活俠傳 短編集   作:ボブの卵かけご飯

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運功療傷という名の双修一歩手前


運行療傷

西夏戦役から時がたち、いまだ趙活は講経堂で戦後の書状を片づけていた。

 

向かいでは三師兄の唐陞が帳面を照合している。机には、各派の損耗、借りた馬、薬材、戦死者への見舞いに関する紙が積まれていた。

 

昼を過ぎた頃、若い弟子が入ってきた。

 

「唐芳師姉がお呼びです。煉丹房の奥へ来るように、と」

 

唐芳は朝に弱い。夜遅くまで薬と針を見ている代わりに、急患がなければ昼近くまで起きてこない。

 

「何の用か聞いたか」

 

「雲裳姑娘のことだとだけ」

 

趙活はすぐに筆を置いた。

 

「三師兄、少し外します」

 

「こちらは進めておきます。行ってきなさい」

 

 

 

煉丹房へ入ると、唐芳と雲裳が待っていた。

 

唐芳は待ち時間の間で済ませられる簡単な薬剤の処置を行っていた。

 

雲裳は腰掛へ座り、机に置かれた薬包からできるだけ離れていた。

 

趙活は戸を閉じた。

 

「雲裳の真気が、胸で滞っています」

 

唐芳が煎じた薬剤を片付けながら言った。

 

「いつからです」

 

「昨夜。本人は一昨日から気づいていたようです」

 

「熱は」

 

「ありません」

 

「胸痛、息苦しさは」

 

「軽い動悸と、指先の冷え。朝、階段で一度足を止めました。脈は細いですが、病が戻ったものではありません」

 

趙活は雲裳の前へ膝をつき、手首へ触れようとした。

 

唐芳が止めた。

 

「先に話を聞いてください」

 

「脈だけです」

 

「私が先ほど見ました」

 

「俺も見ます」

 

「話の後で」

 

趙活は雲裳の手前へ座った。

 

唐芳は彼の顔を見た。

 

治療の話になれば、趙活は医者の顔となる。ましてや今回は雲裳についてだ、いつもより一段気を張っていた。

 

「雲裳の経脈は治っています。丹田も壊れていません。ただ、戦役の間は気を張り続けていた。あなたが戻って緊張が解けた後、体が追いつかないうちに動きすぎたのです」

 

唐芳はそこまで話すと、雲裳の手を趙活の方へ向けた。

 

「見てください」

 

趙活は雲裳の手首へ指を置いた。

 

左右の脈を取り、舌も見せてもらう。

 

「脈は細いが、弱りきってはいない。舌も悪くない。病が戻ったわけではありませんね」

 

唐芳が僅かに頷いた。

 

「胸で気が滞っている?」

 

「胸から肩へ上がり、指先まで回りきっていません。本人が動かそうとすると、強く押しすぎます」

 

趙活は少し息を吐いた。

 

病の再発ではない。

 

そのことだけで、肩に入った力が僅かに抜ける。

 

「帰脈針ですか」

 

「そこまで要りません。薬で三日。鍼なら今日一度と、明日もう一度」

 

「薬は?」

 

唐芳は手に持っていた処方を見せた。

 

趙活は一目で材料を読んだ。

 

「桂枝は少なく、白芍を倍。炙甘草、茯神、炒った酸棗仁。それに遠志まで入れるんですか」

 

「胸のつかえと眠りの浅さを一緒に取ります。酸棗仁は炒ってから砕く。龍骨だけ先に煎じ、二沸してから残りを入れます。桂枝は香りを飛ばさぬよう最後です」

 

「苦そう」

 

「効きます」

 

「鍼は」

 

「先に太衝を開き、内関を平補平瀉。神門は浅く。胸のつかえが残れば、膻中へ横に入れます」

 

「肩井は使わない?」

 

「気はもう上へ逃げています。肩から散らせば、その場は楽でも、また胸へ戻る。下を先に開きます。膻中も直には刺しません」

 

「痛そう」

 

「効きます」

 

「雲裳は」

 

「どちらも嫌だそうです」

 

それで唐芳がここへ来た理由の半分は分かった。

 

残りの半分は分からない。

 

嫌がる雲裳へ薬を飲ませるだけなら、唐芳一人で十分だった。

 

「俺に説得しろと?」

 

「違います」

 

唐芳は、ほんの少し言いにくそうに間を置いた。

 

それは珍しかった。

 

「運行療傷を試します」

 

趙活は答えなかった。

 

雲裳が先に答えた。

 

「趙おにいちゃんが、わたしに」

 

「師姉」

 

趙活の声が低くなった。

 

「大丈夫ですか」

 

「大丈夫でなければ来ません」

 

「俺の内力は、もう唐門真気ではありません」

 

「知っています」

 

「雲裳の中に残れば、あの子の真気と争うかもしれません」

 

「それも知っています」

 

「なら」

 

「だから私が見ます」

 

唐芳は言った。

 

「あなたの内力で雲裳の真気を代わりに回してはいけません。経絡の境へ僅かに添え、詰まった先だけを示す。雲裳自身の真気で一周させます」

 

「俺の内力が混じるかもしれない」

 

「混ぜないでください」

 

「簡単に言いますね」

 

「できないなら薬にします」

 

唐芳は処方を机へ置いた。

 

紙から苦味が漂ってくるようだった。

 

趙活は唐芳を見た。

 

「雲裳が言い出したんですか」

 

「半分は」

 

「残りは?」

 

「私です」

 

唐芳は淡々と言った。

 

「経脈が治った後、外力へ頼らず、本人の真気だけで周天を続けられるか、いずれ試す必要はありました。今なら乱れが軽い。私が外から止められます。あなたも以前より、今の内力を扱えるようになっています」

 

「まだ書状が残っているんですが」

 

「そう言うと思ったので、ここへ呼びました」

 

「なら、薬で」

 

「今、薬って言った?」

 

「聞き間違いだ。仕事が残っている」

 

雲裳が上目遣いをしながら手を合わせ懇願する。

 

「裳だって仕事をしているわ。でも今日は病人でしょう。じっと座って、おにいちゃんに心配されて、唐芳姉さんの言うことを半分くらい聞くの。それに、苦い薬や痛い鍼じゃない方法があれば最高ってことよ」

 

「最後の半分も聞け。薬と鍼が結局嫌なだけじゃないか」

 

「そうよ。全部聞いたら、苦い薬を三日も飲むことになるじゃない。芳姐さんだって手間をかけてわたしに飲ませるのは大変じゃない」

 

「そこは手間をかけさせずに飲め」

 

雲裳は自分から遠ざけていた処方を、指先で趙活の方へ押した。

 

一行目で顔をしかめた。

 

二行目で紙を遠ざけた。

 

三行目まで読むと、趙活の袖へ紙を押しつけた。

 

「おにいちゃん、これを飲んでみて。おにいちゃんは元気だから、もっと元気になる。わたしは病人だから、こんな苦いものを飲んだら、薬より先に心が弱ってしまうわ」

 

「俺の薬ではない」

 

「こんなにかわいい病人からのお願いよ。かわいそうでしょう」

 

「自分で言う病人はかわいそうではない」

 

「自分で言わなかったら、おにいちゃんは仕事へ戻ってしまうもの」

 

唐芳が二人の間へ針箱を置いた。

 

細い音がした。

 

雲裳の視線が針箱へ落ちる。

 

雲裳は必死な思いで趙活の服を揺さぶった。

 

「おにいちゃんはちょっとぐらい仕事を空けられるでしょう。唐芳姉さんが見ているから危なくないし、うまくいかなければ途中でやめればいい。薬なら三日、鍼なら二日、運行なら今ここで済むかもしれないの。おにいちゃんが断る理由は、仕事があることだけでしょう?」

 

「俺の内力がお前の真気へ混じるかもしれない」

 

「それは唐芳姉さんが先に説明したわ。だから、できるかどうかを確かめるのでしょう。わたしは軽い乱れで、今なら失敗しても薬を飲めば済む。もっと悪くなってから初めて試す方が危ないわ」

 

雲裳はそこで一度言葉を切り、趙活の顔を覗き込んだ。

 

「それとも、おにいちゃんは、わたしが針を刺されて苦い薬を飲む方がいいの?」

 

「仕方ないだろ」

 

雲裳は必死な思いで、趙活の服を掴み揺さぶった。

 

趙活は一度、溜息を吐き、呆れた顔で言った。

 

「わかったわかった。やってやるから」

 

雲裳は、ぱっと笑顔になり、両手を差し出した。

 

趙活はその手を見た。

 

指先が少し白い。

 

冷えている。

 

左の脈を取る。

 

細い。

 

一度、趙活は閉じた戸の向こうを見た。

 

講経堂には、まだ仕事が残っている。

 

目の前の細い脈も、三日待てる程度のものではある。

 

実際に薬や鍼で快方に向かうものだろう。

 

だが、治せる可能性があり、安全に試せる機会がある。それを、自分の仕事を理由に後へ回すことができなかった。

 

それに、雲裳に苦い薬や痛い鍼がないなら、越したことはないのだ。

 

趙活は完全に調子を切り替え、言った。

 

「一刻までの予定です」

 

唐芳は砂時計を机へ置いた。

 

「わたしはおにいちゃんならやってくれるって信じてたわ」

 

「薬材がもったいないからだ」

 

「はいはい。おにいちゃんの薬材を大切にする心に、わたしが救われてあげる」

 

唐芳は煉丹房の奥にある低い寝台へ薄い敷物を二枚重ねた。

 

雲裳は靴を脱いで上がり、趙活へ背を向けて座る。両脚を組み、両手を膝へ置き、背筋を伸ばした。座禅にも似た姿勢だった。

 

趙活もその後ろへ胡坐を組んだ。

 

「いつもの運功療傷とは、やり方を変えます」

 

唐芳が言った。

 

「どの程度です」

 

「雲裳の真気を押し返さず、通る道だけを示せるところまで。ただし、丹田へは触れないでください」

 

「外から分かりますか」

 

「脈と呼吸に出ます。入りすぎれば私が止めます」

 

やり方を教えられたのではない。普段なら避ける深さまで入ってよいと、医者が許したのだ。

 

趙活は両腕を上げ、雲裳の背へ左右の掌を置いた。肩甲の下、背骨を挟む位置だった。

 

衣を隔てていても、雲裳の体温が伝わる。

 

「冷たい」

 

「すぐ温まる」

 

「もう少し優しく置いて」

 

「力は入れていない」

 

「病人の感じ方を否定するの?」

 

唐芳が咳払いをした。

 

二人は黙った。

 

「師弟。先に自分の気を収めてください」

 

「止める徴候は」

 

「雲裳の寸口が急に大きくなるのに、指先が冷える時。通ったのではなく、内側で押し返しています。呼吸が浅くなる、唇の色が落ちる、胸へ刺す痛みが出る。そのどれか一つでも止めます」

 

「俺の方は」

 

「掌が熱を持つ、自分の呼吸まで雲裳の脈へ引かれる、雲裳の真気と自分の内力の境が分からなくなる。入りすぎた証です。隠さず言ってください」

 

「患者より注文が多いですね」

 

「あなたは患者を救う時だけ、自分を数に入れませんから」

 

趙活は目を閉じた。

 

今の趙活の真気は、以前の唐門真気とは違う。

 

かつての唐門真気なら、どこまで細く絞り、どこで止めればよいかを体が知っていた。

 

今の内力も、自分の体内で巡らせるだけなら扱える。

 

だが、異なる真気へ触れ、自分の内力を残さずに外から動きを助けた経験は、まだ多くない。

 

どこまで近づけば互いの境が曖昧になるのか、趙活にも試してみなければ分からなかった。

 

趙活は丹田の奥へ意を沈めた。

 

触れすぎない。

 

回しすぎない。

 

自分の内側へ、円を一つ作る。

 

その円から外へ出さない。

 

唐芳が手を伸ばし、趙活の首と手首の脈を見た。

 

「今、内力はどこまで抑えています」

 

「普段の六割です」

 

「五割まで落としてください。ただし、意識まで深く沈めないように」

 

「以前の治療と同じところへ入るからですか」

 

「ええ。今日は雲裳の真気を引き受けるのではなく、通る道だけを示します。先にあなたの内力を静め、それから力を添える時機だけを雲裳の脈に合わせてください。雲裳も、後ろの呼吸を追わないこと。自分の呼吸を守ってください」

 

「そこまで行く前に止めます」

 

趙活は息を吐いた。

 

鼓動が一つ遅くなる。

 

雲裳と同じ速さへ落としたのではない。

 

まず、自分の呼吸を鎮め、掌へ余計な内力が集まらないようにする。

 

雲裳の脈を読むのは、その後だった。

 

部屋の音が遠くなる。

 

炉の中で炭が崩れた。

 

窓の外で鳥が鳴いた。

 

雲裳の衣が、呼吸に合わせて僅かに擦れた。

 

「そこで」

 

唐芳が言った。

 

趙活は目を閉じたまま、呼吸をその深さに保った。

 

背後の気配が急に遠のいたように感じ、雲裳の肩が僅かに動く。

 

唐芳がすぐ、その肩へ指を置いた。

 

「前を向いて。振り向けば、そこで終わりにします」

 

「まだ何もしていないわ」

 

「しようとしました」

 

雲裳は口を尖らせたが、顔は前へ向けたままだった。

 

「あなたも調息してください」

 

雲裳は素直に目を閉じた。

 

趙活に言われれば言い返す。

 

唐芳に言われれば、時々は聞く。

 

時々である。

 

今日はその時々の日だった。

 

「自分で回そうとしないでください。胸の前へ集まった気を、そのまま見ているだけでよい」

 

「唐芳姉さん。鍼で散らした方が早くない?」

 

「一時的には楽になります。でも、鍼で散らすだけでは滞りを別の場所へ移すだけです。雲裳自身の真気で一周させなければ、明日にはまた同じところで止まります」

 

「だから、動かさずに見ているの?」

 

「感じているだけです。見ようとして、自分から回さないでください」

 

「最初からそう言って」

 

「分かったなら、口を閉じてしっかりやる」

 

「はい」

 

趙活が雲裳の背へ触れたまま言った。

 

「今日は俺が通すんじゃない。お前の気が自分で通るまで待つ。無理に押せば、細い経脈の内側を傷つける」

 

「二人で同じことを言うのね」

 

「同じ脈を見ていますから」

 

雲裳の呼吸が整うまで、趙活は待った。

 

急がない。

 

治療に近道はない。

 

細い経脈へ無理に気を通せば、通ったように見えて傷を残す。滞りを力で押し流せば、別の場所へ詰まる。患者が耐えられることと、患者の体が受け入れていることは違う。

 

二師兄が他人の背へ掌を当て、真気を代わりに回すところを見たわけではない。

 

二師兄が渡すのは、薬と、その煎じ方と、どの時刻に飲んでどの経路へ自分で気を巡らせるかという指示だった。必要なら鍼で入口を開き、滞りを解く。最後に調息して帰元させるのは、患者自身である。

 

趙活がその傍らで学んだのは、外から力を押し込む技ではない。何を先に解き、どこまで薬と鍼で助け、どこから先を本人へ任せるべきかという見切りだった。

 

実際に他人の背へ掌を置き、乱れた真気へ触れる加減は、西夏で傷ついた者を繋ぐうちに覚えた。自分の体でも、力任せの運行が何を壊すかは嫌というほど知っていた。

 

唐芳は雲裳の右手を取り、膝の上へ戻したまま脈へ指を置いた。

 

趙活の掌は背にある。

 

最初は何も送り込まない。

 

雲裳の呼吸が背を押し、戻る。その僅かな動きと、掌へ返る温度に意識を澄ます。

 

やがて、背の深いところから細い拍動が伝わってきた。

 

手首で取る脈ほど明瞭ではない。だが真気が一巡するたび、経脈の張りが僅かに強くなり、次の拍動で緩む。その起伏を拾えば、雲裳の脈がいつ気を押し出し、いつ受け入れるかが分かる。

 

趙活が合わせるのは、自分の心拍ではない。

 

力を添える時機だけを、雲裳の一拍ごとへ合わせる。

 

雲裳の真気は、胸の下で小さく渦を巻いていた。

 

押し出そうとして、肩へ上がる。

 

肩から腕へ行く手前で細くなり、また胸へ戻る。

 

水路の入口へ枯れ葉が寄り、流れが同じ場所を回っているようだった。

 

「左へ添えます」

 

趙活が言う。

 

唐芳が頷いた。

 

「一筋だけ。左から」

 

趙活は自分の真気を、雲裳の経絡へ流し込まなかった。

 

背の外からごく薄く添えたまま、雲裳の脈が次に打つ瞬間を待った。

 

一拍と、次の一拍の間。

 

雲裳の真気が肩へ向かおうとする、その先へ、ごく小さな空きを作る。

 

引くのではない。

 

引けば、自分の内力が混じる。

 

ただ、そこに通れる場所があると示す。

 

雲裳の真気が、趙活の掌の下まで届いた。

 

懐かしかった。

 

趙活は息を止めかけた。

 

唐門真気。

 

かつて自分の丹田にあり、自分の経脈を巡っていた気。

 

何度も毒を回し、何度も傷を支え、雲裳を救う夜にすべて手放したもの。

 

同じだった。

 

だが、もう自分のものではない。

 

雲裳の呼吸と共に育ち、雲裳の細い経脈へ馴染み、柔らかく形を変えている。

 

失くした品を人の手の中で見つけたのとは違う。

 

自分が植えた木に、知らない花が咲いているのを見るようだった。

 

丹田の奥で、内力がわずかに動いたように感じた。

 

雲裳の真気へ触れた反応なのか、自分が無意識に迎えかけたのかは分からない。

 

趙活はすぐに息を浅くし、掌と丹田の間を閉じた。

 

「止めますか」

 

唐芳が訊く。

 

「まだ」

 

趙活は答えた。

 

声は平らだった。

 

掌も揺れていない。

 

それでも掌の力は変わらなかった。

 

「雲裳。痛みがあれば、右の指を動かしてください。気が引かれる感じがあれば左です」

 

雲裳はどちらも動かさなかった。

 

代わりに一度、ゆっくり息を吐く。胸のつかえが軽くなったことは、その呼吸だけで分かった。

 

唐芳は寸口から指を離さない。

 

「続けます」

 

雲裳は、趙活へ尋ねたくなった。

 

おにいちゃん。今、懐かしいと思ったでしょう。

 

声にする直前、吸った息が胸で止まる。ほどけかけた真気も、呼吸につられて僅かに戻った。

 

「しゃべるな」

 

趙活の声は短かった。

 

雲裳は口を閉じた。

 

趙活の掌は止まらなかった。

 

呼吸も、顔も変えない。

 

だが、雲裳の気へ添えていた力だけが、一瞬薄くなった。

 

唐芳が顔を上げた。

 

雲裳の脈は、言葉を出しかけた時だけ浅くなり、口を閉じると元へ戻った。だが口元には、小さな笑みが残っている。

 

なぜ懐かしいと思ったのかは、雲裳にも分からない。

 

ただ、趙活がずっと遠くへ置いていたものへ、今だけ触れたような感じがした。

 

これはもう裳の真気なのだから、裳を懐かしいと思ったのと同じでしょう。

 

声にできなくても満足だった。

 

唐芳は雲裳の口元を見てから、趙活の掌へ視線を移した。先ほどより添える力が薄い。何かを感じ取り、それを押し隠したのだと分かった。

 

趙活は運行を続ける。

 

趙活は雲裳の真気を、自分の力で運ばなかった。

 

背から細く触れ、進む先だけを示す。雲裳自身の真気が動き出せば、すぐに力を退く。

 

胸に滞った流れが肩へ上がり、腕を下り、指先まで届く。そこで勢いを殺さず、自分の経脈へ戻ってくる。

 

趙活は遅れたところへだけ、掌から僅かに力を添えた。

 

一周目は遅い。

 

二周目は、少し滑らかになった。

 

三周目。

 

胸の前で回っていた渦がほどけ、肩へ細い流れが通る。

 

雲裳の指先へ赤みが戻った。

 

「うまくいっています」

 

唐芳が言った。

 

趙活は頷くだけだった。

 

雲裳は目を閉じたまま、二人の声を聞いていた。

 

最初は、趙活の掌が冷たく感じた。

 

次に、自分の内側から温かさが流れてきた。

 

その温かさは、掌へ来ると一度止まる。

 

止まり、向きを変え、また自分へ戻る。

 

趙活は自分の力を押しつけてこない。

 

急かさない。

 

引かない。

 

ただ、自分の気が迷わないよう、道の外へ手を添えている。

 

雲裳は不思議に思った。

 

普段の趙活は、余計なものを背負いたがる。

 

人の荷を見れば半分持つ。

 

誰かが倒れれば、自分の血を流してでも立たせようとする。

 

だが今は違う。

 

自分で歩け、と言われている。

 

転ばないように手だけを出されている。

 

その距離が心地よかった。

 

心地よいことが、少し悔しかった。

 

趙活の手でなければ、こうではない気がする。

 

兄なら、もっと優しいかもしれない。

 

けれど、これは趙活の手がよかった。

 

自分の中の何かを、最初から知っている手だった。

 

誰にも渡したくない。

 

この手が、他の誰かの背へ同じように触れ、同じように丁寧に気を整えることを想像すると、胸の奥がまた少し詰まりそうになる。

 

雲裳は、その考えを追い払おうとした。

 

追い払うほど、はっきりした。

 

おにいちゃんは裳のもの。

 

まだ婚礼を挙げたわけではない。

 

約束も、他人へ胸を張って見せられる形にはなっていない。

 

趙活は戦の後始末をしている。

 

誰にでも頼られ、どこかで誰かが怪我をすれば、きっと同じ真面目な顔で脈を取る。

 

それが趙活である。

 

けれど、雲裳を地獄まで追ってきたのは、この人だけだった。

 

拒んでも、逃げても、諦めずに手を伸ばしてきた。

 

それほど一途に愛されて、心を動かさずにいられるほど、雲裳は薄情ではなかった。

 

だから今度は、自分がこの手を離さない。

 

この丁寧さを、今日は自分だけが持っていたい。

 

雲裳の胸へ、甘くて狭い気持ちが満ちた。

 

その瞬間、趙活は右の掌に小さな震えを感じた。

 

真気の乱れではない。

 

脈が速くなった。

 

だが苦しさとは違う。

 

温かい。

 

何かを抱え込むような力がある。

 

腕から戻った真気が、離れたくないように一度だけ趙活の掌へ寄った。

 

趙活は眉を寄せた。

 

唐芳はすぐ雲裳の脈を取り直した。速い。だが弱くはなく、呼吸にも痛みの兆しはない。

 

苦しいのではない。

 

では何だ、と趙活が考えたのが、掌の迷いで分かった。

 

おにいちゃんのせいよ。

 

雲裳は声に出さず、背をほんの僅かに掌へ預けた。

 

趙活の指が強張り、すぐに力を抜く。動くなと言いたいのだろう。

 

座り直しただけよ。

 

口にはできない言い訳を思うと、可笑しくなった。

 

趙活は真面目だった。

 

あまりに真面目なので、雲裳はまた可笑しくなった。

 

笑えば呼吸が乱れる。

 

我慢する。

 

我慢した笑いが胸で弾み、その弾みまで真気へ乗った。

 

趙活には、薄く伝わった。

 

喜んでいるらしい。

 

何を、とまでは分からない。

 

言葉も読めない。

 

ただ、雲裳の気が先ほどより柔らかく、こちらへ寄ってくる。

 

趙活は、それ以上を読もうとしなかった。

 

人へ見せる顔も、聞かせる言葉も、その場に応じて整える。それが長く身についた趙活の処世だった。胸の内まで人へ差し出すことはない。自分でも触れられたくない場所ほど、何でもないような顔と冗談の下へ隠す。

 

今も同じように、湧いた感情を意識の奥へ押し込んだ。

 

妙に近い。

 

背へ掌を置いているからだけではない。

 

互いの呼吸の間へ、相手の鼓動が一つ混じったようだった。

 

趙活は、雲裳の背へ置いた掌を急に意識した。

 

衣越しの体温。呼吸に合わせて僅かに動く細い背。自分へ身を預けているという感覚。

 

治療中である。

 

唐芳師姉も見ている。

 

それなのに、この近さを心地よいと思った。終わらなければよいと、ほんの僅かに考えた。

 

それは医者が患者へ抱いてよい考えではない。

 

趙活は生じた下心を認めるより早く、意識の底へ押し込んだ。呼吸を変えず、掌にも出さない。何より雲裳本人にだけは、知られたくなかった。

 

雲裳は呼びかけそうになった。

 

今、何か隠したでしょう。

 

言わなくてもいい。隠したことは分かるもの。

 

だが先ほど一言出しかけただけで、胸の流れは乱れた。今度は息を漏らさず、背後へ意識だけを向ける。

 

顔まで向けたくなったが、肩へ置かれた唐芳の指が僅かに重くなった。

 

「動かないでください」

 

低い声だった。

 

雲裳は顎を引き、正面を向いたまま目を閉じ直した。

 

唐芳はそこで最初のため息を吐いた。

 

趙活は一言も発していない。雲裳も黙っている。それでも二人の間では、脈と掌が余計なことを語り始めていた。

 

嬉しさが脈へ乗ると、趙活の掌が僅かに強張り、すぐに慎重になった。

 

隠した中身までは分からない。けれど、伝わったことだけは分かる。

 

雲裳の口元が緩む。その喜びもまた脈へ返り、趙活が隠すほど、雲裳は嬉しくなった。

 

真気とは別の巡りが、二人の間にできていた。

 

唐芳は砂時計を見た。

 

まだ三分の一も落ちていない。

 

もう一度、二人を見る。

 

趙活は目を閉じたまま、治療へ集中している。

 

雲裳も正面を向いている。だが、その口元には隠しきれない笑みが残っていた。

 

真気の道自体は、驚くほど安定していた。

 

趙活の内力は雲裳の気を吸っていない。

 

雲裳の唐門真気も、趙活の内力を恐れて逆流していない。

 

雲裳の経脈に細い巡りができ、僅かに乱れれば、趙活が力を入れずに整える。

 

唐芳は、趙活が他人の経脈へ内力を通せることを知っていた。西夏では、それで何人もの傷勢を繋いでいる。

 

だが、ここまで深く触れながら、相手の真気を一度も押し退けないとは思っていなかった。

 

趙活は運んでいるのではない。行き先を僅かに示し、雲裳自身の気が動き出せば、すぐに手を退いている。

 

医術の理を新しく教える余地は、もうほとんどない。それでも、見てきた患者の数なら唐芳の方が多かった。その経験に照らしても、他人の真気へここまで細かく合わせ、自分の内力をほとんど押しつけずに、相手自身の気を動かす腕に限れば、趙活は群を抜いている。

 

唐芳は附骨釘の傷が残り、自ら運気して二人の真気を探ることはできない。それでも雲裳の脈と呼吸、背の強張りを見れば、趙活がどこで触れ、どこで退いたかは分かる。

 

医学的には成功だった。

 

医者として、唐芳は喜ぶべきである。

 

姉弟子としては、頭が痛かった。

 

「次の一周で終えます」

 

唐芳が言った。

 

雲裳の眉が動いた。

 

もう?

 

まだ砂は残っている。ようやくおにいちゃんの助けをほとんど借りずに巡り始めたところなのに、今やめれば次はまた最初からではないのか。うまくできているなら、もう一周くらい続けてもよいではないか。

 

反論が次々と浮かんだ。

 

だが口を開けば、終わるどころか、その場で打ち切られる。雲裳は唇を結び、代わりに背を少しだけ強張らせた。

 

唐芳は脈を取ったまま、その不満を読み取った。

 

「一刻は最長です。砂をすべて落とすとは言っていません。終わる時の方が危ないので、二人とも調息を崩さないでください」

 

おにいちゃんは、本当にもう終わりたいの?

 

危ないから終えるという話ではなく、おにいちゃん自身が。

 

声にせず問いかけても、答えは返らないはずだった。

 

それでも趙活の掌が、一瞬だけ離れ難そうに止まった。

 

治療は終えるべきである。

 

真気の滞りはほぼ解けた。

 

長く続ければ、どこで互いの真気の境が曖昧になるか分からない。

 

隠したはずの揺らぎまで、薄く拾われ始めている。

 

唐芳の判断は正しい。

 

だから、終わりたい。

 

そう言えばよい。

 

それなのに、雲裳の背から手を離した後、今感じている近さまで消えるのだと思うと、ほんの僅かに惜しい。

 

その惜しさが生まれた瞬間。

 

雲裳の閉じた瞼が、僅かに動いた。

 

次に、口元が嬉しそうに緩む。

 

ほら。おにいちゃんも、少しくらい惜しいのでしょう。

 

趙活は何も言わない。ただ、雲裳の脈へ合わせていた力を、意識して一段薄くした。

 

違う、と言い張っているようだった。

 

まだ何も言っていないのに。

 

雲裳の口元がまた緩む。

 

唐芳には、二人の考えている言葉までは分からない。

 

だが、雲裳の脈が喜びで速まり、それを感じた趙活が力を慎重にし、その慎重さを受けて雲裳がさらに喜ぶところまでは分かった。

 

唐芳は二本の針を取り、雲裳の耳元で小さく触れ合わせた。

 

細い音が鳴った。

 

雲裳の笑みが消え、趙活の掌から余計な迷いが抜けた。

 

よく効いた。

 

「最後の一周です」

 

趙活は呼吸を整え直した。

 

名残を切る。

 

雲裳の真気だけを見る。

 

背から流れを整える。

 

胸から肩、肘、手首、指先。

 

戻った気が、今度は自分の力で丹田へ帰る。

 

途中で引っかからない。

 

趙活はそれを確かめ、掌から添えていた力を細くした。

 

雲裳の背がまた掌へ寄ろうとする。

 

唐芳の指が、雲裳の肩を二度叩いた。

 

姿勢を戻し、力を抜けという合図だった。

 

雲裳は僅かに抵抗したが、三度目を叩かれる前に背筋を伸ばした。

 

趙活は左の掌から力を退いた。

 

次に右の掌。

 

最後に、雲裳の経脈から意識を退く。

 

二人の間にあったもう一つの呼吸が消えた。

 

部屋が急に広くなった。

 

炉の音が近い。

 

外の鳥がうるさい。

 

自分の鼓動が、自分一人のものへ戻る。

 

雲裳は目を開け、趙活の温度が消えた背を意識した。

 

寂しい。

 

その感情は、もう趙活へ届かなかった。

 

届かないことが、さらに少し寂しかった。

 

「まだ姿勢を崩さないで」

 

唐芳が言った。

 

趙活はそこで初めて目を開けた。

 

二人は同時に姿勢を正した。

 

唐芳が先に雲裳の脈を取る。

 

左右。

 

首。

 

瞳。

 

肩から腕を指で押し、気の戻りを確かめる。

 

脈は雲裳自身の調子へ戻っている。外から入った真気が残った時に出る反発もなかった。

 

「自分で一周だけ回してください」

 

雲裳は目を閉じた。

 

今度は一人で回す。

 

先ほどまで趙活が示していた道を思い出す。

 

強く押さない。

 

詰まりへ力をぶつけない。

 

通る先を空ける。

 

胸から肩へ。

 

肘から手首へ。

 

指先まで行き、戻る。

 

一周。

 

「できたわ」

 

「もう一度」

 

「一周って言った」

 

「確認です」

 

雲裳はもう一周した。

 

今度も詰まらない。

 

指先は温かい。

 

動悸もない。

 

唐芳はようやく手を離した。

 

「胸の滞りは消えました。関から尺まで落ちずに繋がり、指先の温度も左右で揃っています」

 

次に趙活の脈を取る。

 

趙活は黙って差し出した。

 

趙活の内力は内側へ収まっている。

 

趙活の脈に、雲裳の唐門真気も残っていない。

 

ただ、脈が普段より少し速かった。

 

唐芳はそこへ指を置いたまま、趙活の顔を見る。

 

「身体にも、内力にも異常ありません」

 

「そうですか」

 

「ただし、呼吸が戻った後も脈だけが普段より速い。その理由を除けば」

 

趙活は視線を逸らした。

 

雲裳が笑った。

 

「おにいちゃん、まだ何か隠してるの?」

 

「仕事へ戻る」

 

「答えてないわ」

 

「答える必要がない」

 

「裳にはあるの」

 

「ない」

 

「あるわ」

 

唐芳は針を白布へ戻した。

 

一本ずつ数える。

 

蓋を閉じる。

 

それから、二人へ向き直った。

 

「内力の運行には成功しました。ただし、次も同じように終われる保証はありません」

 

唐芳は雲裳の前へ座った。

 

「あなたの真気は、師弟を拒まなさすぎます。途中からは、師弟が時機を探るより先に、あなたの真気の方が掌を追い始めました。今日はそこで止めました。次は、もっと自然に繋がります」

 

「いいことじゃないの?」

 

「自然に繋がることと、安全に離れられることは別です」

 

雲裳は黙った。

 

唐芳は続ける。

 

「力を添える時機を合わせるうちに、二人とも相手の感情へまで引かれ始めました。意識していない。だから危険です。片方が喜べば、もう片方の脈が動く。片方が惜しめば、もう片方も手を離すのが遅れる」

 

趙活の顔が固まった。

 

「そこまで分かるんですか」

 

「外から見れば分かります」

 

「どこから」

 

「全部です」

 

趙活は顔を手で覆った。

 

雲裳が小さく笑いかけた。

 

唐芳が見る。

 

笑みが消えた。

 

「今日は私が終わりを告げました。二人きりなら、あと一周、もう一周と続ける。そのうち、どちらが相手の真気を動かしているのか分からなくなります。二人の真気が混じる。雲裳の経脈へ異質な気が残る。二人で以前と同じ深みへ滑る。どれも試す価値はありません」

 

「わたし、そんなに馬鹿じゃないわ」

 

「賢いから、自分が欲しい結論へ理屈をつけます」

 

雲裳は唇を尖らせた。

 

正しい。

 

正しいので腹が立つ。

 

「師弟もです」

 

「俺は治療を」

 

「治療だから断れなかった。治療だから丁寧に合わせた。治療だから、雲裳が喜べば安心した。すべて正しい理由です」

 

唐芳は一度言葉を切った。

 

「正しい理由だけで、危ないところまで行く人を、私はよく知っています」

 

趙活は何も言えなかった。

 

この部屋へ担ぎ込まれた回数が、言葉の代わりに並んでいる。

 

雲裳が趙活を見た。

 

趙活は見返さない。

 

空いた手で眉間を押さえ、考えている顔を作った。

 

「この先も行うかは、私一人では決めません」

 

唐芳は言った。

 

「三師兄へ報告します」

 

 

 

半刻後、四人は講経堂にいた。

 

唐陞は唐芳の報告を最後まで聞き、趙活と雲裳を順に見た。

 

「治療に効いたことは分かりました。唐芳師妹の見立てを疑うつもりもありません」

 

唐陞はそこで一度言葉を切った。

 

「ですが、今後、二人だけで運功療傷を行うことは禁じます」

 

雲裳がすぐに身を乗り出した。

 

「どうして? 危ないところは唐芳姉さんが止められるし、二人きりにしなければよいのでしょう。それに、裳の体は自分で調息するよりずっと楽になったわ。苦い薬を三日飲んで、痛い鍼を二日受けるより、おにいちゃんに手伝ってもらう方が、わたしにも唐芳姉さんにもいいってことよ」

 

「治療の効果だけを問題にしているのではありません」

 

唐陞は穏やかに言った。

 

「情に発して礼に止まる、と申します。二人に疚しいところがなくとも、婚儀の前に男女が戸を閉ざし、背へ両掌を当て、深く内力を通わせれば、見る者は事情のすべてを知りません。治療する者の心が正しければ、それで礼も世評も不要になるわけではないのです」

 

「唐芳姉さんが一緒でも? 医者が見ていて、病を治すためにして、それでも礼に外れるの?」

 

「立会人がいれば、何をしてもよいという話ではありません。けれど、医者が必要と認め、戸を開け、人目を避けぬなら、同じことではない。それも承知しています」

 

唐陞は困ったように息をついた。

 

「だからこそ、効いた、では明日から続けようとはできないのです。病を治すことも、二人の名を守ることも、どちらか一方を捨てて済む話ではありません」

 

雲裳は唐陞をじっと見た。いつものおねだりするときの上目遣いだ。

 

「それなら戸も開けておくし、もう一人ついてもらってもいいわ。わたしは二人きりになりたいから言っているんじゃないもの。ちゃんと元気になって、おじいちゃんを安心させたいから頼んでいるの。それとも、おじいちゃんは、わたしにもっと体がよくなってほしくないの?」

 

唐陞が黙った。

 

趙活も黙った。

 

唐芳は目を伏せた。医者としては、効く治療を無用に捨てるとは言えない。

 

「……私に、雲裳の体がよくならなくてもよいなどと言えるはずがないでしょう」

 

唐陞は額へ手を当てた。

 

「まったく、道理を説いている者へ情をもって迫るとは。小忍ばざれば則ち大謀を乱す、と言いたいところですが、病を治す機を逃して何が大謀かと返されれば、私も言葉がありません」

 

趙活は視線を逸らした。

 

唐芳も何も言わなかった。

 

「……当面、七日に一度まで認めます」

 

やがて唐陞が言った。

 

「毎回、唐芳師妹が先に脈を診ること。必要がないと判断すれば行わない。戸は開けておくこと。時間は半刻まで。七日に一度、それ以上はなりません。これらはすべて守りなさい」

 

雲裳の顔が明るくなった。

 

「さすがおじいちゃん! 唐芳姉さんが必要だと言った時だけ、週に一度、それ以上はしない。裳、ちゃんと全部聞いたわ。おにいちゃん、行こ!」

 

趙活の手を握り、そのまま戸口へ向かう。

 

「雲裳、礼を弁えなさい!」

 

唐陞の声が講経堂へ響いた。

 

「はーい。手を離せばいいのでしょう」

 

雲裳は振り返らずに答えた。手を離す代わりに趙活の裾を掴み、引っ張って出ていく。

 

戸が閉じた。

 

唐陞はしばらく、その戸を見ていた。

 

婚儀の前だから手を握ってはならない、と言ったわけではない。

 

治療の名を借りて礼を軽く見るな、と説いたはずだった。

 

では、手を離して裾を掴むのは、話を聞いたことになるのか。

 

そもそも、深く内力を通わせることを週に一度許しながら、手を握ったことだけ叱るのは、果たして道理が通っているのか。

 

唐陞は算木の傍らで腕を組み、礼と道理の折り合いについて考え込んだ。

 

 

 

廊下の先で、唐芳が二人へ追いついた。

 

「雲裳。まだ帰しませんよ。薬が残っています」

 

雲裳の足が止まった。

 

三人は煉丹房へ戻った。

 

唐芳は薬棚から、小さな包みを一つ取る。

 

雲裳の掌へ置いた。

 

「これは?」

 

「今夜の薬です」

 

「治ったのに?」

 

「運行で動いた後の気を落ち着かせます。先ほどの処方から桂枝と白芍を抜き、茯神と酸棗仁を残しました。遠志は半分です」

 

趙活が薬包へ鼻を寄せた。

 

「龍骨は」

 

「もう別の土瓶で先に煎じています。この包みは、砕いた酸棗仁を一煎目の終わりに加える分です。三碗の水を武火で沸かし、すぐ文火へ落として一碗まで。最後に龍骨の煎液と合わせる、と伝えてください」

 

「二煎目は」

 

「明朝。今夜は一煎で足ります。運行の後に重ねて補えば、また気が余ります」

 

二人の会話を聞くうち、雲裳の顔が少しずつ険しくなった。

 

雲裳は包みの匂いを嗅いだ。

 

顔をしかめた。

 

「これ、絶対苦い」

 

「効きます」

 

「話が違うわ。最初は、薬を三日飲むか、鍼を二日受けるか、運行を試すかという話だったでしょう。わたしは運行を選んで、ちゃんと座って、言われた通りに調息したのに、どうして最後に薬まで戻ってくるの?」

 

「運行を選べば薬を飲まなくてよいとは言っていません」

 

「詐欺よ!詐欺!」

 

雲裳は薬包を趙活へ差し出した。

 

「おにいちゃん、半分飲んで。裳一人だけ騙されたのでは悔しいもの」

 

「お前の薬だ」

 

「体に合わなくても、苦いことは分かるでしょう。一緒に苦い思いをして」

 

「体に合わない」

 

「心には合うわ」

 

「何の理屈だ」

 

「裳の理屈」

 

唐芳は二度目のため息を吐いた。

 

「師弟。仕事へ戻ってください」

 

「わかりました」

 

「雲裳。あなたは薬を飲んで、ここで休んでください」

 

「運行したから眠くないわ」

 

「眠れます」

 

「どうして分かるの」

 

「眠る薬も入れます」

 

雲裳は薬包を見た。

 

裏切られた顔をした。

 

趙活は立ち上がった。

 

寝台から降り、靴を履く。

 

雲裳も続こうとした。

 

唐芳が肩を押さえた。

 

「あなたは半刻、ここで休む」

 

「おにいちゃんは?」

 

「仕事です」

 

「それならわたしも行くわ。字を読んで、同じものを分けて置くくらいならできるもの。おにいちゃんの仕事が早く終われば、わたしも早く休めるでしょう」

 

「今日は病人だと言ってたでしょう」

 

自分の言葉が戻ってきた。

 

雲裳は不満そうに寝台へ座り直した。

 

趙活が戸へ向かう。

 

その背へ、雲裳が呼びかけた。

 

「おにいちゃん」

 

趙活は振り返った。

 

「何だ」

 

雲裳は一瞬だけ迷った。

 

運行の間に感じたことを、どこまで言葉へすればよいか分からない。

 

嬉しかった。

 

近かった。

 

自分の真気を、趙活が懐かしいと思ったこと。

 

趙活も終わるのを僅かに惜しんだこと。

 

全部、薄い感覚でしかない。

 

口へ出せば、自分の都合よく読んだだけだと言われるかもしれない。

 

だから雲裳は、別のことを言った。

 

「仕事を捨てろとは言わないわ。今すぐ投げたら数字が合わなくなって、明日のおにいちゃんが困るのでしょう。だから今日は、ちゃんと全部合わせて、いつもより少しだけ早く終わらせて。それから裳のところへ来て」

 

「注文が多いな」

 

「先に断る理由を減らしてあげたの。気が利くでしょう」

 

趙活は少し黙った。

 

先ほどまでなら、その沈黙の内側が僅かに分かった。

 

今は先ほどまでのようには分からない。

 

けれど、顔は見える。

 

雲裳は、その顔を誰よりよく知っている。

 

「薬を飲んで寝ていたらな」

 

趙活が言った。

 

「飲むわ。眠る薬まで入っているなら、きっと起きて待つのは難しいかもね。でも、おにいちゃんが来れば目が覚めるかもしれないし、起きなければ、かわいいわたしの顔だけ見て帰ればいいわ。それなら、おにいちゃんは何も困らないでしょ」

 

「また脈が乱れるぞ」

 

「もし待ちすぎてまた脈が乱れたら、おにいちゃんのせいだから。責任をもってまた運行してね」

 

「しない」

 

「今、少しくらいならしてもよいと思ったでしょ」

 

「思っていないぞ」

 

「嘘」

 

「もう繋がってないんだ。わかるわけないだろ」

 

「ふ~ん。やっぱりわかってたのね。ま、いいわ。繋がってなくても分かるもの」

 

趙活はしまった、という顔をした。

 

唐芳が戸を開けた。

 

「師弟」

 

「はい」

 

趙活は追い出された。

 

戸が閉じる。

 

足音が廊下を遠ざかる。

 

雲裳は耳を澄ませた。

 

唐芳が薬を煎じる支度を始める。

 

水を量る。

 

炉へ炭を足す。

 

薬材を一つずつ並べる。

 

「芳姉さん」

 

「何です」

 

「本当に七日も待たないとだめ? おじいちゃんは週に一度までと言ったけれど、あれは毎週しなさいという意味ではなくて、必要な時だけでしょう。だったら、今日の続きは今日のうちにして、次を七日より後にすれば、回数は増えないってことよ」

 

「だめです」

 

「芳姉さんが見ていてもだめ? わたしはもう自分で巡らせられるし、さっきより短くて済むわ。危なくなれば止めればいいでしょう」

 

「三師兄と決めたでしょう」

 

「おじいちゃんは礼を心配したのよ。今は戸も開いているし、唐芳姉さんもいる。もう一度しても、誰も困らないと思うの」

 

「もう一度運行を受けるために、自分で脈を乱さないと私が信じられるまでです」

 

雲裳は目を逸らした。

 

「そんなことしないわ」

 

唐芳は薬材を刻んだ。

 

とん、と乾いた音がした。

 

「本当にしないもの。少しくらい滞れば、もう一度試した方がいいとは思ったけれど」

 

「だめです」

 

「でも、裳が何もしなくても、おにいちゃんが自分からしたいと言ったら? それならわたしが悪いわけではないでしょう」

 

「言いません」

 

「どうして分かるの」

 

「師弟は治療へ私情を持ち込みません」

 

「さっき持ち込んだわ」

 

唐芳の手が一度止まった。

 

雲裳は勝ったと思った。

 

「持ち込んだことに気づけば、余計に言いません」

 

負けた。

 

雲裳は寝台へ倒れた。

 

 

 

その日の残り、趙活は講経堂へ戻った。仕事の間にも、背へ触れた雲裳の体温と、掌に返った微かな揺らぎが何度か意識へ戻った。捗らなかった。

 

雲裳は煉丹房で、唐芳に見られながら一人で真気を回した。先ほど一周させた経路を辿り、胸から肩、腕、指先へ、今度は自分の力だけで通すことができた。

 

二人とも、次の運行まで七日あることを、その日のうちから意識していた。

 

 

 

七日後、唐芳が雲裳の脈を診て、二度目の運行を許した。

 

雲裳が敷物へ座り、趙活がその後ろで胡坐を組む。

 

唐芳は脈を見るため、傍らへ座った。

 

そのさらに横へ、葉雲舟が筆と紙を持って座った。

 

「なんでおにいちゃんもいるの?」

 

雲裳が訊いた。

 

「勉強です」

 

唐芳が答えた。

 

「他人の真気の運行を、外から支えるところを、これほど近くで見られる機会は多くありません。今後は葉師弟にも監視についてもらいます」

 

葉雲舟は真面目な顔で筆を構えた。

 

「呼吸、脈、顔色の変化はすべて記します。何かあれば、すぐに止めます」

 

趙活は何も言わず、雲裳の背へ両掌を置いた。

 

雲裳はしばらく黙っていた。

 

「……週に一度しかないのに、二人きりになるどころか、一人増えているわ」

 

誰にも聞こえないほど小さく呟き、目を閉じた。

 

こうして、当面七日に一度の運行には、医者一人と、勉強中の監視一人がつくことになった。

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