なぜ、あれほど交渉に長けた彼女が、自分には説得をしなかったのか。
年月を経たグレースは、その理由を一つの仮説として考える。
今日はストラットの夢を見た。
いや、正確には夢じゃないな。
夢の中で彼女は何もしていなかった。ただ、部屋の隅に立っていただけだ。
相変わらず背筋が伸びていて、スーツは皺ひとつない。
夢の中くらいネクタイを緩めても誰も文句は言わないと思うんだけど、たぶん彼女はそういうことをしない。
目が覚めてから、朝食を食べた。
エリディアン製の朝食だ。
味の説明は難しい。
「石みたい」と言うとロッキーに怒られるし、「チーズみたい」と言うとエリディアン全員に「チーズとは何だ」と質問攻めにされる。
なので、「朝食だった」で済ませることにする。
教師というのは便利な職業だ。
宇宙船を修理しなくていいし、人類を救わなくてもいい。
今日の仕事は、生徒が「なぜこの実験では対照群が必要なのか」を理解しているか確認することだった。
そのうちの一人が、実験がうまくいかなくて泣き出した。
「もうやりたくありません」
そう言われた。
僕は一時間付き合った。
励ました。
説明した。
一緒に失敗した原因を探した。
最後には笑って教室を出ていった。
「先生、諦めなくてよかった」
そう言って。
……そのとき、ストラットを思い出した。
正確には、ヘイル・メアリー号の打ち上げ前のことを。
僕が宇宙へ行くことを拒否した、あの日のことを。
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彼女は僕を三日間隔離した。
そして最後には、鎮静剤を使った。
目が覚めたとき、僕は宇宙船の中だった。
もちろん、今でも思う。
あれは僕の意思ではなかった。
人間の人生を本人の同意なく決めることが正しいとは思わない。
そこは変わらない。
僕が嫌がっていたのは宿題じゃない。
死ぬことだった。
比較するのはかなり無理がある。
でも、それでも考えてしまう。
彼女は、三日間あった。
説得できたはずだ。
あの人は説得のプロだった。
国家元首を説得し、軍人を説得し、科学者を説得した。
必要なら脅した。
必要なら譲歩した。
必要なら頭を下げた。
だったら僕にも挑戦できたはずだ。
少なくとも、最後まで試すことはできたはずだ。
でも、しなかった。
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昔の僕はこう考えていた。
「僕なんて最初から部品だった。」
ずいぶん長いこと、そう思っていた。
腹も立った。
思い出すたびに悪態をついた。
エリディアンには悪態という文化がない。
実に健康的だ。
少し羨ましい。
でも、教師を何十年もやっていると、分かることがある。
子どもを説得するのは、知らない子より、よく知っている子のほうが難しい。
何が怖いか知っている。
何を言えば傷つくか知っている。
だから、言葉を選びすぎる。
説得が下手になる。
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ストラットは、僕のことをある程度理解していたはずだ。
少なくとも、僕が英雄願望で宇宙へ行くような人間ではないことは知っていた。
僕が怖がりで、それでも困っている人間を見捨てられないことも。
だから選んだ。
……いや、それは昔から分かっていた。
僕が最近考えるようになったのは、その次だ。
彼女は、どうして説得しなかったんだろう。
本当に合理的なら。
僕が納得して出発した方が、任務成功率は少しだけ上がる。
記憶が戻ったとき、反発する危険も減る。
それだけじゃない。
たとえ説得に失敗したとしても、最後まで説得しようとしたという事実には意味がある。
人間は、結果だけで動く生き物じゃない。
「この人は自分を理解しようとしてくれた。」
そう感じるだけで、その後の行動は変わる。
僕が計画を妨害しようとしたとしても、その可能性を少しでも下げることができる。
説得に失敗したとしても、失敗したなりの価値がある。
それが交渉というものだ。
ストラットは、そのことを誰よりも知っていたはずだ。
彼女は、数字だけで人間を動かす人ではなかった。
必要な情報を示し、危険を示し、希望を示し、最後には相手自身に選ばせる。
そういう交渉をしてきた人だ。
だからこそ、分からない。
なぜ僕にだけ、それをしなかったのか。
彼女が、その程度の計算をしていないはずがない。
なのに。
しなかった。
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ずっと分からなかった。
最近になって、一つだけ仮説を思いついた。
……考えすぎかもしれない。
年寄りというのは、暇だから仮説ばかり立てる。
科学者の悪い癖だ。
もし。
もし彼女が、僕を部品だと思っていたなら。
最後まで説得したはずだ。
部品の性能を一パーセントでも上げるために。
彼女はそういう人だ。
だから逆に、しなかった。
頼めなかった。
頼んで、僕の顔を見るのが嫌だった。
僕に断られるのが嫌だった。
あるいは。
僕が承諾したとしても。
それが人類のためなのか。
彼女への同情なのか。
区別がつかなくなるのが嫌だった。
だから命令した。
仕事にした。
そうすれば、自分をごまかせる。
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考えてみれば、ストラットには親しい人間の話をほとんど聞いたことがなかった。
もちろん、仕事上の関係は多かっただろう。
彼女を信頼する人間も、彼女に従う人間も。
でも、それは違う。
彼女は、人との距離を意識的に管理していたように思う。
感情が判断を曇らせることを、誰よりも恐れていたのかもしれない。
だからこそ、余計に分からなくなる。
なぜ、僕にはそうしなかったのか。
なぜ、僕をただの乗員番号として扱えなかったのか。
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もしかしたら。
彼女は僕を、ただの乗員番号として見ていなかったのかもしれない。
僕を、ひとりの人間として見ていた。
友人と呼べるほど近くに置いていたのかもしれない。
だから言えなかったのかもしれない。
「グレース博士、あなたには死んでほしいの。」
そんな言葉を。
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……分からない。
全部、僕の想像だ。
本人はいない。
確認のしようもない。
それでも、一つだけ言えることがある。
もし、この仮説が正しいなら。
彼女は僕を利用したんじゃない。
僕に甘えたんだ。
「この人なら、最後には見捨てない。」
そう信じて。
勝手な話だ。
ひどい話だ。
許せる話でもない。
僕が彼女の立場だったとしても、同じことをしたかどうかは分からない。
でも、正しいことと、理解できることは別だ。
間違っていた。
それでも、なぜそうしたのかは分かる気がする。
それが信頼というものなら。
あの人は最後の最後に、一人だけ人を信じたことになる。
困った人だ。
本当に。
ロッキーなら肩をすくめて言うだろう。
「人間、非常に非効率。」
……うん。
今回は反論できそうにない。
ストラット視点も面白いかも。