もしも薙切薊の性格がマイルドだったら 作:作者さん
会場は反逆者陣営の勝利を祝う熱狂的な歓声に包まれていた。しかしその喧騒から切り離されたかのように、十傑陣営の厨房には静謐な空気が漂っていた。
司瑛士と美作昴――盤上を支配した二人の巨人の身体には、ただの一枚も衣服の欠損がない。薙切薊が放った超広域の『おさずけ』の余波をモロに受けたはずの立ち位置にありながら、彼らの純白のコックコートは乱れることすらなく、そこにあった。
敗因は「勝利への渇望」や「エゴの強さ」といった精神論の差だと言う者もいるだろう。
だが、彼らはそんな不確かなものを遥かに凌駕するだけの、絶対的な『完成された料理』を創り上げた。WGOの一等執行官であるアンに、その矜持と進退を賭けさせるほどの衝撃を与えたのだ。最終的な勝敗を分けた決め手が一人の父親の「私情」であったというのなら、それは自分たちの料理が劣っていたわけではなく、ただ単に「運が悪かった」と言うほかない。
彼らの心には、自分たちの料理が敗北したという認識が微塵も存在していなかった。その絶対的な確信と誇りがあったからこそ、薊の放った『おさずけ』は、彼らの服を一枚たりとも剥ぎ取ることはできなかったのだ。
しかし。
司瑛士は、白衣の横に下ろした自身の右手が、無意識のうちに白くなるほど強く握り込まれていることに気が付いた。
(……おかしいな。どうして俺は、こんなにも負けたくなかったと……悔しいと思っているんだろう……)
自分でも気づかないその感情を持て余しながら、司は静かに隣を振り返った。
「……ごめんね、美作くん。負けちゃったか」
申し訳なさそうに声をかける司。
しかし、視線を向けた先にいた美作は、さっさと自分の調理器具を手際よく片付けながら、片手でメモ帳にカリカリとペンを走らせていた。
「……今日の奴はまた再現してもいいな。このレベルの先回りは、いつでも軽く引き出せるようにならないとな……」
勝負の行方など気にも留めていない様子で、ひたすらに先ほどの調理感覚を反芻する美作。
「負けちゃったけれど……美作くんは、気にしてないの?」
司が不思議そうに問う。
自分が十傑の第一席から外れれば、セントラルの持つ最高峰の環境や食材を彼に提供することはできなくなる。それどころか三席であった美作もその煽りを受けてしまい、今まで通りの研鑽はできないだろう、と。
すると美作は手を止め、「何言ってんだこの人は」と言わんばかりの呆れた視線を司に向けた。
「あのな、司先輩。フレンチが他のジャンルに負けたからって、フレンチに失望するか?」
「……え? しない、けど」
「しねぇよな。俺は『あんたの料理』っていう形式で負けただけだろう。それも時と場合……つかその時と場合も殆どのシチュエーションで勝ってたろうよ。この程度の負けが、俺の研鑽になんの関係があるってんだよ」
鼻を鳴らし、再び片付けに戻る美作。そのあまりにもブレない料理人としての姿勢に、司が呆気にとられていた、その時だった。
「おーい二人とも、負けちまったなぁ!」
からかうような明るい声。司がハッとして声の方へ目を向けると、そこには竜胆が立っていた。
だが、彼女は薊の『おさずけ』を正面から食らっており、見事なまでに下着姿のままだった。
「うわあっ!? りゅ、竜胆!?」
司は顔を真っ赤にして慌てて両手で顔を覆い、指の隙間から完全に目を逸らした。
「み、美作くん! タオル! タオルとかある!?」
「くくく……昨日一昨日と俺も消耗が酷かったからなぁ。汗を拭く用の大判タオルなら、十分に……」
「借りるよ!!」
美作が言い終わるよりも早く、司は積んであったタオルをバサッと奪い取り、目を背けたまま竜胆へと押し付けた。
「おっ、サンキュー司!」
竜胆は自身の露出など特に気にする素振りも見せず、渡された大判タオルをマントのようにぐるりと身体に巻きつける。
その後ろでは、自分の汗拭きタオルを全部奪われた美作が「おい……」とぽかんとしていた。
「はぁー……もう。相変わらずだね、竜胆は」
どっと気疲れしたように、深い溜め息を吐く司。
「なんだよー、せっかく負けたお前を慰めに来てやったのによ!」
「あはは……」
むくれる竜胆に、司は困ったように苦笑する。
「まぁ、そうだね。幸平たちの料理は、本当に凄かったから……」
そう口にしながらも、司の右手はまだ硬く握り込まれたままだった。負けはしたものの、自分たちの料理は最高の完成度だったはずだ。それなのに、なぜこんなにも心がざわつくのか。
俯きかけた司の言葉を遮るように、竜胆が口を挟んだ。
「んー、まぁそうだけれどさ」
竜胆はニカッと悪戯っぽく笑い、司の顔を真っ直ぐに覗き込んだ。
「あたしは、こっちの方がいいと思ったけどなー」
「……え」
司はぽかんと口を開け、目を丸くして竜胆を見つめた。
圧倒的な熱量で盤上を呑み込んだ反逆者の料理でもなく、世界の権威が下した評価でもなく。ただ、目の前にいる相棒が「お前の料理の方が好きだ」と笑ってくれた。
その瞬間、司の中でわだかまっていた正体不明の熱が、スッと解けていくのを感じた。
「……そっか」
司は少しだけ照れくさそうに、しかし今日一番の柔らかい苦笑を浮かべた。
「そうだね。それならまぁ……いいか」
無意識のうちに白くなるほど強く握り込まれていた司の右手が、ゆっくりと、ふわりとほどかれていく。
「…………」
少し離れた場所で、残りの調理器具の片付けに入っていた美作は、その一部始終を横目で見届けていた。
(……理由はそれじゃねぇか)
無意識の悔しさの正体に的確なツッコミを入れつつ、美作は微かに口角を上げ、再び己の作業へと戻っていった。
――
反逆者たちの勝利の余韻。そして、それに伴い繰り上げられるであろう『新たな十傑』の決定――会場全体が割れんばかりの歓声と怒号のような熱気に包まれる中、その喧噪を背に、敗者である薙切薊は一人静かに会場の外へと足を向けていた。
乱れたスーツを整え、ジャケットに袖を通しゆっくりと襟元を整える。
「お疲れ様でした、薊様」
カチリ、と腕時計に目を落としていた男が静かに深々と頭を下げた。秘書の相田である。
「やぁ、相田。……予定通りに事は進んだよ」
髪を撫でつけながら事もなげに告げた薊に対し、相田はわずかに眉間を押さえ、深く重い溜め息を吐き出した。
「……つまり私にとっては、大変頭の痛い事態になったということですね」
この連隊食戟に臨むにあたり、薊は勝利した場合と敗北した場合、その双方のシナリオに基づくスケジュールと事後処理の手順を相田に提示していた。
敗北した今、相田の手元にあるのは「総帥退任に伴う膨大な後始末」のファイルだ。遠月学園のトップがすげ替わることによる出資企業への説明、世界各国の料理機関への連絡、手配していたプロジェクトの白紙撤回と各種調整――これから彼を待ち受ける仕事量は途方もない。
もし勝利していれば、何一つスケジュールを変更することなく、すべては「予定通り」に滞りなく進行していたはずだった。
「まぁ、そう頭を抱えるな。君の手腕なら滞りなく処理できると信じているよ」
心底人ごとのように微笑む薊に、相田は眼鏡の奥の目をわずかに細めたが、それ以上は何も言わずノートPCへと視線を戻した。
「……次の総帥の目処は、すでにお立ちでしょうか」
「言うまでもないだろう。えりなだよ」
薊は短く答えると、薄い唇の端を優雅に持ち上げた。
「あのお義父さんのことだ。一度は僕にむざむざと座を乗っ取られた身……いまさら元の鞘に収まったところで、世間に対する面子が立たないと断るに決まっている。だからこそ、次のトップは必然的にえりなになる」
ふっと目を細め、どこか遠くを見つめるように薊は言葉を続ける。
「こういう時、血縁というのは実に便利でね。外部の人間とは違い、ただ『血を引いている』というだけで、対外的な信頼の一定数は無条件で担保される。おかげで僕が学外で作ったパイプや繋がりを彼女へと引き継ぐ際も、極めてスムーズに済むというものさ」
「……あらかじめ作成しておいた引継ぎ資料が無駄にならなかったことを、喜ぶべきなのか呆れるべきなのか……実に悩ましいところですね」
相田は手元のノートPCをパタリと閉じると、どこか呆れたような、それでいてどこか諦めたような溜め息混じりに皮肉を零した。
「ハハ……まあ、備えあれば憂いなしと言うじゃないか」
申し訳なさそうに苦笑を浮かべる薊に、相田は眼鏡の位置を正しながら、一度だけ静かに深々と頭を下げた。
「では、車を回してまいります。準備が整い次第、外でお待ちください」
「ああ、頼むよ」
足音もなく控室をあとにした相田の背中を見送り、薊は再び一人、静寂の中に残された。
やるべきことは、すべてこなした。セントラルによる遠月改革という野望そのものは潰えたが、遠月の未来を担うべき若い才能たちは見事なまでに芽吹き、えりなへの引き継ぎの土台も何一つ問題なく整っている。
(……さて。あとは、朝陽のことも迎えに行かなければな)
己の中に残されたもう一つの心残り――遠く離れた地に残してきた少年を思い浮かべ、取り留めもない思考を巡らせ廊下を歩いていた、その時だった。
「お、いたいた。中村先輩!」
廊下の曲がり角から、ひょっこりと顔を出したのは――赤毛の少年、幸平創真だった。
「……君か」
薊は思わず意外そうな表情を浮かべ、軽く目を丸くした。
「今回の連隊食戟における最大の立役者が、こんなところで油を売っていていいのかい? 会場では君を称える歓声が、今も鳴り止まないはずだが」
「いいのいいの! 面倒くさい挨拶やら何やらは、全部押し付けて逃げてきたからさ」
創真は両手を頭の後ろで組みながら、いつものようにケラケラと軽快に笑ってみせた。
「今頃あっちじゃ、服を脱ぎ散らかしたみんなが『えりな新総帥ばんざーい!』って大盛り上がりでさ。薙切の奴、顔真っ赤にして怒鳴り散らしてたぜ」
「ハハ……目に浮かぶようだな」
嵐の去ったあとのような会場の惨状と、必死に場を収めようとあくせく立ち回る愛娘の姿を思い描き、薊は思わず口元を緩め、穏やかな苦笑を漏らした。
「そういえば、一つ気になっていたことがあってね」
穏やかな笑みを浮かべたまま、薊はふと、静かな声音で問いかけた。
「どうして君は、あのコース料理において素直に前菜の役目を引き受けたんだい? 君のことだ、自分こそがメインを張ると、えりなと競い合うものだとばかり思っていたのだけれど」
負けん気が強いこれほどの料理人が、あっさりとメインの座を譲った。その事実が、薊にとっては少しばかり不可解だったのだ。
しかし創真は、さも当然のことのようにカラッと笑って首の後ろを掻いた。
「ま、俺だって最初は絶対メイン張ってやるってつもりだったんすけどね」
そう前置きして、創真は薊の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「薙切が、どうしても『親父さんに自分の飯を食わせたい』って言うからさ。……それに、俺の目的は最初から一つだったし」
「目的?」
「薙切に『美味い』って言わせることっすよ。俺が作った料理で、あいつに美味いって言わせるためなら、それがメインだろうが前菜だろうが関係ねーんです」
ただその一言を引き出すためだけに、自分の全力を前菜の一皿に注ぎ込んだ。
料理人としてのエゴすらも飛び越えた、あまりにも純粋で一直線な創真の動機に、薊はわずかに目を丸くし――やがて、小さく息を吐いた。
「……それで。彼女は素直に『美味い』と言ってくれたのかい?」
「それが全然なんすよ!」
薊の問いに、創真は不満げに顔をしかめて見せた。
「あいつ、絶対心ん中じゃ美味いって思ってるくせに、頑なに『不味い』だの『お粗末』だの言うんだぜ? なーんか素直じゃねーっていうか、往生際が悪いっていうか……ま、そこが薙切らしいっちゃらしいんすけど」
やれやれと肩をすくめる創真の愚痴を聞き、薊は一瞬だけ虚を突かれたように言葉を失った。
『美味い』と思っているのに、けして口には出さない。その頑なで不器用な反応の正体に思い至り――薊の口元から、自然と柔らかな笑みがこぼれ落ちる。
それは冷酷な総帥としての顔でも、狂気に憑りつかれた求道者の顔でもない。ただの一人の男としての、どこか懐かしむような優しい微笑みだった。
「なるほど……。ひどく、覚えがあるね」
「ん? なにがっすか?」
「いや……僕の妻、真凪も最初の頃はそうだったからね。あの母娘は、本当にそういうところばかり似てしまうらしい」
くく、と声を漏らして笑う薊。
思いがけない言葉に、創真は「へぇ、薙切の母ちゃんもそんな感じなのか」と目を瞬かせた。
「ただ――僕には、その言葉を彼女から引き出してやることができなかった」
ふと、薊の口から零れ落ちたのは、ひどく自嘲めいた微かな呟きだった。
先ほどまでの穏やかな空気は消え失せ、その後ろ姿には、拭い去ることのできない深い暗い影が落ちている。
「……? どういうことっすか」
創真は不思議そうに首をかしげた。
薊は窓の外――すでに陽が落ちかけた空へと視線を向けたまま、静かに語り始めた。
「『神の舌』と呼ばれる特異体質……。それは料理人にとって至上の道標であると同時に、持ち主を破滅へと追いやる呪いでもある。世のすべての味が凡庸に、あるいは不快な泥水のように感じられるようになり、やがて食という行為そのものに絶望し、心身ともに倒れ伏していく……」
薊の脳裏に浮かぶのは、かつて愛した妻の姿。食事を受け付けなくなり、点滴に繋がれ、やつれ果てていく真凪の横顔だった。
「真凪も、同じだった。そして『中村薊』という一人の料理人では……彼女の舌の進化に追いつき、その絶望を救い出せるような料理を生み出すことは、ついに叶わなかった」
そこにあるのは、絶対的な権力者としての威圧感ではない。ただ己の無力さに打ちひしがれた、一人の敗北者の横顔だった。
「才波先輩が、果てのない荒野に迷い込んで壊れていくのを救えなかったあの時のように……僕はただ、妻が絶望の淵へと沈んでいくのを、見ていることしかできなかったんだ」
静かな廊下に、薊の絞り出すような声が吸い込まれていく。
その言葉の重みに、創真はいつもの軽口を叩くことなく、じっと薊を見つめていた。やがて、一つ息を吐いて口を開く。
「……だから、その人に皿を出せる料理人を鍛え上げるために、セントラルを作ったってのか?」
一握りの天才だけを引き上げ、徹底的に管理された環境で『真の美食』だけを追求させる。そのシステムそのものが、薊の妻を救うための巨大な厨房だったのではないかと。
創真の真っ直ぐな問いかけに、薊はゆっくりと振り返った。
「……それは、理由の一つではあるよ」
薊は否定しなかった。
「僕だけの力で駄目なのだとしたら、システムそのものを変革するしかなかった。彼女にとって料理と呼べないものを駆逐し、徹底した研鑽と選別の果てに、いつか彼女が口にできるだけの料理が生み出されるのならと……そう願っていたことも事実だ」
それは、薙切薊という男が狂気に走った、一つの原点だった。
しかし、創真はその言葉の裏にある「ニュアンス」を聞き逃さなかった。
「……一つっていうなら」
創真は一歩前へ踏み出し、薊の目を真っ向から見据えた。
「残りの理由は、なんなんだ?」
「……どうしてそれを聞くんだい?」
薊が静かに問い返す。
決戦の前夜、一色先輩に「なんのために料理をするのか」と問われ、えりなが「お父様のことが分からない」と溢していたあの時。
創真は「親父さんが何をさせたいかじゃなく、お前自身がどうしたいかだ」と笑って流し、薊自身の思惑なんてロクに気にしていなかった。
「さあ。理由はよく分かんねーけど……なんか、今ここで聞いておかないとならない気がしたんすよ」
だが、今は違う。
この連隊食戟が終わっても、自分の料理人としての道は続いていく。そしてこれから先、何度も何度も、薙切えりなに自分の皿を突きつけ、「美味い」と言わせる勝負を挑み続けるのだ。
ならば――その『神の舌』の呪いと戦い、絶望に抗おうとしたこの男の真意を、ここで聞いておかねばならないと、創真の直感が告げていた。
創真の据わった真っ直ぐな瞳を見つめ返し、薊はふっと寂しげに目を細め、静かに語り始めた。
「……幸平君。人がこの遠月学園に生徒として中枢に関われる時間は、たったの三年間に過ぎない」
薊は窓の外――すでに陽が落ちかけた空へと視線を向け、噛み締めるように言葉を続ける。
「そのあまりにも短い歳月は、料理人としての人生で最も密度が高く、己の技術と理念を極限まで研鑽できる……何物にも代えがたい時間となる。この圧倒的な密度の三年間をどう過ごすかが、料理人としての未来のすべてを決定づけるのだから」
そこまで言うと、薊は創真へと向き直り、どこか哀愁の漂う眼差しを向けた。
「……だからこそ、なんだよ。己を最も研鑽できるその『最高のタイミング』でこそ、超えねばならぬ至高の『試練』を与える必要があった。彼らが最も瑞々しく、最も急激に成長を遂げるこの一瞬を、僕は逃すわけにはいかなかった」
「……」
「以前、僕は多くの生徒たちにこう言ったね。『君たちは決して捨て石などではない』と」
「……応。言ってたな」
「――あれは、嘘なんだ」
何の躊躇もなく、吐き捨てるように告げられた言葉。
薊の唇からこぼれ出たのは、絶対的な指導者としての威厳ではなく、どこまでも泥に塗れた自嘲の音色だった。
「本当はね……生徒たちも、セントラルも、十傑も、この遠月学園という組織も。――そして、僕自身でさえも」
薊は自分の手元に視線を落とし、ゆっくりと指を折りたたんで拳を作った。
「彼女を……彼女と共に歩む
過酷な淘汰の果てに生み出される『真の美食』。
徹底的な管理と選別の果てに、最高峰の才能とレシピだけを抽出するシステム。それら全ては、いつか真凪やえりなを救う『同志』となる料理人を鍛え上げるための、巨大な実験場であり、踏み台に過ぎなかった。
「あの時――僕の持てる全てを以て、命を賭して力を尽くさなかったという……僕の後悔を繰り返さないためのね。いわゆる、身勝手な自己満足と言うわけさ」
かつて才波城一郎が荒野で倒れていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
愛する妻が食の絶望に沈んでいくのを、救うことができなかった。
己の無力さを呪い、二度と同じ過ちを繰り返さないために世界を巻き込んで創り上げた狂気の構想。それが、薙切薊という男の『セントラル』の真実だった。
「……君の歩みと同じ、いや……それ以上の速さで、えりなは料理人としての道を歩んでいくだろうね」
薊は一旦言葉を区切り、窓の外に広がる夜空から創真へと視線を戻した。
「彼女に皿を出し続けるということは、絶え間ない研鑽の先にある一皿を……常に『凄いものとは何か』を考え続け、求められ続けるということだ。どこまで歩んでも終わりのない、果てしない問いを突きつけられ続けるということだよ」
その言葉を聞いた瞬間、創真の思考が一瞬にして過去へと飛んだ。
――どこかで聞いた覚えがある。
いつだったか、あの小さな「定食屋ゆきひら」の厨房で、顔も思い出せない誰かから投げかけられた問い掛けだ。
『登れば登るほど空気が薄く、道は過酷になる……周囲が次々と倒れていく中で、それでも足を止めず真っ先に立っている人間のことを、君はどう思う?』
そう問われ、幼かった自分が腕を組んで返した言葉。
あの日、まだ手探りで料理をしていた自分が「なんだか大変そうだな」と他人事のように口にした、圧倒的な頂点に立つ者が背負う過酷な運命。
それとまったく同じ問いを、今、目の前の男は再び自分に投げかけているのだと気づき、創真はハッと目を見開いた。
静まり返った廊下で、薊は創真を視界に入れたまま、静かに、だがどこか試し確かめるような重みを含んだ声を投げかけた。
「……『少年』。君に、その道を進む覚悟はあるのかい?」
かつてと他人事のように評していた、登れば登るほど空気が薄くなる果てなき荒野。かつての中村薊という男が絶望し、途中で足を止めてしまったその領域。
そこへ自ら飛び込み、凄まじい圧力を受け止めながら歩み続ける覚悟があるのかという問い。
だが、創真は一切の躊躇を見せなかった。
「――当たり前っすよ」
創真はニッと笑い、迷いの欠片もない真っ直ぐな瞳で即答した。
「あいつに『美味い』って言わせるまで、俺が立ち止まるつもりなんて毛頭ねぇっすから」
かつての自分が背負いきれずに打ちのめされ、決して成すことができなかったこと。
それを目の前の赤毛の少年は、何の戸惑いも、何の恐れもなく、当然の前提として言い切ってみせたのだ。
「――そうか」
薊の口元から、自然と小さく笑いがこぼれ落ちた。
そこにあったのは、冷酷な総帥としての威厳ではなく、あまりにも眩しい光を前にした、一人の男の苦笑だった。
「……えりなのことを頼んだよ。あの子は少し意地っ張りなところがあるからね」
すべての吹切れたような表情でそう告げ、薊が静かに踵を返そうとした、その時だった。
「あー……そのことなんすけど」
創真が首の後ろを掻きながら、呆れ半分といった様子で声を挟んだ。
「……本人に直接言った方がいいんじゃないすか?」
そう言いながら、創真は自分が歩いてきた廊下の曲がり角へと視線を向けた。
その瞬間、影の中からびくんと肩を揺らす気配が漂う。
「ほら、いつまでも隠れてねーで出てこいよ、薙切」
「っ……!」
創真に促され、おずおずと曲がり角から姿を現したのは――薙切えりなだった。
「……っ」
薊は思わず息を呑み、微かに目を見開いた。
まさか自分と創真の一問一答を、すぐ近くで全て聞かれていたなどとは夢にも思っていなかったのだ。優雅な立ち振る舞いを崩さぬ薊にしては珍しく動揺を隠せず、創真へと恨めしげな視線を向けた。
そんな薊の視線を受けても、創真はどこ吹く風で肩をすくめてみせる。
「いやー、実はあっちの会場、今すっげー大変なことになっててさ。薊政権の敗北に納得がいかねぇセントラルの生徒たちが、新十傑になる予定の反逆者陣営に『認めねぇ!』って片っ端から食戟挑みまくってんだよ。そしたら久我先輩やタクミとかが『受けて立つぜ!』ってノリで勝手に勝負始めちゃって、もうしっちゃかめっちゃかでさ」
創真はケラケラと笑いながら手振り身振りを交える。
「で、薙切が親父さんに一言でも言いたそうにしてたからさ。抜け出してここまで連れてきたってワケ」
「……まんまと、一杯喰わされたというわけだね」
意図的に自分と創真のやり取りを聞かせるよう誘導されたのだと察し、薊は諦めたように溜め息交じりの苦笑を漏らした。
そして、胸前で小さく拳を握りしめたまま立ち尽くしている愛娘へと、静かに視線を向け直す。
「……どこから、聞いていたんだい?」
「……最初から、です」
震える声で、えりなは答えた。
創真がこの廊下にやってきて、薊と交わした言葉のすべて。それを彼女は影からじっと聞き耳を立てていたのだ。
えりなの表情は、今にも崩れ落ちそうなほど激しく揺れ動いていた。
先ほど創真が口にした「あいつに美味いと言わせるまで立ち止まらない」という、あまりにも真っ直ぐで力強い決意。自分という存在をどれほど深く想い、命懸けで向き合おうとしてくれているのかという歓喜と恥ずかしさ、そして愛おしさ。
それと同時に、今まで恐怖の対象でしかなかった父親が胸に秘めていた哀しい真意や絶望。
様々な感情が一度に押し寄せ、えりなの心はぐちゃぐちゃに掻き乱されていた。涙が零れ落ちそうになるのを必死に堪える瞳には、「お父様」という存在にすがりつき、淡い期待を抱きたいという切望と、それでも消し去ることのできない不安と恐怖が混ざり合っていた。
「お父様は……今まで、私を……っ」
縋るような、確かめるような声を絞り出そうとしたえりな。
だが――その言葉の続きを紡ぐ前に、薊の静かな声がそれを遮った。
「――僕は君に、洗脳まがいの教育を押し付け、君の心を酷く傷つけた」
薊の声には、何の感情の起伏もなかった。ただ残酷なまでの客観性と自罪に満ちた、酷く平坦な声音だった。
「これを、一般的には『虐待』と言うんだよ」
「……っ」
「それだけではない。君のトラウマを抉り、恐怖によってコントロールしようとした……。仮に僕たちがこの連隊食戟に勝利したとしたら、僕はそれを続けただろう。斎藤くんや茜ケ久保くん、あるいは新戸くんたちを焚き付けるためにね。そうして君たちにさらなる過酷な試練の場を作り上げようとしたはずだ。……僕は、そういう男だよ」
哀れみや言い訳など微塵も差し挟まず、己が犯した罪と狂気を自ら解剖するように、薊はただ冷徹に事実だけを告げた。
「それなら……」
えりなは震える声で、絞り出すように問いかけた。
「それなら私は……先ほどのお父様の思いも、私に託そうと思った全てすら無視して……お父様をただ恨めと、そう言うんですか……!?」
「そうだ」
間髪を容れず、薊は即答した。
「許されるべきではないことをした、とはそういうことだ。僕は君に許されようとも思っていなければ、今更父親と思われようとも思っていない」
一切の温もりを排した言葉。己を悪として完結させ、娘との繋がりを自ら断ち切るための断言だった。
えりなは小さく息を呑み、力なく顔を伏せた。
……ッ。
伏せられた顔の影で、えりなの両手がぎゅっと強く握り締められる。
だが、その握り込まれた拳に宿っていたのは、傷心による震えではなかった。静かに、しかし確実に、ふつふツと煮え立ち始める強烈な『感情』だった。
当の薊は、娘の顔が伏せられたことでその変化に全く気がついていない。どこまでも冷静に、己の描いた幕引きを演じ続けている。
――しかし。
(……あ、これ……マジでやべぇぞ……)
横で成り行きを見守っていた創真だけは、えりなの全身から立ち上り始めた尋常ではない殺気に勘づき、顔を引きつらせて冷や汗をたらりと流した。
そんな緊張感の急上昇にも気づかず、薊はえりなからふいと視線を逸らすと、窓の外を眺めながら事も無げに言葉を重ねた。
「そう言えば、言ってなかったね。僕には真凪以外に関係を持っている女性が居てね。……その人が身ごもった子供が、最近になって見つかったんだ。ああ、これは君のおじい様、仙左衛門殿も知っていることだよ」
まるで今日の天気でも話すかのような、他人事めいた無機質な口調。
君たち母子に未練などない、とでも言いたげなその雰囲気に、創真は心の中で冷汗交じりに絶叫した。
――ギりッ……。
静まり返った廊下に、あまりにも鮮烈な、奥歯を噛み締める音が響いた。
えりなの肩が微かに揺れている。怒りのボルテージはすでに限界突破を迎え、沸点へと達しようとしていた。
「彼もとても優秀な料理人と聞いている。もう、君に関わる必要は無くなったんだ」
『お前の代わりは他にいる。だからお前などもう必要ない』――そうとしか受け取れない言葉を、薊は容赦なく言い放った。
顔を伏せたままのえりなが、静かに右手を持ち上げた。
そして、自分の前を遮る位置にいた創真に対し、無言で『そこを退きなさい』と手をシッシッと払うジェスチャーを送った。
(……あ、やっべ。これ、絶対アレだ。いつか秘書子が地雷を踏み抜いて、ブチギレられた時と全く同じ空気だ……!)
かつて自分と話していた緋沙子も同じように彼女の逆鱗に触れ、一触即発としていたあの時と同じ、いやそれ以上に底知れない爆発寸前の活火山のような気配。
あまりの圧に本能的な危険を察知した創真は、引きつった顔で素早く、サーッと道を空けた。
「だから君は僕を――」
トドメと言わんばかりに言葉を続けようとした薊は、創真が不自然に大きく距離を取ったことに違和感を覚え、再びえりなへと視線を向けた。
――それが、間違いだった。
視線を戻した次の瞬間。
薊の視界いっぱいに広がっていたのは、いつの間にか目と鼻の先まで間合いを詰め、右手を限界まで大きく振りかぶっている娘の姿だった。
(え――)
理解が追いつくよりも早く。
――バツィィィンッ!!!!
静寂を激しく切り裂く、えげつない破裂音が廊下に響き渡った。
「ぐっ……!?」
手加減など微塵もない、全身の体重と凄まじい怒りを乗せたフルスイングのビンタ。
その想定外すぎる威力と衝撃に薊の身体が大きく揺らぎ、数歩たたらを踏んで壁に肩を打ち付けた。
「つ……っ!?」
打たれた左頬を押さえ、完全に困惑した表情で目を丸くする薊。あの完璧主義者の男が、生まれて初めて見せた無防備で情けない姿だった。
そんな父親を――紅潮した顔で肩を上下させ、呼吸を荒らげたえりなが、ぎりっと奥歯を鳴らしながら凶暴なまでの眼光で睨みつけていた。
「ええ、ええ、そうでしょうね……! お父様の言葉には、何一つ『嘘』は無いのですね!」
叩きつけられた衝撃で壁に肩を預けたまま、茫然と頬を押さえる薊に向かって、えりなは荒い息の下から激越な声を叩きつけた。
「ですが、お父様――! 『言ってないこと』は何なのですか!?」
「な……っ」
えりなの瞳から溢れ出しているのは、悲しみでも絶望でもない。己を無理やり悪者に仕立て上げ、綺麗さっぱり娘の前から消え去ろうとした父親の思惑を完全に叩き潰す、苛烈極まりない怒りだった。
「お母様以外に関係を持った女性がいる? その人が身ごもった子供が見つかった? ええ、嘘ではないのでしょう! ですが、それ一体『いつ』の話ですか!? お母様と正式に結ばれた後の話なら、あのおじい様がそんな隠し子を今まで見過ごすはずがないでしょう!」
「つ、……それは……」
図星を突かれ、薊の顔がわずかに引きつる。
「その息子が優秀な料理人? 私に関わる必要が無くなった? ふざけないでください! それはそれ、これはこれの話で、本当は何も繋がっていないのでしょう!? 幸平君に私のことを頼むと決めたから、自分から私に関わる必要が無くなったとお父様が勝手に考えているだけ! その子、貴方の息子とやらの評価や存在なんて、今の私の状況と何の関係も無いのではないですか!」
自分を悪として完結させ、娘に一切の未練を残させないために重ねた『事実を切り貼りした詭弁』。
言葉に嘘はないが、誤解を誘導するように巧みに並べ替えられたロジックの綻びを、えりなは観察眼と鋭利な言葉で次々と暴いていく。
「それに……『一般的には虐待』だなんて、よくもそんな白々しい言葉を口にできましたね! 『神の舌』が産まれ、料理界を牽引しなければならない宿命を背負った薙切家のどこが、『一般的な家系』なのですか! 教えてください、お父様!!」
「い、いや……それは……」
かつて遠月を恐怖と圧倒的な威厳で支配し、あらゆる者を冷徹な論理で屈服させてきたあの薙切薊が。
愛娘のあまりの迫力と、一切の隙もない正論の連撃を前に、冷汗をダラダラと流しながら完全にしどろもどろになっていた。
「私が! 薙切えりなが! もう一度お父様と食卓を囲みたいと、そう思ったのです!」
静まり返った廊下に、えりなの悲痛で、それでいて力強い叫びが響き渡った。
「私がそう望んだことに、お父様ご自身の意思や、今までやってきたことが関係ありますか!? 私はただ、もう一度……!」
その言葉は、薊が長年かけて築き上げてきた冷徹な論理の壁を、根底から叩き壊すものだった。
すべてを切り捨て、独りで罪を背負って消えようとしていた薊の胸に、娘の純粋すぎる願いが突き刺さる。
「……しかし」
それでも、薊の口からは無意識のうちに拒絶の言葉が漏れ出ようとしていた。
自分が彼女に強いてきた洗脳、抉り続けたトラウマ。いくら娘がそう言ってくれようとも、その言葉に甘えて許されていいはずがない。自分には、二度と彼女の隣に立つ資格などないのだと――。
そう、己の罪に縛られた思考を巡らせた、その瞬間だった。
――パァァァンッ!!
「えっ……?」
先ほど叩かれた左頬とは逆――今度は右頬に、鋭い痛みが走った。
完全に虚を突かれた薊は、両頬を赤く腫らしながら、ただひたすらに困惑した表情で目の前の娘を見つめることしかできない。
「関係ありません!!」
振り抜いた左手を下ろしながら、えりなは一歩も引かずに断言した。
「今ので……今の一撃で、私はもうお父様がしたことを気にしないようにします! だから、お父様を叩いた今の自分の行いにも、私は何の後悔もしていません!」
それは、薙切えりなという一人の娘が下した、あまりにも強引で、不器用で、暴力的な『許し』の儀式だった。
これでお相子。だからもう、過去の罪を盾にして逃げるなと、彼女は全身で訴えかけていた。
「だから……っ」
そこで不意に、えりなの声が震えを帯びた。
「だから……」
怒りで吊り上がっていた目尻から、張り詰めていた糸が切れたように、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ち始める。
「……本当に、待っているお父様の息子がいるのなら……迎えに行ってあげてください。そして、いつかまた……皆で、食卓を囲みましょう……っ」
嗚咽を漏らしながら、必死に紡がれた言葉。
娘の涙と、その奥にある深すぎる愛情を前にして、薊は完全に言葉を失った。
「…………」
両頬の痛みが、ひどく熱い。
己がどれほど理屈を並べ立てようとも、娘はそれを暴力と涙でねじ伏せ、自分という存在を再び家族として繋ぎ止めようとしてくれた。
やがて――薊の口元から、憑き物が落ちたような、柔らかく穏やかな笑みがふっとこぼれ落ちた。
「……ああ、そうだね」
それは、遠月の総帥でも、美食の求道者でもない。ただの不器用な『父親』としての、心からの微笑みだった。
「そうさせてもらうよ。息子を……迎えに行かないとね」
もう、強がる必要も、逃げる必要もなかった。
薊は短くそう告げると、今度こそ静かに踵を返し歩き出す。
その背中へ向けて、えりなは涙声で言葉を投げかけた。
「お父様――また」
足を止めることなく、薊は少しだけ振り返り、優しく目を細めた。
「ああ、また、だ。えりな」
静かな足音と共に、薊の姿が外へと完全に消えていく。
その後ろ姿が見えなくなった途端、えりなはその場にへたり込むようにして両手で顔を覆い、声を上げてぼろぼろと泣き崩れた。
「…………」
少し離れた壁に寄りかかり、その一部始終を見守っていた創真は、「どうしたもんかなぁ」とポリポリと頭を掻いた。
あれだけ啖呵を切っておきながら、いざ終わってみれば年相応の少女のように泣きじゃくるえりな。創真は小さく息を吐くと、彼女のそばへと歩み寄り、巻いていた自分の手ぬぐいを無造作に差し出した。
「ほらよ」
「……っ」
差し出された手ぬぐいを見つめ、えりなはズビッと鼻をすする。
そして、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、それを受け取りながら精一杯の強がりを口にした。
「……汚いっ」
相変わらず素直じゃないその一言に、創真は呆れたように笑い飛ばした。
「うっせ」
子供の喧嘩のような、飾らないやり取り。
熱狂に包まれた会場の外、薄暗い廊下の片隅で。勝利の歓声よりもずっと静かで、けれど確かな温もりだけが、そこには残されていた。
次回エピローグ