昔、と思い返すには、まだ新しすぎる記憶がある。
高校一年生の頃だ。
廻はそのころ、昼食を摂る習慣をなくしていた。教室で、人前で、物を食べるのが何か嫌になっていたからだ。口を開けるのが嫌。何かを噛んでいる音を聞かせるのが嫌。マスクを外すのが嫌。そのくせ、人のいないところでこそこそ食事をするのも馬鹿馬鹿しかった。朝ごはんだってろくに摂っていないのに、まるで空腹感もない。食べる必要も、そう感じない。
だから昼休みの間は、人のいないところにひとりでいた。
中庭はダメだ。いつもどこかのグループが使っている。楽しく話して、昼食を囲んでいる。第一体育館の方は、いつも運動部が昼練習に使っている。第二体育館は、結構良い。でもたまに、校舎見学に来た卒業生が現れたりする。
屋上なんて、もちろん開いていない。
図書室は、このごろ受験生の利用が増えてきた。
だからふっと、廻はその鍵の存在を思い出した。
強引な上級生に、半ば押し付けられるようにして与えられたものだ。こんなの貰っても、とそのときは思っていた。なくしたらかえって面倒くさい。管理に気を遣う。名義だけでもいいから、と入部届に名を書かされたのも、あんまり納得いっていない。それでも、カバンの中にずっとそれは眠っている。
第二理科準備室の鍵。
開けると、なぜだかコーヒーの匂いがした。
こんなところにひとりでいたら、と思う気持ちもあった。けれど薬品棚は、厳重に施錠されている。廻の持つ鍵では、どれひとつとして開かない。茶色い棚は博物館のように静まり返って、夏に近付きつつある日差しが、あらゆる輪郭をぼかしている。
鍵を掛ければ、誰も入ってこない。
第二の方の理科室は、理科教官室とも遠い。
後になって考えてみれば、そのころはまだ、何の保証もなかった。一年生は確かに、こっちの理科室にはほとんど来ない。けれど、二年生と三年生はどうか。そんなことは知らなかった。何かの拍子に教員がこの部屋に入ってくる可能性だって、十分に考えられた。
それでも廻は、ゆっくりと瞼を閉じた。
「あ、」
瞼を開けると、コーヒーの匂いがずっと濃く香った。
腰と背中が痛んで気付く。いつの間にか眠っていた。部屋の隅で座ったまま、目を開ければ日は傾いて、部屋には色褪せた夕色の明かりが満ちている。
人がいる。
気付いて、驚いて、身体の上から何かが滑り落ちそうになった。咄嗟に掴んだ。
それは、制服の上着だ。
ゆっくりと、感覚が戻ってくる。状況がわかってくる。昼休みが終わって、午後の授業もきっと終わった。その間、ずっと自分はここで眠っていた。やがて、扉が開いた。開けた人は、自分を見つけた。見つけて、風邪を引かないように上着を掛けてくれた。
その人は、準備室の机で大胆にもノートパソコンを広げている。
椅子に座って、コーヒーの入ったマグカップを横に置いて、小さなチョコレート菓子を口に運ぼうとしている。
目が合うと、笑った。
「……食べる?」
今でもときどき、廻はその顔を思い出している。
◇
「本当は君、こんなことやりたかないんだろう」
山蔵は、いよいよ廻に向き直った。
辞書とノートを閉じたりはしない。ただゆっくりと、老眼鏡を外した。そうして椅子の上に横向きで座り直して、ソファの上に座る廻を、じっと見つめた。
心の奥底まで見透かすような、穏やかな瞳だった。
「傍から見てりゃわかるよ」
山蔵は、諭すように言う。
「うちのはな。昔っからああなんだ。鉄棒やってりゃ頭を打つし、ブランコやったら足を折る。川遊びなんかせがまれた日には気が遠くなったよ。ちょっと目を離したら溺れるに決まってる。そのくせ放っておいたらひとりでどこへでも行っちまう。やんちゃと言や聞こえはいいが、要は想像力がないんだ。痛い目見なきゃ、何もわからん」
だけど、と、
「卯井くんは違うだろう。しっかり者がしっかりしすぎて、人の面倒も見てるだけだ」
それはある意味では、図星だった。
外れている部分もある。しっかり者。そんなことはない、と廻は自分では思っている。宿題を忘れないとか、予習復習がまめだとか、そういうものは廻にとって『しっかり』の対象ではない。少なくとも現状の自分に対して、廻は『しっかり者』なんて言葉を使わない。
でも、その前の言葉に対する否定は、何もできない。
事実だからだ。
『こんなこと』は、様々な形をしている。それは、一度は逃げ出したはずのダンジョンに、もう一度挑む形になっていること。いつの間にかまた世の中で話題になっていること。意味不明な巨大機械に立ち向かうこと。東京までの電車に乗ること。人前に出ること。知らない大人の人と、平気な顔で仕事の話をすること。知らない人と公用車に乗せられること。親しくもない人からの着信に備えなきゃいけないこと。昔の自分に、また向き合うこと。
その全部に山蔵が問い掛けるなら、廻は本音では、こう答えることになる。
はい、やりたくありません。
「それなのになんで、もう一度来たんだい」
声は、今まで聞いた中で一番優しかった。
こちらを追い詰めないように気遣ってくれているのが、はっきりとわかる。けれど同時に、その奥にある言葉も、廻には感じ取れる。
ここにいるべきじゃない。
引き返せ。
「あのな」
と、静かな声で山蔵が口を開くとき、廻はふたつの時間を思い出している。
片方は夏休みの前日、同じようにここで、山蔵と話をしていた時間。
もう片方は、夜のファミリーレストランで、気圧されるようにして、白幡の話を聞いていた時間。
「次は、もう戻れんかもしれんぞ」
山蔵の指は、膝の上で固く組まれていた。
「脅しで言ってるんじゃない。気付いてるだろ。取材だの野次馬だの、あれから全然来ないのは、国がどうこうしてるからだって。今、君が連絡を取ろうとしてるのはそういう相手だ」
話しながら、少しずつ眉が険しく寄っていく。
「今のこの国はどうだとか、そういう俺のお勉強の成果を話したいんじゃない。老人の言う『昔と同じ』も『昔は違った』も、どうせ実感にはならんだろう。けどな、人を人と思わない奴ってのはどこにでもいて、権力ってのはそういう握っちゃいけない奴らが一番握りやすい形をしてる。それは事実として、そうなんだ」
声は少しずつ硬いものになって、指先に込められた力は、ただでさえ乾いた彼の手から、色をなくしていく。それでもまっすぐに山蔵は、廻を見つめている。
「君が真剣に話そうとしても、向こうは聞く耳なんてひとつも持っちゃいないかもしれん。それならまだマシで、話すこと自体が何か悪いことを呼び寄せて、気付いたらもう、次は逃げることもできなくなってるかもしれない。もちろん、引き返したくなったら、俺も精一杯付き合う。だけどな、やっぱり俺も君と同じように、できることには限界がある。大人とか子どもとか、ほんとのとこ、大して変わりはないんだ。……だから、今言わせてくれ」
卯井くん、と。
山蔵は、言った。
「もう、十分頑張っただろう。家に帰んなさい」
構図は、過るふたつの場面と同じだった。
大人が難しいことを喋っている。それを自分が聞いている。自分と関係があるとは思えないような大きな大きな物事を、見たことがないような真剣な調子でまくし立てている。
廻はそれが、怖かった。
怖くなくなったのは、その大人の瞳も、不安で揺れていることに気付いたからだ。
「――この間、同じことを言われました」
わずかに山蔵が、目を見開く。ああいや、と廻は慌てて続ける。誤魔化すみたいに、少し口元が上がる。笑わない方がいいかな、と思う。
「そっくりそのまま同じじゃないんです。ただ、特装室の室長。その人に契約終了だって言われたときに、似たようなことを言われて。あの、あれ。見ましたか。この間の黒いやつ」
「ん、ああ。あの、クロガネとかいう」
「それです。それ、見せられて。もうこれができたから、おれの方はいいって。今までお疲れさまでした、もう十分ですって」
それはやはり、夜のファミリーレストランでのことだ。
特装室長は、強引だった。まるで入部届に名前を書かせて職員室へと持ち去ったあのときみたいに、ひとりで勝手に、笑顔で、人の行く先を決めてしまった。
「そのときに本当は何か言えたらよかったんですけど、呆然としちゃって。……実際、そのとおりではあるんです。おれ、別に嶺一と違って、ロボットとかダンジョンとか、全然興味がないし。危ないのも嫌だし。もうやめていいって言われたら、正直、嬉しいんです。やりたくないから」
でも、と言葉は続いていく。
そのとき廻が思い出しているのは、ここ数日の、学校もなかった日々のことだ。
「やめたらやめたで、何もなくなって、寂しくなりました」
呆然とした、というのは随分大人しい表現だ。
実際のところ、あの夜を越してからしばらく、また廻は部屋の中でひとり、ベッドの上で丸まって過ごしていた。
カーテンだって開けない。暗い部屋で、天井と壁を見つめて過ごすだけ。そうして、重ねていた。母が自分と目を合わせなくなった日。鍵だけ渡されて、これから父と住むはずのマンションに辿り着いた日。当たり前にあると思っていたものが、なくなった日。
これも、そうだったのかもしれない。
何もかも永遠に続くものはなくて、これも、その期限が来たのかもしれない。そう思っていた。
「それは――」
山蔵は、
「違う。卯井くん。居場所は、そんな風に求めなくていい」
これ以上ないくらい心配そうな声で、慰めてくれる。
「そんなことしなくたって――」
「わかってます。別におれも、そんなに切羽詰まってるわけじゃなくて」
もちろん廻は、慰めてほしいわけじゃない。
諦めは、つくからだ。
身をもって知っている。どんなに大切だったものでも、永遠にあると思っていたものでも、なくなってしばらくすれば、徐々に折り合いはついていく。母さんはおれと似てるから。似てるのがふたり揃ってると、どんどんダメになってくから。傷が浅いうちに済んでお互いよかったんだ、とか。父さんはおれにあんまり興味がなかったけど、興味ないなりに面倒見てくれてるから。そういう距離感のおかげで、かえって家にはいられたから。家にいても、母さんよりは負担が少なく済んでるんだから、とか。
別に、なくなったって生きていける、とか。
知っていたから、廻はもう一度、カーテンを開けた。
家を出て、学校に来て、教室にも家庭科室にも探していた姿は見当たらなくて、冷蔵庫の中身は空っぽで、本当のところ、目で見る前からその全てを知っていた。何もなくなった。そのことを確かめるために、学校にだって行けた。
けれどカーテンを開けて、風が通ったとき、思ってしまったのだ。
「でもやっぱり、誰かが付き合ってくれた方が、嬉しくないですか」
振り向いた先に、クラスメイトがいた。
汗をかいている。息を切らしている。それほど親しくはない。きっと卒業すれば、クラスが変われば、彼女の記憶に自分はそう長くは残らない。
けれど、探しに来てくれた。
何もかもなくなったと思った先で、まだ、残されたものがあった。
廻には、それが嬉しかった。
自分も誰かに、そうしてあげたいと思うくらいに。
そして、そうしてもらえるようになるまで支えてくれたのは、最初に同じことをしてくれたその『誰か』だった。
「おれも山蔵さんと同じで、嶺一とイルのことが心配です」
「…………」
ああ、とも山蔵は言わない。相槌すら打たなくて、けれど無視しているわけではないということも、はっきりとわかる。真剣に耳を傾けてくれていることが、伝わってくる。
「やりたくないって気持ちもあります。でも、それ一辺倒ってわけでもなくて。やりたくないけど、やりたいんです」
言ってることがめちゃくちゃだ、と廻は思う。
それでも、本音だった。やりたくないことをやらなくちゃいけないんじゃない。やりたくないことを、やりたいのだ。
山蔵が口にする懸念を、きっと自分は、半分も理解できていない。
政治だとか国だとか、権力だとか、そんなものを実感を持って理解できるような生き方はしていない。確かに、警察の取り調べは怖かった。とんとん拍子で進んでいく計画とか、自分についていた監視とか、そういうも目の当たりにしてきた。でも、まだ足りない。新聞もテレビもネットニュースも、避けて生きてきた。避けて生きてこなくても、『普通に』生きてきた卯井廻がいたとしても、きっとまだ、実感は追い付かない。
けれど、自分ではどうにもできない『巨大なもの』があるということだけは、何となくわかっている。
山蔵の言うそれは、家に籠ったり、スマホを壊したりすれば解決するようなものではないのかもしれない。巨大ロボットがぶつかり合えば、どうにかなるようなものではないのかもしれない。けれど廻は、ずっと『それ』をそうだと思ってきた。自分ではコントロールできないそれを、ずっと恐れてきた。
だから、山蔵の言うことの、半分はわかる。
半分の恐怖を抱えて、それでもここまで来たのは――
「ロボットに乗るとか、乗らないとか、そういうことでもなくて、ただ……」
「……ただ?」
「特装室の室長って、ただの知り合いじゃなくて、仲の良い先輩なんです。おれが、勝手にそう思ってるだけなのかもしれないですけど」
山蔵が息を呑んだのが、わかった。
言葉を一度、胸にしまったのだと思う。廻はそれで、少し笑ってしまった。何を呑み込んだのか、わかったからだ。山蔵は、千鶴と会っている。そして当然、自分の現状もわかっている。仲が良いと思っている先輩と、急に音信不通。正体を知らされたのは、ついこの間。
それは、切り捨てられたんじゃないかと。
騙されていたんじゃないかと。
言おうとしたのを、咄嗟の気遣いで呑み込んでくれた。
「そういうのも含めて、確かめてみたいんです。……あれだけ言ってもらって、すごく単純な動機なんですけど」
でも、と続けるそのとき、やっぱり嫌な予感は、未来予想は、いくつも廻の頭に過る。
案外、山蔵と自分は似ているのかもしれないと思う。白幡が怖かったのも、もしかすると、どこか鏡を見ているような気持ちがあったのかもしれない。嶺一やイルみたいに、ちょっと乗せられたら快くなんて、とてもできそうにない。悲観的で、心配事が多くて、何かをするときは期待より不安の方をずっと重たく抱えている。
「でも、どっちも友達のことだから。『もうここまででいいや』で済ませたくないんです」
だから、そんな小さな理由でもなければ、ここには来られなかった。
拙い言葉は結局、素朴なもので結ばれた。多分、と廻は思う。山蔵からすれば、ひどく幼稚な答えだろう。それに、『友達』という言葉は、何だか自分で口にすると妙にむずがゆい。そんなものだっただろうか。自分と嶺一は。自分とイルは。自分と千鶴は。大抵の場合はすれ違っていくだけの他人と他人の間に、どうしてそんなに簡単に、大層な名前を当て嵌めることができるのだろう。据わりが悪くなる。身じろぎをする。もう生涯、『友達』なんて言葉は口にはするまい、とすら思う。
けれど山蔵は、優しく笑ってくれた。
「……あいつな。うちの小僧」
長い沈黙の後の言葉だった。
組んでいた手を、縮めていた肩を、彼はゆっくりと広げる。何かが身体から抜け落ちたように、ゆっくりと息を吐いて、天井を見つめる。
膝に手のひらをついて、立ち上がる。
ゆっくりと、歩き出した。
「昔から友達は多いんだ。だけど、家には連れてこなかった。そりゃまあ、うちに呼んだって待ってるのはどこに出しても恥ずかしい爺がひとりだけだからな。あいつの友達の顔を見るときなんて、精々あいつの悪さを謝りに行くときだけだ」
行く先は、大きな窓だ。
レースのカーテンがかかっている。けれどうっすらとそれは透けて、元の形を知っている者なら、向こう側の輪郭を捉えることができる。
猛暑に少し色褪せた草木と、古びて朽ちた、バスケットゴールがある。
「だから、君を連れてきたときは意外でなあ」
嶺一が自分を家に上げた理由に、廻は心当たりがある。
そのころの自分の状態が全てだ。人目につくところがほとんどダメな高校生を連れて、遊ぶ場所なんてほとんどない。いつまでも学校に居残る理由もない。だから、嶺一は自分を招いてくれた。
それだけだ、と思っていた。
「雰囲気も違えば、性格も違うだろう。俺が今まで知ってたようなあいつの友達ともちょっと違って……」
なんて言うかな、と彼は頬を擦った。
「あいつの笑う……いや、俺が……」
辞書を捲るように、その指が動く。
今度は、言葉を探すのは山蔵の番だった。
何度も何度も、指は肌の上を行き来する。何を探しているのか、どこに行き着くのか、廻にはわからない。それでも不思議と、そうして待つ時間が嫌ではない。
「……そうだな」
もしかすると、だから、言葉自体は重要ではなかったのかもしれない。
それでもはっきりと廻は、山蔵が言うのを、聞いた。
「君たちがいると、家が明るかったよ。ありがとうな」
どういたしまして、というのも変な気がした。
だからたった一言だけ、飾り気のない言葉で廻は応えた。
「……はい」
山蔵が笑う。
よし、と受けた声は大きくて、明るくて、それでふと廻は「この人は嶺一のおじいさんなんだ」ということが、妙に腑に落ちた。
「電話、」
だから廻も立ち上がって、訊ねた。
「もう一回、いいですか」
ああ、と山蔵は答えた。
危ないと思ったら、から始まる親切な小言まで付けて。
◇
「私たちは、あなたと違って遊びでやってるわけじゃないんです」
千鶴の言葉は、はっきりとオペレーションルームに響いた。
この状況だ。ギガメムを前に、クリムゾン・スパークは敗れかけている。頼みの綱のクロガネのパイロット・真田隆輝も今になってようやく到着した。ここが正念場と、在室する職員たちの手は、目は、常よりも遥かに忙しなく動いていた。
それが一瞬、止まった。
目を向けなくとも、意識が彼女に集中する。それを、この場にいる全員が感じ取った。
「ちょっと、室長、」
そしてやはり、職員を代表して口を開くのは三条だった。
「身体を張って今戦ってるのは、八坂くんたちですよ!」
「身体を張ってりゃ偉いですか」
けれど千鶴の声は、三条の熱を凍らせて有り余るほどに冷たい。
「それなら、東京近郊の人々は皆さん大変偉くていらっしゃいますね。八坂さんが負けたら死んでしまうわけで、身体を張って事態の成り行きを見守っているわけですから」
「そんな言い方――」
「じゃあ何ですか? 懸ける思いの真剣さ? それなら生活費でパチンコを打ってる大学生も、子どもの奨学金で競馬に行く親も本当に偉いですね。真剣そのものでしょうから」
何の話を、と三条が怯む。
その間にも、戦闘は進行している。
『リョーイチ、お腹!』
イルの声が、室内に響き渡った。
腹部、と多くの職員がクリムゾン・スパークの腹部の損傷を確認しようとする。格闘戦は、すでに洗練から程遠い場所まで来ていた。至近距離で、互いの身体を掴み合って、取っ組み合って、転がって、
お腹、がギガメムの方を指したのだと気付いたときには、もうそれは光っている。
ギガメムの腹から、稲妻が走った。
『――おッ』
奇跡的にも、嶺一は反応した。
自分を組み伏していたギガメムの、脚の間に身体を割り込ませた。ほんの一瞬で体勢を入れ替えた。ギガメムの腹部が上を向く。
熱線が、空に放たれる。
周囲の温度が、一瞬で一〇度、二〇度と上がっていく。赤い装甲がひび割れて、破片が飛んでいく。
『こいつ――』
「今は余計なことを言っている場合じゃないでしょう!」
三条が、再び叫んだ。
「とにかく今はふたりの援護を――」
「で、もう一度同じことをやるわけですか。作戦中に、信頼関係の未熟を理由に右往左往。いいですね。次は国会議事堂の上でやってみましょうか。それとも、今度こそ避難が終わっていない幼稚園の前? 病院の裏?」
「それは、」
「それに、『今』信頼できないっていうんでしょう? 『今』聞いたばかりのことを鵜呑みにできないって。いいじゃないですか。それなら今、全部包み隠さず説明してあげましょう。八坂さん!」
『なん、だよっ!』
「あなたのお望み通り、『今から』全部説明します。私が知っていることを、全部。あなたにもはっきり伝わるように――」
そのとき、千鶴の視線が動いた。
机の上に、それは置かれたままになっている。公用のスマートフォン。一度途切れた着信は、今、もう一度画面にその名を表示している。
八坂山蔵。
「もしもし」
千鶴は、その着信を取った。
「ちょうどよかったので、そのまま聞いてください。今、八坂嶺一さんが詳細な状況を訊きたいとのことだったので――」
『千鶴先輩?』
みしっ、と。
スマートフォンを持つ手に、力が入った。
◇
電話にようやく出てくれたと思ったら、向こうが急に何も言わなくなった。
思い当たる理由は、もちろんある。
「切らないでください!」
だから廻は、慌てて言った。
「あの、訊きたいことがあって連絡したんです。騙し討ちみたいになってすみませ――」
こっちの声を上から塗りつぶすような、とんでもない音が耳をつんざいた。
鼓膜が破れるかと思った。音の正体は、廻にはわからない。電波が不安定な場所にいて、強烈なノイズが入ったのか、それともスマホが向こうで取り落とされたのか。とにかく、咄嗟に受話器を顔から遠ざけた。耳を押さえた。
「なんだ、どうした?」
隣に立っていた山蔵にも、それは聞こえたらしい。
「何か今、すごい音が――」
『戦闘中です』
その一言で、一気に音の正体まで辿り着いた。
爆発音だ。
「――すみません。タイミングが」
嶺一とイルが、ギガメムと戦っている。
手振りで廻は山蔵に伝えた。ふたりともテレビなんか見ないから、そして今日はラジオの音もなかったから、気付かなかった。山蔵がスマホでニュースを確認し始める。流石にこのまま話そうとは、廻も思わない。掛け直すことに決める。
『いいえ。ちょうどよかったです』
だというのに、向こうから聞こえてくる声は、むしろこちらよりもずっと冷静だった。
『訊きたいことのおおよそはわかっています。今、八坂さんにも説明するところだったので、そのまま聞いておいてください』
今?
連絡が通じて会話が成立した喜びよりも、困惑の方が大きかった。廻は、隣の山蔵に目をやる。まだスマホと格闘している。嶺一にも説明するような内容なら、山蔵にも聞こえるようにした方がいいだろうか。目で、見慣れない家庭用電話機の物理ボタンを確かめる。
スピーカーのボタンを見つけて押し下げるそのとき、山蔵が顔を上げた。
「ニュースに出てないぞ――」
『イルさんは、他国の軍事目標に設定されています』
ぐんじもくひょう、の意味がパッと取れなかった。
国語の問題で出たら、間違えようもない簡単な漢字問題のはずなのに。
『一度でも考えたことがありますか。そういうことを』
廻は、二の句が継げなかった。
嶺一の声も、聞こえなかった。
向こうでは聞こえているのだろうか。何も言えずにいるのは自分だけで、戦闘中らしい嶺一たちは、千鶴の言葉に反応できているのだろうか。わからない。
スピーカーから聞こえた声は、山蔵にも届いている。
無意識のうちに向けていた視線に、彼は、黙って首を横に振る。
予想していたんだ、と廻は思った。
そういうことまで考えていたから、ああいう言葉が出てきたんだ。
『昨日今日の話じゃありません』
こちらの動揺なんて、向こうの知ったことじゃない。
千鶴は、淡々と続けた。
『初めからです。イルさんが現れて、八坂さんと原理不明の非敵性メムを生成・起動させたときから、あなたたちはずっと軍事的な脅威として、世界中から見られています。これを不当なこととは、私は全く思っていません。逆の立場なら、私もそう考えるからです』
聞いたこともないような声色だった。
記憶と、上手く結びつかない。廻の中で、千鶴はいつも笑っていたから。いつも機嫌良さそうに話をしていたから。今、どんな顔をして話しているのか、一年も一緒にいておいて、想像すらできない。
『未知の空間であるダンジョンは、その空間内に生じる機械体――メムが軍事的に制圧可能であったからこそ、新天地として扱われてきました。山林や海洋と今や同じく、一定程度交渉可能なものと見込まれていたんです。あるいは、天候のような不確定な自然災害が生じない分、むしろより人類の開拓地に相応しいとすら見られてきた。そこに、ギガメムという強大な「敵」が現れた。これだけで、各国が反応するには十分です。実際、日本でのギガメムの発生を受けて莫大な補正予算を組む国も、そう少なくはありません。……そして、その情勢の中心に、あなたたちはいる』
考えたことはありますか、と。
もう一度、千鶴は言った。
『あなたたちは、巨大な爆弾のようなものです。軍の出動が必要になるような脅威に対して、最低人員はたったふたりで対処できてしまう。それも、多くの場合は圧倒です。世界がギガメムを脅威と捉えるとき、あなたたちを同じように捉えない理由はない。今、多くの国にとってダンジョンは産業の生命線のひとつです。それに大規模な攻撃を加えることが可能な存在が、テレポートまでできる。国防上の悪夢と呼ぶに相応しい存在です』
少し、間が空いた。
ここで話が途切れることはないはずだ、と思う。向こうの気配を窺う。多分、嶺一が何かを言った。
『関係ありません』
千鶴は、取りつく島もなかった。
『あなたたちがどうであるかではなく、どう見えるかの問題です。実際、すでにふたりの――三人の身柄の受け渡しに関する交渉が何度か行われています。……私ではありません。もっと上の方から、話が降りてきているということです』
もう一拍、今度はさっきよりも短く、
『受けるわけがありません』
吐き捨てるように、千鶴は答えた。
『目先の損得勘定だけを考えてもわかるでしょう。ギガメムの対処に優れたパフォーマンスを持ち、かつEロボ研究のモデルとして災害対処能力も含めた将来的な技術革新のメルクマールにもなってくれる。そんな存在を渡すわけがない。でも、八坂さん。あなたの懸念はとても良い線を突いています。いますよ。あなたと同じことを考えている人は』
何度も、と彼女は言う。
何度も、何度も何度も何度も何度も、
『何度も何度も何度も何度も何の理屈にもならない思いつきをぺらぺら喋って意味不明な命令をしようとする無能の馬鹿が、確かにいますよ。たくさん。朝三暮四って言葉、知ってますか? まさにあれです。初めて習ったときは、こんな無意味な四字熟語もないと思ったんですけどね。今では一日に七回八回と頭を過りますよ。総数が変わってないだけあの猿は賢くて、こっちはそれよりずっとひどい。未来の予測どころか目の前の状況すら理解できていない、品性下劣のくせに自意識だけはご立派なゴミが、いつもあなたたちをおもちゃの人形みたいにコントロールしようと執拗に狙っているんです。――それはもちろん、あなたたちも同じです』
室長、と諫める声が小さく聞こえた。
それでも、千鶴の言葉は止まらない。
『ちょっとでも考えたことはありますか? こんな強大な力を持っていたら警戒されるかもとか、盗まれるかもとか。卯井さん。イルさんが他の人間とも非敵性メムを形成できるとアピールして何がしたかったんですか? ここに誰でも使える便利な兵器がありますよ、と知らせたかったんですか? 八坂さん。自分のことは自分で決めるそうですね。シヴィリアンコントロールを受けず、武力を振り回しながら思うままに振る舞う人間を何と呼ぶか知っていますか? 反社です。非合法武装勢力です。テロリストです。そういうものになりたいんですね。とても素敵な自己実現だと思います』
矛先を向けられて、まだ、廻は何も言えない。
言われたことの意味を整理して、落ち着いて返す時間なんて、どこにもない。
『どうして卯井さんを外したかなんて、簡単でしょう。卯井さんに限らず全員外したいですよ。本当に私たちが心の底からヒーローごっこを楽しんでいると思いますか? おもちゃで遊ぶのが楽しくて、みんなに見せびらかしているんだと思いますか? そうしないと社会の賛同が得られないからです。物語がなければ、幼稚で馬鹿馬鹿しいステークホルダーへの説明が通らないからです。全ては必要に駆られてやっていることであって、あなたたちが必要なくなったら、クロガネの性能が十分になってギガメムの対処も内外への牽制も果たせるようになったら、本当に一刻も早く、ここから出て行ってもらいたいんです』
嶺一も、きっと何も言わない。
だから、間断なく彼女は話を終わらせにかかる。
『これが私の言える全てです。あなたたちに全てを知らせていなかったのは、確かに私の伝達不足です。申し訳ありませんでした。でも、もうひとつだけ、私から訊かせてください。八坂さん。あなたは私たちのことを信じられないと言いましたが――』
息を吸ったり吐いたりの間は、どこにもない。
滑らかに、一息に、千鶴は言った。
『あなたは胸を張って、「自分は信じるに足る人間だ」と言えますか?』
◇
いいのが入った。
言葉が心に、というわけじゃない。
普通に、頭に、拳が。
「がッ――」
「リョーイチ!」
戦闘は、もちろん継続している。もう一生分殴り合った気分だ。うんざりした。それでも、どちらかが倒れるまで続く。今のところ、相手が倒れる気配はない。
今のところ、自分の方が終わりに近い。
よろけたそのとき、視界に、もう一発が見える。
『――膝抜け!』
アドバイスに従ったというより、単に、膝に力が入らなかったという方が近い。
ギガメムが、凶悪なアッパーを放っていた。とんでもない威力で、風を切る音が戦闘機みたいに聞こえる。何とか躱したはずなのに、ほんの少し掠っただけで、装甲に傷がつくどころの話じゃない。チェーンソーが鉄を削るような火花が散って、空に向かって、雷が落ちていく。
『踏み付けだ、転がれ!』
今度は、言われたとおりにできた。
転がって距離を取る。片膝をついて止まる。小学校はいつの間にか背中のすれすれにあって、だというのに頭が朦朧として、それがまずいとも思わない。前に一歩踏み出せば、相手の間合いになる。それが何となくわかる。クリムゾン・スパークはボロボロで、あれだけ大口を叩いておいて、何の有効打もない。息が苦しい。脳が揺れている。視界がぼやける。
『何を揉めてんだか知らんが』
声は、すごく聞き慣れている。
『八坂。とにかく負けんな。負けたら何にもなんねーぞ』
それは、何度もスマホ越しに聞いていた声だ。
少し低くて、冷たくて、焦っているときでもどこか余裕を帯びて響く声。
『手ぇ抜いて勝てる相手じゃねえ。納得いかないってんなら、トラブルがこの場で解決できないっていうなら、それでもいい。ただ、死ぬな。持ちこたえろ。もうすぐクロガネが着く』
だから後のことは、と。
真田隆輝は――タキナダは、言った。
『俺に任せとけ』
格好いいよな、と。
こんなピンチに場違いな感想を、嶺一は浮かべていた。
タキナダは、こういうことを言って本当に勝つから格好いい。Eロボに本格参入する前から、ずっと追ってた。FUA――格ゲーの国際大会で、決勝で、大将で、逆転勝利する動画を何度も観た。尊敬する人は、と訊かれたら、織田信長より先にうっかり挙げてしまうかもしれない。
「……イル。まだ平気か?」
「わ、わたしは大丈夫だけど」
一方で、自分はどうしようもないくらいに格好悪かった。
流石に嶺一は、自覚せざるを得ない。意地張って、無茶やって、挙句の果てがこれだ。無敵の機体はボロボロで、タキナダに訴えたくなる。すみません、俺ロボで戦うの下手みたいなんですけど、どうしたらいいすかね。どうしようもない。普通に弱い。影響されて買った格ゲーも埃を被って、いざ引っ張り出したらイルにも負ける。練習しときゃよかったのかと思うけれど、時は戻らないし、下手は下手のまま。武器を縛って、動きも縛って、それで勝てるような強さなんか、どこからも湧いてこない。
その上、舌戦にも負けた。
完膚なきまでにだ。
自分とひとつしか違わないはずの高校生の口からは、自分が想像したこともないようなことばかりが大量に出てきた。考えたこともないから、何も言い返せない。そうです。ぼくは今まで深いことなんか何ひとつ考えてきませんでした。国だの世界だの軍だの何だの、そんなの自分の人生に爪の先ほども関わってくるとは思っておりませんでした。
「……悪かったな。幼稚なテロリストのヒーローごっこで」
なのに、まだ退けない。
ゆっくりと足に力を込めるとき、ぼんやりと嶺一は、目の前の状況を視界に捉えている。小学校を背負って、目の前は校庭。その向こうには、荒漠たる殺風景が広がる。
その光景と、重なる記憶がある。
それは、イルと出会ったあの日だ。
「どうせ頭も悪けりゃ行儀も悪い、信頼に値しねーやつだよ……!」
まだ誰にも言ったことのない秘密がある。
あの日嶺一は、生涯で一番ビビっていた。
当たり前のことだ、と誰に言い訳するでもなく思う。あんな普通に入ったら生きて出られないような場所に急に放り出されて、平静でいられるはずがない。橋から川に飛び込むとか、足も着かないような鉄棒で見様見真似の大車輪とか、そんなのとはレベルが違う。ビビって当然。震えて当然。竦んで当然。
動けなくなって、
――とりあえず、ここから出よう。
「だけど、そりゃ俺とあんただけの話だろ」
ぎぎぎ、とクリムゾン・スパークが、軋みを上げた。
体育館の物置に隠された古いポールだって、もう少し大人しい音を立てるはずだ。奥歯が痛む。ここは危険だ、と音に反応している。それでも嶺一は、地面に手を突いて、深く息を吐いて、さらなる力を込める。
誰も傍にいなかったら、どれだけ不安になっただろう。
あのとき、この赤い機体と比べればずっと簡素な機械に運ばれながら、嶺一は思っていた。誰もいなかったら、どれだけ心細かっただろう。
実際に、誰も傍にいなかった奴は――
「廻はイルのこと、あんたに話してただろ」
だからあのとき、嶺一は手を伸ばした。
知らない言葉で助けを求める女の子に。そして今、もしかしたら自分の背後に取り残されているかもしれない、誰かに。
震える奥歯を、噛み締める。
「てめーの都合だけでべらべら喋ってんじゃねーよ……」
大それたことなんて、ひとつも考えたことがない。
あんな爺さんの下で育っておいて、ろくろく真面目なところがなくて、来年はきっと、投票箱の前で呆然としている。その程度の奴なんだろうと、嶺一は自分で自分に思う。もっと勉強しときゃよかったのかと思うけれど、時は戻らないし、今ここで急に全てを理解できるような思慮深さなんか、どこをどう絞っても出てきそうにない。
だから、本当に身近なことだけ考えて、まだ、退けなかった。
「信じてくれる奴を信じられねーのは、てめーの問題だろうが!」
通信の向こうで、千鶴が目を見開いた。
オペレーションルームには、再び撃音が響き始めている。
満身創痍のクリムゾン・スパークは、再び格闘戦を始めた。クロガネ到着、の声がオペレーターから響いたのが、唯一の好ニュース。いつの間にか、セコンドは三条から真田に代わっている。三条はクロガネの搬入作業の指示に入り、ひっきりなしに鳴る内線電話を佐藤が受けて、とにかくパニックを起こさないようにと大した説得力もない台詞を必死で修飾して、言葉が、数字が、通信が飛び交って、
『あの』
机の上で、通話はまだ繋がっている。
まるで目の前にいるように、彼は言った。
『先輩ってきっと、おれが可哀想だから庇ってくれてたんですよね』