もしも薙切薊の性格がマイルドだったら   作:作者さん

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ムーブは某作品のパロです。


特訓、連隊食戟開始

 北の果て、礼文島。

 進級試験の最終到達点であり、遠月学園の命運を懸けた『連隊食戟』の特設会場は、外の身を切るような冷え込みが嘘のような異様な熱気に包まれていた。

 すり鉢状になった客席を隙間なく埋め尽くしているのは、進級試験を最後まで生き残り、無事に完了させた一般生徒たちだ。だが、彼らが放つ熱狂の矢印はただ一方向――セントラルへと向けられていた。

 彼らは皆、薊の理念に恭順し、与えられた正解を忠実になぞることでこの場に立っている者たちだ。客席の最前列付近には、バッジをつけた機関に直接所属する生徒たちの姿も陣取っている。

 

「セントラル! セントラル!」

 

 会場全体を揺らす地鳴りのようなコール。

 これからこの特設リングへと姿を現す『反逆者』たちにとっては、味方など殆ど存在しない。見渡す限り敵だらけの、息が詰まるほど残酷で圧倒的な「完全アウェイ」の空間がそこに出来上がっていた。

 

 そんな熱狂の渦の中心。特設ステージの上に立ち、十傑第二席――小林竜胆は一人、腕を組んで静かに目を閉じていた。

 いつもであれば無邪気に騒ぎ立てる彼女だが、今はこれから入場してくるはずの反逆者たちを待ち受けながら、ただじっと身を鎮めている。

 

(……さて)

 

 閉じた瞼の裏側で、竜胆は己の内に燻る熱を静かに確かめていた。もうすぐあいつらがこの絶望的な舞台にやってくる。

 

 周囲のコールが次第に遠のき、竜胆の意識は自然と過去の中へと沈み込んでいく。

 思い出すのは、ちょうど一ヶ月前のこと。目前に迫るこの決戦に向けて、彼らが特訓を行っていたあの場所へ、顔を出した日のことだった。

 

ーー

 

 雪景色を走る列車――その一両を丸ごと貸し切った特設の食堂車の中は、むせ返るような熱気と香りで満たされていた。

 

「タクミ! そっちのオーブン空くか!?」

 

「ああ、今ちょうどローストが終わったところだ! 恵、そっちのソースの裏ごし代わろう!」

 

「わ、分かった! 薙切さん、火加減はこのくらいで大丈夫?」

 

「ええ、完璧です! そのまま焦がさないようにキープして頂戴!」

 

 才波城一郎の指導のもと、創真、恵、タクミ、そしてえりなの四人は、厨房を縦横無尽に駆け回っていた。

 それぞれが己の料理の完成度を極限まで高めることに集中しつつも、決して視野を狭めることなく、互いの状況を常に把握する。手が足りない場面があれば即座にフォローに入り、連携を繋いでいく――それが、チーム戦である『連隊食戟』を勝ち抜くための不可欠な戦術の一つだった。

 

「ほー、なるほど。四人ともそれぞれ持ち味が全然違うのに、うまくカバーし合ってんなー」

 

 特訓の様子を眺めながら、感心したような声が響く。

 

「アルディーニ? お前のそのパスタソース、もう少しだけ酸味を飛ばした方が、創真の作ってる付け合わせとの相性がグッと引き立つぜ」

 

「ああ、そうだな。あそこでバルサミコの角を丸くしておくのがミソだ」

 

 突如として飛んできた的確なアドバイスに、少し離れた席から腕組みをして見守っていた城一郎も深く頷いて同意を示した。

 

「なるほど、確かにその通りですね。ありがとうございます、才波先輩、それに――」

 

 素直にアドバイスに納得しかけたタクミが、ふと顔を上げる。

 そして恵やえりなと共に、視線を声のした方へと向けた瞬間――彼らの動きがピタリと凍りついた。

 

 そこにいたのは、いるはずのない人物。

 遠月学園の制服を着崩し、どこから調達したのか片手にリンゴを持った小林竜胆が、さも当然のような顔をして厨房の入り口に寄りかかっていたのだ。

 

「……って、えええええええっ!?」

 

「こ、小林先輩!?」

 

「な、なぜここに貴女が……っ!?」

 

 タクミと恵が悲鳴を上げ、えりなもまた信じられないものを見るような目で硬直する。

 あろうことか「最大の敵」であるセントラル陣営の、それも最高戦力の一角が単身で堂々と乗り込んでくるなど、想定の範疇を大きく超えていた。

 完全にパニックに陥る三人とは対照的に、創真だけはコンロから目を離すことなく、いつも通りの気の抜けた声で挨拶をした。

 

「りんどー先輩じゃん。ちわっす」

 

「おー、幸平。特訓頑張ってるみたいだなー」

 

「ちょ、幸平! 何を呑気に挨拶しているんだ! その人はセントラルの十傑第二席だぞ! 情報を探りに来たスパイかもしれないじゃないか!」

 

 大慌てで創真に詰め寄るタクミの叫びを聞いて、席に座っていた城一郎が「ほう」と面白そうに眉を上げた。

 

「へぇ、十傑の第二席? それじゃあお嬢さんも俺の後輩ってわけか」

 

「ん?」

 

 城一郎の言葉に、竜胆がリンゴを齧る手を止める。

 彼女は鋭い猫のような瞳をすっと細め、目の前に座る長髪の男をまじまじと観察した。底知れない覇気、圧倒的な料理人のオーラ、そしてどこか見覚えのある目つき。

 

「……それじゃあ、あんたは。いや、待てよ」

 

 竜胆はニヤリと口角を吊り上げ、指をバチンと鳴らして指差した。

 

「当ててやる。多分なんだけど、そーまの親父さんってところじゃないのか!?」

 

「大正解!」

 

 城一郎はガハハと豪快に笑い声を上げ、竜胆もまた「やっぱりかー!」と無邪気に笑い返す。

 敵対しているはずの十傑と、反逆者側の指導者。絶対に相容れないはずの二人が、出会って数秒であっという間に意気投合し、共感覚を生み出していた。

 

「やっぱ分かるもんなんすねー」

 

 相変わらずマイペースに鍋を振りながら創真が呟くと、竜胆は呆れたように鼻で笑った。

 

「バカ、雰囲気とかお前に色々そっくりだろ。これだけ似てて気が付かないことなんてあるかぁ?」

 

「うっ……」

 

 その直後、えりなが小さく呻き声を上げ顔を逸らした。

 

(……わ、私なんて、極星寮で何日も幸平くんと一緒に過ごしていたのに、ずっと気付かなかったのに……っ!)

 

 本人が無自覚に放った『気が付かないことあるか?』という一言が、えりなのプライドと過去の鈍感さを背後から正確に撃ち抜いていた。

 気まずそうに目を泳がせるえりなを余所に、城一郎と竜胆の会話はどこまでも軽快に弾んでいく。

 

「まったく。こんな予想外のハプニング程度で動揺してるようじゃ、まだまだ甘いな、お前ら」

 

 城一郎がやれやれと首を振りながら言うと、竜胆もケラケラと笑いながら大きく頷いた。

 

「そーそー! せっかくの特訓中なんだから、あたしのことなんか気にせず料理続けなよ! なんなら、あたしが直々にアドバイスもしてやるぞ?」

 

 屈託のない笑顔で言い放たれたその言葉に、タクミや恵、そしてえりなはハッと息を呑んだ。

 嫌味など一切ない、純粋な善意からの言葉。だからこそ、痛いほどによく分かるのだ。セントラルの最高戦力である彼女にとって、自分たちは警戒するにすら値しない存在――明確に『格下』として見下されているのだと。

 

 見えない重圧に三人が顔を強張らせる中、創真だけはバチンと両手で頬を叩いた。

 

「へえ……そんじゃ、特等席でじっくり見ててくださいよ、りんどー先輩」

 

 挑発を受け流すどころか、むしろ燃料に変えたような不敵な笑み。

 再びコンロへと向き直った創真から放たれる熱量は、明らかに先ほどよりも一段階上のギアへと跳ね上がっていた。

 

 

 数分後、

 

「んー、このピュレ、舌触りはいいけど後味がちょっと重いなー。あと、アルディーニのソースは香りが飛んじゃってるぞ。惜しい!」

 

 次々と仕上がっていく料理を片端から味見しながら、竜胆は的確かつ容赦のない手つきであらを指摘していく。

その様子を腕組みして見ていた城一郎が、呆れたように苦笑いを浮かべた。

 

「おいおい、俺が言おうと思ってたこと、殆どお嬢さんに言われちまったな」

 

「あははっ! 城一郎先輩、さてはそう言って自分だけ楽しようとしてるんじゃないのかー?」

 

「ばぁかっ、指導者としての余白を残してやってんだよ」

 

 敵陣営の十傑と、反逆者の指導者。

 本来ならば絶対に相容れないはずの二人が、まるでお互いの実力を肌で理解し合っているかのように、気安く完璧な波長で会話を弾ませている。

 自分が誰よりも憧れた才波城一郎と、そんな風に肩を並べて笑い合う竜胆の姿に、えりなは己の胸の奥で、なんとも言えないもやもやとした感情が渦巻くのを感じていた。

 

 やがて、一通りの皿を平らげた竜胆は、カチャリとフォークを置いて四人へと向き直った。

 

「ぷはーっ、食った食った! ……ま、今日はただ遊びに来たってのもあるんだけどさ」

 

 満足げに口元を拭った竜胆は、先程までの無邪気な笑みをわずかに引き締め、どこからか取り出した数枚の書類をひらひらと宙で揺らしてみせた。

 

「本当は、やることがあって来たんだ。――連隊食戟の詳細、決まったぞ」

 

 その言葉に、厨房の空気が一瞬にして引き締まる。創真たちもそれぞれ竜胆の周囲へと集まった。

 

「幸平たちが事前に話し合った要望をもとに、総帥と堂島先輩、それに仙左衛門殿が直接調整した決定稿だ。あたしは単なるメッセンジャーだけど、互いの見解に相違があった場合にすぐ説明できるように直接来たってわけ」

 

 「たっく、そーすいも人使い荒いよなー。あたし十傑の二席のりんどーさんだぜ?」と、軽く口走る竜胆だが、交渉の場に立つ今の彼女の目には、獲物を見定めるような冷たさがある。。

 

「まぁ、こっちの十傑の意見……ていうよりも、総帥の考えは一貫してるからな。そっちの勘違いや文句が無ければ、これで交渉は終わりだ」

 

 そう言って、竜胆は数枚のプリントをテーブルの上に広げた。そこに記されていたのは、来る決戦の具体的なルールと条件だった。

 日時は約一ヶ月後、進級試験の最終日。場所は礼文島に設営する特設会場で、一般生徒たちも観戦できるよう公開形式で行われること。勝利条件と報酬について、『反逆者』側が勝てば、約束通り十傑の席を総取りすること。逆にセントラル側が勝った場合、反逆者たちは全員セントラルへ恭順すること。参加人数に制限は設けないが、日程的に三日から五日で終了するように選出基準が設けられている。

 

「……どうだ? そっちの要望と食い違ってるところはないか?」

 

 書類に目を通していた創真と城一郎が顔を見合わせ、頷く。事前に要求していた条件が、一切の誤魔化しなく明記されていた。

 

「ばっちりなんすけど……でも、気になる一文があるっすね」

 

 創真が指差したのは、参加者の資格について書かれた項目だった。

 

「『選出については、退学予定でない生徒に限定する』……?」

 

「ああ、そこな。まぁこれは当然だろ? 遠月学園の命運を懸けた戦いなんだ、部外者に代わりに食戟させるわけにもいかねぇもんな」

 

 竜胆はにんまりと笑いながら答えた。

 つまり、三次試験で無念にも脱落し、退学処分となってしまった反逆者側の仲間たち――アリスや黒木場、他の極星寮の一年の生徒たちは、この連隊食戟に参加できないという明確な線引きだった。

 

「……なるほどな。あくまで今生き残っている俺たちだけで戦えってことか」

 

「セントラルに恭順していない生徒を探してきて引っ張ってきてもいいけどな。そんで、次の項目。これはこっち側が不利になる条件だから安心していいぞ」

 

 竜胆がトン、と指で叩いた箇所。

 そこには『現第八席である葉山アキラの選出を不可とする』と記されていた。

 

「葉山が、不参加……?」

 

 その文字を見た瞬間、創真の眉がピクリと動いた。同時に、タクミたち一同の顔にも疑問符が浮かぶ。

 

「待った、先輩。俺に負けた葉山は退学処分になるって聞いてたんだが……。この書き方だと、あいつはまだセントラルに籍があるってことか?」

 

「ああ、それな」

 

 竜胆はあっけらかんとした口調で種明かしをした。

 

「三次試験で落ちたやつらなんだけどな。退学じゃなくて、正確には『仮退学処分』になってんだよ」

 

「仮退学……!?」

 

「まだ遠月に籍は残ってる。……もともとはこの進級試験を、身内の不幸だとかで参加ができなくなった生徒のための制度なんだけどな。補習追試を受けさせるための救済制度が一応あるんだよ。三次試験で落ちた反逆者たちも、全員がその仮退学の状態になってる。今頃総帥の指示のもとでセントラル式の教育を受けて、その補習試験を受けさせられてんだろーな」

 

 あっさりと告げられた事実に、えりなは顔色を変えた。退学になったはずの仲間たちが、今この瞬間もセントラルの教育下に置かれている。

 

「な、なんのために反逆者をそんな中途半端な状態に……! 退学にするのが、お父様の……セントラルの本来の目的なはずでは……!」

 

 震える声で問い詰めるえりなに対し、竜胆はスッと目を細め、底冷えのするような笑みを作った。

 

「お前への首輪だよ、そーま」

 

「……俺への?」

 

「ああ。『セントラルに恭順する』なんて所詮は口約束だ。反故にする方法なんていくらでもある。たとえば、負けた後に自分から遠月を自主退学して、別の場所で料理をするって選択もできるだろ?」

 

 竜胆の言葉に、創真は無言で返す。

 確かに、最悪の場合は遠月とは無縁の場所で料理をするという逃げ道が創真にはあった。

 

「でも、もしお前がその選択をとれば……今、仮退学で首の皮一枚繋がっている反逆者たちはどうなると思う? セントラルの言いなりにならずに逃げ出したお前のせいで、あいつらの籍は完全に消滅する」

 

 逃げることは、残された仲間を自らの手で見捨てることと同義。薊が張り巡らせた逃げ場のない心理的な罠の全貌に、えりなたちは息を呑んで絶句する。そんな彼らを横目に、竜胆は声のトーンを一段落とし、とどめを刺すように冷酷な宣告を突きつけた。

 

「つまり、セントラルじゃなくて、そーま……『お前自身が仲間を切り落とす選択をした』ことになるんだよ」

 

 しんと、厨房が静まり返る。

 それは、どこまでも理知的で、感情のブレがない薙切薊だからこそ組み上げることができた、完璧な盤面。

 

「いわば、総帥が用意した担保ってやつだ。プレッシャーかけにきてるなぁそーすいも」

 

 くくっ、と竜胆が意地悪く喉を鳴らして小さく笑う。

 仲間たちの運命、そして遠月の未来。あまりにも巨大で残酷な重荷をたった一人で背負わされる形となった創真に対し、タクミも恵も、そしてえりなも、痛切な不安と心配の眼差しを向けていた。

 だが、当の創真本人はと言えば。

 

「……なんつーか」

 

 ぽりぽりと頬を掻きながら、一度言葉を区切る。そして、心底不思議そうな、のほほんとした顔で口を開いた。

 

「もしかして俺って、薊総帥に滅茶苦茶気に入られてるんじゃないか?」

 

「だよな。俺もそう思うわ」

 

 ズコっと周囲の緊張感が一気に崩れ去る中、城一郎だけは呆れ顔で深く頷いた。

 

「中村に何やったんだ、お前」

 

「いや、別に何もしてねーけど。単に親父の息子ってだけで気に入られたんじゃないのか?」

 

「んー?」

「んー?」

 

 幸平親父と息子は、腕を組みながら全く同じ角度で小首を傾げ合った。

 これだけ周到に張り巡らされた絶望的な包囲網を前にして、何一つプレッシャーに感じていない様子の二人。

 そんな常識外れのメンタルを目の当たりにして、えりなたちは張り詰めていた糸がプツンと切れたように、盛大に肩を透かされてガックリと項垂れるのだった。

 

「ちぇー、なんだよ。もうちょいビビる姿が見られると思ったのに、拍子抜けだなぁ」

 

 竜胆はつまらなそうに唇を尖らせつつも、その口元には隠しきれない楽しげな笑みを浮かべていた。対する創真は、肩をすくめてあっけらかんと言い放つ。

 

「だって俺、負けるつもり全くねーっすもん」

 

「くくっ、言ったなぁ幸平! ……よし、それじゃあ書類の内容に間違いが無ければ、これで決定ってことでいいな」

 

 数分前までの無邪気な空気から一転、竜胆は十傑第二席としての威厳を全身に纏い、創真たちを鋭く見渡して不敵に笑いかけた。

 

「次に会うときは、あの礼文島の食戟のリングの上だ。……精々あがいて見せろよ? あたしも、お前らと戦うのを心から楽しみにしてんだからさ」

 

 刹那、食堂車内の空気が凍りついたかのように重く沈んだ。言葉と同時に放たれたのは、肌を刺すほどに鋭く、呼吸すら一瞬忘れさせる圧倒的な覇気。

 さっきまで無邪気に料理を喰い荒らしていた姿は跡形もなく消え去り、そこにいるのは紛れもなく遠月学園の頂点――十傑第二席・小林竜胆というひとりの「怪物」だった。

 獲物を狩る獣そのものの鋭い眼光に見下ろされ、タクミも恵も「……っ」と息を呑み、金縛りに遭ったかのように身をすくませる。自尊心の強いえりなですら、額に冷や汗を伝わせ、その圧迫感にごくりと唾を飲み込むのがやっとだった。

 静まり返る空間のなか、竜胆は満足そうに不敵な笑みを深めると、立ち塞がる絶対的な壁としての威厳を完璧に纏ったまま、颯爽と背を向けた。

 

 余韻を残し、スマートに去ろうとドアへ手をかけた――まさにその瞬間だった。

 

 

「すまない、遅くなったな」

 

 食堂車の扉が開き、雪を払いながら堂島銀が入ってきた。と同時に、プツリと切り替わった車内アナウンスが情けなく響き渡る。

 

『ご案内申し上げます。現在、想定を超える豪雪のため、本列車は安全が確認されるまでしばらく運転を見合わせます――』

 

 ここは食堂車であるため、食事も泊まりも一切問題はない。――ただ一つ、今まさに颯爽と立ち去ろうとしていた竜胆が、どこにも帰れなくなったという点を除いては。

 

「やはり止まったか。外の視界がかなり酷いことになっていてギリギリだったんだ。……ん? その生徒は……?」

 

 状況を分からず困惑気な堂島が、入口でピキリと凍りついている見慣れぬ生徒に首を傾げる。

 さっきまで威厳たっぷりに決めていた手前、行き場を失った竜胆はぷるぷると肩を震わせ、みるみるうちに顔を真っ赤に染めていった。その横で、創真がこれ以上ないほどニマニマとした意地悪な笑みを浮かべている。

 

「そーま! あ、あたしも今日はこのまま、お前らの特訓を見てやることにしたぞ! いいよな、良いって言えっ!」

 

「えー? でもりんどー先輩、さっきタクミに『スパイかもしれない』って警戒されたばっかっすからねー?」

 

「うっぐ……っ! それは……!」

 

 開き直って大声を張る竜胆と、ここぞとばかりにニヤニヤとからかう創真。居たたまれなさそうに悶絶する竜胆を中心に、なんとも言えない妙な気まずさと可笑しさが混ざり合った空気があっという間に充満していくのだった。

 

――

 

 気まずさと可笑しさが混ざり合った騒動からしばらく経ち、厨房には再びリズミカルな包丁の音と、鍋の沸き立つ音が満ちていた。

 そんな熱気あふれる特訓風景を、食堂車の隅の席から頬杖をついて眺めている小林竜胆の姿があった。

 

(……何も見えていないな、あの様子では)

 

 少し離れた場所からその様子を伺っていた堂島銀は、静かに目を細めた。

 突然乗り込んできたセントラル陣営の最高戦力に対し、当初は堂島も警戒を抱いていた。だが、今の竜胆はどこか心ここにあらずといった様子でぼんやりと宙を見つめており、先ほど見せた十傑としての鋭い覇気は完全に鳴りを潜めている。

 その無防備で隙だらけの横顔がどうしても気にかかり、堂島はゆっくりと彼女のテーブルへと歩み寄った。

 

「――気が入っていないな、小林」

 

「……ん? ああ、堂島先輩かぁ」

 

 不意に背後からかけられた声にもさして驚く様子を見せず、竜胆はへらりといつもの笑みを浮かべてみせた。

 

「いやー、あたしってさ、寒いとどうしても身体が固まっちゃうんだよね。ほら、爬虫類みたいなもんでさー」

 

 そう言って肩をすくめる竜胆だが、堂島はそれが半分本当で、半分は嘘であることに気がついていた。

 確かに彼女は寒さで動きが鈍くなるきらいがあるのだろう。だが、今の車内は四人がかりで絶え間なく火を使っているため、冬服では十分に暖かいのだ。

 

(……必死に特訓をする後輩たちにあてられている、といったところか)

 

 底知れないポテンシャルを秘めた後輩たちが、己の全てを懸けて泥臭く牙を研ぐ姿。その眩い熱量にあてられ、彼女の奥底にある『何か』が無意識のうちに揺さぶられているのかもしれない。

 堂島はあえてその嘘を暴くことはせず、腕を組んで静かに告げた。

 

「当たり障りのないことであれば、胸中を言ってみるといい」

 

「……え?」

 

 思いがけない言葉に、竜胆がわずかに目を見開く。そんな彼女へ、堂島はさらに言葉を継いだ。

 

「警戒しなくてもいい。君ならばただの雑談の中で『言ってはならないこと』を間違えて漏らすような愚は絶対に犯さないだろう。……俺はそう確信して提案しているんだ」

 

 遠月リゾートの総料理長として数多の料理人たちを導いてきた堂島は、今の彼女のような葛藤や迷いを抱えた相手との接し方を経験から熟知していた。

 今この場において、反逆者を支援する堂島と、セントラルの中核である竜胆は対立関係にある。だが互いの立場が完全に切り離されているからこそ、一切のしがらみなく、ただの聞き役に徹することができるというものだ。

 そして何より「お前は立場を忘れて情報を漏らすような未熟な料理人ではない」と真っ直ぐに実力を認め、言葉にして伝えることで、彼女が抱えている立場上の強張りを解きほぐそうとしたのだ。

 

 堂島のその言葉は、連隊食戟という盤面や利害すらも度外視した、純粋な『遠月の先輩』としての不器用だが誠実な気遣いだった。

 

 敵対陣営の大人から向けられた、理詰めで、それでいて絶対的な信頼。

 その言外の意図を正確に察した竜胆は、少しだけ肩の力を抜き、毒気を抜かれたように小さく息を吐き出した。

 そして一瞬だけきょとんとした後、ふっと口元を綻ばせる。

 

「……堂島先輩さぁ。こんな年下捕まえて、ナンパのつもりかぁ?」

 

 悪戯っぽく猫の目を細め、からかうように茶化す竜胆。だが、堂島は一切動じることなく、歴戦の料理人としての圧倒的な余裕と不敵な笑みを口元に刻んでみせた。

 

「ほう。……そう聞こえていたなら光栄だな」

 

「あははっ、なんだそりゃ!」

 

 どこまでも大人な切り返しに、竜胆は腹を抱えてケラケラと笑い声を上げる。

 熱気渦巻く厨房の片隅で交わされたのは、敵味方の境界線をわずかに越えた、ささやかで奇妙な交流だった。

 

 ひとしきり笑った後、竜胆は目元に滲んだ涙を指先で拭いながら、ふう、と小さく息をついた。

 

「……そうだなぁ。それじゃあ、堂島先輩にもあたしと同じ気分を味わって貰おうかな」

 

 竜胆の口調に、先ほどまでの穏やかで無邪気な響きが含まれていたのはそこまでだった。

 すっと細められた爬虫類のような瞳の奥に、得体の知れない昏い光が宿る。食堂車の熱気すら凍りつかせるような異様な静けさの中で、彼女はたった一言、ぽつりと呟いた。

 

『――――、――――』

 

「……なに?」

 

 あまりにも唐突に放たれたその言葉の真意が掴めず、堂島は思わず眉間を寄せた。一瞬、彼女が何を言っているのか全く理解できなかったのだ。

 そんな堂島の困惑を眺めながら、竜胆はくつくつと喉の奥で笑った。

 

「面白かったなー。……面白すぎて、あたしが最初に総帥から言われたときは、流石のあたしでも笑えなかったくらいだ」

 

「……っ」

 

 それが、他でもない『薙切薊』によって語られた言葉であるという事実。

 そのことに気が付くまで、歴戦の堂島ですらほんの数秒の間を要した。言葉の輪郭が脳内で咀嚼され、その恐るべき真意に行き当たった瞬間、堂島の背筋をぞくりと冷たい悪寒が駆け抜ける。

 

「まさか……そんなことを……?」

 

 思わず溢れた堂島の声には、明らかな動揺が混じっていた。

 無理もない。もしそれが事実だとしたら、今ここにある連隊食戟という盤面すらも根本から覆しかねない、あまりにも異常な思想だ。

 ゆえに堂島は、それが竜胆による自分への精神的な揺さぶり――盤外戦術としての悪辣な『嘘』ではないかと真っ先に疑った。十傑第二席という立場を利用した、狡猾な駆け引きなのではないかと。

 

 だが、堂島はすぐに己の推測を打ち消すことになった。

 

「…………」

 

 彼を見つめ返す竜胆の顔に浮かんでいたのは、狡猾な笑みでも、敵を嘲る冷酷さでもなかった。

 どこか遠くを見るような、あるいはひどく空虚なものを眺めるような――ほんの少しだけ、寂しげな表情だったのだ。

 

(これが、嘘や揺さぶりであるはずがない)

 

 そのあまりにも脆い横顔を見た瞬間、堂島の中で渦巻いていた疑念は氷解した。そして同時に、深い絶望にも似た理解が脳内を駆け巡る。

 

 もし、彼女がこの途方もない話を誰かに打ち明けたところで、一体誰が信じるというのか。遠月学園を統べる総帥が、そんな狂気じみた思惑を抱いているなどと。

 いや、それ以上に残酷な事実が彼女を縛り付けていたはずだ。

 

(鍵の一人である一席の司瑛士は、この発言に対して『何も思わない』のだ)

 

 己の料理を極めることのみに純粋で、ある意味で薊の理念と完璧に合致してしまっている彼ならば、この異常な真意を聞かされたとしても疑問すら抱かないだろう。

 誰にも言えない。誰に言っても信じてもらえない。最も分かち合いたい相手にすら、この感情は決して届くことはない。故に彼女は、今までたった一人で、この重すぎる真意を抱え込み続けていたのだ。

 

 だが、堂島にはもう一つ解せないことがあった。

 薙切薊という男は、常に完璧な盤面を組み上げる理詰めの男だ。そんな彼が、なぜ組織の最高戦力である竜胆に、離反のリスクを伴うような『真意』をわざわざ伝えたのか。

 考えられる答えは一つしかない。

 

(彼女がどう行動しようと、『どうでもいい』……ということか)

 

 竜胆がこの真意を知って絶望しようが、呆れて反逆しようが、己の計画には何の影響も及ぼさないという傲慢。

 そこには、薊がこれまで見せてきた緻密な計画性はなく、むしろ案外純粋な感情――竜胆という規格外の存在に対する、ある種の「好悪」。直接的な表現こそしないものの、「嫌いだから」という感情的な排除の意図すら透けて見えるようだった。

 

「……ならば、なぜだ」

 

 重苦しい沈黙を破り、堂島は低く静かな声で問いかけた。

 

「なぜ、君はセントラルにいる? 薊は君をどうでもいいと思っているだろう。逆に君もセントラルに従う必要などないはずだ。君が十傑という権力や座に固執するような人間だとも思えないが」

 

 堂島の真っ直ぐな問いかけに対し、竜胆はふっと目を伏せた。

 そして、先ほどまでの空虚な表情から一転して、ひどく柔らかく、どこか愛おしむような、小さな笑みをこぼした。

 

「……一緒にいてやりたい奴がいるんだ」

 

 ぽつりとこぼれ落ちたその言葉には、彼女の隠しきれない本音が滲んでいた。

 どれほど理不尽な環境であろうと、己の全てを懸けてその歩みを見守り、隣に立ち続けたいと願う相手。その存在だけが、今の小林竜胆をセントラルという檻の中に留めている唯一の理由だった。

 

 堂島はその短い言葉の裏にあるものを、即座に察した。

 

 それが男女の情合からくる親愛なのか、あるいはもっと別の感情なのか。そんな区別など、今の彼女を前にしては些末な問題だ。彼女の根底にあるのはただ一つ、己の全てを懸けてもあの危うい天才と「共に在りたい」という、不器用なまでに純粋な想いだけなのだろう。

 

 だが――だからこそ、堂島は知っていた。

 その純粋すぎる献身の果てにあるものが、決して美しいだけの景色ではないということを。その考えがやがてどのような行き止まりへと向かってしまうのかを。

 自身の胸の奥底に今も残る、決して消えることのない古傷が鈍く疼く。

 

「だが――」

 

 

 堂島が、忠告とも言えるその先を静かに紡ごうと――

 

――

 

 

 

 

 ――ワアアアアアアアアアアアアアッ!!!

 

 鼓膜をびりびりと震わせるような凄まじい歓声の波に呑まれ、竜胆の意識は過去のまどろみから急速に現在――北の果て、礼文島の特設会場へと引き戻された。

 

 見開いた瞳の先。

 すり鉢状になった会場の入場ゲートから、身を切るような冷たい外気と共にゆっくりと姿を現す者たちがいた。

 

 幸平創真。薙切えりな。タクミ・アルディーニ。田所恵。そして、彼らに合流した元十傑たち――女木島冬輔、一色慧、久我照紀。

 

 それが、遠月学園の命運を背負ってこの完全アウェイの絶望的な舞台へと足を踏み入れた、『反逆者』たちの全容だった。

 

『さぁーて! ついに現れました、学園の美しき秩序を乱し続ける愚かな反逆者たち!』

 

 特設リングに備え付けられたスピーカーから、司会進行を務める川島麗の甲高い声が響き渡る。その声色と表情には、反逆者たちに対する隠しきれない嘲笑がたっぷりと混じっていた。

 

『皆さん、どうぞ彼らの無残な数をご覧ください! 我らがセントラル陣営を代表する十傑メンバーが一名を除いた九名であるのに対し、あちらの反逆者はたったの七名! はーっはっは、始まる前からすでに圧倒的な人数差が生じております! いやー、これはもう勝負の行方は火を見るよりも明らかですねぇっ!』

 

 露骨なまでにセントラルを贔屓し、敵を煽り立てる川島の実況。

 それに呼応するように、客席を埋め尽くす生徒たちからはさらに熱を帯びた地鳴りのような「セントラル!」のコールが巻き起こる。

 

 見渡す限りの敵、敵、敵。

 誰一人として味方のいない四面楚歌のリングに向かって、七人の反逆者たちは確かな足取りで歩みを進めていた。

 

「やー総帥、ここまでしか揃えられなかったっすわー」

 

 リングの中央。互いの陣営が対峙する中、創真はいつもと変わらぬ、どこか間の抜けた声で薙切薊へと声をかけた。

 学園の頂点に君臨する男を前にしても、まったく気負いを感じさせないその態度。対する薊もまた、創真の軽口に対して余裕に満ちた笑みを崩さなかった。

 

「気にすることはないよ。君が集められる最大限のメンバーだろう。……こちらも油断はできないだろうね」

 

 まるで昼下がりのティータイムにでも交わすような、穏やかで静かな会話。だが、その隣に立つえりなは、一切の油断なく薊を鋭く睨みつけていた。実の父親であり、最大の敵である男が纏う底知れぬ余裕に、彼女は微かに奥歯を噛み締める。

 

 そんな張り詰めた空気の中、薊とえりなが第一試合の対戦枠を決めようと口を開きかけた、その直前だった。

 

「はいはーいっ!」

 

 特設ステージの上で、小林竜胆が元気よく片手を高く突き上げた。

 

「あたし、宣戦布告がしたい!」

 

 唐突すぎるその申し出に、セントラル側の十傑たちや、周囲を取り囲む生徒たちから「やれやれ」「まぁ、竜胆ならやりそうだ」といった、呆れと納得が入り混じったようなどよめきが漏れる。

 司会進行の川島麗は、進行の段取りにない突発的な事態に目を白黒させて困惑した。

 

「えっ!? あ、あの、小林先輩……?」

 

「分かってないなー、麗ちゃん! こいつは遠月学園を揺るがす一大イベントだぞ? そりゃあ、ド派手に盛り上げなくちゃ嘘ってものだろ!」

 

 あっけらかんと言い放つ竜胆の言葉に、川島は「そ、それもそうですね! ここはバッチリ盛り上げちゃいますよぉっ!」とすぐさま感化され、過剰なほどに会場を煽り始める。

 勝手な振る舞いを見せる竜胆に対し、薊は軽く肩をすくめるだけで、特に咎めるような素振りは見せなかった。

 一方、反逆者陣営の総大将であるえりなは、来るべきプレッシャーに備えてぐっと身構えた。セントラルの最高戦力の一人からの『宣戦布告』。それが自分に向けられるものだと確信していたからだ。

 

 ズン、ズン、ズン。

 竜胆は軽い足取りで歩みを進めると薊の隣を通り抜け、身構えていたえりな――の隣も素通りした。

 

 創真はその様子にかつて行われた紅葉狩り会の時と全く同じ既視感を覚え、表情に少しずつ困惑の色が浮かんでいく。

 

(……あれ? ……いやいや、気のせいだろ。)

 

(て、え? まだ来る?)

 

(????)

 

 竜胆はそんな創真の鼻先が触れ合うほどの距離まで顔を近づけ、ピタリと足を止めた。

 

「あの、だから近いんすけど……」

 

 困惑気味に後ずさろうとする創真。そんな彼を見上げて、竜胆は「にぃっ」と、悪戯を企む猫のように口角を吊り上げた。

 

「あ、あの? 小林先輩……?」

 

 困惑し恐る恐るマイクを握りしめながら近づいてくる川島を完全に無視して、竜胆は目の前の創真だけを見据えて口を開いた。

 

「なー、そーま。前にお前、あたしに『二席の座をください』って言ってたよな?」

 

 その言葉に、創真の目がわずかに見開かれる。それは三次試験を突破した後、彼が放った言葉だった。冗談でもなんでもない本音の言葉だった。

 だからこそ、創真もすぐにいつもの不敵な笑みを取り戻し、ニッと笑い返した。

 

「お。やっぱりくれるんすか?」

 

「いいぞー」 

 

「えっ」

 

 あまりにも軽い返事に、さすがの創真も予想外だったのか、間の抜けた短い声を漏らす。そのやり取りは、近づいていた川島のマイクを通して特設会場全体へと響き渡っていた。

 

 熱狂に包まれていた会場に、水を打ったような一瞬の静寂が訪れる。

 

「麗ちゃん、これちょっと借りるなー」

 

「あ、はいっ……え?」

 

 川島の手から半ば強引にマイクを奪い取ると、竜胆はポンポンと軽くマイクを叩いた。

 

「あーあー、よーし。聞こえるかー?」

 

 そして、静まり返る数百人の観衆と、背後に立つ十傑たち、そして総帥である薊に向けて――彼女は最高に楽しそうな笑顔で、とんでもない爆弾を投げ落とした。

 

 

「司ぁー、そーすい。あたし、反逆者(こっち)側で参加するから」

 

 

 その言葉がマイクを通して会場全体に響き渡った瞬間。

 一秒、二秒と、異様なほどの沈黙が落ちた。まるで会場全体が時を止められたかのように、誰もが瞬きすら忘れてその言葉を脳内で反芻する。

 

 そして――

 

「……は、ええええええええええええええええええええええっ!?」

「なっ、なんだってえええっ!?」

「こ、小林先輩が、裏切った……!?」

 

 大音量のスピーカーから放たれた衝撃の宣言は、数百人の観衆を飲み込む大爆発を引き起こした。

 地鳴りのような「セントラル」コールは完全に吹き飛び、代わりに湧き上がったのは、悲鳴とも怒号ともつかない大パニックの渦だ。

 

「ど、どういうことだ!? なんで第二席が反逆者側なんだよ!」

「ふざけるな! セントラルを、総帥を裏切る気か!」

「待って、これって……反逆者側とセントラル側、どっちの戦力が上になるんだ……!?」

 

 信奉していたはずの最高戦力からのまさかの離反宣言に、セントラル側の一般生徒たちは顔面を蒼白にしながら絶叫する。

 一方、客席の片隅で肩身を狭くして観戦していた者たち――三次試験で無念にも脱落し、仮退学処分としてセントラルの監視下に置かれていたアリスや黒木場、肉魅や極星寮の面々からは、信じられないものを見るような驚愕と、やがてそれに勝る歓喜の叫びが爆発した。

 

 混乱と興奮が入り混じり、礼文島の特設会場は文字通りのカオスへと陥っていた。

 そんな阿鼻叫喚の客席を余所に、セントラル陣営の特設ステージ上でも、十傑たちの反応は様々だった。

 

「……はぁ。全くあいつは。どこかでやらかすのではないかとは思っていたが……まさか本当にやらかすとは思わなんだ」

 

 斎藤は大きな包丁を肩に担ぎ直しながら、呆れたように苦笑いを浮かべた。

 

「ふーん。まぁ、竜胆らしいって言えばらしいけどねー。どうせ何か面白いことでも見つけたんじゃないの?」

 

 その隣でぬいぐるみを抱えたももはさして驚いた様子もなく、退屈そうに欠伸を噛み殺した。彼女にとっては、竜胆の突飛な行動など今に始まったことではないらしい。

 

 だが、他のメンバーはそうはいかない。

 

「なっ! 小林先輩っ、あなたという人は、この期に及んで何を血迷っているのですか!」

「チッ……! あのアマ正気かよ……っ!」

「う、美しきセントラルの結束が……!」

 

 紀ノ國、叡山、そして新たに十傑入りを果たした白津ジュリオの三人は、信じられない暴挙を目の当たりにして、完全に言葉を失い、あるいは激しい憤りを露わにしていた。

 

「……ほらな、やると思ったんだ」

 

 そんな中、後方で腕を組んでいた美作昴が、さも当然といった顔で隣に立つ新戸緋沙子へと話しかけた。

 

「俺は少しだけ小林先輩の動きをトレースしてみたんだがな。ひょっとするとひょっとするかもな……とは思っていたんだが」

 

「あ、頭が痛い……っ」

 

 得意げに分析を語る美作の横で、緋沙子はあまりの急展開にめまいを覚え、ふらふらとこめかみを抑えていた。

 

 一方、反逆者陣営。

 唐突に増えた、それも最強クラスの「味方」の出現に、タクミや恵たちはあんぐりと口を開けたまま硬直している。

 

 そして、爆心地であるリング中央は。

 

「ちょ、ちょ、ちょっとどういうことですか、小林先輩っ!?」

 

 ようやく我に返った川島麗が、半狂乱になりながら竜胆に詰め寄った。

 

「んー? なんだ麗ちゃん。そーまに二席の座をあげたことか?」

 

 詰め寄る川島に対し、竜胆はマイクを片手に持ったまま、けろりとした顔ですっとぼける。

 

「そっちもですけど! なんであなたが向こうにいくんですかっ!?」

 

「いやでも、俺二席より一席の方がいいんで、やっぱその座、いらねーっす」

 

「断ったぁぁぁぁっ!?」

 

 すかさず差し込まれた創真の遠慮のない拒絶に、川島は悲鳴のようなツッコミを上げる。

 

「さすがそーま、欲張りだなー!」

 

 断られたにも関わらず、竜胆はむしろ嬉しそうに笑った。そして、涙目になっている川島へと向き直ると、最高の笑顔でとんでもない提案を口にする。

 

「んー、それならさ。麗ちゃん、この二席の座、要る? あたしの代わりに、あっちいって参加してくれば?」

 

「ひぃぃぃぃぃぃぃっ!? む、無理です無理です! あんな人たちに交じって料理なんてできませんし、第一私がやったら瞬殺されますぅぅぅぅっ!」

 

 無茶ぶりすぎる提案に、川島は涙を散らして全力で首を振るのだった。

 

「まぁーいいだろ。ちょうどこれで人数も八対八で合うだろ? あたしは反逆者側で連携の特訓もしてなかったからハンデになるし、逆にセントラル側も、あたしが一人居なくなるぐらいならへーきだろ。ほら、よく叡山が言ってた『ウィンウィン』ってやつだ!」

 

 あっけらかんと言い放つ竜胆に対し、叡山は額に青筋を浮かべてワナワナと震えていた。

 

「なっ、なにがウィンウィンだ……! どっちの陣営にも大迷惑をかけやがって、どっちもルーズ(負け)だろうが! この馬、っ……!」

 

 喉まで出かかった「この馬鹿野郎」という怒号を、叡山はギリィッと奥歯を噛み締めて必死に飲み込んだ。相手はいくらふざけていようと、自分よりも格上の十傑第二席で先輩でもあった。ここで不用意に噛み付いて痛い目を見るのは自分であると、彼の計算高い頭脳が警鐘を鳴らしていた。

 そんな叡山の葛藤を完璧に見透かしているのか、竜胆はマイクを下ろしてニマニマと意地悪な笑みを向けている。

 

「……小林、いいのか」

 

 ふと、背後から低く落ち着いた声がかけられた。

 声の主は、反逆者陣営に立つ元十傑三席・女木島冬輔。彼のその短い問いかけには、「本当に司瑛士と敵対してもいいのか」という言外の意味が深く込められていた。

 誰よりも司の傍にいて、彼を支え続けてきた竜胆。その彼女が、最も重い決断を下そうとしている。だが、竜胆は振り返ることもなく、迷いの一切ない声で即答した。

 

「当たり前だろ、女木島」

 

 その潔すぎる声に、女木島は小さく息を吐き、「……そうか」とだけ返して腕を組み直した。

 

 その時だった。

 

 ――パンッ、パンッ。

 

 マイクを通していないにも関わらず、会場全体に響き渡るような乾いた拍手の音が鳴り響いた。薙切薊が、ゆっくりと自分の両手を打ち合わせたのだ。

 そのたった二つの音色だけで、熱狂と混乱に包まれていた数百人の観衆が、まるで魔法をかけられたかのように一瞬にして静まり返る。

 張り詰めた冷たい静寂の中、薊の優雅で絶対的な声が響き渡った。

 

「困ったことをするね。せめて事前に言ってほしかったところだ」

 

 薊は微かに苦笑を浮かべながら、特設ステージに立つ竜胆へと視線を向けた。

 

「ごめーんそーすい、急にやりたくなったんだわー」

 

 対する竜胆は、悪びれる様子など微塵も見せずにヘラヘラと笑って返す。だが薊は特に声を荒げることもなく、淡々と事実だけを口にした。

 

「私としては、君にはセントラル側で参加してほしいところだけれど……。どうせ無理やりこちらに立たせても、君は何もしないという選択をとって、試合を消化試合にしてしまうだろう。これから招くWGOの審査員の方々を、そんな茶番に巻き込むのは私としても忍びない」

 

 薊の言葉に、竜胆はその通りだと言わんばかりに肩をすくめる。

 

「だから総帥としては小林君が反逆者側に付くことを問題とはしない。……ただし、食材や対戦枠などの準備の問題もあるから、君の参戦は明日以降にしてもらうがね」

 

「お、マジで? やった!」

 

 あっさりと寝返りを許可されたことに、竜胆は無邪気に喜の声を上げた。

 だが、薊はその優雅な笑みをわずかに深め、氷のように冷たい眼差しで忠告を添える。

 

「ただ……敗北時に、十傑に君の席が残っているとは、思わないことだ」

 

 それは、学園の頂点に立つ者からの絶対的な死刑宣告。それを竜胆は恐れるどころか、猫のような瞳を細めて不敵に「にぃっ」と笑みを作ってみせた。

 

「しかし、」

 

 そこで、薊は一度言葉を区切った。彼の視線が、竜胆からセントラル側の十傑たち、そしてその中心に立つ一人の男へと向けられる。

 

「私が良くても実際に食戟をするのは彼らだ。共に戦うはずだった彼らの意見も聞かずに、無条件で受け入れることはできないね」

 

 薊はゆっくりと首を傾げ、セントラルの大将へと問いかけた。

 

「我が陣営の大将でもある司君に、小林君の反逆者側への参戦の是非を確認しておこうか」

 

 皆の視線が集中する中、セントラル陣営の中央に立つ第一席――司瑛士は、心底困惑したように眉尻を下げていた。

 

「……冗談で言っているわけじゃないんだよね?」

 

「おー、大マジだぜ」

 

「その、ひょっとして……俺がまた竜胆になにかやっちゃったとかない?」

 

 おずおずと尋ねる司の様子は、学園最強の料理人という肩書きには似かわしくないほどに弱々しい。だが、竜胆はそんな彼の気弱な態度をカラカラと笑い飛ばした。

 

「ないない! 料理馬鹿のノンデリなんていつものことだろー」

 

「う……それは、ごめん」

 

「あははっ! 気にしてねーって。単純に、あたしがその一席の座を欲しくなっただけだからさ!」

 

 あっけらかんと笑いながら宣言する竜胆。

 その言葉を聞いた司は、少しだけ不思議そうな顔をした。怒りや焦りなど微塵もない。ただ純粋な疑問として、彼は何でもないような様子で小首を傾げた。

 

 ――その無自覚なまでの王者の振る舞いを前にして、竜胆の脳裏に、あの日雪に閉ざされた列車の中で堂島が紡いだ言葉が蘇る。

 

『先頭を行く誰かの背に立ち、自分が後ろから支えているという思い上がりは……結局のところ、何の役にも立ちはしなかった』

 

 かつて誰よりも先頭を走り続けていた親友、才波城一郎。天才ゆえの孤独を抱え込んだ彼を後ろから見守りながらも、結局は彼を救うことができなかった深い後悔。遠い日の傷跡をその瞳に滲ませながら、歴戦の料理人は静かに、けれど痛切な響きを込めて竜胆に告げたのだ。

 

『これは目先に迫った連隊食戟において、どちらの陣営に付くべきかという話をしているのではない。……もしも君が、本当にその人のことを想うのならば。先の未来で逃げずに互いに真正面から、己の料理で語り合うべきだ』

 

 堂島のその言葉が、竜胆の心を確かに貫いていた。

 隣でただ微笑み合い、すべてを肯定してやるだけの都合のいい「第二席」でいるままでは、決して届かない場所がある。司瑛士という底知れぬ天才と本当の意味で向かい合うためには、対等な敵として、真っ向から彼の前に立ちはだかるしかなかったのだ。

 

 そんな竜胆の秘めたる決意など知る由もなく、司はいつもの調子で静かに問いかけてくる。

 

「竜胆はさ……俺よりも、自分がこの席に座るべきだって思ってるの?」

 

 その言葉には、一切の悪気がなかった。

 司瑛士という男は、竜胆の実力を誰よりも認めている。だがそれと同時に、彼女が自分より下であるという事実を微塵も疑っていないのだ。僅差であろうと、自分が第一席であり彼女が第二席であるという絶対的な序列。それを揺るぎない前提としているからこそ飛び出した、残酷なほどに無自覚な問いかけだった。

 

「そっか。竜胆なら二席で一緒にがんばれそうって思ってたけど、仕方ないよな」

 

 司はふう、と小さくため息をつき、困ったような、けれどどこか優しげな笑みを浮かべた。

 

「俺が勝ったら、竜胆には俺の料理のサポートをしてもらうことにするよ」

 

「……ふーん?」

 

「多分、竜胆が自分で料理するよりも、俺のサポートをしてくれた方が絶対いい料理ができるからさ」

 

 それは、第一席という頂点に立つ者だからこそ許される傲慢な宣言。

 だが、司の目には一切の濁りがない。彼にとってそれは罰ゲームでも屈辱でもなく、竜胆の類稀なる能力と自由な発想を誰よりも高く買っているからこそ出た、彼なりの最大限の「賛辞」だったのだ。

 

 絶対的な自信とエゴイズムを内包したその言葉を受け、竜胆は嬉しそうに目を細めた。獲物を前にした獣のように、にやりと鋭い牙を覗かせて笑みを作る。

 

「遊ぼうぜ、瑛士」

 

「そうだね。遊ぼうか、竜胆」

 

 司もまた、静かな闘志を宿した瞳で真っ直ぐに竜胆を見据え、戦うことを決めた。絶対王者たる司瑛士と、その隣に並び立ち続けた小林竜胆。

 決して刃を交えるはずのなかった最強の二人が、陣営を分かち激突する。誰も予想すらできなかった異常事態を前に、会場を包み込む熱気はもはや限界を突破し、爆発的な臨界点へと達していた。

 

 北の果て、礼文島。

 吹き荒れる猛吹雪すらも溶かし尽くすほどのすさまじい熱狂の中、遠月学園の歴史を覆す過酷な『連隊食戟』の幕が、今ここに切って落とされた。

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