遠月学園・月饗祭。その頂点を決する山手エリアにおいて、薙切えりなの出店する模擬店は群を抜いていた。
豪奢なエントランス、クリスタルのシャンデリア、洗練された生徒たちによる完璧なサービス。美食を求めるVIPたちがグラスを傾け、フロアには穏やかで上品な談笑のさざざめきが満ちている。
その完璧な調和が崩れたのは、ディナータイムが佳境を迎えようとしていた矢先のことだった。
エントランスの重厚な扉が、音もなく開く。
入り口に漂う空気が一瞬で凍りつき、店内を満たしていた華やかな歓談の声が急速に立ち消えていった。
漆黒の髪を隙なく撫でつけ、一切のシワのない極上のオーダースーツを纏った男——薙切薊が、悠然とした足取りで店内に足を踏み入れたのだ。
給仕長としてエントランス近くに控えていた緋沙子は、その顔を視界に収めた瞬間、全身の血が引いていくような感覚に襲われた。あまりの威圧感に足が竦みそうになるのを必死で耐え、震える声を振り絞って問いかける。
「ご、ご予約のお名前を……伺っても、よろしいでしょうか……っ」
直立不動で怯える緋沙子に対し、薊は足を止めると、ふっと柔らかい笑みを浮かべて彼女を見下ろした。
「『中村』で予約を入れてあるはずだよ」
「え……な、中村……様……?」
「すまないね。本名で予約を入れると余計な混乱を生んでしまうと思ってね……少しばかり旧姓を使わせてもらった。驚かせてしまって申し訳ない」
響きの良い穏やかな声でそう謝罪を口にしながらも、薊の漆黒の瞳には微塵の申し訳なさも浮かんでいない。どこまでも優雅で、それでいて拒絶を許さない絶対的な佇まい。
絶句する緋沙子をよそに、薊は出迎えの案内を待つこともなく、まるで最初からそこが己の玉座として用意されていたかのように、フロアの中央に位置する空席のメインテーブルへと迷いなく歩みを進めた。
「お、お父……様……」
えりなの桜色の唇から、掠れた声が漏れる。
それに気づいた薊が、ゆっくりと足を止め、厨房の中にいる娘へと視線を向けた。
漆黒の瞳が、えりなを射抜く。そして彼は——ひどく優しく、心から愛おしいものを見るような微笑みを浮かべた。
「やあ、えりな。素晴らしい城だ。君の研鑽の成果を、この目で確かめにきたよ」
深く響くその美声は、えりなにとっては呪いの呪文に等しかった。喉がひゅっと鳴り、えりなは配膳台の縁を強く握りしめて辛うじて立っている状態だった。
「め、メニューをお持ちし……」
「いや、必要ないよ」
怯える緋沙子の言葉に、薊はテーブルの椅子に優雅に腰を下ろしながら、静かに首を振った。
「今のえりなが作れる、最も完璧な一皿を頂こうか。君の『神の舌』が到達した現在地……それを私に教えておくれ」
それは注文ではなく、絶対の命令だった。
不完全なもの、正解以外を出せばどうなるか分かっているね、という無言の圧が、目に見えない巨大な手となってえりなの首を締め上げる。
「……っ、はい……すぐ、に……」
えりなは操り人形のように頷くと、逃げるように厨房の奥へと引っ込んだ。
火口(コンロ)の前に立つ彼女の手は、カタカタと小さく震えていた。呼吸が浅い。視界が歪む。
(完璧でなければ。お父様に認められる、絶対的な正解を一寸の狂いもなく作らなければ——!)
恐怖に急き立てられるように、えりなは調理を開始した。
選んだのは、この月饗祭のために研ぎ澄ませた至高のメニュー。震える手は、しかし包丁を握り、鍋を振るう瞬間にだけは極限の集中力を発揮した。『神の舌』が本能的に不純物を弾き出し、ミクロン単位で素材のポテンシャルを引き出していく。
だが、その顔に料理を作る喜びなど微塵もない。あるのは、恐怖に縛り付けられた絶望的な焦燥感だけだった。
「……上がりました。緋沙子……お願い」
「は、はい……!」
やがて、美しく透き通る黄金色のコンソメが注がれた深皿が完成する。
緋沙子が震える両手で銀の盆を持ち、メインダイニングへと歩み出る。店内にいた他の客たちは、中央のテーブルから放たれる異様な空気に呑まれ、誰一人としてフォークを動かすことができなくなっていた。
メインダイニングは今、凍りつくような静寂に包まれていた。テーブルの中央に腰を下ろした薙切薊の前に、静かに一皿の料理が運ばれる。
月饗祭のためにえりなが用意した至高のメニューの一つ、『オマール海老と黒トリュフのラヴィオリ〜極上の黄金コンソメ仕立て〜』だ。
厨房からその様子を見つめるえりなの顔には、血の気が一切なかった。
(お父様が、私の料理を……)
幼い頃、料理をゴミ箱へ叩き込まれた記憶。暗い部屋で、ただ震えながら「正解」を強いられ続けたトラウマがフラッシュバックし、えりなは呼吸すら上手くできなくなっていた。
「……いただきます」
薊は一切の無駄がない、絵画のように美しい所作でスプーンを手にする。
黄金色に澄み切ったコンソメスープを掬い、ゆっくりと口へ運んだ。
一秒、二秒。
えりなも、給仕の緋沙子も、店内のすべてのスタッフが死刑宣告を待つ罪人のように息を詰める。
やがて、薊はふっと目を閉じ、静かに息を吐き出した。
「——素晴らしい」
静かな店内に響いたのは、怒声でも冷笑でもなく、心底感動したような柔らかい声だった。
「……え?」
えりなの口から、間の抜けた声が漏れる。
「素晴らしいよ、えりな。いや……これは『完璧』と言うべきかな」
薊はスプーンを置き、愛おしむような眼差しを娘へと向けた。
「オマール海老の殻と香味野菜を徹底的に温度管理し、一切の雑味を許さずに抽出されたこのコンソメ。ラヴィオリの生地の厚み、閉じ込められた黒トリュフの香りの揮発計算……どれ一つとして狂いがない。君の『神の舌』が、素材のポテンシャルをミクロン単位で統制している。世界中のどんな美食家も、この皿に文句をつけることはできないだろう」
それは、父からの紛れもない絶賛だった.
えりなの瞳が激しく揺れ動く。恐怖で固まっていた心が、思いもよらない「承認」を与えられたことで、急激な安堵と混乱でぐちゃぐちゃにかき乱されていく。
「お、お父様……私、の料理……完璧、と……」
「ああ。君の技術は私の想像を超えて見事に育っている。……だがね、えりな」
薊の漆黒の瞳が、ふっと悲しげな色を帯びた。
彼が軽く手で示すと、窓の外——月饗祭を楽しそうに歩き回る、客たちの姿が見えた。
「この料理は……『彼ら』に向けたものだね?」
「……っ!?」
「月饗祭というシステム上、君は不特定多数の客を相手にしなければならない。だから君は、自分の持つ真の芸術性を押し殺し、舌の肥えていない有象無象の客でも『美味しい』と理解できるように、味の輪郭を丸く縁取ってしまった」
えりなの肩が、びくっと跳ねた。
図星だった。この店を回すため、そして利益を最大化するため、えりなは「最高峰でありながら、多くの者に伝わりやすいバランス」を意図して構築していたのだ。
「悲しいよ、私は。この場にいる者たちも相応の美食に触れたことのある者だとはいえ、君ほどの類稀なる才能が、たかが学園祭の売上や、レベルに合わせるために妥協しているなんて」
薊の声はどこまでも優しく、娘を案じる父親そのものだった。しかし、その言葉の刃は、えりなの料理人としての急所を正確に抉っていた。
「君の『神の舌』が目指すべきは、大衆を喜ばせるための分かりやすい正解じゃない。彼らには到底理解できないほどの、高く、険しく、美しい孤高の芸術だ。……君は、周りの石ころに合わせるために、自ら宝石の輝きをくすませているんだよ」
「ちがっ……私は、そんな……!」
「君が悪いわけじゃない。君に妥協を強いる、この『遠月』という環境が間違っているのだから」
「……おい、小僧。さっきから聞いとったが、なんやその言い草は」
静まり返っていた店内で、薊の言葉を耳にしていた恰幅の良い中年客、喜多はムッとした顔で立ち上がった。
「彼女の料理は最高や。ワシらはこれを心から美味いと思って食べてるや。 なのにあんたの言い方だと、まるでワシらの舌が安っぽくて、味が分かってないみたいやないか」
その抗議の声には、店内からも同意するかのような熱があった。えりなは息を呑み、緋沙子も顔色を変える。
しかし、非難を浴びた薊は一切悪びれることなく、むしろ柔らかな微笑みを浮かべて立ち上がると、喜多に向かって優雅に一礼してみせた。
「これは失礼を。私の言葉足らずでしたね。どうか怒りを鎮めてください」
あまりにも洗練された謝罪の所作と、響きの良い穏やかな声。
詰め寄ろうとしていた喜多は、薊から放たれるただならぬ気品と威圧感に気圧され、思わず足を止めてしまう。
「誤解しないでいただきたい。あなた方がこの料理を『美味しい』と感じたなら、その味覚は極めて正しい。えりなは完璧な計算のもと、あなた方の期待に応える至高の皿を作り上げました。あなた方が舌鼓を打つのは当然のことであり、彼女の仕事は見事と言うほかない」
「そ、そないなら……!」
「ですが……例えばの話です」
薊はすっと目を細め、客の目を真っ直ぐに見据えた。
その深く漆黒の瞳に射抜かれ、客は蛇に睨まれた蛙のように言葉を失う。
「極限まで技巧を凝らした前衛的なクラシックの独奏を、日常の癒やしを求めている人々に突然聴かせても、難解すぎて疲れてしまうでしょう? 美しい風景画を求めている人に、ピカソの抽象画の真価はすぐには伝わらない」
薊は再び、自らのテーブルに置かれた完璧なラヴィオリへと視線を落とした。
「美食も同じなのです。彼女の『神の舌』が本来到達できる領域は、鋭く、複雑で、時には凡人の理解を拒絶するほどの孤高の芸術だ。……私はただ、彼女があなた方に歩み寄り、全員が『理解できる美しい風景画』を描くために、その偉大な牙を隠してしまったことを……一人の熱狂的なファンとして、嘆いているだけなのですよ」
「…………っ」
喜多はぐうの音も出なかった。
薊は「お前たちは無知だ」とは一言も言っていない。「あなた方の味覚は正しく、この料理は素晴らしい」と完全に肯定している。
しかし同時に、「だが、えりなの真の才能は、お前たちのような一般人が到底理解できない遥か高みにある」という残酷な事実を、どこまでも優しく突きつけたのだ。
怒る理由も、反論する隙すらも完全に奪われた客たちは、ただ圧倒的な格の違いを見せつけられ、静かに席に座り直すことしかできなかった。
「お騒がせしましたね。さあ、どうか気を悪くせず、引き続きこの素晴らしい『風景画(ディナー)』を楽しんでください」
薊はにっこりと微笑むと、動けなくなっているえりなの元へ歩み寄り、その震える肩にそっと手を置いた。
「思い出すといい、えりな。君の舌が本当に求めている、妥協のない至高の世界を。私が君を、この退屈な大衆の箱庭から連れ出してあげよう」
全否定されるよりも恐ろしい、逃げ場のない「完璧な理解と肯定」。
反発する理由すら奪われたえりなは、ただ父親の温かい手のひらの下で、己の足元が音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。
だが、その重苦しく支配された空気に、恐ろしいほど無頓着な声が飛び込んできた。
「よっ、薙切! 月饗祭もそろそろ終わりだし、噂の『薙切えりなの料理』ってやつを食いに来てやったぞ!」
重厚な扉を勢いよく押し開けて入ってきたのは、首に手ぬぐいをかけた幸平創真だった。彼は店内の凍りついた異様な光景に全く気づいていない様子で、ひょいひょいとテーブルへと歩み寄ってくる。
そして、えりなの肩に手を置いている男——薙切薊をまじまじと見上げると、屈託のない笑顔で大ざっぱに話しかけた。
「ん? なんだいおっさん、薙切になんか用か? えらいパリッとしたスーツ着て、薙切の関係者か何かか?」
「あっ、くっ、幸平ぁぁぁっ! 貴様、何をっやって、貴様!」
のどがかすれるような悲鳴を上げたのは緋沙子だった。彼女は血相を変えて創真の襟首を掴まんばかりに間に割り込むと、全身を激しく震わせながら叫んだ。
「このお方は……えりな様のお父上だっ」
「え? 薙切のお父さん?」
創真は「へぇ〜!」と声を上げると、緋沙子の制止をあっさりとすり抜け、ますます興味深そうに薊の顔を覗き込んだ。
「へえ、お父さんか! 薙切ーーあ、どっち薙切になっちまうか。じゃあえりなにちょっと似てると思ったぜ。初めまして! 俺は幸平創真。えりなと同じ一年の生徒です!」
物怖じするどころか、さらに距離を詰めてくる創真の態度に、緋沙子は目を見開いて絶句した。えりなも蒼白な顔のまま、固まって創真を見つめることしかできない。
しかし、当の薊は怒るどころか、どこか面白そうに漆黒の瞳を細めた。
「幸平創真くん……君の活躍は耳にしているよ。なかなか威勢の良い料理人がいるものだね」
「おう! それでさ、お父さん。お近づきの印ってわけじゃないけど、これ食ってみてくれよ」
創真は持っていた紙袋から、ホカホカと湯気を立てる丸い焼き饅頭を取り出した。自分が模擬店で出している『胡椒餅(フージャオピン)』だ。
「なっ……!? っ、幸平くん、何を考えているの!?」
えりなは我に返り、悲鳴を上げた。
お父様に、そんな大衆的な屋台料理を差し出すなんて。幼い頃の記憶なら、このような「粗末な料理」は一瞥されただけでゴミ箱へ捨てられていたはずだ。
だが、えりなの予想は再び裏切られた。
薊は一切の不快感を見せることなく、「ほう……ありがとう。いただくよ」と優雅な手つきで胡椒餅を受け取ると、躊躇なくその生地を一口かじったのだ。
「……ふむ」
ゆっくりと咀嚼し、鼻から抜けるスパイスの香りを確かめると、薊は静かに深く頷いた。
「素晴らしい出来だ。限界までの高温調理で生み出された生地の香ばしさ、閉じ込められた肉汁のジューシーさ、そして五香粉と黒胡椒の巧みな引き立て合い……屋台料理として、極めて高いレベルに到達しているよ」
「へへっ、だろ?」
鼻を鳴らす創真。しかし、薊の瞳がすっと鋭さを増した。
「……だがね、幸平くん。君のこの料理は、料理人としての致命的な『配慮の欠如』を抱えている」
「ん? 配慮?」
「そう。この山手エリアの最奥、最高級の格式が用意されたこの店で油を飛ばしながら食すという演出(ドレスコード)の不備もそうだが……より深刻なのは『客の舌(味覚)への影響』だ」
薊はえりなが作った繊細なコンソメスープをそっと指し示した。
「えりなの料理は、微細な香りと旨味の重なりを楽しむ至高の芸術だ。だが、君の胡椒餅に使われている強い黒胡椒やスパイスの刺激は、食べた者の舌を麻痺させ、味覚を著しく鈍らせてしまう。この胡椒餅を口にした後にえりなの繊細な料理を食べても、客はその真価を正しく感知し、楽しむことが不可能になってしまうのだよ」
薊は創真の目を静かに見据え、淡々と、しかし圧倒的な正論を突きつけた。
「どれほど単体の味が良くとも、『その後に控える繊細な皿の味わいを破壊してしまう提示』は、コース全体、ひいては食卓全体のストーリーを台無しにする行為だ。それは料理の評価を大きく落とすマイナス要因と言わざるを得ないね」
一切の感情的な攻撃ではない、味覚のメカニズムと食卓の調和に基づいた正確な指摘。
創真は目を丸くし、大きく手を打った。
「あー……っ! たしかに! スパイスで舌がピリピリしてたら、えりなのすげー細かい味付けが分かんなくなっちゃうもんな!」
不服そうな顔ひとつせず、直言を素直に受け入れて感心する創真。
その屈託のないやり取りと、ふっと和らいだ室内の空気によって、えりなは「はぁ……っ」と喉の奥で詰まっていた息をようやく吐き出すことができた。胸を押し潰していた過剰なプレッシャーが、創真のマイペースさと薊の意外な対応によって綺麗に霧散していく。
そんな娘の様子の変化を悟ったのか、薊は優しく目を細め、えりなへと視線を向けた。
「……ところで、えりな。彼は君のご友人かい?」
「え……? あ……」
思いがけない質問に、えりなは言葉を詰まらせた。
ただの編入生、生意気な定食屋の息子、けれど自分を助けてくれたこともあった存在……どう表現すべきか分からず、えりなが言いよどんだその瞬間。
「おう! 俺とえりなは友だちだぜ!」
創真が間髪入れずに即答した。
「〜〜〜〜っっっ!? ちょっと、誰が貴方なんかと友達よ!! 勝手に決めつけないでちょうだい!」
えりなの叫び声が静寂を突き破り、メインダイニングの空間に響き渡る。恐ろしい父親の存在すら一瞬忘れ、真っ赤になって創真に食ってかかるその姿は、いつもの「高飛車な総帥の孫娘」そのものだった。
給仕の緋沙子も思わず呆然と二人を見つめ、店内に漂っていた重苦しい圧迫感が、一瞬だけ和らいだように思えた。
しかし——。
「ただ——良い友達とは、まだ呼べないな」
低く、どこまでも洗練された薊の声が落ちた瞬間、その場の上空気が再び凍りついた。
「……っ!?」
えりなはハッと息を呑み、金色の瞳を大きく見開いた。自分に向けられた肯定が取り消されるのかという恐怖と、創真が存在ごと否定されるのではないかという謎の緊迫感が胸を締め付ける。身体が再び強張り、喉の奥で詰まった息が微かな悲鳴となって漏れた。
だが、その張り詰めた緊張をまるで見留めていない男が一人。創真は頭の後ろで両手を組み、首を軽く傾げながらあっけらかんと問い返した。
「ん? まだってのはどういうことだ、お父さん?」
恐れを知らぬその無邪気な問いに、薊は眉ひとつ動かさず、ふっと薄い唇を和らげた。
「ああ……言葉通りの意味さ」
薊はどこか深淵を感じさせる眼差しを動けなくなっているえりなへと向け、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「これから遠月は、大きく変わる。えりな、勘違いしないでほしいのだが、私は君を縛り付けるために戻ってきたのではない。君をこの退屈で浅薄な大衆の箱庭から連れ出し、誰も到達したことのない真の美食の世界へと導くためにね。……彼が君の友だちとしてふさわしい資質を持っているかどうかは、これから訪れるその新しい世界で判断するとしよう」
立ち昇る巨大な野望と、娘に対する異質で歪なまでの優しさ。薊の浮かべた不敵な笑みには、一切の揺らぎがなかった。
「ごちそうさま、えりな。実に美しく、計算し尽くされた一皿だったよ」
薊は優雅な所作で仕立ての良いスーツの乱れを静かに整えた。その退店しようとする仕草を見て、創真が不思議そうに目を丸くする。
「あれ? お父さん、もう行くのか? えりなのラヴィオリ、まだ一口二口しか食ってねぇだろ。残すなんて勿体ねぇぜ」
「……ふふ、ちょうど食べる理由を奪われてしまったからね」
薊はそう言うと、手元に残っていた創真特製の胡椒餅を、軽く指先で掲げてみせた。
その言葉の真意——胡椒餅に含まれる強い黒胡椒やスパイシーな香辛料の刺激によって舌の味覚センサーが一時的に鈍化し、この後にラヴィオリを食べても、えりながミクロン単位の計算で組み上げた黒トリュフの繊細な揮発香やコンソメの極上の余韻を100%正しく感知できなくなってしまったということ——。
論理を理解した瞬間、創真はポンと手を叩き、深々と頭を下げた。
「あー……! 俺のスパイスで舌が麻痺しちゃったからか! ……いやー、すんませんでした!」
一切の言い訳もせず、屈託なく頭を低くする創真の素直な態度に、薊はくすりと低い声を立てて笑った。
「構わないよ、幸平くん。君のその無鉄砲な情熱のおかげで、君という実に面白い料理人の存在を知ることができたのだからね。……『次』を楽しみにさせてもらうとしよう」
己の舌を試されたことへの不快感など微塵も見せず、むしろ未知の可能性を楽しんでいるかのように満足げな笑みを残すと、薊は洗練された一連の動作で一礼した。そして、一歩一歩踏みしめる足音すら気品に満ちた佇まいで、静かにメインダイニングを後にした。
重厚な扉が静かに閉じ、圧倒的な威圧感を放っていた父親の気配が完全に消え去る。
えりなは、その場に棒立ちになったまま、呆然と去っていったドアを見つめていた。
自分を長年縛り付け、呼吸すら狂わせる恐ろしい支配者。その存在に絶望の底へ引きずり降ろされかけていたはずの時間は、目の前で「いやー失敗したなー」と能天気に頭を掻いている編入生によって、あまりにも呆気なく、けれど確かに打ち砕かれていたのだった。
――
「……おや、相田。待たせたね」
耳に馴染んだ、どこか静謐で美しい声が聞こえ、車のドアの横で待機していた秘書・相田は素早く姿勢を正した。
手元の時計に目を行き届かせる。薙切えりな様が出展された店の扉を潜ってから、それほど長い時間が経過しているわけではない。彼女の料理を味わうにしてはあまりにも短い滞在時間だった。
「薊様、お戻りになられましたか。ですがいささか早いお戻りに見受けられますが……」
相田が恭しく問いかけると、薊はふっと肩の力を抜き、困ったような苦笑を浮かべた。冷徹な支配者としての面影を引っ込め、どこか懐かしい思い出でも反芻しているかのような、柔らかい表情だった。
「なに、面白そうな料理人に邪魔をされてしまってね……」
そう呟く薊の手元には、山手エリアには不似合いな紙に包まれた小ぶりの温かい物体があった。創真が持ち込んできた台湾の屋台料理、『胡椒餅』である。
「薊様……そちらは?」
「その面白そうな料理人から受け取ったものだよ。まだ殆ど残っている。後で食べるといい、相田。君なら……美味しく食べられるだろう」
すっと差し出された胡椒餅を受け取り、相田はわずかに困惑を隠せなかった。彼がこのようなB級グルメを手にし、ましてや他人に勧めるなど、普段の彼からは到底考えられない行動だったからだ。
「失礼ながら総帥……お気に召さなかったのでしょうか?」
相田の問いに対し、薊は視線を遠くへと向け、静かに言葉を紡いだ。
「味に関しては論外だ。……だが、本来の場であるのなら料理としては評価しよう。相田、料理というものは時に芸術に例えられる。絵画や彫刻のようにね。……もしこの料理を芸術で例えるなら、さしづめ『廃材アート』といったところか」
「廃材……アート、ですか」
「そうだ。限られた手段と雑多な素材を用い、力技でその完成度を極限まで高めて見せた。その工夫と熱量……料理という枠組みにおける試みとしては、評価に値する。しかし……所詮は『点数を付けられるだけの落第』だよ」
点数を付けられるだけの落第——。
絶対的な美意識を持つ薊にとって、彼の提示するレシピ以外はすべて不完全な価値しか持たない。だが、その完璧主義の総帥に「点数を付けられる」「料理としては評価する」と言わしめた事実の重みを、相田は内心で噛み締めていた。世の中に存在する無数の料理の中で、薊からその域の評価すら得られる皿が、一体どれほどあるというのだろうか。
「それにね」
薊は自身のスーツを軽く整え、路上に視線を向けた。
「これから会う人物のことを考えれば、そのようなものを手にしたままでは、いささか不格好だろう?」
その言葉を合図にしたかのように、静まり返った店の前に、重厚なエンジン音とともに黒光りする高級外車の車列が滑り込んできた。
次々とドアが開き、黒塗りの車内から重々しい圧迫感を纏って降り立ってきたのは、総帥——薙切仙左衛門であった。
時代のうねりを生み出してきた巨大な存在を前にしても、薊の表情はピクリとも揺れない。それどころか、彼は完璧な所作で優雅に腰を折り、芝居がかった大げさな会釈で旧時代の王を出迎えたのだった。
悪役らしいところは次あたり