町を出てしばらくすると、舗装された道は途切れた。
その先には森がある。
ナギは立ち止まった。
見上げても、木々の先に空はほとんど見えない。
鳥ポケモンの鳴き声。
木の葉が擦れる音。
遠くで何かが水に飛び込む音。
ナギはモンスターボールを投げた。
「ケロ!」
ケロマツが現れる。
ケロマツはナギの横に立った。
二人は森へ入った。
しばらく歩く。
ナギは周囲を観察した。
研究員から渡された小さな端末には、野生のポケモンの反応が表示されている。
だが、反応がおかしい。
近くにたくさんいるはずなのに、画面にはほとんど何も映らない。
ナギは端末を叩いた。
ケロマツが覗き込む。
突然。
森の奥から、大きな音がした。
ドォン!!
木々が揺れる。
ナギは肩を跳ねさせた。
ケロマツがナギの前に出る。
茂みから、一匹のサルノリが飛び出してきた。
「ノリ!」
サルノリはナギたちを見て、一瞬怯えた。
そして、森の奥を振り返る。
まるで、
「逃げて」
と言っているようだった。
次の瞬間。
サルノリの後ろから、巨大なオコリザルが現れた。
「オコォォォ!!」
ナギは後ずさる。
ケロマツが構える。
オコリザルはサルノリに向かって拳を振り上げた。
ケロマツが飛び出した。
「ケロッ!」
水の泡が飛ぶ。
オコリザルの動きが止まる。
サルノリは逃げていく。
だが、オコリザルはケロマツを睨みつけた。
ケロマツも退かない。
ナギは周囲を見る。
ここは森だ。
研究所から言われたのは、様子を見るだけ。
戦えとは言われていない。
だが。
ケロマツがこちらを振り返る。
その目は、
「どうする?」
と聞いているようだった。
ナギは拳を握った。
そして一歩前に出た。
「ケロ!」
戦いが始まった。
*
十分後。
オコリザルは倒れていた。
ケロマツも疲れている。
ナギはケロマツの頭を撫でた。
ケロマツは嬉しそうに目を細める。
その時だった。
森の奥から、ポケモンの鳴き声が聞こえた。
一つ。
二つ。
三つ。
次々と声が重なる。
ナギは顔を上げる。
木々の隙間から、たくさんのポケモンがこちらを見ている。
ピカチュウ。
ヤンチャム。
キノココ。
ヒメグマ。
そのほかにも、見たことのないポケモンがいる。
だが、どのポケモンもナギたちを警戒している。
ナギは一歩下がった。
すると。
森の奥で、何かが光った。
一瞬だけ。
ピンク色の小さな影。
ナギは目を凝らす。
だが、もう何もいない。
ケロマツが首を傾げる。
ナギは森の奥へ進もうとした。
その瞬間。
端末が激しく鳴った。
画面には見たことのない表示が出ている。
『未確認のポケモン反応』
ナギは息を呑んだ。
その反応は、森の奥からこちらへ近づいている。
木々の向こう。
何かが動いた。
白い霧が流れてくる。
その中から、小さな影が現れた。
丸い頭。
細い手足。
長い尻尾。
そして、大きな青い瞳。
ナギは固まった。
そのポケモンはナギを見ている。
そして、にっこり笑った。
ミュウ。
幻のポケモン。
ナギは息をすることさえ忘れた。
ミュウはナギの前まで飛んでくる。
ケロマツが警戒する。
だが、ミュウはケロマツの頭を指でつついた。
「ミュウ」
ケロマツは驚いたように目を丸くする。
ミュウは笑う。
そして突然、姿が変わった。
ケロマツと同じ姿。
ナギは目を見開く。
ミュウはケロマツの真似をして、両手を広げた。
ケロマツも真似をする。
しばらく二匹は向かい合っていた。
やがてミュウが笑うように鳴いた。
そして森の奥へ飛んでいく。
ナギは追いかけようとした。
しかし、足を止めた。
研究員との約束。
森の奥には行かない。
ナギは悩む。
その時。
ミュウが振り返った。
木々の隙間から、こちらを見ている。
ナギは一歩踏み出す。
ミュウはさらに奥へ飛ぶ。
ナギも一歩。
また一歩。
ケロマツが隣についてくる。
やがて二人は、森の奥深くへ進んでいた。
*
そこには湖があった。
木々に囲まれた、小さな湖。
水は驚くほど透明だった。
湖の周囲には、たくさんのポケモンがいる。
だが、誰も戦っていない。
互いに距離を取りながらも、同じ水を飲み、同じ木の実を食べている。
ナギはその光景を見ていた。
するとミュウが湖の上に浮かんだ。
その体が光る。
ミュウの姿が変わる。
ピカチュウ。
ヤンチャム。
サルノリ。
オコリザル。
そして、最後に人間の姿になった。
誰かの姿ではない。
ただ、人間に見えるだけの姿。
ミュウはナギの真似をして、首を傾げる。
ナギも首を傾げる。
ミュウが笑う。
ナギも少し笑った。
その時だった。
森の奥から、大きな音がした。
湖の水面が揺れる。
ポケモンたちが一斉に逃げ始めた。
ナギは立ち上がる。
木々が倒れる。
そこから、傷ついた一匹のポケモンが現れた。
イダイトウ。
巨大な体から血を流している。
その後ろには、人間がいた。
迷彩服を着た男。
手にはモンスターボール。
「いたぞ!」
男が叫ぶ。
「ミュウだ!」
ナギは振り返る。
ミュウが怯えた顔をする。
男はボールを投げた。
「捕まえろ!」
ポケモンが飛び出す。
ミュウは逃げる。
だが、湖の周囲には別の人間たちがいる。
囲まれている。
ナギは動けなかった。
ケロマツがナギの服を引っ張る。
ナギを見る。
そして、ミュウを見る。
ナギは拳を握る。
怖い。
逃げたい。
けれど。
隣にはケロマツがいる。
ナギはモンスターボールを握った。
そして、前へ走った。
*
戦いは長く続かなかった。
ナギたちは大人たちを倒したわけではない。
ケロマツの水を使って地面を滑らせ、木々の間を走り、相手のポケモンを湖へ誘導した。
ミュウも姿を変えながら逃げ回る。
最後には、森に住むポケモンたちが一斉に姿を現した。
ピカチュウが電気を放つ。
サルノリが枝を振り回す。
ヤンチャムが飛び込む。
大人たちは次々と逃げていった。
静かになった森。
ナギはその場に座り込んだ。
ケロマツも隣に倒れ込む。
二人とも泥だらけだった。
ナギはケロマツを見る。
ケロマツもナギを見る。
そして、二人同時に笑った。
その時。
目の前にミュウが現れた。
ミュウはナギの頭に手を置いた。
何かを伝えるように。
けれど、言葉はない。
ナギも何も言わない。
ただ、ミュウの手をそっと握った。
ミュウは嬉しそうに笑った。
そして、空へ飛び上がる。
森の木々の間を抜け、空へ。
ナギはその姿が見えなくなるまで見つめていた。
しばらくして。
ケロマツがナギの肩を叩いた。
ナギは振り返る。
ケロマツが笑っている。
ナギも笑った。
ミュウが何を伝えたかったのかは、わからない。
けれど。
ナギには一つだけ、わかったことがあった。
一人で森に入った時は、森がとても広く感じた。
けれど今は違う。
隣にはケロマツがいる。
森にはたくさんのポケモンがいる。
そして、どこか遠くには、さっき出会ったミュウがいる。
それだけで、世界が少しだけ狭くなった気がした。
*
夕方。
研究所に戻ったナギは、研究員の前に立っていた。
「おかえり」
研究員は笑った。
「どうだった?」
ナギは黙っている。
研究員が首を傾げる。
「何か見つけた?」
ナギはポケットから端末を取り出した。
端末には、途中まで記録されたデータがある。
そして、その最後に一枚だけ写真が残っていた。
森の奥。
空を飛ぶ、小さなピンク色のポケモン。
研究員は息を呑んだ。
「……これ……」
ナギは頷いた。
研究員が画面を見つめる。
「ミュウ……?」
ナギはもう一度頷いた。
「本当に……?」
ナギは少し考えた。
そして、
「はい」
と答えた。
研究員は震える手で写真を保存する。
「すごい……」
研究所の窓から、夕暮れのギアナが見える。
ナギは窓辺へ歩いていった。
ケロマツもついてくる。
外では、町のポケモンたちが人間と一緒に家へ帰っている。
ナギはケロマツを見る。
ケロマツもナギを見る。
二人は並んで歩き始めた。
明日から、旅が始まる。
どこへ行くのか。
何に出会うのか。
それは、まだわからない。
ただ一つだけ確かなことがある。
旅は、一人では始まらない。
隣に誰かがいる時。
その誰かと同じ景色を見た時。
初めて、道は「旅」になる。
遠い森の奥。
誰も知らない木の枝に、ミュウが座っていた。
小さな手で木の実を持ちながら、町の方を眺めている。
そして、誰にも聞こえない声で、
「ミュウ」
と鳴いた。
その声に応えるように、ギアナの森から無数のポケモンたちの鳴き声が返ってきた。
夕暮れの空に、いくつもの声が重なっていく。
人間とポケモン。
出会ったばかりの二人。
まだ名前も知らない誰か。
そして、遠い森に住む幻のポケモン。
それぞれの間にある距離は、まだ遠い。
けれど。
繋がるために必要なのは、距離をなくすことではない。
その距離を、一緒に歩いていくことなのかもしれない。
ギアナの夜が始まった。