もしも薙切薊の性格がマイルドだったら 作:作者さん
斎藤の重々しい問いに対し、新戸緋沙子はただ唇を噛み締め、言葉を詰まらせることしかできなかった。そんな彼女の混迷を静かに汲み取った斎藤は、「時間はある。今日は休んで、ゆっくり考えると良い」と穏やかな声をかけ、静かに二人を部屋から送り出した。
その日の宿へと向かう道中、緋沙子の足取りは酷く重かった。
(私は……何のためにここにいるんだ……?)
自問自答が脳内をぐるぐると駆け巡る。自分はただ、えりな様を過激なセントラルの手からお護りしたい、その一心でセントラル側の十傑としての席を受け入れたはずだった。それなのに、迫りくる連隊食戟において、自分は今まさにえりな様や創真たちの「敵」として対峙しようとしている。護るための立場が、皮肉にも彼女を最大の障害へと変えていた。何が正解で、どう振る舞うべきなのか、混迷の深淵に呑まれ、緋沙子は完全に己を見失いかけていた。
「なら、本人に直接聞いてみればいいんじゃねぇか?」
隣を歩く美作昴が、あまりにもあっけらかんとした調子で呟いた。
「で、できるわけないだろう!」
緋沙子は思わず足を止め、悲痛な声を張り上げた。
「私たちが今、明確にセントラル側として敵対しているんだぞ! こんな状況で連絡なんて取ってみろ、他の十傑の先輩方から『間諜』だと疑われかねない! それだけじゃない……連絡を受けたえりな様や幸平が、その周囲の反逆者のメンバーからだって、裏切りや罠を疑われてしまうかもしれないんだぞ……っ!」
己の無力さと、どちらの陣営にも居場所がないような孤独感に、緋沙子の胸は押し潰されそうだった。しかし、美作はそんな彼女の悲痛な吐露をどこ吹く風とばかりに軽くスルーすると、ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を無造作にタップして耳に当てた。
「……あ、幸平か? 今、ちょっといいか? ……おう、そっちからくるとは思ってたが先にな」
「は……!? な、み、美作、話を聞いていなかったのか!?」
自分がこれほどまでに悩み、葛藤し、追い詰められていたというのに、それを何事もなかったかのようにあっさりと破ってみせる美作の挙動。緋沙子の胸中に、驚愕と同時に沸々と激しい怒りと恨めしさが込み上げてくる。
美作は緋沙子の殺気立った視線を片手で軽く制すと、スマートフォンの向こうの創真に向かって、事もなげに言い放った。
「すまん、ちょっと待っててくれ。横で新戸が餌を取り上げられたチワワみたいに今にも爆発しそうなんだ」
「誰がチワワだ!」と叫びそうになる緋沙子を、美作はひょいと片手で制しながら、スマートフォンを耳から少し遠ざけて淡々と言い放った。
「まぁ落ち着け。ぶっちゃけ俺は、この半年間この環境にいられさえすればあとはどうでもいい。それに俺が技を盗んでる先輩方は、この程度のことは笑って済ます人間しかいねぇよ。叡山先輩からは学べるものはもう全部盗ったし、紀ノ國先輩は本人からきっちり断られてるからな」
「それは……!」
思わぬ暴露に緋沙子が毒気を抜かれていると、美作はニヤリと不敵な笑みを深めて言葉を継いだ。
「つまり、俺があっちとコンタクトをとろうと何の問題もないってことだ。……そのついでに会話を聞いただけの新戸がどうこう言われる筋合いもねぇだろ?」
「……っ!」
周到かつ強引なまでの美作の屁理屈。しかしそれは、間諜だと疑われるリスクをすべて自分が引き受け、緋沙子を「たまたま居合わせただけの第三者」に仕立て上げるための、彼なりの不器用な気遣いでもあった。自分の葛藤や孤独をあっけなく力づくで飛び越えられたことに、緋沙子はもやもやとした感情が浮かび上がる。
美作はスマートフォンの画面をタップし、通話をスピーカーモードに切り替えると、緋沙子にも聞こえるよう二人の間に掲げた。
『おい美作ー? 急に静かになってどうしたんだよ?』
受話音量の上がったスピーカーから、聞き覚えのあるあの呑気な少年声がはっきりと漏れ聞こえてくる。美作は緋沙子に「黙って聞いてろ」と目配せを送ると、スマートフォンに向かって事もなげに返答した。
「悪い、待たせたな、幸平。そんでなんだった? 連隊食戟でそっちに参加しろって話だったか? ……まぁそっちで十傑のトレースをして協力するのも悪くはねぇが……」
美作の口から飛び出したのは、どこからどう聞いても純度100パーセントの引き抜きであり、明らかな間諜行為そのものだった。緋沙子は絶句し、あまりの無防備さに血の気が引いて思わず周囲の路地や物陰を激しく見渡した。誰かに聞かれていたら一発で終わりだという恐怖に、心臓が爆発しそうになる。
『お、じゃあ引き受けてくれんのか?』
スピーカー越しに聞こえる創真の明るい声に、美作は飄々とした態度のまま言葉を続けた。
「ただなぁ、問題が一つあって……俺も十傑になっちまったんだ。三席に。つぅ訳で、逆にそっちと敵対する羽目になっちまった」
『まじかーっ! 美作にも先越されたかぁ!』
(……先を越された、だと……?)
セントラル側に貴重な戦力を先に押さえられてしまった、という意味で残念がっているのかと一瞬思った緋沙子だったが、すぐに創真の真意に気づいて呆然とする。要するに彼は「自分より先に十傑の席を奪われた」という点だけを心底悔しがっているのだ。
重苦しい状況など微塵も気にしていない電話の向こうの少年と、平然と敵対宣言をする目の前の大男。緋沙子はあまりのマイペースさに「こいつらは……」とこめかみを押さえて頭を痛めた。
美作は緋沙子の苦悩など気にも留めず、淡々と交渉を続ける。
「あと半年後にしねぇか? そうしたらお前やタクミの靴を舐めるどころか、新品みたいに磨き上げてやるくらいでけぇ借りをいつでも返せるんだが」
『それだと極星寮の奴らや黒木場達が退学になっちまうんだよなー』
「それじゃあ、今やるしかねぇか」
あっさりと提案を撤回した美作は、少しだけ声音を落として言葉を重ねた。
「ただ、今の俺はお前らと同じくらいでけぇ借りが司先輩にある。だから、そっちに直接手を貸すような真似はできねぇ。……せいぜい、そっちのトレースをして仮想敵になり、他のセントラル側のメンバーの練習台になるのを『やらない』ってくらいだ」
『え、別にやってもいいぞ?』
「俺は借りをコツコツと返していく質なんでね」
敵対する立場となったはずだというのに、お互いに対して気負う様子もなければ、疑心暗鬼に陥る気配すら微塵もない二人。陣営が分かたれたことで決定的な不仲や亀裂が生じるのではないかと一人で揉んでいた緋沙子は、目の前で繰り広げられるあまりにも軽妙なやり取りに完全に困惑していた。
『それなら秘書子はどうなんだろうな。そこにいるなら聞いてみてくれよ』
受話器の向こうから、思い立ったような創真の声が響く。美作はスピーカーに向かってあっけらかんと言い放った。
「おいおいスカウトは直々に言ってなんぼだぜ? 電話貸すからそっちで話せ。ちょっと待ってろ」
美作はスマートフォンの画面をタップしてスピーカーモードをオフに切り替えると、そのまま端末をひょいと緋沙子の前に突き出した。
「な……!? み、美作、何を考えて——!」
突然の無茶振りに緋沙子が両手を振って大慌てで固辞しようとするが、美作は強引にスマートフォンを彼女の手のひらに押し付けた。
「やるかやらないかだけ言って切っちまえ」
「っ……!」
押し切られる形で、緋沙子は恐る恐るスマートフォンを耳へとあてがう。か細く息を呑みながら、絞り出すように声を張った。
「……っ、新戸、だ……」
『おう、秘書子か! 幸平だけど、連隊食戟するんだけどお前も反逆者側で参加してくれないか?』
受話音量の向こうから返ってきたのは、何ひとつ変わらない、拍子抜けするほど気負いのない創真の声だった。敵対者としての警戒も、裏切りを疑うような探りもなく、ただいつもの調子で自分へと問いかけてくる。
そのあまりにも真っ直ぐな響きに緋沙子は毒気を抜かれ、肩からふっと力が抜けていくのを感じた。
胸を押し潰していた重苦しい葛藤がどこかへ吹き飛んでしまい、緋沙子の口元からは、自分でも驚くほど穏やかで呆れた吐息が漏れ出た。
「……全く、貴様というやつは……」
暗闇の中で独り立ち尽くしていたのに、眩しいほどの光が差し込んだようだった。
自分が今、セントラルという渦中に留まる理由。たとえ「敵」という立場になろうとも、えりなの手の届かぬ場所からその身を護り、支えるために選んだこの場所からだ。
「……参加は、難しいな。すまない」
言葉を選びながらそう告げると、電話の向こうで創真がうーんと唸る気配がした。
『うーん、それなら仕方ねぇか。秘書子や美作がこっちに来てくれれば、滅茶苦茶心強かったんだけどなー』
心底残念そうに、けれど惜しみない信頼を込めて口にされたその言葉に、緋沙子は思わず目を見開いた。
自分がこれほどまでに頼りにされ、戦力として買われていたという事実。驚きとともに、胸の奥からじんわりと温かな嬉しさが込み上げてくる。張り詰めていた表情がふっと柔らかくなり、緋沙子の唇から穏やかな笑みがこぼれた。
「……幸平。えりな様は、壮健だろうか?」
ずっと胸の内にあった一番の懸念を尋ねると、創真はいつもの調子であっけらかんと返した。
『おう! さっきまでなんかこう、興奮? アドレナリンがすげーことになってて、楽しい状態になってたぞ』
実の父親である薊に対して初めて自分の意思で意見を述べ、明確に反抗してみせた——その激しい胸の高鳴りと高揚感が冷めやらぬえりなの様子を、彼なりに噛み砕いて伝えたのだ。
ただそれを、楽しくやれているのだと判断できた緋沙子の目元が自然と和らぐ。
「なんだそれ……」
あまりにも創真らしい独特な表現に、緋沙子は思わず「ふふっ」と小さく笑声を漏らした。
「……幸平創真」
少しだけ固い口調で、緋沙子が言葉を続けようとした——その矢先。
ーー
ところ変わって、反逆者側の拠点。
美作からの突然の電話を受けた創真のすぐ近くに、えりなは居合わせていた。
最初は美作との軽妙なやり取りを訝しげに眺めていたえりなだったが、通話の途中で「秘書子」という聞き覚えのある愛称が飛び出した瞬間、ハッと目を見開いた。
「幸平くん……っ!」
緋沙子のことだと直感し、思わず声をかけようと身を乗り出す。
しかし、創真はすっと人差し指を己の唇の前に立てると、「しー」と静かに制した。その顔には、どこかいじわるで悪戯っぽいニヤニヤ笑みが浮かんでいる。創真は手元で素早く操作すると、通話をこっそりスピーカーモードに切り替え、緋沙子の声が聞こえるようスマートフォンをえりなへと向けた。
「おう! さっきまでなんかこう、興奮? アドレナリンがすげーことになってて、楽しい状態になってたぞ」
『なんだそれ……ふふっ』
(な……っ!? 幸平くん、緋沙子にそんなことまで伝えて……っ!)
父親である薊に初めて抗い、身体中を駆け巡ったあの激しい胸の高鳴り。それを「アドレナリン」などと大雑把に形容され、あろうことか一番格好のつかない形で緋沙子に暴露されたのだ。えりなはカッと顔を真っ赤にし、内心で恥ずかしさに身をよじらせた。
だが、その後にスピーカー越しに聞こえてきたのは、えりなの知らない二人の空気感だった。
反逆者側への参加を断りつつも、創真の気負いのない言葉に毒気を抜かれ、肩の力を抜いて楽しげに言葉を交わす緋沙子。そして、そんな緋沙子の信頼を当然のように受け止め、どこか嬉しそうに応える創真。
受話器越しに弾む二人の会話を聞いているうちに、えりなの胸の奥で、モヤモヤとした形容しがたい感情が急速に膨らんでいった。
(何……なんなのよ、これは……?)
自分の前ではいつも付き人として居てくれて、忠義を尽くしてくれる緋沙子。しかし今、電話の向こうにいる彼女は、創真に対して驚くほど素の柔らかい表情を見せているのが声だけで伝わってくる。
まるで、自分が一番大切にしていた仲の良い友達を、目の前で急に奪われてしまったかのような感覚。
自分を置いてけぼりにして、いつの間にか深く打ち解け合っている二人。緋沙子に対しても、創真に対しても、どちらに矛先を向ければいいのか分からない複雑でもやもやとした感情が胸を締め付け、えりなはぎゅっと胸元の服を握りしめた。
そんなえりなの混乱を余所に、スピーカーからは一転して空気を引き締めるような声が響く。
『……幸平創真。一つだけ頼みたいことがあるんだ』
先ほどまでの和やかな空気から一変し、真剣さと深い覚悟が込められた緋沙子の声が、静かに二人の元へと届いた。
『これから反逆者とセントラルの全面対決が始まる以上……私は、えりな様のそばにはいられない。私は……反逆者側の皆に勝ってほしいと、心から願っている。だが、セントラルの十傑として席を受け入れた以上、そっちに直接協力することはできないんだ……っ』
「んー、なら余計にこっちに来ればいいじゃん」
創真があっけらかんと返すと、受話音量の向こうで緋沙子が切迫したように息を詰まらせた。
『それが、できないから……っ! ああもう、こんなことが言いたいのではないんだ……!』
己の抱える矛盾と葛藤に苛まれ、うまく言葉を紡げなくなった緋沙子。一呼吸置き、万感の思いと祈りを込めて、彼女は絞り出すように本音を告げた。
『……頼む幸平。私の代わりに……えりな様を、護ってほしい』
「……それは……」
創真が言葉を濁しかけたところで、彼は視線をスッと横へ——隣で息を呑むえりなの方へと向けた。
スピーカーから流れる緋沙子の切切とした願いに、えりなの心臓は早鐘のように打っていた。
緋沙子が自分を案じていることへの感謝以上に、胸を抉るような衝撃がえりなを襲う。緋沙子は今もなお、自分を「庇護されるべき存在」だと思っているのだという事実が、残酷なまでに突きつけられたからだ。
そしてその瞬間、えりなの脳裏に創真が司に食戟を挑んだあの日の記憶が鮮烈に蘇った。
――セントラルの冷酷なやり方を平然と受け入れながら、自分の前では変わらぬ温かい笑顔を向け、「私は私が正しいと思うことをする」と言い切った緋沙子。
あの時、喉まで出かかった『私に味方をしてと頼んだら、私を選んでくれるの?』という問い。そして、それを口にすることを直感的に拒絶した、あの『言ってはいけない』という衝動。
(あ……そう、だったのね……)
あの時の衝動の「正体」が、いま完全に繋がった。
緋沙子にとっての「正しさ」とは、己の立ち位置や手段がどうあろうと、ただひたすらに「えりなを護ること」そのものだったのだ。自分がセントラルの十傑という歪んだ立場に身を置いているのも、すべては過激なセントラルから自分を遮断し、護るための捨て身の自己犠牲。
もしあの時、自分が「私を選んで」と甘えて頼んでしまっていたら——それは緋沙子に自分を庇護させる関係を決定づけ、彼女のその痛々しい自己犠牲を完全に固定化させてしまっていた。
どれほど自分が己の足で歩もうと覚悟を決めても、緋沙子の中では自分はいまだに護られるだけの弱者であり、彼女は自分を護るためだけにその身を削っている。
その真実に気づいてしまったえりなは――
「……」
なんだか無性に腹が立った。
「……あー、そのだ。新戸? 多分そっちがそんなに考えるほど、薙切は弱っちい奴じゃないと思うぞ?」
『だけど幸平……っ! 貴様にしか、それを頼めないんだ!』
受話音量の向こうで、緋沙子が悲壮感すら漂わせて断言する。
創真に向けられた、揺るぎない全幅の信頼。
(…………ふぅん)
自分を庇護されるだけの「弱者」扱いすることへの憤り。それ以上に、自分の預かり知らぬところで、緋沙子が創真に対してこれほど深い信頼を寄せているという事実。二人の間に存在する確かな絆を見せつけられ、えりなの胸の中でモヤモヤとした不快な苛立ちが一気に煮え立った。
えりなの顔から、見る見るうちに感情が抜け落ちていく。
先ほどまでの恥ずかしさや混乱は消え去り、まるで氷のように冷たく凝固した無表情が創真を射抜いた。
(あ、これ……マジでヤバい奴だ……)
隣でその凄まじい表情の変化を目の当たりにした創真は、背筋に冷や汗を伝わせた。これ以上緋沙子に喋らせたら本当に取り返しのつかない爆発が起きると直感し、創真は受話器に向かって大慌てで制しようとする。
「い、いや、新戸……! マジで一回落ち着けって! これ以上は言わない方が——」
『謙遜などしないでくれ!』
創真の制止を気遣いだと受け取ったのか、緋沙子はさらに熱を帯びた声で言葉を重ねた。
『あのスタジエールの時も、叡山先輩との食戟の時も! ……貴様はいつだって私の前に立ち、道を示してきただろう! 貴様だからこそ私は安心して託せるのだ……っ!』
(……なるほど。貴方たちの中でどれだけ強い繋がりがあるのかは……よーく分かったわ)
完璧なまでに火に油を注ぐ緋沙子の熱弁に、えりなの静かな怒りは完全に限界突破した。
えりなは一切の言葉を発することなく、スッと右手を創真の目の前へと差し出した。そして、人差し指と中指をクイックイッと手前に引き、「その電話を寄こしなさい」と無言の圧力をかける。
「あ……はい……」
その圧倒的な威圧感と眼力に完全に呑まれた創真は、ひえっと引きつった表情を浮かべ、引き気味にコクコクと頷いて大人しくスマートフォンをえりなの手のひらへと手渡した。
――
「幸平……? おい、どうしたのだ幸平……?」
急に遠くなった創真の声を不審に思い、緋沙子は訝しげにスマートフォンを引き寄せた。
受話器の向こうでゴソゴソと端末が移動するような擦れ音が響き、次いで創真の「あ……はい……」という、どこか引きつった情けない声がかすかに聞こえてくる。
(何かあったのだろうか……?)
緋沙子が困惑を深めた、まさにその瞬間だった。
『——ずいぶんと楽しそうな話をしていたようね、緋沙子』
「っ……!?!?」
スピーカー越しに耳に飛び込んできたその声に、緋沙子の全身の血が瞬時に氷結した。
聞き間違うはずもない。自分の主——薙切えりなの声だった。
「え、えりな……様……っ!? な、なぜ……幸平は……あれ……っ!?」
頭が真っ白になり、緋沙子は完全に混乱を極めた。
なぜ創真のスマートフォンから、えりな様の声が直接届いているのか。事態の容量を超えた展開に、思考が完全にフリーズを起こす。
『幸平くんなら、今さっき快く代わってもらったわ』
受話音量の向こうから聞こえてくるえりなの声は、一見するとどこまでも穏やかで、優美ですらあった。
だが——
『幸平くんには言えて……私には言えないような秘密のお話を、ずいぶんと楽しそうに話していたみたいだけれど?』
「ひっ……!?」
緋沙子の背筋を、これまで生きてきた中で経験したことのない凄まじい悪寒が駆け抜けた。
言葉の端々に滲む、氷点下すら下回る凍てついた響き。
どれほど声を穏やかに取り繕っていようとも隠しきれていない。主として、友人として長年誰よりも近くに寄り添ってきた緋沙子だからこそ、痛いほど理解できてしまった。
(お、怒っていらっしゃる……!? いや……そんな生半可なものじゃない……っ! こんなに苛立っていらっしゃるえりな様など、私は一度だって見たことがない……っ!!)
電話の向こうから伝わってくる見たこともないほどの激しい怒りと苛立ちに、緋沙子は冷や汗を全身から噴き出し、ただただ恐怖で身をすくませることしかできなかった。
『ねぇ、緋沙子……』
受話器越しに落ちてくるのは、静けさの中に絶対的な威厳と冷酷さを孕んだ、凍てつくような声だった。
『さっきから黙って聞いていれば……私を護るだなんて、ずいぶんと見下した言い方をしてくれていたようね? 私は貴方に、そんなことを一度でも頼んだかしら?』
「――……そう聞こえましたか、えりな様」
えりなからの容赦のない追撃を受け、跳ね上がっていた緋沙子の心拍数が、どこか冷めた静寂へと沈んでいく。少しだけ声のトーンを落とした緋沙子の中に、えりなを見下す意図など微塵も存在しなかった。自分自身がただそうするべきだと考え、彼女のために命を削る覚悟で動いているだけのこと。だからこそ、その真意を「見下している」と勘違いされることに対しては、少しだけ心外だと感じざるを得なかった。
『私に仕える者に護られなければならないほど、私を低く見積もっているだなんて……おかしな話だとは思わないかしら?』
どこまでも不機嫌そうに、プライドを逆撫でされた主が言い放つ。だが、緋沙子もまた、己の存在理由そのものを揺るがす問いに一歩も引くわけにはいかなかった。
「……従者が主よりも優れていないのに、どうして主を護れるというのですか」
受話器越しにぶつかり合う、二人の譲れない意地と覚悟。
(……おいおい、マジかよ……)
スピーカーから漏れ出る二人の応酬を間近で聞いていた美作は、周囲の空気が急速に凍りつき、まるで実際に気温が数度下がったかのような錯覚を覚えた。あまりの圧迫感に、さしもの美作も密かに冷や汗を流す。
そして彼は、スマートフォンの向こう側に思いを馳せた。
この恐ろしい嵐の渦の中心で、今まさに生きた心地がしていないであろう創真に対して、美作はかつてないほどの深いシンパシーを感じずにはいられなかった。
「はぁー……」
まだ始まったばかりだが、以上二人の応酬を放置すれば電話越しに本物の修羅場が完成してしまう。関係性や仲を完全に粉々にしかねない一言まで出てしまうだろう。
氷点下まで冷え切った空気に耐えかねた美作昴は、大柄な肩を大きく揺らし、重々しいため息を吐き出した。
そして、ショックと意地の狭間で硬直していた緋沙子の手から、迷いのない素早い動きでスマートフォンをさっと取り上げる。
「あっ……ちょっと、美作……!?」
不意を突かれた緋沙子が驚きに声を上げるのも構わず、美作は端末を己の口元へと引き寄せると、心底呆れ返ったような声を吹き込んだ。
「おい幸平。どうせお前もスピーカーにしてて、今のやり取りが全部聞こえてんだろ? ……そっちで薙切を少し落ち着かせろ。これ以上こじれたら話にならん。こっちはこっちで何とかするからよ」
言うべきことだけを一方的に告げると、美作は創真からの返答を待つことなく、スマートフォンをすっと口元から離した。通話を一方的に保留にすると、美作はスマートフォンの画面をタップしてポケットへと放り込んだ。
そして、隣で拳を固く握りしめたまま硬直している緋沙子を見下ろし、呆れたように頭を掻いた。
「ったく……そんなことを言いたいわけじゃねぇんだろ」
美作の投げやりな、だが核心を突いた言葉に、緋沙子の肩がびくりと跳ねた。
彼女の目じりには、溢れ出そうなほどの涙がじわりと溜まっている。唇を固く噛み締め、声の震えを必死に抑え込もうとしながら、緋沙子は途切れ途切れの声で絞り出した。
「……分かって、いる……! 分かっては、いるんだ……っ。だが……どう伝えればいいのか、私には分からない……っ!」
えりなを心から心配しているのも、誰よりも大切に思っているのも、紛れもない本心だった。しかし、従者としての立場やセントラルに身を置く葛藤、そして己の不甲斐なさが複雑に絡み合い、その温かな感情をどう言葉に表せばいいのか、緋沙子自身にも完全に分からなくなっていた。
目元を赤く染め、素直な思いの伝え方が分からずに立ち尽くすその姿。美作にはそれが、生まれて初めて友達とケンカをしてしまい、仲直りの方法も分からずに戸惑う幼子のように見えていた。
従者だ主だといった過保護な関係性とは全く無縁の、ただ己の腕一本で生きてきた一匹狼の美作にとって、緋沙子が抱え込んでいる込み入った葛藤など理解できるはずもなかった。だが、その頑なな態度の裏にあるのが、主に対する無意味な「遠慮」や身の程を弁えようとする自制心のようなものだろうということは、大雑把にアタリがついた。
美作は「やれやれ」と首を振ると、ぶっきらぼうに言葉を投げかける。
「ぶっちゃけ、十傑の席順だって今はお前の方が上なんだ。食戟っつーのは、敵同士として直接料理でぶつかれる絶好の機会だろ。だったら、料理で勝って自分の正しさを力ずくで証明しちまえばいいんじゃねぇのか? ……もし何かこじれて最悪の状況になったとしても、さっき斎藤先輩が言ってた通り、全部まとめて下剋上しちまえばいいだけの話だ」
「……っ!」
思いも寄らない美作の暴論に、緋沙子は目を見開いた。
自分が、えりな様に勝つ……? 料理で直接叩きのめし、己の正しさを証明する……?
そんなことが許されるのだろうかという疑問が頭をよぎった瞬間、緋沙子は己の思考の恐ろしい「前提」に気づき、ハッと息を呑んだ。
(私は今……当然のように、自分がえりな様に『勝てる』と思っていなかったか……?)
背筋をぞわりと駆け抜ける冷たい感触。
己の傲慢さに恐怖すると同時に、胸の奥深くから湧き上がってきたのは——自分の手で、あの絶対的だった主を下してもいいのだという、抑えようのない甘美な高揚感だった。
その時、美作のポケットの中でスマートフォンがぶるりと震え、軽快な着信音を鳴らした。美作が無造作に画面をタップし、再び通話をスピーカーモードに切り替えて二人の間に掲げる。
『……緋沙子?』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、先ほどまでの氷のような冷徹な怒りが嘘のように引き、どこか気恥ずかしさと申し訳なさを滲ませたえりなの声だった。
『……さっきは、その……急に感情的になってしまって、ごめんなさい』
主からの不意の謝罪に、緋沙子の胸がぎゅっと締め付けられる。溜まっていた目じりの涙を袖で強く拭うと、緋沙子は震える声で素直な言葉を返した。
「……いいえ。私の方こそ……身勝手なことばかり口にして申し訳ありませんでした……えりな様」
『……私ね、最近は本当に初めてのことばかりなのよ』
受話器の向こうから聞こえるえりなの声は、どこか遠くを慈しむように優しく、けれどどこか照れくさそうに響いていた。
『屋敷を連れ出されて極星寮へ家出して、今まで知らなかった……静謐とは真逆の、あんなに自由で賑やかな料理に触れたこと。……自分の父親に対して、初めて自分の言葉で反抗してみせたこと。そして……』
言葉を一度区切ると、えりなは小さく息を吐き出し、恥ずかしさを隠すように声を潜めた。
『……そして、大好きな友達と、さっきみたいに本気でケンカをしてしまったことも』
(友達……?)
その一言が耳に届いた瞬間、緋沙子は胸を強く突かれたような衝撃に息を呑んだ。
ずっと付き人として、影のように寄り添う従者として接してきた。けれど、えりなは己を護られるだけの存在ではなく、心を通わせ合う一人の親友として見てくれていたのだ。胸の奥から湧き上がる温かな感情に、緋沙子の目元がじんわりと熱くなる。
『だからね、緋沙子。私、もう一つだけ「初めて」を体験してみたいの』
えりなの声から迷いが消え、凛とした強い響きが宿る。
『私と……真正面から料理で競い合いなさい。庇護される姫としてではなく、一人の料理人として……貴方と対等にぶつかり合いたい』
それは、今まで自分を陰から支えてくれた親友に対する、何より誇り高き宣戦布告だった。
「……っ」
その言葉に、緋沙子は自分が思いがけず口元に笑みを浮かべていることに気づいた。己の内に眠っていた感情が、一気に燃え上がるのを感じる。
「……えりな様。私、貴方に勝ってしまっても良いのですか?」
『――――ええ、もちろんですわ』
一瞬の間。
しかし、受話器越しの気配がガラリと変わり、そこにはかつて遠い雲の上に君臨していた『氷の女王』としての鋭利で美しい気迫が満ちていた。
『……もっとも、自分の選択がただの身の程知らずだったのだと、私の料理で思い知ることになるかもしれないけれど?』
絶対的な自信とプライドを滲ませる主に、緋沙子はさらに笑みを深めた。
「……勝って、私自身の正しさを証明してみせます。そして……私が正しいと信じたやり方で、貴方を支え続けることにします」
『……ええ、楽しみにしているわね』
言葉が終わると同時に、プツリと通話が切れた。手の中に残された静寂の中で、緋沙子は力強くスマートフォンを握りしめ、前を見据えた。
暗転した画面の余韻を噛みしめながら、緋沙子は静かにスマートフォンを美作へと手渡した。そこに映る自分の顔には、すでに混迷の影など一切残っていなかった。
「……感謝する、美作」
「礼を言われる筋合いはねぇよ」
端末をポケットに放り込みながら、美作は大柄な肩を大きく揺すってみせた。
「まあ俺の場合は、今までろくでもないことやってた自覚はあるから、奇麗なもんじゃねぇんだが……」
一度言葉を切ると、美作は不敵に口元を歪め、いかにも彼らしい執拗で獰猛な笑みを浮かべた。
「だがな……敵を徹底的に叩きのめして勝つってのは、最高に面白れぇぜ」
「……下種め」
歪んだ勝利への執着を隠そうともしない大男に対し、緋沙子は容赦なく吐き捨てた。
だが、その言葉とは裏腹に、緋沙子の瞳に宿る光はどこまでも高く燃え上がっていた。
(……だが、その『下種』の提示した道も、実際はどうなのかは分からない)
己の立場に苦しみ、護るべきか退くべきかで葛藤し続けていた自分が嘘のように、胸の奥底から甘美で熱い高揚感が込み上げてくる。庇護される姫に甘んじさせず、一人の料理人として主であり親友であるえりな様と真っ正面からぶつかり合い、自らの手で勝利を掴み取ること。
(ならば、それを成した後にその判断をするとしよう)
己の料理で勝ち、自分の正しさを力ずくで証明してみせる。そして、誰も文句を言わせない形で、あの人の一番近くに立ち続けてみせるのだと。
夜の冷気が頬を撫でる中、緋沙子は力強い踏み込みで歩み出した。その足取りには、もはや一切の迷いも重さも残っていなかった。
司 幸平 ◎
茜ヶ久保 斎藤 ◯
アルディーニ兄 △→〇
新戸 ×→◯
一色 美作 ?
十傑 △
田所 ×→△
アリス 黒木場 △→×
小林 極星寮 セントラル生徒 ×
その他 ー