もしも薙切薊の性格がマイルドだったら 作:作者さん
暗く静まり返った書斎。
そこに置かれた古びた和机の上には、幾冊もの漢方・中医学の古書が開かれていた。
東洋医学における「薬食同源」の叡智。その本質は命を癒やし、調え、活かすことにある。
しかし——表があれば、必ず裏がある。
人を生かす叡智は、一歩足を踏み外せば、人を内側から侵食し、感覚を麻痺させ、死に至らしめる「毒」の技法へと容易に反転する。
家に代々伝わるその禁忌の領域。
かつて主に仕えていた過日であれば、その禍々しい技法を紐解くことなど到底あり得ない選択であった。
自身の立場、イメージ、そして当時はそれを制御し昇華させるだけの成熟も覚悟も欠いていたからに他ならない。
何より——それを解き放つだけの絶望も狂気も、かつての自分の中には存在しなかった。
だが、状況は一変した。
立場も、隣に立つ資格も奪われ、ただの一人の生徒として切り捨てられたあの日。
守るべき看板も、取り繕うべき優しさも、すでに何一つ残されてはいない。
どれほど泥を啜ろうと、どれほど凶悪な毒に手を染めようと、望む場所へと戻れるのであれば手段を選ぶような贅沢はできないだろう。
『仕込み』はすでに完了している。ならばあとは自分の実力を来るべき日までに成熟させられるかどうか。
――愚問だ。そのイメージすら持てずに成せることではないだろう。
かつては一瞥(いちべつ)しただけで固く閉ざしていた禁忌の頁を貪り、配合と作用を脳裏に叩き込む。
ただの知識として眠っていた「毒」の技法を、自らの肉体と刃に染み込ませ、過酷な実践の中で研ぎ澄ませていく時間。
自らにすら試薬を施し、疲労や恐怖の感覚すらも麻痺させながら、完璧な処方を手繰り寄せていく。
―
――研磨の続けていくうちに中で僅かな思考の隙間で思うのは主のことだ。檻の中から連れ出され、陽だまりで穏やかに過ごしていると耳にし……その平穏も打ち壊されようとしている。
だけどその平穏を続けるために己を賭して戦ったのはあの少年、そうして主の居場所を守ってくれた。
ならばそれで十分だ。主の居場所は『彼』が守ってくれるだろう。だからこそ自分は自分が成せることをしよう。
――
パチ、パチ、パチ……。
熱狂と静寂が入り混じる食戟の会場に、場違いなほど優雅で、ゆっくりとした拍手の音が響き渡った。
高台にある観覧席から一人、惜しみない称賛を送っていたのは薙切薊だった。その視線は、荒い息を吐きながら力強く立つ勝利者——黒木場リョウへと向けられている。
「素晴らしい。力強さと繊細さが同居した、実に見事な一皿だったよ。黒木場リョウ君」
薊はセントラル側の敗北という事実を微塵も気にしていない様子で、心からの賛辞を口にした。
そして拍手を止めると、その足元で膝をつく男——敗北を喫した楠連太郎へと、スッと視線を落とす。
「……楠君」
「っ……申し訳、ありません……総帥」
屈辱と申し訳なさで顔を歪める連太郎に対し、薊はどこか困ったような、それでいてマイルドな声音で告げた。
「私は確か、君たちには『全勝』するようにと言ったはずなのだがね?」
「う……っ」
怒鳴り散らされるよりも遥かに堪える、静かで的確な指摘。連太郎は極まりが悪そうにサッと目を逸らし、冷や汗を流しながら沈黙するしかなかった。
「——あら。随分と余裕ぶっていますのね、おじ様」
ふいに、ステージ側から凛とした声が飛んだ。
見下ろせば、薙切アリスが腕を組み、高台の薊を真っ直ぐに見据えている。
「敗北したという明確な事実が、今そこに転がっていますわ。それでもまだ、ご自身の掲げる『絶対的な思想』が正しいと仰るおつもりかしら?」
姪からの鋭く不敵な追及。しかし、薊は余裕の微笑を崩さなかった。
「ふふ……アリス。物事はもっと広い視野で観察しなければならないよ」
薊は諭すように人差し指を立て、なめらかなトーンで語り始める。
「本日、各会場で行われる予定だった食戟は、全部で33戦。……対して、今の敗北はわずか1戦だ。確率にして、我々の勝率は97パーセント弱といったところかな」
「……」
「いわゆる『優位』という観点から見れば、5パーセント以下の例外的な出来事をあげつらえて、全体のシステムが破綻していると主張するのは……いささか論理に無理があるとは思わないかい?」
流れるような反論。だが、最先端の機器とデータを扱う分子ガストロノミーの申し子であるアリスの耳には、それがどう響いたか。
(……なによそれ。ただの『苦し紛れ』じゃない!)
データ分析に長ける彼女にとって、薊の数字を使ったすり替えなど一瞬で見透かせるものだった。「絶対」を謳いながら、いざ敗北の事実を突きつけられると、全体数と確率論を持ち出して薄めようとしているだけだ。
「ちょっと、おじ様! それってただの——」
アリスが呆れ果て、容赦なくその詭弁を切り捨てようと口を開いた、その瞬間。
「……ふっ、ふふふ」
薊がふいに肩を揺らし、自嘲するように苦笑いを零した。
「……?」
アリスが毒気を抜かれたように言葉を止める。
薊は頭を掻くような仕草を見せながら、心底可笑しそうに、あっさりとこう言いのけた。
「いやすまない、アリス。私が言っておいてなんだけれど……いまの話は、流石に無理があったね」
「……は?」
思いがけない総帥の「自白」に、アリスはぽかんと口を開けた。連太郎すらも信じられないものを見るような目で薊を見上げる。
「絶対的な真理を掲げておきながら例外を許容しようだなんて、料理に向き合う姿勢として誠実ではなかった。忘れてくれ」
自らの苦しい言い訳を10秒も経たずに撤回すると、薊は改めて黒木場、そしてアリスたちを見据え、どこか嬉しそうに目を細めた。
薊は困ったように微笑んだまま、ステージでうなだれる連太郎へと視線を向けた。
「楠君。今日は確か、君の食戟があと1戦残っていたね?」
「……は、はい。この後、オファル研究との食戟が控えております」
「そうだろう? もしかしたら、彼の敗北によってがアリスの言った1勝どころか、2勝に増えてしまうかもしれない。その結果も観ずに、5パーセントがどうだの例外がどうだのと語るのは、いささか早計だった。ただの苦し紛れの話のすり替えだったと、自分でも呆れてしまったよ」
自らの非をあっさりと認めてみせた薊の態度に、アリスは完全にペースを乱され、「な、なんなのよ……」と呟くしかなかった。
しかし薊は、さらに言葉を続ける。
「それに——その敗北の損失を十二分に埋め合わせる『要因』さえ見つかれば、私としては今回の結果に十分満足できるからね」
「敗北を埋める要因……?」
アリスが訝しげに眉をひそめる。
一方の連太郎はギリッと奥歯を噛み締めていた。
(また俺が負けるかもしれないと……総帥はそう思っておられるのか……ッ!)
セントラルの中枢としてのプライドをズタズタにされた屈辱と焦燥。彼は震える拳にありったけの力を込めると、弾かれたように立ち上がり、会場の入り口を睨みつけた。
「……おい! 次の相手は誰だ! オファル研究だろうが何だろうが、さっさと出て来い! 俺の怒りの捌け口にして、完膚なきまでに叩き潰してやる!」
連太郎が吼えた直後だった。
『プルルルルルルッ!』
アリスのすぐそばに立っていた幸平創真のポケットで、携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
「お? 悪い、青木からだ」
創真はすぐさま電話を取り出すと、タクミや黒木場、アリスにも聞こえるようにスピーカーモードにして通話ボタンを押した。青木は別の会場の様子を偵察に行っていたはずだった。
「おう青木、そっちはどうだ?」
『ゆ、幸平か!? お、おい……えらいことになったぞ……っ!』
スピーカーから飛び出した青木の声は、尋常ではないほど上ずり、ひどく混乱していた。
「えらいことって……どうしたんだよ。ちゃんと説明してくれ」
創真が困惑気味に尋ねると、青木は荒い息を吐きながら断片的な言葉を紡ぎ出す。
『C、Cグループの会場だ……セントラルに……勝った奴がいる……! いや、午前中にBグループでもだ…そっちに連絡は行ってねぇのかっ!?』
「なんだと!?」
タクミが思わず身を乗り出した。連太郎に黒木場が勝っただけでも大金星だが、別会場でも勝利者がいるというのか。
確かに、別会場から漏れ聞こえるかすかなざわめきや動揺の気配は存在していた。しかしそれは、食戟特有の熱気や盛り上がりに容易に掻き消される程度のものに過ぎない。「反逆派の生徒が勝っている」という話にしては小さいものだ。耳に届いたところで、周囲にとっては「絶対にあり得るはずのない悪質なフェイクニュース」として処理しているかのような、そんな小さなざわめきだった。
『しかも、次に楠連太郎と食戟をやる予定になってる研究会の代表……いや代表じゃねぇんだが、ああくそ、上手く説明できねぇ!』
その瞬間だった。
ぞわり、と。
得体の知れない悪寒が、創真の背筋を駆け上がった。
それはタクミも、黒木場も、アリスも同じだった。本能が警鐘を鳴らすような異様な気配。高台から見下ろしていた薙切薊でさえ、その端正な顔の頬に一筋の冷や汗を滑らせ、ゆっくりと会場の入り口へと視線を向けた。
カツン、カツン……。
静まり返った会場に、規則正しい足音が響く。
現れたのは、見慣れた遠月のコックコートに身を包んだ一人の少女だった。
しかし、その姿は異様だった。彼女の白い頬には、一筋の鮮血がこびりついている。
血の滴るような特殊な食材を捌いた直後なのか、あるいは——まるで自らの刃で誰かを斬って捨ててきたかのような、冷酷で凄惨な空気を纏っていた。
表情は、ひどく平坦だ。一切の感情が抜け落ちたかのような無機質な瞳が、ただ真っ直ぐに高台の薊を、そして連太郎を見据えている。
『薙切さんの、秘書の。……食戟で2勝した……いや、違う、あれで4勝目なのか……っ!?』
スピーカー越しの青木の混乱した声が、響き渡る。
『名義だけ解体に追い込まれそうな自治組織に借りて……その代表として、一人でセントラル相手に連戦して連勝してやがるんだよ……!!』
「……新戸、緋沙子……っ」
アリスが息を呑んでその名を呼んだ。
かつてえりなの隣で控えめに微笑んでいた面影は、そこにはない。
修羅の如き気迫を放つ緋沙子を見て、しかし連太郎は鼻で嗤った。
「なんだ? お前が次の代表か。薬膳料理の専門だかなんだか知らないが、俺の相手になるとでも――」
「敗北した」
緋沙子の冷ややかで、氷のように透き通った声が、連太郎の言葉を容赦なく遮った。
「……あ?」
「敗北したのであれば、ちょうどいいですね」
緋沙子は微塵も揺らがない視線で連太郎を射抜き、淡々とした口調で告げた。
「楠連太郎先輩。貴方……ここでの敗北の失敗を、取り戻したくはありませんか?」
悪魔の囁きのように放たれたその問いかけに、会場の空気はさらに一段、深く凍りついた。
「総帥。……ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
静寂が支配する会場の中、緋沙子は高台に佇む薊を見上げ、冷ややかな声で問いかけた。
「この食戟の天秤に……新たな『錘』を追加することは可能でしょうか?」
「ほう……?」
薊の眉がピクリと跳ね上がった。予期せぬ提案に対し、どこか楽しげに、しかし思慮深く顎に手を当てる。
「原則として、食戟の対価は双方の合意によって決定されるものだ。挑戦者が錘を積み増し、それを受諾するか否か……それを決めるのは、対戦相手である連太郎君だよ」
「そうですか」
緋沙子は短く短答すると、視線を連太郎へと戻した。そして、躊躇うことなくその口を開いた。
「それでは……私が先ほど勝利し、存続を確定させた『薬膳理研究会』ならびに『生薬料理研究会』の食戟結果——それらをすべて無効とし、勝利の権利を返上します」
「……っ!?」「な、なんだってー!?」
会場の隅に集まっていた該当団体の部員たちから、悲鳴にも似た怒号が上がった。
「ふ、ふざけるな新戸! 俺たちの存続がかかってるんだぞ! 勝手に白紙に戻すなんて正気か!?」
絶叫する部員たちに対し、緋沙子は一瞬だけ横顔を向け、氷のように冷たい眼差しで射抜いた。
「……黙りなさい。私の力で掴み取った勝利であり、私が獲得した対価です。それを私がどう使おうと、貴方たちに口出しされる筋合いはない」
地を這うような言葉の圧力に、部員たちは言葉を詰まらせ、ゴクリと唾を呑み込んで退かざるを得なかった。
一方、そのやり取りを聞いていた連太郎の表情が、歓喜と獰猛な歪みへと変わっていく。
(ま、マジかよ……ッ!?)
黒木場に負け、総帥からの評価を落としかけていたこの土壇場。相手が勝手に掛け金を釣り上げ、すでに防衛されたはずの研究会ふたつを再びまな板の上に載せてくれたのだ。ここで勝てば、一瞬で自分の失態を取り戻せるどころか、お釣りが来るほどの戦果になる。
「ハッ……ハハハハッ! 面白い、面白すぎるぜ!」
連太郎は喉を鳴らして下品に笑い飛ばすと、ギラギラとした欲望を剥き出しにして緋沙子を睨みつけた。
「俺の失敗を帳消しにするどころか、格好の挽回チャンスを向こうから転がり込ませてくれるとはなぁ! いいぜ……その申し出、受けて立ってやる!」
連太郎は腕を組み、勝ち誇ったように顎をしゃくった。
「で? ふたつの自治組織の命運をドブに捨ててまで掛け金を釣り上げたんだ。……そっちの『要求』は何だ? どうせ他の研究会の解体撤回でも上乗せするつもりだろ?」
高を括り、せせら笑う連太郎。
しかし、緋沙子の表情はぴくりとも動かなかった。
「いいえ。それらに興味はありません」
「……なに?」
緋沙子は血のついた頬のまま、死神のように冷徹な声で宣告した。静かに右手を上げると、細く美しい人差し指を、まっすぐに連太郎の顔面へと突きつけた。
「――楠連太郎先輩。私の要求は、貴方の『セントラルからの除籍』です」
会場全体が、まるで氷漬けにされたかのような静寂に包まれた。
観客も、極星寮の面々も、高台の薊すらも言葉を失い、ただ目の前の少女が放つ狂気と気迫に圧倒されている。
「……っ!?」
連太郎の顔から、先ほどまでの下品な嘲笑が完全に吹き飛んだ。頬の引きつりを隠せないまま、目を見開いて絶句する。
「な……なにをふざけたことを抜かしてやがる! そんなふざけた条件、受けられるわけが——」
「『受けて立ってやる』」
緋沙子の透き通った声が、連太郎の取り乱した抗議を情け容赦なく遮った。
「先ほど、貴方はそう宣言されました。この会場にいる全員……そして高台に佇む総帥が、その言葉の証人です。今さら舌の根も乾かぬうちに撤回など、セントラルの代理としてあまりに恥ずべき不体裁では?」
「く、っ……!!」
退路を塞がれた連太郎は、ギリッと奥歯が割れんばかりに噛み締めた。冷や汗が首筋を伝い落ちる。
冷静に考えれば、互いに何を賭けるかという具体的な条件が明示される前である以上、この要求自体を蹴ることだってできるはずだった。食戟の対価は双方の合意が前提だ。提示された対価を見てから拒否したところで、ルール上の不備は何一つない。
しかし――それは不可能だった。
断れば、会場を埋め尽くす生徒たちから「相手の気迫に呑まれて逃げた腰抜け」として失笑を買うのは目に見えている。何より、頭上の高台からは総帥・薙切薊がその一部始終をじっと見下ろしているのだ。総帥の目の前で醜く尻込みするなど、セントラルの生徒としてのプライドが、そして自分自身の矜持が絶対に許さなかった。
先ほど、彼女がわざわざ総帥へ向けて食戟のルール確認を行った理由が、今になって連太郎の脳裏で結びついた。あれは単なる確認などではない。この場に誰が居て、自分たちのやり取りが誰に見られているのかを強く印象付け、絶対に逃げられない『証人』として巻き込むための盤石な布石だったのだと気づかされたのだ
(クソが……っ! だが、落ち着け……! たかが『セントラルからの除籍』だ! 永久だなんて一言も言ってねぇ。 ここで勝てば問題ないし、万が一負けたとしても……総帥に平伏して忠誠を誓い直せば、再起の芽はいくらでもある……!)
必死に脳内で計算を弾き、強引に自らを納得させた連太郎は、血走った目で緋沙子を睨み据え、自棄気味に吠えた。
「……いいだろう! たかが除籍程度、買ってやるぜ! 俺が勝てば研究会ふたつが潰れ、俺の戦果になるだけの話だ……!」
ーーーー
しかし――勝負は、あまりにも一方的であっけない幕切れだった。
連太郎が持てる技術のすべてを注ぎ込み、獰猛に牙を剥いた一皿。だが、緋沙子はそれを緻密に計算し尽くされた深遠なる薬膳の叡智で、赤子の手をひねるように圧倒した。
審査員たちの満場一致の判定。それは誰の目にも明らかな、絶望的なまでの実力差を見せつける『完全勝利』であった。
「嘘だ……俺が、こんな……っ」
ガクンと膝をつき、連太郎は信じられないものを見る目で自らの料理が残った皿を見つめた。
負けた。黒木場に続いて、まさかの二連敗。それも今回は、誇りであった『セントラルからの除籍』という絶対的な身分すらも失ってしまったのだ。
(俺が……セントラルを、クビ……っ!?)
絶望と、言いようのない恥辱。総帥の期待を完全に裏切ったことへの恐怖に苛まれ、連太郎はギリッと血が滲むほど奥歯を噛み締め、屈辱にまみれてブルブルと震えた。
そんな失意の底に沈む連太郎の頭上から、抑揚のない声が降ってきた。
「——楠連太郎先輩」
「……っ!」
憎き相手からの呼びかけ。連太郎は屈辱に顔を歪め、ありったけの憎悪を込めて相手を睨みつけようと顔を上げた。
しかし、そこに立っていた緋沙子の顔には、勝利の歓喜も、敗者を嘲笑う色も一切なかった。ただ無機質で、光の宿らない漆黒の瞳が彼を見下ろしているだけだ。
そして彼女は、食戟が始まる前とまったく同じ、氷のように淡々としたトーンで言い放った。
「貴方……ここでの敗北の失敗を、取り戻したくはありませんか?」
「……は?」
連太郎は自分の耳がおかしくなったと錯覚した。何故なら彼女との食戟前に聞いた言葉と一言一句同じだったからだ。
予想外すぎる言葉に、連太郎は睨みつけることすら忘れ、間の抜けた声を漏らした。
困惑する連太郎をよそに、緋沙子は静かに言葉を続ける。
「この食戟の天秤に、新たな『錘』を追加し、もう一度勝負をしましょう。……私が提示するのは、今日私が勝利し防衛した『薬膳料理研究会』『生薬料理研究会』『オファル研究』、それらの勝利をすべてを白紙に戻し、そちらの勝利」
「な、何を言って……」
「さらに――」
緋沙子はピクリとも表情を変えずに、狂気の天秤をさらに傾けた。
「私が別会場で破った2名と、たった今敗北した貴方を含めた……『計3名分のセントラル除籍処分の撤回』を錘として乗せます」
「……っ!?」
その瞬間、創真のスピーカーから聞こえていた青木の混迷した報告——『2勝した、いや4勝なのか』という言葉の意味が、全員の脳内で鮮烈に繋がった。
(そうか……そういうことかよ……っ!)
連太郎は息を呑んだ。
緋沙子は単に自治組織の代表として勝利しただけではない。黒木場に負けた連太郎と同じように、己の敗北や失態を取り戻そうと焦り、緋沙子の提示した過酷な条件(賭け)に乗ってきたセントラルの刺客2人を返り討ちにし、返り討ちどころか彼ら自身の立場まで引きずり降ろしていたのだ。
あまりのハメ技、そして容赦のない狩り尽くし方に、連太郎の顔面から血の気が完全に引いていく。
「お前……あいつらまで巻き込んで……っ! な、何を画策してやがる……! おれと…っ、他の2人の除籍撤回なんて巨大な対価を乗せて……お前は、一体何を要求するつもりなんだ……!?」
ひきつった、裏返りそうな声で問い詰める連太郎。
緋沙子は答えなかった。
ただ静かに、先ほどは連太郎の顔面をまっすぐに指さしていた、その右手のアクションを変えた。
その細く美しい指先を、ゆっくりと自らの首元へと移動させる。
そして――
スーッ、と。
自らの白い喉元を、刃で薙ぎ払うように横一文字に滑らせてみせた。
誰かを斬り捨てる仕草。あるいは、打ち首の宣告。
血のついた頬のまま、緋沙子は底知れぬ漆黒の瞳で連太郎を見つめ、その宣告とは真逆の淡々とした声で告げた。
「――楠連太郎先輩の『退学(クビ)』を」
「ひ、っ……」
連太郎の喉から、小さく、ひきつった情けない悲鳴が漏れ出た。
会場を支配していたざわめきが、潮が引くように完全に掻き消える。
アリスも黒木場も、隣に立つ創真やタクミも、瞬きすら忘れてその光景に固唾を呑んでいた。
「……どうなさったのですか、先輩」
緋沙子はピクリとも眉を動かさず、感情の抜け落ちた淡々とした声で問いかける。
「ご自身の失敗を取り戻すどころか、身を挺して先ほどの同僚お二人の立場まで救ってみせる……成功すれば、貴方はセントラルに大きな功績を残せるのですよ? これほど恵まれた機会など、どこを探してもありません」
「ヒ、ヒッ……!!」
「あの男は。 ーー 。幸平創真はできました。貴方はできないのですか?」
恐怖で引きつる連太郎の全身を、ガタガタと激しい戦慄が支配していく。
おかしい。こんなはずではなかった。自分はただの『残党狩り』に来ていたはずだったのだ。勝ちの決まった勝負で反逆者を一方的に痛めつけ、嘲笑うだけの、安全で、楽しくて、容易いハンティングゲーム……そのはずだった。
それなのに——目の前に立つこの怪物は、あろうことか自分の『退学』を賭けた、正真正銘の殺し合いの食戟へと自分を引きずり込もうとしている。
「仲間とともに過ごした大切な居場所を守るか、それとも大人しく退学を受け入れるか……理不尽な選択を突きつけ、失意に沈む相手を眺めるのは、さぞお楽しかったでしょうね」
緋沙子は静かに、しかし地を這うような冷徹な声で言葉を重ねる。
「……まぁ、私はちっとも楽しくありませんでしたが。……どうして自分がまったく同じ立場に立たされた途端に、そのような顔をなさるのですか?」
「あ……が……っ」
恐怖で腰が抜けかけ、身縮こまる連太郎。
次の瞬間、緋沙子は容赦なく一歩を踏み出すと、強引に手を伸ばして連太郎の頭髪をグイと掴み上げた。
「がぁっ……!?」
頭部を強引に固定され、強制的に上を向かされた連太郎の視界に、至近距離で緋沙子の顔が飛び込んでくる。
――かつて、今日この場所で連太郎自身が打ち負かした相手に行ってみせた行為の、完璧なオマージュ。
だが、そこにある瞳はあまりにも異常だった。
何も映し出さない、光の失われた虚無の瞳。自分の恐怖に歪む顔すらも映さないその漆黒の深淵に見つめられ、連太郎の背筋に冷たい蛇が走り抜ける。
「さぁ……立ってください。調理の準備をなさってください」
血のついた頬をぴくりとも動かさず、緋沙子は地獄の底から響くような声で、静かに催促した。
「先輩があんなに楽しんでおられた……『食戟』を始めましょう」
「――ストップだ、新戸くん」
静寂を切り裂き、高台から薊の穏やかな声が響いた。
その制止の言葉と同時に、緋沙子の漆黒の瞳がゆっくりと首を巡らせ、高台の薊を捉える。その瞬間、会場全体を押しつぶしていた狂気のような凄惨な圧迫感が、ふっと和らいだ。
「はぁっ……!」「くそっ……息が、詰まるかと……」
創真やタクミ、アリスたちが、そこでようやく溜め込んでいた息を一気に吐き出し、乱れた呼吸を整える。
「あまり彼を怖がらせないでおくれ。見てごらん、楠君が今にも倒れてしまいそうだ」
困ったように微笑む薊に対し、緋沙子は連太郎の頭髪を掴んでいた手をそっと離すと、微動だにせず無言で直立した。
「――彼はもうセントラルの一員ではありませんが?」
「それでも、だよ新戸くん。これがほかの生徒だったとしても私はそう言おう」
薊は、顎に手を入れて思慮深く言葉を継いだ。
「だが……少し待ってほしい。……私はね、君がなぜこのような暴挙……まるで傭兵のような立ち回りをしているのか、その理由を確かめたいんだ」
目の前で憎きセントラルがやり込められ、敗北を喫している。
本来であれば反逆派の生徒たちにとって、これほど胸の空く展開はないはずだった。
しかし——今この場にいる誰一人として、喜びや希望を抱く者は存在しなかった。まるで感情の抜け落ちた殺戮兵器のように、セントラルの刺客たちを冷酷に刈り取っていく緋沙子の姿があまりにも恐ろしく、異様だったからだ。
創真たちも、アリスも、そしてセントラル側の生徒たちすらも。この瞬間だけは全員が等しく、「新戸緋沙子という怪物への恐怖」という一点において完全に同調していた。
問われた緋沙子は、血のついた頬をぴくりとも動かさず、感情の籠もらない声で淡々と答えた。
「……空位の席を」
「……何?」
「空位の十傑の席をいただくために参りました。……まあ、空位でなくとも構いませんが」
緋沙子は言葉を区切ると、無機質な動作で右手をかざし、その細い指先を観客席の遠くで見守っていた第四席・茜ヶ久保ももへと真っ直ぐに向けた。
指を突き付けられたももが、「ひゃっ!?」とぬいぐるみを抱きしめながら小さく悲鳴を上げる。
「……っ!」
その言葉と指先を見た瞬間、薊の表情が凍りついた。
脳裏に鮮烈によみがえるのは、かつて彼女をえりなの付き人から解任したあの日の記憶。彼女に対し、半ばあしらうような軽口として投げかけた、あの言葉——。
『君が遠月十傑の席に名を連ねていたのだとすれば、外にいた私にとっても、君の言葉には十分な説得力が生まれたのだろうけれどね』
(まさか……あの時の戯れ言を……本気で……ッ!?)
あの日、己の無力さに絶望して去ったはずの少女。
彼女は薊が口にしたあしらいの言葉を何一つ疑わず、ただ「えりなの側に戻るための条件」として真に受け、十傑の席を力尽くで奪い取るためにここへ戻ってきたのだ。自分の提示した3人のセントラルの首という『内外へ示す結果』を引っ提げて。
狂気とも呼べるあまりに愚直で純粋な執念に、流石の薊も息を呑み、絶句するしかなかった。
そして――。
総帥が見せた、ほんのわずかな沈黙と絶句。
それを緋沙子は、至極冷淡に「拒絶」と受け取った。
「なるほど」
緋沙子は小さく呟くと、首をぎち、と嫌な音で傾けた。
「3人では足りませんか」
不足分の食材の発注をするかのような平坦な声で、緋沙子の漆黒の瞳が横へと向けられる。
その射貫くような死神の視線が捕らえたのは、会場の隅で戦慄していた他のセントラルの生徒たちだった。
「ヒ、っ……!?」
視線が合った瞬間、セントラルの生徒から情けない悲鳴が上がった。
「——その必要はないよ、新戸くん」
薊は慌てる様子もなく、いつもの穏やかで朗らかなトーンに声を戻して語りかけた。
「これ以上、彼らを狩り立てる必要はない。君の実力、そして十傑の席に対する並々ならぬ覚悟……十分に理解させてもらったよ」
静かに顎を引いた薊は、高台から優雅に手を差し伸べる。
「現在、空席となっている『第七席』……その席を君に与えよう。今日この時より、君を遠月十傑評議会の一員として迎える」
「……」
突如として下された、十傑への抜擢。
会場中が「新戸緋沙子が十傑に……!?」と動揺に包まれる中、当の緋沙子は歓喜するでもなく、ただ血のついた頬のまま淡々と頭を下げた。
「……承知いたしました」
彼女にとって、手段や地位などどうでもよかったのだ。ただ「十傑の席を得る」という目的が果たされた、それだけの事実として受け取っている。
深々と頭を下げた緋沙子は、ゆっくりと顔を上げると、漆黒の瞳で直視したまま、感情の削ぎ落とされた声で言い添えた。
「……『これからも』、よろしくお願いいたします。薊総帥」
言葉の文字面だけを見れば、かつてこの総帥室で付き人を解任され、去り際に彼女が口にした挨拶と、まったく同じフレーズ。
しかし——あの時の絶望と悲壮感に満ちた別れの言葉とは異なり、今のそれは、まるで獲物の首元に刃を突きつけながら交わす誓約のようだった。
「……ふっ」
あまりの圧力に、流石の薊も思わず苦笑いを零した。
「……参ったな。これは私の負けだよ。……これから、よろしく頼むよ。新戸『七席』」
そう言って胸に手を当てた薊の横顔には、困惑と同時に、底知れない愉悦の笑みが浮かんでいた。
その瞬間—そのやり取りを見つめていたアリスの脳裏に、電撃が走った。
(……あっ)
会場に来てすぐ、薊がアリスに告げたあの言葉。
『その敗北の損失を十二分に埋め合わせる要因さえ見つかれば、私としては今回の結果に十分満足できる』
「……そういうことだったのね、おじ様……っ!」
アリスの口から漏れた確信めいた呟き。彼女は、連太郎の敗北という汚点を埋め合わせる『要因』とは、緋沙子という異様な才能と覚悟をセントラル(十傑)の陣営へと取り込むことだったのだと解釈し、ごくりと息を呑んでいた。
そんな姪の視線に気づいた薊は、余裕に満ちた優雅な笑みを返してみせた。
(——―ああ、そういうことにしておこうか、アリス)
だが、微笑みを浮かべる薊の内心は、姪の推測とは裏腹に、背筋を這い上がるような冷たい戦慄に支配されていた。
本来、彼が想定していた『敗北の損失を埋め合わせる要因』など、まったく別のものだったのだ。
自らが選び抜いた玉であるセントラルの生徒たちが、万が一敗北を喫したとしても——そこから彼らが学び、教訓を得るための糧とすればいい。そして、その失態を優しく『許し』、彼らが料理人としてさらに大成することを願う慈悲深い総帥としての度量を会場の全員に示す。それこそが、盤石な体制を築き上げるための美しいシナリオだった。
また、空座となっていた十傑の席についても同様だ。あれはセントラルの生徒たち同士で奪い合わせるバトルロワイヤルの舞台として用意し、彼らをさらなる高みへと引き上げるための研鑽に利用するつもりでいたのだ。
(それを、あの少女が……この私が描いた盤面をたった一人で、かくも無惨にぶち壊してくれた……ッ!)
新戸緋沙子。
才能は認めつつも、自らが取るに足らないと切り捨てたはずの小石が、えりなの側へ戻るという狂気にも似た執念だけでここへ舞い戻り、己の計画を根底から食い破ったのだ。
彼女は決して、セントラルを補強するための『薬』などではない。
体制そのものを内側から蝕み、崩壊させかねない致死性の劇物——明確な『毒』だ。
(……だが)
薊は、頬を伝う一筋の冷や汗を拭うこともせず、微動だにしない漆黒の瞳を持つ『新たな十傑』を見据えた。
(私ならば……この強烈な毒でさえも、完璧な『薬』として扱いきってみせよう)
底知れぬ怪物へと変貌した少女に対する焦燥と恐怖。それを無理矢理に奥底へと押さえ込み、薊は総帥としての矜持を胸に、静かに、しかし確固たる意思を固めるのだった。
最近醤を読んだので小説だけど漫画的ハッタリが多いのは許して。
あと性格改変も許してください。あるテーマとAIに任せたらこうなりました。
次の話は薊なしの予定です。