朝の光が、深い森の木々の隙間から幾筋もの光条となって差し込んでいた。
湿った土の匂いと、朝露に濡れた草の香りが鼻を突く。ケイは、銀の軽鎧を鳴らしながら、険しい山道を一歩ずつ踏みしめて進んでいた。
「……あと少し、のはずだ」
ケイは、額に滲む汗を拭いもせず、低く自分に言い聞かせるように呟いた。
艶のある黒髪が額に張り付き、真面目な瞳には疲労の色が濃く滲んでいる。しかし、その瞳の奥には、王国の命運を背負った者としての強い責任感が宿っていた。
今回の任務は、極めて重要だ。
古より伝わる「勇者召喚の儀式」を成功させるためには、その儀式を司ることができる唯一の存在――伝説の魔女を招聘しなければならない。王都の賢者たちが必死に探し出し、ようやくその居場所を突き止めたのが、この辺境の果てにある村だという。
騎士団の一員として、そして一人の人間として、この任務を失敗することは許されない。ケイは、引き締まった体に力を込め、再び歩を進めた。
ようやく辿り着いたのは、村からさらに数時間歩いた先にある、人里離れた崖際の小さな小屋だった。
周囲には奇妙な形の植物が茂り、どこからか不思議な調べが聞こえてくる。まさに「伝説の魔女」が住まうに相応しい、神秘的で、どこか浮世離れした空気が漂っていた。
(ここが、マーサ様の住処か……)
ケイは緊張で強張る身体を律し、小屋の扉の前に立った。
心臓の鼓動が、鎧の隙間から聞こえてきそうなほど激しく打ち鳴らされる。彼は大きく深呼吸をし、礼儀正しく、しかし力強く扉を叩いた。
コン、コン、と乾いた音が静かな森に響く。
「失礼いたします! 白騎士団のケイと申します。伝説の魔女、マーサ様にお目にかかりたく参りました!」
返事はない。ただ、風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
ケイは少しの不安を覚えながらも、もう一度、今度はさらに大きな声で呼びかけた。
「マーサ様! 王命により、勇者召喚の儀式のためにお越しいただきたいのです!」
その時だった。
小屋の奥から、重い足音が聞こえてきた。
ケイは背筋を伸ばし、最敬礼の姿勢をとる。伝説の魔女が現れるのだ。恐ろしくも神々しい、圧倒的な魔力の波動を感じるのではないか。彼はそう期待していた。
しかし、ゆっくりと開いた扉の向こうに現れたのは、期待とは似ても似つかない姿だった。
「……あー、もう……。うるさいわねぇ……」
現れたのは、白髪を適当にまとめた、ひどく疲れ切った様子の老女だった。
深い皺が刻まれた顔は、まるで何十年も寝不足が続いているかのように沈んでおり、その瞳には魔力ではなく、ただただ「面倒くささ」が宿っている。ゆったりとした、手入れのされていない古びたローブを纏った彼女は、扉の隙間からケイを睨むこともなく、ただぼんやりと眺めていた。
「あ、あの……マーサ様、でいらっしゃいますか?」
ケイが困惑しながら問いかけると、老女――マーサは、ふぅ、と大きなため息をついた。そして、何故か腰に手を当て、苦しげに顔を歪めた。
「……あんた、騎士様? そんなに大きな声出さなくても聞こえてるわよ……。あいたたた……。ああ、腰が、腰が痛くてかなわん……」
「えっ?」
ケイの思考が停止した。
伝説の魔女。世界を救う鍵を握る、至高の魔道士。
目の前にいるのは、ただ腰をさすりながら、ひどく緩慢な口調で愚痴をこぼす、一人の隠居した老婦人だった。
「あの、マーサ様。王都より、勇者召喚の儀式についてのお願いに参りました。どうか、お力を貸していただきたく……」
「儀式? 勇者? そんなの、知ったことじゃないわよ……」
マーサは力なく首を振ると、再び腰を押さえてよろめいた。
「私はもう、引退したのよ。魔法なんて、もういいわ。今はただ、この痛む腰をどうにかすることに全力を注いでるんだから……」
「引退……ですと!?」
ケイの声が裏返った。
想定外すぎる事態に、彼の脳内は真っ白に染まっていく。
伝説の魔女が、腰痛のために引退している? そんな、ファンタジーの英雄譚に似つかわしくない、あまりにも世俗的で、あまりにも切実な理由が、彼の使命を根底から揺るがしていた。
「しかし、マーサ様! 今、国は危機に瀕しておりまして……!」
「知らないわよ、そんなこと……。あー、痛たた……。とにかく、私はもう、動けないわ……」
マーサはそう言い捨てると、ソファに体を沈めていった。
ケイは、目の前の光景を信じられず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。銀の軽鎧が、太陽の光を反射して、虚しくきらめいていた。
「腰が、腰がもうダメなのよ……。あー、もう、人生終わったわ……」
古びた小屋の奥から聞こえてきたのは、伝説の魔女としての威厳など微塵も感じられない、情けないほどに弱々しい呻き声だった。
ケイは、銀の軽鎧を鳴らしながら、困惑を隠せずに立ち尽くしていた。目の前には、白髪を無造作にまとめた老魔女、マーサが横たわっている。彼女は手入れのされていない古びたローブを纏い、まるで力尽きた老人そのものの姿で、痛む腰をさすっていた。
「マーサ様、お待ちください! 王国の儀式には、あなたの魔力がどうしても必要なのです。伝説の魔女が引退するなど、そんな……!」
「無理なものは無理。物理的な限界ってものがあるのよ、騎士さん。今の私には、魔法を唱えるより、この腰をどうケアするかを考える方が重要なんだから」
マーサは達観したような、どこか投げやりな口調で言い放った。ケイの真面目な瞳には、絶望の色が濃く浮かぶ。勇者召喚の儀式を成功させるために、命がけでこの辺境の村まで辿り着いたのだ。それなのに、当の主役が腰痛という、あまりにも世俗的な理由で動けないとは。
しかし、マーサはふっと、悪戯っぽく目を細めた。
「……まあ、絶望するのはまだ早いわ。私が行けない代わりに、私の弟子を派遣してあげるから」
「弟子……? 魔術を継承する、優れた魔導士の方なのですか?」
ケイの胸に、わずかな希望の光が灯る。伝説の魔女の弟子であれば、それなりの実力は保証されているはずだ。彼は期待に胸を膨らませ、小屋の入り口を見つめた。
だが、その直後。
「おっはよー! 異世界転生者のザリエンヌ様、降臨だよっ!」
景気の良い、それでいてあまりにも場違いな声と共に、小屋の扉が勢いよく蹴り開けられた。
そこに立っていたのは、鮮やかな桃色の髪をポニーテールにまとめ、大きな瞳を輝かせた小柄な少女だった。しかし、ケイの思考は、彼女の顔を見た瞬間に完全に停止した。
「…………え?」
彼女の格好は、あまりにも異常だった。
魔法使いのローブでも、村の娘の素朴な服でもない。それは、体にぴったりと張り付いた、紺色の布地で作られた奇妙な装束だった。肩出しで、露出が非常に多く、それでいてどこか事務的な、妙な質感の服。
「あの……ザリエンヌ、様……とおっしゃるのですか? その、お召し物は……何かの儀式用の装束でしょうか?」
ケイは、騎士としての理性を保とうと必死に問いかけた。もしかすると、これは高位の魔導士だけが許される、特殊な魔力伝導用の衣装なのかもしれない。
「これ? これだよ、これ! スクール水着! これ、超定番でしょ? あー、やっぱりこの世界のファッション、マジで詰んでるわー」
ザリエンヌは、ケイの困惑などどこ吹く風で、腰に手を当てて笑った。
「スクール……水着……?」
「そう! 異世界転生者には欠かせない、いわば正装みたいなもん! あー、それにしても、この村、マジで暑すぎじゃない? エアコンが無いとか、もはや拷問レベルなんだけど!」
エアコン。聞いたこともない単語に、ケイは眉をひそめる。
ザリエンヌは、不満げに頬を膨らませると、そのまま小屋の外へと駆け出していった。
「ちょっと、待ってください! ザリエンヌ様!」
ケイが慌てて追いかけると、彼女はすでに村の広場へと走り抜けていた。村人たちが驚いた顔で彼女を見送る中、彼女はまるで自分の庭を歩いているかのような、自由奔放な足取りで進んでいく。
「ちょっと、なんでここ、電波、入らないわけ? マジで圏外なんだけど!」
彼女が叫ぶたびに、周囲の人間は顔を見合わせ、困惑の渦に叩き込まれていく。ケイは、彼女の背中を追いながら、胃のあたりがキリキリと痛むのを感じた。これは、伝説の魔女の弟子などという、高潔な存在ではない。もっと別の、何か……制御不能な「何か」だ。
そして、事態はさらに加速した。
「あー、もう無理! このままじゃ情報のアップデートができないじゃん! よし、作っちゃお!」
ザリエンヌが突如として足を止め、地面に杖を突き立てた。
彼女の周囲に、見たこともないほど強烈な魔力の奔流が渦巻く。ケイは反射的に身構えた。これは戦闘の予兆か、あるいは強力な儀式魔法か。
「ザリエンヌ様、何を――」
言いかけたケイの言葉は、凄まじい音と共に遮られた。
彼女が魔法を放った先は、村の境界にある小高い丘だった。凄まじい衝撃波と共に、地面が爆発するように盛り上がり、巨大な岩石が空へと舞い上がる。
「電波塔、建設開始ーーーっ!!」
彼女の叫びと共に、魔法によって形成された巨大な石柱が、猛烈な勢いで空へと突き進んでいく。それは地形を根本から作り変え、村の景観を無惨に、かつ劇的に破壊しながら、天に向かってそびえ立とうとしていた。
「な、ななな、何をされているのですか、あなたは!!」
「え? 電波塔作ってるんだよ? これでやっと、このクソみたいな辺境でもネットが繋がるようになるんだから!」
空に向かってそびえ立つ、巨大で不格好な石の塔。
それを見上げながら、ケイは膝から崩れ落ちそうになった。
伝説の魔女の弟子。その実態は、常識という概念を魔法で粉砕する、歩く災厄だった。
照りつける太陽が、乾いた街道を白く焼き付けていた。
白騎士団所属の騎士であるケイは、銀の軽鎧の下で噴き出す汗を拭うことすら忘れ、ただひたすらに前を見据えて歩いていた。いや、正確には「前を見据えて」いた。視線の先にいる、鮮やかな桃色の髪をなびかせた少女――ザリエンヌが、あまりにも常識の枠を逸脱していたからだ。
「あー、もう! マジで電波入んないんだけど! この辺、圏外すぎじゃない?」
ザリエンヌは、どこから取り出したのか、あるいはどこに隠していたのか、黒い板状の物体を空にかざしながら不満げに唇を尖らせた。彼女の格好は、前章から変わらず、見る者の目を釘付けにする紺色のスクール水着だ。王都へ向かうという重要な任務の最中であるにもかかわらず、彼女は周囲の視線を一切気にする様子がない。
「……ザリエンヌ様。その『電波』というのは、魔力の波長のことでしょうか?」
ケイは、精一杯の冷静さを保ちながら問いかけた。騎士としての威厳を保とうと努めているが、喉の奥が乾き、声がわずかに上擦る。
「はぁ? そんなわけないじゃん。情報の通信だよ、通信! あーあ、これがないとマジで詰むわ。SNS映えするスポットとか見つけても、アップロードできないじゃん」
「SNS……映え……? アップロード……?」
ケイは、脳内の辞書を必死に検索したが、該当する用語は一つも見つからなかった。彼女が口にする言葉は、まるで異世界の呪文のように、理解の範疇を軽々と飛び越えていく。
歩みを止めて木陰で休憩を挟む際も、彼女の奇行は止まらなかった。ザリエンヌは地面に落ちていた小石を見つめ、真剣な表情で指を突き出した。
「よし、ここでサイコキネシス発動……! テレポート……!」
彼女が念じるように小石を凝視するが、何も起きない。小石はただ、地面に転がっているだけだ。
「……何も起きませんね」
「あー、もう! やっぱ魔力が必要なのかな? それとも、この世界のエネルギー設定が変なのかな? もっとこう、超能力者っぽい演出が必要な感じ?」
「超能力者……。それもまた、未知の魔術体系の一種なのでしょうか」
ケイは、もはや聞き返すことすら諦め始めていた。彼女の言う「サイコキネシス」や「SNS」といった言葉を、無理やり既存の概念に当てはめようとする作業は、精神的な消耗が激しい。
さらに、彼女の突飛な要求は止まらない。
「ねえケイ、次の村に着いたらさ、ちょっとコスプレしたいんだけど。可愛いメイド服とか、あったら良くない? 変身魔法でパパッと着替えられたら最高なんだけどなー」
「コスプレ……。変装の術のことでしょうか。しかし、任務中にそのような浮ついた格好を……」
「えー、堅いこと言わないでよ! 気分転換って大事なんだから!」
ケイは、額を押さえて溜息をついた。本来、自分の任務は伝説の魔女の後継者である彼女を、王都まで安全に護衛することだったはずだ。しかし、今の自分は、彼女の奇行から周囲の目を逸らし、彼女が暴走して地形を変えないかを見守る「奇行の監視役」に成り下がっているのではないかという疑念が拭えない。
昼食の時間を迎え、街道沿いの小さな広場で休息をとっていた時のことだ。
ふと、ザリエンヌが隣に座るケイを、じっと見つめてきた。その大きな瞳に、悪戯っぽい光が宿る。
「ねえ、ケイ」
「……はい。何でしょうか、ザリエンヌ様」
「ケイって、騎士様だし、結構イケメンじゃん? 真面目そうだしさ」
不意に褒められ、ケイの心臓が跳ねた。鍛錬された体格と、生真面目な瞳。自分では至って普通だと思っていたが、彼女にそう言われると、どう反応すべきか分からなくなる。
「……恐縮です。ですが、お世辞を仰る必要はございません」
「いや、お世辞じゃないって! ねえ、ケイ。パパ活する?」
「…………はい?」
ケイの思考が、完全に停止した。
「パパ活! 私、もっと美味しいもの食べたいし、可愛い服もいっぱい欲しいんだよね。だから、ケイがパパになって、私に貢いでよ!」
「パ、パパ……ッ!?」
ケイの顔が、一瞬にして耳の付け根まで真っ赤に染まった。騎士としての矜持が、音を立てて崩れ去っていく。パパ、という言葉の響きが、どうしても不純で、それでいてあまりにも直接的な意味が脳裏をよぎってしまうのだ。
「な、何を仰っているのですか! 私は貴女様の護衛であり、騎士です! そのような、あ、あの、不適切な……!」
「えー、固いなー! もっとこう、経済的な支援っていうか、ウィンウィンな関係って感じ!」
「ウィン……ウィン……!?」
混乱するケイをよそに、ザリエンヌは楽しそうに笑い、また別の「未知の用語」を繰り出していく。
王都への道のりはまだ半分も過ぎていない。ケイは、自身の精神的な防壁が、目的地に着く前に完全に崩壊してしまうのではないかという、魔物との戦いよりも遥かに恐ろしい予感に震えていた。
王都へと続く街道を歩きながら、ケイは深く、重いため息をついた。
隣を歩く少女、ザリエンヌは、さっきから道端に咲く名もなき花を指さしては「これ、エモくない?」「映えそうじゃない?」などと、意味の分からない言葉を連発している。
騎士としての矜持を持って彼女を護衛しているはずなのだが、今のケイの精神状態は、護衛というよりも、制御不能な爆弾を抱えて歩く監視役のそれに近かった。
不意に、街道の先にある村の方角から、獣の咆哮とも、人の悲鳴ともつかない濁った音が響き渡った。
「――ッ! ザリエンヌ、下がっていろ!」
ケイは即座に銀の軽鎧を鳴らし、腰の剣を抜いた。
村の方向から、黒い霧のようなものを纏った魔物たちが、次々と溢れ出してくるのが見える。村人たちが逃げ惑い、家々が火に包まれる光景。それは紛れもなく、突発的な魔物の襲撃だった。
「ちょっと待ってよ、ケイ! その戦い方、全然ダメだよ!」
背後から、場違いなほど明るい、しかしどこか焦ったような声が飛んできた。
「何を言っている! 今は戦う時だ!」
「違うってば! 魔法で戦うには、お約束があるんだから!」
ザリエンヌは、剣を構えて駆け出そうとするケイの前に、ひょいと立ち塞がった。その瞳は、いつもの奔放な光とは違い、妙にギラついた熱を帯びている。
「お約束……?」
ケイが呆然としていると、ザリエンヌは突如として、両手を空へ突き出し、片足を高く上げた。
「――『輝け、乙女の魂! 愛と正義の光、マジカル・ハート・エボリューション!』」
彼女は、まるで舞台俳優か何かのように、独特で、あまりにもおよそ戦場には似つかわしくないポーズを決めた。
「な、何を……っ!?」
ケイの困惑を置き去りに、彼女の周囲に凄まじい魔力の奔流が渦巻いた。ピンク色の光の粒子が、爆発的な勢いで彼女の体を包み込んでいく。
目も眩むような光が収まった時、ケイは思わず目を細めた。
そこに立っていたのは、先ほどまでの少女ではなかった。
いや、姿はザリエンヌのままだが、その装束が、あまりにも……その、過激だった。
光り輝くフリルが施された、極めて露出度の高い、いわゆる「スクール水着」をアレンジしたような魔法装束。細い肩から白い肌が露出し、短いスカートからは健康的な脚が伸びている。
「……っ!」
ケイは反射的に顔を赤らめ、視線を逸らした。真面目な騎士として、これほど目のやり場に困る状況は初めてだった。
「ふふん、準備完了! いくよ、ケイ! この『推し』の力、見せてあげる!」
ザリエンヌは、自分でも制御しきれていないのか、頬を上気させ、半狂乱に近い様子で叫んだ。その瞳は、戦いへの興奮で完全にトランス状態にあるようだった。
彼女は、迫りくる魔物たちに向かって、軽やかに、まるでダンスでも踊るかのように飛び出した。
「はぁぁぁぁ! これでも喰らいなさい! 必殺! 『超・究極・ピンク・デストラクション・スターライト・バースト』!!」
彼女が指先を突き出した瞬間、空が裂けた。
ピンク色の巨大な光の奔流が、地形ごと魔物たちを飲み込んでいく。それは魔法というより、天災に近い何かだった。
ドォォォォォォォォン!!
耳を突き破らんばかりの轟音が響き、大地が激しく揺れた。
ケイは地面に膝をつき、必死に地面にしがみついた。視界が白一色に染まり、風圧で肺が押し潰されそうになる。
やがて、爆風が収まり、周囲に静寂が訪れた。
……しかし、その静寂は、あまりにも不吉なものであった。
ケイがおそるおそる顔を上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。
襲撃してきた魔物たちは、塵一つ残さず消滅していた。だが、問題はそれだけではなかった。
村があったはずの場所は、巨大なクレーターとなって陥没し、周囲の山々は削り取られ、地形そのものが完全に作り変えられていたのだ。まるで、巨大な隕石が直撃したかのような、無残な景色。
「はぁ……はぁ……。やったぁ……」
クレーターの縁に、ザリエンヌが立っていた。
しかし、その姿は先ほどの輝かしい魔法少女とは程遠いものだった。
あまりにも強大すぎる魔力の反動か、あるいは変身の負荷か。彼女の装束はボロボロに引き裂かれ、今やほとんど半裸に近い状態になっていた。桃色の髪は乱れ、肌には煤がついていながらも、どこか神々しささえ感じさせる。
「ザ、ザリエンヌ……! 無事か!?」
ケイは混乱しながらも、彼女のもとへ駆け寄ろうとした。だが、あまりにも無残に破壊された周囲の地形と、彼女のあまりに刺激的な姿を前に、足がすくんでしまう。
「あー……ちょっと、やりすぎちゃったかも……。でも、エモかったでしょ? ケイ」
ザリエンヌは、ボロボロになった衣装のまま、どこか満足げに、そしてどこか虚ろな笑みを浮かべて彼を見つめていた。
ケイは、荒れ果てた大地と、目の前の少女を見比べ、深く溜息をついた。
王都への帰路だというのに、この数々の「想定外」に、頭を抱えていた。
重厚な石造りの回廊を歩くケイの足音は、静まり返った王宮の廊下に不自然なほど大きく響いていた。
銀の軽鎧が擦れる微かな音が、彼の緊張を煽る。先日の村での出来事――あの、あまりにも常識外れな「マジカルガール」の変身劇と、地形すら変えてしまった規格外の魔法の残像が、脳裏から離れない。
(一体、あの少女は何者なんだ……?)
騎士団の一員として、これほどまでに理解の範疇を超える存在に出会ったことはなかった。ザリエンヌという少女の奔放さは、もはや単なる個性の域を超え、世界の理を揺るがしかねない危うさを孕んでいるように感じられた。
「……失礼いたします」
ケイは、重々しい彫刻が施された大会議室の扉の前に立ち、意を決して声を絞り出した。
自分が王国の会議に呼び出されるなど、先日の魔法の暴走くらいしか心当たりがない。
扉がゆっくりと開かれる。
室内には、王国の重鎮たちが並んでいた。その重苦しい空気、張り詰めた緊張感。ケイは深く頭を下げ、騎士としての礼を尽くそうとした。しかし、視線の先に映った光景に、彼は息を呑む。
議長席。
そこには、豪華絢爛な装飾が施された王族のドレスを纏い、高慢とも取れる優雅な仕草で座る少女がいた。
鮮やかな桃色の髪、大きな瞳。小柄で華奢な体躯を包むのは、先日の戦場で見せた露出度の高い衣装ではなく、この国の象徴とも言える気品に満ちた王女の礼装だ。
「……ザ、リエンヌ……?」
ケイの声は、自分でも驚くほど震えていた。
目の前にいるのは、紛れもなくあの少女だ。しかし、その瞳に宿る光は、村で見せた狂乱的なものとは異なり、どこかすべてを見透かしたような、底知れない深さを湛えていた。
ザリエンヌは、椅子に深く背を預けると、ふっと口角を上げた。その表情は、いつもの彼女らしい、どこか人を食ったような、現代的な軽薄さを孕んだものだった。
「あーあ、やっと来た。待ちくたびれたよ、ケイ」
彼女の声は、王女としての威厳を保ちつつも、どこか親しげで、それでいて突き放すような響きがあった。彼女は足を組み替え、ケイをじっと見つめる。
「ねえ、何か思い出した? あの『変身シーン』とか、ちょっと恥ずかしい演出とか、全部含めてさ」
「何を……何を言っているんですか。あなたは、あの村で――」
「演出、だよ」
ザリエンヌの言葉が、ケイの思考を遮った。
彼女は楽しげに、しかし残酷なほど冷静に言葉を継いでいく。
「あの会話も、あの魔法も、あの必殺技も。全部、過去にこの世界にやってきた『別の転生者』の記録を再現してただけ。貴方に思い出してもらうための、ちょっとした演技ってやつ」
ケイは呆然と立ち尽くした。
頭の中が、真っ白な霧に覆われたように混乱する。
あの異常な魔法、あの突飛な振る舞い。それらすべてが、自分を揺さぶるための「演技」だったというのか。
「貴方は、転生者じゃないのか……」
「そう。私はただの、この国の王女。普通の人間だよ。」
ザリエンヌは、椅子から立ち上がると、ゆっくりとケイに歩み寄った。
彼女の瞳が、真っ直ぐにケイの黒い瞳を射抜く。
「本当の転生者は、貴方だよ、ケイ。勇者召喚術中の事故で記憶を失っちゃった、哀れな迷い子さん」
その言葉が、ケイの心臓を強く打ち抜いた。
脳裏に、断片的な記憶の破片が奔流となって押し寄せる。
知らない街の灯り、見たこともない景色、そして、自分が「こちら側」の人間ではないという、抗いようのない事実。
「伝説の魔女の招聘なんて大層な名目だけどさ、本当はただの『記憶回収作戦』なんだよね。貴方の魂がどこに落としてきたか、探し出すためのね」
ザリエンヌは、困ったように笑った。その笑顔は、いつもの奔放な少女のそれでありながら、どこか寂しげでもあった。
ケイは、自分の手が震えていることに気づいた。
銀の鎧が、重い。
自分が何者であるか、なぜここにいるのか。
すべてを失い、偽りの物語の中に放り込まれていた自分自身を、ケイはただ、震えるような衝撃と共に受け入れるしかなかった。