もしも薙切薊の性格がマイルドだったら 作:作者さん
重厚な応接室のソファに深々と腰を下ろした薙切薊は、傍らに控える自身の秘書・相田に一瞥をくれてから、正面に直立不動のまま立つ新戸緋沙子へと穏やかな視線を巡らせた
緋沙子は全身を駆け巡る冷たい戦慄を押し殺そうと、スカートの生地を破らんばかりに強く握り締めていた。一歩離れた場所には、不安げな面持ちで父親と従者を見つめるえりなの姿がある。
薊は漆黒の瞳を和らげ、まるで長年の功労者を労うかのような、温かみすら帯びた微笑みを緋沙子へと向けた。
「初めまして、新戸くん。……いや、まずは感謝を述べさせておくれ。私が不在の間、ずっとえりなの傍に寄り添い、彼女を公私にわたって支え続けてくれたこと、心から感謝しているよ」
「あ……」
予想外の柔らかな感謝の言葉。しかし、緋沙子の喉の奥から漏れたのは安堵ではなく、かえって深まる不気味な違和感だった。言葉の裏に潜む決定的な拒絶の気配に、鼓膜が痛いほどに脈打つ。
「お、恐れ入ります……。ですが、総帥……それは、一体どういう意味でしょうか……っ」
かすれる声を振り絞って問う緋沙子に対し、薊は心底慈しむような眼差しで小さく首を振った。
「言葉通りの意味さ。これからはもう、君がそこまで背負い込む必要はないということだよ。……これからは『私』がいる。父親である私が彼女の傍に立ち、導くのだから、もう何も心配はいらない」
「っ……!」
頭上から冷水を浴びせられたような衝撃に、緋沙子の息が止まる。それは、自らがえりなの傍らに立つ理由を根本から否定される残酷な宣告だった。
立ち尽くす緋沙子に対し、薊はさも当然の配慮であるかのように、どこまでも優しく言葉を重ねていく。
「遠月十傑の秘書としての膨大な業務、そして一人の料理人としての自身の研鑽……その両立は、十代の君にとって察するに余りある重荷だったろう。今日までよく頑張ってくれたね。君の努力と忠義は実に素晴らしいよ」
「違……違います……っ!」
緋沙子は震える拳を強く握り直し、叫ぶように声を張り上げた。瞳に涙を溜めながら、必死に言葉を紡ぐ。
「大変など……決して、そのようなことはありません! 私は……私はえりな様の付き人として、えりな様をお支えすることこそが……っ!」
「——時に、相田」
緋沙子の悲痛な言葉を遮るように、薊はあっさりと傍らの男へと視線を向けた。その声のトーンは、まるで天気の雑談でも振るかのように穏やかだった。
「秘書としての業務というのは……他事の『片手間に』こなせるほど、甘いものなのかい? 私に気を遣う必要はない。君の立場からの、忌憚のない意見を聞かせてほしい」
「……はっ」
唐突に振られた問いに、相田は戸惑いを微かに瞳に滲ませつつも、すぐにプロとしての冷静な思考を巡らせて口を開いた。
「……新戸殿の行っている業務は、学生の付き人という枠組みであり、私共の扱う規模からすれば一定のスケールダウンがなされていることは否めません。しかしながら、外部への試食業務や分刻みのスケジュール管理など、常にえりな様に同行するその業務量は……私の負荷の四割にも満たない程度かと推察いたします」
相田はそこで言葉を区切り、慎重に継いだ。
「ですが……それが『片手間にこなせるか』と問われれば、否と言わざるを得ません。学業に加え料理人としての研鑽と完璧な秘書業務の両立など、少なくとも非才の身である私には到底不可能でございます。……ゆえに、総帥の仰る懸念は、客観的にも極めて妥当なご判断かと」
「……ありがとう、相田。実に分かりやすい」
相田の客観的で容赦のない分析に満足げに頷くと、薊は再び緋沙子へと視線を戻した。
「……聞き届けてくれたかい、新戸くん。プロの秘書から見ても、君の置かれていた環境は過剰な負担であったということだ。君の未来ある才能と時間を、これ以上秘書業務という負荷で削り取らせてしまうのは……私としても実に心苦しく、申し訳ないことだと思わないかい?」
「そんな……っ! 私は……私は自身の研鑽を怠ったことなど、一度だってありません! 先日の秋の選抜でだって……っ!」
自らの誇りとえりなへの想いを証明するため、必死に喰らいつこうとする緋沙子。しかし——。
「そこで葉山くんに後れを取った」
「……ッ!? それは…」
感情の一片すら含まれない、氷のように冷ややかで静かな一言。
薊は表情ひとつ変えることなく、緋沙子の絞り出した言葉を無慈悲に切って捨てた。
「誤解しないでほしいのだが、君の選抜での活躍自体は評価しているよ。葉山くんの料理が見事であったことも、疑いようのない事実だ。……だがね」
薊はどこか惜しむような、深い哀愁を帯びた眼差しで緋沙子を見つめた。
「もしも君が、えりなの秘書として費やした膨大な時間を、ただ純粋に自分自身の研鑽のためだけに使うことができていたのなら……彼が手にしたあの栄光は、君の手の中にあったのではないか。そう思ってしまうのは……私が君という才能に、期待しすぎているからなのだろうか」
「ッ……!」
自らの悔恨を鋭く抉る言葉。それは蔑みではなく、彼女の潜在能力を誰よりも高く評価してくれているからこその「揺るぎない肯定」だった。拒絶することすら許されない、あまりにも残酷で美しい称賛だった。
ここで薊はふと、これまで静観していたえりなへとゆっくり視線を向けた。
「えりな。あえて君にも問いかけよう……新戸くんの持つ才能は、あの程度の輝きで終わるものなのかい?」
「っ……あ……」
不意に矛先を向けられたえりなは、喉を鳴らして言葉を詰まらせた。
父親からの恐ろしい問いかけ。しかし、料理人としての己の目が、そして『神の舌』が答えていた。緋沙子の持つ可能性は、あんな場所で潰えていいものではない、と。ここで嘘をつけば、緋沙子の才能を自分自身が蔑むことになってしまう。
「……いいえ。……お父様の、仰る通りです。彼女の才能は……あんなものでは、ありません……」
「ありがとう、えりな。やはり君もそう思っていたのだね」
己の存在理由でもあったえりな本人から、「秘書業務のせいで才能を発揮しきれていない」と事実上肯定されてしまった事実に、緋沙子の膝ががくりと崩れかける。
それでも——緋沙子は血を吐くような思いで、絶望の淵から声を振り絞った。
「……ですが! 私はあの日以降も……スタジエールなどを通して、絶え間なく成長を続けています! 決して立ち止まってなど……っ!」
「……それは、あくまで君の『自己評価』だね」
薊は優しく、しかしどこまでも冷徹にその言葉を遮った。
「自分の意見や主張を他者に通したいのであれば、内外に対して客観的な『結果』を示さなければならない。学内という『内』において、君がえりなの側近として立つ分には、今の実力でも十分なのかもしれない。だが……学外にいた『外』の人間である私に語る論拠としては、あまりにも弱いと言わざるを得ないな」
「論……拠……」
「例えばそうだね……」
薊はまるで「今日の天気」でも話すかのように、軽やかなトーンで言葉を付け加えた。
「君が遠月十傑の席に名を連ねていたのだとすれば、外にいた私にとっても、君の言葉には十分な説得力が生まれたのだろうけれどね」
その一言に、緋沙子の瞳の奥で小さな火花が散った。
顔を上げ、涙に濡れた瞳で必死に薊を射抜く。
「……それは……っ! もしも私が十傑に名を連ねることができたなら……私の言葉に、私という存在に説得力があると……そう認めてくださるのですか……っ!?」
食らいつくような緋沙子の問いかけに、薊は一瞬だけ意外そうに目を細めた。
そして次の瞬間——彼の口元に、不敵で、どこまでも愉悦に満ちた笑みが浮かび上がる。
「……ふふ。もちろんさ。君がそこまでの結果を示してみせるというのなら……学園の総帥たる私が、君の言葉を安安と聞き流すような真似は、到底できなくなるだろうね」
その薊の言葉は、冷酷な宣告であると同時に、緋沙子にとっての一筋の光明でもあった。
(十傑の座……学園の頂点たるその席に私が座れば、この人は私の言葉を……えりな様の隣に立つ私の存在を、認めざるを得なくなる……!)
薊の提示した残酷なまでのロジック。だが、それは逆に言えば、再びえりなの隣に立ち、彼女を守るための明確な『条件』でもあった。
「……分かりました」
緋沙子は顔を上げ、目元に溜まっていた涙を拭い去った。その瞳からは先ほどまでの絶望と怯えが消え失せ、代わりに燃え盛るような強い決意の光が宿っていた。
緋沙子は薊から視線を外し、ゆっくりとえりなに向き直る。
えりなは未だに父親の放つ絶対的な威圧感に縛り付けられ、恐怖で小刻みに震えていた。その顔は蒼白で、虚空を彷徨うように視線が揺れている。
「えりな様」
緋沙子は、えりなの白く冷たくなっていた両手を、自身の手でしっかりと包み込んだ。
「ひさ、こ……?」
「しばしの間、お暇をいただきます」
ぎゅっ、と強く握られた手。
そこから伝わってくるのは、緋沙子の脈打つ命の鼓動と、決して折れることのない決意の熱だった。凍りつき、絶望に沈みかけていたえりなの心に、その確かな熱情がじんわりと流れ込んでいく。
触れ合った手から伝わる温もりが、えりなの全身を縛っていた恐怖の呪縛を微かに溶かした。震えが止まり、えりなの金色の瞳に、ほんの少しだけ生きた光が戻る。
「ですが……私は必ず、貴女の隣に戻ってまいります。ええ、必ずです」
緋沙子は柔らかく、しかし鋼のような意志を込めて微笑みかけた。えりなは小さく息を呑み、力なく握り返すことしかできなかったが、その心には確かに緋沙子が残した『熱』が灯っていた。
えりなの手をゆっくりと離し、緋沙子は踵を返す。
迷いのない、凛とした足取りで応接室の扉へと向かうその背中に、薊の優雅で静謐な声がかけられた。
「改めて礼を言うよ、新戸くん。……今まで娘を支えてくれて、本当にありがとう」
それは、彼女のこれまでの功績を労う言葉でありながら、「これで君の役目は終わった」と告げる明確な過去形の決別だった。
しかし、扉のノブに手をかけた緋沙子は、振り返ることなく堂々と胸を張り、はっきりと通る声で言い放った。
「ええ。……『これからも』、よろしくお願いいたします。薊総帥」
別れの言葉に対する、真逆の返答。
それは、遠月学園の頂点に立つ男への、一人の料理人としての堂々たる宣戦布告だった。
その場に残された静寂の中。
決して折れることなく牙を剥いてみせた若き才能の反逆の響きに、薊は心底嬉しそうに目を細め、静かに、そして優雅な笑みを深めるのだった。
ーー
重厚な扉が静かに閉まり、緋沙子の気配が完全に遠ざかる。
その場に残された静寂の中、薊は扉の方を見つめたまま、ふっと優しげな笑みをこぼした。
「……本当に、良い友達を持ったね。えりな」
ゆっくりと振り返った父親の顔には、一切の嫌味も、先ほどの張り詰めた威圧感もなかった。ただ純粋に、娘の友人のポテンシャルを喜ぶような穏やかな表情だった。
「ああして、少し強引に背を押すような形にはなってしまったが……私が彼女に、さらに素晴らしい料理人になってほしいと心から願っているのは、紛れもない事実だよ」
薊はゆっくりとソファに腰を下ろし直すと、芸術品の価値を語るようにうっとりと目を細めた。
「彼女の持つ薬膳への深い造詣と、それを万人に美味として提供できる繊細な技術。……もしも彼女が、誰かに付き従うためではなく、自身の才能を磨き上げるためだけにその身を捧げたなら。間違いなく、美食と東洋医学をかつてない高次元で融合させた、唯一無二の料理人になれるだろうね」
「お父様……」
「新戸くんが遠月十傑の席に名を連ねるのも、決して遠い未来の話ではないはずだ」
その言葉に、えりなは金色の瞳を小さく見開いた。
(お父様が、緋沙子のことをそこまで高く評価しているなんて……)
驚きと共に、えりなの胸の奥にじんわりと温かいものが広がる。
先ほど緋沙子が残していった「十傑になって必ず戻る」という宣言。それが単なる慰めや強がりではなく、お父様ですら認める『確かな未来の形』として存在しているのだと実感できたからだ。
緋沙子の言葉は本物だ。彼女は必ず、途方もない高みに辿り着いてくれる。その安堵感に、えりなが微かに強張らせていた肩の力を抜こうとした、その時だった。
「だからね、えりな」
不意に、薊の声が一段低く、ひどく甘やかな響きを帯びた。
「そんな素晴らしい料理人の未来を、たった一人の『付き人』という鳥籠の中に閉じ込めてしまうのは……とても残酷なことだと思わないかい?」
「……っ」
えりなの心臓が、文字通り一瞬にして凍りついた。
先ほどまで感じていた安堵も、温かな希望の熱も、一陣の吹雪に晒されたように跡形もなく吹き飛んでいく。
薊の浮かべている笑みは、どこまでも優しく、理知的だった。
しかし、その言葉が持つ意味はあまりにも残酷な『呪い』だ。「緋沙子自身の才能を愛しているのなら、彼女を二度と付き人として縛り付けてはいけない」という、決して逆らうことのできない完璧な正論。
「あ……ぁ……」
えりなの喉から、声にならない掠れた音が漏れる。
緋沙子の確かな才能を認め、彼女の未来を誰よりも「正しく」案じているからこそ、その未来からえりな自身の手で彼女を切り離さなければならない。
反論する言葉など、何一つ残されてはいなかった。
「これから先、新戸くんは自らの足で輝かしい未来を切り開いていくだろう。彼女の作る料理は、きっと数え切れないほど多くの人々に愛され、魅了し続けていくはずだ」
薊はえりなの絶望を優しく撫でるように、どこまでも甘い声で言葉を紡ぎ続ける。
「……そこに控えている相田には少し礼を欠く言い方になってしまうがね。秘書業務というものは、もちろん練度の差こそあれ、習熟すれば多くの者がそれなりにこなせるようになるものだ」
引き合いに出された相田は、わずかに目を伏せて無言でその事実を肯定した。薊はそれに軽く頷くと、再びえりなを真っ直ぐに見据える。
「しかしね、えりな。新戸くんの作るあの素晴らしい一皿をこの世に生み出せるのは……他の誰でもない、彼女しかいないんだよ」
それは料理界においてまぎれもない一つの真理。唯一無二の創造性こそが至上の価値を持つという、料理人であるのであれ必ず心の片隅に秘めている事実だった。
「そんな才能に溢れた彼女の行く先を、君自身の都合で塞ぎ、奪うことを進んで願うのは……えりな」
薊はゆっくりと立ち上がり、凍りついて身動きひとつ取れないえりなの傍へと歩み寄ると、その細い肩にそっと手を置いた。
「それは、君のただの『わがまま』ではないのかな?」
鼓動が跳ね上がり、呼吸が浅くなる。
肩に置かれた父親の手はひどく優しいのに、まるで重い鎖のようにえりなの全身を雁字搦めにしていた。
もはや逃げ場はどこにもないのだと悟り、彼女の目から光が失われていく。
「……っ……はい……。……お父様の……仰る、通りです……っ」
絞り出すようなえりなの声は、痛々しいほど小さく、惨めに震えていた。
胸の奥が焼き切れそうだった。緋沙子の存在を否定したいわけではない。むしろその逆だ。彼女の滲むような努力も、秘めたる大きな才能も、誰よりも一番近くで見続けてきたからこそ、父親の提示する完璧な正論を否定する言葉を——『神の舌』を持つ者としての回答を、何一つ見出すことができなかったのだ。
「……分かってくれて嬉しいよ、えりな」
薊は満足そうに目を細めると、そっと細い肩から手を放し、我が子の成長を心から喜ぶかのように優しく微笑んだ。その眼差しはどこまでも慈愛に満ちており、だからこそ逃れることのできない絶対的な檻のようにえりなを縛り付ける。
「君はとても優しく、賢い子だ。だからこそ、自分の我が通らないと分かれば、正しく引くことができる。……君なら、新戸くんの『本当の幸せ』を願ってあげられるね?」
あえて念を押すような、あまりにも甘やかで拒絶を許さない問いかけ。
えりなは青ざめた顔のまま、ボロボロと溢れそうになる涙を必死に堪え、ただ静かに、力無く首を縦に振った。唇を血が滲むほど固く噛み締め、絶望を受け入れることしかできない。
(……そうね。お父様の仰る通り……。私が緋沙子を側に置きたいと願うのは……ただの、身勝手なわがまま……)
自らの手で大切な存在を拒絶しなければならないという重圧が、えりなの心を漆黒の闇へと引きずり込んでいく。
——だが。
薊が構築してみせたこの理論には、決定的な欠落が存在していた。
薊の提示したのは、どこまでも客観的なデータと料理人としての理想論から都合よく組み立てられた「ただの想定」に過ぎない。秘書という立場が彼女の成長を阻害しているというのも、緋沙子の幸せが個人の大成にしかないというのも、すべては薊の身勝手な解釈だ。
そこには、何よりも重要な『新戸緋沙子本人の意志』が完全に抜け落ちていた。
彼女が何のために料理を学び、誰のために強くなりたいと願っているのか。
先ほど緋沙子がえりなに残していった、あの手の熱さと、薊に対する力強い宣戦布告。それらを薊は一部を不透明な意見にすり替えたのだ。
しかしそれでも薊の言葉には何一つ嘘が無い。何故なら『新戸緋沙子の幸せは料理人としての大成であり、えりなの付き人を辞めることは最善である』と。そう薊自身が本心でそう思っているからだ。
もしも仮に、えりな以外の者に緋沙子が仕えていて、えりなに対して言ったのと同じように薊が忌憚なく言える者であれば、全く同じ言葉を薊は言っただろう。それは説得力として、言葉の強さとして二人には伝わっていた。
「……さて。身の回りの整理もついたことだし、そろそろ行くとしようか」
えりなの反応に満足した薊は、どこまでも穏やかな所作で立ち上がると、傍らに佇む相田へと優雅に視線を送った。
「相田。彼女の今後の指導スケジュールと、学園長就任に伴う理事会への挨拶の段取りを整えておいておくれ」
「はっ。ただちに手配いたします、総帥」
整然としたやり取りののち、薊は扉の手前で足を止め、最後に一度だけ振り返った。その瞳に宿るのは、どこまでも深く、純粋な「父親としての愛情」そのものであった。
「心配いらないよ、えりな。これからは僕が君の側に寄り添い導いてあげる。……もう君が、一人で苦しむ必要はないのだからね」
重厚な扉が、カチリと静かな音を立てて閉じる。
足音が完全に途絶え、相田が一礼して部屋を去っていく。濃密な静寂だけが残された室内で、えりなは糸が切れたようにソファへと崩れ落ちた。
頭を覆い、膝を折り、浅く速い呼吸を繰り返す。
父親が残していった甘やかで理知的な言葉の数々は、逃れられない完璧な「正義」として、今もえりなの心を強く縛り付けていた。自分自身の「わがまま」で、大切な友の未来を奪ってはならないという罪悪感が、冷たい鎖となって体を締め上げる。
だが——冷え切った自らの手を強く握り締めたとき、手のひらの奥から、微かな熱が蘇ってきた。
(……ひさ、こ……)
去り際、緋沙子が力強く抱きしめてくれたあの温もり。絶望を振り払うように紡がれた力強い宣戦布告。
父親の紡ぐ完璧な計算式の中に、あの熱情の居場所はどこにも存在しなかった。だからこそ——父親の論理が正しければ正しいほど、あの手から伝わってきた熱だけが、この冷たい暗闇の中で歪な異彩を放っている。
暗く沈みかけた金色の瞳の奥で、反論の言葉を持たぬまま、それでも消え去ることを拒む小さな希望の火花が、静かに、揺らめいていた。
ーー
数日後。遠月学園には、どこか異様で重々しい雰囲気が漂っていた。
新戸緋沙子は学外の試食会や遠征へと飛び回り、学園から姿を消していた。一方のえりなは、総帥に就任した父親による徹底的な管理と指導のもと、急速にその輝きと自由を失っていたのだ。日ごとに表情は消え、アリスからの連絡すら返せずにいた。
「……完全に異常事態ね」
スマホの画面を見つめ、不機嫌そうに鼻を鳴らしたアリスの瞳に、激しい怒りの炎が宿る。詳しい事情などどうでもいい。えりなの不調と、その裏にいる「あの気障な男」の存在を察するには、それだけで十分だった。
——そして午後。
薊とえりなが滞在する屋敷の廊下を、靴の音を荒々しく響かせてずんずんと突き進む人影があった。アリスである。
「アリス様、お待ちを! 部屋へ立ち入ることは——」
焦ってアリスの肩を掴もうと手を伸ばした従者の腕を、後ろから追ってきた黒木場リョウがガチッと強烈な力でねじ上げた。従者が「ぎゃあっ!?」と悲鳴を上げる。
「あー、すんません。お嬢に触れさせたら俺が怒られるんで。……いやー、痛くしてすんません」
黒木場はどこか面倒くさそうに、しかし冷ややかなほど涼しい顔で腕をひねり上げ、片手には分厚い書類の束を抱えたまま、アリスの行く手を阻む者を軽々と払い除けていく。
その頃、静まり返った応接室の中では、薊が優雅に書類を開き、えりなへ新たなスケジュールの調整について静かに語りかけていた。
「……えりな、明後日からのスケジュールは私の方で組み直しておいたよ。試食も君の舌にふさわしい場を用意してある。余裕を持って進めていこうか」
「……はい……お父様……」
理知的で完璧な正論という名の逃げ場のない言葉。えりなが力無くうなだれようとした——その瞬間だった。
バァンッッ!!
腹に響く凄まじい衝撃音と共に、重厚な両開き扉が乱暴に叩き開かれた。驚愕するえりなと、眉ひとつ動かさずに振り返る薊の視線の先に、仁王立ちのアリスが立っていた。
「やあアリス。いくら私の姪とはいえ、ノックもなしに上がり込むのは行儀が悪いな。今、私とえりなは今後の大切な話を——」
「うるさいわよ!! 黙りなさい気障男!!」
薊が口にしかけた優雅な言葉を、アリスは一言のもとに怒号で叩き潰した。相田が絶句し、薊が一瞬ポカンと目を丸くする。
「リョウくん、あれを出しなさい!」
「へいへい……」
黒木場が抱えていた、鈍器のような厚みの用紙の山が、応接室のローテーブルの中央へと叩きつけられた。
ドカァンッッ!!
テーブルが激しく揺れ、数枚のグラフや分析データが舞い散る。薊は不快そうに眉をひそめた。
「これは……一体なんの真似だい、アリス?」
「なにもかもよ! 最近のえりなの心拍数、ストレスホルモンの数値、表情筋の可動域、果ては栄養摂取効率の低下データ!! 私のラボで集められるだけの科学データを徹底的に分析した結果よ!」
アリスは胸を張り、ドヤ顔で一番上のグラフを指で激しく突いた。
「叔父様のやらせてることはぜーんぶ科学的にはただの毒!! データが明確に結論を出しているわ! 『薙切薊と一緒にいると、薙切えりなに悪影響しかない』ってね!!」
「……ほう」
科学とデータを盾にした圧倒的な力技の正論。薊の理屈を、アリスは「生理的・科学的拒絶」という身も蓋もない現実のデータで真っ向からぶち壊してみせたのだ。
アリスはテーブルに置かれた書類の束を手にしげしげと眺める薊を無視し、ずかずかと踏み込むと、ソファで固まっていたえりなの腕を強引に掴み上げ、勢いよく引きずり起こした。
「あ、アリス……!? 一体なにを——」
「えりなは黙ってなさい!」
アリスはえりなを自分の背後へ力強く庇うと、呆然としている薊へ向けて堂々と人差し指を突きつけた。
「データで最悪の結果が出た以上、一刻も早く隔離するのが当然でしょ! というわけで——いまからえりなは家出するわ!!」
「家出、か」
アリスの堂々たる宣言を受け、薊は怒るでもなく、狼狽えるでもなく——ただ呆れたように、あるいは少し可笑しそうにふっと苦笑いをこぼした。
「こういう時は、一般的な父親というのはどう言うべきなんだろうね? 相田」
緊迫した空気の中で突然話を振られた相田は、胡乱な事態に困惑したように視線を泳がせた。
「そ、そうですね……。その、『夕飯までには帰ってくるように』、などでは……?」
「なるほど。それはいい」
まるでホームドラマの微笑ましい寸劇でも演じているかのような、決定的に温度のズレたやり取りだった。
「あ、アリス……でも、私……」
父親の支配への恐怖と、「自分が逃げればどうなるか」という罪悪感で足がすくみ、振り返りそうになるえりな。
しかし、アリスはその手をさらに強く両手で握り締め、強引に自分の方へと引き寄せた。
「でももへったくれもないわよ! えりながどう思おうと関係ない! 私が、えりなを家出させたいだけなんだから!」
問答無用のわがまま。けれど、論理でがんじがらめにされていた今のえりなにとって、それはどんな正論よりも力強い引力だった。アリスはえりなの手を引いたまま、迷いなく扉へと向かって歩き出す。
その背中へ、薊が静かに、しかしどこまでも冷酷な響きを孕んだ声を投げかけた。
「……えりな。悪い友達と付き合ってはいけないよ」
ピタリと、えりなの肩が跳ねる。
「不良と戯れるようになった子供は、いずれ親の手で正しく連れ戻さなければならないからね」
それはえりなにとって警告であり、呪いだった。どこへ逃げようとも必ず見つけ出し、再び自分の手元——この冷たい鳥籠へと引きずり戻すという宣言だと、えりなは受け止めた。
さらに薊は、扉の前で立ち止まったアリスへ向けて、優雅な微笑みを崩さずに告げる。
「アリス。君のご両親……一般的な善良な親御さんであれば、よその家の子を長々と留めるような真似はしないだろうね」
アリスがえりなを連れていくとすれば、彼女の拠点である薙切の別邸か研究所になる。しかし、そこにはアリスの両親(宗衛とレオノーラ)の目がある。薊は「善良な親の常識」を盾にすることで、アリスが親の庇護下である別邸にえりなを匿うという最も安全な選択肢を、暗に潰してみせたのだ。
「善良な親御さん、ね。ふんっ、甘いわね薊叔父様!」
薊が突きつけた理路整然とした牽制を、アリスは鼻で笑い飛ばした。
「そんなの、私もリョウくんと一緒に家出するからなーーんの問題もないわ!」
「……えっ」
これまで無表情でアリスの背後を守っていた黒木場が、心底初耳だと言わんばかりの素頓狂な声を漏らす。しかしアリスは従者の戸惑いなど気にも留めず、えりなの腕を力強く引いたまま踵を返した。
「というわけで、そういうことだから! それじゃあね、ばいばーい!」
「お、おいお嬢、俺の荷物は……」
「後で適当に買いなさい!」
バァンッッ!!
嵐のようなアリスの宣言と共に、重厚な扉が黒木場の手によって乱暴に閉められる。足音はすさまじい勢いで廊下の向こうへと遠ざかり、やがて完全な静寂だけが応接室に取り残された。
散らばるストレスホルモンのグラフ、心拍数の変動データ、そして「悪影響」とでっかく赤字で書かれた分析結果の用紙。
「……そ、総帥……」
数秒間のフリーズを経て、ようやく再起動を果たした相田がおそるおそる声をかける。
「よろしかったのですか……? あのまま、えりな様を連れ去らせてしまって」
相田の問いかけに、薊はテーブルに散乱した「自分への悪影響を示すデータ」をパラパラと指先で弾きながら、小さく息を吐いた。
「構わないさ。アリスもああ見えて薙切の血を引く者だ。えりなの身の安全については間違いはないだろう。それに……」
「それに?」
「私が『娘をがんじがらめにして意思を奪っている』などという、根も葉もない噂話をされるのは本意ではないからね」
——かつて幼いえりなへ施した洗脳まがいの教育を考えれば、明らかに「根も葉もある」事実なのだが。薊はそんな内心の言葉を許さない優雅な笑みを浮かべたまま、言葉を続けた。
「アリスがえりなを連れ出した。そして私がそれを容認した。その事実が広まること自体が、私がえりなを無理やり縛り付けていないことの何よりの証左になる」
「なるほど……。しかし総帥、そうなると問題が一つ」
「今後のスケジュールのことかい?」
「はい。明後日以降に予定していた、外部の要人たちとの試食会はどうされますか? すでに最高級の食材も手配済みですが」
相田が手元のタブレットに目を落とし、埋まっていた予定表を険しい顔で見つめる。
「えりなが不在では仕方がない。すべてキャンセルするしかないね」
「……さらりとおっしゃいますが、その各方面のVIPへ電話を入れて、平謝りするのは私なのですが」
激務の末に押し付けられた理不尽な尻拭いに、相田の眼鏡の奥の瞳が恨みがましく細められる。そのあからさまな不満の気配に、薊は気遣うように首を傾げた。
「すまないね、相田。それじゃあ、僕が代わって電話をかけようか?」
「……いえ、結構です」
「遠慮しなくていいんだよ?」
「遠慮ではなく危機管理です。総帥が直々にキャンセルの電話など入れれば、先方は『恫喝された』『粛清される』と勘違いして泡を吹いて倒れかねませんから」
一切のオブラートに包まない秘書の容赦ない言葉に、さしもの薙切薊も言葉に詰まり、ただ苦笑いを漏らすことしかできないのだった。
――
遠月学園の広大な敷地を覆う、鬱蒼とした森の中。
ザッ、ザッと枯れ葉や小枝を踏み砕く3人の足音が、静寂の森に荒々しく響き渡っていた。
「……追っ手は来てないっすね」
走りながら背後を鋭く一瞥した黒木場が、警戒を解いて短く報告する。ひとまず屋敷からの脱出には成功したらしい。黒木場は息を整えながら、前を走るアリスへと視線を向けた。
「でお嬢。これからどうするんすか? もちろん、逃げ込んだ先のアテはあるんすよね?」
「ええ! 全くのノープランよ!」
立ち止まったアリスは、ビシッと堂々と胸を張って言い切った。
「……は?」
「なんなら適当に、その辺の高級ホテルでスイートでも取ればいいじゃない!」
「アホすか。お嬢やえりな嬢のブラックカードなんか切ったら、一瞬で現在地が総帥にバレるに決まってるでしょ」
「むっ、言われてみればそうね……。じゃあリョウくんのカードで泊まりなさいよ」
「俺のカードでスイートなんか取れるわけないでしょ……」
完全にえりなを蚊帳の外に置いたまま、どこか気の抜けた漫才のようなやり取りを繰り広げる二人。黒木場はやれやれと深い溜息をつき、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「……仕方ねぇ。足がつかない場所を手配できるか、とりあえず心当たりのある奴に連絡してみますわ」
「頼んだわよ!」
黒木場が電話をかけるために少し離れた場所へ移動する。
その背中を見つめながら、えりなは小刻みに震える両手で自身の腕を強く抱きしめた。
(……私は、何を巻き込んでいるの……)
自分は今、総帥である父親から逃げ出している。それは遠月学園の頂点に逆らうという、取り返しのつかない叛逆行為だ。アリスにも、黒木場にも、多大な迷惑をかけてしまっている。
「……アリス」
「ん? なあに、えりな」
「……やっぱり、私……戻るわ……」
俯いたまま、力なく踵を返そうとするえりな。
だが、その手首をアリスがガシッと強く掴んで引き止めた。
「ちょっと、どこ行く気よ」
「離して……! 私が我儘を言ったら、あなたたちにまで迷惑が……」
「迷惑なんてかけてもらいに行くのよ! 緋沙子がいなくなって、最近どんどん暗い顔になっていって……。私はね、えりなをあんな息の詰まる場所に戻したくないの!」
『戻してはいけない』ではない。あくまで『私が戻したくない』という、アリス自身の強烈なエゴ。その真っ直ぐな言葉に、えりなはひどく自嘲的な笑みを浮かべた。
「……そんなことないわ。緋沙子のことも、元々は私が彼女を無理に縛り付けていたのが悪かったのよ……」
「は……?」
「お父様の言う通りよ。私が彼女の才能の邪魔をして……私が、ただ身勝手だっただけで……っ」
「……あなた、それ本気で言ってるの?」
アリスの声から、スッと体温が消えた。
同時に——ポツリ、と。冷たい水滴がえりなの頬を打った。
雨だ。
厚い雲に覆われていた空から、細かな雨粒が落ちてくる。雨は瞬く間に森を濡らし、えりなの青ざめた顔を伝ってこぼれ落ちていく。その光景はまるで、えりなが声もなく泣き咽んでいるかのように痛々しかった。
「……緋沙子にとっても……きっと、その方が……」
父親から植え付けられた『正論』を盾にして、自分の心を殺す言葉を最後まで紡ごうとした、その時だった。
乾いた音が響いた。
アリスの両手が、えりなの冷え切った両頬を両側からぱちんと挟み込んだのだ。
「あ、りす?」
「しっかりしなさい、えりな!」
至近距離から覗き込んでくる、アリスの真剣な赤い瞳。
雨に濡れることも厭わず、アリスはえりなの頬を挟んだまま、言い聞かせるように強い言葉を叩きつけた。
「普段のえりななら、『私に仕えられて光栄に思いなさい!』って、高飛車に言い切るところじゃない!!」
「——あ」
その言葉が、雷のようにえりなの頭を撃ち抜いた。
そうだ。かつての自分なら、迷うことなくそう言い放っていたはずだ。誰が何を言おうと、自分の絶対的な味方である緋沙子を手放すことなど、考えもしなかったはずなのだ。
頬に触れるアリスの手の熱と、彼女の放った痛烈な一言がえりなの瞳を揺らした。
「……まあ、付き人なんて立場に不満がないって言ったら、嘘になりますけどね」
えりながハッとして声のした方を見ると、黒木場が面倒くさそうに首を鳴らしながら歩み寄ってきた。
「ちょっとリョウくん! それどういう意味よ!」
「言葉通りの意味っすよ。毎日毎日、お嬢の思いつきで引っ張り回されて、こっちは振り回されっぱなしだ」
黒木場はギャーギャーと抗議するアリスをジト目で軽くあしらいながら、再びえりなへと視線を向けた。
「でも、だからって自身の研鑽ができないなんてこたぁない。……大抵の料理人なんてのは、自分の置かれた環境をなんでも利用して、勝手に成長していくもんすよ」
「それは…」
「俺だって、お嬢の我儘に振り回されてばかりに見えるでしょうけどね。その実、そこでしか得られない経験値や食材の知識は、勝手に俺の中に蓄積させて自分の牙を磨いてる」
黒木場はいつもの気怠げなトーンのまま、しかし確かな料理人としてのエゴを込めて言った。
「あの新戸もそうなんじゃないすか? あんたの隣という特等席の環境を利用して、勝手に自分の料理を研ぎ澄ましてた。……ただ、それだけの話でしょ」
「あ……」
目から鱗が落ちるような感覚だった。
父親の完璧な正論には、「料理人としての貪欲さ」や「緋沙子自身の意志」という、最も人間臭い熱量が完全に欠落していたのだ。彼女は決して、えりなに縛り付けられてすり減っていただけの可哀想な犠牲者などではない。
えりなの隣という過酷で至高の環境を利用し、自らの足で立ち、自らの意志で貪欲に己を磨き上げようとしていた一人の誇り高き料理人だったのだ。
その事実に気づき、えりなの目から再びポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。しかしそれは、先ほどの絶望の涙ではなく、自分を取り戻すための温かい涙だった。
「……それに、もう人を呼んじまったんで。ここで戻られたら、俺が怒られるんすよね」
黒木場はやれやれと息を吐き、手にしていたスマートフォンをポケットへと突っ込んだ。
「人って? リョウくん、こんな時に誰を呼んだのよ」
「ああ。……『悪い友達』っすよ」
アリスの問いかけに、黒木場は先ほどの気障な総帥の言葉をからかうように、ニヤリと不敵な笑みを浮かべてみせた。
その、直後だった。
「あ、いた! えりなさーん! アリスさーん! 黒木場くーん!」
冷たい雨音を縫うように、少し間の抜けた、しかしひどく温かくて優しい声が森の中に響き渡った。
三人が弾かれたように振り返る。
雨に濡れる木々の向こうから、息を切らしながら小走りで駆け寄ってくる小柄な人影があった。その両腕には、三人が濡れないようにと急いでかき集めてきたであろう、人数分の傘がしっかりと抱えられている。
「田所、さん……?」
そこにいたのはどんな冷たい雨の中でも決して消えない陽炎のような温もりを持つ少女——田所恵だった。
「はい、これ。使って」
息を切らしながら駆け寄ってきた田所は、抱えていた傘を三人に手渡した。
「……サンキュ」
「う、うんっ」
黒木場が短く礼を言って傘を受け取り、アリスとえりなへそれぞれ手渡していく。
「今、寮のみんなにお願いして、お風呂を沸かしてもらってるから。こんな雨の中じゃ風邪引いちゃうし、早く行こう?」
「い、行くって……どこへ……?」
ふわりと温かな微笑みを向けて先導しようとする田所に、えりなは戸惑いとうろたえを隠せずに問い返した。すると田所は、不思議そうに小首を傾げる。
「極星寮だよ? ここからなら、歩いてすぐだから」
「極星……」
言われてみれば、我武者羅に走り抜けてきたこの森は、遠月学園の広大な敷地の外れ——極星寮が位置するエリアのすぐ近くであった。
「なるほどね。リョウくんが送った位置情報を見て、わざわざ迎えに来てくれたってわけね」
アリスは納得したように頷きかけた——直後、ハッと何かに気づき、ジト目で黒木場をキッと睨みつけた。
「……ちょっとリョウくん。あなた、いつの間に田所さんと連絡先を交換するくらい仲良くなってたわけ?」
「あー……まあ、前に女木島先輩たちとちょっと話をした時に、ついでにというか……」
黒木場はどこかバツが悪そうに視線を逸らし、それ以上深くは語らずに言葉を濁した。そして追及を避けるように、さっさと自分の傘を広げて肩に担ぐ。
「ほら、お嬢もえりな嬢もさっさと歩く。ホントに風邪引きますよ」
「ちょっと、誤魔化さないでよリョウくん!」
「はいはい、後で聞きますから」
ギャーギャーと文句を言いながら歩き出すアリスと、それを適当にあしらう黒木場。その騒がしくも変わらない光景に、えりなは毒気を抜かれたように小さく息を吐いた。
「さ、行こっか。えりなさん」
田所が差し掛けた傘の下。そこは、冷酷な雨も、父親の完璧な正論も届かない、小さくて確かな温もりに満ちた空間だった。
「……ええ」
えりなは小さく頷くと、田所の隣に並んで歩き始めた。
雨の降りしきる暗い森の中を、傘を差した四つの影が連れ立って進んでいく。背後にそびえる豪奢な屋敷——あの冷たい鳥籠に、もう誰も振り返ることはなかった。
木々の向こうにうっすらと見え始めた古い洋館の温かな灯りが、えりなの冷え切っていた心を、ぽつり、ぽつりと優しく溶かし始めていた。
思った以上に悪人になりました。
黒木場と女木島の話はそのうち