手足は動かせぬように雁字搦めに繋ぎ止められ、身動き一つ取る事は容易ではない。
生き恥を曝している事に対して、自害せぬようになのか口には猿轡をはめ込まれ、顔は唾液まみれになっている。だが、そもそも自害するつもりなど毛頭なかった。
いくら五感を遮断されようが常に冷静に隙を窺い続ける。憎しみの炎が他の一切の感情を焼き払い、ただ一点。あの男への復讐心だけが精神を繋ぎ止める。
薬物投与、昼夜の時間が分からない状況に肉体は既に悲鳴を挙げているが、それすらも強靭な精神力で押し殺す。息を殺し、ただその一瞬を待っているのだ。
奪われたモノを奪い返す。そして、痛みを――苦しみを与え地獄へと突き落とすその一瞬のチャンスを――。
それが今、現在唯一の行動理念。惨めなこの現状の中でも精神を保ち、限界の身体を支え続けている唯一の柱だった。
そんな中、耳を多い被せているヘッドセットから声が聞こえてくる。
「よう。クロエ=フローレアつったっけ? 期待外れもいい所だなーー。母親の噂を聞く限り、もっと優秀で執念深い化物を想像してたんだが、こんな糞餓鬼だったなんてな」
目隠しををしていても分かる。
俺をこんな風に監禁した張本人だ。そして、全てを奪い、壊し尽した災疫だ。忘れる筈もない。この男だけは絶対に許す訳にはいかなかった。
だが、声が聞こえるだけだ。しかも、ヘッドセットから――近くにいる可能性は極めて低い。もしかしたら、壁を隔てて話しているのかも知れない。
ならば、ここで無駄に反応を示して体力を消耗する方が馬鹿だろう。
それよりも、体力を使い果たしたとみせて油断を誘う方が利口な筈だ。
今は何とでも言わせておけばいい。その間、この男をどう料理するかを考えればいいだけの話なのだから……。
それ以外にまったくもって興味が無い。
元より、既に公式には死んだ人間だ。いや、元々存在しない事になっている人間といった方がいいのだろう。そして、公安によって再び存在というものを、名前を抹消された。
今更、世間一般の常識的な法律に縛られるつもりはない。
それに、相手は法を真っ向から踏み付けるような存在だ。いや、法なんてザルな存在などはなから無視し、力だけで相手を屈服させる。国家権力の塊のようなものだ。
殺しすらも許された暴力的な集団。どこぞのマフィアよりも国家が認めているだけにたちが悪い。
そんな存在を相手にするにあたって、常識的になど滑稽過ぎるというものだろう。
「おやおや? 疲れ果てて身動き一つとれないのかな? いや、体力温存って所か! こりゃ、意外と前評判も嘘じゃなかったって事なのかな」
馬鹿にするような笑い方が耳元で響き、何度も反響する。
耳障りだ。その笑い声を聞く度に腹の中が煮えたぎる。
けれども、今は耐えるしかない。耐えて耐えてこの男を殺すその一瞬まで全ての神経を――――。
その先の未来など必要ない。いや、これっぽっちも求めはしない。
死者は死者のいるべき場所へと還るだけだ。それが成し遂げられた先に未練などない。
多くの人間の未来を踏み躙り、蔑ろにした元凶たる存在に生きる資格などないからだ。
大切な友人の希望すら踏み躙った人間がどうして、そんな光の道を歩めるだろうか。あるとすれば、そこまでも闇の底へと堕ちていくだけだ。永遠に……ただ、罪という名の十字架を背負い、ただのくたばりぞこないとして……。
『主任、あまり刺激するような事はお控えください。これ以上、公安内で火種を抱える訳にはいきませんので』
隣にいたスーツ姿のキャリアウーマン風の女の言葉に舌打ちした。
現状、コレを殺せないのはソレが原因だからだ。
正義の為ならどんな汚い事すらやってのける。全てが許容される筈なのだが、それを邪魔する存在がいるのだ。
現在の公安の二大勢力。
力で敵を捻じ伏せる強大な剣が俺だとするならば、奴は自らの正義を貫く法の番人――絶対的な守護者のようなバカ女とでも言えるだろう。
なまじ力を持っているだけに目障りだったのだが、この度その糞女はこの餓鬼を捕らえた事件の責任を取って、公安を追放され一時海外へと飛ばされた。しかし、その求心力は衰えを見せず、いなくなった今でも未だにその影響力は残っている。
恐らく、公安0課課長も呼び戻すつもりがあるのだろう。アイツは上層部への覚えもいい上に、次期公安トップの候補とまで言われていた存在だ。
それに、全てを喰らい尽くすような存在であり、自分にすら噛み付きかねない俺に首輪をつけておく為に……。
それを考えると、やはり何か手を打っておく必要がありそうだ。せっかく、追い払えたのだからそれまでの間に地盤を固めておかなければならない。奴の力をなるべく、そぎ落としておかなければ厄介だ。特に、コレの処遇については早急に決着を着けなければならない。
「綾峰ーー? もう一人の処遇についてはどうなってたかなーー?」
先程、忠告したキャリアウーマン風の女は資料を確認し始める。
その様子に軽く舌打ちした。その程度の知識は全て頭に入れておくのが常識だからだ。
確か、もう一匹は海外の暗殺組織へのカードとして捕えられた筈だ。もしかしたら、あの女をこっちでも利用できるかもしれない。
あっちはこいつと違い、罪状があるだけに即座に殺せる。
いつでも、使い捨てる事が可能な捨て駒だ。人権すら存在しない。家畜以下の存在だ。そして、あの女も処分保留を求めていた。利用しない手はない。
特に、この青臭い餓鬼につけるにはもってこいの首輪ではないか。
元より、犯罪者との約束事など守る必要はない。利用するだけ利用して使い捨てる際にこっちも始末すればいいだけの話だ。アレを処刑した事に怒り狂い、手が付けられなくなったとなど、適当な理由をつけて……。
それに、無理難題を叩き付けてもがき苦しむさまを眺めるのも面白いかも知れない。
ちょうど、いい標的もいる事だしな。神崎アリアの監視。イ・ウーなんて大きな獲物を相手にどう立ち回るか、特等席から見るのも悪くない。
そう考えをまとめると愚図な綾峰の返答を頬を吊り上げ、笑いながら静かに待った。
『あちらに関しては明日には仮処遇が決定する予定となっています。しかし、立花――幹部候補生の意見と対立してますので、まだ時間がかかると思われます。それが何か?』
「あぁ、なら殺すな。俺が折れれば処遇に関しては問題ないだろう? 万年、人手不足なんだ。この餓鬼を扱き使う為のカードにする」
『言っている意味がよく分かりません。処遇後に関しては主任の権限では意見できる立場ではありません。最終決定権は課長にありますから――そして、今回の決定権に関しては立花幹部候補生が海外出張と引き換えに……』
確かにアレとコレの処遇に関してはあの女と課長が決定権を持っている。
それが、海外派遣(いや、追放と言っても間違いはないが)の際に提示して来た条件の一つだ。しかし、それでは全くもって結局は犯罪者を釈放する流れになるのは目に見えている。
あの女はこいつら二人に関して情を抱いている。被害者。特に、アレは元々はそういう養成の為に創られた実験用素体。その第2世代の成功例だ。だからこそ、普通の人生をこれからは歩んで欲しいとでも言うだろう。
だが、それでは面白くないのだ。公安は絶対的な正義。悪と言う存在を根絶やしにしてこそ、正義というものだろう。
ならば、ここは少しばかり色々と根回しをする猶予を作るか……。
「まぁ、あれだ。絶望ってのは一縷の希望を断ち切られた時が一番深いんだぜ」
その言葉に、戸惑ったのか綾峰からの返答は返って来なかった。
確かにアレの解放は主任の権限では不可能だ。しかし、こっちに関しては書類上は何の問題もない。何故なら、この少年に関してはただの血統。犯罪組織に属していた訳ではない。まぁ、唯一罪に問えるとすれば撫子の逃亡の幇助に関して程度で檻にぶち込んだとしても数年程度。やる価値もない。
これ以上、揺すったとしても何の情報を出ないのはこれまでの時間で既に分かっている。
ただ、唯一の懸念はこの男があの女に近い事だろう。例の事件当時もあの女に協力する形で動いていた。それに、例の事件のお蔭で裏の裏にまでその名を轟かせてしまった。
噂でしか存在しなかった純血の血統。伝説の暗殺者の最終完成品。
そんな物が立花の手札になるのは惜しい。
出来るならば、手中に納め使い潰したいと思うのが人というものだろう。
『――その言葉の裏にはどのような思惑があるのでしょうか?』
その言葉の意味を真に理解しなければその返答に頷く訳にはいかない。
そう判断し、綾峰は理由を追求したのだろう。
だが、その予想通りの展開に主任はニヤリと醜い笑みを浮かべた。
「何って、ここは万年の人手不足だろ? それに、確か神崎アリアがこっちに来るらしいじゃないか。確かにあそこにはスパイはいるが、それでもいつでも動かせるって訳じゃないだろ? 使い潰せもしないしな。替えが利かないってのは不便だねぇ」
神崎アリア――
母親の件でイーウー逮捕に躍起になっている懸念材料。
確かに監視をつけるという事は決まっていたが、その人材選出までは行われていない。既に一人送り込んでいるとはいえ、彼一人では荷が重すぎるからだ。しかし、他には送り込める人材がいないのも事実。顔が知られておらず、実力もとなるとカードは極端に少なくなってしまう。白だとすると尚の事だ。
年齢の考慮を外し、教師を送り込むにしても監視が難しい。かと言って、生徒として使えるような年齢の人間は公安には極端に少ない。いたとしても、破綻している殺人快楽症を患ったような社会不適合者共だ。気付かれずに監視できるほどの脳を持つ者は……残念ながら主任の部下にはいない。
武偵として、近付くなど滑稽な三文芝居にもならないだろう。経歴を洗えばばれる。
そこで、この少年と言う訳だ。年齢的にも技術的にも監視役にはもってこい。十全と言っても問題はない。ただ、懸念があるとすれば首輪。
飼いならし、利用する為の首輪。それがなければ、命令など聞かないだろう。
そして、この少年を公安へと縛り付けるだけの材料はアレ以外に存在しない。
アレの解放を条件――――まぁ、そんな事が実際に許されるなど万に一つ有り得ないのだが……。なにせ、アレは『人形』は立証不可能な犯罪を含めると軽く十数回の死刑が確定しているのだから……。
『却下します。アレの解放を独断で約束など言語道断です。そのような事は許可できません。アレの処遇は課長に一任されているはずです』
「あぁ? 誰が解放するなんて言ったかな? 殺すよ、当然。おいおい、俺が犯罪者を野にわざわざ放ってやるとでも思ってるのか? おい」
なんで、折角捕まえた家畜を逃がさないといけない。
捕まえたからには殺す。殺すからには絶望に塗れた顔を見せて貰わないとならない。生まれて来た事を後悔するような醜い姿をさらして、その罪をその魂に刻んで貰わなければならない。
条件は全て揃っている。
それが主任がこの公安0課の中でも恐れられている理由だった。
犯罪者を徹底的なまでに叩き潰すその執念はもはや、正義とは懸け離れたもの。
同じ穴の貉といっても差支えがないレベルにまで至っていた。
「なんで、俺らが犯罪者との約束をまもらないとならないわけ? 正式な契約の書面でもある訳でもないんだぜ? そんなもんは無意味だ」
『法を超越した存在ですか』
法に縛られず殺しのライセンスを持つ公安0課。
その意味を大いに役立てるのにそれ以上の意味合いは無い。
力を第一に考え、ここまで登り詰めてきた化物ならではの結論だろう。
しかし、その結論を出すには綾峰では権限が低すぎるだけに即座に返答は出来ない。
ただ、一つだけ解ってしまった、この男はそれに乗るしかない事を理解していっているのだ。
課長も飛ばされた立花も今回の件に関しては痛み分けという形で事を終えたいと思っている。事が事だけにこれ以上、どちらに対しても課長としては波風を立てたくないのだ。ただでさえ、イ・ウー関連で頭を痛めているところに穴倉との交戦ともなれば組織が持たないのは目に見えているだけに。
何より、二大勢力と下手にぶつかれば、世界の情勢が一気に覆る事態を起こしかねない状況なのだ。最悪、世界が大きく荒れる事にもなりかねない。
あの事件の裏に関わっていたあちら側の住人は此方側の世界で裁くなど不可能な存在ばかりだった。実際問題、『人形』に関しても処分保留となっているのはソレをこの国の法律で裁くことが出来るのかという事が大きい。
イ・ウーに並ぶとも言われる穴倉という名の怪物たちの巣窟。日本と言う小国程度が相手にするには強大過ぎる広大な底なしの闇。
その筆頭として挙げられるのは代々、公安の重役を担ってきた立花を一人で壊滅させた立花桜花と呼ばれる一人の剣豪。今回の事件で追放された立花繚乱の実の姉にして立花家の作り上げた剣の一本。
ソレに加え、今回の事件で漸く存在が確認された『撫子』と呼ばれる情報屋。それらが互いにネットワークを構築し、一つの規律と規範も持った組織として存在している事が明らかとなったH&G――通称、穴倉。
これまでほとんど表には情報を漏らさず、幹部すら不明だった組織。
公安が恐れているのはその報復だけではない。彼らがどのような立ち位置にあり、裏社会でどのような役割を担っているのか。彼らが潰れた場合の表並びに裏での影響。それらが判断しきれないというものだった。
だからこそ、即座に答えは出せなかった。その主任の問いに対し、綾峰の権限では。
「返答、待ってるよん」
その言葉に綾峰は身震いしながら、課長に意見を求める為にその部屋を後にするのだった。そうしなければ、自分が主任の手の中で踊るピエロにされてしまいそうだったからだ。
それ程までに人間の本能的な恐怖を刻みつけられていた。
「それで、あなたは彼を自由にすることに対してどう思うかしら? 伊織には反対されたし、今後の筋書きを考えればカードとしては切れすぎると思うのだけど」
とある一室で車椅子の女が大型のモニターで作業を熟す一人の女性に問いかけた。
その女性は車椅子の女の問いを意に介さず、作業を黙々と続ける。
まるで興味がないといわんばかりにだ。
「うまく事が運べば、穴倉の幹部を表に引き摺り出せる。問題があるとすれば。彼らが裏社会で担っている役割が抑止力である点なのよね」
「それを私に聞くのか。そもそも、前提が間違っているだろ。『道具』を裁くことに何の意味がある。『人形』は所詮、『道具』に過ぎない。もしも、自我が宿ったというのなら話は別だがな」
「そういうものかしらね。ところで、彼に渡す予定の身分に関してなんだけれど、どうしてロシアからの留学という形にしたのかしら? 穴倉の撫子なら簡単に特定できてしまうと思うのだけど?」
「奴の作った下地をそのまま流用したからな。実際、新しい身分を作るのは難しいが、元々存在している身分を少しいじる程度なら作業の量も最小限に抑えることが出来るだろう。そういう意味合いではあの撫子は優秀だよ。奴に与えられていた身分には穴がなかった。完璧すぎる程にな」
モニターには今回、彼に与えられる身分が示されていた。
フィアナ=シュトレーゼという名前は彼の使っていたもののまま。
彼の前の身分と違う点はただ一つ。海外の武装探偵高校に通っていたという点だけ。これに関しても向こうの学校のサーバに不正アクセスし、新しく身分を作成しているので問題はなかった。問題があるとすれば、彼に付与したランクだが、これに関しても
国際武偵連盟の方に既に話は通している。粗はない。
「なるほど。なら、今回はそのまま話を通すとしましょうか。こちらの思惑通りに動くとは思えませんが、少なくとも撒き餌にはなってくれるでしょう。牙を剥かれたときは厄介ですけど――その時は、彼を切り捨てるだけで済みそうですしね」
そう告げると車椅子の女は満足げに室内を後にする。
それを確認した眼鏡の女は小さくため息を吐くと隅に開いたプログラムにこう入力した。
『撫子へ――猟犬に首輪が付いた。接触する際は注意されたし』
結論からまとめるとあの男の思惑通りの筋書きで話は進む。
唯一、主任の誤算だったのは飛ばされた立花とその右腕が公安に帰還する日時が早まった事だろう。そして、もう一人の方の処遇に関しても帰還し次第、決定するという事項を書面で取り付けられた。こうなってしまえば、主任も手が出せなくなる。
両者の落としおころを見極めての結果だけに互いにそれを受け入れる事となったのだった。はっきり言って、この決定に関しては公安内部でもホッと胸を撫で下ろした人間が大勢いるレベルだ。それ程までに、今の公安の空気は立花に付いている人間に取っては厳しい物となっているのだった。
拘束されていた少年は本来とは違う身分と名前を与えられ、アリアの監視の任に付く為に東京武偵校へと派遣される事と相成った。神崎アリアの監視以外にも、数か月前のとある事件に関係して保険としての遠山キンジの監視という任務に――。
簡単に説明するとすれば、遠山キンジに関してはある程度の放置。問題はその兄。
情報によればイ・ウー内部で行動しており、二人が接触する可能性があるかもしれないからだ。その場合、遠山家が二人もあちら側に着き、厄介なことになる。そうなった場合、速やかに処分するという意味合いもあった。
ただ、問題は存在する。波風を立てたくなかったもう一つの所以が深海に沈んだかのように物音ひとつ立てず、いまだ静観している事だ。
『人形』と彼。この二人を拘束した事件の際に動いた通称H&Gと呼ばれる彼らの存在。そして、イ・ウー。不穏な空気を抱えたまま、歯車は噛み合い、時代は移り変わりを見せ始めるのだった。
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