ぴん、ぽーん。
と、インターフォンを押して二回目、玄関はがらりと開いた。
高校二年生の廻よりも、まだ高い上背をした老人――八坂山蔵が、新聞勧誘を箒で追い払いに来たような厳めしい面構えで、堂々と出てくる。
「あ、すみません」
口ではそう言う。
けれど廻は、もう前ほどには山蔵に及び腰ではない。伝聞が主ではあっても、この夏の間、この友人の祖父がどういう人間なのか、それなりにわかったつもりだった。目に見えるよりは、ずっと懐が深い。言葉少なで何を考えているかわかりづらいのは、自分も同じ。
だから物怖じせず、率直に訊ねた。
「嶺一は――」
「帰っとらんよ」
同じくらいの率直さで、山蔵も答えた。
ああ、と頷くとき、廻は大して予想を外していない。だから、すぐに次の質問が出てくる。
「連絡先ってわかりますか。嶺一じゃなくて、ダンジョン庁とかに直通の」
おれの方は繋がらなくなってて、と一応ポケットから携帯を取り出す。誰にも繋がらなくなって、何の意味もなくなった電話を、山蔵の目の前に掲げる。
じっと、彼はそれを見た。
痛いくらいに静かな夏だった。
じりじりと太陽は黙したまま地上を温める。温められて、電子レンジみたいで、エアコンのなかった時代はどうやってこんな季節をやり過ごしていたのだろう。暑すぎて、セミも息をしていない。夜にならなければ蚊も息を吹き返さない。火で焙られたように全てが真っ白に光り始めて、やがては何もかも形を失っていく。そんな世界の最後の一瞬に、身を置いているような気がした。
足元から伸びる影が、匂い立つほど濃く翳る。
首筋に、珠の汗が一筋流れた。
「……立ち話もなんだから」
山蔵が、踵を返した。
「中入んなさい。暑いだろう」
はい、とやはり素直に答えて、廻は鴨居をくぐっていく。
◇
「……っぱ、直談判するかな」
ぽつり嶺一が呟いたのは、東京のホテルの一室だった。
ありえないほど広い。ちょっとしたファミリー向けマンションの一室くらいの広さで、やけに高級そうな机とテーブルと椅子と、ぴっちり整えられたベッドが二台置いてある。なぜ二台置いてあるのかは、嶺一にはわからない。ひとり部屋なのに。
テレビのディスプレイは、何と壁一面。
画面には、『KO』の文字がこれでもかというでかさで表示されていた。
「僕って格ゲー弱すぎるんですけどどうしたらいいですかって?」
「ちげーわ。今に見てろ。バッタ戦法なんか使って雑魚狩りしてるやつは伸びしろゼロだかんな」
「と、雑魚が遺言を……」
何を、とベッドの上であぐらをかいた嶺一は、勢い込んでリマッチのボタンを押す。
押してから、そういうことじゃなくて、と気付く。
「廻のことだよ」
つい先日、こんな宣告があった。
「卯井さんはチームから外れてもらうことになりました」
特装室のオフィスに、見慣れているようで見慣れていない、つまり見覚えはあるし誰なのか知ってもいるけれど、ここにいないはずの人間の姿があった。
ぱっかーん、だ。口が。呼び出された先で、「開いた口が塞がらないとはこのことだよく見ておけ」とばかりに、嶺一は呆気に取られている。おかげで、何を言われているのかさっぱりわからない。廻の先輩? 生徒会長? なんで高校生? 私服? てか、室長? そんな疑問ばかりが、頭に浮かんでいる。
その困惑につけこむように、畳み掛けられた。
「前々から懸念していたんです。クリムゾン・スパークとブルー・ドッグがスイッチする際、一瞬、完全に無防備な時間ができますよね。これまでは幸運にも重大事故は発生してきませんでしたが、安全管理を担う側としては看過できるリスクではありません。そこで、このとおり代替となる新装備を開発しました」
これです、とキーボードを叩けば、これもまた一体どこの電機屋で売ってるんだという巨大なモニターに、その黒い機体は映った。
「対光線妨害用装備、『ヤサカニ』」
右手には、あの奇妙な腕輪が嵌っている。
「イルさんを介して構築されるあの機体からインスピレーションを受けて開発しました。その他にも攻撃用の『クサナギ』、実体攻撃に対応する防御用装備『ヤタカガミ』も、現在実用段階まで開発が進んでいます。こちらのふたつは既存のEロボ装備の延長の技術を用いたものですが、クサナギは一発限りならクリムゾン・スパークと同程度の火力が出力可能です。また、ヤタカガミはブルー・ドッグと同程度の堅牢性を有するので、これら三つの装備を搭載した特装室専用ダンジョン・エクスプローラ『クロガネ』は、理論上ギガメムと一対一で対峙可能です。現状ワンオフですし、機動性が低いので操縦には相応の技術が必要になりますが……そこで、パイロットは実力と実績のあるこちらの真田さんにお願いしました」
「よろしく」
よろしくされた。
生徒会長の横に立っている、憧れのプロストリーマーに。黒髪に銀のピアスの二十代、真田隆輝に。
手を差し出されて、無意識のようにそれを握った。呆然と、ただ呆然と、嶺一は真田の顔面を穴が開くほどじっと見つめている。
千鶴は、笑って言った。
「それから、しばらくおふたりにはホテル暮らしをしてもらいます」
諸事情あって、と彼女は言う。
「外部との連絡も、申し訳ありませんがしばらく遮断で」
よろしくお願いします、と。
どこから突っ込んでいいのかわからない、というのがそのときの気持ちだった。
で、今。
「他のことは、まあ呑み込むよ」
頭の整理がついてきて、嶺一はようやく理路整然とした文句を頭の中に浮かべ始めている。
「実際、あのバトンタッチはあぶねーって俺も思ってたし。あれ、イルがミスったら高熱で溶けて死ぬだろ。冗談抜きに」
「あれねえ。わたしも結構ヒヤッとしてるよ。実は」
怖えこと言うなよ、と口にはしつつ、実感は伴っている。
クリムゾン・スパークとブルー・ドッグは、そのまま入れ替わっているわけではない。高エネルギー型が出てくる。クリムゾン・スパークじゃ無理だ。それじゃあブルー・ドッグに代わろう。あ、よいしょ。突っ込んでどうにか無効化したぞ。さあトドメだ。クリムゾン・スパークに切り替えよう。あらどっこいしょ。……このよいしょとどっこいしょのタイミングで、イルは変身を解いている。つまり生身の人間が、クリムゾン・スパークが近付けないほどの熱量を有するギガメムの前に、無防備な姿を晒していることになる。
無力化前は無力化前で、遠くても熱い。
無力化後は無力化後で、間合いの中にいるから、熱い。
毎回嶺一はあのタイミングで、ヤバいサウナに入ったような気持ちになる。二分くらいいたら皮がべろべろに剥がれて死にそうな、江戸っ子爺の専用サウナ。多分、めちゃくちゃ身体に悪い。日焼け止めとか、そういうので何とかなるんだろうか? このあいだ薬局に行ったとき、結構真剣に棚を吟味してしまった。
「……ちなみにあれって、なんかイルがしてんだよな?」
「まあねー。してなかったらわたしたち、アイスクリームになっちゃってるよ」
「…………」
メルヘンな死をほのめかされ、少し、文句の温度が落ち着いていく。
それでもまだ、言いたいことはある。
「それ補う武器作ってくれたってのは、まあそりゃ、ありがたいよ。ありがたいけど、別に廻が外れる必要はねーだろ。いざってときの保険なんか、いくらあっても困んねーんだから。てか、」
画面の中、嶺一の操作する筋骨隆々の髭男が、超必殺技を放つ。
「廻の方から俺らに一言もなしって、変だろ」
「まーねー」
それをいとも容易く、まぬけな顔をした着ぐるみが避ける。イルの手が素早く動く。超必殺返し。画面端に追いやって、余裕の手つきで一方的な暴行が始まる。
「でもわたし、言えないかも。戻ってきてって。メグル、ダンジョン嫌いなんでしょ? ほんとは言い出しにくかったのかなー、とか思っちゃうし。それにチヅルって、メグルと仲良しみたいだし。だったらこっそり話せることもあったのかもなー、とか」
言っていて、少しずつ悲しくなってきたらしい。
イルの声が落ち込んでいく。その割に、操作の精度は変わらない。髭面の男は空中で何度もバウンドして、最後には『KO』の文字が再び浮かぶ。速やかに二戦目が始まって、着ぐるみは画面の端で意味のない屈伸を繰り返している。
ていうかさ、
「前から思ってたんだけど、なんでリョーイチってメグルのこと誘ったの?」
嶺一の手が、止まった。
着ぐるみが光弾を放つ。髭男がガードする。着ぐるみがジャンプする。裏に回って、髭男は反応しない。
「……あのさ。話変わんだけど」
嶺一は、コントローラーを置いた。
試合放棄だ。こうなると、着ぐるみも死体に鞭は打たない。画面の中では屈伸が続く。コントローラーを持ったまま、イルが振り向く。
ベッドの上で、嶺一はにじり寄るように座る位置を変える。
身長が違えば、座高も違う。少し背を丸めて、ゲームの音に紛れるくらいの小さな声で、嶺一は、
「ぶっちゃけ俺、今、三条さんたちのこと疑ってんだよ」
◇
「――っくしゅ!」
と、三条は大きくくしゃみをした。
「夏風邪ですか?」
「いや、花粉症かも……。僕、春だけじゃなくて年中ダメなんですよ」
「夏ってなんでしたっけ」
イネ科らしいです、の言葉を最後に三条が盛大に鼻をかむのは、特装室のオフィスだった。
ダンジョン庁舎九階。室長用の個室で後ろを向いて、振り向いて、「失礼しました」と副室長は背筋を正す。その間もずっと、千鶴はコンピューターで作業を続けている。
「防衛省から戻しがあったので、報告です。後で改めてメールでも共有しますけど――」
「また大臣レクですか?」
「そうなんです。事前レクやったんだからいいだろってことで現場は話ついてたんですけど、まーた陣ちゃんが混ぜっ返してきたらしくて。後、タキナダさんとの顔合わせもやりたいから組んでくれって来てんですよ」
「本人は?」
「直近のスケジュールはかなり余裕持たせてくれてるそうです。うち用に。ノンポリっぽい……失礼。あまりこういうのに抵抗があるタイプには見えないので、頼めばやってくれそうな気はしますね。表立って対談記事がどうとか始まると、本業のイメージがあるんで流石にちょっと一悶着出ると思いますけど。どうします?」
「会うだけならいいんじゃないですか。真田さんって確かに、そういうので染まる感じでもないですし。倉田さんも前から手土産を欲しがってますから、そのくらいは」
「ですか。個人的には八坂くんたちとの平仄が合わなくなるのが気になるんですよねえ」
「あれ。前は確か、もっぱら未成年を理由に断ったと思いましたけど」
「向こうはそう思ってないみたいなんですよ。『パイロット』に会わせてくれって感じなんで」
「ずるずる行きそう?」
気配は、と三条が頷けば、うーん、と千鶴は顎に指を当ててから、
「じゃあ、クロガネ周りのスタッフにも来てもらって、抱き合わせで行きましょうか。『国産』のイメージ推しで」
スケジュール組めますか、の質問より先に、三条はタブレットの操作を始めている。こつこつこつ、と画面を三回叩いて、
「お願いすればいけそうですね。エンジニアは……まあいいか。ある程度こっちで話が丸まるように準備します。基本は室長が話す感じで大丈夫ですか?」
「大丈夫ですけど、真田さんには多少喋ってもらった方がいいでしょうね。振付の練習をしておきたいので、今度こっちに来て訓練するとき、前後の時間をどっちか貰えるよう頼んでおいてください。できれば後がいいかな」
了解、と三条は、
「佐藤さんとスケジュール調整しておきます。すみませんね。働かせっぱなしで」
「保護者一同の皆さんにも、ご迷惑をおかけします」
はは、と苦笑いをした。
後は、とタブレットをスワイプして、
「ああ、そうだ。製造とのコミュニケーションの話だ。どうせ今の件で室長もやり取り始まると思うんでそのときでいいんですけど、かなりモチベーションが上がってるみたいなので、何か伏せてる案件とかあれば今振っちゃうといいかもです。あと、報道周りもちょっと加熱してきてますね。見ました?」
「少しだけ」
「夕方の情報番組でコーナー作られてますよ。まあ、クロガネの方は全然『赤』のおまけですけど」
「批判は?」
「『赤』様々です。ゼロ。地上波では、ほんとにゼロです。初動でプライバシー周りに敷いたプロテクトにめちゃくちゃ引っ掛かったのは気になりましたけど、今はそっちも全然ですね。正門からの取材依頼も海外からの方が多くなってるような……ああ、やっぱり。そうですね」
「ネットは?」
「そっちは流石に。でもまあ、根強い批判はありますが、フィルターバブルを突破するほどじゃありません。『健全な政治空間』の二歩手前……三歩手前くらいの弱さかな。一市民としては思うところがありますけど」
ですか、とさして意外そうでもなく、千鶴は頷く。ぱち、とマウスで画面を切り替えもする。配信プラットフォームに表示された登録者の数を見て、もう一度頷いて、
「とりあえず、内部の評価としては上々ですね。問題は外――」
そのとき、スマホが鳴った。
机の上に置かれていたものだ。オレンジ色の背景に、名前が浮かぶ。八坂山蔵。失礼、と呟く言葉はひどく小さく、動きは早い。ワンコール目の終わりには、千鶴はそのスマホを手に取っている。
「室長!」
それを押しとどめる、凄まじく大きな声があった。
フロアの端から端まで貫通するのではないかというくらいの音量で、足音もついてくる。千鶴の手が止まる。声を追いかけるように、個室に人が入ってくる。
佐藤すみれが、
「だ、ダンジョンが――」
千鶴は、スマホを置いた。
椅子を引いて立ち上がって、すぐに個室の出口まで歩みを進めて、特装室オフィスの全体に向かって、
「八坂さんとイルさん、真田さんに連絡を。クロガネの出動準備も開始してください。残りの人員はオペレーションルームに移動を――」
「三時間前から、都内に新たに出現しています!」
報告には、続きがある。
目を見開いて、固まった。
「警告を出さないで、握りつぶされてました! 今、ギガメムが追加で出現して、都内の小学校前に――」
◇
「……出ない」
指でフックを押して、廻は受話器を戻した。
八坂家のものとはいえ、流石に黒電話というわけじゃない。ほんの少しの間、ナンバーディスプレイが光を溜めて、すぐに消える。
「いつも繋がりにくいですか?」
訊ねると、山蔵は首を横に振った。
「そもそも、こっちからは掛けん」
ですか、としばらく廻は受話器を見つめる。
エアコンの効いた、静かな部屋だ。嶺一とイルもいなければ、二階建てのこの家は、ひとりで住むには大きすぎるように思える。レースのカーテンは、風にそよがない。ただレールに吊るされるばかりで、フローリングに光の帯を落としている。
天井が明るい。
他に、誰も生きていないような気がする午後だ。
「しばらく経ってから、また使わせてもらっていいですか。自分の携帯からだと、もうコール音もしなくて」
言えば、ああ、と山蔵は少し遅れて頷いた。
そして、どうということのない時間が過ぎた。麦茶、自分で入れていいからな。二階に上がっとくか? 卯井くんなら、あいつも気にせんだろ。いえ、大丈夫です。ここで。そうか。そう言って、山蔵はまた机に向き合う。分厚い西西辞典と地図帳と、歴史に関する何かを前に、老眼鏡をかける。きっと、廻が来るまで打ち込んでいた仕事に戻る。
ただ廻は、時が過ぎるのを待っている。
からん、とグラスの中で氷が揺れた。
「知り合いなんだって?」
何がきっかけだったのかは、わからない。
山蔵が、不意に呟いた。
「あそこの責任者と」
驚いたのは、山蔵が知っているとは思わなかったからだ。
「そう、ですけど」
「聞いたよ。あんな小ちゃい子が国で管理職やってるなんて、すごい時代になったもんだ」
小ちゃい、という言葉は、どうも高校生を相手にしているというより、本当にもっと、廻から見ても小さな子どもを指す言葉に聞こえた。
けれど、山蔵から見ればきっと、そう間違ってはいない。
彼は、千鶴のことを知っていた。
「前から知ってたのかい」
もちろん、答えは「いいえ」になる。
「だから、おれもびっくりしてて」
「そうか。まあ、巡り合わせだな」
はい、と相槌を打つとき、本当のところ廻はあまり納得していない。
本当に、巡り合わせの問題なのだろうか。
本当に、偶然だったのだろうか。
山蔵は、もとより多弁な性質ではない。だから会話が一区切りつけば、また沈黙が訪れる。ペンが紙の上で擦れる音が聞こえる。廻は、時計を見た。学校に置いてあるみたいな飾り気のない銀色のアナログ時計が、ここに着いてからのたったの十分を教えてくれる。
もう一度、掛けてみようか。
その前に、
「あの、」
自分からも、訊いてみたいことがあった。
「どう思いますか。嶺一のやってること」
どこまで話していいのかは、正直なところ、わかっていない。
あの夜――ファミレスで白幡と話して、千鶴が来て、それからは有無を言わせぬ時間ばかりが過ぎたからだ。嶺一ともイルとも、そして千鶴とも、連絡が取れなくなった。ダンジョン庁からは三条を通して連絡が来て、「申し訳ないけど決まったことだから」と、通帳にまとまった振り込みの数字が記された後、やはりぱったりと電話も通じなくなった。
信頼できる大人に相談して、と白幡は言った。
廻には、今のところそんな相手はいない。大人、という条件を外してみても、その一番に来るはずだったのは、よりにもよっての人だった。
山蔵だって、実際にどこまで知っているのかはわからない。
どこまで話していいのか、わからない。
けれどきっと、嶺一が自分と同じ立場だったら、山蔵に話したはずだ。
「反対だよ」
そして彼は、迷いなく答えた。
「選べるなら、反対するに決まってる」
そう言うだろうな、とは思っていた。
又聞きした話からだって、山蔵の考えは知れている。そして、その背景にある理屈も。それは多分、白幡が言っていたのと同じだ。あのときは場所もあいまって妙に怖くなってしまったし、彼女の言うことが全て真実だと思ったわけでもない。それでも、納得できるところはある。
千鶴があの場所にいると知って、なお思った。
アニメや漫画を観て育って、何となくそういうものだと受け入れてしまっていたことのおかしさに、ようやく実感が伴ってきた。
でも、それならどうして山蔵は、嶺一が行くことを許したのだろう。
「なあ、卯井くん」
「はい?」
呼び掛けられて、少し振り向く。
そのとき廻は、気が付いた。
八坂家の居間の隅には、ゴミ箱が置かれている。生ごみを捨てるときはキッチンの方と決められているから、いつも入っているのはくしゃくしゃのティッシュとか、水道工事のチラシとか、山蔵の書き損じの紙ばかり。その中にひとつ、見慣れないものが入っている。つるつるとしたポスター調の、日に焼けて、色褪せた、
「もう、この話に関わるのはやめときなさい。折角抜けられたんだから」
憲法改正反対、のポスターが丸めて捨てられていた。
◇
「ちょっと待てよ、おい」
喉から溢れた言葉が、震えていた。
それが自分でもわかるし、何の不思議もない。そういう場所に嶺一は立っていた。ホテルで連絡を受けて、イルと共に指定された場所に急行して、無敵の真紅の機体を纏って、『敵』の目の前に立っていた。
「どういう――」
それは、クリムゾン・スパークによく似ていた。
直立する二足の機体。カラーリングは銀色。細部は、よく見れば異なる箇所も多い。けれど、ブルー・ドッグも合わせて三機を置けば、多くの人間が仲間外れは『青いの』だと指差すだろう。鋭角で、いかにも攻撃的なそのメムは、まるで鏡に映したようにクリムゾン・スパークの前に立ち塞がっている。
その背後に、それはあった。
「――ここ、ダンジョンじゃないだろ!」
『来るぞ、八坂くん!』
小学校を背に、ギガメムは突撃してきた。
見た目に違わぬ高速機動が、嶺一からさらに余裕を奪った。呼び出された座標で待っていた景色は、どう見てもダンジョンじゃない。建築物がある。青い空がある。太陽がある。自分たちが生きている現実と、地続きの先。ここはどこだ。考える余裕がない。校庭に立っていることはわかる。
背後に、道路はない。
唐突に世界が千切り取られたように、見慣れた荒野が――ダンジョンが、広がっている。
「――!」
咄嗟に、身を躱した。
相手の突進をすかす。ギガメムは、勢いを止められない。そのまま互いの間合いは遠ざかる。思ったとおりだ、と嶺一は思う。こっちと似た機体なら、操作感も同じはず。初速も最高速度も申し分ないが、取り回しが難しい。速度が乗った段階での動きは、直線的なものになる。
けれど――
「リョーイチ、こっち見てる!」
ギギギギ、と地面を削る音がした。
ギガメムの踵から、金属の突起がせり出している。地面を噛んで、急激に減速する。足跡は破砕音とともに弧を描き、顔は、ずっとこちらを見ている。
今度は、こっちが小学校を背にする番。
同じ速度で突っ込んでくる。
「ぐ、う――!」
真正面から、無理やり受け止めた。
接触面から、激しい火花が散る。こっちには、気の利いた踵なんてものはない。吹き飛ばされて、浮きそうになる。無理やりに腕力で下に押し込める。もう一度足の裏の全てが地面に着く。
それでも、耐え切れない。
「らあっ!」
だから、ぶん投げた。
サッカーゴールをぺしゃんこにしながら、ギガメムが校庭を転がっていく。荒野に出ていく。流石に、吹き飛ばされたダメージがあるらしい。すぐには追撃に来ない。身を起こす。飛び退る。間合いを離す。
じっと、こちらを見つめている。
『落ち着いて! 向こうのペースに乗るな!』
そこでようやく、嶺一は通信の存在に気が付いた。
さっきから、耳に届いてはいた。けれど、それを声として認識できていなかった。
三条の声だ。
『さっき伝えたとおりだ、八坂くん! 目の前の状況に惑わされるな! 普通のダンジョンと同じように戦えば――』
「惑わされるって何だよ!」
だから嶺一は、大声で言い返した。
クリムゾン・スパークは警戒を続けている。構えている。それでも気持ちの上では、大きく両手を広げるように、
「なんだよあれ、小学校か!? どう見ても現実だろ! ダンジョンの中なんかじゃない!」
『それは――』
『見た目だけです』
返答に、少女の声が重なった。
『八坂さん。そのまま戦ってもらって大丈夫です。その小学校は、外形だけのハリボテです』
落ち着いた口調で、冷静に語り掛けてくる。
特殊装備室長、梓間千鶴の声だ。
『ダンジョン化と呼ばれる現象の最中に、こうして現実とダンジョンの風景が重なり合うことがあります。その際、ダンジョン側からも現実の空間が観測される――ですが、少なくともここまでダンジョン化の段階が進んでいれば、ただの投影映像と同じで、実際の建物に被害は及びません。そのまま――』
戦ってください、の言葉をギガメムは待たなかった。
ネコ科の動物がそうするように、それは白銀の背を丸めた。みしり、と音を立てて、背骨に相当する部品が弧を描く。頭を低くして、脚だけではなく手の指も地面を噛んで、
『八坂くん、周りの被害は気にするな! やってしまえ!』
遥かな速度で、突っ込んでくる。
今度は、不意打ちではなかった。嶺一は、状況を理解している。相手の高速機動に対する心構えもできている。瞳は、はっきりとその動きを捉えている。
だから、真正面から受け止めた。
ガィン、と人を不安にさせる音がする。
馬鹿げた質量の金属同士が、誤魔化しもなくぶつかり合った。壮絶な事故現場で響くような音がして、校舎の窓ガラスが揺れる。砂煙が上がる。ブランコは鎖から逃れようとしたかのようにまっすぐに吹き飛んで、赤い機体のフレームが歪む。
「りょ、」
やがて、金属が軋む音が響いた。
赤の機体と、銀の機体は組み合っている。ダメージが残るのは、赤の方。けれど、相手の腕を掴んでコントロールを握ったのも、赤の方。
ぐぎぎぎ、と重たい扉をこじ開けるようにその腕を動かしていく。
「リョーイチ! 今――」
「イル、聞かせてくれ」
げほ、と咳をひとつして嶺一は、
「さっきの話、イルは最初っからわかってたか?」
返事は、すぐにはなかった。
それだけで、答えになるには十分だった。
「イル」
「ま、待ってよ! でも、それってわたしがダンジョンの侵食に詳しくないから――」
「頼む。嘘だったら、取り返しがつかねえ」
耳元で、『嘘?』と訝しむ声を嶺一は聞いた。それには答えない。銀の機体は、腕力も大したものだった。全力で力を込めているのに、拮抗している。互いのフレームが、悲鳴を上げている。
「本当にごめん。でも、学校を庇ったまま勝つ。付き合ってくれ」
息を吐く音がする。
吸う音がする。イルが、言う。
「わかった」
「――ぉおおおおオアああああァ!!」
渾身の頭突きが、凄まじい音を立てて炸裂した。
銀の機体が、それで後ろに傾く。赤が右腕を引く。弓矢のようにまっすぐに拳を振り切って、当たらない。銀が身を躱した。左のサイドに入ってきて、ボディフックが決まる。赤がよろけて、そのまま顔面に一撃、二撃、三撃目で交換のカウンターが入る。ショートアッパー。ふらついた首に前腕部を引っ掛けて、地面に引き倒す。パウンドの一発目が外れる。寝転がった状態から放たれる蹴りなど恐るるに足らない。腹で受けて、掴んで、その足に拳を落とす。ガン、と重たい音がして、二撃目は入らない。踵のスパイクが飛び出した。腹に入った。後ろに吹き飛ぶ。吹き飛び切るわけにはいかない。腰を落として無理やり転がる。体勢を崩してでも踏ん張る。目の前に、銀の膝が迫る。
避けるわけにはいかない。
後ろには、小学校がある。
『待ってくれ、中には誰もいないんだ!』
クリムゾン・スパークの右手が弾けたとき、もう一度三条が叫んだ。
『君の機体は高機動の火力型、格闘戦に耐えられるフレームじゃない! いいか八坂くん、小学校を守る必要はない! さっきも言ったとおりそこにあるのはただの蜃気楼みたいなもので、そもそも現実でもすでに避難は――』
「信用ならねえんだよ!」
それを嶺一は、真正面から打ち返した。
通信の向こうは、急に電波が途絶えたように静かになった。耳に入るのは、金属同士がぶつかり合う音と、軋む音。自分の、そしてこの機体のどこかで共に戦うイルの、荒い息遣いだけになる。
それでも、嶺一は続けた。
「前にもあんたら言ったよな!? 周りの被害なんか度外視して、勝てねえ相手だから引けって!」
『それは――』
今度も、返ってきたのは三条の声だった。
『あのときとは状況が別だ! むしろ、不測の事態を考えるなら速攻で――』
「だからそれをどうやって信じろっつーんだよ!」
遮るように、嶺一は叫ぶ。
「あんたら自分の都合ばっかじゃねーか! 俺らがやってたところに横からしゃしゃって指図してきて、大人しく話聞いてたらなんだよ今の状況は!? チームから外すだの、家帰んなだの、言われたとおりに動けだの――」
もちろんその口論も、待たない。
ギガメムが、距離を取った。
色の薄い稲妻が、その身に迸る。何をする気なのか、嶺一にはわかった。肉弾戦にこだわっているのは、こっちだけだ。向こうはいくらでも、攻撃の手段を選べる。
遠距離から、光線を撃ち込んでくる。
だから、突っ込んだ。
「――がっ、ああぁあああああ!」
悲鳴で表現できるよりも、遥かに激しい苦痛だった。
嶺一は思う。前にイルが言ってたこと、嘘じゃないよな。機体のフィードバックは全部俺が受けてるって。何があってもイルは痛くも痒くもないって、嘘じゃないよな。
答えのように、イルが叫んだ。
「だめだめだめだめ! リョーイチ死んじゃうよ!」
『やめろ! フィードバックでショック死する!』
「やめ、」
嘘じゃなかった。
なら、まだ歯を食いしばれる。
「ねえ、よ!」
銀の顔面を、手のひらで掴む。
そのまま、地面に叩きつけた。
もちろん、ギガメムは倒れ伏したままではいない。クリムゾン・スパークの踏みつけを、素早く転がって回避する。それでも、警戒は終わらない。今の攻撃が果たして良手だったのか吟味するように、じっと、赤の機体を観察している。
「人の命がかかってんだ!」
獅子のように、パイロットは吠えた。
通信の向こうに届くように――そして、目の前の『敵』に向けて宣言するように、ボロボロの肉体を奮い立たせて、腹の底から叫んだ。
「ダンジョン化だの何だの、んな今聞いたばっかのこと鵜呑みにして適当やるような無責任なこと、俺はしねえ!」
機体もまた、同じだった。
真っ赤な身体は、嶺一と同じだけ傷付いている。鋭く洗練されていたはずの装甲はひしゃげて、砂を被って、焼けて、薄汚れている。それでも、その場所を譲らない。後ろに背負って、一歩も引かない。
ボロボロの機体で、日の光を燦々と受けて、それでもクリムゾン・スパークは輝いている。
それはまるで、テレビに出てくるヒーローそのものだった。
『八坂さん』
ぱちり、とマイクのスイッチが入る音がした。
千鶴の声がした。
『勝手な行動は慎んでください』
三条と比べれば、ずっと冷静な声音で彼女は言う。
『今のあなたは、自分で思っているよりずっと大きな責任を背負っています。少なくとも作戦行動中は個人の判断ではなく命令に――』
「俺は俺だ。あんたじゃない」
それもまた、嶺一はきっぱりと撥ねのけた。
「何をするかは自分で――自分たちで決める」
悪い、と小さく呟きもする。
「イル。もうちょい付き合ってくれ」
わたしは、とイルが答える声が、オペレーションルームにも流れ始める。
そのタイミングで、扉が開いた。
「すまん遅れた! 真田現着、クロガネは――、っ?」
顔を見せたのは、真田隆輝だ。
ここまで急行してきたらしい。それほど明かりの強くない部屋の中ですら、羽織った黒いシャツに汗が滲んでいるのがわかる。彼は、素早く室内に目を配る。異様な雰囲気を感じ取って、同時に気付く。モニターに表示されている小学校。それを守るように、仁王立ちしたボロボロのクリムゾン・スパーク。
どういうことだ、と目を見開く。
真田さん、とそれに近寄る職員もいる。佐藤すみれだ。目が合う。ふたりは現状を共有しようとさらに歩み合って、
「――ごめんなさい。八坂さん」
オペレーションルームの中心に、その声の主は立っていた。
梓間千鶴が、特装室長が机に両手をついて、ほんの少し前髪が目にかかって、他の職員とはまるで異なる落ち着き払った調子で口を開く。喉を震わせる。
そうして彼女は、言った。
「私たちは、あなたと違って遊びでやってるわけじゃないんです」