もしも薙切薊の性格がマイルドだったら 作:作者さん
皿の上に残されていたのは、琥珀色に透き通る烏骨鶏の薬膳コンソメと、艶やかな鴨胸肉のコンフィ。新戸緋沙子が差し出したその一皿の正体は、『伝統減毒処理を施したフグ卵巣の熟成エキスと、微量生薬の痺れを落とし込んだ黄金薬膳スープ』であった。
塩漬けと糠漬けによってテトロドトキシンを完璧に分解・安全化させる、日本の極限的な伝統減毒技術。タンパク質が極限までアミノ酸へと分解されたその卵巣は、あらゆる食材を凌駕する「爆発的な熟成旨味」の塊へと変貌を遂げる。さらに緋沙子は、そこに麻黄(マオウ)や花椒といった生薬から抽出した微小な薬理成分を精密な配合で融合させていた。
毒がもたらす「痺れ」の感覚だけを極限までコントロールし、舌の味蕾と神経受容体を強制的に開かせる。そこへ、減毒フグ卵巣と烏骨鶏が解き放つ濃密なアミノ酸の旨味が、怒涛の濁流となって雪崩れ込んだ。
(な……なんだ、この感覚は……!?)
審査員の喉を過ぎた瞬間、脳髄を直接揺さぶる強烈な旨味と、心地よい微かな痺れが全身の神経を駆け抜けた。
舌先から全身へと伝波する痺れと多幸感——脳の受容体を過剰刺激するその味覚の暴力に、視界が白く反転する。まるで一面の花畑と澄み渡る空の下、己の魂がふわりと天へ抜けていくような錯覚。文字通りの「昇天」体験。絶頂のあまり、誰もが言葉を失い、ただ口を半開きのまま極楽の夢路をさまよっていた。
(……これは『真夜中の料理人(レ・キュイジニエ・ノワール)』の領域……! いや、違う!)
老練な審査員の一人が、かろうじて残った理性の糸を辿って戦慄する。
彼女は闇の裏社会へ足を踏み入れたわけではない。表の調理科学と完璧な減毒技術、そして生薬の微量薬理効果を完全に合法的かつ安全に統御し、料理界の「裏の技術」の概念だけを完璧にトレースして料理へと落とし込んだのだ。
(こんなものは……他の反逆者たちがナイフ一本でバトルロワイヤルに挑んでいるというのに、彼女一人だけ研ぎ澄まされた日本刀を振りかざして立ちはだかっているようなものだ……! 間合いも斬れ味も次元が違う、勝負にすらなっていない……!)
「——勝者、新戸緋沙子!!」
静寂を切り裂く判定の声。3人の審査員全員が、迷うことなく緋沙子の札を掲げた。圧倒的な完勝。
しかし、歓声が湧き上がる会場の中で、当の緋沙子は一切の表情を変えなかった。膝を折り、絶望に打ちひしがれる対戦相手に目を向けることすらしない。ただ凍てついた平坦な瞳のまま、静かに調理台を片付け、ステージの袖へと立ち去っていった。
喧騒から遠く離れた、会場の奥深く。誰も寄り付かない薄暗い資材搬入用の通路まで歩みを進めると、新戸緋沙子はピタリと足を止め、小さく、しかし深く息を吐き出した。
それは疲労からくるものではなかった。
「……相手のソースの乳化温度。あと三度低ければ香りの飛びは抑えられていた。けれど、あの柑橘の酸味を差し込むタイミング自体は、私の薬膳のマスキングにも応用できるかもしれない……」
無意識に唇を動かし、先ほどの食戟相手が提示してきた皿の「良点」を自身の頭の中で咀嚼し、解体しているのだ。相手を完膚なきまでに叩きのめしておきながら、その残骸から貪欲に技術を吸収しようとするその姿は、冷徹な捕食者のようでもあった。
「おつかれさーん!」
不意に、静寂を破って鼓膜を叩く場違いなほど明るい声。
「いやー、いろんなゲテモノを食べてきた竜胆さんだけどさぁ。そっちの『毒』方面はまだノータッチだったんだよなー。あのフグの卵巣、アタシにも一口食わせてほしかったぜ!」
通路の影から現れたのは、第二席・小林竜胆だった。悪戯っぽく八重歯を覗かせ、馴れ馴れしく緋沙子の肩へ腕を回そうと距離を詰めてくる。
「……小林先輩。お疲れ様です」
緋沙子はスッと体を僅かにずらしてその腕を躱すと、機械的な動作でペコリと頭を下げた。
その表情は、ひどく平坦だった。えりなの傍で見せるような柔らかな微笑みもなければ、極星寮の面々に向けるような熱のある反発心もない。冷徹というよりも、ただ純粋に「目の前の相手に対してどうでもいい」と思っているような、凪いだ湖面のような無関心さだった。
そんな緋沙子の塩対応を気にする風もなく、竜胆は壁に背中を預けてケラケラと笑う。
「でもなー、やっぱり意外だよな。新戸がこっち(セントラル)側に来るなんてさ。最近の薙切……あ、総帥じゃないぞ? えりなの方。あいつも露骨に自治組織側に肩入れしてるって感じだろ?」
竜胆の細められた金色の瞳が、緋沙子を射抜く。
薊政権が発足する以前から、竜胆は十傑としてえりなと、その背後に常に控える緋沙子の姿を幾度となく見てきた。緋沙子がどれほどえりなを崇拝し、慕っていたかも熟知している。そして、緋沙子が第七席に就任してからも、水面下でえりなとの接触を絶っていないことすら、この食えない先輩は勘付いているはずだった。
だからこそ、竜胆は口角を吊り上げ、わざとらしく芝居がかったトーンで言葉を紡いだ。
「まさか、あの忠犬だった秘書子ちゃんが、えりなを『裏切る』なんてなー」
それは、緋沙子の仮面を剥がすための、明確な揺さぶりだった。
ピタリ、と。
通路の空気が、文字通り凍りついた。
「……訂正を、していただけますか。小林先輩」
「なんだぁ? 『りんどー先輩』って呼んでもいいって、前にも言ったろー?」
張り詰めた空気などお構いなしに、竜胆はどこ吹く風といった様子でケラケラと軽く笑い飛ばす。
だが、そんな竜胆の軽口に続く緋沙子の声は、ひどく静かだった。先程までの無関心な平坦さとは違う。絶対零度の吹雪のように、言葉と視線の温度が急激に底を割ったのだ。
一切の感情を排した、しかし確かな刺々しさを孕んだ瞳が、真っ直ぐに竜胆を見据えていた。
「だってさー、お前、残党狩りにもちゃんと真面目に参加して、セントラルの手がどんどん学園中に伸びていくのを最前線で手伝ってんじゃん。そんな動きしてりゃ、周りから『えりなを裏切った』って取られたって仕方ないだろ?」
竜胆は壁から背中を離し、肩をすくめながらあっけらかんと言い放つ。
「……それは、えりな様とは全く関わりのない場所での話です」
緋沙子は即座に、鋭利な刃物のような声で切り捨てた。
「私はただ、十傑の一席を預かる者として、セントラルの理念に従い淘汰しているに過ぎません。私の行動と、えりな様への忠義を混同し、裏切りなどと呼ぶのは暴論です」
「そりゃそうだけどさー」
竜胆は口元にニヤリとした笑みを浮かべ、さらに一歩、緋沙子へと間合いを詰めた。金色の瞳が、試すように緋沙子を覗き込む。
「新戸さ。例えばこの先、その辺の有象無象じゃなくて……あの極星寮のメンバーが所属してるような自治組織や研究会と食戟で当たったとしても、お前、容赦するつもりないんだろ?」
その言葉に、緋沙子の表情はピクリとも動かなかった。
いや、動かさなかったのだ。己の隠された真意、最も触れられたくない芯の部分を正確に抉ってくる竜胆の言葉に対し、緋沙子は射殺すような鋭い視線で目の前の先輩を睨みつけた。
無表情の仮面の奥で、明確な警戒と敵意がチリチリと火花を散らしている。
しかし、そんな痛いほどの視線を真正面から受け止めながらも、竜胆は悪びれる様子もなく、飄々とした態度のまま言葉を継いだ。
「ま、お前と極星の連中がぶつかってどんな化学反応起こすか分かんないから、あの総帥もお前にそれを『やれ』とは言わないだろうけどな」
竜胆はそこでふっと言葉を区切り、壁から背中を離した。
からかうような笑みを浮かべたままではあるが、その金色の瞳には逃げ道を塞ぐような鋭い光が宿っている。
「でもさ。どんな理由を並べたところで、結果的にお前がやってることは、えりなの『居場所』を奪い続けてるってことには変わりないよな?」
竜胆の言葉が、じわりと緋沙子の足元を侵食するように響く。
しかし、緋沙子は顔色一つ変えずに淡々と返した。
「……えりな様の居場所なら、極星寮の皆様にお任せしていますので」
「……お前さー」
竜胆は心底呆れたように長く息を吐き、ガシガシと頭を掻いた。
「アニメやゲームじゃないんだぜ? 強大な敵に反抗し続けて、いつかはそれを打ち倒す……なんて、そんな都合のいい展開が現実にあると思うか?」
諭すような、あるいは無謀な夢想を切り捨てるような響きを帯びて、竜胆の言葉が続く。
「そりゃ、現実の歴史を見渡せばそういうジャイアントキリングもあるだろうけどさ。そんなのは、ごくごく一部の成功例だから珍しくてメディアに露出してるだけだ。十傑(あたしら)とセントラルっていう圧倒的な力を前にして、そんな宝くじみたいな幸運が都合よくここに現れるなんて、本気で信じてんのかよ?」
圧倒的な戦力差。決して覆ることのない盤石な体制。竜胆の言う通り、それはあまりにも無謀で冷酷な現実だった。
しかし——。
「……それでも」
緋沙子の声は、静かだったが、確かな熱を帯びていた。
「あそこには、幸平創真がいますから」
その瞬間だった。これまで、絶対零度の吹雪のように冷徹な仮面を貼り付けていた緋沙子の表情が、ほんの少しだけ、ふわりと緩んだのだ。
幸平創真。
その名を聞いて、竜胆の脳裏にふとあの日の光景が蘇った。
審査員が完全に買収され、反逆者たちにとってはもはやどうすることもできない絶望的な盤面。そんな中で、己の退学という最大のリスクを天秤に乗せ、第九席である叡山に真っ向から食戟を叩きつけたあの破天荒な一年生。
確かに面白い料理人だ。竜胆自身も彼のことはかなり気に入っている。
だが、もし仮に自分が同じ立場に置かれていたとしたら、果たしてどう動いただろうか。——案外、「叡山のドヤ顔がムカつくから」などという理由だけで、一発かましに食戟を叩きつけたかもしれない。けれど、それは竜胆自身が十傑の第二席に座る実力者であり、学園の枠組みから外れた「規格外」の人間であるという絶対的な自覚があるからこそできる芸当だ。
では、幸平創真は、どうだ。
強大な権力を前にしても一切怯まず、ただ己の料理の力だけを信じて牙を剥くあの姿。
(……なるほどな)
竜胆は小さく息をついた。
きっと、竜胆が見えている以上に、緋沙子が幸平創真という男を信じる理由は山ほどあるのだろう。それこそ、自分のすべてである主、えりなを背中合わせで任せてもいいと心底思えるほどの、強固で特別な信頼が彼らの中にはあるのだと、竜胆は妙に納得してしまった。
「だというのに、あの男は……ッ!」
竜胆が密かに感心しかけた、その時だった。
突如として、緋沙子の声から先程までの暖かさが消え、代わりに顔を出したのは、極星寮などでよく見せていた、普段の彼女に近い苛立ちの声だった。
「勝手に司先輩と食戟をして、負けたら彼の懐刀なるなんて……! 相手が引き下がってくれたからよかったものの、本当に、一体何を考えてっ……! あの男はっ」
ギリッ、と奥歯を噛み締め、緋沙子は両手を固く握りしめる。
眉間に深い皺を寄せ、ぶつぶつと文句をこぼすその表情と口調には、冷徹な執行者の面影など欠片もない。ただひたすらに、予測不能な行動ばかり起こす問題児の暴走を心配し、呆れ、そして苛立っている等身大の少女の姿がそこにあった。
「……そこまで心配ならさぁ。お前も一緒に、そっち側に立ってやればいいだろ」
呆れたような、けれどどこか核心を突くような竜胆の言葉。
自分自身、セントラルの掲げる思想に心底共鳴しているわけではない。ただ、すべてを一人で抱え突き進んでいく「あいつ」の背中を支え、その選択に最後まで付き合うと決めてここに立っている竜胆だからこそ――誰かのために同じ側に立つことの重みを知る者の言葉には、余計な飾りのない実感が宿っていた。
その真っ直ぐな一言は、緋沙子が必死に分厚く塗り固めていた心の防壁を、いとも容易く突き崩した。
「ッ……!」
緋沙子は弾かれたように顔を上げ、竜胆をきっ、と強く睨みつけた。
しかし、その双眸に先程までの氷のような冷酷さは微塵もない。射抜くような強い視線でありながら、その目尻には、限界まで堪えきれなくなった透明な涙がじわりと溜まり、今にも零れ落ちそうに揺れていた。
それは、冷徹な執行者としての仮面が完全に砕け散り、ただ一人で重圧を抱え込んでいた等身大の少女の素顔が露わになった瞬間だった。
「私だって……わかっています……ッ! 竜胆先輩の言う通り、物語のように現実が上手くなど行かないことくらい……! 」
ギリ、と血が滲むほどに唇を噛み締め、緋沙子は震える声で痛切な本音を絞り出す。
「だけど……ッ! その上手く行かない現実がそのまま形になってしまったら……!? 全てがセントラルに飲み込まれたそのあとに、一体どこに、あの方の居場所があると言うのですか……!!」
心の悲鳴のような叫びが、薄暗く湿った通路に木霊する。
竜胆は何も言わず、ただ静かにその叫びを受け止めていた。緋沙子の言う「あの方」が、薙切えりな以外の誰を指すはずもない。
誰もいなくなってしまう、あまりにも酷い未来の現実。
セントラルという巨大な波が学園の全てを呑み込み、反逆者たちが悉く潰され、極星寮というあの温かな居場所も、笑い合っていた仲間たちも、すべてが去ったあとの焦土。深く事態を観察し、賢く現実を見据えてしまう緋沙子だからこそ、その残酷な結末が脳裏に鮮明に浮かんでしまうのだ。
だからこそ、あらゆる不条理を力技で覆してきた幸平創真という「英雄」に、すがるように夢を見る。
——けれど。
土壇場で彼らだけにすべてを委ね、奇跡を祈るだけの自分をどうしても許すことができない。万が一の敗北を想定し、自分だけが安全な場所で奇跡を待つずるさと弱さ。そんな己への激しい自己嫌悪が、黒い毒となって緋沙子の心を内側から酷く蝕み続けていた。
(……そうかよ)
竜胆は、胸の奥で静かに息を呑んだ。
緋沙子がセントラルに身を置き、冷徹な捕食者として残党を狩り続ける本当の理由。
それは裏切りでも、保身でもない。
万が一、反逆者たちが敗れ、えりなが今いるあの温かな居場所も、そこにいる仲間たちもすべて消え去ってしまった時。
何もかもを失い、冷たい雨が降りしきる絶望の荒野へ一人放り出されたえりなのために。
せめて自分だけは最悪の結末から彼女を守る、一本の頑丈な「傘」になろうとしているのだ。
自分がどれほど泥に塗れ、非難されようとも。十傑の第七席という絶対的な権勢と居場所を確保し続け、嵐が過ぎ去ったあとに、えりなを温かく迎え入れるための庇護膜となる。
それが、新戸緋沙子という少女が選んだ、狂おしいほどに一途で悲痛な忠義の形だった。
竜胆は口を開きかけた。
この痛々しいまでに不器用な後輩に、何か言葉をかけなければならないという、柄にもない使命感が胸を突き動かしたからだ。
しかし——竜胆が音を紡ぐよりも早く、緋沙子は目元に溜まった涙を力任せに拭うと、すっと息を呑んだ。
ほんの一瞬で、その瞳から生々しい感情が消え去る。まるで最初から何もなかったかのように、絶対零度の冷徹な表情へと戻っていた。
「……失礼いたします。次の食戟の準備がありますので」
機械のように淡々とした声で言い捨て、緋沙子は踵を返そうとする。
その背中に向けて、竜胆は思わず言葉を投げかけていた。
「……月並みで、ありきたりなこと言うけどさ。えりなは、そんなこと望んでないんじゃないか?」
緋沙子の足が止まる。
だが、口に出しながら竜胆自身も分かっていた。もし仮に、えりなが緋沙子に向かってたった一言でも「助けて」と弱音を漏らしていたとしたら——きっと緋沙子の中での「薙切えりな」という絶対的な主の定義は壊れ、守られるだけの存在として哀しく完結してしまっていたはずだ。
緋沙子は振り向かないまま、静かに、しかし断固とした声で応じた。
「……えりな様が望むかどうかは、関係ありません。私自身がそうするべきだと考え、そうすると決めただけです」
かつて交わしたえりなからの問い対する、これが新戸緋沙子の出した解だった。誰に命じられたわけでもない。主の許しすら要らない。己の意志で選び取った道だからこそ、どんな泥を被ろうと揺らぐことはない。
「……以前、美作昴に言われました。『余裕が無いのは自分と同じだ』と」
暗い通路の先を見つめたまま、緋沙子はつぶやく。
「……その通りでした。私には一刻の猶予も、余裕もありません」
圧倒的な強さを得るためならば、己の誇りも、感情も、身に宿るすべての熱量を炉にくべて燃やし尽くす。目の前の敵を解体し、その残骸すら喰らって血肉に変える。
嵐の中でえりなを護る「絶対的な傘」になるために。
立ち止まり、己の傷口を眺めている暇など、最初から1秒たりとも残されてはいないのだから。
そう言い捨てると、新戸緋沙子は二振り返ることなく、薄暗い通路の先へと消えていった。
——
「……あー参った」
ぽつりと漏れた竜胆の独り言が、誰もいなくなった薄暗い通路に寂しく響いた。
竜胆はガシガシと自分の頭を掻きむしり、大きなため息を吐き出す。
ほんの少しどんなスタンスなのか軽く揺さぶるつもりが、まさか藪をつついたらとんでもない代物を引きずり出してしまうとは思ってもみなかった。あんな真に迫った覚悟と涙を見せられては、まるで自分が嫌な先輩風を吹かせて、健気な後輩を苛めて追い詰めたみたいではないか。
(あーあ……反省反省。あたしもちょっと意地が酷かったかねぇ)
苦笑しながら後悔の念を抱いていた竜胆だったが、ふと表情を切り替えると、壁に背をもたれかけさせたまま、視線だけを通路の奥の暗がりへと向けた。
「……で? ガールズトークに聞き耳立てるなんて、趣味が悪いんじゃねーの?」
カツン、カツン、と。
湿ったコンクリートの床を叩く、洗練された革靴の硬質な音が静かに響き始める。
影の中からゆったりとした足取りで姿を現したのは、黒いスーツを隙なく着こなした男——セントラルの総帥、薙切薊だった。
「失礼、別に盗み聞きをする意図があったわけではないのだがね」
「嘘つけ。で、総帥ともあろうお方が、なんでまたこんな資材搬入用の裏口なんかから来てんだよ?」
竜胆が半目で尋ねると、薊は整った顔立ちに優雅で影のある笑みを浮かべた。
「新しい第七席——新戸緋沙子の『減毒処理』を施した一皿。直接確かめに来たのだが……表の会場に私が現れるのは、少々差し障りがあってね」
薊は一歩歩みを進め、薄暗い通路の壁に影を落としながら、静かに喉を鳴らした。
「前回の楠君との食戟の有様を、君も知っているだろう? 私が最初から大々的に姿を見せればセントラルの皆は余計に威圧され、萎縮してしまう。だからね、新戸君以外の食戟がある程度の結末を迎えたこのタイミングを見計らって、裏から遅れて確認に訪れたというわけさ」
「はー……それも嘘だか本当だか。総帥様のそのよく回る口で、あたしも誤魔化されちゃうかもなぁ」
竜胆は口元をニヤリと歪め、呆れたように肩をすくめてみせる。そんな竜胆の軽口に対し、薊は事もなげに、どこまでも優雅な仕草で胸元のネクタイを整えながら答えた。
「おや、心外だな。……だが、まあ、そうだね。このよく回る口のおかげで、司君を口説き落とすことができたのだから。君の言う通りなのかもしれない」
(……ったく、一言一言がいちいち胸くそ悪い。一発ぶん殴ってやりたいくらいだぜ)
竜胆の胸の奥で、カッと激しい苛立ちの火花が散る。
だが、そんな心中を微塵も顔には出さず、竜胆はいつものように八重歯を覗かせてケラケラと軽薄に笑ってみせた。
「へーへー、恐れ入ったねぇ。ほんと、司も悪い大人に捕まったもんだ」
薊がわざわざ自分の前で『司を口説く』などという挑発的な言葉を選んだ理由――それは、第一席である司瑛士と浅からぬ絆を持つ第二席の竜胆に対し、内心の揺らぎや真意を探るための明確な仕掛けだった。
だが、そんなことなどお見通しだ。十傑という頂点に君臨し、権利や利害が渦巻くドロドロとした腹の探り合いを潜り抜けてきた経験は竜胆にもある。好ましいとは微塵も思ってはいないが、この手の狐と狸の化かし合いは可能だった。
「ただなぁ……新戸の奴もついてないねぇ。ぶっちゃけ総帥にとっても、新戸は潜在的な敵だろ? 裏でこんな隙見せちゃってさ」
壁に背を預け直しながら、竜胆はからかうような、けれどどこか自虐を含んだ苦笑を浮かべてみせた。
その言葉を受け、薊は「ふむ……」と小さく顎に手をやり、一筋の思索を巡らせる。だが、その整った顔立ちや瞳の奥には、冷酷な企みや罠といった陰謀の気配はまるで窺えなかった。
「何かを勘違いしているようだが……彼女がどのような理由であれ、料理人として大成していくのであれば、それに越したことはないと思っているよ」
どこまでも穏やかで優雅な笑みをたたえ、薊は当然の事実であるかのようにそう言い切った。
「あーはいはい」
竜胆は肩をすくめ、その言葉を軽やかに受け流す。
実の娘であるえりなを己の手で完全に孤立させ、その精神を掌握して意のままに動かす——セントラルの運営上、その方が圧倒的にやりやすいことくらい、竜胆にも容易に想像がついた。どれほど耳障りの良い理想論を並べ立てようと、そのまま鵜呑みにする気はない。それに、先ほど緋沙子が零した悲痛な叫びと覚悟を目の当たりにした以上、竜胆自身もこれからはそれとなくえりなに対して気を遣ってやるつもりでいた。
どう考えても、薊の推し進める計画において、えりなに狂信的な忠義を捧げる新戸緋沙子は劇物だ。セントラルにとって危険な芽は、最初から存在しないに越したことはない。それが竜胆の客観的な見立てであった。
「……ただそうだね。あのままでは、決して良い状態とは言えないだろうね」
(……そら来た)
ふとトーンを落とした薊の言葉に、竜胆は内心で身構えた。やはり、危険分子として芽を摘むための算段でも始めるつもりか、と。
だが、次に薊の口から漏れ出た言葉は、竜胆の予想を完全に裏切るものだった。
「だから……そうだね。今のように、小林君が彼女のことに気を配ってあげてほしい。適度にガス抜きをさせ、心が途中で折れてしまわないよう、どうか見てやってくれ」
「……」
竜胆は一瞬、息を止めて固まった。
言葉の額面通りに受け取るならば、紛れもなく「新戸緋沙子という生徒の身を本気で案じる」言葉そのものだったからだ。セントラルの総帥として冷酷に盤面を配する男の口から出たとは思えないほど、具体的な気遣いと情。思わぬ角度から投げつけられたその本音に、竜胆は返答の言葉を失い、ただ目の前の男を呆然と見つめ直すことしかできなかった。
これがブラフで言っているのか、あるいは真面目にそう思っているのか、竜胆の目をもってしてもまるで読み切れなかった。
「彼女の手でいつの間にかセントラルの生徒が何人も除籍されていた、なんて事態になったら頭が痛い話だからね」などと、それっぽい理由を口にしてはいるが、竜胆にはどうしてもそれが本気だとは思えなかったのだ。
何より、えりなの傍らに常に寄り添い、彼女の精神的な支柱であり続けた新戸緋沙子という存在。この出来事——緋沙子がえりなのために影で暗躍し、忠義を燃やし続けていること自体、薊が推進する「えりなの孤立と完全な掌握」という企みにおいて、何ひとつ好ましい要素ではないはずなのだ。
だからこそ、分からない。その緋沙子を排除するどころか、「折れないように気遣ってくれ」と竜胆に頼み込むような薊の実益と行動が、客観的に見てどうしても結びつかなかった。
(……マジでわけが分かんねぇな、この男は)
竜胆は壁から背中を完全に離すと、ポケットに両手を突っ込んだまま、細めた金色の瞳で真正面から薊を見据えた。
「……総帥はさぁ」
「ふむ?」
「何で、このセントラルなんて仕組みを作るつもりになったんだ?」
静かな、しかし誤魔化しを許さない強さを孕んだ問いかけ。
薊は一瞬だけ驚いたようにまばたきをしたが、すぐにいつもの影を帯びた優雅な笑みを口元に浮かべ直した。
「ふむ……セントラルの理念や目指すべき理想については、あらかじめこちらに付いた十傑の皆には伝えてあったはずだがね」
「あーあーあー、そういうの、いいって!」
竜胆は心底面倒そうに手をひらひらと振ると、薊の説明を強引に遮った。
「日本の食を前に進めるため? 全ての料理人を正しい導きで救うため? それともあたしらの実益のため? ……分かった分かった、そういう建前はもう十分だって」
一歩、竜胆は足を踏み出す。その爪先が薄暗い影を切り裂き、鋭い金色の双眸が薊の表情を射抜く。
「あたしが聞きたいのは、『何のために』じゃなくて……『なんで』。総帥がこんな大仕掛けをぶち上げる気になった……その原点を聞きてーって言ってんの」
いつもなら絶対に踏み込まない領域。その境界線を軽々と飛び越え、竜胆は薙切薊という男の深い闇の根底へ、突きつけるように問いを投げかけた。
竜胆がこの領域へ足を踏み入れ、敢えてその原点を問い質したのには理由があった。
セントラルに就いた他の十傑たちの動機は極めて明快だ。叡山も、ももも、斎藤も、それぞれが「己の料理の更なる高み」や「個人的な実益」という、自分自身の価値観のためにこの旗の下に集っている。
だが——小林竜胆という人間は、究極的に言えば自身のためではあるものの、その選択の決定的な拠り所を「他者」に依存していた。
あの第一席の男。己の料理を完璧に追求するあまりに削れ飛びそうなあいつが、薊の提示した理想に救いを見出し、その軍門に下ると決めたからこそ、竜胆もまた二席としてここに立っている。
だからこそ、知りたかったのだ。自分を、そして何より「あの男」を巻き込んで学園を塗り替えようとしているこの大渦の中心——薙切薊という男が持つ、真の熱量と原点を。自分がこの巨大な狂気に加担している理由を、せめてこの男の言葉で補強したかった。
竜胆の射抜くような金色の視線を受け止め、薊はふむ、と僅かに顎に手をやった。
「……しいて言うのであれば、だがね」
言葉を選んでいるかのような間。だが、その佇まいを見つめる竜胆の背筋に、不意に冷や汗が伝った。
――揺らぎが、無い。
迷いや躊躇いが無いのは当然としても、これほど前代未聞の改革を推し進め、学園全体を巻き込む大仕掛けをぶち上げている人間だというのに、その瞳の奥には野心や狂熱といった火すら宿っていなかった。不気味なほどに凪ぎ払われた、静まり返る絶対の無。
(おいおい……マジかよ。これだけのことをやろうって人間が、大した気負いも熱量もねぇってのか……!?)
そんな馬鹿な話があるかと、竜胆の胸の内で嫌なざわめきが急速に広がっていく。
嘘ならそれでもいい、だが――目の前の男が言おうとしているのが嘘でないことは、悲しいかな、竜胆自身の野生の勘ともよばれるそれが否定を示していた。
「説明が難しいな……いや、小林君なら構わないね」
竜胆の動揺など露知らず、薊は何の感慨も交えずに、ただ淡々と、明日の天気でも口にするかのような平坦な声で唇を開いた。
「ーーーー、ーーーー」
「――――は?」
十数文字にも満たない、短い薊の言葉。暗い通路の静寂を破り、竜胆の口から、脈絡のない拍子抜けした声が漏れ出た。
「ーーーーーーーーーー」
「ーーーーーーー」
「ーーーー」
罪悪感も、優越感すらもない。まるで実験室でフラスコや試験管の用途を淡々と説明するかのように、薊は一切の感情を乗せず、平坦な表情のままその常軌を逸した狂気を語り紡いだ。
その顔に動揺も、偽りも、熱量すらないことを悟った瞬間——竜胆の喉の奥から、こみ上げてくるものを抑えきれなくなった。
「ぶっは……っ! くははははははっ!!」
静まり返ったコンクリートの通路に、竜胆のけたたましい大笑いが響き渡る。壁に頭を打ち付けるように預け、お腹を抱えて肩を激しく揺らしながら、竜胆は涙が出るほど笑い転げた。
「はぁーあ……っ」
しばらくして、ようやく笑い発作を収めた竜胆は、目元に浮かんだ涙を指先で拭うと、深く、短いため息を吐き出した。
「……なんだそれ、笑えなっ」
その一言を吐き捨てた瞬間、竜胆の顔から「いつもの表情」が完全に消え去った。
八重歯を覗かせる悪戯っぽい笑みも、軽薄なからかいの色彩も、感情の揺らぎすらも綺麗に削ぎ落とされている。暗がりの中で怪しく光る細められた金色の双眸だけが、まるで静かに殺気を孕んだ野生の肉食獣のごとき、底知れない冷たさと絶対的な鋭利さで、目の前の男をまっすぐに射抜いていた。
竜胆の視線を受け止めながらも、薙切薊の表情には一切の揺らぎすら浮かばなかった。ただ整った顔立ちにどこまでも穏やかな笑みをたたえたまま、至極当然のことのように言葉を重ねる。
「正直な話を言えばね。先代の総帥を追い出し、私がこの座に就いた時点で……私の目的の殆どは、既に達成されているんだよ」
まるで明日の天気でも口にするかのような、平坦で静かな声。
「そして、誤解しないでほしいのだが……これはあくまでも私の『原点』――いや、どちらかと言えば『何故』という理由の話か。私が君たちに語ったセントラルの理念は、紛れもなく真意であり、私が力を尽くして成そうとしていることに他ならない」
罪悪感も、優越感すらもない。自分たちが背負わされ、必死に立ち回ってきた狂瀾の大渦。その中心に立つ男は個人的な情念も、学園全体を巻き込む変革の理念も、どちらも等しく完璧な正論として胸の中に同居させていた。
「……それ、あたしに話してよかったのかよ」
刺すような金色の視線を据えたまま、竜胆は低く掠れた声で問うた。セントラルの根底を揺るがすような真意を、十傑の第二席である自分に明かしたことへの問い。
「そうでなければ、最初から話さないさ」
薊は一切の動揺も見せず、影を帯びた笑みを口元に浮かべたまま事もなげに応じた。
「君がこれを聞いたところで、何の意味もない。私を討つために反逆者側へ返り咲くわけでもなければ、これを理由に司君を引き戻すわけでもないだろう? 知ったからと言って君にはどうすることもできない。だからこそ、構わないのだよ」
どこまでも客観的で、どこまでも冷酷な計算。己の動揺も選択もすべて見透かされた上で盤面に据え置かれている事実に、竜胆の奥歯が微かに軋んだ。
「ただそうだね。私が君に言えることと言えば……先ほどと同じだよ。新戸君のことを、どうか気遣ってやってほしい。それは紛れもない私の本音であり、私自身、彼女に対して何の害意も持っていないのだからね」
感情の失われた瞳で、どこまでも優しくそう語りかける男。竜胆は深く息を吐き出すと、短く鼻で笑った。
「……ハッ。総帥に言われたからじゃねーよ。あたしがやりたいから、勝手にやるだけだ」
それだけを吐き捨てると、竜胆は薊に背を向け、薄暗いコンクリートの通路を歩き出した。
コツン、コツンと自身の靴音が寂しく響く中、竜胆は背中に張り付くような視線を感じていた。怒りも、期待も、失望すらもない——ただ実験室の観察対象を見るかのような、どこまでも無感情で冷ややかな視線が、自分が角を曲がって見えなくなるまで静かに注がれ続けているのを、肌で強く感じていた。