もしも薙切薊の性格がマイルドだったら   作:作者さん

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アンチ・ヘイトにならない程度の文章だと思う
創真と叡山の食戟ぐらいから。


叡山との食戟後

 

窓の外からは、けたたましい重機の駆動音と、下品な男たちの怒号が絶え間なく響いてきた。

 

極星寮の周囲は今、十傑第九席・叡山枝津也の差し金による取り壊し業者たちに完全に取り囲まれている。吉野や伊武崎たち寮生が総出でバリケードを築き、放水などで必死の防城戦を繰り広げている最中だった。

 

しかし——極星寮の厨房内だけは、まるで外界の騒乱と完全に切り離されたかのような静寂と、芳醇な香りに満ちていた。

 

トントン、トントン……。

 

一切の迷いがない、規則正しく美しい包丁の音が響く。

 

「……外であんな騒ぎを起こさせておいて、お前さんは随分と余裕だね。薊」

 

腕を組み、呆れたような、しかしどこか油断ならない視線を向ける寮母・大御堂ふみ緒の言葉に、厨房に立つ男——新総帥・薙切薊は、火にかけていたソースの鍋からゆっくりと顔を上げた。

仕立ての良いスーツの上にエプロンを纏った彼は、優雅な手つきで味見をすると、どこか楽しげに微笑んだ。

 

「お久しぶりです、ふみ緒さん。相変わらずお元気そうで何よりだ。……騒ぎ、と言いますが、これはあくまで中枢美食機関(セントラル)としての正当な業務の一環ですよ」

「どの口が言うんだい。自分の手下どもにこの寮をぶっ壊させようとしてる張本人が、そのターゲットの厨房でディナーの仕込みたぁ、いい度胸じゃないか」

 

ふみ緒の皮肉にも、薊の表情は一切崩れない。それどころか、彼は手際よく高級食材を捌きながら、ひどく穏やかな声で返した。

 

「ええ、本当に壊れてしまうのなら、それは残念なことです。ですが……」

 

薊はまな板の上の食材から視線を外し、窓の外——寮生たちが声を掛け合いながら奮闘している喧騒へと思いを馳せるように目を細めた。

 

「私は、彼らを心配などしていませんよ。この極星寮に集った玉(才能)たちが、あの程度の有象無象の圧力に屈するなどあり得ない」

「……ほう?」

「私が去った後の極星寮の出身者の話は私も熟知していますよ。そこから推測できるだけでも貴方の見る目は衰えている様子はない。そんな彼らが、この程度の出来事で膝をつき諦めるとは思ってはいません。必ず結果を用意してくることでしょう」

 

冷徹な言葉とは裏腹に、その横顔には、かつてこの寮で青春を過ごしたOBとしての確かな『信頼』が透けて見えていた。

特別な贔屓はしない。だが、極星寮のポテンシャルを信じているからこそ、彼は悠然とここで『勝者のための宴』の準備を進めているのだ。

 

「……ふん。昔から理屈っぽい男だったが、総帥になって一段と生意気言うようになったもんだよ、全く」

 

ふみ緒は小さく鼻を鳴らすと、それ以上彼を責めることはしなかった。

鍋の中でソースが艶やかに煮詰まっていく。と、不意に遠くから、業者たちの怒号とは違う、寮生たちの歓声が微かに聞こえ始めた。どうやら、食戟の場へ向かった幸平創真の勝利の報が届いたらしい。

 

「さて。どうやら私の見立て通り、無事に『存続』が決まったようですね」

 

 

--

 

「おーい、ふみ緒さーん! なんとか勝ってきたぜー!」

 

極星寮の重厚な玄関扉を開け放ち、幸平創真の声がエントランスに響き渡った。

叡山枝津也との食戟に勝利し、寮の取り壊しを強行していた業者たちも蜘蛛の子を散らすように撤退していった直後。泥と汗にまみれた吉野や榊、丸井といった寮生たちも、創真の後ろからどっと安堵の息を吐きながらなだれ込んでくる。

 

「あー、死ぬかと思った……! でもこれで極星寮は守られたんだよね!」

「ああ。創真くんのおかげだ。……それにしても、腹が減ったな」

 

極度の緊張から解放され、途端に空腹を訴える丸井の言葉に、創真も「だな!」と笑って腹をさすった。

 

「ふみ緒さんのやつ、俺たちが勝つって信じて、今夜はすげーご馳走を用意して待ってるって言ってたからな! 早速食堂に行こうぜ!」

 

足取りも軽く、わいわいと騒ぎながら食堂へと続く廊下を進む一行。

しかし、厨房に近づくにつれて、彼らの足取りは次第にゆっくりとしたものに変わっていった。

 

「……ん? なんだ、この匂い」

 

真っ先に異変に気づいたのは創真だった。鼻腔をくすぐるその香りは、寮母であるふみ緒が作る家庭的で温かみのある夕食のそれとは、明らかに異質だったのだ。

何種類もの香草が複雑に絡み合い、極限まで澄み切ったコンソメのような深い香りが、重厚な扉の隙間から漏れ出している。

 

「ふみ緒さんの料理も美味しいけど……この香りの深みと研ぎ澄まされ方、ただ事じゃないわよ……?」

「まさか、一色先輩が腕を振るってくれてるのかな……?」

 

榊と田所恵が顔を見合わせる。

 

「いや、残念ながら僕じゃないよ」

 

不意に背後からかけられた声に、創真たちが振り返る。

そこには、いつの間にか合流していた一色慧が、普段の朗らかな笑みを微かに引き締め、食堂の重厚な扉を見つめて立っていた。

 

「一色先輩! いつからそこに……ってか、先輩も今帰ってきたんすか?」

「ああ。創真くんの勝利を見届けてから、少し野暮用を片付けていてね。……それにしても」

 

一色はすっと目を細め、扉の隙間から漏れ出す芳醇な香りを分析するように嗅ぎ取った。

 

「この香り……暴力的なまでの洗練と、一切の隙がない完璧な仕事だ。ふみ緒さんや僕どころか、今の遠月でもこれほどの皿を作れる人間はそう多くないよ」

 

十傑である一色のその言葉に、寮生たちの間に期待と、言葉にできない微かな違和感、そして緊張が走る。創真は首を傾げながらも、その正体を確かめるべく、勢いよく食堂の扉を押し開けた。

 

「ふみ緒さん、腹ペコだぜ! 今日のパーティーのメニューは——」

 

言いかけた創真の言葉は、目の前の光景によって呆気なく途切れた。後ろに続いていた一色や寮生たちも、息を呑んで完全に硬直する。

広々とした食堂の長机には、純白のテーブルクロスが敷かれ、磨き上げられたカトラリーが並べられていた。そしてその中央には、まるで一流ホテルのメインダイニングと見紛うような、芸術品のように美しい料理の数々が鎮座している。

だが、彼らが凍りついた理由はそれではない。厨房のカウンター越し。豪奢な肉料理に、最後のソースを優雅な手つきで回しかけている人影があった。

 

「——おや。主役たちの帰還にしては、随分と静かな入場だね」

 

仕立ての良いスーツにエプロン姿。

先ほどまでこの寮を重機で蹂躙しようとしていた張本人であり、遠月学園の新総帥。

 

「なっ……!?」

「あ、薊……総帥……!?」

 

薙切薊が、完璧な笑みを浮かべて極星寮の面々を出迎えていた。

 

「ようこそ、誇り高き極星寮の勝者たち。さあ、席に着くといい。ささやかだが、君たちの勝利を祝う宴の準備ができているよ」

 

あまりにも場違いで、あまりにも堂々としたその振る舞いに、創真たちはただ唖然と立ち尽くすことしかできなかった。

 

--

 

「歓迎の宴だって……? ふざけんな!」

 

呆然としていた空気を切り裂き、真っ先に声を荒げたのは吉野悠姫だった。

怒りで肩を震わせ、薊を真っ直ぐに睨みつける。

 

「あんたが叡山先輩を使って、この寮をぶっ壊そうとした張本人じゃないの! 自分で重機まで差し向けておいて、何言って……!」

「ちょっとしたサプライズだ。楽しんでもらえたかな?」

「サ、サプライズぅ!?」

 

吉野の悲痛な叫びを、薊はまるで心地よい音楽でも聴くかのように目を細めて受け止めた。悪びれる様子など微塵もない。それどころか、彼は火を止め、純白のトーションで優雅に指先を拭いながら穏やかに微笑んだ。

 

「勘違いしないでほしい。私はこれでも極星寮のOBだ。私の愛した学び舎であるこの場所の存続が決まったことは、当然、喜ばしいことだと思っているよ」

「嘘つかないでください! 創真くんが勝たなければ、本当にここを更地にする気だったではありませんか!」

 

榊涼子が鋭く追及する。その言葉に、薊はあっさりと頷いた。

 

「ああ、本当だとも。もし君たちが敗北していれば、容赦なく更地にしていた。……だがね」

 

薊の漆黒の瞳が、ふっと冷酷な光を帯びる。

彼が視線を向けるだけで、歴戦の寮生たちがカエルを睨まれた蛇のように身をすくませた。

 

「…私は、君たち極星寮の面々であれば、あの程度の障害など容易に乗り越えられると判断していた。……もし、あんな三流の盤外戦術で潰されてしまうのなら、それはもはや私が愛した『極星寮』ではない。そこまでレベルが落ちぶれてしまったのなら、いっそ跡形もなく潰れてしまった方がマシだ」

 

それは極めて冷徹な事実の突きつけだった。

だが、その根底にあるのは「極星寮の実力であれば絶対に負けない」という、異常なまでの信頼だ。

あくまで中枢美食機関(セントラル)の総帥として、一切の特別扱いはしない。しかし、要求するハードルを超えた者には最大の賛辞(料理)を用意する。

徹底した経営上の判断でありながら、あまりにも身勝手な理屈。しかし一切の隙がないその言葉に、寮生たちは反論の糸口を失い、ぐっと唇を噛み締めた。

 

「……相変わらず、理屈っぽくて可愛げのない男さね。立派な肩書きをぶら下げて、随分と生意気言うようになったもんだ」

 

重苦しい沈黙が落ちた厨房に、呆れたようなため息が響いた。

ふみ緒がツカツカと歩み寄ると、薊の背中をポンと遠慮なく小突いたのだ。絶対的な独裁者である薊に対し、まるで悪戯をした子供をたしなめるようなその態度に、周囲の寮生たちの方がヒヤリと息を呑む。

 

「……手厳しいですね、ふみ緒さん」

 

しかし、刺すような威圧感を放っていた薊は怒るどころか、ほんの一瞬だけ毒気を抜かれたように苦笑を漏らした。それは遠月総帥としてではなく、かつてこの寮で過ごした一人の青年としての顔だった。

 

「さて。つまらない立ち話はこれくらいにしよう」

 

すぐにいつもの完璧な笑みに戻った薊が、優雅な仕草でダイニングテーブルを手で示す。

 

「せっかくの料理が冷めてしまうからね。さあ、席に着きたまえ。君たちの勝利を、私の料理で祝おうじゃないか」

 

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「……まあ、せっかく作ってくれたんだ。冷めないうちに食おうぜ」

 

真っ先に椅子を引き、どっかりと腰を下ろしたのは創真だった。

吉野や丸井たちが「ちょっと、創真くん!?」と狼狽えるが、創真はどこ吹く風で目の前のナイフとフォークを手にする。

 

残る寮生たちも、促されるままおそるおそる席に着いた。

だが、食卓を包む空気は依然として硬い。彼らの脳裏に浮かんでいるのは、極星寮に身を寄せていたえりなの姿だった。

父親であるこの男から受けた、凄惨とも言える洗脳に近い教育。言葉を奪われ、絶望に打ちひしがれていた彼女の過去を知っているからこそ、目の前に座る美しい男が恐ろしい化け物に見えてしまうのだ。

 

(この人が、えりなちゃんを苦しめていた父親……。こんなに穏やかな顔をしてるのに……)

 

田所恵は膝の上で拳を強く握り締め、息を詰めて一皿を見つめた。

 

「お待たせしました。本日のメイン……『小鳩(ピジョン)のロースト、黒トリュフと熟成赤ワインのソース』です」

 

薊の手によって運ばれ、一人ひとりの目の前にそっと置かれた白磁の皿。

そこに鎮座していたのは、一切の無駄を削ぎ落とした、あまりにも美しく静謐な一品だった。

 

慎重にローストされた小鳩の胸肉は、表面が美しい飴色の光沢を纏っている。そこに回しかけられた漆黒のソースは、鏡のように光を反射し、みじん切りにされた黒トリュフが星屑のように散りばめられていた。

皿が置かれた瞬間、鼻腔を襲ったのは重厚でいてどこか澄み渡るような香り。じっくりと煮詰められた最高級赤ワインの芳醇な酸味と、トリュフの土っぽく高貴な香味が、小鳩特有の野性味あふれる血の香りと見事に調和し、立ち上っている。

 

(この香り……! 一切の濁りがない……! ソースの乳化が完璧すぎるんだ……!)

 

伊武崎が息を呑み、皿を見つめたまま固まる。

創真は無言のまま手元のナイフを持ち上げ、スーッと肉に刃を入れた。

 

――スー……っ。

 

抵抗なく吸い込まれていくナイフ。まるで温めたバターに刃を入れているかのような刃離れの良さ。断面から覗いたのは、中心に向かって完璧なグラデーションを描く、艶やかなロゼ色の肉質だった。

絶妙な火入れによって肉汁が繊維の中に完全に閉じ込められており、刃を入れた瞬間にだけ、極上のスープのような澄んだ肉汁が溢れ出す。

 

創真は迷いなく、その一口を口の中へと運んだ。

 

一秒。二秒。

歯が肉を噛み切った、その瞬間のことだった。

 

「……ッ!!」

 

創真の背筋が、まるで高圧電流を流されたかのようにピンと跳ね上がった。

 

(なんだ……この、柔らかさは……っ!?)

 

――パリッ……、モチッ……じゅわぁあッ……!

 

驚異的な薄さで焼き上げられた皮目が「パリッ」と心地よい音を立てて砕けた直後、歯が吸い込まれるような官能的とも言える肉の柔らかさが口腔を包み込む。中心温度をミクロン単位でコントロールした完璧な低温調理。噛み締めるたびに、小鳩が持つ強烈な鉄分と旨味が、溢れ出る肉汁とともに爆発した。

 

そして、それを追うように襲いかかってくるソースの暴力。

トリュフの香りを纏った濃厚な脂と熟成赤ワインの酸味が、小鳩の野性味を一切の嫌味なく、至高の洗練へと引き上げている。

 

「……うまっ」

 

創真の口から漏れたのは、計算も警戒も一切含まれていない、あまりにも直球で純粋な感嘆だった。

 

それを合図にするように、吉野や榊、丸井、恵たちも吸い寄せられるように肉を口に含んだ。

――次の瞬間、食卓を支配していた重苦しい緊張感が、目に見えて瓦解していく。

 

「あ……ぁあ……っ!!」

 

恵は両手で頬を押さえ、うっとりと瞳を潤ませながら身体を震わせた。

口の中に広がるのは、まるで静かな深い森の中で、暖かな光に包まれて浮遊しているかのような全能感。冷酷な独裁者への恐怖も、えりなを苦しめた男への警戒心も、舌の上に咲き誇る「圧倒的な美味」の前には、ひとたび吹き飛んでしまう。

 

「な、なにこれ……! 肉の火入れが完璧すぎるよ……! 血の生臭さなんて微塵もないのに、旨味だけが何倍にも膨らんでる……!」

「ソースも凄まじいわ……。トリュフの重厚な香りが、小鳩の野性味を包み込んで、一口ごとに脳へ直接快楽のシグナルを送ってくる……!」

 

吉野と榊が、半ばうわごとのように美味の衝撃を語る。

丸井は眼鏡を押し上げる手すら震わせ、肉の断面を凝視していた。

 

「信じられない……小鳩のガラと血を炒め、赤ワインで煮詰めた伝統的な『サルミソース』の技法だ。だが、ダマも濁りも一切ない。完璧な温度管理と濾し(シノワ)の技術によって、ソースの粘性と旨味が極限まで高められている……! これは、教科書に載る『100点の正解』を遥かに超えた、神技の領域だ……!」

 

噛み締めるたびに、脳内物質(ドーパミン)が過剰分泌され、舌が、脳が、身体全体が「もっと味わいたい」と悲鳴を上げる。

料理人は料理に嘘をつけない。

目の前に座る男——薙切薊が提示したのは、歪んだ思想でも強権的な圧力でもない。ただひたすらに研ぎ澄まされた、「圧倒的で、絶対に否定しようがない美味の本質」そのものだった。

 

(悔しい……悔しいけど、美味い……! 身体が、この人の料理を『正しい』って認めちゃってる……!)

 

田所恵は膝の上でスカートを強く握り締めながら、あまりの多幸感と、それに比例する底知れぬ恐怖に背筋を凍らせていた。

この男の作る料理には、食べた者を無条件でひれ伏させ、思考を奪い、服従させてしまう恐ろしい「正義」が宿っている。

 

空になった皿と、静まり返る食堂。

全員が息を荒らげ、自らの五感を完全にハックされた余韻に打ちひしがれる中、薊は満足そうに目を細め、優雅な手つきでワイングラスを静かにテーブルへと置くのだった

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「さて、極星寮の諸君。実に素晴らしい食生活を送っているようだね」

 

薊は一人ひとりの顔を優しく見回しながら、穏やかなトーンで言葉を紡ぎ始めた。

 

「私はただ君たちの勝利を祝い、胃袋を満たすためだけにこの席を用意したわけではない。……今日ここへ来た真の目的は、君たち全員を『中枢美食機関(セントラル)』へと正式にスカウトするためだ」

 

「……スカウト、だと……!?」

 

丸井が目を見開き、吉野や伊武崎たちもにわかには信じ難いという顔で息を呑んだ。

 

「そうだ。君たち極星寮のメンバーが持つ実力は、秋の選抜や日頃の研鑽を見ても疑いようがない。田所くんの食材に対する繊細な慈しみ、吉野くんの野生肉の扱いにおける卓越した知識、伊武崎くんの燻製技術、榊くんの発酵に対する深い造詣、丸井くんの蓄積された知識の昇華……そして幸平くんの土壇場での桁外れの勝負強さ。全員が、研磨されれば極上の光を放つ確かな『玉』だ」

 

薊の口から出たのは、思いつきの世辞などではなく、一人ひとりの特性と実力を正確に把握した上での具体的な称賛だった。自分の料理を正当に評価された寮生たちは、警戒しながらもどこか気圧されたように言葉を詰まらせる。

 

「君たちのような優秀な才能が、無意味な対立によってすり減っていくのは料理界全体の損失だ。セントラルに入りなさい。君たちの力と情熱を、私の掲げる改革のために存分に振るってほしい」

 

「『百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり』……ですか」

 

それまで静かにワイングラスを傾けていた一色慧が、柔らかく、しかしどこか見透かすような笑みを浮かべて口を開いた。

 

「『孫子』の謀攻篇ですね、総帥。力づくで僕たちを潰すのではなく、圧倒的な待遇と価値観の提示で戦わずして抱き込む。それが最も効率的で、無駄のない勝利だと」

 

「その通りだよ、一色くん」

 

薊は満足そうに小さく頷いた。

 

「無益な争いで優秀な兵を失うのは愚者のすることだ。戦わずして理解し合い、我が陣営に迎え入れる……これこそが最上の策であり、合理的な指導者の在り方だよ」

 

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「だが、あんたのその『最上の策』に素直に頷けるわけねぇだろ」

 

腕を組み、不機嫌そうに身を乗り出したのは伊武崎峻だった。静かだが、その声には強い拒絶が滲んでいる。

 

「あんたのセントラルは、料理人の自由を奪ってる。教官が提示したレシピ通りにしか作らせない……そんなの、自分の料理とは言えないだろ」

 

「なるほど。だが、それは指導の過渡期における教員の言葉足らずだよ、伊武崎くん」

 

薊は穏やかに微笑むと、身を乗り出すようにして彼らに語りかけた。

 

「セントラルが提示しているレシピは、味、調理時間、作業工程の複雑さ、原価率……その全てを膨大なデータに基づいて最適化した、いわば『100点満点の正解』だ。だが、なぜその工程が必要なのかを解き明かさず、ただ従わせるだけだったのなら、それは教員の指導不足だ。申し訳ない、こちらの指導を徹底させよう」

 

「……言葉の問題じゃねえよ!」

 

不満は教育の仕方の問題でしかない、不満があればそれに沿えるように改善しよう。そういわれてしまえば、生徒で教育を受ける立場である以上正論として受け止めるしかなかった。

 

 

吉野が椅子を引いて立ち上がった。

 

「食戟だってそうじゃない! 本来なら料理人が自分の意思や意地を通すための、対等で神聖な勝負だったはずでしょ!? なのに叡山先輩は、買収や脅しで料理の勝負にすらさせず、自分たちの意見しか通らない『独裁のための道具』に作り変えようとしたじゃない!」

 

「その通りだよ、吉野くん。叡山くんの手によって食戟という制度の形骸化を決定づけること……食戟と言う制度の解体自体も私の狙いの一つだったのだからね」

 

薊はまったく動じることなく、深く頷いてみせた。

 

「部費や予算の争奪戦程度なら、切磋琢磨の場として機能していた時期もあった。だが……美作昴という男がしていたことを覚えているかい? 相手のプライドや、料理人としての誇り、大切な道具まで強奪する手段に成り下がっていた。暴力的な手段に成り果てた制度を一度解体し、健全な秩序を取り戻す。それは経営者として至極当然の判断だとは思わないかい?」

 

「うっ……それは……」

 

吉野が言葉に詰まる。美作の卑劣な食戟を目の当たりにしていただけに、全否定しきれない理屈があった。

 

「ですが……」

 

丸井が汗をぬぐいながら、慎重に言葉を選ぶ。

 

「『捨て石の救済』とおっしゃいますが、結局のところ、セントラルの言う指導とは、上が決めたマニュアル通りに動く『作業員』を増やしているだけではありませんか?」

 

「いい指摘だね、丸井くん。だが、逆に問おう」

 

薊の鋭い瞳が丸井を射抜く。

 

「これまでの遠月は、その『マニュアルさえあれば救われたはずの才能』を、理不尽な剪定でゴミのように捨ててきたのではないかい?」

 

その言葉に、一瞬だけ場の空気が凍りついた。薊の視線が、静かに田所恵へと注がれる。恵はびくっと肩を揺らした。

 

「田所くん。君は以前、些細な手違いで退学の危機に瀕したそうじゃないか。旧体制の遠月は、秋の選抜で優秀な結果を残すことすらできた君のような、宝石になり得る原石を磨く前に捨てようとした。私のセントラルは違う。圧倒的な基礎……100点の正解を教え込み全員を磨き上げ、そのうえでさらなる頂を目指す者を求めている。遠月のブランド価値がセントラルの卒業生という価値に変わるだけのことだ。優秀な料理人は、何人いたって困ることはない」

 

「でも……!」

 

丸井の横で、榊涼子が静かに、だが引き下がらずに問う。

 

「その基礎のすべてを貴方の考えたもので埋め尽くしてしまったら……それはもう、その子自身の料理とは言えなくなるのではありませんか?」

 

「基礎を崩し、発展させることができるのは、完璧な基礎を知る者だけだよ、榊くん」

 

薊は切々と語りかけた。

 

「四則演算も解けない子供に、高等数学の研究をさせても意味がない。基礎すらおぼつかない者が思いつきで作った料理など、ただの駄作だ。100点の基礎を身体に叩き込んだ上で、それを崩すか、さらに発展させるか……それは基礎を修めた後の、料理人本人の自由だ。私はそこまで縛るつもりはない」

 

隙がない。あまりにも隙のないロジック。再び極星寮の皆に沈黙が訪れる。

 

「それでも納得がいかないな……」

 

沈黙を破ったのは伊武崎だった。

 

「あんたは今、完璧な正論を並べて俺たちをスカウトしようとしている。だが……それならどうして叡山先輩を切り捨てたんだ? あんたの味方として働いていた人間だろう。俺たちを取り立てるために、身内すら冷酷に切り捨てる男を、俺たちが信用できると思うか?」

 

「ああ、叡山くんのことかい」

 

薊は自嘲気味に微笑んだ。

 

「誤解しないでほしいのだが、私は彼を切り捨てたわけではない。彼は負けるべくして負けたのだよ」

 

「……何?」

 

「彼は食というものを舐めていた。食事とは、人間の三大欲求であり、五感の半分以上を一度に支配する行為だ。だからこそ、食を握る者は人間を動かすことなど易々とおこなえる。だが彼は、権謀術数や金儲けといった『料理以外』の手法で相手を叩き潰すことに夢中になりすぎた。本来の彼の腕前なら、幸平くんに対して十分有利に立ち回れたはずなのに、料理人としての原点を忘れていたんだ」

 

薊は立ち上がり、静かに厨房へと戻ると、保温されていた一皿の料理を運んできた。それは、先ほど食戟で叡山が作った料理の、改良版だった。

 

「食べてごらん」

 

薊が食卓の中央に置いたのは、先ほどまで創真と叡山が食戟で競い合っていた料理——『海南鶏飯(ハイナンチキンライス)』の改良版だった。

 

創真をはじめとする一同が、黙って匙を手に取り、その料理を一口口にする。

瞬間、極星寮の面々の顔色が変わった。

 

「な、なんだこれ……!」

 

叡山が作ったものとは比べ物にならない、素材のポテンシャルを極限まで引き出した圧倒的な完成度。

肉を噛み締めた瞬間、しっとりとした繊維の中から、あえて均一化されていない「予測不能な食感」が襲いかかってきたのだ。意図的に仕込まれたゼラチン質の弾力と、微かに砕けるクリスピーな皮目がランダムに弾け、脳の予測を心地よく裏切り続ける。

さらにライスを飲み込んだ直後、温度変化によって溶け出した香りのオイルが一気に揮発し、時間差で胃の底から鼻腔へと爆発的に立ち昇った。

 

五感を根こそぎハックされ、次の一口を強制的に欲求させられるような、恐ろしいまでの支配力。

 

「私がやったのは特別な魔法ではないよ」

 

圧倒され、息を呑む極星寮の面々を見下ろしながら、薊は淡々と語り始めた。

 

「彼の用意したレシピの素材と工程を、ほんの少し並べ替えただけだ。あえて食感に『不完全な揺らぎ』を残して脳を混乱させ、香りの時限爆弾を仕込む。……叡山くんは『錬金術士』と呼ばれるほど、素材の価値と人間の心理の計算に長けた男だ。本来であれば、これは叡山くん自身が容易にたどり着き、君に叩きつけるべき一皿だったんだ」

 

薊の漆黒の瞳が、静かに創真を射抜く。

 

「だが彼は、盤外の策で寮を潰すことにかまけ、料理人としての原点を忘れていた。もし彼が、純粋に『盤上の料理だけで君を屈服させる』ことだけにその知能を注いでいれば……この完成形には、間違いなく彼自身の手でたどり着いていたはずだよ」

 

「……これなら、勝負はどっちに転んでいたか分からなかった」

 

一色が呟く。創真も、額に汗を滲ませながら、真剣な目つきで皿を見つめていた。

盤外戦術に溺れた叡山の慢心がなければ、自分の勢いすらもこの圧倒的な美味の前に封殺されていたかもしれない——そう肌で感じ取ったからだ。

 

「私はね、叡山くんを躓かせるために、あえて何も言わずにいたんだよ」

 

呆然とする一同を前に、薊の目が、酷く深い色を宿す。

 

「一度も躓かず、折れずに大人になってしまった人間は、脆い。一度折れれば二度と立ち上がれないか、歪んだ形でしか再生しない。学生のうちに手痛い敗北や挫折を味わい、自分の足元を見つめ直す……それは彼にとって、最高の教訓になるはずだ」

 

薊はそこでふっと目を細め、グラスの赤ワインを静かに揺らした。

 

「確かに、彼が敗北したことで極星寮は存続し、食戟というシステムを解体するという目先の目的は遠ざかってしまったね。だが……その一時的な損失を踏まえても、セントラルの協力者である彼自身が敗北から学び、より強固な才能として成長することの方が、長期的に見て我々に大きな益をもたらすと判断したのさ」

 

味方すらも、挫折による成長の糧として利用する。

盤上の勝敗すらも、全ては才能を磨くための試練。

薊がただの権力者ではなく、絶望的なまでの実力と、異常なほどの「教育への執念」を持つ本物の怪物であることを、極星寮の全員が身をもって思い知らされた瞬間だった。

 

さらに薊は、食卓の端で静かに俯いていたえりなへと視線を向け、深く息を吐いた。

 

--

 

「……そして、君たちが私を最も非難したい理由についても触れておこう。えりなのことだ」

 

その名が薊の口から零れ落ちた瞬間、食卓の端に座っていたえりなの肩が、弾かれたように跳ね上がった。

 

息が止まる。視界の端がすっと暗くなり、喉の奥がひゅっと引き攣る感覚。幼少期、暗い部屋で父親の指先ひとつ、声のトーンひとつに怯えていたあの記憶が、冷たい悪寒となって背筋を駆け上がっていく。膝の上で固く結ばれた白く繊細な指先は、握りしめたスカートの生地を破らんばかりに力を込められていた。

 

「私が過去、未熟さゆえに彼女を傷つけてしまったことは紛れもない事実だ。神の舌を発展させるという結果そのものに後悔はないが……もっと良いアプローチがあったのではないかと、私自身、強く反省し謝罪したいと思っている。……すまなかったね、えりな」

 

薊はそう言うと、静かに胸に手を当て、まっすぐにえりなを見つめて頭を下げた。

 

「あ……、っ……」

 

えりなの口唇から、小さな掠れた声が漏れる。

恐怖による拒絶反応なのか、それとも思いもよらない言葉に胸を突かれた動揺なのか、自分でも判別がつかない。瞳は激しく揺れ、視線は迷子になったかのように彷徨った。

 

絶対的な支配者であり、逆らうことなど永遠に許されない神のごとく君臨していた父親。その男が今、自分の前に「未熟な父親」として立ち、穏やかな眼差しで謝罪している。

拒絶したくても、そのあまりにも素直で温かみすら帯びた謝罪の言葉は、えりなが長年抱えてきた「トラウマという名の刃」をどこへ向けたらいいのか分からなくさせてしまう。

 

(お父様が……私に、謝っている……? そんな……嘘……)

 

隣に座る田所恵が、心配そうにえりなの震える手にそっと自分の手を重ねた。そのぬくもりに救われる思いがしながらも、えりなは父親から目を逸らすことができない。

 

薊の瞳には、一切の偽りも狂気も透けて見えなかった。本当に、心から「娘のためを思ってのアプローチに不備があった」と反省している真摯な瞳。だからこそ恐ろしい。自分の心を死の淵まで追い詰めたあの壮絶な「教育」すらも、この男にとっては単なる「より効率的なやり方があったかもしれない実験行程」に過ぎなかったのだと思い知らされるからだ。

 

父親の、あまりにも完璧で、優しく、そしてどこまでも歪んだ愛。

その巨大な威圧感に押し潰されそうになりながら、えりなはただ浅い息を繰り返し、冷たくなった己の手を握り締めることしかできなかった。

 

息が詰まるような静寂の中、私の手を救うように強く、暖かな声が響いた。

 

「おい、薊。この子は当分の間、あたしの極星寮で預かるからね」

 

ふみ緒さんの毅然とした声に、私は弾かれたように顔を上げた。

腕を組み、言葉によってお父様の視線を遮ったふみ緒さんは、学園の総帥たるお父様を前にしても欠片も怯んでいない。その姿があまりにも頼もしく、同時に途方無く恐ろしいことを言っているように思えて、私の心臓は激しく跳ね上がった。

 

(ふ、ふみ緒さん……! そんなことを言ったら、お父様が……!)

 

連れ戻される。またあの暗い部屋へ、冷たい檻の中へ引きずり戻される。

そう身構え、私は思わず身体を縮こまらせた。お父様の顔にどんな怒りや冷酷な影が差すのか、想像するだけで全身の血が引いていく感覚がした。

 

だが、私の視線の先で返ってきたのは、予想していた恐怖ではなかった。

 

「……ふみ緒さん。それは困りますね。彼女は遠月の『神の舌』であり、我が薙切家の……」

「能書きはいいんだよ。実の娘をここまで追い詰めて怯えさせるような不調法者に、親面して連れ帰る資格があると思うかい? しばらくここで寮生たちの泥臭い料理でも食って、もみくちゃにされて頭を冷やさせてもらうさ」

 

ふみ緒さんはお父様の言葉を強引に遮り、鼻で笑い飛ばす。

すると、お父様はふっと毒気を抜かれたように小さな息を漏らし、困ったように眉を下げたのだった。

 

「……まったく。あなたには昔から頭が上がりませんね」

 

苦笑い。

それは、学園を支配する冷徹な独裁者ではなく、ただの「かつての教え子」としての顔だった。お父様がそんな人間味のある、どこか呆れたような苦笑を浮かべる姿なんて、私の記憶のどこを探しても存在しない。

 

「分かりました。ふみ緒さんがそこまで仰るのなら……えりなをこの寮にお預けしましょう」

「お、お父様……?」

 

思わず声が漏れた。私を自分の管理下に置くことこそが、彼の改革の第一歩だったはずなのに。あっさりと引き下がるお父様の真意が分からず、私の頭の中は真っ白になる。

 

「ただし、ふみ緒さん。彼女がここで何を学び、どう育つのか……それを見極めるのは私ですがね」

 

お父様はゆっくりと私へと視線を巡らせた。その苦笑の奥にある瞳は、どこまでも澄んでいて、底知れないほど深い。

 

「羽を伸ばすといい、えりな。この場所で……君が何を見つけるのか、楽しみにしているよ」

 

優しく穏やかなその声に、私は頷くことすらできなかった。

連れ戻されなかった安堵感と、それ以上に背筋を駆け上がってくる不気味な違和感。お父様の手のひらの上から逃げ出したはずなのに、まるでこの極星寮にいることすらも、彼の大きな計算の一部であるかのような……得体の知れない恐怖が、私の胸を静かに締め付けていた。

 

--

 

遠月の総帥という絶大な権力を持つ男が、過去の過ちを素直に認め、深く頭を下げたこと。

正義をかざしていたはずの極星寮の面々は、毒気を抜かれたように言葉を失ってしまう。

息を呑む寮生たちに向け、薊は再び優雅に手を差し伸べた。

 

「では改めて問おうか極星寮の諸君。私と共に、誰もが至高の美味を学べる新しい遠月を作ろうじゃないか」

 

完璧なロジック。完璧な実績。完璧なビジョン。

誰もが言葉を失い、ぐうの音も出ない正義の前に飲み込まれそうになったその時——。

 

「断るわ、総帥」

 

あっけらかんとした声が、静寂を破った。

 

創真だった。彼は自分の皿をきれいに平らげると、満足そうに息を吐き、直球の視線を薊へとぶつけた。

 

「あんたの言ってることはすげーよ。100点の正解を全員に教えるってのも、めちゃくちゃ凄ぇと思う。……けどさ」

 

創真は不敵にニィと口角を上げた。

 

「100点満点の正解の先には、それじゃ行けねぇんだよ」

 

「なに……?」

 

「ゆきひらで親父と料理張ってた時さ、失敗しまくって、ゲテモノ食い合って、『まずい!』って笑い転げた後に……たまに生まれたんだよ。100点満点の枠をぶち破る、誰も食ったことねぇような『めちゃくちゃ面白ぇ美味さ』がさ」

 

創真は薊を真っ直ぐに見据える。

 

「あんたの言う100点は、安心で確実かもしれない。けど、最初から100点を目指して失敗を恐れるようになったら、その先にある120点には絶対に届かねぇ。俺は、失敗しまくってでも、誰も見たことねぇ美味さを作りてぇんだ。だから、あんたのセントラルには入れねぇよ」

 

「…………」

 

薊の瞳が微かに見開かれた。

 

「……あ、あの……っ!」

 

静まり返る食堂に、絞り出すような、けれど力強い声が響いた。

田所恵だった。彼女は両手をぎゅっと胸の前で握り締め、膝を震わせながらも、真っ直ぐに薊を見つめ返していた。

 

「薊総帥の言う『100点のマニュアル』は……すごく整っていて、誰も落とさない安全な答えなのかもしれません。でも……でも、それじゃダメなんです……!」

「ほう……? 何がダメなのかね、田所くん」

 

薊の静かな問いかけに、恵はひとつ深呼吸をし、言葉を繋いだ。

 

「料理って……食べる『人』のために作るものだと思うんです。風邪を引いて辛い人、悲しくて泣きそうな人、お腹を空かせて笑いたい人……食べる人の気持ちも体調も、毎日変わります。それに、目の前にある食材だって、育った場所も状態もひとつひとつ違います……!」

「…………」

「あらかじめ決められた100点のマニュアルには……その日の食材の声を聞くことも、目の前のたった一人の人に寄り添う気持ちも、入っていません! どんなに完璧なレシピでも……『食べる人に寄り添えない料理』じゃ、本当の意味で人を笑顔にすることなんて、絶対にできないんです……っ!」

 

小さな身体から絞り出された、一切のブレがない「おもてなし」の真理。

 

創真と恵が示した二つの答え。その熱量は周りの雰囲気を徐々に変えていった。

 

「……それに、総帥。あなたの仰る『救済』のロジックには、あまりにも残酷な矛盾が潜んでいるように思えます」

 

静まり返った食堂に、また一つ声が響いた。

それまで静かにワイングラスを傾けていた一色慧が、いつもの柔らかな……しかし、一切の隙がない笑みを浮かべて口を開いたのだ。

 

「ふむ…一色くん。君の意見を聞こうか」

 

「あなたは『100点の正解』を与え、落ちこぼれを救済するとおっしゃった。ですが……その完璧に舗装された道を与えられた結果、その『基礎』の枠から一生抜け出せなくなった者はどうなるのでしょう?」

「…………」

「自ら失敗し、悩み、壁を越える機会を奪われた彼らは、もはや自立した料理人になる資格を失ったも同然です。ただ決められた工程をなぞるだけの存在は、料理人ではなく単なる作業機械に過ぎない」

 

一色は言葉を切ると、ふっと目を伏せ、グラスの底を見つめた。

 

「セントラルは彼らを決して『捨て石』とは呼ばないでしょう。ですが……実態はどうですか。思考を奪われた彼らは結局、あなたが愛するほんの一握りの『玉』をより美しく飾り立てるため、その足元に敷き詰められた無機質な『礎』にされているだけではありませんか」

 

穏やかな声色でありながら、その言葉は鋭利な刃のように薊の理論の欺瞞を切り裂いていく。

その容赦ない追及に対し、薊は不敵な笑みを崩さなかった。しかし、微かに瞳の奥を鋭く光らせて静かに問い返す。

 

「……このスカウトが君たちを『礎』としてではなく、選び抜かれた『玉』として迎え入れようとするものだったとしても、かい?」

 

一色は顔を上げ、普段の飄々とした態度からは想像もつかないほど、凛とした強い眼差しで薊を真っ直ぐに射抜いた。

 

「ええ。同じことです」

 

一色は一切の迷いなく言い切った。

 

「僕たち極星寮の人間が今ここにいるのは、決して用意された安全な道を歩いてきたからでも、誰かを足蹴にして蹴落としてきたからでもありません。互いにぶつかり合い、傷つきながらも……泥臭く過酷な道のりを、自らの足で踏破してきたからです。誰かを犠牲にし、踏み台として消費する前提のシステムなど、僕たちは端から必要としていないのですよ」

 

その言葉に応えるように、創真が首の後ろで手を組み、薊の完璧なロジックを前にしても、いつものようにニッと不敵に笑い飛ばす。

 

「そういうこった。玉だか礎だか知らねーけどさ。あんたの用意した安全なガラスケースの中で、傷つかないように飾られてるだけなんて……窮屈で息が詰まるだろ」

「……ふむ?」

「俺は、どこまで続くかもわかんねー『果てしない荒野』を、泥まみれになりながら歩いていく方が絶対楽しいと思うぜ。あんたの言う100点満点の正解は……俺たちには退屈すぎる」

 

創真が示した「未知への挑戦」、恵が投げかけた「人への慈しみ」、そして一色が突きつけた「料理人としての尊厳」。

三人の熱量が重なり合い、極星寮の空気を一気に塗り替えていく。

 

失敗を恐れず、泥臭く未知の美味を追い求めるその姿。その奔放で折れない眼光の中に、薊は鮮烈な幻影を見た。

 

(——城一郎先輩)

 

かつて、完璧を求められる孤独の中で潰れていった天才・才波城一郎。

だが今、目の前にいるその息子は、失敗すらも娯楽に変えて前に進む、強靭な狂気を宿している。

薊の口から、低く、愉悦に満ちた笑いが漏れ出た。

 

「……フッ……ククク……ッ、ハハハハ……!」

 

重苦しい緊張に包まれていた食堂に、突如として響き渡った笑い声。それは嘲笑でも冷笑でもなく、心の底から湧き上がる歓喜を抑えきれないといった、あまりにも純粋な響きを持っていた。

 

遠月学園の総帥として、いや、中枢美食機関(セントラル)を率いる絶対的な指導者として。彼が用意した完璧なロジックと破格の待遇をもってすれば、優秀な『玉』である彼らを無血で迎え入れることこそが、最も美しく合理的な「最良の結果」であったはずだ。

 

だが、どうだ。目の前の若き料理人たちは、圧倒的な力を前にしても一切怯まず、与えられるはずだった「安寧」と「100点の正解」を自らの足で蹴り飛ばしたのだ。

傷つくことを恐れず、泥に塗れる荒野を往くことを選んだその青々とした熱量。それは、かつて薊自身も青春のすべてを捧げた、あの『極星寮』の狂騒そのものではないか。

 

その事実が、薊の胸の奥底に封じられていた名状しがたい歓喜を、堪えがたいほどに昂ぶらせていく。口元を覆う手は微かに震え、肩が揺れる。完璧な紳士の仮面の下から、狂気にも似た熱っぽい愉悦がとめどなく溢れ出していた。

 

だが、その異様な気配——優雅な振る舞いの奥で渦巻く狂熱の正体を、一色慧の鋭い眼差しは見逃さなかった。

 

一色は手元のワイングラスをコトリと静かにテーブルへ置くと、ふっと息をつく。それは呆れでもあり、同時に目の前の男の「底知れぬ業の深さ」を完全に看破した者の顔だった。

 

「……交渉は決裂し、あなたの計画は退けられたというのに。随分と愉しそうですね、総帥」

 

静かな、だが確かな射抜くような声。一色は普段の糸目をわずかに見開き、その奥にある鋭利な光を薊へと向ける。

 

「まるで、初めから僕たちがその『用意された鳥籠』を壊し、牙を剥いて向かってくることを……心のどこかで期待すらしていたかのように」

 

その言葉に、薊はピタリと笑いを止めた。

しかし、口元を覆っていた手をゆっくりと下ろした彼の瞳には、依然として爛々とした歓喜の光が宿っていた。

 

「……おや。見透かされてしまっていたかい、一色くん」

 

隠そうともしない、堂々たる肯定。

薊は恍惚としたため息をこぼし、愛おしげに極星寮の面々を見渡した。

 

「当然だろう。私の愛したあの極星寮が……用意された安全な鳥籠の中で満足し、牙を抜かれてしまうような腑抜けの集まりでなかったのだからね。……ああ、実に素晴らしいよ、君たちは」

 

表面上は「頑固な生徒に断られた総帥」を演じながら、薊の胸中には狂喜にも似た熱い歓喜が渦巻いていた。

 

彼らのような荒削りだが力強い反骨心を持つ原石たちこそ、かつての極星寮が内包していた熱気そのものだったからだ。ふと、薊の視線が古びた食堂の天井や、年季の入った柱を撫でるようにさまよう。

 

「……全く、この場所は昔から変わらない。私が愛した、あの狂熱の日々のままだ」

 

誰にともなくこぼしたその声には、冷徹な総帥としての響きはなく、ただ過去を懐かしむ一人の青年の面影が宿っていた。

 

「毎夜のごとく厨房に集い、互いの料理をぶつけ合ったあの時間……。自由奔放な発想と圧倒的なカリスマで私たちを導いてくれた城一郎先輩。そして、その隣で揺るぎない分厚い壁として立ちはだかっていた堂島先輩。彼らと共にひたすらに高みを目指したあの黄金期こそが、私の料理人としての原点なのだから」

 

陶酔したように目を細め、敬愛する先輩たちの名を口にした薊。その言葉に寮生たちが戸惑いの視線を交わす中、ひときわ鋭く反応した者がいた。

 

「……へぇ。あんた、うちの親父のこと知ってんのか?」

 

創真が首をかしげ、ひょいと腰の手ぬぐいを直しなおすと、薊の目元が和らぎ、どこか愛おしむような懐かしげな光が宿った。

 

「知っているどころではないさ……! 敬愛する先輩であり、私の料理人生において唯一無二の光……才波城一郎先輩だ」

 

薊はうっとりと目を細め、言葉を噛みしめるように紡ぐ。

 

「あの極星寮で共に過ごした日々、先輩が魅せてくれた料理はいつも自由で、どこまでも美しく、私にとってはまさに神の如き領域だった。失敗すらも楽しむその姿に、私はどれほど憧れ、救われたことか……」

 

総帥としての威厳を忘れたかのように、少年のように目を輝かせて「城一郎先輩」を語る薊。その熱量に、食堂の空気が一瞬で上書きされる。

 

(……え? 父様が……憧れている、人……?)

 

その光景を影から息を呑んで見つめていたえりなの頭の中は、激しい混乱に陥っていた。

 

(幸平創真の父親が……父様の『城一郎先輩』……!? だとしたら、私が幼い頃にあの屋敷で出会い、私の料理の原点となった……あのお方……!?)

 

目の前で不敵に笑う「大嫌いなはずの定食屋の息子」と、自分を拘束し絶望を与えてきた「恐ろしい父親」、そして「世界で一番尊敬する料理人」。

散らばっていたピースが一気に繋がり、脳内で激しいスパークを起こす。

 

(嘘でしょ……? 幸平くんが……あのお方の……!? 父様がここまで嬉しそうに語る男の、息子……!?)

 

自身の過去と現在を繋ぐ衝撃の事実に、えりなは呆然とすることしかできなかった。

 

一方、薊は狂喜の余韻を惜しむように一息つくと、創真に向き直り、完璧な総帥の笑みを浮かべ直す。その内心で創真の評価を再定義した。

 

創真の言葉を受け止め、しばし旧友の面影に浸るように目を細めていた薊だったが――ふっと、その表情から感傷の色が失われた。

 

彼は胸ポケットから取り出した真新しいハンカチで優雅に指先を拭うと、静かに立ち上がる。

たったそれだけの一動作で、食堂を包んでいたどこか温かい空気が一瞬にして氷結し、彼が纏うオーラが「昔を懐かしむOB」から「遠月学園の絶対的総帥」へと切り替わった。

 

「……ふふ、実に良い顔だ。どうやら、私のスカウトに対する君たちの答えは、これで完全に定まったようだね」

 

薊は極星寮の面々を一人ひとり見渡すと、完璧な作法で薄い笑みを深めた。

 

「素晴らしい。交渉は決裂し、互いの立場は明確となった。……ならば、ここからはあえて、君たちの愛する古き良き『遠月のやり方』に則るとしようじゃないか」

 

その言葉に、一色をはじめとする寮生たちの背筋に鋭い緊張が走る。

 

「玉と玉が真っ向からぶつかり合い、鎬を削ること。我が中枢美食機関(セントラル)が君たちという原石を綺麗に磨き潰すのか……あるいは、君たちがセントラルを更なる高みへと引き上げる最高の『砥石』となるのか。……どちらに転んだとしても、私は心の底から楽しみにさせてもらうよ」

 

不敵で、それでいてどこまでも優雅な笑みを残し、薊は静かに背を向けた。

 

「どちらに、じゃねぇよ。一つ忘れてるぜ」

 

その背中へ、からりと晴れやかな創真の声が飛んだ。

ピタリと洗練された足取りを止め、肩越しに振り返る薊。その視線を真っ向から受け止めながら、創真はニッと挑戦的な笑みを浮かべて告げた。

 

「俺たちが、あんたのセントラルを超えていくってことだ」

 

ピンと張り詰めていた食堂の空気が、創真の言葉でさらに一段、熱を帯びる。

生意気極まりないその宣言。完全な正解である自らの料理を見せつけられた直後にも関わらず、闘志の炎を微塵も揺るがせない極星寮の牽引者。

その姿をまじまじと見つめた薊は——。

 

「ふっ……くくっ」

 

唐突に、しかし愉快そうに笑う。

予想外の反応に吉野や丸井たちがポカンとする中、薊は嬉しくてたまらないというように目を細めた。

 

「……ああ、そうだね。まさか『砥石』の方から、私を超えると宣言してくるとは。本当に……君はどこまでも、私の予測のさらに上をいってくれる」

 

ククッ、と楽しげに肩を揺らしながら、薊は再び扉へと向き直る。

その横顔は、これから始まる未知の戦いに胸を躍らせる、一人の純粋な料理人の顔になっていた。

 

「ごちそうさま、ふみ緒さん。やはり極星寮の夜は……退屈しないね」

 

今度こそ一切の無駄がない洗練された足取りで、食堂をあとにする男の背中。

圧倒的な指導者としての威圧感と、これから始まる「全面対決」への不穏で熱い予感だけを残し、薙切薊は嵐のように去っていった。

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