もしも薙切薊の性格がマイルドだったら 作:作者さん
連隊食戟、最終決戦(Final BOUT)。
運命を決めるこの舞台において、十傑第一席・司瑛士と、美作昴の陣地を支配していたのは、底知れぬ「静寂」だった。
「…………」
言葉は、一切交わされない。その必要がなかったからだ。
美作の巨体が、まるで司の影法師のように厨房を滑る。彼は己の自我を完全に消し去り、『パーフェクト・トレース』によって司瑛士の思考と完全に同期していた。
美作の手元では、前菜である『純白のテリーヌ』が寸分の狂いもなく組み上げられていくと同時に、メインディッシュのためのグラン・ヴヌールソースが、司が思い描く「理想の濃度」へ向けて寸分違わず煮詰められていた。さらには、鹿肉を包むための塩と香草のブレンドまでもが、司の呼吸に合わせるかのように先回りして用意されていく。
「……流石だな」
タクミや恵――反逆者たちは、その光景を前に冷や汗を流し、言葉を失っていた。
司瑛士の料理の真髄は、己を消し、素材の良さを100パーセント引き出す絶対的な純度にある。しかし、それゆえに彼は、調理の全工程をたった一人で完璧に統制しなければならないという重圧(リスク)を抱えていた。
だが今、その枷は既に外れている。
美作昴という、完璧に寄り添い、完璧に下準備をこなす「究極の影」を得たことで、司は己の全神経を、メインディッシュである『鹿肉の火入れ』と素材の対話のみに没入させることができていた。
「司先輩の技術に、美作くんのよる完璧なサポートとアレンジ……。二人の長所が、一切ぶつかり合うことなく螺旋状に高まり続けてる」
一色が納得すら浮かべた確信じみた表情で呟く。
「あれはもうかつての司先輩じゃないね。無限に進化し続ける、手出し不可能な『完璧な城』だ」
盤上を支配する、圧倒的な完成度。
息を呑むような美しさと、そこから生み出されるであろう「致死量の美味」の予感が、冷たい絶望となって反逆者組の頭上から重くのしかかる。
勝てるわけがない。あんな次元の違う料理に、どうやって立ち向かえと言うのか。
反逆者側の殆どのメンバーの頭にその思いがよぎり、重苦しい空気に飲まれかけた、その時だった。
パンッ!!!
空気を物理的に引き裂くような、甲高い破裂音が響き渡った。
静寂に支配されていた会場の視線が、一斉に音の発生源へと向けられる。
「――っし。エンジンあったまってきたぜ」
そこには、両手で思いきり自身の頬を張り飛ばし、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる幸平創真の姿があった。彼は手首に巻いていた白いトレードマークを解き、キュッと音を立てて額に結び直す。
その瞳には、目の前で組み上げられていく絶対的な「城」への絶望など、微塵も存在していない。あるのはただ、未知の美味と強敵を前にして疼く、料理人としての純粋な飢えと闘志だけだった。
「なぁ、薙切。あっちの二人は前のお前みたいに、すっげーお上品にまとまってるみたいだけどよ」
「そうね……一言余計だとは思うけれど」
創真の隣に立つ薙切えりなもまた、長く美しい金糸の髪をふわりと払い、まな板の前に歩み出る。
かつての氷の女王としての冷たさはなく、その横顔には、隣に立つ相棒への絶対的な信頼と、自身の「神の舌」への揺るぎない矜持が燃え盛っていた。
「私たちは私たちで、勝手にやらせてもらうわ。……貴方のその小賢しいアイデア、私の皿の上で完璧に御して見せるから、せいぜい必死に食らいついてきなさい」
「へっ、言うねえ。後で『美味い』って言わせてやるから覚悟しとけよ!」
「言わないわよ、君の料理じゃあね」
静寂と調和の極致をゆく十傑陣地に対し、反逆者陣地から立ち昇ったのは、互いのエゴをぶつけ合い、より高みへと強引に引き摺り上げようとする荒々しい熱風だった。
「行くわよ、幸平くん」
「おう」
絶望の空気を一蹴し、二人の料理人が同時に包丁を握り直す。
最終決戦――真の火蓋が、ここに切って落とされた。
二人が動き出した瞬間、厨房の空気が一変した。
司と美作の陣地が一点の淀みもない「静寂の城」であるならば、創真とえりなの陣地から放たれるのは、荒れ狂う「暴風」だった。
「そっちはどうだ、薙切!」
「ええ、地鶏の処理は完璧よ。フォアグラの血抜きも終わっているわ」
「よっし、なら前菜のベースは俺がパパッと仕上げちまうぜ!」
創真の手元では、色鮮やかな数多の野菜が踊っていた。ズッキーニ、パプリカ、ブロッコリー。それぞれの野菜が持つ甘み、苦み、食感を極限まで引き出すための個別火入れ。それはかつてスタジエールで『レギュムの魔術師』四宮小次郎から叩き込まれた、フレンチの繊細かつ高度な技術だ。
だが、創真はただの優等生で終わるつもりはない。
手早くキャベツで野菜の層を包み込み『シューファーシ』を組み上げながら、彼は隣のコンロで煮詰めていたソースを小皿に掬い取った。
「おい薙切! ちょっとこれ味見してくれ!」
「ちょっと、私は今メインの下処理を……」
「いいからいいから! 熱いうちに!」
強引に口へ運ばれ、えりなは不快げに眉間に皺を寄せる。だが、その舌がソースを一滴味わった瞬間、彼女の瞳が驚愕に見開かれた。
フレンチのコンソメをベースにしながらも、そこに焦がし醤油と柚子、さらには和風濃縮出汁が暴力的なまでのパンチを加えている。
定食屋特有の親しみやすさと下品さ。だが、とてつもなく美味い。前菜でありながら、次の主菜(重厚な肉料理)を強烈に欲しがらせるような「飢え」を引き起こす凶悪な味だった。
「……柚子の香りが0・2パーセント強すぎるわ。和出汁の旨味とぶつかって輪郭がぼやけている。あと、食感に出すつもりの『あられ』は、今のままじゃキャベツの水分を吸って台無しになるわよ。ローストの時間をあと15秒短くして、油分を纏わせなさい」
「なるほどな! サンキュー、完璧に調整するぜ!」
えりなの『神の舌』から弾き出される容赦のないダメ出し。普通なら心が折れるほどの細かな指摘を、創真はニヤリと笑って一瞬で吸収し、鍋のチューニングを修正していく。
思考を止めない創真の執念と、えりなの絶対的な味覚の導き。
二人のやり取りは、まるで激しい乱取り稽古のようだった。創真が粗削りだが爆発力のあるアイデアを全力でぶつけ、えりながそれを『神の舌』で完璧な芸術品へと練り上げ、突き返す。
「ねぇ幸平くん、主菜のバロティーヌに合わせるソースだけど……」
「ああ! そっちにはコレを使おうぜ。俺の特製、『焦がしピーナッツバターとイカゲソの濃縮出汁』だ!」
「……は? 貴方、正気なの!? 昨日予定していた内容と全然違うじゃない!?」
「つべこべ言わず舐めてみろって!」
再び強引に味見をさせられたえりなの顔が、今度こそカッと朱に染まる。
(……っ! ピーナッツの香ばしい油脂分と、イカのアミノ酸が、地鶏の野性味とフォアグラのコクを何重にも爆発させる……! なんなの、この化学反応は……!)
悔しいが、認めざるを得ない。このふざけた隠し味は、彼女のバロティーヌを未知の次元へと引き上げる『鍵』だ。
「……チッ! 使ってあげるわよ! ただし、分量も火入れも、合わせるロワイヤルの比率も、全て私が再計算するわ! 貴方の生半可なアイデアの何倍も美味しくして見せるから、遅れないでついてきなさい!!」
「上等だ! やっぞ薙切!」
その光景を目の当たりにした観客席の反逆者たちは、息を呑んだ。
司と美作が、互いの自我を消して一つの究極を目指す『静の進化』なら。
創真とえりなは、互いのエゴを剥き出しにして正面から激突し、相手の想像を越えようと前へ前へと強引に引き摺り合う『動の進化』。
「すごい……」
丸井が震える声で呟く。
「あの司先輩と美作の『完璧な城』という最強の壁に……幸平と薙切は、力ずくで喰らいついていってる……!」
極限のプレッシャーの中、無限にギアを上げていく二人の天才。盤上の温度は、今まさに最高潮へと達しようとしていた。
審査員席では、WGOの執行官たちが異様な熱気に包まれていた。
「見事……! まさに見事というほかないですよ、イストワール!」
「その通りだ、シャルム! 司シェフの圧倒的な火入れと素材へのアプローチ……そして美作シェフの恐るべき先回り! 二人の手によって組み上げられていくコースは、すでに一過性の料理の域を完全に超えている!」
興奮気味に実況と解説を交わす二人。だが、その隣に座るアンだけは、言葉を発していなかった。
彼女は手を握りしめ、青ざめた顔で調理場を凝視している。
(……恐ろしい。司くんの絶対的な技術に、美作くんの完璧なアシストが加わったあの料理……あれは既に、極致に、私たちが想像すらできない場まで到達できると想像ができてしまう。……。もし、幸平君と薙切さんが――)
アンの額を、一筋の冷や汗が伝い落ちる。
その審査席の中央で、薙切薊が優雅に足を組み、小さく息を吐いた。
「フッ……この様子では、これを『食戟』と呼ぶ意味すら、もう無いのかもしれないね」
静かな、しかし会場に良く通る声。
「勝ち負けやセントラルの存亡、そんな世俗的な価値観など……あの盤上に立つ4人はすでに置き去りにしている。ただ己の料理の頂点を刻むことだけに、魂を注ぎ込んでいるのだから」
薊の言葉に、隣に坐す薙切仙左衛門は何も答えない。ただ静かに目を閉じ、沈黙を保っている。その瞳には薊の言葉に対する肯定は存在しなかった。
「……それにしてもさ」
観客席で身を乗り出していた吉野が、ふと疑問を口にした。
「幸平がさっくりと前菜の役割に回って、えりなちゃんのサポートに徹してるのって、なんか意外じゃない? 昨日もずっと『自分がメインを張る!』って聞かない奴だったのに」
「ああ……確かに」
佐藤や青木も首を傾げる。あの我が強く、目立ちたがり屋の創真が、土壇場で素直に引き下がったことに違和感を拭えずにいた。
だが、その横顔を見つめる一色やタクミたちは、昨夜の試作風景を思い出していた。
――決戦前夜、極星寮の厨房。
「ハぁ!? なんで私が貴方の前菜のサポートに回らなきゃいけないのよ! 主菜は私に決まってるでしょう!」
「何を〜っ!? 俺の試作した肉料理だって完璧だったろうが! 俺がメインだ!」
お互いに一歩も譲らず、激しく火花を散らす創真とえりな。
「はいはい、お二人さんケンカはおやめー! ……って言いたいとこだけどさ」
ひょっこりと顔を出した久我照紀が、ニヤニヤしながら軽口を叩く。
「美作と司先輩の連携、結局崩せなかったもんねぇ。……竜胆先輩が倒しておいてくれれば、こんな苦労しなくて済んだのにー?」
「あァ〜〜〜っ!? 言ってくれるじゃねえか久我ァ!」
すかさず竜胆が久我の首を強烈に抱え込み、頭にぐりぐりと拳を押し付けた。
「悪かったっての! でも仕方ねえだろ、あの時の司の奴、キレッキレだったんだからよー!」
「痛い痛い! りゅーたん先輩、本気で痛いから!!」
「ふふ」と肩をすくめたのは一色だ。
「あれだけ楽しそうに料理をしている司先輩と美作君だ。今の彼らは無敵と言ってもいい。料理を楽しむ気持ちこそが、料理人に最も必要な力だからね」
「小細工や対策が通じる段階ではない。小細工なしでぶつかるべきだな」
女木島が短く断言すると、頭を押さえた久我がバッと指示を出した。
「これさ、船頭が多くちゃ船が山に上っちゃうよ。全員でワイワイ口を出したって、このバカ二人の思考が散らかるだけで意味ないでしょ」
久我は厨房に集まっていた面々を見回すと、てきぱきと指をさしていった。
「ってことで! タクミ、恵ちゃん、一色先輩に竜胆先輩……ま、一応アリスちゃんもね。この5人だけサポートに残って! 俺を含めて残りのメンバーは退散退散!」
「えっ、久我先輩!? 私たちも手伝います!」
「おい久我先輩、俺たちを追い出す気か!」
口々に声をあげる吉野や青木たちの背中を、久我はぐいぐいと押し出していく。
「いいからいいから! チームワークとサポートの精鋭に絞った方が絶対効率いいって! ほら、女木島先輩も行くよー!」
「……ふむ。一理あるな」
女木島も短く同意し、久我は吉野や丸井、佐藤、青木たちを引き連れて、手際よく厨房をあとにした。
ドアがバタンと閉まり、静かになった厨房に残されたのは――創真とえりな、そして久我に指名されたタクミ、恵、一色、竜胆、アリスの5人だった。
「ふふ、まあ確かに、久我くんの言う通りかもしれないね」
一色が穏やかに微笑み、袖を捲り上げる。
「僕たちなら、二人を的確にサポートできる。さあ、最高のコースを作り上げようか」
「よっしゃ! 竜胆先輩もアリスも、手貸してくれ!」
「任せときな、幸平! 司の鼻をあかす料理、とことん付き合ってやるよ!」
残された精鋭たちの完璧なアシストのもと、夜遅くまで幾度となく試作と衝突が繰り返された。
そうして幾度目かの試作を終え、荒い息を整えていた二人に、一色がふと穏やかな声をかけた。
「……ねぇ、ふたりとも。司先輩と美作君は、多分セントラルの勝利だとか勝負の行き末にはもう興味がないんだ。ただ純粋に、あの舞台で環境を活かして料理を楽しんでいる」
その指摘に、二人は息を呑んだ。打倒十傑、セントラルへの勝利。その強烈な目的意識に突き動かされてここまで来たが、もし相手がその土俵にすらおらず、ただ純粋な『個』として極上の皿に向かい合っているのだとしたら。立ち止まった二人に、一色の通る声が静かに降り注ぐ。
「それなら相手に『勝ちたい』という思いを抜いたとき、君たちには何が残るんだい? 何のために、この料理を作るのかな?」
静まり返る厨房。
創真は少し首を捻り、ポンと手を打ち合わせた。
「んー……たぶん、こいつに『美味い』って言わせたいっすね」
「……え?」
えりながピタリと動きを止める。
「全員の運命だとか、色々と背負ってるのはあるんだろうけれど。でも勝ち負けに付随するそういうのを全部取っ払った時……一番に出てきたのはそれだった」
「な、ななな何を言っているのよ貴方はっ!?」
顔をカッと真っ赤にして狼狽するえりな。
「あら〜 幸平くんったら素直〜!」
すかさずアリスがニマニマとえりなを突つき、竜胆も「ヒュー! 言ってくれるじゃねえかそーま!」とニヤニヤしながらえりなの肩を小突く。
恵は「ほ、ほんとにまっすぐなんだから創真くんは……」と照れくさそうに微笑み、タクミも呆れつつもどこか嬉しそうに鼻を鳴らした。
「で? 薙切はどうなんだよ」
創真のまっすぐな視線を受け止め、えりなは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
――
創真とえりなの手元から、眩いばかりの香りと熱気が溢れ出す。
前菜と主菜――二つのコースが、ついに完成の時を迎えようとしていた。
会場に響きわたるドラの声と同時に、両陣地から猛烈な蒸気と、芳醇極まりない香りが爆発的に立ち昇った。
「出来たぜ! 幸平・薙切特製──『必殺のコース料理』だ!」
「お待たせいたしましたわ。審査員の皆様」
汗を拭い、不敵に笑う創真と、気品漂う笑みを浮かべ美しく一礼するえりな。
それとほぼ同時に、十傑陣地からも静かに二つの皿が押し出される。
「俺たちの料理も……完成だ」
司瑛士の繊細な声。その傍らには、まったく同じタイミングで、完璧な所作で一礼する美作昴の姿があった。
盤上に並べられたのは、まさに現代フレンチの最高峰と呼ぶにふさわしい、双方の渾身のコース。
「さあ……審査員の皆様! 召し上がれ!!」
WGOの執行官たちが、生唾を飲み込みながらフォークとナイフを手にする。
まずは司と美作のコースからだ。前菜『純白のテリーヌ』から、主菜『鹿肉のロティ〜グラン・ヴヌールソース〜』へ。
「お……おおお……っ!?」
ナイフを入れた瞬間、イストワールの瞳が大きく見開かれた。
鹿肉の断面から溢れ出すのは、血の臭みを一切感じさせない、極限まで高められた生命の芳香。口に含んだ瞬間、圧倒的な「純度」が脳髄を直接揺さぶる。
「なんという……なんという圧倒的完成度……! 鹿肉という個性の強い素材が、極限まで研ぎ澄まされた火入れによって、一切の雑味を削ぎ落とされている!」
「それだけではない! 美作シェフによる先回りしたソースと付け合わせの調和が、司シェフの意識を一切狂わせることなく、旨味の輪郭を何倍にも拡大している……!」
WGOが誇る最高級の審査員たちが、司たちの創り出した「絶対の城」の中で、抗う術もなくその美味にひれ伏していた。
「素晴らしい……! 素材の声を聴き、その魅力を100パーセント引き出す。まさに司瑛士という料理人の到達点だ……!」
イストワールが感極まった声を張り上げると、隣のシャルムも興奮を隠しきれずにフォークを握り直した。
「それだけではないぞ! 前菜から主菜へと至るストーリーが見事すぎる! 先ほどの『純白のテリーヌ』で口内を満たした透き通るような旨味の余韻が、この鹿肉の力強い肉汁を受け止める完璧な『土台』となっているのだ! まるで澄み渡る深山幽谷の森の中を歩んでいるかのような錯覚覚える……!」
「ああっ……! 食材たちが……食材たちが喜んでいます……っ!」
アンは胸に手を当て、恍惚の表情で涙すら浮かべていた。
彼女の脳裏に浮かんでいたのは、静寂の森で優雅に跳ね回る野生の鹿の姿。エゴや雑味といった人間の身勝手な主張が一切排除され、素材本来が持つ命の輝きだけが、皿の上で純白の光を放っている。
「料理人が食材を従わせるのではない。食材そのものの『声』に耳を傾け、その美しさを極限まで磨き上げる……。これこそが、司瑛士シェフの『絶対の純度』……! ひとくち噛み締めるたびに、心が洗われていくような神聖さです……っ!!」
アンの身体を包む純白のドレスが、イメージで弾け飛んだ衝撃の余韻で美しく揺れる。WGOの審査員たちが揃って吐き出すのは、溜息のような感嘆の吐息だった。
「ふふ……驚異的だな」
審査員席の中央で、薙切薊が目を細め、静かに呟いた。
「司くんの『素材への奉仕』は、本来ひとりの人間が背負うにはあまりに過酷な領域だ。全神経を細部まで張り詰めさせねばならず、わずかなブレすら許されない。だが……美作くんという完璧な『鏡』を得たことで、彼の精神は完全に解放された」
薊は皿に残された完璧な火入れの肉片を見つめ、どこか満足げに言葉を継ぐ。
「これこそ、私が追い求めた美食のひとつの完成形……。迷いも、雑音も、不完全さも存在しない、絶対的な秩序の果てにある『理想郷』だ」
観客席の反逆者たちからも、絶望に近い息を呑む音が漏れていた。
「あ、ありえないよ……」
吉野が震える声で呟く。
「司先輩の料理って、前見たときよりもずっと……透き通ってて、なのに圧倒的で……! 美作くんのサポートがあるおかげで、隙なんてコンマ1ミリもなくなってるじゃない……!」
「……ああ」
タクミ・アルディーニが苦々しく拳を握りしめる。
「食材の持つ魅力を100パーセント引き出す……口で言うのは易いが、それを完璧なコースとして昇華させている。美作が司先輩の完璧な影となり、一切のタイムラグなしで先回りしているからこそ実現できた、究極の『二人一役』だ」
「……流石だな、司」
元第三席の女木島も、静かに目を細めてその皿を称えた。
その重苦しい絶望の空気を決定づけるように、これまで沈黙を保っていた薙切仙左衛門が、深く、地鳴りのような声で口を開いた。
「……司瑛士の『己を消す』という異端の才。そして、美作昴の『完全に寄り添う』という特異な才。その二つが完全に噛み合った結果、生み出されたこのコースの完成度は……凄まじいの一言に尽きる」
仙左衛門は腕組みをしたまま、カッと両の眼を見開き、盤上の皿を射抜くように見据えた。その圧倒的な威圧感に、会場の空気がさらに一段階、ピンと張り詰める。
「現在の美食界の最高峰ですら到達し得ない、遥か彼方の次元……。この皿は紛れもなく、数世代先の料理であると言えるだろう」
『食の魔王』による、最大級の賛辞と確信に満ちた断言。
司瑛士という天才が、美作昴という無二のピースを得て到達した、完璧なる「静寂の城」。
審査員全員がそのあまりの神聖さと完成度に酔いしれ、会場全体が静かな感動と敗北の予感に完全に支配されそうになっていた──その時だった。
「──ふぅ」
静かに息を吐きながら、創真が前菜の皿を審査員たちの前に押し出した。
「審査員のみなさん。次は俺たちの番だぜ」
盤上に置かれたのは、色鮮やかな野菜が美しくキャベツに包まれた一品。
「ゆきひら・薙切特製、前菜の『和風コンソメレギュムのシューファーシ』っす。熱いうちにどうぞ」
先ほどの司と美作の神聖な余韻が残る中、イストワールが静かにフォークを伸ばし、キャベツの包みを切り分ける。瞬間、立ち上ったのはフレンチの気品と――どこか懐かしい焦がし醤油と柚子の強烈な香気だった。
「む……!? これは……っ!?」
口に運んだ瞬間、イストワールの顔色がガラリと変わった。
丁寧に個別の火入れを施された野菜たちの食感と甘みが弾ける。だがそれ以上に彼らを驚愕させたのは、コンソメに仕込まれた強烈な「パンチ」だった。
「な、なんだこの和出汁の旨味と柚子の切れ味は……! 前菜でありながら、舌の味蕾を力ずくでこじ開け、暴力的なまでの『飢え』を叩き込んでくる……!!」
「ええ……っ! 舌が……体が……次の『肉』を、主菜を求めて叫び出してしまう……っ!!」
司たちのコースが、心身を浄化する「静寂の森」だとするならば。
創真の皿は、食べる者の理性を吹き飛ばし、味覚を強引に引き摺り回す「荒れ狂う暴風」だった。
「だけど……ただ荒々しいだけではありません!」
アンが上気した顔で、フォークの先を見つめながら叫ぶ。
「この強烈な和の旨味の暴力を、中に包まれた野菜(レギュム)たちがしっかりと受け止め、見事な調和を生み出している……! ズッキーニ、パプリカ、ブロッコリー……一つ一つの野菜の甘みと食感を極限まで引き出すための、精緻を極めた個別火入れ!」
「ええ……! キャベツの包みに閉じ込められたこの野菜の扱いの繊細さ……。とても定食屋上がりの少年にできる業ではありませんよ!」
イストワールとシャルムも、次々と口へ運ぶ手を止められないまま驚愕の声を上げる。
その言葉を受け、審査員席の中央で盤上を見つめていた薙切薊が、静かに、だが確かな熱を帯びた声で口を開いた。
「……なるほど。この繊細極まる野菜へのアプローチ、どこかで見たと思えば」
薊の呟きに、周囲の視線が集まる。彼は皿に残った色鮮やかな野菜の欠片をナイフで掬い上げ、感嘆の息を漏らした。
「かつて『レギュムの魔術師』と呼ばれ、フランスのプルスポール勲章を授かった男……四宮小次郎の系譜か」
「四宮シェフの……!?」
アンが息を呑む。
「ええ。スタジエールで彼から学んだ技術をベースにしているのでしょう。……だが、真に驚くべきはその先だ」
薊は目を細め、厨房に立つ創真の姿を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、これまでの冷徹な支配者の色はなく、純粋に優れた料理人を評価する確かな敬意が宿っていた。
「通常、四宮くんほどの完成された技術を前にすれば、若き料理人はその型に呑み込まれ、ただの『質の良い模倣』に陥ってしまう。……しかし、この幸平創真という男は違う。四宮くんの気高く繊細なフレンチの技法を盤石な『土台』としながらも、そこに己の原点である『大衆食堂の荒々しいパンチ力』を限界まで注ぎ込み、全く別次元の料理として再構築している」
薊の冷静な分析に、会場中が静まり返り、創真の皿の真の恐ろしさに気づき始める。
「気高きフレンチの洗練と、下世話なまでの大衆の熱気。決して交わるはずのない二つの概念を、力技ではなく、圧倒的な熱量と高度な計算によって高次元で融合させてみせた……。見事、というほかない」
薊はふっと口角を上げ、自身の築き上げた理想の城が揺るがされる心地よさすら感じているかのように、静かに言い切った。
「これはもう、単なる前菜の域を完全に超えている。四宮くんの技術を踏み台にし、幸平創真という料理人の在り方と生き様を完璧に体現し、昇華させた一皿……紛れもなく、彼自身の『スペシャリテ』と呼ぶべき到達点だ」
あの絶対的な理想を掲げた薊に、そこまで言わせしめたのだ。
静まり返っていた観客席の反逆者組から、ワッ、と割れんばかりの歓声が爆発する。
「お待たせいたしましたわ。……暴風のあとは、こちらの番です」
その熱狂の中、えりなが優雅に歩み寄り、主菜のカバーを開け放つ。
「主菜、『地鶏とフォアグラのバロティーヌ〜特製ピーナッツ出汁ソース〜』ですわ」
えりなが優雅な手つきで銀のドームカバーを開け放つ。
瞬間、立ち上ったのは肉の芳醇な重厚感と、ナッツの香ばしさ、そして魚介の濃密なアミノ酸が複雑に絡み合った、未体験の芳香だった。
吸い寄せられるように、イストワールとシャルムがゴクリと喉を鳴らし、フォークとナイフを伸ばそうとした――その時。
「……待って。待ってください」
震える声が、審査員席の動きをピタリと制止した。声の主は、一等執行官であるアンだった。
「アン殿……?」
「どうしたのだ、アン? 顔色が……」
イストワールとシャルムは、隣に座るアンの異変に気づき、目を丸くした。
彼女の華奢な肩は微かに、だがはっきりと小刻みに震えていた。額にはじっとりと冷たい汗が滲み、組まれた両手は血の気が引くほど強く握りしめられている。
それは、圧倒的な「未知」を前にした本能的な恐怖――あるいは、自身の根幹が揺らぐことへの畏怖の表れだった。
「……食べないでください。まだ……まだ口に入れてはいけません」
アンは青ざめた顔で、盤上のバロティーヌから目を離さないまま、絞り出すように二人に指示を出した。
「な、何を言っている! 料理は熱いうちに味わうのが――」
「……お願いします」
アンがポツリと、イストワールの言葉を遮り消え入るような声で呟いた。
イストワールとシャルムが横へ視線をやると、そこには、目尻に涙を浮かべながらも、どこか狂気を孕んだような、抗いがたい魅惑に堕ちていくような……泣きそうな笑顔を浮かべたアンの姿があった。
「お願いします……。私が、私自身の手で……あなた方二人に給仕された皿を、溢し捨てさせるような真似をさせないでください……っ」
その言葉に、イストワールとシャルムは息を詰まらせた。
アンから発せられる狂気を孕んだ気迫と、料理そのものが放つ底知れぬ魔力。それに完全に気圧された二人は、押し黙ったまま、手にしかけていたフォークを一度、カチャリと静かに盤上へ戻した。
「……いただきます」
静寂が落ちた審査員席で、アンだけが震える手で再びナイフとフォークを握り直す。
極限まで柔らかく火を入れられた地鶏とフォアグラの層を切り分け、そこへ艶やかなピーナッツ出汁ソースをたっぷりと絡ませる。
そして、自身の理性が崩壊する覚悟を決めたように目を閉じ、その一口を震える唇の奥へと運んだ。
――瞬間。
アンの全身を、未曾有の衝撃波が突き抜けた。
「─────────っっっ!!!」
彼女はカッと目を見開き、声にならない悲鳴を上げる。
イメージでは、ビシッ、と彼女を包み込むWGOの一等執行官の制服に亀裂が走り、次の瞬間、眩い光を伴って豪快に弾け飛んだ。
「な……なんですか、この美味さは……っ!」
はだけた姿のまま、アンは恍惚の涙を流して絶叫する。
「ピーナッツの香ばしい油脂分とまろやかなコクが、イカゲソの濃厚な旨味と溶け合い、地鶏の野性味とフォアグラの重厚さを、次元の違う高みへと強引に引き摺り上げている……! 本来なら強すぎてぶつかり合い、破綻するはずの強烈な個性が、『神の舌』の超精密な計算によって、恐ろしいほどの黄金比で調和(ハーモニー)を奏でているわ!!」
アンは荒い息を吐きながら、もはや止まらない手つきで次の一口、また一口と口へ運ぶ。
「それだけではありません……! 前菜で幸平くんが仕掛けた凶悪なまでの『飢え』と和の切れ味が、この重厚なバロティーヌの美味さを何十倍にも爆発させている! 前菜が主菜を呼び、主菜が前菜の存在価値を極限まで証明する……! 単なる足し算ではない、二人が互いのエゴをぶつけ合い、高め合った末に完成した――『無限の掛け算のコース』です……っ!」
司たちの『静寂の森』に浄化されたはずのアンの味覚は、今や荒れ狂う美味の暴風に完全に呑み込まれ、全身の細胞が歓喜の悲鳴を上げていた。
その光景を腕組みをしたまま見下ろしていた薙切仙左衛門が、静かに、だが地鳴りのような深い声で口を開いた。
「……司瑛士と美作昴が到達したのが、己を消し、食材の声を極限まで引き出す『静なる完成形』であるならば」
仙左衛門は、圧倒的な熱量と香りを放つ創真とえりなの皿を真っ直ぐに見据えた。
その厳格な瞳の奥に、かつてないほどの熱い光を宿らせながら。
「幸平創真と薙切えりな、この二人が生み出したものは、互いの強烈な自我(エゴ)を衝突させ、相手の想像を越えようと前へ前へと強引に引き摺り合う『動なる進化』。……決して交わることのなかった二つの才能が、互いの殻を破り合い、未知なる荒野を切り拓いてみせたのだ。……これぞまさに、真の『食戟』の姿よ」
『食の魔王』による、この上ない称賛の言葉。
それは、十傑という絶対的な壁を打ち破り、新たな時代を切り拓いた若き料理人たちへの、最大の賛辞だった。
だが、そんな熱狂と感動に包まれる会場の中で。審査員席の中央で、ただ一人沈黙を保っている男がいた。
薙切薊だ。
彼の端正な顔からは、先程までの余裕も、冷徹な支配者としての表情も一切消え失せていた。ただ、その漆黒の瞳だけが、その皿を見つめている。
「…………」
薊は押し黙ったまま、ゆっくりとフォークとナイフを手に取った。
ピーナッツバターとイカのゲソ。かつての彼が「ノイズ」として徹底的に切り捨ててきたであろう、下劣な大衆の食材の組み合わせ。
それを、自身の最高傑作であるはずのえりなが、『神の舌』で完璧に統率し、自身の理想を真っ向から否定する形で再構築した一皿。
周囲の歓声も、アンたちの狂乱も、今の彼には届いていない。
薊はゆっくりと顎を動かし、その禁忌の一皿を咀嚼した。
彼の端正な顔からは一切の感情が読み取れない。ただ静かに、深淵を覗き込むように、口内で爆発する未知の美味を確かめ、味わいそして飲み込んだ。
痛いほどの静寂が会場を包み込む中、不意にその沈黙を破ったのはアンだった。
彼女は先ほどの狂乱から一転して硬直しており、その美しい頬には一筋の涙が伝っていた。
「……ああ、やはり――だめでしたか」
深く、沈痛な表情を浮かべ、彼女は震える声で呟いた。突然の言葉と涙に、隣に座るシャルムとイストワールは目を白黒させる。
「ア、アン殿? いったいどうしたというのだ?」
「突然泣き出すなど……何があったのです!」
狼狽し、理由を問う二人。だが、アンは首を横に振り、自らの前に置かれた皿を庇うように手を伸ばした。
「……やはりだめです。これを、貴方たちが食べてはいけない」
理解が追いつかず呆然とする二人をよそに、アンは血を吐くような真剣な眼差しを、審査席の中央――薙切仙左衛門と、薙切薊の二人へと向けた。
「仙左衛門殿、そして薊総帥……お二人に問います」
アンの静かな、しかし確固たる声が響く。
「この場において、我々審査員の『票』の価値は等しく均一です。……ですが、それでもなお、もし『票の価値』に差をつけなければならないとしたら。どちらの票にこそ、より重い価値があると言えますか?」
その問いに対し、腕を組んだままの仙左衛門は、重く静かな声で答えた。
「……それは、薊だ」
「……」
「現在、遠月の『総帥』の座に就いているのはこの男。その舌と理念を完全に否定することができないのであれば……反逆者(あやつら)が薊を否定し、打ち倒す資格はないのだからな」
仙左衛門の言葉に薊は答えることなく、ただ静かに目を伏せ、否定の意を示さなかった。
その結論を耳にしたアンは、ふっと悲しげに微笑み、宣言した。
「……それでは仙左衛門殿。貴方が、先に票を入れてください」
そして、真っ直ぐな瞳でこう続けた。
「私は――貴方の投じた票と、『反対の者』に票を入れます」
「な、何を言っているのだアン殿! 審査員がそのような……どうしてそんなことを!」
アンの信じられない発言に、会場全体が騒然となる。イストワールがたまらず身を乗り出して理由を問い詰めた。
WGOの誇り高き一等執行官が、自身の舌での審査を放棄し、他者の票に委ねるなどあり得ないことだからだ。
「……この二つの陣営の料理は、既に……私たちの味覚の『閾値』を超えてしまっているのです」
アンは静かに、しかし絶望を滲ませた声で答える。
「料理人ではない、舌を鍛えていない一般の方々が、最高級の美酒と呼ばれるワインを飲み比べたとき……一定以上のレベルを超えてしまえば、どちらもただ『美味しい』というだけで、その違いを正確に比べることなどできなくなる。……それと、同じことです」
「なっ……我々が、味の優劣を比べられないと言うのか!?」
「ええ。この二つのコース料理……どちらもが、私たちの想像を遥かに超えた次元に到達してしまった。今これを食べても、私にはただ『美味しい』という衝撃しか得られず、その真の違いや優劣を、正しく比較することができなくなってしまったのです」
彼女は悔しそうに唇を噛み、司と美作の陣地を見つめる。
「あと十年……。あと十年研鑽を積んでいれば、司くんと美作くんの作り上げたあの『完璧な城』を、私は正しく評価することができたかもしれない。ですが……」
そこで言葉を切り、アンの視線が再び審査席を、そして厨房を薙いだ。
「今、この国……いいえ、この世界で、この料理に正当な評価を下せるのは、ごく僅かな人間しかいません」
彼女の声が、静まり返った会場に響き渡る。
「多くの経験を蓄積し、『食の魔王』と呼ばれた薙切仙左衛門殿。……『神の舌』を持つ薙切えりなさん。そして、我らがWGOの『特務執行官』。……この三名だけでしょう」
「…………!」
「故に……今の私が、この場においてどちらかの皿へ票を投げるとするならば。それはもう、『私情』で傾く以外の判断基準が存在しないのです」
一等執行官としての矜持が、彼女にその残酷な現実を突きつけていた。美食を極めたと自負していた己の舌が、彼らの進化の速度に追いつけなかったという敗北感。
アンはまっすぐに仙左衛門を見つめ、深く、祈るように言葉を紡いだ。
「私の私情……。それは、『私の未熟な意見で、この歴史的な料理の結末を決めてはならない』ということ」
アンは胸に手を当て、毅然とした態度で頭を下げる。
「WGO(我々)の理念は、いかなる時も皿の上の美味のみを絶対の基準とし、公正な評価を下すこと。……ですが、私は今からその理念を根本から裏切り、己の『私情』のみで票を投じます」
その言葉に、イストワールが弾かれたように立ち上がった。
「ア、アン殿! それが何を意味するか分かっているのか!? 皿の評価を放棄し、私情で票を投じるなど……それは我々WGOの存在意義そのものの否定だ! 美食の『聖典(神)』に対する、これ以上ない侮蔑行為だぞ!!」
「ええ、分かっています。重々、承知しております」
アンの顔に迷いはなかった。ただ、一筋の涙が静かに頬を伝うだけだ。
「ですから、私はこの一票を投じた後――『一等執行官(ブックマン)』の席を辞し、WGOを去ります」
「なっ……!?」
「アン! 莫迦なことを言うな! 君ほど舌に愛された才女が、執行官の座を捨てるなんて……ッ!」
シャルムとイストワールの悲痛な叫びを、アンは優しく首を横に振って制した。そして、目の前に置かれた二つの陣営の皿を、ただ愛おしそうに見つめる。
「私など、彼らの進化の前にはちっぽけな存在に過ぎませんでした。……この二つの料理は、私にそれだけの決意と代償を支払わせるに足る、まさしく『真の美食』です。この歴史的な盤上の結末を、私の如き未熟な舌の迷いで濁らせるわけにはいかないのです」
その悲壮なまでの決意を前に、シャルムとイストワールは言葉を失った。そして、二人は数秒の沈黙の後、ハッと息を呑む。
(……そうか。アン殿は、我々を……WGOを庇っているのだ……!)
もしこの場で、審査員三人が揃って「評価不能」と匙を投げれば、あるいは全員が私情で票を割れば、WGOの権威は完全に失墜する。どんな名門組織であろうと、料理の優劣をつけられない無能の烙印を押されてしまうのだ。
だが、アンがたった一人で「私情に走り、聖典を侮蔑した大罪人」としての泥を被り、この場から去ればどうなるか。
WGOの権威そのものには致命的な傷がつかない。残された二人は「実食をしなかったため評価を下せない」という体裁を保つことができる。
アンは、この未曾有の「怪物たち」が創り出した料理から組織の威信を守るため、そしてこの至高の食戟に最も相応しい結末を用意するため、己の料理人人生のすべてを人柱として捧げたのだ。
「アン……殿……っ」
イストワールが血の滲むほど拳を握りしめ、シャルムもまた、自身の無力さに歯を食いしばり俯いた。二人の目には、止めることのできない悔し涙が浮かんでいる。
同僚たちの悲痛な思いを受け止めながら、アンは再び前を向いた。
その揺るぎない覚悟を前に、これまで腕を組んだまま静観していた薙切仙左衛門が、ゆっくりと目を開いた。
「……よかろう。ならば、私が先んじてその評価を盤上に刻もう」
地を這うような威厳に満ちた声が、騒然としていた会場を水を打ったように静まらせる。仙左衛門は盤上の二つの陣営の皿をじっと見据え、静かに、だが確固たる響きで宣言した。
「私が票を投じるのは――司瑛士、美作昴の両名だ」
その言葉に、反逆者陣営からは絶望の吐息が、十傑陣営からは安堵のどよめきが漏れた。仙左衛門は、微動だにせずその理由を語り始める。
「幸平創真と薙切えりな。あの二人の生み出したコースは、互いの強烈なエゴをぶつけ合い、無限に高め合う『未完の暴風』。未知なる荒野を切り拓くその爆発的な熱量と勢いは、間違いなく今大会随一であり、新たな時代の幕開けを確信させるものであった。……だが」
仙左衛門は鋭い眼光を放ち、司と美作の陣地へと視線を向けた。
「純然たる一皿の『極致』……料理としての絶対的な完成度において比較するならば。司瑛士と美作昴が構築した『静寂の城』は、素材の真理に到達し、寸分の狂いもない究極の調和を実現していた。若き暴風の猛威すらも弾き返すほどの、底知れぬ純度の高さ。……故に、現時点での料理の完成度において、私は司たちの皿が僅かに上回っていると断言する」
それは、数多の美食を味わい尽くしてきた『食の魔王』だからこそ下せる、妥協なき絶対の評価だった。無限の将来性を孕む熱量か、現時点での完璧なる極致か。その僅かな、しかし決定的な差を、仙左衛門の舌は正確に測り切っていた。
その厳格な判定を聞き届けたアンは、深く頷き、静かに自らの票を宣言した。
「……では、私の票は。幸平創真、薙切えりなの両名に投じます」
一対一。
これで、双方の陣営の票数は完全に並んだ。会場の空気が、張り詰めた糸のように限界まで引き絞られる。
イストワールとシャルムも、観客たちも、そして盤上に立つ料理人たちも。
全ての視線が、審査員席の中央でただ一人、結果を委ねられた男――薙切薊へと集中した。
アンが己の執行官としての身分を賭してまで整えた、真の最終決定権。
全ての運命を握るその男は、周囲の刺すような視線など気にも留めない様子で、ゆっくりと優雅に立ち上がった。
薊は静かに厨房へ歩み寄り、自身の最高傑作であり、最大の反逆者でもある愛娘の顔を真っ直ぐに見つめた。
「……えりな」
感情の読めない、底知れぬ漆黒の瞳。
「君は、この皿に何を思い、創り上げたのかな?」
その静かな問いかけが響いた瞬間、えりなの脳裏に、決戦前夜の記憶がフラッシュバックした。
――
「私……お父様のことが、分からないの」
その不意の言葉に、創真目が見開く。えりなは自嘲するように小さく笑い、言葉を続けた。
「私の過去のトラウマを刺激し、恐怖で縛りつけようとした。極星寮の仲間たちから私を引き離し、再び一人ぼっちの鳥籠に閉じ込めようとしたわ。……でも、私が家出をした時はあっさりとそれを認め、この連隊食戟を挑んだ時には、あろうことか激励すらして見せた」
えりなの声には、深い戸惑いが滲んでいた。
「お父様は、私に何を求めているの? 本当に私をセントラルの頂点に据えたいのなら……あの人の行動は、あまりにも矛盾しているわ」
その言葉に、腕を組んで聞いていたアリスが深く頷いた。
「ええ、私もそう思うわ。本当にえりなを料理人の
アリスの鋭い指摘に、一色も顎に手を当てて同意する。
「そうだろうね。……実は僕も、一つだけずっと引っ掛かっていたことがあるんだ」
一色のいつも穏やかな顔から笑みが消え、真剣な眼差しが厨房の面々に向けられる。
「それは、葉山アキラ君のことだ。薊総帥は彼を仮退学処分にした後、十傑の座から落とさずそのままにしているだろう?」
「それは――確かにそうだ。退学処分にならなかった理由は聞いたが、八席から降ろされなかった理由は聞いてない」
タクミが竜胆との交渉の席を思い出し、一色は静かに頷いた。
「ああ。それはまるで……万が一この連隊食戟で僕たちが敗北したとき、もう一度この政権をひっくり返すための『火種』を、わざわざ遠月内に残しているように思えるんだよ」
その一色の推測に、竜胆が腕を組みながら口を開いた。
「……あたしも、あの人がなんで葉山を十傑に残したのか不思議だったんだけどさ。もしかしたら、遠月で『最も優れた料理人』をさらなる高みへ引き上げるための捨て石……いや、試練として用意したんじゃないかって思ってたんだよね」
竜胆は少しだけ目を伏せ、自嘲するように笑った。
「ただ……あたしは無意識に、それは司のことだろうって考えてた。でも、もしその『試練』が司に向けられたものじゃないとしたら? ――あの人が想定した『最も優れた料理人』ってのは、いったい誰のことなんだろうな、って」
その言葉に、竜胆の視線が自然とえりなへと向けられる。
タクミも、恵も、一色も。その場にいた全員が一様に息を呑み、一つの途方もない仮説に行き着いていた。
「んー……どっちでもいいんじゃねーの?」
ひどくあっけらかんとした声が、重苦しい空気をあっさりと打ち破った。創真だ。彼は頭の後ろで手を組みながら、まるで日常の些細なことのように笑っていた。
「薙切の親父さんが何を考えてるかなんて、今考えてもわかんねーし。そんなのどうでもいいだろ」
「ど、どうでもいいって貴方ね……っ!」
「だってそうだろ? 重要なのは、親父さんがお前に何をさせたいかじゃなくて……薙切、お前自身が『どうしたいか』ってことなんだからさ」
創真は組んでいた手を下ろし、えりなの顔を真っ直ぐに覗き込んだ。
「なぁ薙切。お前、どうしたい?」
その問いかけに、えりなの胸の奥で何かが大きく弾けた。
かつて、セントラルに連隊食戟を挑むと決意したあの雪降る夜。恐怖に縛られていた彼女の目には、先陣を切って歩き出す創真の、頼もしい『後ろ姿』しか見えていなかった。
だが、今は違う。
すぐ隣に立ち、ニヤリと不敵に笑う相棒が、自分を真正面から見つめてくれている。彼のエゴと熱に当てられ、彼女の中にあった迷いは、すでに完全に消え去っていた。
――それが、決戦前夜にえりなが創真の笑顔に返した答えであり。
「……貴方に、お父様に『美味しい』と。そう言わせるために作りました」
静まり返った会場を貫く、凛とした声。
それは自身の呪縛を完全に断ち切り、新たな荒野へと踏み出した女王の、揺るぎない宣戦布告だった。
その宣言が静まり返った会場に響き渡った、次の瞬間だった。
スッ……と、不可視の風が吹き抜けたような音が観客席で鳴った。
「へ……? あ、あれ……っ!?」
声の主は、観客席の最前列で身を乗り出していた吉野悠姫だった。彼女の着ていた上着のボタンがひとりでに外れ、続いて袖が、襟元が、まるで目に見えない手によって鮮やかに剥ぎ取られ、ふわりと宙へ舞い上がっていく。
「わ、わああああっ!? なにこれ、服が……服が勝手に脱げて飛んでいくんだけどーっ!?」
「よ、吉野!? お前急になに脱いでんだよ!」
「バカ言わないでよ佐藤! 私が自分で脱ぐわけないでしょーっ! きゃああっ!?」
吉野の悲鳴と同時に、となりにいた丸井のメガネがズレ、彼のシャツもまた、スルリと身体から抜け落ちて宙を舞った。
「な、なんだこれは……!? 衝撃波も、熱風すら感じない……! なのに、服だけが滑るように脱がされていく……っ!?」
「これ……『おはだけ』じゃない! もっと広範で、不可逆的な伝播……っ!」
極星寮の面々がパニックに陥り、次々と服を剥ぎ取られていく中、審査員席の中央で薙切薊がゆっくりと口を開いた。
その声は驚くほど静かで、しかし狂乱しかけた会場の隅々にまで過不足なく行き渡った。
「……アン殿。貴方の見立ては、何一つ間違っていない」
薊は静かに自らの手を見つめ、どこか自嘲するような、穏やかな笑みを浮かべた。
「WGOの一等執行官として……現代美食の第一線で舌を研ぎ澄まし続けてきた貴方より、私の方が優れた舌を持っているなどと……そんな増長した妄言を吐くつもりはない」
「薊総帥……」
布切れ一枚飛ばされまいと身を縮め、呆然と薊を見つめるアン。
「貴方ほどの領域に達した舌でさえ比べることを諦めたのだ。……今の私にしても、司君たちの『静寂の城』と、君たちが築き上げた『動の暴風』……その真の優劣を、客観的かつ厳密に評価することなど、できはしないのだろう」
その言葉と同時に、薊の身体から目に見えない「波紋」が、静かに放たれた。
ふわり、ふわりと、無数の布地が空を舞う。
『おさずけ』のパルスが同心円状に広がっていく。
吉野や丸井だけに留まらず、観客席の生徒たち、反逆者側の控えエリアにいたアルディーニ兄弟や新戸、榊たちの衣服が、抵抗の術もなく次々と身体から引き剥がされ、鳥の群れのように空へと吹き飛んでいく。
「きゃあああっ!?」
「うわああ! 服が、服が飛んでいくぞ……っ!」
「おいおいおい! なんだこの『おさずけ』の威力は! 伝播の規模が違いすぎるだろ!?」
会場全体が阿鼻叫喚の渦に包まれる中、薊は自身に注がれる混乱と驚愕の視線を真っ向から受け止めながら、ただ静かに宣告した。
「……だからこそ、私とて。この決定を……『私情』によって決めるほかないのだ」
「……っ!?」
その言葉の意味を察した司瑛士の肩が、ピクリと揺れた。薊はゆっくりと身体の向きを変え、静かに十傑陣地に立つ司へと視線を向けた。
「司君、……すまないね」
どこか愛おしむような、そして申し訳なさの滲む声。
「私が……この審査員席に座ってしまったこと。それこそが、この勝負の行く末を決めてしまったのだろうな」
次の瞬間、薊の背後から凄まじい突風のような『おさずけ』の圧力が解放された。
ブワァァァッ!!!
会場全体の空気が激しくうねる。反逆者側も、十傑側も、観客も、男も女も関係ない。会場にいる全員の衣服が、まるで強い意志を持った風に攫われるように、一斉に天高く吹き飛んでいった。
衣服を失い、全裸同然となった大勢の観客や料理人たちが呆然と立ち尽くし、空を舞う無数の衣服を見上げる中、薊はどこか憑き物が落ちたような、優しく穏やかな表情で自身の胸に手を当てた。
「……きっと。娘にこれほどの料理を差し出されて……私情に流されずにいられる父親など、この世のどこにも存在しないのだから」
薊の瞳に、ひとすじの温かな光が宿る。
セントラルの総帥としてでもなく、食の支配者としてでもなく。ただ一人の人間として、己の最高傑作であり、何より愛おしい娘へと向き直った。
「……えりな。本当に……美味しかったよ」
その一言が、静寂を切り裂いて放たれた――直後。
ゴォォォォォォッ!!!!
審査員席を中心に、黄金の竜巻のような光の奔流が天へと突き抜けた。
「ひええええええっ!?」
「審査員席の服が……全部飛んでいくぅぅぅっ!?」
悲鳴が上がる中、光の渦の真ん中で、審査員全員の衣服が勢いよく空の彼方へと吹き飛んでいく。
威厳を保っていた薙切仙左衛門は既に褌一枚になり、アン、イストワール、シャルムの制服は鮮やかに剥ぎ取られて旋風に乗る。そして、誰よりも端正で完璧だった薙切薊自身のスーツすらも、まるで一枚の羽衣のようにふわりと抜け落ち、光の中へと消え去っていった。
WGOの最高峰の舌を屈服させ、食の魔王の厳格さを打ち破り、絶対の支配者を一人の「父親」へと戻してみせた、究極のスペシャリテ。
光の竜巻が収まり、舞い上がった服がヒラヒラと雪のように降り注ぐ中心で、薙切薊の掲げた手が、ゆっくりと反逆者陣営へと向けられていた。
『ピィィィィンッ!!』
点灯したのは、反逆者陣営側のランプ。
表示されたスコアは『2-1』。
一瞬の静寂。その数字が明確な「決着」を意味していると、会場にいる誰もが理解するまでのわずかな空白。
そして――。
「う、うおおおおおおおおおおっ!!!」
「勝った! 勝ったぞおおおおっ!!」
「反逆者の勝利だぁぁぁっ!!」
地鳴りのような大歓声が、空から降り注ぐ服の雨を突き抜けて会場を大きく揺らした。
極星寮の面々も、タクミやアリスたちも、自分たちが服を吹き飛ばされていることなどとうに忘れたように抱き合い、もみくちゃになりながら涙を流して歓喜を爆発させている。
「……っ」
すべてを出し尽くし、張り詰めていた糸が切れたようにへたり込みそうになったえりなの元へ、ザッ、と軽い足音が近づいてきた。
「へへっ……。やったな、薙切」
創真だ。
自分が成したことがどれだけのことかも意識していない、いつものようにニカッと不敵に笑って右手を差し出していた。
えりなは一瞬、目を丸くしてその手を見つめた。
絶望的な状況から始まり、ぶつかり合い、背中を押し合い、ここまでたどり着いた。目の前に立つこの型破りな料理人がいなければ、決して見られなかった景色が、今ここにある。
「……ええ」
えりなは込み上げてくる熱いものを飲み込み、これ以上ないほど晴れやかな、最高に美しい笑みを浮かべた。
「私たちの、勝利よ……!」
パァァンッ!!
小気味よい音が響き、二人の掌が力強く打ち合わされた。
割れんばかりの歓声と、降り注ぐ光の中。
創真は満足げに笑い、えりなもまた、誇り高く堂々と胸を張って――会場のすべてへ向けて、高らかに声を重ねた。
「「御粗末っ!!」」
次が最終話の予定