉄平は思い出したようにポンと手を打ち、俺の方を見た。
「師匠から『助かったぜ、ありがとな』って伝言頼まれてたんだ。クスリバチ、ギリギリ足りたよ」
「僕はただ渡しただけだよ。まぁ、足りてよかった」
俺が微笑んで返すと、鉄平は「謙遜するなって」と笑い、代わって、今度はココが歩み寄ってくる。
「やあ、久しぶりだね、モノク」
「だね。第一でバッタリ会った時に新食材渡して以来かな? 元気してた?」
「あぁ、もちろん。……でも」
親しげな挨拶を交わす中で、ココは俺の全身を観察するように僅かに目を細めた。
「君の纏う電磁波の密度が以前とまるで違う。かなり肉体が進化しているね。……何か、君に適した食材にでも巡り会えたのかな?」
『オゾン草』あれが俺の『適合食材』だったから、肉体が急激に進化したんだ。だけど、会った一瞬でそれを見抜くなんて……電磁波が見える能力が優秀なのか、ココ自身の観察眼が恐ろしいのか。
内心で冷や汗をかきつつ、俺は苦笑交じりに答えた。
「まぁね。中々手のかかる食材だったよ」
「へぇ、どうやらかなり苦労したみたいだね。よっぽど素晴らしい食材だったんだろう」
ただ一言返しただけなのに、目を細め、モノクの苦労度を瞬時に読み取り穏やかに笑うココ。そんな中俺の脳裏にふと『元凶』をよこしてきた張本人の顔が浮かんだ。
そういえば、トリコはオゾン草の後だけど他の四天王の修行食材はいつ告げられるんだろうか。
「……ねぇココ。最近、一龍会長とは会った?」
ふと思い出したことを俺は尋ねてみた。
「会長? いや、会っていないな。近々一度顔を出そうとは思っているけど……どうしてだい?」
(まだ修行食材のリストは渡されてないか。俺の2枚目のリストと、ココたちの食材に被りがあるのかを確かめたかったんだが)
「あーいや、まだ会ってないなら——」
俺がそう言いかけた、その時だった。
「おいおい。随分と身内だけで話し込むじゃねぇか。俺らへの挨拶は無しか?」
低い声が空気を切り裂いた。
声の主を見る。純白のスーツに身を包み、顔には大きな傷跡。そして腰には抜き身の刀を帯びている。どこからどう見ても『ガチもんのヤーさん』、グルメヤクザの若頭であるマッチだ。
鋭い三白眼が、真っ直ぐに俺を射抜いている。
「あ、ごめん! 初めましてだから、先に挨拶するべきだったよね! 僕はモノク。アイスヘルには参加していないんだけど、……お邪魔させてもらってます」
「……あぁ、お邪魔だとわかってて来るたぁ、その図太い神経には驚くぜ」
俺が頭を下げると、マッチは鼻で笑い、さらに鋭い凄みを利かせた。
「ま、まぁまぁ! マッチさん! これからセンチュリースープの実食だっていうのに、そんな……!」
ピリついた空気に、慌てて隣の滝丸がなだめに入るが、マッチの視線は俺から1ミリも外れない。
「だからこそだろ! 俺らが極寒の地でどれだけ血を流して、命を懸けたかも知らねぇ奴が、ノコノコとスープだけ飲みに来るなんてよ? それに俺は……そもそもテメェを信用してねぇ」
「……」
「『美食屋モノク』。突如として現れ、新食材を生み出したかと思えば、その権利をタダで世間にばら撒きやがった。どんな聖人君子か知らねぇが、裏社会で生きてる俺から言わせりゃ、裏にどデカい思惑が隠れてるとしか思えねぇんだよ。周りがどれだけテメェをチヤホヤしようが関係ねぇ。俺は、まだテメェを信じてねぇからな」
マッチが腰の刀に手を添えながら睨みを効かせる。
小松シェフがアワアワと慌てふためき、周りの面々がどう出るべきかと傍観を決めている。
マッチになんと返すのが一番良いか。少し悩んで口を開きかけた、その時だった。
「うっふっふ。若いってえぇのぉ。ギラついとるわ」
その声はとてつもなく穏やかでありながら、やけに鼓膜の奥へと響いた。
いつの間にか、低く腰を折った小柄な老婆——節婆が、俺とマッチの足元の間にスッと立ち、俺たちを見上げていたのだ。
「のわっ!? いつの間に!」
足元を見下ろしたマッチが、ギョッとして足をばたつかせ、たまらず一歩後ずさる。
「じゃが……最初から信用しろとは言わんがのぉ、ハナから疑ってかかるのもどうかと思うじょ」
節乃は、マッチを優しく諭すように見上げた。
「お互いに知らぬことだらけ。ひとまず自己紹介といかんかの。そっちはさっき名乗ってくれたからのう。次はあたしゃたちの番じゃないかえ? それに今日は運の良いことに、極上のスープが待っておる。……同じ釜の飯を食えば、人となりなんぞ嫌でも腹に落ちるもんじゃ。疑うのは、一緒に温かいスープを飲んでからでも遅くはないじゃろう? うっふっふ、あたしゃもう、早く小松くんのスープが飲みとうて飲みとうて我慢できんのじゃ」
その言葉に、マッチは数秒押し黙ったのち、口を開いた。
「……マッチだ。ネルグ街を拠点にグルメヤクザをやってる。こいつらはラム、シン、ルイ。俺の部下たちだ」
ぶっきらぼうな自己紹介。背後に控えていた黒スーツの三人が、無言で少し困りながら会釈する。
それに続くように、滝丸が一歩前に出た。
「僕は滝丸と言います! グルメ
ピリついた空気を変えるように、明るく話す滝丸。
足を引っ張ってばかり……ね。さっきのマッチの言葉を受けて、現場にいなかった俺を気遣ってくれたんだろう。でも、俺は知っている。あんた、めちゃくちゃ活躍してたでしょ。『プリショットルーティン』、クソかっこよくて好きだもん。
「さて、最後はあたしゃの番じゃな。料理人をやっとる節乃じゃ」
節婆は顔をほころばせ、俺の顔をジッと見つめてきた。
「モノク、お前さんの話は『いっちゃん』からよう聞いとるじょ。なんでも、美食屋には珍しい『才』を持っとるそうじゃな」
(よく聞いてる、ね。珍しい才……俺の『食材の声を聞く力』のことだろう)
「どんな若者か、会うのをずっと楽しみにしとったじょー」
節婆が明るく微笑む。
俺は全員を見回し、少しだけ肩の力を抜いて笑った。
「ご丁寧に挨拶、ありがとうございます。改めて、モノクです」
そしてマッチの鋭い視線を真っ直ぐに見返した。
「……マッチさんの言う通りですよ。みんなが極寒のアイスヘルで命を懸けている間、僕は安全な場所で待っていただけだ。そんな奴が、スープが完成した途端にノコノコやって来て相伴にあずかろうって言うんだから、図々しいにも程がある」
俺の言葉に、マッチは眉をピクリと動かした。
「得体の知れない裏があると疑われて当然だ。だから、信用してくれなんて今は言わない……でも」
俺は、マッチの後ろでオドオドしている小松シェフへと視線を移し、フッと笑いかけた。
「友達である小松シェフが、文字通り命を削って完成させた奇跡の料理です。そこに呼んでもらえたからには、自分がどんなに場違いだと分かっていても……這ってでも飲みに来たいじゃん」
もう一度、マッチ、そして滝丸や節婆に向き直る。
「今日のところは、怪しい奴だと思われたままで構わないよ。ただ、一人の『小松シェフの料理を心待ちにしていた客』として……末席で一緒にテーブルを囲ませてもらえないですか?」
モノクが飾らない本音を口にすると、数秒の静寂が落ちた。
やがて、マッチは「……チッ」と短く舌打ちをし、腰の刀から手を離した。
「……調子のいい野郎だ。だがまぁ、その図太い食い意地だけは、どうやら本物らしいな」
「うっふっふ。良い顔じゃ」
節婆がシワを深くして愉快そうに笑うと、後ろで聞いていたトリコが「違いない」とニッと歯を見せて笑った。
◇
「では、みなさん!! さっそく最上階のレストランへ!!」
小松シェフのその弾んだ声を皮切りに、俺たちは連れ立って大型エレベーターに乗り込み、ホテルグルメの最上階へと向かった。
案内された貸し切りの個室には、巨大な円卓が用意されていた。
席に着いてぐるりと見渡せば、総勢十人。前世の記憶をなぞれば、漫画版では八人、アニメ版ではココが加わって九人だったが、俺が加わったことで十人の食卓となっている。
ちなみに、俺の席の右隣はココ、左隣はマッチだった。いまだ鋭い眼光を放つヤクザの若頭の隣という、絶妙に気まずい配置である。
やがて、厨房から戻ってきた小松シェフが、カートに乗せた料理を一人ひとりの目の前へと慎重に運んできた。
俺の目の前にも、銀色のドーム状の蓋が被せられた器が置かれる。
(この銀の蓋、この前小松シェフに聞いたところ『クロッシュ』と言うらしい)
このクロッシュの向こう側に、あの伝説の味が待っている。
高鳴る心臓の音を抑えきれず、俺は自然と居住まいを正し、息を呑んだ。
全員の前に器が並べられ、水を打ったように静まり返った部屋の中で、小松シェフが万感の思いを込めて口を開いた。
「それではみなさま、センチュリースープ……どうぞお召し上がりください!」
小松シェフの言葉を合図に、俺たちは一斉に両手を合わせた。
「「「いただきます!!」」」
そして、目の前のクロッシュの取っ手に手をかけ、一思いにカパッと開け放つ。
——ッ……!!
瞬間、器の中から神々しい光が溢れ出した。
部屋中を包み込むのは、百年の時を煮込んだような重厚さと、どこまでも透き通るような清らかさを併せ持つ、完全なる未知の香り。匂いを嗅いだだけで全身の細胞が歓喜に震え上がり、勝手に涙が溢れそうになる。
そして、見上げれば。
室内であるはずのレストランの天井に、美しく輝く七色の『オーロラ』を鮮やかに描き出していた。
間違いない。これこそが、小松シェフが完成させた奇跡。
伝説の『センチュリースープ』である何よりの証……!!
「おおお! スゲェ! オーロラが出たぁ!!」
「これが本物の……!」
「センチュリースープ!!」
トリコや滝丸たちの感嘆の声が響き渡る。
俺もまた、目の前の光景に言葉を失っていた。
視線を下げて、自分の器の中を見る。
……本当に見えない。完全に透明だ。器にスープがよそわれているのか、目で見ても全くわからない。だが、そっと両手でお皿に触れればじんわりとした温もりが伝わり、銀のスプーンを落とせば確かな抵抗と重み、そして微かな水音が響く。
確かにそこに、スープは存在しているのだ。
(これは……あれだ。原作のあの『語り』の通りだ)
前世で読んだ、あの場面。それが今、自分の実感として五感の全てを満たしていく。
俺は目を閉じ、ゆっくりと動作を重ねながら、頭の中でその言葉をなぞった。
——センチュリースープから立ちのぼるオーロラの美しいゆらめきを、目で楽しみ……
——何十時間も煮込み、適温に保たれたスープの優しい温もりを、手のひらで堪能し……
——数百もの具材が織りなす、繊細な濃厚な香りのハーモニーを、鼻いっぱいに頬張り……
——どこまでも透明で透き通ったスープの上品な音色を、耳で満喫する……
視覚、触覚、嗅覚、聴覚。
その全てが極限まで満たされた今、残るはただ一つ。
そして……この奇跡を完璧に再現してくれた小松シェフに、心からの感謝をしながら——
俺は、掬い上げた透明なスープをゆっくりと口に運び……。
口で、舌で、全身の細胞の全てで、ただひたすらにその味を噛み締め、味わった。
(確か原作で、トリコはこのスープを『噛んじまった』と言っていたな。いくら味が濃厚だからって、本当に噛むのか……?)
そんな前知識があるからこそ、俺は無意識に少し身構えながら、舌の上にスープを乗せた。
その瞬間——
「っ……!」
(……ハハ。普通に噛んじゃったよ)
自分の意思とは裏腹に、顎が勝手に咀嚼運動を始めた。脳が完全にバグを起こしている。液体を飲んだはずなのに、舌が受け取った情報量の多さに、脳が「これは固形物だ」と錯覚してしまったのだ。
圧倒的な『質量』
水のように透き通っているのに、口に含んだ瞬間に爆発する旨味の密度が異常すぎる。トリコが『一瞬ハンバーグステーキを口に入れたのかと思った』と評していたが、今なら痛いほどよくわかる。いや、むしろそう錯覚して当然だろ、これ。
何百種類ものありとあらゆる極上の動植物が、この一杯の中に極限まで凝縮されているのだ。肉の暴力的なまでの強い旨味、魚介の芳醇なエキス、野菜の優しい甘み。それらが一切喧嘩することなく、奇跡的なバランスで溶け合い、とてつもなく分厚い『旨味の塊』となって押し寄せてくるのだから。
そして、その分厚い旨味の層が、一枚、また一枚と口の中で優しく解けていく。
(すごい……なんだこれ。まるで、味覚のタイムカプセルだ……)
太古の昔から、気の遠くなるような時間をかけて氷の中に閉じ込められてきた地球の歴史。それが小松シェフの手によって再生され今、俺の口の中で一気に雪解けを迎え、豊かな春を咲かせている。
遥か昔に忘れてしまっていたような、遺伝子の奥底で眠っていた原始の細胞が、次々と揺り起こされて歓喜の産声を上げていくのがわかった。
数万年という途方もない時を経た古き味でありながら、これ以上ないほどに瑞々しく新鮮。
一口飲んだだけで、全身の血液がスープに染め上げられていくような、圧倒的で暴力的なまでの『満足感』が満ち溢れていく。
これが……センチュリースープか……。
スープを本当に味わえていることへの深い感動を覚えながら、もう一杯を掬おうとしたところで――不意に、頬の筋肉に微かな違和感が走った。
(きたか……。このスープの、もう一つの醍醐味……っ)
目尻が下がり、口角が勝手にググーッと持ち上がっていく。もう自分の意志や表情筋では、どうやっても止められない。細胞の底から湧き上がる圧倒的な美味さと満足感には、絶対に逆らえないのだ。
自然と、顔がとろ~んと、
(ニヤけていくぅ~)
ニタリ~~……
(ここまでニヤけたこと、今まであったかなぁ~? いやぁ~、ないなぁ~)
——前世も含め、彼の人生で経験したことがないレベルの強烈なニヤけ顔。それは、センチュリースープの圧倒的な旨味の前に、すべての理性が幸福感へと溶け落ちた証拠であった。
(あー……とてつもないなぁ~。人生で起きた嫌なこととか、悩みとか、もう今はぜんっぶどうでもよく感じるぅ~)
「わーっ! みんなみだら顔にーっ!!」
シェフとして自分は食べずに皆の様子を見守っていた小松の声が、レストランに響き渡る。
周りを見渡すと、み~んな俺と同じくらいデレッデレにニヤけていた。
ニタ~、ニッコ~、にゃは~、ごにょ~、でぁ~、むみ~。
みんながそれぞれの独特なニヤけ方を見せながら、お互いのマヌケな顔を指差して笑い合っている。
そして、ふと左隣に座るマッチと目が合った。
ついさっきまでの、あの鋭く睨みつけるような恐ろしい眼光はどこへやら。目尻が限界までダルダルに下がりきっている。
「おい、おまえぇ~。やっぱ怪しいんだよぉ~。ホントは何か裏があるんだろぉ~? 答えろぉ~、あっはは~」
マッチがふにゃふにゃになった指で、ニヤニヤと俺を指差しながら聞いてくる。
「えぇ~? 裏なんてないよぉ~。ただ、みんなに美味しいもの、いっぱい食べてほしいだけだもん~。ぜんぜん怪しくないよぉ~」
「ほんとかぁ~? じゃあなんでタダで権利なんか配ったんだよぉ~、えへへ~」
「だって独り占めしても使いきれないじゃん~。そうだ、マッチさんにもたくさん食材持ってきたんだぁ~。子供たちに配ってよぉ~」
「えぇ~? うちの子供たちにぃ~? ……お前ぇ、めっちゃいいやつじゃんかぁ~。わかったぁ~、責任持って配ってやるぅ~」
「わぁい、ありがとぉ~。マッチさん、ヤクザなのにすっごくいい人だぁ~」
「へへぇ~、やめろよぉ~……でもお前ぇ、すっごい変な顔してんぞぉ~、あははは~」
「そっちこそぉ~。若頭がそんな顔してていいのぉ~?」
「いいんだよぉ~、美味いんだからぁ~。どうでもいいよなぁ~」
「うんうん、どうでもいいねぇ~」
「あはは~」
「えへへ~」
——目尻だけでなく、IQもとてつもなく急降下していたのだった。
こうして、グルメヤクザの若頭と抱えていた険悪な空気は、極上のスープと共に跡形もなく溶け去ったのである。
ぽわぽわとした頭でマッチとの和解を終えた俺は、今度は右隣へと体を向けた。
そこには、テーブルに両腕をついて深く突っ伏し、肩を震わせながらも、必死に顔を見せまいと抵抗している男がいた。
「ココぉ~、顔見せなよぉ~」
「うふ……えへ……お、お恥ずかしぃ~……」
——アニメ版において、ココがこの『みだら顔』を正面から晒すことはなかった。それはひとえに、彼のクールで知的というキャラクターイメージを保つためであろう。
だが、そんな大人の事情など、今のモノクが許すはずもなかった。もしココが実食に同席することがあれば、絶対にその顔を拝んでやろうと固く決意していたのだ。なんならココだけでなく、いつかサニー、そしてあのゼブラの『ニタ顔』すらも全コンプリートしてやろうと企んでいるほどである。
「ほらぁ~、さっさと見せなよぉ~。えっへへ~」
モノクは突っ伏したココの肩をガシッと掴み、強引に上へと引き上げる。
あまりの幸福感で全身の筋肉が綻びきっていて全然力が入らないが、それは抵抗するココも同じこと。
ズルズルと引き上げられたココの顔が、ついに露わになる。
「あはは~、ココもすっごい変な顔~」
「あふぅ~……見ないでぇ~」
こうして、分厚いベールに隠されていたココの『ニヤけ顔』を一番特等席で拝むことに成功したモノクであった。
◇
ニヤけ顔まみれの幸せな空間。
小松シェフもみんなの顔を見て笑う。
最高に温かい食卓だった。
そんな中、スープを平らげたトリコが、ふと真剣な顔つきで小松シェフに向き直った。
「小松! この『センチュリースープ』俺のフルコースに入れていいか?」
その言葉に、小松シェフの目が大きく見開かれる。
俺たち全員も、深く頷きながら賛成の意を示した。
「こんなにうめぇスープ!! 初めて飲んだよ!!」
トリコが満面の笑みでそう告げると、小松シェフの目から大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
シェフとして、美食屋からのこれ以上ない最高の賛辞。小松シェフは泣きじゃくりながらも、「スープ飲め! スープ!」という野次で自らが作り上げた透明なスープを一口飲み——
「えへへ……うぇっ、ひぐっ……えへへぇ~……」
大号泣しながらも、やっぱりスープの美味さに抗えずにニヤけてしまうという、とんでもなく変な顔になっていた。その泣き笑いの顔を見て、またみんなでドッと笑い合う。
その後、小松シェフは涙を拭いながら、力強い声で宣言する。
このセンチュリースープの『レシピ』は、公開しないと。
理由は二つ。一つは、スープの鍵となる食材『ウォールペンギン』の乱獲を防ぎ、生態系を危惧してのこと。
そしてもう一つは——このスープが、トリコのフルコースの一品に決まったから。
「誰にいくら積まれようと、このレシピは僕が一生守り抜きます!」
「……ありがとうよ、小松」
固く結ばれた料理人と美食屋の絆。
こうして、トリコのフルコースメニューの『スープ』の枠に、小松シェフの『センチュリースープ』がガチッと完璧な形でハマったのだった。
「それじゃあ、乾杯だぁあああ!!」
再びグラスが合わされ、オーロラの下で笑い声が弾ける。
底知れない美味さと温かな喜びに満ちたこの幸せな宴は、朝までずっとずっと続いたのだった。
◇
窓の外が白み始め、朝日が差し込む。
大量に作られていたセンチュリースープもついに鍋の底を突き、皆が最後の一滴まで惜しむように飲み干した。
極限まで緩みきっていた『みだら顔』も、完飲した順にゆっくりと元に戻っていく。誰が言うでもなく、自然とこの幸福な宴が終わりを迎えたのだと悟った。
「「「ごちそうさまでした」」」
全員で静かに両手を合わせ、小松シェフとスープへ向けて、尽きせぬ感謝を捧げた。
ホテルグルメのエントランス。
昨日あれだけ群がっていた記者たちの姿はすでになかった。さすがに徹夜で朝まで粘り続けることはできなかったらしい。
静かになったロビーで、全員がそれぞれ一通り別れの挨拶を交わす。
俺は、帰り支度を終えたマッチさんたちに、持参していた新食材を大量に手渡した。
「……フン。これを受け取ったからって、まだテメェを完全に信じきったわけじゃねぇからな?」
「うん、わかってるよ」
「ま、まぁ……食材はありがたく貰っておく。ネルグ街のガキどもも喜ぶだろうよ」
「うん。お腹いっぱい食べさせてあげてね」
マッチさんは鼻を鳴らすと、さっと後ろを向き、革靴の音をコツコツと響かせて歩き出した。その後ろ姿を見送っていると、背後から肩に手を置かれる。振り返るとサムズアップしたサングラス三人衆。
「マッチさん、ああは言ってるが、兄ちゃんのこと信頼したと思うぜ?」
「全くだ。たった一日でマッチさんを落とすたぁ、あのスープがスゲェのか、アンタがスゲェのか」
「大量の食材、ありがとな! 素直じゃねぇマッチさんの代わりに、俺たちが礼を言っとくぜ!」
三人が代わる代わる笑いかけてきた。
(この人たち、結構フレンドリーだよなぁ)
とそんなことを考えていると、
「おい! オメェら! 置いてくぞ!!」
遠くのエントランスの扉付近から、マッチの鋭い怒号が飛んできた。
「「「へ、へい!!」」」
三人はビクッと肩を跳ねさせ、慌てて駆け出していく。
「んじゃまたな! 兄ちゃん!」
「あ、うん、またね! 気をつけて帰って!」
手を振ってヤーさんたちを見送ると、今度は入れ替わるように滝丸が歩み寄ってきた。
「今日はありがとうございました。……最初は、得体の知れない方だと思っていましたが、共に食卓を囲み、確信しました。モノクさんは、裏表のない心を持った方だと」
「ちょっと照れるけど……グルメ
「グルメ
「あはは、凄い圧だ。でも、滝丸さんはもう完璧なグルメ
「あ、あれは忘れてください!! 僕がスープに当てられてる時に、モノクさんが変にルーティンコールなんかするから……!」
「ルーティン…ルーティン…」
「もう絶対にやりません!!」
真っ赤になってキッパリと言い放つ滝丸。数秒後、俺たちは耐えきれずにお互い吹き出して笑い合った。
「では、僕もそろそろ帰ります。リーダーの愛丸さんに、何がなんでも特効薬を飲ませなきゃいけないので」
「大丈夫、きっと飲んでくれるよ。……あ、トリコから伝言頼まれたでしょ? それ伝えれば一発だよ」
「一発、ですか……中々突飛な内容でしたけど……」
「大丈夫! 絶対大丈夫!」
「だといいんですが……」
トリコが頼んだ伝言は、『近々GODが現れる』だ。
すべての食材の頂点に立つ『GOD』の復活。これを活力に、愛丸は生きることを選ぶだろう。じゃなきゃ、この先の展開で困る。
(……そうだ。せっかく愛丸の元へ帰るなら、俺にとっても丁度いい機会かもしれないな)
「滝丸さん、ごめん。ついでに僕からも一つ、愛丸さんへの伝言をお願いしていいかな?」
「え? モノクさんからですか? モノクさん、愛丸さんとお知り合いだったんですか?」
「あーいや、全然知り合いじゃないんだけど。伝言というか、質問っていうか、半分お願い混じりなんだけど……」
「は、はぁ……」
俺のフワフワした物言いに、滝丸が困惑気味に首を傾げる。
「愛丸さんって『病』を食べられるんだよね? ちょっとアバウトなんだけど……例えば『菌』を用いた暗技で人が洗脳された場合、その菌を食べて洗脳を解くことは可能かな? あ、あと、その人に菌や病があるかどうかって、どうやって確認してる? 触れれば確認できるのかな? ……少し変な質問になっちゃうんだけど、機会があったら尋ねてみてくれないかな」
俺の言葉に、滝丸は一瞬目を丸くした。
「な、なんだか不思議な内容でありながら、妙に具体的な質問ですね……? ですが、わざわざ頼むということは、必要になる情報なんですね。わかりました! 一言一句間違えずに伝えます!」
「本当にありがとう。でも愛丸さんの治療が最優先だから、全然急ぎじゃないんだ。返事はまた今度、縁があって再会した時で構わないからさ」
「はい! それでは、僕はこれで!」
滝丸は深く、しっかりとしたお辞儀をしてから、真っ直ぐな足取りで去っていった。
その真面目な背中を見送った後、俺はふうっと一つ息を吐き出した。
(よし……これでひとまずはいいだろう。あとは帰って、留守番させてるチビやリーガルママにスープを飲ませたいなぁ。寝てないし、泥のように眠るのもいいな……あ、メルクにもスープ持っていってあげよ)
そんな風に、帰ってからの予定をぼんやりと考えながらロビーの天井を見上げていた時だった。
「おーい、モノク」
ふいに背後から声がかかり、振り返る。
そこには、すっかり帰り支度を整えた鉄平が立っていた。
「じゃあなモノク。俺も帰るぜ」
みんなと話し終えたんだろう。最後に残った俺の前にやってきた。
「あ、うん。あれ、二人も?」
鉄平の背後を見ると、トリコと小松シェフも帰り支度を整えていた。トリコが片手に持ったグルメケースを掲げて見せてくる。中は
「おうモノク! サニーと与作にスープ届けに、俺たちもこれからライフに向かうんだ」
「はい! トリコさんの腕を治してくれた与作さんに、改めて直接お礼も言いたいですし!」
(そういえば、二人がライフにスープを届けに行くシーンあったな。サニーは『みだら顔』になりたくなくて結局飲まなかったんだっけ。……今度会ったら、絶対に飲ませてあの顔を拝んでやろう)
「なるほどね。んじゃ、今日は最高の宴をありがとう。気をつけてね、サニーと与作さんにもよろしく!」
「おう! また美味いもん一緒に食おうぜ!」
「モノクさんもお気をつけて! また連絡しますね!」
手を振る二人に笑顔で返し、鉄平も含めた三人がロビーを歩いていくのを見送る。
(……あ、やべ。鉄平に聞きたいことがあるんだった)
「鉄平ごめん! ちょっと待って!」
俺は慌てて駆け寄り、鉄平の背中を呼び止めた。
「なんだなんだ、どうした?」
「鉄平に聞きたいことがあるんだった。ちょっと、唐突すぎる質問なんだけどいい?」
「ん? あぁ、別にいいぜ」
嫌な顔一つせず、笑顔で応えてくれる鉄平。優しい。
「もし洗脳されそうになったらどうする?」
「いくらなんでも唐突すぎるだろ、おい……」
俺の直球すぎる問いかけに、鉄平は呆れたような表情に変わる。
「いやー、今のうちに聞いておきたくてさー……」
「今のうちに聞いておく内容なのかそれ……。まぁそうだな……洗脳? かぁ。されるってなったら、俺なら急いで自分の脳みそをノッキングするだろうな。間に合えば防げる」
「うわなにそれ、やば」
(脳みそをノッキングって……それやって大丈夫なやつ?)
「おいおい、自分から聞いといて引くなよ?」
「引いてない引いてない。……あ、でもそれってさ、例えば脳みそに干渉するんじゃなくて、グルメ細胞伝いの洗脳だとしても防げるの?」
(『アイツ』の洗脳は、確かグルメ細胞に直接傷をつけて書き換えるようなエグい手法だったはずなんだけど、脳みそノッキングで防げるんだろうか。先の展開の四獣編で鉄平は『アイツ』に洗脳されたはずなんだが、その後洗脳を解く描写もなく、ふつーに味方側だった。あれは洗脳自体を最初から防いでいたのか、どっかのタイミングで洗脳が解けたのか……。鉄平がNEO側に潜入するのは必須だから結構重要なんだよなこれ……)
モノクのそのさらに核心を突いた変な質問に、鉄平は特にツッコむことはなく、今度は腕を組んで真面目に考え込み始めた。唐突さよりも対処法を考える気持ちの方が勝ったんだろう。
「グルメ細胞に……? そんな手法、聞いたことは無いが……いや、それなら脳をノッキングしても防げないな。直接グルメ細胞に干渉されちゃあ、元も子もない」
「じゃあ、防げない?」
「んー……まぁ、相手が俺より格上なら、防ぎ切るのは不可能だろうな。そうなったら、グルメ細胞そのものをノッキングして賭けるしかない」
(脳みそだのグルメ細胞だの……そんな簡単にノッキングって……とんでもない才能だな。さすがは次期ノッキングマスター)
「そっか。じゃあ一応、対処法は脳の時と一緒なんだね」
俺が納得してそう言うと、鉄平は静かに首を振った。
「いや、厳密には一緒じゃない」
「え、違うの?」
「あぁ。脳をノッキングするのは、洗脳される『前』だ。それで防げる。だが、グルメ細胞をいじってくるような格上が相手じゃ、『前』に防ごうとしても意味がないだろうな。だから細胞の場合は……洗脳された『後』に遅延型のノッキングをあらかじめ仕込んでおくんだ」
「後なの? 洗脳されちゃってるのに、それって防げてる?」
「防げてはいないな。まぁ、詳しく話すと長くなるんだが……簡単に言えば、洗脳された状態ごと、ノッキングで無理やり固めちまうんだ。そうすりゃ、そのノッキングが解けた時に、結びついてた洗脳も一緒に解ける……はずだ。一か八かの賭けにはなるが、俺のノッキングを解いてくれる人間がいれば、洗脳もすぐ解けるってつー、俺なりの考えだが……そもそもそんなの経験したことねぇし、実際に試してみねぇとわかんねぇよー!」
鉄平は思考するのをパタリと諦めたように両手を後頭部で組み、一気に真面目な空気を崩した。
(うーん、ノッキングが解ける時の衝撃を利用して洗脳も一緒に飛ばす、みたいな感じだろうか。ノッキングの知識が無さすぎて全然わからないけど……)
「あはは。変な質問だったのに、真面目に答えてくれてありがとう。長く引き止めてごめん。ま、機会があれば試してみてよ。またね」
「そんな機会ねぇよ……全く……。またな」
やれやれといった様子でひらひらと手を振って去っていく鉄平の背中を、俺は感謝と共に見送った。
彼らが出ていくと、ガヤガヤと賑やかだったホテルグルメの広大なエントランスは、すっかり静まり返ってしまった。
残っているのは——
ふと視線を巡らせると、少し離れたラウンジ付近に、二つの人影があった。
ココと、節婆だ。
二人は穏やかな朝の光に包まれながら、何か静かに言葉を交わしている。
(そういえば、節婆とは自己紹介の時以外、ゆっくり話す機会がなかったな。ニタニタしながら一緒に盆踊りはしたが……)
俺はスーツの襟元を軽く直し、別れの挨拶をするために、二人が談笑している輪の方へと自然な足取りで近づいていった。
距離が縮まるにつれて、二人の会話が少しずつ耳に届き始める。
「……ゼ……、……じゃ……」
「……いえ……」
まだはっきりとは聞こえない。さらに数歩、近づく。
「……似合……がのぉ……」
「……だから……ですよ……」
なんの話だろうか。そしてもう少し距離を詰めた時、ようやくその内容が明確に聞き取れた。
「だからココ、お前さんも『リーゼント』、やらんかのぉ?」
「……ですから、何度言われてもやりませんよ」
(リーゼント……。節婆、自分の大好きな次郎のトレードマークをココに推してたのかあぁ……)
これ以上近づいたら、間違いなく俺にも飛び火しそうだな。
直感でそう悟った俺は「この会話には入らない方がいいかもしれない」と、ピタリと歩みを止めて引き返そうとした。
だが、国宝のレーダーは俺の気配などとうに察知していた。
「うっふっふ、モノク。お前さんは少し長めの髪じゃから、立派なのが作りやすそうじゃの。ちょっと頭を貸してみ」
「いや結構です」
俺は振り返るなり、食い気味にきっぱりと断った。
「なんじゃ。最近の若いもんはノリが悪いのう……」
つまらなそうに唇を尖らせる節婆。そのリアクションにココが、困ったように小さくボソッと呟いた。
「……ノリの問題ではなく、単にその髪型の需要が現代にないだけだと思いますがね……」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、節婆の背中から、あの『凄み』が膨れ上がった。
「な に か 言 う た か ?」
振り向いた節婆の顔は、あの伝説の『しまいなさい…』顔だった。こっわ。
「……いえなにも、キッスの鳴き声かな……」
ココは一瞬だけビクッと肩を揺らすと、スッと姿勢を正して視線を逸らした。
「そうかそうか、あの小鳥の鳴き声か。おかしいのう、姿が見えぬが……」
節婆がジリッと距離を詰める。
「あ、モノク! 君はこの後どうするんだい? 僕は会長に顔を出そうと思っているけど!」
逃げるように、かつてないほどの早口で俺に話を振ってくるココ。
「え!? あー! 僕は忙しいな! うん、とにかく忙しい!」
「そうか! 君も大変だね!」
二人して冷や汗をかきながら、勢いだけで強引にその場を誤魔化そうとする。
すると。
「うっふっふっふ、冗談じゃよ。二人揃ってそんな必死な顔しおって。からかい甲斐があるのう」
節婆は纏っていた重圧をフッと霧散させ、心底愉快そうにシワを寄せてコロコロと笑い声を上げた。
「ま、それじゃ、あたしゃもう行くじょ。今日はありがとの」
そしてクルリと背を向け、小気味よい足取りで歩き出す。
「ココ、それにモノク。お前さんたちには期待しとるからのー」
遠ざかる小さな背中。歩みを進めながら、後ろ手に組まれていた片手がひょいと持ち上がり、俺たちへ向けてひらひらと軽く揺れた。
その飄々とした佇まいの中には、美食人間国宝としての底知れない大きさと、次世代を想う深い愛情が確かに滲み出ていた。
「全く……本当に『食えない』婆さんだよ」
遠ざかる背中を見送りながら、困ったように笑うココ。
「あはは。でも、節乃さんとは付き合いが長いんでしょ?」
「あぁ。僕たちがまだ会長に面倒を見てもらってた、幼少期の頃からだね。よく美味しい料理を作ってもらってたよ。今思えばとんでもない贅沢なことさ。小さい頃から、美食人間国宝の料理をお腹いっぱい食べられるなんてね」
「羨ましいねー。僕はまだ節乃さんの料理食べたことないし。今のうちに予約入れとかないとかな? どんどん待つことになるよね」
(節乃食堂。確か10年先まで予約が埋まってるはず……ほぼ身内のトリコでさえ、多少の融通はあったもののめっちゃ待ってたはずだし……)
「そうだね。この先どんどん予約が詰まっていくだろう。今は10年待ちだと言うけれど、そのうち20年待ちとか行くんじゃないかな」
「うわー、まぁそうだよね。早めに予約しよ」
そんな雑談を交わしながら、俺たちは連れ立ってホテルグルメのエントランスを出た。
すると、上空から巨大なエンペラークロウの『キッス』が、バサァッと広場へと舞い降りてきた。
ココはキッスの大きな背中を撫でながら、俺へと向き直る。
「さて、僕もそろそろ行くよ。あまり遅い時間に会長を訪ねるのも悪いしね」
「うん、今日は楽しかったよ。またどこかでね」
「あぁ。……でも、またすぐ会うことになるかもしれないけどね」
「え?」
(僕の占いでは、そう遠くない先で彼との『再会』のオーラが出ている。しかも、第一ビオトープでエンカウントした前よりも濃い。軽く会うだけじゃ済まなそうだな……)
ココは内心の思惑を隠したまま、ふっと口角を上げて穏やかな微笑を浮かべた。
そして、ふわりと身軽な動作でキッスの背に跨る。
「……君のオーラは中々異質だ。会うたびにテイストが変わるさながら千変万化……次に会う時が本当に楽しみだよ……またね、モノク」
「あ、うん。またね」
力強い羽音を響かせ、キッスが朝焼けの空へと飛び立っていく。
あっという間に小さくなっていくその影を見上げながら、俺は一人、小さく息を吐いた。
(いちいち言い回しカッコいいよな……。ココのセリフ回し、結構好きなんだ。『美食の世界も日進月歩』とかさ)
そんな風に一人静かに余韻に浸りながら、俺はようやく、最高に濃密だった宴の幕引きを実感したのだった。
が……。
俺も帰ろうと歩みを進めた、その時だった。
奥の広場の方から、とてつもない勢いで土煙が上がっているのが見えた。な、なんだ?
砂埃の中心に目を凝らすと、後ろで手を組み腰を折る自然な年寄りの体勢でありながら、とてつもないスピードでこちらへ駆けてくる小柄な老婆の姿があった。
「せ、せつば……! じゃなくて、節乃さん!?」
「べつに節婆でええじょ」
あっという間に俺の目の前まで到達し、ピタリと止まった節婆。猛ダッシュしてきたはずなのに、全く息を切らした様子もない。
「ど、どうしたんですか? そんな超スピードで戻ってきて……」
「いやー、お前さんに聞きたいことがあったんじゃがの。すっかり聞くのを忘れとったわ。あたしゃもいよいよボケたかのう……」
「僕に聞きたいこと、ですか……?」
(節婆が、俺に聞きたいこと? なんだろう……)
「んー、モノク。お前さんの作った新食材の『ウィスキぃ茸』、あるじゃろ? あれをうちの
「え、そ、そんなにですか? 伝説のノッキングマスターと国宝の料理人にそこまで気に入ってもらえて嬉しいです」
「うっふっふ。何をおだておって。そんな風にニコニコしても何も出んじょ」
「あはは。それで、ウィスキぃ茸で聞きたいことがあるんですか?」
俺が首を傾げると、節婆の纏う空気が微かに、しかし決定的に変わった。
「うむ。聞きたいのはここからじゃ。お前さんが公表したウィスキぃ茸の栽培法……公表してない手順は無いかの?」
「え?」
節婆の顔が、ジリッと俺に迫る。
「いやの、
顔がどんどん迫る。もの凄い、とてつもない圧だ。だが、その瞳の奥にあるのはパートナーへの深い愛情。
「た、たしかに公表してない手順はありますけど! べ、別に隠してるわけじゃなくて! 面倒だし、比較的誰でも量産できるように簡略化したというか……!」
俺が慌てて弁解すると、節婆はピタリと顔を止めた。
「やはり本来の製造法とは違うか。じゃが、隠しとったわけではないと……」
「はい。隠してはないので別に全然教えますよ。例えば、プランターや菌床ブロックを使用しての栽培する方法で公表しましたけど、実際は原木の切り株をそのまま使用した方がいいです。キノコも環境に馴染みやすいし」
俺の言葉に、節婆は少し顎を撫でた。
「ほう、なるほどのう。現代では原木での栽培はあまり用いられんからのぉ」
「はい。原木を使用するとなると中々手が出せない人たちも出てくると思って。あとは中に注ぐウィスキーは、温度も多少変えたほうが実はいいです」
「ほう、温度とな?」
「はい。お湯割りにしてホットウィスキーのように注いだり、逆にキリッと冷やしたり……人と同じように、キノコ菌にも好みの温度があったりするみたいで。常温をめちゃくちゃ嫌がるわけじゃないですけどね。一般で栽培するにあたっては管理を統一した方がいいと思って、『常温』がいいかって」
「ふむ、好みか……本当に食材の声を聞けとるか……同じ世代に二人も聞けるものがおるとは……」
深く感心したように頷く節婆。
なんだかんだ真心込めて作っている食材だ。語り出したら止まらない。
「あとは切り株の栓の部分ですね。ただのプラスチックとかの栓でもいいっちゃいいけど、できれば切り株の木材をそのまま使用して、天然のコルクのようにした方がいいです。そのコルクの内側部分を軽く炙っておくと内部がスモーキーになって、それがキノコ菌の増殖を促進するみたいで。それに香りも立ちます。風味が足りないのはこれが原因かも、です」
「ふむふむ、驚いたのう……そこまで食材と緻密に対話しておるとは……」
(そこまで食材が詳しく己の好みを教えてくれるとは、よほど食材に信頼されておるようじゃな……! 食材が自ら、共に美味しくされることを望むか。なんとまぁ、愛に溢れた子。いっちゃんや……とんでもない子がおったもんじゃな。そりゃあ、あたしゃに会うたびに嬉しそうに自慢してくるわけじゃ……)
「詳しく聞かせてくれてありがとのう。これで
節婆は心底嬉しそうに、シワの奥の目を細めて微笑んだ。
「美食人間国宝のお役に立てたならよかったですよ」
「うっふっふ、そんな肩書き気にせんで良い。しかし、なにかお礼をせんと」
「え? いやいや、そんなお礼を受けるほどの内容じ——」
「そうじゃなぁ、あたしゃの食堂で好きなだけご馳走する、とかどうかの?」
「……!!」
(せ、節乃食堂で好きなだけ……!? い、いいの……!?)
先ほどココと「今は10年待ち」だと話したばかりの、あの超絶予約困難店。そこで節婆の手料理を好きなだけ食べられる!? あまりの提案に、脳内で盛大なファンファーレが鳴り響く。
「まぁ店は予約でいっぱいじゃからぁ……店を閉めた後ならいつでもご馳走するじょ? あ、無理にとは言わ——」
「是非とも行かせてください」
食い気味で、俺は深々と頭を下げて即答した。
こうして俺は、奇跡とも言える『節乃食堂フリーパス1回分』を手に入れたのだった。
実食メンバー、リンを完全に忘れてました。
結局鉄平は洗脳されてたのかされてなかったのか、どう解釈すれば……