もしも薙切薊の性格がマイルドだったら 作:作者さん
静まり返った執務室に、カリカリとペンを走らせる音だけが淡々と響き渡っている。
山積みになっていた書類の束を一つ一つ確認し、的確な処理を施しては別トレイへと移していく。美作昴は、己の作業が着実に進行していることを頭の片隅で確認しながら、小さく息を吐いた。
連隊食戟という、遠月学園の歴史を根底から覆したあの大舞台から、早くも三ヶ月が経過していた。
新総帥である薙切えりなを頂点とした新体制は、当初こそ混乱を極めたものの、今ではいくらかの落ち着きを取り戻しつつある。こうして事務処理に追われる日々も日常のものとなっていた。
落ち着きを取り戻したとはいえ、あの決戦直後のカオスな状況を思えば、よくここまで持ち直したものだと、我ながら呆れるような感心するような心地になる。
美作の脳裏に、あの日の光景が鮮明に蘇ってきた。
――連隊食戟が終結し、反逆者陣営の勝利が確定した直後の会場。
そこは、まさに阿鼻叫喚の様相を呈していた。
『認めねぇ! 反逆者が新しい十傑だなんて、絶対に認めねぇぞ!』
『どうせ俺たちは薊政権の残党として退学にされるんだ! だったらその前に、やれるところまで、納得できるところまで食戟してやる!!』
敗北を受け入れきれないセントラル側の生徒たちが、やけくそのような熱気を帯びて、新十傑となる予定の反逆者たちへ次々と食戟を吹っかけていたのだ。
久我やタクミなどは「上等じゃん!」「受けて立つ!」とノリノリで応戦し、会場のあちこちで勝手なゲリラ食戟が勃発する始末。
そんなしっちゃかめっちゃかな会場に、姿を消していた幸平創真と薙切えりなが戻ってきたのは、騒ぎがピークに達した頃だった。
『え、なんで退学にする必要があるんだよ』
悲壮な覚悟で食戟を挑んでいたセントラルの生徒たちに向かって、創真は心底不思議そうに首を傾げた。
『俺たちは美味い飯を作りたくて勝負しただけだろ。やり方が違っただけで、退学になんてしねーよ』
『ゆ、幸平くんの言う通りです! 新体制において、理不尽な粛清など行いません!』
えりなが赤面しながら慌てて追従し、その言葉にセントラル陣営の生徒たちは毒気を抜かれたようにぽかんと口を開けた。
だが、創真の言葉はそれだけでは終わらなかった。
『それにさ。俺、薙切から第一席に指名されたけど……正直、自分が司先輩に完全に勝ったとは思ってねーんだわ』
創真は頭の後ろで手を組みながら、あっけらかんと言い放った。
彼らしい、どこまでも自分の実力に嘘をつけない料理人としてのエゴ。コース料理としての総合力では上回ったが、個人の皿の完成度において、司瑛士という男の背中はまだ先にあると、誰よりも彼自身が理解していたのだ。
『だからさ! 俺の第一席って座に納得いかねー奴は、誰でも挑んできてくれ! 一席を賭けた挑戦なら、いつだって受けて立つぜ!!』
会場の全生徒に向けられた、不敵で、あまりにも彼らしい挑戦状。
その言葉に、静まり返っていた生徒たちの間に再び火がつきかけた――その時だった。
『あ、それならさ。俺と食戟しようよ、幸平』
ふらりと群衆の中から歩み出てきたのは、他でもない、前第一席の司瑛士だった。
その場にいた全員の顔に『え、貴方がそれを言っちゃうの?』という盛大なツッコミが浮かんだ。つい先ほどまで死闘を繰り広げていたラスボスが、いきなり列の先頭に割り込んできたようなものだ。
だが、創真は一切怯むことなく、むしろ嬉しそうにニカッと笑った。
『いいっすよ! 望むところっす!』
かくして、誰も予想していなかった『新第一席 vs 前第一席』のゲリラ食戟が、その場で電撃的に幕を開けた。
結果は――。
『判定、2対1!! 司瑛士の勝利!!』
『負けるんかーい!!』
審査を引き受けたアンたちWGO執行官の宣言に、会場中から見事なまでの総ツッコミがこだました。
就任からわずか数十分で一席の座を陥落させた創真だったが、本人は全く気にする様子もなく「くっそー! もう一回っす、司先輩!」と食い下がっていた。
『うーん、どうしようかなぁ……』
いつものネガティブな調子で申し訳なそうに渋る司。
そこに、ひょっこりと顔を出したのが小林竜胆だった。
『あ、それならあたしとやるか、そーま? あたしもどうせ第二席の後継者にするなら、創真がいいと思っ――』
『いいよ。やろうか、幸平』
竜胆が言葉を言い終わるよりも早く、司の声がそれを遮った。
その瞬間、司から放たれた『圧』は、先ほどの連隊食戟の最中にすら見せなかったほど、冷たく、そしてドス黒いものだった。
――回想は、そこで終わる。
美作は窓から視線を戻し、再び手元の書類へとペンを走らせる。
(俺の見立てだと……そうだな)
脳内でカリカリとメモ帳に書き込むように、美作は淡々と分析を回す。
ずっと隣にいて、自分の料理を一番に認めてくれていた相棒。それが、ポッと出の一年生にやたらと熱を入れ、挙句の果てには自分の後継者にまで指名しようとした。
司瑛士にとって、自分の歩みから最も重要なピースが抜け落ちていくような感覚だったのだろう。
(自分の相棒が、自分から離れていくように感じた……まぁ、そりゃあんな視線にもなるよな)
あの時、美作がタオルを貸した際にも見せた、司の無意識の執着心。
他人の感情や思考をトレースすることに長けた美作にとって、司の不器用な独占欲の正体を行動から読み解くことなど、造作もないことだった。
「……まぁ、俺には関係のない話だが」
一つ溜め息を吐き、美作は書類の束をまた一つ片付ける。
分析は的確だった。しかし、そんな美作にも一つだけ、致命的に『見落としている』ことがあった。それは司の相棒である竜胆から、司が創真に向ける目と全く同じ視線を送られていることに気が付いていなかった。
時折、すれ違いざまに蛇のようにシャーッと威嚇されることがあっても、美作は「なんだか最近、小林先輩に変なことをされるな」程度にしか思っていなかったのである。
(まぁ、あの人たちのことはどうでもいいとして……問題は、この現状だ)
美作はトレイに積み上がった新たな書類の山を睨みつけ、再び重いため息をこぼした。
あの日、創真と司によって電撃的に幕を開けたゲリラ食戟。それはあの一回で終わることはなく、その後も連日のように繰り広げられることとなった。
勝率は依然として司の方が高いものの、創真も時折意地を見せて勝利をもぎ取り、結果として『元第一席』と『新第一席』が何回も入れ替わるという前代未聞の事態に発展した。
その頂上決戦の熱は、瞬く間に学園中へと波及していった。
トップであるはずの一席があれだけ無限に挑戦を受け続けているのに、他の十傑たちが食戟を断るのは遠月の名折れではないのか。いいや一般生徒ですらそうではないか。そんな空気が学園全体に蔓延し始めたのだ。
当然、血の気の多い新十傑の面々がそれに黙っているはずもなく、「上等だ!」と売られた喧嘩を次から次へと積極的に買い始めた。
結果として、現在の遠月では『十傑の席に座っているか』ではなく、『どれだけの期間、その席を守り続けているか』が重要視されるという、新たな価値観が生まれていた。あまりにも席の入れ替わりが激しいため、十傑としての権利や義務を行使するには、着任からある程度の期間が必要になるというルールまで制定される始末である。
美作自身は、連隊食戟の直後に席を失ったとしても別に構わないと思っていた。
十傑という肩書きがなくても、研鑽のために司に付いて回ることはできる。それに最近では、個人的に斎藤や茜ヶ久保といった先輩たちとも友誼を結び、彼らの調理をサポートすることでその技をちゃっかりと盗ませてもらっていた。
十傑の席など、どうせすぐに元第三席の女木島あたりがふらりと奪いに来るだろう。そんな楽観的な思考で構えていたのだ。
「……どうしてこうなっているんだ?」
思わず口からこぼれた本音に、執務室の少し離れたデスクから声が飛んできた。
「口ではなく手を動かせ、美作」
そう言って呆れたように視線を向けてきたのは、第七席の座に就いたままの、新戸緋沙子だった。
彼女は手元のバインダーをパタンと閉じると、一枚の分厚い書類を美作のデスクへと滑らせた。
「ほら、これは第三席以上の十傑でなければ採決できない案件だ。目を通しておいてくれ」
「……へいへい」
美作は面倒くさそうに首を鳴らしながら、その書類を受け取る。
女木島が奪いに来るどころか、良い後継者(押し付け先)ができたと言わんばかりにスルーし、次々と挑んでくる挑戦者たちを叩き潰し続けた結果、美作は気づけば第三席という高位の座にガッチリと定着してしまっていた。
「現状、この異常な席の入れ替わりの中で、最も長く十傑の席に座り続けているのは貴様だ。元十傑の先輩方を除けば、現在の十傑の仕事を一番把握しているのも貴様ということになる」
「……嫌な事実だな」
「えりな様……いや、総帥も、貴様のその事務処理能力の高さは評価しておいでだ。上層部から『美作を外して学園の運営に滞りがないように』という空気が発せられ、それが生徒たちにも暗に伝わっているのかもしれんな。だから貴様への無謀な挑戦者が少し減ったのだろう」
実力への畏怖だけでなく、『学園運営の要』として認識されつつあるという事実。
「……そういうお前も似たようなもんだろ。一般の生徒はおろか、元セントラルの連中なんか、お前を怖がって食戟なんてまともに挑んで来ねぇだろ」
連隊食戟後、美作の元には「新体制の十傑から席を奪ってやる」と意気込む血の気の多い生徒たちが次々と押し寄せてきた。しかし、第七席である新戸緋沙子の周辺だけは、不気味なほどの凪に包まれていたのだ。
それもそのはずである。かつてセントラルの中枢メンバーを精神的にも立場の面でも徹底的に追い詰め、修羅のごとき狂気で席を奪い取った彼女に、自ら首を差し出しに行くような命知らずなど、今の遠月には存在しないのだから。
「なっ……! わ、私だって挑まれた食戟は必ず受けている!」
痛いところを突かれた緋沙子は、顔を真っ赤にしてバインダーを机に叩きつけた。
「だいたい、あれ以降、敗者に退学を要求したりだとか、そんな恐ろしい対価を吹っかけたことなど一度もない! なのに、どうしてあんなに腫れ物に触るような目で見られなければならないんだ……!」
本気で理不尽だと憤り、緋沙子はギリッと唇を噛む。
(そりゃあ……血まみれの顔で死神みたいな目をしながら、自らの首を掻き切るジェスチャーで『退学』を賭けさせようとした女になんて、誰も挑みたくねぇだろうが……)
当時の噂は、美作の耳にもしっかりと届いている。
彼女のあの日の狂乱は、その場にいた生徒たちの深いトラウマとなり、今や学園の怪談の一つとして語り継がれていた。十傑に食戟を挑むハードルが下がったからとはいえ、進んで文字通りの怪物と挑みたがる人間は居ないのである。
「……まぁ、自業自得ってやつだろ」
美作は深く追及することを放棄し、心の底から呆れたようなため息を吐くと、再びカリカリとペンを走らせるのだった。
「……そういや、お前。薙切総帥の付き人には戻らないんだな」
「っ……」
不意を突かれたように、緋沙子の肩がピクリと跳ねた。しかし、すぐに姿勢を正し、少しだけ誇らしげに胸を張る。
「付き人は、遠月を卒業してからでもできることだ。私の居場所はあの方の隣だと、とうに決まっている」
そこには、かつて己の無力さに絶望し、えりなの隣を辞した時の悲壮感はない。確固たる自信と、揺るぎない覚悟が満ちていた。
しかし、緋沙子はそこで急にモジモジと視線を彷徨わせ、顔をほんのりと赤く染め始めた。
「だ、だけど……その前に一度ぐらい……っ」
「一度ぐらい?」
「と、と、友だちの、えりなさ、えりなちゃ、う……っ、えりな様に! 料理で勝っておこうと思ってな!」
連隊食戟を経て、主従ではなく『対等の友人』としての絆を確かめ合ったはずの二人だったが、根っからの従者気質である緋沙子にとって、主君をフランクな呼称で呼ぶことは未だに極めてハードルが高いらしかった。
結局最後まで言い切れず、真っ赤になりながら『様』付けに着地してしまった緋沙子を見て、美作はやれやれと重い溜息を吐いた。
「……ちゃん付けぐらい普通に言えばいいじゃねぇか。ええ、緋沙子ちゃんよ」
「きさっ、み、美作ッ!」
からかうような美作の呼びかけに、緋沙子は顔を茹でダコのように真っ赤にして、ビシッと美作へ指を突き付けた。
そんな彼女の反応に、美作は「悪ぃ悪ぃ」と低く苦笑を漏らしながら、手元の分厚い書類をペラリとめくった。
――その時だった。
次頁に印字された見出しの文字列が、美作の視界に飛び込んできた。
「ん……?」
そこに記されていたのは、『来年度の編入生に関する受け入れ規定』についての詳細なリストだった。
「あぁ、なるほど。いよいよ『島流し』になった奴らが戻ってくるのか」
低く呟かれた美作の言葉に、緋沙子は怪訝そうに眉をひそめた。
「島流し……? それは『遠月育成指導機関』からの再編入組のことか?」
「ああ。『セントラル』……先々代が手を回してた例の下部組織だよ」
美作は書類をトントンと指で叩きながら、そこに記された概要を追った。
これまで遠月学園は、年に千人にも上る脱落者を容赦なく切り捨ててきた。しかし薊政権ではそれが切り捨てる者を最低限にし、その上で成果を示していた。それは料理人の顔を料理から感じ取れない舌の分からない者たちの言葉ではあるが、その数は無視できないほどだ。そのうえで各所から「あまりにも過酷で無責任な淘汰システムではないか、またそれに戻すのか」と。非難の声が挙がっていたのだ。
その対策としてそのセーフティネットとして設立されたのが、この『遠月育成指導機関』だった。
本校で脱落した生徒たちに与えられた第二の道――そこで研鑽を積み、基準を超える成績を納めた者には、再び遠月本校への『再編入』の権利が与えられるという救済措置である。
「学長として着任したあの人のコメントも、ここに載ってるぞ」
美作は書類の一節を拾い読みする。
『――ここを卒業した者も、料理人として一人前にはなれるだろう。しかし、一流にはなれない。普通の料理人として生きるのであればそれも自由だ、私はそれを止めはしない。だが、自分が一流の料理人になると覚悟を決めたのであれば……遠月からここに下り、また戻ろうと考えている者が居るのであれば、遠月のような甘い生活を送れると思うな』
『己が全てを料理へと捧げろ。己が弱卒でないことを証明しろ。そのための手間を私達が惜しむことはしない。――研鑽せよ』
相変わらずの威圧感と極端な選民思想、そして確かな料理への美学が滲み出る言葉だった。
伝え聞こえてくる噂では、その育成指導機関での教育――最早訓練と呼んだ方が速いそれである。後に脱落者たちが遠月に戻ってきた際に、「遠月本校での生活は天国だった」と涙を流して回想するほど過酷なものだという。
だが、遠月学園と決定的に異なるのは、そこに『選択の自由』が存在することだ。
途中で立ち止まり、諦めて辞める自由もあれば、高望みをせず卒業して「普通の料理人」として生きていく道も保証されている。どこまで茨の道を突き進むか、それとも現実的な折り合いをつけるか――全ては生徒個人の覚悟に委ねられていた。
「一時は泥を啜り、そこから這い上がってきた奴らだ。本校の連中の中にぶち込まれりゃ、これ以上ない強烈なカンフル剤になるだろうな」
地獄から生還した亡霊たちの帰還。
美作の分析を聞いていた緋沙子は、すっと表情を引き締め、硬い声で呟いた。
「……ひと悶着ありそうだな」
「違いねぇ。今の第一席様が『誰でも受けて立つ』なんて言ってる状況だ、荒れないわけがねぇよ」
美作は苦笑しながら書類を閉じ、再びペンをとった。嵐の予感を感じ取りながらも、彼の作業の手が止まることはなかった。
「つか、学園が荒れてる理由のもう一つは……」
美作がそこまで言いかけた、その時だった。
ノックもそこそこに、執務室の重厚なドアがガチャリと無遠慮に開け放たれた。
「よーっす、十傑のみんな……ってお前らだけか?」
ひょっこりと顔を覗かせ、気軽な調子で足を踏み入れてきたのは、若い男性――才波朝陽だった。
彼は室内を見回すと、気安く肩をすくめながら美作たちのデスクへとずかずかと近づいてくる。
「ほい、これお土産。チータラとコーラ。ここが学園じゃなかったら、米のジュースとかでもよかったんだけどな」
そう言って、コンビニのビニール袋を美作の机の上にガサリと置くと、朝陽は悪戯っぽくニシシと笑ってみせた。
「…………」
緋沙子はあからさまに「うげっ」と言いたげな、嫌悪感を隠そうともしない表情を露骨に浮かべ、プイッと視線を逸らした。
一方の美作は、特に気にした風もなく、袋の中身を覗き込む。
「うっす、お疲れ様です。ありがたくもらうぜ」
「おう、遠慮すんな」
かつて薊政権下でセントラルが学園を支配していた頃、授業や実習の指導といった『講師』の役割の一部は、十傑のメンバーが分担して担っていた。十傑の圧倒的な技術と絶対的な権威をもって生徒を指導する、それが当時のシステムだったのだ。
しかし、新体制へ移行した現在、十傑の座についての揺らぎが激しくなっている。しかし、従来の教育体制に戻せば講師の枠には大きな穴が開いてしまうこととなる。
学園の授業水準を維持するためには、どうしても外部から実績のある実力派料理人を講師として招き入れる必要があった。
そして、そうして白羽の矢が立ち、臨時講師として遠月へ招聘された外部人間の一人こそが、この才波朝陽だったのだ。
「にしても、相変わらず真面目だな、新戸ちゃん。そうやって肩肘張って固くなってるところも、すげぇ可愛いけどさ?」
「っ……!?」
朝陽は身を乗り出すと、緋沙子のデスクの端にひらりと腰をかけ、甘い視線をまっすぐに向けた。
あからさまな冗談であり、いつもの気まぐれな戯れ言だと頭では分かっている。分かってはいるのだが――無駄に整った顔立ちで至近距離から覗き込まれ、緋沙子は「う、うぐぐ……っ」と顔を茹でダコのように真っ赤にして身をねじらせた。
「そ、そうやって同じようなことをやって、極星寮の皆さんまで弄んで! 貴方と言う人は……っ!」
「なんだよ新戸、お前の大事なえりな姫にはやってないんだからいいだろ?」
朝陽がくすりと笑いながら軽く肩をすくめると、緋沙子はキーッと眉を逆立てて指を突き付けた。
「ああ! そこだけは評価してやる、そこだけはな! だがな朝陽殿、貴方は一応これでも講師なのだぞ!? もう少し立場というものを自覚したらどうなんだ!」
「くくっ、ほんと揶揄うと面白いんだよな、お前」
憤慨する緋沙子を心底楽しそうに眺める朝陽。講師という立場でありながら、こうして事あるごとに浮ついた言動で翻弄してくる彼が、緋沙子は苦手で気に入らなくて仕方がなかったのだ。
「……んなことやってっから、講師だってのに食戟仕掛けられるんじゃねぇのか」
美作の呆れたような指摘に、朝陽は「あー」と声を漏らし、手にしたコーラの缶をくるりと回した。
「食戟だっけ? 面白い文化だよな。全員をのした奴が一番ってのは、分かりやすくていい」
「よく言うぜ」
美作は重いため息を吐く。
ただでさえ容姿端麗で華のある外部講師だ。そんな男が気まぐれに女子生徒へ甘い言葉を振り撒けば、校内の男子生徒たちが面白くないと思うのは当然のことだった。
案の定、「チャラチャラした外部の講師気取りが」と憤慨した血の気の多い男子生徒たちが、次々と朝陽へ食戟を吹っかける事態に発展したのだ。
しかし、結果は惨敗。
朝陽の持つ圧倒的な技術とセンスの前に、挑みかかった男子生徒たちは完膚なきまでに叩きのめされ、連日のように敗者の屍の山が築かれることとなった。
女子の関心を独り占めする憎き講師を排除しようとした男子生徒たちの嫉妬と反抗心は、皮肉にも才波朝陽という男の実力が紛れもない本物であることを、学園中に知らしめる最高の実証データとなってしまったのである。
「……つーかよ。あー、あれだ」
美作は少し言いにくそうに言葉を選びながら、怪訝な視線を朝陽に向けた。
「なんたってあんたはこう……幸平と関係があるような女子ばっか選んで弄んでるんだ?」
「なっ……!? ななな、なんでそこで幸平が……っ!?」
不意に創真の名を引っ張り出され、緋沙子は顔を真っ赤にして跳ね上がった。まさに今、自分自身が朝陽に散々弄ばれていた最中だっただけに、その指摘はあまりにも心当たりがありすぎたのだ。
現に、目の前にいる緋沙子をはじめ、田所恵や吉野、榊といった極星寮の女子生徒たちなど、創真と何かしらの縁や親しい距離感にある女子ばかりを狙い撃ちにするかのように、朝陽は気安く声をかけては巧みな話術で翻弄していた。相手が真面目であればあるほど、あるいは創真との関係に無自覚な甘酸っぱさを漂わせている相手ほど、朝陽の格好の玩具にされていたのである。
「んー……」
朝陽はコーラの缶を片手に、少し考えるように天井を見上げた。
「なんかさ、ああいうじれったい感じのやつをつつくのって、面白くね?」
「見てるだけならともかく、俺はハチの巣を自分からつつく趣味はねぇよ」
美作は深いため息を漏らし、呆れたように肩をすくめる。
司と竜胆のあの不器用で複雑な関係性を傍から観察している分には確かに興味深いとは思うが、自らそこを刺激したいなどとは口が裂けても思わなかった。
「まぁ、冗談はさておき……そうだな、あれだ。幸平への嫌がらせだ」
「さておけてねぇんだよ。とんでもないこと言い出したな、あんた」
「つ、ついに講師としての面目すら気にしなくなっただと……!?」
美作は心底引いたような目を朝陽に向ける。緋沙子はあまりの身も蓋もない言いぐさに絶句し、もはや呆れを通り越して戦慄の表情を浮かべるのだった。
「実は俺は幸平のアニキで、色々複雑な関係なんだ、って言ったら信じるか?」
コーラの缶を指先で弄びながら、朝陽はどこまでが本気でどこからが冗談なのか分からないような、うっすらとした笑みを浮かべてそう漏らした。
「……幸平に女好きの成分を加えてさらに面を良くしたら、あんたになりそうな雰囲気はあるけどよ……」
美作は手元の書類を揃えながら、至って平然とした調子で呟いた。脳内で創真と朝陽のデータを並べ、冷静に分析した結果の率直な感想だ。
「おいおい、さらっとヒドいこと言うねぇ。まぁ親譲りだけど面には自信があるぜ。それこそ行きずりの女を吊ってワンナイトできるぐらいにはな」
「それにどう反応しろってんだ……?」
「な、な、な、ゆ、行きずりの人と……っ!?」
「こういう反応」
「……まぁ、分からなくはねぇけどよ。冗談にしては重いんだよ」
緋沙子は気がついては居ないようだったが、聞きようによっては、自分は不倫や間違いで生まれた子です、とも聞こえなくもない言葉に返答できるわけもなく。
美作が呆れ混じりに肩をすくめ、大パニックを起こす緋沙子をチラリと見やり、朝陽は心底満足そうにニシシと笑った。
「重いか? 実の親に『現状僕は君のことを息子だと思っていない』とか言われた話もするか?」
「重いんだよ! 冗談だよなそれは!?」
これには流石の美作も即座にツッコミを入れざるを得なかった。
「安心しろって。よく聞いたら、いきなり父親ぶるのも筋が通らないから、これから時間をかけて親子として向き合っていこうって意味だったぜ」
コーラをゴクリと飲み干し、秘書の人が居なかったら致命的だったな、と朝陽はケラケラと笑う。どこかで見たような、本当のことしか言わないが致命的に誤解させるようなことを言う男の思考回路と、それをストレートに受け止めたせいで拗れてそうになった息子の複雑すぎる家庭事情。
美作はこめかみを指で押さえ、ハァーッと深く重い溜息を吐き出すと、身も蓋もない毒を吐いた。
「……あんたの性格がひねくれた理由はわかったよ」
美作がたまらず皮肉を吐き捨てる。
「まっ、幸平は俺の欲しいもんを一つ、いや二つか。それを除いて全部持ってった奴だからな。茶化すぐらいは許してくれよ」
コーラの空き缶を指先でくるりと回しながら、朝陽はどこか遠くを見るような、それでいてどこまでも軽い口調でそう付け加えた。
彼が口にした「欲しいもの」の真意――幸平の親の承認や愛情、あるいは一族としての絆なのか。深掘りせずとも、その背後に横たわる業の深さと歪みが透けて見えるようだった。
「……分かった。俺があんたの事情に踏み込んだのが悪かった。掘り起こすもん全部爆発物じゃねぇと気が済まねぇのかよ……」
単なるからかいかと思いきや、その根底に流れているのはあまりにも重すぎるコンプレックスと執着だ。
もしもそんな重苦しい過去を背景にして、「だから幸平が少なからず思ってるやつを引っさらってやろう」などと考えて動いているなどと言われてしまえば、美作としても完全にお手上げだった。
(……見なかったことにしよう。俺は何も聞いてねぇ。全部幸平のやつが何とかすんだろ)
ふと、執務室の壁に掛けられた時計に目をやった美作は、持っていたペンを置くと静かに立ち上がった。
「……っと、そろそろ時間か」
「ん? もう行くのか、美作」
書類の整理に没頭していた緋沙子が、顔を上げて問いかける。
「ああ。先代総帥から私的な依頼があってな。俺と司先輩のペアで料理を振る舞ってほしいって重客がいるらしい」
格式ばった公式の宴席ではなく、あくまで個人主催のささやかな晩餐会のようなものだと、司から又聞きで知らされていた。
「先代総帥からの依頼……それに、司先輩と貴様のペアか」
緋沙子は納得したように小さく首を振ると、しみじみとした眼差しで呟いた。
「司先輩も、もうすぐ遠月を卒業されるからな……。『数世代先の料理』とまで評価された貴様たちのタッグ料理を食べられるのも、あとわずかな期間だ。依頼主も、それを見越して声をかけたのだろうな」
「まあ、そういうことだろ。俺としても、司先輩の技術を間近でトレースできる機会は一回でも多い方がありがたい」
美作が上着を羽織りながら答えると、傍らでチータラをつまんでいた朝陽が、意地悪い笑みを口元に浮かべた。
「……なあ美作、絶対にろくでもないことが起きるぜ? 例えばさ、あの薙切仙左衛門さんがしれっと参加してて、親族のドタバタに巻き込まれる……とかさ?」
「……前に作った料理の再現で十分だって話だから、そんなボロが出るような真似はねぇよ」
美作はフンと鼻を鳴らし、朝陽の適当な煽りを一蹴した。
他者の思考と技を完璧にトレースし、さらに司瑛士という最高の料理人のサポートに徹する。仕込みも思考も完璧に擦り合わせ、一度絶賛された一皿を再現するだけならば、美作にとって何ら難しいことではない。
相手が誰であろうと、完璧な美味で黙らせて見せる絶対の自信があった。
どんな相手が来ようが、問題はない――。
(……そう思ってた数時間前の俺を、全力で殴り倒してやりたい気分だ……)
静寂が支配する高級料亭の和室で、美作は額から冷や汗を伝わせながら、内心で激しく頭を抱えていた。
畳の静寂の中、美作のすぐ隣に立つ司瑛士が、緊張のあまりを呑む音がはっきりと聞こえてくる。これまで数多の修羅場を潜り抜け、第一席として絶対的な場数を踏んできたはずのあの司ですら、全身の肉体を強張らせて青ざめているのだ。
正面の座敷には、穏やかな笑みを浮かべ、愉しそうに事の成り行きを見守っている薊の姿があった。
そして――その中央に鎮座している人物。
机の上に差し出された美作と司の料理に対し、一切の温かみを感じさせない、刃物のように冷たい視線を向けている女性。
WGO特等執行官――薙切真凪。
『神の舌』を持ち、料理界の頂点に君臨する絶望の食味人。その圧迫感と圧倒的な存在感の前に、美作はただ胃の奥がキリキリと痛むのを耐えることしかできなかった。
(俺が一体何をしたってんだ……)
しいて言うのであれば料理を作ったのではあるが、美作は内心で血涙を流しながら、必死に表情を鉄仮面のように保っていた。
思えば、この料亭に足を踏み入れる直前から嫌な予感はしていたのだ。案内役として控えていたWGOの二等執行官・ランタービから、殺気すら込もった冷徹な眼光で思いっきり睨みつけられた時のことを思い出す。
(アンさんがWGOを去る羽目になったからって……俺らに八つ当たりされても困るんだが!?)
理不尽すぎる恨み節を向けられただけでも胃がキリキリと痛んだというのに、部屋に通されればこの地獄絵図である。
さらにタチの悪いことに、真凪の脇には仰々しい漆塗りの桶が用意されていた。
『不出来な皿であったなら、躊躇なく吐き捨てねばならんのでなぁ……』
一口食べて舌に合わなければ、その場で容赦なく吐き出すための容器。
「美味いと言わせる自信はある」と数時間前に高く括っていた自分を、本当にぶん殴りたい。
(ふざけんな、その桶にゲロを吐きたいのはこっちだ……!)
喉元まで込み上げてくる胆汁と胃液を力ずくで呑み込みながら、美作はただ静観するしかない。
真凪が、美作と司が完璧な計算のもとで組み上げた至高の一皿に、静かに箸を伸ばした。美しく仕立てられた料理の一片が、彼女の唇へと運ばれる。
静寂が部屋を支配した。
真凪は静かに目を閉じ、黙々と咀嚼を繰り返す。カチャリという器と箸が触れ合う微かな音すら憚られるような、息詰まる時間がただ淡々と過ぎていく。
一口。
また一口。
吐き捨てられることなく、真凪の細い喉を料理が通り過ぎていく。
そして、三分の一ほどを食べ進めたところで、彼女はゆっくりと箸を置いた。
「……ふむ。悪くはないな」
凛とした、どこか淡々とした真凪の声が和室に響き渡った。
それまで心臓を鷲掴みにされたような表情で固まっていた司の肩が、跳ねるように強張る。美作もまた、眉間に深く皺を寄せたまま硬直していた。
「……二人とも、安心するといい」
すると、上座の傍らで優雅に佇んでいた薊が、くすりと楽しげに笑みをこぼした。
「真凪の『悪くはない』は、彼女における最大の高評価のうちに入る」
薊のその一言が発せられた瞬間、司は膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐えながら深々とした息を吐いた。
美作もまた、背中にびっしょりと溜まった冷や汗の冷たさを感じながら、ようやく途切れていた酸素を深く深く肺へと送り込むのだった。
「ふむ……どこにあったか……」
そう呟きながら、真凪が着物の袂から取り出したのは、一枚の白紙の小切手だった。
彼女はそれを机越しに司へポンと差し出すと、何でもないことのように言い放った。
「好きな数字を書くと良い」
「……っ!?」
白紙の小切手。それもWGOの特等執行官から差し出された、まさに『言い値』を約束された代物だ。
あまりのスケールの大きさに司の顔はみるみる蒼白になり、縋るような視線で美作へ寄り添うと、微かな小声で話しかけてきた。
「ど、どうしよう美作くん……っ!? 好きな数字って……いくら書けばいいんだ……!?」
「俺が知るわけねぇでしょう、先輩……っ」
美作も目立たないように唇だけを動かし、低く引きつった小声で返す。
「……とりあえず、今までで一番デカかった依頼金でも書いておいてください」
「そ、そうだね……! そうする……!」
司はコクコクと何度も頷くと、震える手でペンを取り、これまで経験した中で最も高額だった調理依頼の金額を小切手に書き込んだ。そして、両手で恭しく真凪へと返却する。
だが、渡された金額を目にした真凪は、満足するどころか不満げにキュッと眉を顰めた。
「……はぁ。どこまでもつつましいな」
真凪は小さく息を吐くと、持っていたペンで迷いなく数字の末尾にゼロを付け足した。元の金額の何倍――いや、桁が跳ね上がった小切手を机に戻し、淡々と言い渡す。
「これでよいな」
「あ、あの、こんなたくさんの金額は流石に……っ!」
提示された提示額の恐ろしさに司は恐縮しきりになり、美作に至っては呆然と息を飲んだまま無言で固まるしかなかった。常識のタガが外れた世界の住人に、これ以上何を言っても無駄だと察したのだ。
「フフ、ありがとう二人とも。後で僕からも個人的なお礼をさせてもらうよ」
和やかな笑みを浮かべる薊がそう声をかけると、司は弾かれたように姿勢を正した。
「い、いえっ! それでは俺たちはこれで退室させていただきます……っ!」
普段の控えめな調子からは考えられないほど気持ち早口で、一刻も早くこの場から逃げ出したいという意志が溢れ出ていた。美作も深く同意するように頭を下げ、司の後を追うように素早く部屋を辞したのだった。
料亭の長い廊下に出て、重厚な扉が閉まった音を聞いた瞬間、二人は同時に深いため息を吐いた。
手にすることになった多額の依頼金や、世界の頂点に立つ特等執行官から関心と評価を得られたという料理人としての名誉――そんなものは、今の二人にとってどうでもよかった。
ただただ、あの息の詰まる狂気の空間から無事に生還できた喜びの方が、何倍も、何十倍も大きかったのである。
――
二人が退室し、静まり返った和室には、再び重厚な静寂が満ちていた。
机の上に置かれた料理の残香が、微かに空間を漂っている。
真凪はゆっくりと視線を上げると、目の前に座る薊に向けて、冷ややかな眼光を向けた。
「ふん、これがお前の持つ全てを炉にくべた結果の料理と言うのか?」
鼻で鳴らすような真凪の問いかけにも、薊は一切動じる様子を見せず、穏やかな笑みを崩さぬまま、静かに紅茶の杯を傾けた。
「そうなるね。えりな達の研鑽のついでではあったけれど、君に出せる皿が完成できたのは喜ばしい限りだ」
「その結果が、捨て石拾いの身に落ちたと言うのにか?」
真凪の言葉には、隠しようもない強い皮肉が込められていた。
かつて学園の頂点にも立った男の、敗北の末に宛がわれたポスト。それが『遠月育成指導機関』の学長という地位だった。
本校の苛烈な淘汰についていけず、振り落とされた落第生たち。天才という名の『玉』を磨き上げるのではなく、打ち捨てられた『砂』の中から、奇跡的に混ざり込んだわずかな砂金を探すような泥臭い作業。真凪から見れば、かつて高邁な理想を掲げていた男の姿としては、あまりにも惨めな落差に映ったのだ。
しかし、薊は心底から満足しているかのように、どこか楽しげな目を細めた。
「これでも楽しくやれているのだけれどね。……ああ、君のところのアン殿も、快く講師として活躍してくれている」
「ふん、ほとぼりが冷めたら戻ってくるよう言ってあるわ」
真凪はフンと興味なさげに鼻を鳴らす。あの皿を出されたのであれば仕方ない、という思いもあるが、それを目の前の男に言うのは負けたような気分になる。
「……それに、アンに下手に朝陽と接触させたくないというのもある。お前と似て、どうにも女たらしのようだからな」
一抹の呆れを交えた真凪の皮肉に、薊は困ったように肩をすくめ、苦笑を漏らした。
「人たらしでもあるようだけれどね。……僕やあの育ての親に似て、何よりだよ」
「……その息子に向かって、『現状、僕は君のことを息子だと思っていない』などと言い捨てた親がいるそうだなぁ。……ええ? お前さん?」
意地悪く目を細めた真凪から唐突に爆弾を投げつけられ、薊は思わず胸に手を当てて苦しい笑みを浮かべた。自らの不器用すぎる言葉選びと、それがどのような尾ひれをつけて伝わっているのかを察し、流石の彼も参ったように肩を落とす。
「……それを言われると、流石に痛いな」
「相変わらず陰湿で面倒な男だ」
どこまでも身勝手で歪な言動に、真凪は心底呆れたように吐き捨てた。だが、そんな彼女の毒舌を受け止めながら、薊は優しく目を細め、穏やかなトーンで言葉を返す。
「その陰湿な男が、君の夫なのだけれどね」
「ふん、知っておるわ」
真凪はフンと短く鼻を鳴らしただけで、特に不快感を示すでもなく、至極当然のこととして受け流した。
どれほど時間が流れ、立場が変わり、互いに歪みを抱えていようとも――この男が己の伴侶であるという事実に対しては、最初から何一つ文句などないのだと言わんばかりの態度で、彼女は静かに茶器へと手を伸ばすのだった。
「まったく、えりなはあのような兄を遠月に呼んで大丈夫と思っているのか」
真凪は呆れたように小さく息を吐き出しながら、手元の茶器を傾けた。朝陽という存在が学園に持ち込むであろう波紋と、それを容認した娘の判断に呆れを隠さない。
「ひと悶着はあるだろうね。幸平君とも色々ぶつかり合っているらしい。いい傾向だ」
「……文脈が合っていないのではないか?」
あまりにも悠然とした薊の返答に、真凪は微かに眉をひそめ、冷ややかな視線を向けた。混乱の種を撒き散らしているというのに、それを歓迎するかのような男の態度が解せなかったのだ。
「いいや。朝陽と幸平君がどんな研鑽を積むのか、僕は楽しみにしているんだ。……それに対応するのは僕ではなく、えりなだからね」
他人事のようにくすりと笑う薊に、真凪はフンと鼻を鳴らす。
「その幸平が、朝陽にすりつぶされるとは思わんのか?」
朝陽の持つ異質な才能と、裏の世界で培われた圧倒的な技量。それを知る真凪からすれば、まだ若い幸平創真が呑み込まれる可能性も十二分にあるはずだった。
だが、薊は微塵の揺らぎも見せず、穏やかな顔で首を振った。
「いいや?」
「ふん、ずいぶんと入れ込んでおるな」
確信に満ちたその態度に、真凪は冷ややかに言い放つ。
薊は否定することなく、静かに杯の中の液体を見つめた。
なぜ自分はこれほどまでに、幸平創真という少年に執着し、大きな期待を寄せてしまうのか。
もしあの時、天才の姿などに目もくれず、頂へと向かい笑っていられたなら。
もしあの時――自分という人間が、全力で彼女と向き合い続けていたのなら。
「そうだね。……彼を」
薊はゆっくりと唇を開き、どこか遠い目をしてぽつりと漏らした。
「あの時、そうであってほしかった自分のように見ているのかもしれない」
己の弱さと歪みを素直に認めるような、どこか寂しげな吐露。
真凪は杯を置き、静まり返った室内で、男の青臭い感傷を容赦なく切り捨てるように淡々と言い放った。
「……だが、それはお前ではない」
どれほど重ね合わせようと、幸平創真は幸平創真であり、中村薊が辿れなかった過去の可能性そのものではないという、冷然とした事実。
真凪の言葉に、薊は一瞬だけ目を見張り――やがて、肩の力を抜くように穏やかな笑みを浮かべた。
「分かっているよ」
「ならば、よい」
和室に落ちる、わずかな沈黙。二人の間に流れる空気には、かつて世界を歪ませかけた鋭利さはなく、けれど深く傷を分かち合った者同士にしか醸し出せない、静謐な穏やかさが漂っていた。
薊は静かに微笑みを浮かべたまま、妻のその佇まいをただ愛おしむように見つめている。
コトン、と真凪が茶器を机へ戻す小さな音が響いた。
「そのお気に入りの男とえりなは、うまくやれているのか?」
静寂を破るように、真凪が淡々とした口調で問いかけた。
視線は手元の茶器に向けられたままだが、その言葉に宿る関心がどこに向いているのかは、言うまでもなかった。
薊は一瞬だけ驚いたように目を見張り、それから困ったような、どこか遠い日を慈しむような苦笑を浮かべた。
「どうだろう。……出会った頃の、君と僕のことを思い出すよ」
幼い頃の出会い、互いにあまりにも巨大な歪みを抱えながらも、やがて惹かれ合い、執着し続けた己たちの足跡。
それに似た、だが決定的に異なる光を、今の創真とえりなの関係性の中に見出しているのだと、薊の表情が静かに物語っていた。
その答えを聞いた真凪は、薄い唇の端をわずかに吊り上げ、不敵な笑みを口元に浮かべた。
「ならば問題ないではないか。……お前と私が、こうしているのだから」
どれほど遠回りをしようと、どれほど不器用に対立し合おうと、最後には互いから逃れられぬ結末へと辿り着く。こうして再びひとつの食卓を挟んで言葉を交わしている自分たちの姿こそが、何よりの証明だとでも言うように。
「……そうだね」
妻の揺るぎない自負と確信に満ちた言葉に、薊は静かに目を細め、胸の仕えが下りたように小さく笑いを漏らした。
連隊食戟という嵐が過ぎ去ったあとも、遠月学園は今なお混沌と熱狂の渦中にある。
新第一席と前第一席の果てなき激突、地獄の底から舞い戻る再編入生たちの足音、そして学園を揺るがす奇妙な講師の存在。
だが、どれほど荒れ狂おうとも、その先にある未来が破滅でないことを疑う者など、この部屋には誰一人としていなかった。
静まり返った料亭の和室に、再び穏やかな静寂が落ちていく。
かつて世界を狂わせかけた夫婦は、まだ見ぬ若き料理人たちが紡ぐ歪で眩い物語に想いを馳せながら、ただ静かに、夜の時間を分かち合うのだった。
以上で完結です。読んでいただきありがとうございました。
この作品の途中の分岐をあと1話だけ書いて投稿を終了します。