先の戦いの事後処理が幾らか片づき、ようやく昼下がりに半刻、夕餉前に一刻ほどという隙間ができるようになった。
趙活は、その隙間を鍛冶場へ持ち込んだ。
戦から戻った唐門には、直すものも補うものも山ほどある。
昔であれば、その面倒な部分を多くこなし、誰かに押しつけられた得物まで直していた。
いつからか、新しく唐門に入った若い弟子たちが鍛冶を行うようになっていた。
趙活も自分の知る鍛冶を伝える側に回っていた。
しかし、ここ最近は、手が回りきれていないようだった。
そこで趙活は、一人で終えられ、途中で手を止めても困らない小仕事から拾った。
初日は武庫で数の減った飛梭と鉄橄欖を選り分けた。曲がった飛梭を火へかざして戻し、鉄橄欖の潰れた稜を打ち直す。牛毛針は錆びたものを捨て、残ったものの針先を研いで、長さの近いものごとに小箱へ分けた。
どれも一つなら大した仕事ではない。だが、一袋分を揃えようとすれば半刻や一刻はすぐに消えた。
二日目も、同じような仕事を続けた。数打ちの刀剣を研ぎ、暗器嚢の切れた留め紐を替え、持ち手の割れた小槌へ新しい柄を挿す。どれも一人で扱え、呼ばれればその場で置いていけるものばかりだった。
講経堂へ呼ばれれば火を落とし、医療房から人が来れば手を洗う。戻った時には炉が冷えている。もう一度火を育て、続きを始める。
三日目に、自分の武器を鍛冶場へ持ち込んだ。
それは、葉雲舟から贈られた槍の穂先を丹念に磨き上げ、短剣へ仕立て直したものだった。
手に取るたび恐れ多く、それ以上に頼もしい。今の趙活が最もよく使う武器でもある。
戦場でついた血と脂は拭ってあったが、刃の根には落とし切れなかった曇りが残っている。砥石を替えながら刃筋を整え、小さな刃こぼれを消し、柄へ新しい革を巻いた。
研ぎ上がった刃へ炉の火が細く映った。
自分は今、これを持つに足る人間だろうか。
磨いた鋼の上を、青白い光が一筋走ったように思えた。
四日目、武庫へ戻す小暗器が一通り揃った。
直した飛梭を束ね、研いだ針を小箱へ収める。鉄橄欖は投げた時に手癖を乱さぬよう、重さの近いものを揃える。毒を塗るものは別へ除け、油へ沈めた。
その横で、趙活は小さな坩堝へ透明な破片を入れた。
硝子――この地で玻璃と呼ばれるものだ。
鉄より脆く、陶より気難しい。
熱が足りなければ形にならず、強すぎれば泡を噛む。細く引いても、冷ますのを急げば、何もしていないのに音を立てて割れた。
昔、師母から贈られたという玻璃花。その最後の一片を、趙活は唐布衣から譲られていた。
ほかの花弁は、唐布衣がすでに使い切っていた。最後の一片も、ただ透明な玻璃を花の形に削った飾りではなかった。
手の内へ隠し、指の動きまで技に紛れ込ませ、撃たれた相手にさえ暗器だと悟らせない。趙活は実物も、それを撃つところも見ていた。
浅い匙のように反り、根だけが細く、掌へ載せれば僅かに傾く。あの形のまま狙ったところへ運ぶには、自分の暗器の腕では難しい。
譲られた一片を使い潰すつもりも、そのまま写して自分の暗器にするつもりもなかった。
趙活が作るのは、見た技を自分の指へ合わせ、足りないところを自分のやり方で埋めた別物だった。
指の長さも、摘まむ力も、内力を放す癖も違う。
針形は、譲られた原品を写したものではない。最後の花弁から玻璃の焼きと冷まし方を探り、見知った幾つかの技を、自分の指へ合うよう繋ぎ合わせたものだった。
形も、撃ち方も、戦役へ赴く前にひとまず定まっていた。
戦場で放った一本は戻らなかった。
どこへ放ち、何を退けたかを、趙活は今さら思い返さなかった。
いま行っているのは新しい技を考えることではない。失った分を補い、実際に使って初めて分かった癖を直し、次も同じものを作れるよう手順を固める仕事だった。
縫い針ほど細くはしない。透明な細い錐か、小さな鏃に近い形へ引き、先だけを鋭く研ぐ。根元には指で挟むための厚みを残す。
指へ載せ、内力を通す。その先をどう使うかは、すでに決まっている。
ただし、強く通しすぎれば敵へ届く前に砕ける。弱ければ、ただの脆い玻璃針に過ぎない。
一手に注げる量と、針が耐えられる量を合わせなければならなかった。
内力で玻璃そのものを鉄へ変えるわけではない。放してから届くまで、細い針の震えと歪みを抑える。役目はそれだけでよい。
ただ、使った一本は、考えた通りの働きをした。
それで十分だった。
その日は針を八本引き、徐冷を終えて残ったのは五本だった。そこからさらに曲がりのあるものを除き、先端を研ぎ、指へ載せて内力を通す。実際に使えるところまで残ったのは二本だけだった。
玻璃の花弁も、別に焼いた。
最後の一片を見本に、一度は原形どおりに復元した。だが、原品の癖を趙活の指では十分に生かせなかった。今使っているのは、自分の指と打ち方に合わせて形を改めたものだ。
戦役を経た今なら、さらに改めるべき箇所が見える。
原品が睡蓮の花弁なら、趙活のものは蓮の花弁に近い。先へ細く伸びる原品に比べ、上半が丸く、腹も広かった。
これは深く穿つ暗器ではない。
だが、打ち出しやすく、相手の目にも捉えられにくい。次の一手を作るには十分だった。
翌日には、花弁を十二枚成形した。徐冷を終えて割れずに残ったのは七枚。そのうち刃筋と重みが揃い、指へ載せられたのは四枚だった。
針も花弁も、使い切りである。
命中すれば肉や骨、得物に当たって砕け、外せば地や岩へ消える。外しても透明な小片を戦場から拾い出すのは難しく、見つけたところで、目に見えぬ欠けが入った玻璃へ二度目の内力は通せない。
一度放てば戻らない。金も手間もかかる暗器だった。
その日、趙活が炉の火を落としかけた時、机の隅に置いた無色の玻璃片へ夕日が差した。
透き通った欠片の縁が淡い紅に染まり、厚みのあるところには紫の影が沈んでいる。
趙活は手を止めた。
暗器にするのでなければ、無色である必要もない。この色を、玻璃の中へ閉じ込めることもできるのではないか。
玻璃を花弁の形に焼けるのなら、縁を刃のように薄くせず、厚く丸めて、飾りの花にすることもできる……はずだ。
「やってみるか」
その日の仕事は、そこで終えた。
翌日、趙活は小さな坩堝を一つ別にし、無色の玻璃へ、色を出す鉱粉を僅かずつ混ぜた。
夕日の色を、そのまま写し取れるわけではない。
最初は赤が濁り、次は紫が深すぎた。薄く伸ばせば色が消え、厚くすれば光を通さない。
分量を変えては熔かし、割って確かめ、また坩堝へ戻す。
昼を過ぎた頃、ようやく白桃色に透け、厚みのあるところでは赤紫を帯びる玻璃ができた。
趙活はそれを、刃ではない花弁へ焼いた。
縁を薄くせず、指へ触れても切れないよう厚く丸める。大きな一枚を上へ、二枚を左右へ開き、濃い赤紫の一枚を下へ重ねた。
一輪だけの、名もない小花ができた。
出来を確かめるため、根へ細い銅を仮留めし、目の高さから吊るしてみる。
小花は重みに従って下を向いた。
白桃色の花弁の下から赤紫が覗き、僅かな風にも揺れた。
「藤か」
一輪では、藤にはならない。
その翌日から、趙活は同じ色の玻璃を小分けにして、花を作り足した。
花作りは、暗器より面倒だった。
刃なら、飛び方と切れ方が正しければよい。飾りは、役に立たないところまで見られる。そのうえ、どの縁も指や髪を傷つけぬよう、厚く丸めておかなければならない。
最初に足した花は大きすぎた。
次は開きすぎて、藤より蝶に見えた。
その次は左右が揃ったが、揃いすぎて生きた花に見えない。
花弁は白桃色に透かし、中心から下へ垂れる一枚だけ、赤紫を深くした。
色は思う通りに分かれない。
赤紫が片側へ寄り、泡が一つ残る。厚みも僅かに違う。
趙活は完全に揃えるのをやめた。
数日かけ、開いた花を五輪と、蕾を二つ揃えた。
細く引いた銅を枝にし、大きく開いた花を上へ置き、下へ行くほど小さくする。形の悪いものは横へ向け、色の濃いものは重なる花の奥へ入れた。
不揃いなものを、不揃いなまま一つの房へまとめる。
それは、趙活の得意な仕事だった。骨の髄までこびりついた貧乏性が、ここでもものを言った。
上はふくらみ、下へ行くほど細くなる。花を密に置きながらも、動けば一輪ずつ僅かに揺れるよう、銅の枝の長さを違えた。
一番下へ二つの蕾を留め、余った銅を切る。
趙活は出来上がった藤房を持ち上げ、軽く振った。
密に重なった花が僅かに触れ、澄んだ小さな音を立てた。
玻璃が割れる音ではない。
悪くないんじゃないか。
趙活はしばらく眺め、そこでようやく考えた。
これを、どうするか。
壁へ掛けるには小さい。衣へ縫いつけるには重く、腰から下げれば歩くたび物へ当たる。
指先から垂れた赤紫の藤の向こうへ、不意に黒い髪が浮かんだ。
そういえば、キラキラしたものが好きなやつがいたな。
得意げに笑う雲裳の顔まで浮かんだ。
「……簪にしてみるか」
髪へ挿すなら、大きな飾りを頭上へ立てるより、横へ垂らした方がよい。動いた時だけ揺れ、止まれば邪魔にならない。
趙活は鍛冶場の隅から、使えそうな細竹を一本選んだ。
長すぎれば、雲裳の結い方には余る。
趙活は一度、手を止めた。
別に、雲裳のためと決めたわけではない。
思いつく髪形へ合わせなければ、長さの決めようがないだけである。
そう決めて、軸を短くした。
真っ直ぐな節間ではなく、少しだけ癖のある細竹を選ぶ。節を二つ残し、頭を僅かに反らせ、先を滑らかに細めた。刃のようには尖らせない。髪と指を傷つけない程度で止め、油を含ませて磨いた。
藤房の根元から伸びた銅を竹の頭へ巻きつける。線の先を折り返し、見えにくい場所で二度巻いて留めた。膠は揺れ止めに薄く使うだけで、花の重みは銅に受けさせる。
銅線には捻った跡が残り、巻き数にも僅かな違いがある。その代わり、引いても外れず、花同士が強くぶつからない。
巻き終えた切り口を内へ折り込み、指の腹でなぞる。
引っかかりはない。
短い竹の軸。
手で巻いた銅の枝。
白桃から赤紫へ色を深める、玻璃の藤の花房。
初めて作ったものとしては悪くなかった。作り方をもう少し詰めれば、売り物にもなるかもしれない。
机の白布の上に、出来上がった簪を置き、眺める。
四師兄へ見せれば、いかほどの値をつけて――。
「いた!」
思索を中断され、声のするほうに振り向くと、葉雲裳が小走りでやってきていた。
「やっぱりここにいた。ここ最近、毎日毎日仕事が終わるたび鍛冶場へ消えていって。今日こそ少しは暇になるかなと思ったのに、いつになったら終わるのよ」
雲裳は趙活の前まで来るとそのまま体当たりした。
「ぐぇっ」
「裳を放っておいて鍛冶ばかり、ついに狂って、點蒼のやつらみたいに剣と結婚するつもり?」
「そんなわけあるか」
「じゃあなに、裳に飽きちゃったのね。こんなにあなたを思っていたのに……おじいちゃんにいいつけてやる」
「やめろ!三師兄を使うんじゃない」
近頃ますます雲裳に甘くなる唐陞から何を言われるか、分かったものじゃなかった。
「わたしに構わないのが悪いのよ、混世魔王の下僕の自覚が足りないってことよ」
雲裳は言い切ると、あたりを見回した。
研ぎ直した刀剣。
革を巻き直した短剣。
油へ沈めた暗器。
割れた玻璃片。
指先へ残った細かな傷。
「ここ数日、ずっとこれを?」
「戦で使ったものを直し、減ったものを補っていた。まだまだ手を入れないといけないものはある」
「わかってるわ。でも、おにいちゃんがやらなくてもいいんじゃない」
「たまにはやらないと、鍛冶の腕が鈍る。それに、自分の装備は自分でやりたい」
「おにいちゃんも凝り性ね」
否定しきれなかった。
雲裳は机の横へ回った。
「それで、これは何?」
机の白布の上にある簪を見ながら言った。
「試作品だ」
「新しい暗器? 簪に見えるけれど、唐門の人が作ったものだから、抜いたら毒針が飛ぶとか、毒煙が出るとか、そういうものではないの?」
「暗器じゃない。ただの簪だ」
「本当に?」
「今のところはな」
雲裳は警戒するように覗き込んだ。
だが、その目はすぐに花へ移った。
竹の軸が飾り気に乏しい分、垂れた花房だけが目を引く。
玻璃の藤が夕日を受け、赤い瑪瑙と橙の琥珀が煌めいているようだった。
雲裳は一房ずつ、角度を変えて眺めた。
「悪くないわ」
「そうか」
「『悪くない』では褒め方が足りないと思っている顔ね。では言い直してあげる。花は少し不揃いだけれど、同じ形が並ぶより生きて見えるし、淡い花弁の中に赤紫が入っているから、重たく見えない。軸が竹なのは地味だけれど、髪へ挿せば花だけが浮いて見えるでしょうね。初めてにしては、ずいぶん上手よ」
趙活は頷いた。
「どこで手に入れたの?」
「手に入れたんじゃない。俺が作った」
雲裳が顔を上げた。
「これを?」
「そうだ」
「おにいちゃんが、一人で?」
「ここには他に誰もいない」
「そういう意味ではないわ。花も、銅の枝も、その巻き留めも?」
「軸もだ」
雲裳はもう一度、簪を見た。
先ほどまで見えていた粗が、別のものに変わっていく。
花弁の僅かな違いは、一枚ずつ作った跡だった。
巻き数の違う銅線は、趙活の指が曲げて留めたものだった。
「これを作るのに、何日かけたの?」
「五日ほどだ。仕事の合間だけだが」
「そう」
雲裳の返事が、少しだけ静かになった。
趙活はその変化に気づき、理由もいくつか思い当たったが、どれにも確信が持てず、考えるのをやめた。
趙活は簪を手に取った。
「少し、つけさせてもらっていいか」
雲裳の目が丸くなった。
それから、すぐに口元が緩み、照れた表情で言った。
「し、仕方ないわね。作った本人が出来栄えを確かめたいと言うのなら、裳が手伝ってあげる。でも、髪を引っ張らないで。下手に挿して崩したら、直すのはおにいちゃんだからね」
雲裳は趙活へ背を向けた。
髪は一部を上げ、残りを背へ流している。
趙活は挿す場所を探した。
右では花房が外へ向きすぎる。
左へ寄せると、歩くたび頬の横で揺れる。
一度浅く挿し、角度を変えた。
「痛くないか」
「大丈夫」
「重くは」
「今は平気。長く挿してみないと分からないわ」
趙活は手を離した。
竹の軸は黒髪へ紛れ、その端から玻璃の藤だけが垂れた。
赤紫は、雲裳の白い襟と淡い外套の間でよく映えた。
なぜ、この色にしたのか。
夕日の差した無色の玻璃を見て、その色を中へ閉じ込められないかと思っただけである。
雲裳の白い襟や淡い外套へ合わせて選んだわけではない。
少なくとも、色を作った時には。
趙活はそう考え、二歩下がった。
雲裳が振り向く。
「どう?」
その場で一度、ゆっくり回った。
藤が遅れて揺れる。
小さな花同士が触れ、涼やかな音を一つ立てた。
裾が戻り、雲裳は趙活を見た。
病の影が薄れた頬は以前より少し大人び、そこへ赤紫の光が淡く映っていた。
いつもの悪戯めいた表情を少しだけ潜め、趙活を見上げる。
趙活は頷いた。
「似合っている」
「それだけ?」
「花の色が髪に映える。長さもこれくらいなら邪魔にならない。歩いた時の音もうるさくない」
「急に職人みたいになったわ」
趙活は、雲裳の髪で揺れる藤をもう一度見た。
「藤は美人を留めるというが、逆だな。雲裳の方が藤を引き立てている」
「そう。そういうのでいいのよ」
どうやら、今度の答えは及第らしい。
雲裳は自分で簪を抜くと、両手の上へ載せた。
夕日はもう山へ沈みかけている。
玻璃の花へ残った光も淡い。
それでも雲裳は、花の一つ一つを長く見ていた。
「どうだ? なかなかよくできたと思ってるんだが」
趙活が言った。
「そうね」
雲裳は珍しく、素直に返した。
「もう少し作り方を詰めれば、売り物になるかもしれない」
雲裳の指が止まった。
趙活は止まった指を見たが、細工の出来を案じたのだろうと思い、そのまま続けた。
「雲裳から及第をもらえるなら、大丈夫だろう。細工物なら同じ炉で作れて、値も付けられる。今度町へ行った時に流行りの形を調べ、四師兄に相場を聞く。竹軸なら元手も大して――」
「売るの?」
「売るつもりで作ったわけじゃない。出来上がってから、そう思いついた」
「これを?」
「これは試作品だから、直すところが多い。次は花房をもう少し軽くして――」
「これと同じものを、たくさん作って?」
趙活はようやく、雲裳の声が変わったことに気づいた。
「同じものというか、売るなら幾つか形を――」
「町の知らない娘たちに?」
「買う者が娘とは限らない。贈り物にする男もいるだろう」
それが決定打だった。
雲裳は簪を片手で大事に握ったまま、空いた手で趙活の胸を叩いた。
「この馬鹿!」
「何だ」
もう一度。
「不細工!」
「それは関係ないだろう」
三度目。
「人の気持ちを何だと思っているの!」
「待て。玻璃が割れる」
「割らないわよ!」
簪を持つ手だけは、最初から少しも乱れていなかった。
その代わり、空いた拳が次々に飛んだ。
胸。
肩。
腕。
病弱だった頃とは比べものにならず、痛かった。
趙活は受けながら、一歩ずつ炉から離れた。雲裳を止めようと手を出せば、簪へ当たりそうで出せない。
「おにいちゃんが何日も鍛冶場へ通って、裳が迎えに来た時に、ちょうど藤の簪を作り上げたのよ。しかも自分で挿して、似合うと言って、そうしたら誰だって自分のためだと思うでしょう!」
「いや、俺はまだ渡すとは――」
「まだ?」
「……言葉を間違えました」
「作った本人が髪へ挿したのよ。それを手に持たせて、似合うと言ったのよ。その後で、同じものを町の娘へ売る相談をする人がどこにいるの!」
「ここにいた」
雲裳の拳が一段強くなった。
「冗談を言うところではないわ!」
「分かった。分かったから、まず落ち着け」
「落ち着いているわ。裳はとても冷静よ。冷静に考えた結果、おにいちゃんは一度殴られた方が人の心を覚えると判断したの」
「もう十回は殴っている」
「では、あと十回で覚えなさい」
言葉通り、十回ほど続いた。
趙活は途中から数えるのをやめた。
最後に雲裳は大きく息を吐き、簪を両手で包んだ。
「これは売っちゃだめ」
「試作品だぞ」
「だから何?」
「銅線の巻きが一つ多い。花の高さも揃っていない。軸にも飾りがない」
「裳が初めてつけた時には、それでよかったのでしょう」
「まあ」
「それなら、もう十分よ。次に上手なものができても、それは後から作った別の物でしょう。最初の一本はこれしかないのだから、これを直すのも、あとから同じ形のものを作るのも駄目」
雲裳は趙活が返しそうな言葉を待たず、さらに続けた。
「それに売って得られるお金なら、別のもので稼げばいいわ。玻璃の花を売らなければ唐門が明日潰れるわけではないし、もし明日潰れるなら簪を十本売ったくらいでは助からない。四師兄なら、もっと高く売れる物をどこかから探してくるでしょう。だから、これを売る理由は一つもないわ」
「同じ意匠にしなければいいのか」
「駄目」
「竹軸だけなら」
「駄目」
「玻璃の花を別の色にして」
「駄目よ」
「全部駄目では商いにならん」
「商いにしなければいいでしょう」
雲裳は簪を胸へ抱いた。
「はあ……おにいちゃんは武林盟主でしょう。人の心を読んで動かしていた。それなのに、どうして簪一本になると、町の子供より人の気持ちが分からなくなるの?」
趙活は答えず、視線を外した。
雲裳が普段身につけているのは、紅珊瑚や真珠、銀葉の細工である。それに比べれば、竹を削り、銅線で玻璃を吊っただけの簪など、贈り物として釣り合うはずもない。少なくとも趙活は、そう思っていた。
逃げた視線は、雲裳の身につけた宝飾へ向いていた。
雲裳はその先を追い、ようやく思い当たった。
「もしかして、裳の持っている紅珊瑚や真珠に比べて、こんな簪では釣り合わないと思っているの?」
趙活は否定しなかった。
「……ばかなおにいちゃん」
雲裳は簪を胸へ抱き直した。
「裳の宝物は、確かに高価だわ。でも、どれほど高くても値のつくものよ。これには値をつけさせないわ。売らないもの」
雲裳は続けて言った。
「それに、わたしがさっき言った、悪くないって言葉。嘘じゃないわ、本当にそう思ってるのよ」
趙活は頬をかきながら、自信なさげに言った。
「なら、もらってくれないか」
雲裳は簪を見下ろしていた。
「初めからそう言えばいいのよ!」
雲裳はようやく笑った。
「ただし、明日はここ数日いなかった分まで裳の相手をすること。戦の後始末があるなら、書付を持って隣でやればいいわ。裳は邪魔をしないし、たぶん静かにしているし。仕事もできて、かわいい裳も眺められる。一石二鳥ってことよ」
「断る余地は」
「ないわ」
雲裳は簪を差し出し、もう一度髪へ挿すよう求めた。
趙活は今度は迷わず、先ほどと同じ位置へ挿した。
一度挿しているため、角度も分かっている。
花が頬の横へ垂れる。
「帰るわよ」
「待て。火を落とす」
「待ってあげる」
趙活が炉を片づける間、雲裳は戸口で何度も花へ触れていた。
鍛冶場を出ると、空はもう暗かった。
練功場の灯籠や、各建物の窓に灯が入りはじめ、夕餉へ向かう弟子たちが行き交っている。
最初に気づいたのは、井戸から水を運んでいた若い女弟子だった。
雲裳の髪を見て、足を止める。
「雲裳ちゃん、その簪は」
雲裳は待っていたように振り向いた。
藤が揺れる。
「似合うでしょう」
「きれい。町で買ったの?」
「違うわ」
雲裳はそれだけ答えた。
誰が作ったかは言わない。
だが一歩横へ寄り、趙活が隠れないようにした。
女弟子は雲裳と趙活を一度ずつ見た。
何かに気づいた顔で笑い、礼をして去った。
「なぜ言わなかった」
「何を?」
「俺が作ったと」
「おにいちゃんは売り物にしたかったのでしょう。ここで皆に言ったら、明日には注文を取り始めるかもしれないもの」
「作らないと言った」
「なら、誰が作ったかは裳だけが知っていればいいわ」
雲裳は先へ歩いた。
その足取りは、鍛冶場へ来た時よりずっと軽い。
少し進んでから、趙活がついてきていないことに気づき、振り返った。
「何をしているの。下僕は主人を一人で歩かせないものよ」
「わかったわかった。今行く」
「簪をくれたから、今日は半歩後ろで許してあげる」
趙活は仕方なく、その半歩後ろを歩いた。
雲裳は何度も横を向いた。
横を向くたび藤が揺れ、そのたび趙活の目が一瞬だけ簪へ行く。
雲裳は最後まで、それを指摘しなかった。
その夜。
雲裳は自室の机へ簪を置いていた。
灯の下では、夕日の中と色が違った。
桃色は淡くなり、花弁の根にだけ赤紫が残る。その下の竜骨弁はより鮮やかな赤紫だ。銅の枝には捻って留めた跡があり、竹の軸には磨き切れなかった筋が一本走っていた。
雲裳は頬杖をつき、指先で軸を僅かに回した。
藤の花が揺れる。
花同士が触れ合い、ちりちりと小さく鳴る。
雲裳はもう一度、簪を回した。
花が灯を返す。
默鈴に見せれば、驚くだろうか。兄に見せれば、褒める言葉が出てくるだろうか。唐芳姐さんに自慢してもわからなさそう。
考えることはいくらでもあった。
だが、今はまだ、誰かに見せるよりも一人で眺めていたかった。
雲裳は一人、机に置いた玻璃の藤簪を、飽きもせず眺めていた。