もしも薙切薊の性格がマイルドだったら   作:作者さん

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4Bout

 礼文島の冷たい海風を遮るように、豪奢な造りの旅館の一室には静寂が広がっていた。

 部屋の中央に切られた囲炉裏では、赤々と熾った炭が時折パチリと爆ぜる音だけが響いている。薙切仙左衛門は、その炎の揺らめきをただ静かに見つめながら、座敷の奥で泰然と時が過ぎるのを待っていた。

 

「――3BOUTは、とうに始まっていますが。よろしいのですか?」

 

 不意に背後の襖が静かに開き、洗練されたスーツ姿の男――薙切薊が姿を現した。狂乱の熱気に包まれているはずの食戟会場から抜け出してきたとは到底思えない、涼しげで隙のない佇まいだ。それは二日目の連隊食戟の始まりよりも、仙左衛門との対話を優先したということだ。

 

「あぁ。彼らに全てを任せておる」

 

 振り返ることもせず、仙左衛門は囲炉裏の火を見据えたまま短く応じた。

 

「……なるほど。全てを任せられる理由。それは、彼らが『玉の世代』であるからですね」

 

 薊は探るような素振りすら見せず、完全な確信を持った口調でそう言い切った。

 

「総帥として赴任した当初から、奇妙だとは思っていました。今年の一年生には、例年に比べて突出した才を持つ料理人があまりにも多すぎる。それこそ……意図的に誰かが、多方面から『玉の原石』をこの遠月に掻き集めでもしない限りは、到底あり得ないほどの異常値だ」

 

 囲炉裏の赤々とした光を細めた目で見つめながら、薊は面白がるように小さく喉を鳴らした。

 

「もっとも、その規格外の集団の中に、あの才波城一郎の息子が同じタイミングで紛れ込めたことに関しては……流石に貴方でも計算しきれなかったただの偶然でしょうがね。ですが、結果としてそれすらも貴方の目論見を盤石にするための、最高のピースとして機能してしまった」

 

 仙左衛門はピクリとも表情を動かさず、薊の言葉に対していかなる返答も――肯定も否定も――示さない。ただ沈黙だけが、二人の間に重く横たわった。

 

 やがて、仙左衛門がゆっくりと口を開いた。

 

「薊。……貴様に一つ、伝えておかなければならないことがある」

 

 低く、だが確かな重みを持った仙左衛門の声。薊はわずかに目を細め、静かに耳を傾けた。

 ――仙左衛門の口から語られた『ある情報』。

 それは薊の予測すらも超えていたのか、常に泰然自若としている彼の整った顔立ちに、ほんの一瞬だけ意外そうな色が浮かんだ。

 

 しかし、それも束の間。薊はすぐに元の影を帯びた優雅な笑みを取り戻すと、深く頷いた。

 

「――なるほど。ならば、迎えに行かなければならないですね」

 

 声に潜むのは、微塵の動揺もない純粋な納得。そして薊は、静かに頭を下げた。

 

「情報をありがとうございます」

 

 その言葉には、皮肉も建前もない。ただ純粋に有益な情報をもたらしたことに対する、素直な礼賛があった。

 

 仙左衛門は、鋭い眼光で己の義理の息子を射抜いた。

 遠月の、いや、日本の食の未来そのものを懸けた連隊食戟の最中であり、下手をすれば今日にでもすべての決着がつこうとしているこの土壇場においてすら、薊の心の持ちようは微塵も揺らいでいない。

 狂気とすら呼べるその静けさを前に、仙左衛門は重く低い声で問うた。

 

「薊、……貴様は、全てを燃やし尽くすつもりか」

 

 パチリ、と。再び囲炉裏の炭が爆ぜる。

 その火の粉を見下ろしながら、薊は喉の奥で小さく笑った。

 

「フッ……」

 

そして、どこまでも穏やかで、氷のように冷たい声が座敷に響き渡る。

 

「貴方は『手緩い』のですよ、お義父さん」

 

――

 

 礼文島の静寂から一転、連隊食戟の会場は、肌を焦がすほどの熱狂と喧騒に包まれていた。

 第4BOUT。盤上に並び立ったのは、反逆者側と中枢美食機関(セントラル)側の最高戦力たち。

 3つの調理台で同時に進行する異次元の攻防は、観衆の目にそれぞれ全く異なる「戦場」の幻影として映し出されていた。

 

 幸平創真と斎藤綜明の領域に流れるのは、張り詰めた『静』である。

 幻影の中、静寂な竹林で二人の侍が向かい合っていた。大太刀を構え、微動だにせず相手の呼吸を測る斎藤に対し、創真は柄に手をかけたまま重心を低く落としている。放たれる斎藤の斬撃――調理技術はあまりにも鋭く、重い。一瞬でも隙を見せれば、その瞬間に首を落とされる。極限の集中力で相手の太刀筋を見切り、刹那のタイミングで踏み込む『居合』の機を、創真は血を吐くような思いで窺っていた。

 

 隣の調理台、小林竜胆と司瑛士の領域は、すべてを破壊し尽くす『動』の戦場だ。

 荒涼とした大地で、竜胆は獰猛な笑みを浮かべる蛮族と化していた。彼女が振るう未知の希少食材は、破壊力抜群の巨大な「斧」である。大地を割り、空気を裂く猛烈な連撃。しかし、そのすべてを涼しい顔で弾き返しているのが、白銀の甲冑を纏った『白騎士』たる司瑛士だった。どんなに凶悪な斧の一撃も、洗練の極みに達した司の優雅な「剣」の前では、決定打に至らない。

 

 そして、薙切えりなと茜ヶ久保ももの領域。

 そこには、ももが圧倒的な製菓技術で築き上げた、甘く、可愛らしく、それでいて難攻不落の『お菓子の城塞』がそびえ立っていた。綿飴の雲と飴細工の城壁。だが、えりなはその威容を前にしても一歩も引かない。絶対的な味覚の女王として凛と立ち、その巨大な城塞を理詰めと気品で完全に制圧していく『進軍劇』を繰り広げていた。

 

 三者三様の死闘。しかし、その均衡が崩れる瞬間は、最も張り詰めていた『静』の領域から訪れた。

 

(……くそっ、思考を止めるな! アタマ回せ……!)

 

 額から滝のような汗を流しながら、創真は鍋と向き合っていた。

 

 ――例えば美作が司と接触することなく、順当に反逆者側として参戦していた世界があったとしよう。そうであったとしたら、美作昴とのスパーリングを経て、斎藤の料理の完成形を「トレース」し、事前に対策を練り上げることができたはずだった。

 

 しかし、今回はそれが叶わなかった。創真は自分の調理を完璧に進めながら、同時に隣の斎藤の調理工程から完成図をリアルタイムで逆算し、自身のレシピをその場で再構築し続けなければならない。より良いものは何か、もっと良くするためにはどうすればいいか。それは美作と秋の選抜でぶつかったときと同じ、食戟中ですら諦めずに探究し続け歩み続けられる創真の強みだった。

 ――ここが連隊食戟の場で、相手が十傑第五席である斎藤でなければ、その強みは限界まで創真を酷使することはなかっただろう。

 

 脳が焼き切れるほどの思考の過負荷(オーバーヒート)。その限界は、あっけなく創真の身へと訪れる。

 

 創真が挑んでいたのは、焦がしバターの香ばしさと特製タレを極限まで融合させる、重厚な肉と海鮮の洋風和食だった。しかし、斎藤の圧倒的な刀さばきをリアルタイムで分析しながらの調理は、創真の思考を限界まで摩耗させていた。

 

「(クソッ……バターの乳化のタイミングが……ッ!)」

 

 焦がしバターの芳醇なコクとナッツのような香りを引き立たせるはずの工程で、加熱温度にコンマ数秒のズレが生じる。思考の過負荷による一瞬の遅れ。バターの油脂分が分離しかけ、旨味がまとまりを失う。このままでは濃厚さどころか、ただ重くくどいだけの「不完全な一皿」に成り下がってしまう。

 

 ぽたり、と。

 極限の集中を強いる熱気の中、創真の瞳を、前髪から滴り落ちた一滴の汗が濡らした。

不意の瞬き。僅かに視界がブレた、その時。

 

 ――幻影の竹林。

 侍(創真)の構えに生じたミクロの淀みを、斎藤の冷徹な眼光は決して見逃さなかった。

 静寂を破り、斎藤が動く。

 

「――隙を見せたな、幸平」

 

 鯉口を切る低い音が響き、抜き放たれた白刃が一閃する。無慈悲に振り下ろされる必殺の太刀。体勢を崩した創真には、もはや居合で応じることすら叶わない。

 斬られる――。

 創真がそう覚悟した、その刹那だった。

 

 ズドォォンッ!!

 

 二人の間に割り込むように、天から巨大な『斧』が轟音を立てて突き刺さったのだ。

 大地を砕き、斎藤の斬撃を強引に弾き飛ばした無骨で凶悪な一撃。

 

 現実の調理台では――。

 創真に生じた極限の破綻を、隣の戦場から野生の眼光で見抜いたのが竜胆だった。

 

 竜胆が手掛けていたのは、希少な珍味食材と『ヤリイカ』を組み合わせたダイナミックな極地風フレンチ。彼女の料理の絶対的な『核』となっていたのが、新鮮なヤリイカの肝(ワタ)に特殊な香草とスパイスを極密に練り上げた『ヤリイカの特製濃厚肝ペースト』だった。

 

「薙切! 頼む!」

 

 竜胆は、自身のヤリイカの旨味が凝縮されたそのペーストの大部分を、迷うことなくボウルごとえりなへ投げ渡した。

 

「――っ!」

 

 受け取ったえりなは、ひと舐めした瞬間に竜胆の真意と創真の窮地を同時に理解する。

 神の舌が弾き出した解。イカ肝が持つ圧倒的な旨味の濃厚さは、創真の分離しかけた焦がしバターの油脂を包み込み、引き締める完璧な『繋ぎ手』になる。

 

 えりなは即座に柑橘の爽やかな酸味と数種のスパイスを加え、ペーストを瞬時に乳化。創真のバターソースへ完璧に組み合わさる『特製イカ肝ブール・ブラン』へと再構成し、創真の元へ滑り込ませた。

 

「幸平くん!!」

 

「―――! おうっ!!」

 

 創真がそれを鍋のバターソースと叩きつけた瞬間、奇跡的な化学反応が起きた。

 分離しかけていた焦がしバターの芳醇な香りと、ヤリイカの肝が持つ強烈な海のコクが絶妙な酸味によって一気に結びつく。重みは霧散し、口の中に押し寄せるのは、幾重にも層をなす圧倒的な旨味の波。

 竹林の幻影の中で、隙を見せていた侍の刀が、焦がしバターとイカ肝の輝きを纏って再び閃光を放った。

 

 だが――その代償は、あまりにも残酷な形で竜胆に跳ね返る。

 

「……あーあ。やっちまったな、ホント」

 

 竜胆の調理台に残されたヤリイカは、肝という「深みとコクの核」を失っていた。

 通常であれば、ヤリイカの身の甘みとゲソの食感を活かし、別のハーブやオイルで味を再構築することは竜胆の腕なら十分可能だ。

 しかし、目の前に立つのは『絶対なる第一席』司瑛士。司が手掛けるヤリイカ料理は、余計な雑味を一切削ぎ落とし、ヤリイカという食材の甘みと繊細な繊維、純白の美しさを100%引き出した『ヤリイカのポワレ 〜白ワインとハーブの極上エミュルシオン〜』。

 

 食材への無償の愛が生み出す、完璧に磨き上げられた「無垢」の輝き。

 

 ヤリイカの肝という最大の牙を手放し、一から風味の補強を図ろうと奔走する竜胆の焦燥は、司の完璧な一皿の前ではあからさまな「隙」となって浮かび上がってしまう。

 

 荒涼たる幻影の戦場。

 

 武器であった巨斧の『核』を仲間へ投げ渡し、手元に残されたのは素手同然の牙と爪のみ。

 創真の綻びを救った代償として、自身の料理の柱を根底から失った竜胆は、荒い息を吐きながら己の調理台――司瑛士の待つ正面へと力強く向き直った。

 

 その瞳には未だギラつく野性が宿っていたが、観客の誰もが直感していた。

 最大の特徴を欠いたイカ料理で、あの『絶対なる第一席』の完璧に制圧された領域を突き崩すことなど不可能だと。自ら武器を捨て、無手のまま死地に踏み入ろうとする蛮族の姿を、白銀の甲冑を纏った騎士――司瑛士は、静かに見つめていた。

 

 司の瞳に浮かんでいたのは、蔑みでも勝利の驕りでもない。

 ただひたすらに深く、どこまでも澄んだ『哀しみ』だった。

 

 司にとって、食材を慈しみ、互いの極限を高め合う食戟の場こそが至高の聖域。そこに「味の崩壊」や「自己犠牲」という曖昧な妥協が持ち込まれること自体が、耐えがたい痛打だったのだ。全力を出し切れなくなった対戦相手に対する失望と、最高のぶつかり合いが叶わなくなったことへの、純粋すぎる喪失感。

 

「……竜胆」

 

 言葉には出さず、ただ胸の中で落胆を呟くように。

 白騎士は、一切の雑味を削ぎ落とし純白の美しさを極めた一皿を――剣を胸前に掲げた。

 

 それは戦場において、白銀の剣を静かに、けれど逃れようのない絶望的な威容をもって構える動作そのものだった。

 太陽の光を遮るほど高く掲げられたその刃。そこから零れ落ちる神聖なまでの重圧が、無手で立ち尽くす竜胆の頭上を冷たく、静かに覆い尽くしていく。

 あとはもう、引導を渡すための無慈悲な一閃を振り下ろすだけだった。

 

 白銀の剣が無慈悲に振り下ろされた、その刹那。

 

 ガキンッ!! と、幻影の戦場に重い金属音が響き渡った。

 

「――まだまだァ!!」

 

 剣を寸前で受け止めたのは、竜胆の腕を覆う無骨な手甲だった。

 絶対的な死の気配を前にしてもなお、竜胆の瞳は野生の獣のようにギラギラとした飢えた光を放ち、至近距離から白騎士を、司を睨みつけている。

 

 現実の調理台。イカの肝という最大の『核』を手放した竜胆の腕は、決して止まっていなかった。

 彼女は瞬時に次なる手を打つ。肝の強烈なコクと深みを補うため、彼女が取り出したのは希少食材のスペシャリストたる彼女ならではの隠し玉――『アマゾン産ワニ肉のラルド(熟成背脂)』と『イカ墨』だった。

 野性味あふれるワニ肉の濃密な脂に、海から引き上げたイカ墨の漆黒の旨味をぶつける。極限の熱とスパイスで強制的に乳化させ、失われたイカ肝の風味を別の形で、より凶暴に、より完璧に近い形へと再構築していく。

 

(……でも、足りねぇ)

 

 猛然と鍋を振りながらも、竜胆の頭の中は残酷なほどに冷静だった。

 どう足掻いても、司瑛士には届かない。その理由が、氷水のように次々と脳裏に湧き上がってくる。

 

 第一に、第3BOUTを経て、司自身がさらに己の料理の境地を先に進めてしまっていること。

 第二に、先ほど創真を助けるために生じた、自身の料理の明確な瑕疵、タイムロスと仕込みの不足。

 第三に、覆しようのない元々の純粋な実力差。

 

 そして何より――この死闘も、足掻きも、すべてが『あの男の掌の上』であるという絶望的な事実。

 

 焦がれるような熱気の中で、竜胆の脳裏に、かつて薙切薊と交わした会話がフラッシュバックする。

 

 『なぜセントラルを作ったのか』。そう問い詰めた竜胆に対し、薊が明かした十数文字の真実。

 

『――――、――――』

 

 その言葉ののち薊は「自分は一つだけ嘘をついた」と語った。

 

 一般生徒たちや、セントラルに所属する者たちに向かって、薊はかつてこう言った。『君たちを誰一人、捨て石にはしない』と。

 

 だが、その言葉こそが、彼が吐いた唯一の嘘だった。

 

 

 

『君たちは、捨て石だ』

 

 

 

 薊は笑みすら浮かべず、平然とそう言い放ったのだ。

 

『セントラルという仕組みを作った理由……それはね、竜胆。遠月で最も優れた料理人を研鑽するための、“捨て石”となる料理人を育てるのに、最も効率がいいからだ』

 

 そこに慈愛や教育的理想など微塵も存在しない。

 優秀な料理人が何人いようと構わない――いや、多ければ多いほどいい。それらはすべて、たった一つの至高を研磨するための「より多くの砥石」になるのだから。

 

 かつて付き人という枷から解き放たれ、一人の料理人として目覚ましい大成を遂げた新戸緋沙子に対して、薊がわざわざ気を遣い、目をかけていた理由すらそこにあった。才能ある者を評価したのは事実で――しかしそれだけではない。彼女もまた、薊にとっては磨かれるべき玉の刃を研ぐ「より上質な捨て石の一人」に選ばれたに過ぎなかったのだ。

 

『落ちこぼれを救済するという理念も、その中から捨て石になる資格のある者を探し出すため。この国の食のレベルを底上げしようとしたのも、その中であればやがてより優れた料理人を……すなわち、私の考える遠月の一番の料理人を磨き上げるための、極上の砥石にできるだろう?』

 

 伝統や学園の理念、あるいは自治組織の存続など、彼にとっては心底どうでもいい戯れ言に過ぎない。

 一般生徒が自治組織を護るために立ち上がったという現実は、セントラルという組織の質を高めるための礎石だ。そしてそのセントラルの生徒すらも、自治組織の中から存在していた、さらに優秀な「砥石」を選抜するためだけに機能している。

 

『一般生徒たちも、セントラルの者たちも。十傑の君たちも、遠月という学園の歴史そのものも……全ては、私が思うたった一つの玉を磨くための捨て石に過ぎないんだ』

 

 そこで一度言葉を切ると、薊は小さく首をかしげ、心底不思議そうに竜胆へ視線を向けた。

 なぜそのような不満げな顔をされるのか本気で理解できないと言いたげな、どこまでも穏やかで、それゆえに狂悪な表情で。

 

『私の目的のために君たちを利用している……だが、それが何か悪いことかい? 現に落ちこぼれと呼ばれるはずの者たちは這い上がるチャンスを得た。君たちは、セントラルという仕組みの中で最も効率的な研鑽を行い、以前より遥かに優れた料理人へと至っている。……それは紛れもない事実だろう?』

 

 その恐るべき真意を聞かされた時、竜胆は腹を抱えて爆笑し……その直後、絶対零度の顔で「笑えねぇ」と吐き捨てた。

 

 自分たちの情熱も、努力も、周りの環境の全てが、初めからただ一つの玉を輝かせるための「捨て石」として扱われている無力感。

 そして何より竜胆を絶望させたのは、その磨かれるべき『遠月で最も優れた料理人』――『遠月で一番の料理人』こそが、他ならぬ司瑛士であると竜胆は理解した。また純粋に料理の極致だけを求めるアイツにその事実を伝えたところで、全く意味がないと知ってしまったのだ。

 

(あたしらは全員、司を光らせるための泥なんだとよ。……ホント、笑えねぇ)

 

 現に、その『研鑽』という結果は3Boutにおいて明確な形となって現れた。

 司瑛士は連隊食戟という極限の場で、料理人としてさらに一歩先の領域へと至ってしまったのだ。

 

 つまり――反逆者側とセントラルの多くの思惑が交錯し、遠月学園の命運すら懸けられているはずのこの連隊食戟すらも、薊にとっては司瑛士というただ一つの玉を研磨するための「極上の捨て石」に過ぎなかったのだ。

 セントラル側が一人だけ選出を要求、つまり司だけで反逆者たちを処理しなかったのは、それが『もったいない』からだ。セントラル側の戦力も全て投入しインスピレーションを出させるための砥石として利用した。

 

 そう考えてみれば、次々と薊の不気味な行動の意図に竜胆は納得してしまう。

 連隊食戟に至るまでの間、薊は竜胆を執拗に煽り、反感を買うような扱いをし続けてきた。それもすべて、小林竜胆という奔放で強大な存在が、司を研磨するための「砥石」としてあまりにも都合が良かったからに過ぎない。

 

 自分が考え、自分の思いのままに、ただ面白さを求めて自由に動いていたはずだった。

 しかしそのすべてが、初めから薊の掌の上で完璧にコントロールされていたのだと――そう気づいてしまった時、竜胆は己の足元がガラガラと音を立てて崩れ落ちていくような、底知れない絶望感に囚われた。

 

 暗闇に沈みかける竜胆の心。

 

(……そうさ。諦めればいいって、ずっと思ってたんだ)

 

 この進級試験に挑んだ反逆者たちにだってそうだ。

 たった一つの玉を磨く『砥石』になるための理不尽な試練を与えられ、仲間を次々と落とされながらも、それでも愚直に足掻き、先に進んでいく後輩たちを見て。

 この遠月という場所の仕組み自体が、結局は最も優れた一人の料理人を頂点に据えるための場であり、そんなことのために無駄に苦しみながら歩かなくてもいいだろうと。

 一席になる者を輝かせるための犠牲にならなくとも、適当に折り合いをつけて自分なりの居場所を見つければいい。

 あのとき後輩たちに出した救い船は、そんな思いから来たものだった。

 

 しかし、その冷たい泥の底に、あっけらかんとした馬鹿げた声が響き渡る。

 

『竜胆先輩の考える一番の料理人は、りんどー先輩自身だろ』

 

 その意味の言葉を突きつけられた時の、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を思い出す。

 遠月の残酷なシステムも、圧倒的な実力差も意に介さず、ただ『自分が一番だと信じろ』と言ってのけた傲慢で、恐ろしいほどに真っ直ぐな少年の瞳。それが、妥協で塗り固めていた竜胆の心の殻を、あっさりと粉砕したのだ。

 

「…………っ」

 

 弱気になり次々と湧いてくる言い訳を、全て一度に踏みつぶすように一歩、踏み込んだ。

 

 そうだ。

 今自分が薊の掌の上で踊らされていようが、司のための捨て石として扱われていようが、そんなことは関係ない。それが、自分が『一番の料理人』を目指さない理由にはならない。

 

 何より――あの時、自分の背中を押してくれた生意気で可愛い後輩(創真)の背中が、すぐ隣にあるのだ。

 

(後輩、にカッコ悪いところ、見せらんねーじゃんかよ!)

 

 様々な思惑があるのだろう。だが、今自分が前に進む理由なんてものはそれだけでいいのだから。

 

「っらぁあああ!!」

 

 竜胆は顔を上げ、獰猛な笑みを浮かべた。

 自分が捨て石だろうがなんだろうが構わない。新しく作り上げたこの牙で、盤上ごとすべてを叩き壊してやる。

 バーナーの炎が轟音を立てて噴き上がり、竜胆の瞳に、決して消えない反逆の炎が再び燃え盛った。

 

――

 

 ――竹林の幻影の中、天から振り下ろされた巨斧が斎藤の完璧な太刀筋を強引に弾き飛ばし、その巨躯を大きく揺らがせた。

 

 生じた絶大なる隙。創真の刃が焦がしバターとイカ肝の強烈な輝きを解き放ち、閃光となって斎藤を斬り伏せる。

 

 だが、余韻に浸る間などない。創真は倒れ伏す武士に背を向け、猛然と隣の戦場へと駆け出した。

 その視線の先に広がっていたのはあまりにも残酷な光景だった。

 

 ボロボロになり、牙も爪も砕かれ倒れそうになる竜胆。そしてその身体を、抗う術すら奪うように静かに抱きかかえる白騎士――司瑛士の姿だった。

 それはただ介抱しているのではない。竜胆の意志や自由を完全に奪い去り、己の至高の料理を磨き上げるための「従属物」として完全に鹵獲したかのような、圧倒的で冷酷な支配の光景。

 

 目の前の異様な光景に、創真は思わず足を止め、息を呑んで立ち尽くした。その背後から、敗れ去った斎藤の重々しい声が響く。

 

「――前を向け」

 

 斎藤は刀を納め、静かに創真の背中を見つめていた。

 

「どのような方法であれ、俺に勝ち、想いを託されたのであれば……ここで足を止めている暇などないはずだ。違うか、幸平」

 

「……あたりまえっすよ。ありがとうございます、斎藤先輩」

 

 創真は一度目を閉じ持ち直し、目の前の絶対王者へ向けて力強く一歩を踏み出した。

 

 

 

 同時刻、現実に引き戻された会場では、WGOの審査員たちが重々しく提示した結果を宣言していた。4BOUT、司瑛士と小林竜胆の死闘は――審査員全員一致による、司瑛士の完全勝利。

 

「……もしも小林さんの料理が、イカ肝を損なわない完全な状態であったとしても、この結果自体は変わらなかったかもしれない。……だが、決して3人一致での勝利とはならなかったでしょう」

 

 静かな会場に響くアンの言葉は、竜胆の払った犠牲の大きさと、土壇場で見せた彼女の底力をなによりも雄弁に物語っていた。

 

「あーあ、負けたかぁっ!」

 

 調理台に突っ伏した竜胆は、バサバサと豪快に髪を掻きむしり、隠すことなく悔しさを爆発させる。しかし、次の瞬間には勢いよく顔を上げ、「ま、やれるだけのことはやったしな!」と、どこか憑き物が落ちたように晴れやかに笑ってみせた。

 

 そんな彼女の元へ、司がおずおずと歩み寄ってくる。盤上で見せた冷酷なまでの支配力はどこへやら、いつもの気弱で頼りない足取りだ。

 

「その……昨日言った通り、今度からは俺の料理のサポートをしてもらうんだけど……」

 

「おいおい司、それはまだ分かんないぞー?」

 

 敗北を喫した直後だというのに、竜胆はけろりとした顔であっけらかんと笑い飛ばした。

 

「何しろ、まだそーまとえりなが残ってるんだからなっ!」

 

 まだ勝負は終わっていない。そう確信に満ちた声で、創真たちの背中を真っ直ぐに指差す竜胆。だがその眩しそうな横顔を見つめる司の瞳には、ひっそりと冷たい陰りが落ちていた。

 彼はぽつりと、微かな棘を帯びた声で呟く。

 

「……竜胆はさ、幸平みたいな料理の方がいいの?」

 

「??? 司、お前なに言ってんだ……?」

 

 竜胆は本気で呆気にとられ、素で首をかしげた。

 陣営の存亡や勝敗の行方を語っているこの場面で、どうして急にそんな場違いな問いが飛んでくるのか。彼女には全く理解が及ばなかったのだ。

 

「……あれ。そう、だね。何言ってんだろ、俺」

 

 当の司自身も、なぜ自分の口からそんな言葉が零れ落ちたのか理解できず、困惑したように己の白い手元をじっと見つめ直す。

 ただ、己の完璧な世界よりも、あの荒削りな少年の背中に心を躍らせる姿が――どうしようもなく、彼の純白の心をざわつかせていた。

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