二〇三〇年を過ぎて、夏休みは三ヶ月になった。
暑すぎるからだ。
「えー、まあ。皆さんもうすっかり身に染みてわかっていることと思いますが、とにかくこの夏は体調管理に気を付けて。三年生は勝負の夏。身体を壊しては元も子もありません。よくよく水分を取って、用がなければ外には出ないように。また、水難事故の増える季節でもあります。特に一、二年生はね、学校がないということで自由も増えてしまいますが、登校日を目安に生活習慣を整えて、羽目を外さないように――」
というようなことを県立祭台一高市塚裕子学校長が滔々と語り、順調に全校生徒の寿命を縮めている七月六日、すでに当然の顔をして夏は猛威を振るっていた。
最低気温が三〇度、最高気温が三七度という、恐るべき初夏の一日だ。梅雨時から解禁された簡易制服のポロシャツを以てしても、全く暑さは軽減できていない。祭台一高にはエアコンのない旧体育館とある新体育館のふたつがあるが、なぜか常に新の方は出し惜しみされ、その日も総計六〇〇名の生徒たちが、とにかくこの時間だけは瞬きの間に過ぎてくれと、うちわで顔を煽ぎながら、携帯扇風機を鳴かせながら、腹を捲って裾をはためかせながら、体育館履きと靴下を脱ぎ捨てながら、凄まじい湿気の中で熱中症へのカウントダウンを進めている。
二年五組出席番号三番、
襟に指をかけて胸元を仰ぎながら、全校生徒起立の呼びかけに応じて、汚すと逮捕される旗に向かって君主の治世だか君を象徴とする国だかの永遠の繁栄を願う歌を歌って、マスクの下に汗を流して、これから訪れる夏のことを考えている。
三ヶ月の休みは、それこそ永遠にも似て見える。
どうせ暇だろうな、と思っていた。
「今日、暇か?」
そして、早速訊かれた。
教室に戻ってきて、河元たちがエアコンのコンパネの前で「どうにかして規制をかいくぐり設定温度を十八度にする方法」を模索している最中のことだ。廻は、たかが呼気でびしょびしょに濡れたふがいないマスクをゴミ箱に捨てて、もう一枚新しいマスクを出さなきゃなと考えている。流石に教室の中ではもういいと思っているけれど、これからバスで帰ることを思うと付け直したい。でも、暑い。そう思うから行動を先送りにして、廊下側で鈴尾と夏木が「平安時代の人って夏どうしてたんだろ」「ちゃんと気が狂ってたんじゃないの」と日本の歴史に思いを馳せるのを耳に入れながら、湿気と日照で腐ったり割れたりしそうな自分の席で、とりあえず水筒を傾けていた。
がらん、と氷の揺れる音がする。
その前の席で、
「部活やってるかは見てくけど、そのくらい。何?」
「お、いいじゃん。つか気になってたんだけど、理科部って夏休みのスケジュールとか先に決めてんのか?」
「特には何も」
「どうすんだよ。お前、ただでさえ携帯持ってないのに」
「持ってなくはないけど」
「アプリ何も入んねえのは携帯とは言わねえ」
まあ、と頷いた。
言われたから、机の横に置いた学校指定のカバンにまた手を突っ込む。なぜかちょっとひんやりしていて気持ち良い。自宅のエアコンの風をまだ保存しているんだろうか。そしてマスクのパックのその横に入った、四角い手のひら大のそれを取り出す。ぱかっと開ける。「うちのじーちゃんでも使ってねえぞそんなの」と嶺一が呆れた顔で言う。実際、廻も自分以外にこのタイプの携帯を使っている人間を見たことがない気がする。
着信は、特にない。
「今年は何もないんじゃないかな。先輩、受験だし」
ああ、と嶺一が一瞬嫌そうな顔を見せた理由に、廻は予想がついている。
六月は大変なことになっていたからだ。残念ながら嶺一の成績は、あまり芳しくない。本人曰く受験のときも「運良く引っ掛かった」そうで、実際、去年の後半も何度か補習に呼び出されているのを見た。けれど、夏の補習は流石にきつい。この学校のエアコンは夏に負けていて、平気で室内気温が三〇度を超える。死ぬ。そのうえ窓を開けると四〇度。今年の嶺一は必死になって二週間、期末試験の対策に励み、廻もそれに付き合わされた。何とか嶺一が全ての赤点を回避したそのとき、廻の試験成績も過去類を見ない高みに到達していた。
そういう嫌な記憶を引きずらないのが、嶺一のいいところだと思う。
すぐにパッと笑って、切り替えた。
「んじゃ、夏休みの予定なんもなし?」
まあ、と頷けば、そうかそうか、と嬉しそうに嶺一は言った。
そうかそうかそうか。
「何?」
「まあ待て。まだ何も訊くな」
得意げなのか何なのか、目を瞑って、腕組みをして、嶺一は頷く。
「じゃ、部室だけ見て先輩いなかったら今日、俺んち来いよ。とびっきりのサプライズが、お前を待つ……」
サプライズ。
「何それ」
訊ねても、嶺一は答えなかった。
◇
がちゃん、と扉を開くと、たった半日空けただけなのに、とてつもない熱気が部屋から溢れ出てきた。
夜から朝にかけてはずっとエアコンを入れっぱなしだというのに、すっかりこの有様だ。カーテンを閉めて行かないのがよくなかったか。考えながら、靴を脱ぐ。鍵をかける。そう長居するつもりもないけれど、チェーンまでかける。今日は泊まりになるかもしれない。汗でぐったりと重くなったシャツを籠に脱ぎ捨てて、ざっとシャワーを浴びる。髪まで洗う。髪を乾かしたらまた汗をかいてきたので、もう一度身体だけ汗を流す。スラックスはもうしばらくは履かなくなる。クリーニング用のバッグに放り込んで、どうでもいいTシャツとジャージに着替える。携帯と財布を外出用のカバンに入れ直して、本日三枚目のマスクを引っ掛けて、ようやくこれで準備万端。もう一度家の鍵を取る。
玄関に、ホワイトボードがかけてある。
父予定、めぐる予定、と二分割された板面。その下に置かれた綺麗な黒マーカーを、廻は手に取る。キャップを外す。
友達の家、と書こうとして、
「……どうせ、見ないか」
キャップを閉める。スニーカーを履いて、マンションの共同廊下に出ていく。
陽炎が立って、まだ、セミの鳴く声がしていた。
◇
親の離婚で引っ越したというより、引っ越さなくちゃならないような事情があったから親が離婚した、という方が正しい。
それでも、こっちの電車の乗り方にも東京とさして変わったところはなかった。強いて言うなら、電車が来る頻度くらい。祭台市は県下三番手の地方都市ではあるけれど、一時間に二本も来たらかなり良い方だ。駅に着いて、次の電車まで狙い通りにあと二分。早足で滑り込んで、少しだけ身体を冷やして、目的地までは電車で十二分。そこから先に休憩所はない。店も何もないくせにやたらに立派なペデストリアンデッキだけはこさえている謎の駅に降り立って、またもやうんざりするような日差しを浴びながら、徒歩五分。
八坂嶺一の家は、そんな住宅街に佇む一軒家だ。
年季の入った板塀で、横にも広いが縦にもその頭が覗いている。このあたりはそういう形の家ばかりで、だから最初の頃は廻もよく迷った。けれど嶺一が「これ目印な」と言ったそれが塀にべったり張ってあるのを意識してからは、二度と迷わなくなった。
憲法改正反対、のポスター。
これって目印とかにしていいんだ、といつ見ても思う。
門前のインターフォンは押さなくていいことになっている。中に入っていくと、なかなか手入れに苦労を伴いそうな庭木が見える。庭の丸石は踏んで音を立てるのが何だか忍びなくて、だから飛び石を跳ねるように廻は行く。一歩、二歩、三歩。ふと気付いたけれど、軒下に自転車がない。一瞬躊躇したけれど、暑さには勝てない。
インターフォンを、ようやく押した。
「いらっしゃい」
出てきたのは、よく日焼けした禿頭の爺さんだった。
禿げ上がるほどの年には見えないので、おそらく剃っているのではないかと思うけれど、真相は定かではない。剃っているのだったら格好いいな、と廻は思っているが、何ともデリケートな話題な気がするから聞くに聞けない。名は、八坂山蔵。結構珍しいと思う。名前自体もそうだけれど、友達のおじいさんの名前を知っているということが。
「今、ちょっと買い出しに出ててな。暑かったろ。中で上がって待ってな」
六月には、ほとんど泊まり込みみたいに上がった家だ。今更大した手土産もなく、どうも、と一礼だけして廻は山蔵の後に続いた。
来るたびに思うけれど、全くバリアフリーがなっていない家だと思う。
とにかく段差が多い。靴を脱いで上に上がろうとすると思わず「よっこいしょ」という声が出そうになるし、細かい高低がいくつもある。これで転んだりしないのが健康の秘訣なのか、大して山蔵はそれを苦にした風でもない。ふたり暮らしなのに、八坂家の三和土には大量のサンダルと靴が散乱している。嶺一もそうだけれど山蔵も足のサイズが相当大きいらしく、戦国大名が宴会中の家のようにも見える。
廊下には今時珍しい固定電話と、電話帳。その上にかけてある日めくりカレンダーが、七月五日で止まっていた。
一瞬気になって、まあ自分がどうこう言うことでもない。微妙にぶかついている廊下を歩いて、居間に案内される。「お茶でいいか」と訊かれて今更「お気遣いなく」とは言わない。はい、と短く答えれば、冷たい麦茶をポットで出してくれる。礼を言って、自分で注いで、一息に一杯分を飲み干した。
ソファに腰かけたまま、窓の外を見る。
八坂家のリビングには、テレビがない。
仕事に集中できないから、という山蔵のこだわりが理由らしい。代わりに、ダイニングテーブルの上にはいつも小さなラジオが置かれている。もう一杯麦茶を入れる。庭の百日紅が風に揺れるのを眺めながら、山蔵が書きものをする横で、ラジオはノイズ交じりに音を吐く。
『夏休みは水難事故が多発し――』
『今日、埼玉県では最高気温が四十二度に達し――』
『クワガタの絶滅回避に向けての取り組みに、本日都内で――』
『東北最大級のビアフェスが今年も――』
『多発するEロボ関連機材の盗難にダンジョン庁は今日――』
『滋賀県で指名手配中の親子強盗殺人の容疑者について、警察は――』
『憲法改正について、与党は今国会内での再発議に向けて動いています。これが実現した場合、国民投票での否決から一年未満での――』
「どっちがいい?」
「え?」
全然聴いてなかったから、咄嗟に反応できなかった。
山蔵は、老眼鏡を近付けたり遠ざけたりしながら、西西辞典の薄紙を捲っている。顔を上げるでもなく、何でもない日常会話のような声色で、重ねて訊いてくる。
「今、ラジオで言ってたろ。憲法改正。どっちがいい。賛成か、反対か」
授業中に名前を呼ばれたときと、同じような戸惑いがある。
こういうことって、人から訊かれることがあるんだ。憲法改正。確かに、高校受験の頃から時事問題に出題されている。けれど、最近は政治経済の授業も受けていないし、何とも知識がない。
「えっ、と」
というか、単純に人と政治の話をする機会なんてないから、戸惑って、
「まだ、選挙権がないんで……」
「代わりに入れてきてやる」
ときどき思う。
嶺一のおじいさんの話し方は、何だか妙に静かで、頭が良さそうで、プレッシャーがある。下手なことは言えない気がして、何となく追い詰められている気がして、緊張感があって、
「入れたい方があれば俺が――」
「あっちー、マジ!」
玄関が勢いよく開いた。
そのまま、どすどすと大型犬が家の中に突進してきたみたいな足音が響き始める。なるほどこの段差の多い家でこうやって暮らしてきたわけだと妙に納得させられるその音は、やがて居間の前まで続く。
顔が覗く。
嶺一が、帰ってきた。
「おす」
その手に、パンパンの買い物袋を提げて。
「色々買ってきといた。じーちゃんもアイス買ってきといたから、入れとくな」
「おう。ありがとな」
「んで廻はこっちじゃなくて上! テレビ使うから」
ほっとしたやら何やら。
悪い悪い途中でチャリパンクしてさ。嶺一は言い訳しながら、やたらに急な階段を上がる。廻は後に続く。テレビ使うから、の理由が気になっている。
「なんか観るの?」
「観るんじゃなくて、やる!」
買い物袋で両手が塞がった嶺一は、襖を勢いよく足で開ける。買い物に出る前にエアコンは点けておいたらしい。爽快な空気が顔に当たる。嶺一が袋を置く。カーテンを開ける。目が眩んで、テレビの前に何が置いてあるのかが見える。
大きな箱。
コントローラーの絵が描いてある。
「これでダンジョン潜ろうぜ!」
両腕にそれを抱いて、ひまわりが咲いたみたいな明るすぎる顔で、嶺一は笑った。
◇
四年前、ダンジョンというものが突然世界に現れた。
定義は、『地球上に存在しない場所』。
意味不明だ。
意味不明だが、出てきてしまったものは仕方がない。ひとつひとつ、輪郭から埋めていく。そこは、飛行機の上から見てもわからない。衛星写真には写らない。何と普通の写真にも――外側からは――写らない。けれど、繋がっている。どこにでもあるような普通の道をてくてく歩いているうちに、言葉の通り『地続き』の、知らない場所が現れる。
世界で報告されただけで、およそ二千ヶ所。
ダンジョンという名前はまあ、ゲームとかアニメとか、そういうのから取ったらしい。
ちなみに廻は、そこが大っ嫌いだ。
◇
「……そ、そんなにダメすか?」
普段は謎の自信に満ち溢れて見える嶺一も、流石にそのオーラを感じ取ったらしい。というか、嫌いな理由まで知っているからなおさらだろう。光り輝くひまわりの笑顔は一瞬の間に枯れ果てて、今はおそるおそるの顔でこちらを窺っている。
「ダメ、っていうか」
一方、普段はほとんど不機嫌な顔なんて作らない廻の方も、本当に珍しく、ぶすくれた顔をしていた。
箱を見る。『E-Controler』のスタイリッシュな印字が見える。値段は、知らない。けれどこれだけ話題になっているものをみんながみんな持っているわけではないということを踏まえれば、何となくの想像はつく。
絶対高い。
なのに、驚くべきことに『2コ入り』の文字までついている。
「それ、買ったの?」
その質問を、嶺一は糸口と取ったらしかった。それがさあ、聞いてくれよ。また元気を取り戻して、
「ほら、電子マネーであんじゃん? 『ドゥルルルルル……ラッキープレゼント!』ってやつ」
「知らない」
「あんの。現金派は知らないだろうけど、支払いのときに自動で懸賞に応募できてたまに当たんの!」
んで大当たりなの、と。
サンタさんから本当に高級ゲーム機を買ってもらえた子どもみたいに自慢げな顔をして、嶺一は言う。
「んでこの喜びをお前と分かち合おうとしてんの! ふたり分あるから! 高校最後の夏休みを!」
「来年もあるでしょ」
「来年は受験だろ!」
多分来年も一緒にいる気がする、と廻は思う。
最悪の場合三ヶ月泊り込みで勉強合宿する羽目になる……というのはともかく。その新品の箱を前に、複雑な気持ちになっている。
遊びに誘ってもらえたのは、率直に嬉しい。
高価な機器を貸してもらえるのも、何だかお得な気がする。
けれど、
「ダンジョンかあ……」
「これ顔映んねーから!」
こっちの反応を、あらかじめ見越していた部分もあったのだろう。
嶺一は、勢い込んで強弁した。
「実際に生身で潜るってわけじゃねーしさ? ちょっとやってみてダメだったら売っぱらって軍資金に変えてもいいし?」
「いや、別に嶺一のだし――」
「とにかくちょっとでいいから触ってみようぜ! 『ダメだった』はやってみてからでも遅くねーだろ――あ、そうだ。これ、知ってるか?」
何を、と訊ねる。
これ、と嶺一はジェスチャーで返す。
親指と人差し指でわっかを作って、その他の指は立てて、ちゃりん。
お金。
「国策だから、ちゃんとやればバイトより断然稼げんの。廻、前にバイトしたいけど場所ないっつってたろ。ちょっとやってみてさ。な、ちょっとだけ。一回、一回!」
な、な、な?
と恥も外聞もなく懇願してくるから、半ば感心の領域だった。
そして、ここまで必死になられると、何だか自分の方が融通が利かなくて頭が固くて人の頼みを無碍にする悪い奴に思えてくる。思っている間に、気迫で負けた。いつの間にか、壁際まで追い詰められている。視界いっぱいに箱が映る。夏休みは三ヶ月も続く。一日無駄にしたくらいじゃ、どうってことはない。
だからつい、根負けしてこう答えた。
「じゃあ、一時間だけなら……」
◇
ダンジョンと言えば、剣と魔法と命のやり取り。
なんて、本物のゲームみたいな場所だったら、電子マネーの大当たりで機材が配られるような産業にまでは成長しなかったはずだ。
見つかった当初は、確かに多種多様なゴタゴタがあった。
今に至るまでダンジョンの探索は未知の領域で、だから手探りで、色々なやり方が試されている。国内でも、最初は他国に倣って迷彩服に銃火器を背負った人々が探索に乗り出したりもした。
けれど、すぐに方向転換が起こる。
ダンジョンの中に魔法はなかったけれど、代わりに特殊な金属――『ミスティック』が見つかったからだ。
廻はただの高校二年生だから――どころかダンジョンがあまり好きではない高校二年生だから――その金属の詳しいところは知らない。まだ、化学の教科書にも詳しくは載っていない。ただ、『常温超電導』なんて言葉と近い距離にあることと、政経の教科書の端の方にまで顔を出していることは、知っている。
ハードウェア革命、と呼ばれている。
ちょうどその頃、AI産業が収益性の問題で伸び悩んで、第四次産業革命に陰りが出始めていたらしい。産業界は、次の投資先としてミスティックを、それを取り巻くダンジョン産業を選んだ。結果は成功。半導体だの構造材だの新型電池だの、あらゆる場所で活用され始める。電気代を大して気にすることなく三ヶ月の夏休みをエアコンと共にできるのも、この産業発展のおかげと聞く。
そうなると、もっと欲しくなる。
新素材がもたらした技術は、新素材の採掘を最適化するためにも使われ始める。
生身の採掘者では、とても需要を満たすことができなかった。だから人類は、いつものやり方で効率化を図ることにした。
生み出された機械の名を、Dungeon Explorer。
国内通称、Eロボ。
◇
「これ何で動いてるの?」
「内蔵電池」
どんな電池なんだ、というくらいには巨大だった。
嶺一の部屋の、それほど大きくないテレビとパソコンは今は並べられて、パソコンのモニターには嶺一が操るEロボの視界が、もう一枚には廻のものが映っている。
人より大きいのは、とりあえず確かだ。
では具体的にどのくらいと問われれば、多分、この家の外にあったら、窓越しに目が合うくらいなのではないか、と廻は思う。もしかしたら、それ以上。
それが、コントローラーを操作するだけで動く。
『東京ダンジョン』に存在している、個別のEコンと一対一で対応しているEロボの実機が、リモートで。
ロボットから目を離せば、何とも言えない景色が広がっていた。
ダンジョンという名のとおり、どこかの地下空間のようにも見える。
岩肌があって、起伏と壁と道がある。Eロボが難なく通れるくらいには広くて、やや薄暗い。基本的にはEロボに搭載されたライトで進行方向を照らすことになるが、実はそれがなくともそれなりに明るい。たまにある露天の場所から光が漏れている――というわけでないのは、その場所に立って、ぽっかりと天井に開いた穴を見上げてみればわかる。太陽もなければ、月も星もない。では何が視界を照らしているのかというと、ミスティック同士が大気を通して電気的な結合を果たしていて、それがぼんやりと光って見える……とか何とか。
何にせよ、総じて言えば見栄えのしない荒野だ。
ちらり、と廻は部屋の時計を見た。ベッドの枕元に置かれたデジタル時計。緑色の数字ではっきりと表示されている。十七時二十三分。もうとっくに、コントローラーを握ってから一時間は過ぎている。
はいおーわり。
と済ませるには、説明書を律儀に読んでセットアップしている時間が長すぎた。だから廻はずるずると、嶺一の隣でEコンのスティックを倒し続けている。
「で、こういうところを見つけるわけよ!」
言い出しっぺは、隣で意気揚々。
どこがこういうところなのかはわからないが、嶺一が操るEロボは壁の前で止まった。パソコンのモニターに、無数のアイコンと数字が表れている。何が何だかわからないが、赤くなっているところもあるように見える。
「したら、ボタンを押すだけで――」
ウィーン、ガシャン。
仰々しい音が鳴って、とうとうEロボがその真価を発揮し始める。機体の中から、何やら凄まじいドリルのようなものが現れて、壁に突き立って、
ズガガズゴゴのギュルルルルルルル。
「おぉ……」
と流石に感心の声を上げてから、
「これ、見てるだけ?」
「…………」
「これさ、」
「まあ待てよ!」
めっちゃ暇、まで言えなかった。
「聞け! まずはこれを見ろ!」
何かの失点を取り返そうとするかのように、大慌てで嶺一はスマホを取り出す。見せてくる。さっきまでは『【How to】初めてのEロボ【初心者の手引き】』なる動画が映っていたけれど、今は違う。
『Eロボスーパープレイ集 最高の瞬間』
知ってるだろうけど、という前置きから嶺一は始めた。
「ダンジョンの中に変な機械の敵がいるだろ。敵っつーか、モンスターっつーか。ああいうのをさ、Eロボで倒したりもできんの。マジでゲームみたいだろ」
実際、マジでゲームみたいな画面が展開されてはいる。
自分たちが今使っているそれよりもだいぶカスタマイズされているらしいEロボが、右へ左へ飛び回って、火を吹いたり銃を撃ったりブレードで斬り裂いたりして、Eロボとはまた違った形の、謎の機械を壊して回っている。
銃刀法とかどうなってるんだろう、と廻は思う。
こんなものを個人がコントローラーひとつで動かせるなんて、すごい時代だと思う。
「でも、おれたちのはこんな感じなんでしょ?」
「せっかちだなお前は!」
初めて言われた。
「こういうのは何事も下積みがあんの! 慣れたらできるようになるってか、そういうオプションパーツもこつこつ貯めて増やしてくもんで――てか、これ、見ろほら!」
嶺一が、Eコンのボタンをいくつか押した。
どこをどう押したのかはわからない。が、モニター上に表示される数字が変わった。右上に、¥の記号が見える。その後に、算用数字で五。カンマが入って、〇みっつ。
「もう五千!」
「――五千円!?」
流石に驚いた。
そして、そのリアクションは嶺一の期待に沿ったものだったらしい。必死だったのが、少し落ち着く。別に自分が開発者というわけでもないのに、嶺一は妙に勝ち誇ったような調子で言う。
「ちょっとした……てか、全然ちょっとしてない小遣い稼ぎにはなるだろ」
確かに、と廻も思った。
東京の最低賃金が二五〇〇円の時代に、ちょっとピコピコやっただけでこの稼ぎだ。ちょっとしてないどころの騒ぎじゃない。ボロ儲け。おそらく初期投資のEコンがいくらとか、Eロボの燃料代がいくらとか場所代がとかそういう話が入ってくるんだろうけど、それでも、驚愕に値するタイムパフォーマンスだった。
はああ、と感心の息を吐けば、「な?」と嶺一は勝ち誇った。
「どうよ。夏休み、稼ぎ三昧」
率直に言えば、それに釣られた。
卒業後のひとり暮らしとか、奨学金とか、生活費とか、バイトとか、そういうことについて、考えが深まり出していたのもあったから。
「……いいよ」
「やり!」
大喜びの有様で、嶺一は肩を組んできた。
「ひとりで家でずっとこればっかってのも暇だしさ。道連れが欲しかったんだよな~」
「暇って自分で言っちゃってるじゃん」
「最初だけ最初だけ! んでこの画面ずっと見てるだけってのもあれだし、時間つぶしになんか別のゲームでも――」
しようぜ、の前に自分で気付いたらしい。
テレビとパソコンは、すでに使用中であることに。
だから、廻が助け舟を出した。
「夏課題でもやる?」
「……マジか」
持ってきてんのかよ、と訊かれる。
こんなこともあろうかと、持ってきていた。
◇
「あー、終わり終わり!」
嶺一が音を上げたから、終わりということになった。
ばたん、と畳の上に嶺一が倒れ込んだのをきっかけに外を見る。いくら夏の一日が長いと言っても、もうすっかり日は暮れていた。落ちた陽の明かりが街の向こうから漏れ出して、ほんのりと紺色の夜空が広がる。月と星は、部屋の中に満ちる人工灯にすっかり押し負けて、夏の夜でこの部屋だけが、場違いみたいに冷たくて明るい。
今日どうしようかな、と廻はボールペンを回しながら考えていた。
時刻は十九時を少し回ったところだ。今から帰れば、どこかで買い物をしても二十一時前には家に着く。泊まるか、帰るか。
「――うおおおお!」
考えごとは、嶺一の大声で掻き消された。
モニターの前だ。ほとんどテレビとパソコンを抱え込むようにして、見ろこれ、と嶺一は振り返る。
「すげえ額! 一生遊んで暮らせるぜ!」
もちろん、誇張だ。
けれど、立ち上がって後ろから覗き込めば、高校生の一日としては破格の額面が映り込んでいる。おー、と廻も口を開けて、
「これ、すぐに換金できるの?」
訊けば、嶺一は急に早口になった。いや燃料費引いて、入場料もあって、あと維持費が月額どうたらで……。大体、廻がさっき考えていたようなことをぺらぺらと語る。こいつ……と廻は嶺一を見る。やっぱり、知っててちょっと隠してた。都合の悪いところを。そして、この期に及んで追及を避けるべく、一気に喋って誤魔化そうとしている。
「まあ、何にせよ!」
でも、
「夏休みにじっとしてるだけっていうのも勿体ねーし。Eロボ使うでも、この金で遊ぶでもいいしさ。何かしらやろうぜ、ふたりで」
多分、初めからそういう話だったんだろう、と廻は思った。
そもそもが、おかしな話だった。嶺一は、自分がダンジョンを嫌っていることを知っている。いくら高価な機材をタダで貸すと言ったって、渋られることは目に見えている。そして、嶺一には友達がひとりしかいないわけじゃない。Eコンが一個余っていると言えば、これだけ稼げるバイトの道連れが欲しいと言えば、付き合ってくれるクラスメイトが他にいくらでもいる。
なのに、わざわざ自分を誘った。
廻の頭に、過る光景がある。四年前と、三年前と、二年前と、それから去年の夏休み。どこにも行かずにじっとして、カーテンも閉めて、自分がそこにいるのがバレないように、一言も声を出さずに、布団を被って、暗い部屋の中で、ただ時が過ぎ去るのを待っていただけの、あの時間のこと。
あれから変わったことと言えば、部屋にいるのがひとりではなく、ふたりになったこと。
無邪気に笑う横顔を見て、思う。道連れが欲しかったとか、そんなことをいかにも情熱に溢れて、冗談っぽく喋っているけれど、
本当は――
「あのさ、」
みしっ、と家が揺れた。
言葉が途切れる。ちょっとした地震だ。電灯の紐が揺れている。天井の梁が音を立てる。かたかたと床の上でEコンが音を立てて、廻と嶺一は、特に何があるわけでもないのに、首を上げて上を見つめている。
長い。
途中で、廻が気が付いた。
「テレビの中も、結構揺れてない?」
「ホントだ」
Eロボ自体が揺れているのか何なのか、モニターに映る視界も、ぐらぐらと動き続けている。それも、結構な振れ幅で。向こうが震源かもな。嶺一が呟く。
収まれば、嶺一は立ち上がった。
「俺ちょっと、下行ってじーちゃんの様子見てくるわ」
うん、と廻が頷いたときには、嶺一はもう大股で部屋を横切っている。多分大丈夫だと思うけど、と呟きながら襖を開ける。廊下に出ていく。出て行ったのに、まだ喋っている。
「ついでに麦茶――んおっ!」
「え?」
変な声が聞こえた。
振り向く。エアコンをかけているからだろう、しっかりと嶺一は襖を閉めて出ていった。だから、廻は立ち上がる。襖をもう一度開ける。
廊下を覗く。
嶺一の姿は、ない。
「……?」
試しに、そのまま部屋を出てみた。
いない。
心配になった。麦茶、の後にいきなり頭からひっくり返ったみたいな声を出したから。八坂家の階段は急だから。とりあえず階段下でくたばっている様子はなかったけれど、あるいは転がり落ちた勢いそのまま玄関まで吹っ飛んで三和土でくたばっているのかもしれない。念のため、廻は下まで降りてみる。
姿は、ない。
キッチンに入る。いない。居間では山蔵が辞書と万年筆を携えて、昼に会ったのと大して変わりもしない姿で、翻訳の仕事を続けていた。
「お」
廻に気付くと、彼は老眼鏡を外して、時計を見て、
「もうこんな時間か。飯、食ってくか」
「あ、いや。こっちに嶺一来ませんでした?」
いや、と山蔵は怪訝な顔で答える。
「来とらんぞ。どうした」
「さっき、地震の後に『下見てくる』って下りてったんですけど……」
廻もまた、怪訝な顔になった。
山蔵が腰を上げて、一緒に探してくれようとする。が、そこまで深刻な話でもない。少なくとも、この時点では廻はそう思っている。入れ違いかも。そう言って、山蔵を宥める。入れ違いって、どこでどうやったらそうなるんだろう。そんなことを取り留めなく考えながら、もう一度階段を上っていく。
『……ぐる!』
襖の前で、その声は聞こえた。
本当に入れ違いだったんだ、と思った。
「――嶺一?」
だというのに、襖を開けた先にその姿がなかった。
自分の部屋よりは広い。けれど、流石に隠れるところがいくつもあるとは言えない部屋だ。畳敷きで、ベッドで、机で、タンスで、テレビとパソコン。はっきり数えたことはないけれど多分十畳くらいの部屋で、だから、嶺一みたいに上背のある男子高校生がいたら、嫌でも目につく。
なのに、いない。
『廻! おい!』
声だけ聞こえる。
首を傾げて、しばらく廻は部屋の中を見回した。それで、気が付いた。隠れているわけじゃない。さっきまで自分がやっていたことと同じ。リモートだ。声はすれども姿が見えずということはつまり、何かの機械を通して声だけ聞こえているということだ。嶺一自体はこの場にいなくて、声だけが遠隔で届いているのだろう。多分。
そう思ったから、自分の携帯とか、嶺一のスマホを探した。
もしかしたらと思って、パソコンとか、そっちの方にも目をやった。
『――ここだ、ここ! 気付いてくれ!』
奇跡的に、廻の推理は合っていた。
嶺一は確かにこの場にいなくて、声だけがリモートで届いていた。呼び掛けられて、顔を向けて、ようやく廻はそれに気付いた。
テレビの中に、嶺一がいる。
東京ダンジョンで、Eロボと並んで。