万全ではなかった事が仇となったか。
いや、どちらにしろ分が悪いのは変わらない。
元々の筋肉の量が明らかに違うのだ。それに加えての大太刀。
ナイフで相手が出来るような代物ではない。三尺にもおよび、馬上から馬の走る勢い出来る筈の武器を片手で振り回せいているのだ。鬼というのはここまで厄介な化物なのか。
此方はナイフ。受け止めたとしても、その威力を殺すのは難しい。
何より、掴まれたら終わりだ。捻り潰される。
「どうした? 先程までの威勢の良さが陰っておるぞ」
押しきれない。それどころか、遊ばれている。
その状況に思わず舌打ちしてしまう。
この幻術を解除する為にはどうすればいいか。ステルスに関する知識はそれなりにあったが、魔女クラスに対する知識は殆んど持ち合わせていなかった。出会う局面がなかっただけに。
ましては千年の昔から闊歩していた真正の怪物だ。
そんな怪物を相手にどう戦えばいい。土台が違い過ぎる。
ただ、ここでの時間の流れが外の時間の流れとどういった関係性にあるのかも分からない。
向こうも危機的状況だ。時間を賭けられる相手ではない事も明白。
「黙れよ。時代遅れの化物風情が」
「言うではないか。ならば、貴様は何者ぞ?」
構えが変わる。
片手でただ振り回されていた大太刀の柄を両手で握ったのだ。
その様子に嫌な予感を覚えると即座に回避しようとするのだが、僅かに遅かった。
刃には当たらなかった。だが、その振り下ろされた刃から発生した暴風に吹き飛ばされる。
ここには何もない。空中に放り投げられた人間はただ落ちていくだけだ。
骨がきしむ。肺の中にあった空気を全て吐き出してしまい、息が出来ない。
それでも止まっている訳にはいかない。次が来るからだ。
頭ではそれを理解している。だが、身体が思うように動かない。
左腕に何かが突き刺さる。声にもならない激痛が全身を走る。
その時、初めて自分が目の前の相手に恐怖しているという事に気が付いた。
「やれやれ、この程度か。まぁ、確かに所詮は人の身よ。我々のような存在に恐怖するのはそれこそ、人である証明か。ならばこそ、ここで貴様を終わらせてやろう」
終わる? 恐怖している?
誰が? あぁ、俺が、か。
いいのだろうか。俺がここで終わっても。
鬼は俺の左腕から刃を引き抜くと、首筋目掛けて振り下ろそうとする。処刑するかのように。
いや、良い訳がない。そんな救いが許されていいはずがない。
心の中でそれを受け入れられない自分がいた事に気付いた。
何の為にここまで全てを投げ打った。ここで立ち止まって良い筈がない。
相手が怪物だというのなら、自分も同じ所まで落ちればいいだけの事だ。
方法論などもういらない。手段など、必要ない。結果だけが全てだ。
動く右手を素早くスカートの中に潜り込ませると、スタングレネードを鬼に向かって叩き付ける。
辺りは白い光と轟音に包まれる。咄嗟の判断だ。どうやら、こちらは視覚と聴覚をやられたらしい。
だが、痛みはある。生きているという証だ。ならば、戦える。
まずは使えない物を切り捨てよう。邪魔なだけだ。
「足掻くか。人間如きが!」
感覚は失っても、気配でどこにいるかは分かる。
防戦していては勝てない。攻勢に出なければ――未来はない。
そう判断すると、頬を釣り上げて笑った。獲物を狩る事を楽しんでいるかのように。
小細工は通用しない。それを知っているだけに、真正面から挑む。
大太刀は一本。最後まで矜持を持って挑むとしよう。
刃が振り下ろされる。鮮血が舞う。だが、驚愕の表情を浮かべたのは鬼の方だった。
左手は宙を舞ったのだろう。何かが抜けていく感覚がする。しかし、すぐに次の斬撃が来ないという事はわずかに角度が逸れて時間がかかっているという事だろう。
これで懐に入れた。
怪物と言っても、生きている事には変わりない。
ましては人型だ。
急所も同じ。
「まず、一撃」
そう呟くと、残った右腕を鬼の腹に叩き込む。
何かが砕ける音がした。いや、これは骨じゃない。胴だ。
それが衝撃を殺し、完全に肉体まで浸透させるのを防いだ。しかし、これで奴の防御はなくなる。
次は相手の頭に頭突きを叩き込む。歯が数本、折れたらしく額に突き刺さるが気にしない。
頭が後ろに倒れた影響で体が後ろへと仰け反る。その瞬間、首を掴み地面に叩き付ける。
「お前の負けだ。さっさとこの幻術と解け」
「どうして、そこまで生きようとする。我には汝の目は死んでおるように見えるが」
視界が戻ってくる。
口の動きから、なんどか鬼が何を言っているのかを理解するとこう返答する。
「だったらなんだ。意地だよ」
貫くだけの意地。それ以外には何もない。残っていない。
それに縋っている訳ではない。ただ、己を曲げたくないだけだ。
その為ならば、たとえなんと呼ばれようと構わない。そうでもしなければ、ここまでの道のりが無意味になる。
「意地か。なら、その意地をどこまで貫けるか試してやろうではないか」
そう告げると鬼の様子が急変する。
震えが止まらない。目の前にいる存在に理性が恐怖する。
だが、足を踏み止まらせる。ここで逃げたら喰われるだけだ。目を逸らすな。
覚悟を決めると自分の左手の甲にナイフを突き刺した。
「恐怖を克服しろ。飲み込まれるな。飲み干せ」
何度もそう呟くと、次第に震えが収まって行く。
いつだってそうだ。これまでと何ら変わらない。いつだって、俺は弱者だ。
常に強者と相対して来た。だったら、何を恐れる事がある。ただ、いつものように食らいつけばいい。
ナイフを引き抜くと、付着した血を一舐めする。その頬は笑っていた。
俺が強くなったわけじゃない。俺がただ生き残り続けただけだ。
それを人は強さと言うのかも知れないが…………。
多くの人間はコインを投げる事を諦める。投げた後の結果が一つだと言って。
ただ、それを行って来ただけだ。それだけの差しかない。
そして、勝ち続けた。走り続けただけだ。
「何がそんなに面白い? 殺し合っているというのに」
「あぁ、笑っていたのか。そうか。でも、ようやく戻って来れた気がする」
大きく深呼吸すると、ナイフを構える。
左手はもう使えない。絶対的に不利な状況。
これを乗り越えれば次の段階へと行ける。弱ければ、救えない。力が全てだ。
鬼が消える。斬りかかって来るのだろう。勝負を決めるつもりらしい。
肉を刃が貫く気持ち悪い音がする。左腕が熱い。血が滴り落ちる。
「これでお前の武器は使えない」
刃が胸の皮膚を貫く寸前で止まる。
そして、拳銃を引き抜くと鬼目掛けて斬鉄を落とした。
一発の銃弾は鬼の額を正確に撃ち抜く。当然、その衝撃でゆっくりと地面に落ちて行く。
だが、ここで終わる訳がないすぐに立ち上がって来る筈だ。
猶予はない。即座に野太刀を圧し折ると鬼へ向かって走り出す。
だが、相手は鬼。即ち、異界の住人。
ステルス持ちであって然るべき存在だ。特に人間から鬼に堕ちた人間であるならば。
どちらが先に手が届くかの勝負だ。
バキバキと骨が折れる音がする。
驚愕の顔を浮かべたのは鬼の方だった。
「これではどちらが本物の化け物か分からんではないか。手を抜いていたとはいえ、本気でいったのじゃがな」
左腕が潰れている。もう物を持つことさえも不可能なほどに。
だが、右腕に握られた折れた野太刀の刃は鬼の心臓を貫き、今まさに頭を潰さんと動いていた。
「笑わせるな。俺達のような存在はヒトデナシの時点で同類だろ。下賤も何もありはしませんよ」
ただ、ここでくたばるのを良しと出来るかどうかだ。
だからこそ、あがき続ける。どんな手段を用いても。どんなに穢れようとも。
鬼はそんな言葉に満足げに笑みをこぼす。だが、その中には哀しみを内封していた。
「勝つ為に手段は問わんか。その勝利への執念、餓えはすさましいモノじゃ。だが、同時にそれは何も見えておらぬという意味でもある。哀れじゃな。自分を労われなくなるとは。いや、ワシのいう台詞じゃないか」
何も言い返せない。
哀れなどという言葉を直接言われたのは久しぶりだ。
自己犠牲と言えばきれいだが、実際はそれよりもひどい。ただ勝つ為の手段として最初からカードに自分の命を持っているのだ。本来、それは最後の手段である筈なのに。
「お主はワシに似ておる。ぶつけどころのない怒りを内に秘め、人を辞めようとしているところがな。じゃが、覚えておけ。その一線を越えてしまえば、もう二度と戻ってはこれぬぞ」
「戻るつもりはありません。それに、その道が不幸かどうかなんて他人が決める事じゃありませんよ」
「確かにそうじゃったな。今回は勝利は譲ろう。また、会おうぞ」
鬼がそう告げた瞬間、目の前が真っ白になる。そして、光が戻ってくると目の前には東京武偵校の制服を来た女生徒が心配げに覗き込んでいた。
どうやら、気絶していた事になっているらしい。あの不気味な気配はもうない。逃げたか。
「あの、だいじょ……」
「問題ありません。それより、状況説明を簡潔にお願いします」
「えっと……フィアナさんが倒れて五分も経ってないんだけど……それに、状況はなにも変わってないよ」
あれだけやって五分と思う反面、五分も時間を浪費してしまったという気持ちもある。
この手の状況は相手より先回りしていかなければならない。つまり、それだけ立場が悪くなったことを意味している。そもそも、いつ爆発してもおかしくない状況で……?
「ありがとうございます。中空地さん。現在のバスの移動ルートをこちらに転送してもらえますか?」
『ただちに転送します。それより、急に倒れたようなので心配しました』
「ご心配をおかけしました。しかし、救助班が来るまで待っていたら犯人に逃げられますね」
ここまでの言動から判断するに、こちらを視認でも確認しているはずだ。
となれば常に確認出来る場所は限られる。即ち、時間が経てば経つほどに自分の首を絞めていくことになる。
バスのガラスは割れている。脱出経路も問題ない。
大きく息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出す。
タイミングは限られる。それにしても、アンカーガンを持ってきていてよかった。
これ自体は殺傷武器ではないから、持ち運ぶのを咎められない。その上、使いやすい。いい道具だ。
後面の割れたガラス窓から飛び出すと、すぐに信号へとアンカーガンを打つ。
それに反応したのか、銃撃音が響き渡るがどうやら角度までは調整できなかったらしい。
信号の上にまで逃げ切った時点でどうやらこちらの勝ちのようだった。
「受け取り確認しました。なるほど、四か所ですか」
大まかに見繕って四か所。
スナイパーとの対峙経験も踏まえると――考えられる場所は一つ。
ただ、問題は相手がスナイパー経験者であるか否かだ。
最有力候補に必ず待ち構えているとは限らない。
相手の能力と経歴が分からないのが痛い。最後の最後で詰めが難しい。
『四カ所?』
「一応、これまでの事件にかかわった生徒を全員リストアップしておいてください」
『説明をしていただけると助かるのですが』
「武偵校の通学用のバスに一般人が爆弾を仕掛けられるとは思えない。かといって、ここまでの事件性から考えて組織的な犯罪とは考えにくい。となれば、内部犯と考えるのが筋でしょう。そして、そこに犯人がいるならば証拠が出てこない理由にもなる」
目的が見えなさ過ぎる。
もしも、何かしらの目的があるのなら犯行声明があるはずだ。それがない。
かといって、無差別とは思えない。
『分かりました、調査をするように依頼しておきます。ところで、そちらの様子はどうですか?』
「雨ですね。私、雨はあまり好きではないんです。あと、今はホテルの中ですよ。本命の。通信を一度切りますね」
理由を丁重に説明したら、案外すんなりと通してくれた。
最悪、弘安の名前を出そうかとも考えていただけに呆気ない。
それだけ武装探偵が信用されているのだろうが、どこかその事実が腑に落ちなかった。
右手にナイフ。左手にはMk23。扉の前で息を殺す。
中には誰かがいる気配を感じ取る。急いでいるようだ。逃げ出す準備だろうか?
鍵をゆっくりと音を立てないように開けると、部屋へ強襲をかける。
「動くな。手を頭の後ろで組んで床に伏せろ」
そこにいたのは意外な人物だった。
峰理子。探偵課。この時点でチェックリストと合致する。
ただ、目的が分からない。いや、目的などあとでいくらでも聞き出せばいいか。今は確保が優先だ。
銃声が響く。引き鉄を引いたからだ。峰理子の視線が窓へと移動したから。
「次は外しませんよ。忠告は一度までです」
この状況、脱出経路は窓からの飛び降りか入ってきた扉の二択。
どちらが安全かを考えれば、窓からの脱出だろう。私ならそうする。
頬から血を流す峰理子はこちらをにらみつけると、軽く舌打ちをした。
「どうしてここが分かった」
「簡単ですよ。最有力場所ですから。ただ、私ならもっと頭を使います」
確実に手が回るのは有力地点からだ。
まぁ、恐らくは脱出経路も考えた上での判断なのだろうが、それを潰された以上は何も言い返せないだろう。
ただ、よく考えればここで峰理子を捕まえる旨みがない。ここは恩を売るのも一つの手か。
「そうだ。いくつか質問に答えてくれたら見逃して差し上げましょう」
「信用すると思ってるの? 理子りんが」
「信用していただけないならそうですね……。両腕でも潰しておけば、もう二度と悪さは出来ないですかね」
両腕の神経を切断すれば、細かい作業は出来なくなる。
それくらいしておけば、報復も個人では行えないだろう。他人を頼る程、矜持を捨ててもなさそうだ。
こちらの言葉を本気と思ったのか少しだけ考え込むそぶりを見せると小さく頷いた。
「では、まず一つ。先日の大使館襲撃に関わっていますか? 貴女の加入している組織が」
「私は関わっていないけど、イ・ウーが関わっていないとは言い切れない。他に何か情報があれば分かるかもしれないけど……。どうして、そんな事を理子に聞くのかな?」
「質問をするのはこちらです。襲撃に関与していたのはロスアラモス・エリート。中国語を喋る凄腕のスナイパー。敵対していた項羽と名乗るチャイニーズ」
項羽とスナイパーの部分に理子はわずかに反応した。
なるほど、この二人に関しては知っているという事か。
だとすれば、項羽がイ・ウー側であり、スナイパーは雇われといった所だろうか。そうでなければ、辻褄が合わない。いや、スナイパーは元イ・ウー?
どちらにしろ、先日の事件にイ・ウーがどのような形にしろ関わっていた事だけは確実だ。
「断定は出来ないけど、『教授』が『項羽』に指示したんだと思う。アイツは自分からこんな平和ボケした場所に来るとは思えないから……。スナイパーに関してはそれだけだと、断定は出来ない」
「教授ですか。まぁ、それ以上は深入りしない方がよさそうですね。では、次の質問です。瀧夜叉姫という存在について何かご存知ですか?」
「……………どうして、それを理子に聞くのかな?」
どういう事だ?
あの女が私に絡んできたのはこの一件とは別件?
てっきり、イ・ウー側の人間かと思ったのだが反応から考えるにそれも違うようだ。
だとすれば、一体どこの存在なのだろうか? 目的が分からない。
「襲われたからです。撃退しましたが」
「げ、撃退? あの怪物を!? ブラドたちがまともに相手にされなかったのに!」
まるで怪物をみるような眼に思わず、苦笑いしてしまう。
あの鬼は手加減していた。つまり、舐められていたというわけか。
ブラドがどれ程の強さかは分からないが、言葉から考えるにイ・ウーでも上位の存在なのだろう。
ただ、余計に目的が分からない。また会いにくるとも言っていた。何が目的だ?
「手加減されてましたからね。後、質問は……人工的な天才を作る研究に関して何か知っているか?」
理子は少し意味の分からないような顔をする。
「それってステルスって事? それなら、どこだってしてるよ」
「分からないならいいです。忘れてください。私からの質問は以上です。ここを洗浄しますよ」
峰を目撃した事がばれれば後々面倒なことになる。
互いの為にここでの痕跡を消すべきだ。問題は電波の痕跡だが、洗浄してしまえばどうにかなる。中空知に確かめさせた情報も握り潰せば問題ない。
「一つ聞いていい? さっきから手際が良いようだけど、どこかの組織の人間なのかな?」
「好奇心は猫をも殺しますよ。不用意な詮索は身を滅ぼしますからね」
手際の良さ。情報網から武装探偵として以外の所属と判断したのだろう。
しかし、様子から判断するにどこのとまでは分からなかったらしい。
そうして、無言のまま作業を終えると理子と別れ、即座にホテルを後にする。もぬけの殻だったと、ホテルのオーナーに報告も忘れない。ホテルから出ると雨の中、通信機を入れた。
「どうやら、逃げられたようです。足が早い。それより、そちらはどうでしたか?」
『アリアさんが負傷しました。ですが、死傷者はいない模様です』
「『今回も』死者はなしですか。でも、へまをしましたね」
峰理子には死者を出すつもりはなかったのだる。
もしも、テロリズムとして行っていたなら死者が出ていたはずだ。大量に。
今回は相手に救われたといえる。相手の目的に。何を考えているのか詳しくはわからないが。
温情で助かった。そう考えて間違いではない。実戦経験の多い警察に任せておけばよかったのだ。
日本の警察は優秀だ。
「ところで頼まれていた資料は入手しましたがどうしますか?」
関係者資料か。
犯人が判明した以上、無用の長物だ。
ただ、アリア達に渡すのは惜しい。貸しも作った事だ。ここは助け船を出してやることにする。
「どうやら、変装が得意らしいですね。逃げ出したようですが、名簿が何枚か。制服に関しても入手ルートを持っていたと考えれば、内部犯の可能性は五分五分。下手に情報を渡せば、捜査を混乱させかねない以上は渡さないというのが妥当な判断ではないでしょうか?」
『了解しました。ところで現在、どちらに? 皆さん、心配しておられましたよ』
確かにそうか。
あんな脱出劇を行ったとなれば、どうなったか気になるのも致し方ない。
一人だけ逃げおおせたのだ。あの状況から……。
「ご心配おかけしました。でも、この通りピンピンしてますよ。恨まれているでしょうがね」
見捨てて逃げたのだ。恨まれても仕方がない。その事実に何も感じないが……。
そもそも、仲間意識も持っていない。そこまでなれ合うつもりはない。利用し合う関係だ。
『ところで、例の依頼の方は……犯人を突き止めろという事でしたが』
その質問か。
犯人はすでに割り出した。峰理子だ。話しぶりからイ・ウーの人間だが、今回の一件はイ・ウーの息がかかっているというより、個人的な思惑の方が大きいだろう。
彼女を潰したところでイ・ウー自体は動かない。尻尾切りで終わる筈だ。
まぁ、同情はするよ。その弱さ故の立場って言うのには。
そんな事を考えていると、中空知はこう続ける。
『録音は切りました。ですので、記録に残ることはありません』
「一応、犯人に接触は出来ました。ただ、一介の個人が首をつっこむには危険すぎると判断したので逃がしました。目的は犯人の確保ではありませんでしたから、無茶をする意味はありませんでしたしね」
『つまり、依頼は達成ですか……。本当に彼らと繋がりを持つつもりですか?』
裏社会と繋がりを持つ。真っ当な正義とは言いづらい。
だが、蛇の道は蛇とも言う。彼らなくして世界は回らない。綺麗事では何も変わらない。
「そう思えるのは貴女がまだ青いからです。貴女もいつか知ることになりますよ。正しさに何の価値もないことを。そんなものでは何一つ守れない事を」
『でも、その正しさの上に社会は成り立っています。たとえ、どんなに歪つだったとしても、それを否定したら社会は成り立たないと思います。だから、その……』
矛盾を孕みながらもそれを正しく運用する。
それが正しい社会の運用方法なのかもしれない。
でも、もうそんな真っ当には生きられない。そんな綺麗事を信じられない。きっと、彼女から見たら私は悪だ。
「なら、中空知さんはそれを貫いてください。その信念を決して折らず、大切にしてあげてください」
私は作り笑いをすると、その通話をこちら側から切ったのだった。