非課税少女ミミカ   作:税の作文

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第1話 魔法少女にも所得税がかかるらしい

 君たちは、魔法少女にも所得税がかかるかどうか考えたことがあるだろうか。

 ないよな。俺もない。

 というか魔法少女なんて普通は現実に存在しないんだから、架空の存在に所得税も何もないだろって話なんだけど。

 

 かかるらしい。

 

 俺がそれを知ったのは、美少女になって3日目のこと。正確には、白くて丸い妖精から魔法少女にならないかと勧誘されて、膝の上に置かれた契約書の報酬欄を読んでいたときなんだけどさ。

 

 魔法少女。所得税。業務委託契約書。

 

 この3つを同時に見る日が人生にあるとは思わなかった。

 

 しかも今の俺、見た目だけなら13、14歳くらいの女の子だからね。膝は細い、手は小さい、ちょっと前屈みになれば肩まである髪が契約書へ落ちてくる。そこに入っている中身が35歳の元工場勤務男性なんだから、もう何から説明すればいいのか分からない。

 

 なので、まあ順番に話そう。

 

 まず一番大事なことから言うと――腰が痛くない。

 

 いや、そこ? って思うだろ。

 そこなんだよ。

 少女になって最初に感動したのがそこだった。

 

 いや、美少女になったことにも驚いたよ? 声は高いし、肌なんてびっくりするくらい綺麗だし、鏡を見た瞬間なんて「知らない女の子がいる!」と思って反射的に頭を下げた。

 向こうも同時に頭を下げた。

 そこで鏡だと気づいた。

 

 寝起きだったことを考慮してもひどい。35年生きてきて鏡に謝ったのは初めてだった。

 

 でも、それ以上に衝撃だったのが腰。

 

 朝起きて、いつもの癖でちょっと身構えながら身体を起こしたら、何も来ない。「あれ?」と思って一回横になって、もう一度起き上がってみた。それでも痛くない。

 いや、すごくない?

 若い身体って、朝起きるだけで腰が痛くならないらしい。

 

 TSして最初に感動するポイントがそこなのはどうなんだ、とは俺も思う。でも35歳だった俺にとっては、美少女の顔面より先に感動するくらい重要だった。

 

 前世では設備オペレーターとして工場で働いていた。

 

 別に地獄みたいな工場じゃない。極端な重労働でもなかったし、上司が毎朝怒鳴り散らすような職場でもない。普通に夜勤があって、普通に立ち仕事があって、人が足りない日は普通に疲れる。

 そういう職場。

 つまり俺も、ごく普通の社会人だったってこと。

 

 給料日になったら通帳を見る。そこから奨学金、家賃、光熱費、通信費が順番に消えていって、残った金で飯を食い、たまにアニメの円盤とかゲームを買う。

 

 欲しいものが2つあったら両方買うなんて贅沢はせず、レビューを3日くらい読み込んで、最終的に1つだけ選ぶ。

 

 そういう35歳だった。

 

 夢がない?

 社会人なんてだいたいそんなもんだと思う。

 

 最後の記憶だって別に大したものじゃない。

 

 夜勤が終わって、家に帰る途中だった。横断歩道を渡っていたら、横からやたら強い光が見えた。

 そこから先はない。

 

 トラックだったのか車だったのかも覚えてない。まあ、状況的に死んだんだろう。

 

 で、次に目を覚ましたら美少女になっていた。

 

 転生って、もう少し神様とか出てくるものだと思ってたんだけどね。

 俺の場合、説明なし。チュートリアルなし。気づいたら女の子。

 不親切にもほどがある。

 

 机の上にあった学生証によれば、今の名前はミミカ。14歳。

 顔は文句のつけようがないくらい可愛い。身体は軽い。肩も凝ってない。腰も痛くない。

 

 そして何より、奨学金の返済通知が来ない。

 

 転生して初めて「死ぬのも悪いことばかりじゃないな」と思いかけて、さすがにそれは違うだろと自分で止めた。

 

 もちろん、死んだことについて何も思わないわけじゃない。

 親とか、前世で途中だったゲームとか、会社のロッカーに入れっぱなしの私物とか、使われることがなかった愛しい息子とか、考え始めると色々ある。

 

 でも3日目ともなると、腹は減るし、髪は邪魔だし、スマホの充電も減る。トイレにも行く。

 人間、人生最大級の混乱でも24時間ぶっ続けでは維持できないらしい。

 

 なので俺は、とりあえず今の生活を把握することにした。部屋とスマホと冷蔵庫を順番に調べて、ついでに賞味期限まで確認する。

 

 転生直後にやることとして正しいのかは知らない。でも牛乳の賞味期限は異世界転生より待ってくれない。

 

 元のミミカに関する記憶は少し曖昧だった。ただ、日常生活に必要なことはなんとなく分かる。学校の場所も知っているし、スマホのロックも解除できる。

 便利。

 

 そしてこの世界、前世の日本とかなり似ていた。

 

 コンビニがある。電車がある。スマホがある。消費税もある。

 動画サイトを開けば猫が段ボールに入っている。

 

 ものすごい安心感だった。

 

 猫は世界を越えても段ボールに入る。

 人類の文明がどこまで変わろうと、ここだけは普遍なのかもしれない。

 

 まあ、当然ながら違うところもある。

 

 ニュースを開く。

『昨夜発生した怪異は、魔法少女2名により討伐されました』

 天気予報を見る。

『本日の怪異警戒レベルは2です』

 駅の案内を見る。

『怪異発生時は係員の指示に従って避難してください』

 

 ……魔法少女、普通にいる~。

 

 しかも別に正体を隠して人知れず戦ってるとかじゃない。公的に存在していた。

 オタクとしてはかなり興味深い。めちゃくちゃ見てみたい。

 

 当事者にならない範囲で。

 

 俺は怪異発生マップを開き、自宅から2駅先に赤い出現履歴を見つけて、そっと閉じた。

 

 こういうのは画面越しに見るから面白いんだよ。

 自宅から2駅って分かった瞬間、ジャンルがファンタジーから防災情報に変わる。

 

 そんな感じで迎えた3日目の朝。

 

 部屋の空気でも入れ替えるか、と窓を開けた瞬間だった。

 白い何かが飛び込んできた。

 

「おはよう、ミミカ!」

 

 白い毛。長い耳。背中に小さな羽。首元には赤いリボン。

 うん。

 知ってる。こういう見た目のやつ。

 

 魔法少女作品に詳しくなくても、1回くらい契約内容を確認してから話を進めた方がいいタイプの見た目をしている。

 

 いや、別に見た目だけで悪者扱いするつもりはないよ?

 実際、そいつはちゃんと開いている窓から入ってきたし、机に着地する前には足の汚れまで払っていた。

 

 礼儀正しい。

 だから信用するかというと、それは別。

 礼儀と安全性に因果関係はない。

 

「初めまして! ボクはココ。魔法少女の活動をサポートしてる妖精だよ!」

「やっぱりそっちか」

「やっぱり?」

「こっちの話」

 

 ココは不思議そうに首を傾げた。

 

 かわいい。耳がぴこっと動いた。本物なので作画崩壊もしない。

 すごい。

 だからこそ怖い。

 

「ミミカには、とっても高い魔法適性があるんだ。そこでお願いがあって来たの!」

「帰ってもらっていい?」

「まだ何も言ってないよ!?」

「だいたい分かったから」

 

 ココが頬を膨らませる。

 

 たぶん、普通ならここで「かわいい!」ってなるところなんだと思う。実際かわいい。

 

 でも前世の俺は、新しく入った設備の営業担当が満面の笑みで「操作は簡単です!」と言った翌月、その設備が1日に3回止まった経験がある。

 

 笑顔で説明されると逆に警戒する身体になっていた。

 社会人の悲しい習性である。

 

 俺が黙っていると、ココは気を取り直したらしい。小さな両手をぱっと広げる。

 

「ミミカ、魔法少女にならない?」

 

 来た。

 

 人生で1度は言われてみたい台詞ランキングなら、かなり上位。

 前世の俺だって、深夜アニメを見ながら「俺にも魔法少女の適性とかあったらなぁ」くらいは考えたことがある。

 まあ男だったけど。

 

 ところが、実際にその台詞を向けられて最初に俺の口から出たのは、

 

「何をする仕事?」

 

 だった。

 

 夢がない?

 35歳は夢だけで契約しないんだよ。

 

 ココの耳がぴたりと止まった。

 

「……魔法少女だよ?」

「それは職種名だろ。業務内容を聞いてる」

「怪異と戦って、街のみんなを守るんだ!」

「なるほど」

 

 抽象的。

 

 求人広告でいうところの「人々の暮らしを支える、やりがいのある仕事です」くらい抽象的。

 

「具体的には?」

「怪異が発生したらボクたちが通知するから、現場に向かって討伐してもらうの。討伐後にも少し処理があるけど、その辺は慣れてから説明するね」

「新人教育を段階的にする気はあるんだな」

「もちろん!」

 

 よし。評価プラス1点。

 

「勤務時間は?」

「決まってないよ。怪異がいつ出るか分からないから」

「夜中でも?」

「出たら通知はするよ!」

「それ24時間待機って言わない?」

「待機しなくていいよ? 寝てても大丈夫!」

「寝てる人間に通知飛ばすことを一般に起こすっていうんだよ!」

 

 とはいえ、詳しく聞くと出動自体は強制じゃないらしい。無理なときは断っていいし、近くに別の魔法少女がいれば、そちらに要請が回る。

 

 お。

 思ったよりまとも。

 

 俺はてっきり「世界の平和のために私生活を捨ててください!」くらいのテンションで来るのかと思っていた。

 

 どうも前世で摂取した作品群が偏っている。

 参考資料としてはかなり怪しい。

 

「報酬は?」

 

 ココが目を丸くした。

 

「報酬、気になる?」

「働くんだから気になるだろ」

「でも、みんなを守れるんだよ?」

「いや、それとこれとは別だからな」

 

 ここは大事なので言っておきたい。

 

 人助けなんだから金を求めるのは卑しい、みたいな話を始めるとろくなことにならない。無償で働くことを前提に制度を作ったら、最後まで残るのは金に余裕がある人間か、生活を削って無理する人間だ。

 

「難しいこと言うね、ミミカ」

「俺も途中から何の話してるのか分からなくなった」

 

 別に俺は労働問題の専門家じゃない。工場で機械動かしてただけ。

 でも、働いたら金をもらう。

 そこくらいは知っている。

 

 ココの説明によると、怪異を倒した魔法少女には活動実績に応じて報酬が入るらしい。固定給ではない。倒した分だけ。

 要するに歩合制。

 

 怪異が出なければ収入も減る。でも怪異は出ない方が世の中的には正しい。

 

 ……この仕事、利益と社会平和が完全に反比例してるな?

 

「その報酬って、そのまま受け取れるの?」

「ううん。原則として所得になるから、金額によっては申告して税金を納める必要があるよ」

 

 はい。

 ここで冒頭に戻ります。

 

 魔法少女にも所得税がかかるらしい。

 

 急に現実へ引き戻すな。

 

 怪異。魔法。変身。必殺技。所得税。

 最後だけ役所の蛍光灯みたいな色をしている。

 

「魔法少女って確定申告するの?」

「する子もいるよ!」

「夢が死ぬ情報をそんな笑顔で出すな」

「夢だけじゃ生活できないからね!」

 

 こいつ、俺より現実見えてない?

 なら話は早い。

 

「雇用形態は?」

 

 ココがぱちぱちと瞬きをした。

 

「こようけいたい?」

「俺は誰かに雇われるのか。それとも別の形?」

「ああ! それなら雇用じゃないよ。魔法少女として活動するには登録と契約が必要なんだ。立場としては業務委託に近いかな!」

 

 業務委託。

 

 その4文字だけで、俺の頭の中にあったキラキラした魔法少女世界が前世の事務所へ強制送還された。

 

 契約。

 契約書。

 

 そういえば前世の上司にも言われたな。

 契約書はちゃんと読め。分からないことは聞け。口頭で「大丈夫」と言われても、書面にないなら大丈夫じゃない。

 

 あの上司が言っていたことの中では、珍しく何の疑いもなく正しい。

 

「見せて」

「何を?」

「契約書」

 

 ココが数秒固まった。

 次の瞬間、目をきらきらさせる。

 

「契約する気になってくれたんだね!」

「違う。読んでから決めるって言ってる」

 

 契約というのはそういうものだ。

 たぶん。

 

 ココが空中でくるりと回る。

 白い光が集まったと思ったら、俺の膝の上に10数枚の書類が出現した。

 

 厚い。

 おい。

 

 変身シーンより長そうだぞ。

 

 表紙には、

『特殊魔法活動契約書』

 と印刷されている。

 

 魔法少女の契約書なのに、タイトルだけ見ると資格試験の参考書みたいだった。

 

 俺は1枚目から読む。

 登録者の役割。怪異発生時の連絡。活動記録。守秘義務。報酬。契約解除。

 

 専門用語はそれなりにあるけど、読めないほどじゃない。前世でも機械の取扱説明書とか作業標準書とか読まされたからね。

 面白さで言えば互角。

 つまり全然面白くない。

 

 ページをめくる。

 

【未成年者の活動登録について】

【緊急時は本人同意により仮登録可能】

【72時間以内に登録保護者の確認が得られない場合、活動資格を停止する】

 

「……未成年でも本人だけで契約できるのか?」

「緊急時は仮登録だけだよ! 正式登録には保護者の確認が必要!」

「そこはちゃんとしてるんだな」

 

 14歳へ即日で命懸けの業務委託を成立させる制度だったら、さすがに俺も契約書を閉じるところだった。

 

 いや、仮登録ならいいのかと言われると、それもだいぶ攻めてるけど。

 

「装備は?」

「基本装備は契約時にもらえるよ! 壊れた場合は状態を確認して交換!」

「自腹じゃない?」

「基本はね!」

「訓練は?」

「適性確認と基礎講習があるよ!」

「よし」

「今のでそんなに安心する?」

「する」

 

 未経験者を説明5分で現場に放り込む会社ではない。

 大事。本当に大事。

 

 俺は少し安心してページをめくった。

 

「怪我をする可能性あり……」

「怪異との戦闘だからね。変身してる間は身体も強くなるけど、絶対安全じゃないよ」

 

 そこで初めて、ココの声から少し軽さが消えた。

 そこは誤魔化さないらしい。

 

 いい。

 

 危険な仕事を「誰でも簡単、安全です!」と言ってくるやつより100倍信用できる。

 

「重傷者もいる?」

「……いるよ。すごく強い怪異もいるから」

「まあ、そうだよな」

 

 街を襲う化け物と戦うんだ。

 転んで膝を擦りました、で済むわけがない。

 

 俺は書類から顔を上げた。

 

「労災は?」

「業務委託だからないよ」

 

 ココは真顔で答えた。

 

 俺は契約書を閉じた。

 

「待って待って待って! なんで閉じるの!?」

「命懸け。労災なし。検討終了」

「治療支援制度はあるよ! 魔法による怪我は提携してるところで診てもらえるし、活動中の怪我には補助も出るから!」

「それを先に言え!」

「労災とは違うから、労災はないって答えただけだよ!」

 

 制度上の区分を正確に答えたらしい。

 悪意はない。

 

 悪意なく14歳に命懸けの業務委託を勧めてくる。

 

 一番困るタイプだった。

 

「そもそも、命まで委託されてたまるか」

「命は委託しないよ?」

「懸けるのは俺の命だろ」

「うん!」

「元気よく肯定するな!」

 

 ココが慌てて契約書をもう1度開き、補償のページを小さな前足で示す。

 俺も読む。

 

 治療費補助。見舞金。危険度が高い要請には追加手当。

 なるほど。

 

 十分かどうかは分からない。でも何も考えてないわけではないらしい。

 たぶん制度を作った側も真面目なんだろう。

 

 真面目に考えて、真面目に会議して、真面目に書類を作った結果。

 

 魔法少女が個人事業主みたいな場所へ着地した。

 

 どうして???

 

「契約解除は30日前に申告……」

「契約したあとも辞められるよ。無理に続けさせたりはしないから!」

「初回講習までは戦闘なし?」

「もちろん! まず安全な場所で変身して、それから魔法の使い方を――」

 

 そこで、ココの首に結ばれた赤いリボンが鋭く光った。

 

 ピピピピピ、と警報音。

 

 嫌な音。

 

 工場勤務経験者って、警報音に身体が反応するんだよ。

 何が止まった? どこで異常? 人は巻き込まれてない?

 

 頭で考える前に背筋が伸びる。

 

 ココの顔から笑顔が消えた。

 

「怪異発生」

 

 声も変わっていた。

 

 空中に光の画面が開く。地図。赤い点。点滅。

 嫌な組み合わせだな。

 

「ここ、近くない?」

「600メートル。商店街の方だね」

 

 画面が切り替わる。

 たぶん防犯カメラ。

 

 人が逃げている。店の看板が倒れている。道路には黒い霧。

 さっきまで契約書を読んでいた部屋の空気が、一瞬で消えた。

 

「一般人が1人、怪異の結界内に取り残されてる。別の魔法少女が向かってるけど、到着まで6分くらい」

 

 6分。

 

 短いよな。

 カップ麺なら作って食べ始められる。スマホなら動画1本見るにも短い。

 

 でもさ。

 

 化け物と同じ場所に1人で取り残される6分って、たぶんめちゃくちゃ長い。

 

「近くの魔法少女は?」

「今すぐ動けるのは、ミミカだけ」

「俺、まだ魔法少女じゃないけど」

「うん」

 

 ココはそこで「だから契約して!」とは言わなかった。

 ただ画面を見る。

 

 ……ずるいな。

 

 いや、別にココが悪いわけじゃない。むしろ、ここで無理やり契約させる方が問題だ。

 

 俺が断れば、たぶん本当に6分待つ。

 別の魔法少女が来るまで。

 

 だからこれは、もう俺の問題だった。

 

 別に正義の味方になりたいわけじゃない。人々を守る使命に目覚めたとか、そんな立派な話でもない。

 

 前世の工場ではさ。

 人が危険な場所にいると分かったら、まず非常停止を押せって教わるんだ。

 

 生産数とか、納期とか、機械止めたら誰が怒るとか。

 そういう話は全部あと。

 

 まず人。

 

 目の前に押せるかもしれない非常停止ボタンがあるのに、6分間眺めてるのは無理だった。

 

「ペン」

「え?」

「署名する。あとで説明と違ったら契約解除するからな」

 

 ココが目を見開いた。

 

「ミミカ、でも講習が――」

「今それ言う!?」

「大事だから!」

「正しい! 正しいけど今言う!?」

 

 ちゃんとしてるな、こいつ!

 

 ココからペンを受け取り、契約書の最後を開く。

 

 署名欄。

 そこへ、

 ミミカ。

 と書いた。

 

 まだ自分の名前って感じはしない。14年間そう呼ばれてきた記憶も、俺にはほとんどない。

 

 それでも、書いたのは俺だった。

 俺が決めて、俺の手を動かした。

 

 署名した瞬間、契約書が光に包まれた。細かい粒になって消えていく。

 

 代わりに胸の前へ、手のひらサイズのコンパクトが現れた。

 

 白。桃色。中央にでっかい宝石。

 

 玩具売り場に並んでいたら、35歳男性が1人でレジに持っていくには結構な覚悟が必要なデザインだった。

 

「それがミミカの変身具だよ!」

「使い方」

「胸の前に掲げて、名前を呼んで!」

「それだけ?」

「それだけ!」

 

 助かる。

 

 安全確認なし。指差し呼称なし。保護具装着なし。

 前世なら作業開始までにもう少しかかったが、今は緊急事態。

 

 俺はコンパクトを胸の前へ掲げる。

 

「ミミカ!」

 

 光が弾けた。

 

 身体がふわっと浮く。桃色の光が腕に巻きつき、脚にも広がる。着ていた服がほどけるみたいに消えて、代わりに白と桃色の衣装ができていく。

 

 スカート。リボン。フリル。膝まであるブーツ。

 

 うん。

 王道。

 

 オタクとしては100点に近い。

 

 元35歳男性としては、一旦座って気持ちを整理させてほしい。

 

「似合ってるよ、ミミカ!」

「今は鏡見る余裕ない。案内して」

「うん!」

「窓からそのまま飛べるよ!」

「階段使う」

「飛べるって!」

「初日に3階から飛び降りる新人教育を受け入れる気はない」

 

 階段を使った。

 ここは譲らない。

 

 変身したから大丈夫、と言われてもね。

 安全確認というのは、大丈夫だと思っているときにやるものだから。

 

 外へ出る。

 走る。

 

「おっ」

 

 身体が軽い。1歩がでかい。速い。

 走っても全然息が切れない。

 

 14歳の身体だけでも感動していたのに、その上から魔法強化まで乗っている。

 

 前世の俺がこの脚を持っていたら、始業2分前に駐車場へ着いても余裕で打刻できたな。

 使い道が最低。

 

 そんなことを考えながら、商店街へ向かった。

 

 近づくほど人の声が増える。逃げてくる人と何人もすれ違った。

 空気が重い。

 

 黒い霧みたいなものが道路の上を這っている。昼間なのに街灯が点滅していた。

 

 いつもの街の上に、質の悪いホラー映像を無理やり重ねたみたいだった。

 

 そして当然だけど、商店街の入口に安全柵なんてない。規制線もまだない。

 怪異発生から数分。

 

 そりゃ準備できるわけない。

 

 分かる。分かるんだけど。

 

 入りたくない。

 

「この先だよ!」

 

 ココについて角を曲がった。

 

 そこで、俺は人生で初めて、本物の怪異を見た。

 

 道路の真ん中に、黒い塊が立っている。

 

 一応、人型。

 いや。

 人型って呼んでいいのか?

 

 腕らしきものが6本。首の上には顔がなくて、代わりに赤い亀裂が縦に走っている。

 

 そして背丈。

 商店街の2階部分を普通に越えていた。

 

 でかい。

 

 ……いや。

 「でかい」で済ませていいサイズじゃない。

 

 前世の工場なら完全に大型設備。搬入するだけで業者と会議が3回くらい必要になる。

 

 高さ測って。

 搬入口測って。

 クレーン手配して。

 

 いや違う。

 

 なんで俺は怪異を工場へ搬入しようとしてるんだ。

 

 その怪異が、6本ある腕の1本を持ち上げた。

 その真下に、小さな人影がある。

 

 逃げ遅れた人。

 

「ミミカ、初出動だよ!」

「ココ」

「なに?」

「契約書にさ」

「うん」

「怪異が建物よりでかいって書いてあった?」

「個体差があります!」

 

 その注記、もっとでかい字で書け。

 

 こうして俺の魔法少女としての初出勤が始まった。

 

 目の前には、工場の大型設備よりでかい化け物。

 

 そして安全柵は、

 

 どこにもなかった。

 

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