主人公の友達   作:quiet

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06話(後)

 

 

 途中から、電話の向こうで声が聞こえていた。

 千鶴のものだけじゃなく、嶺一のものもだ。

 

 スピーカーから聞こえる音の感じが、突然変わった。古い電話機から響いていたくぐもった音が、急にはっきりする。

 

 訝しむ時間もなかった。

 

『メグル!』

 

 誰の仕業なのか、その一言でわかった。

 イルだ。

 

『あのね、今――』

 

 千鶴と嶺一が言い争う合間を縫って、わたわたとイルが状況の説明をしてくれる。多分、向こうには聞こえていない。イルが何らかの方法で、電話回線に上から乗り込んでいる。

 

 揉めているのだ、と彼女は言った。

 

 ダンジョン庁から、いつものように呼び出しがかかった。指定された座標に飛んだら、小学校があった。ダンジョンの中に小学校みたいな文明があったんだよって話じゃなくて、現実にある公立の小学校で、なんか普通の場所とダンジョンが半々みたいになってて、でもこれはダンジョン化が進んでるからただのハリボテだよ壊しても平気だよってサンジョーさんたちは言うんだけどリョーイチは信じらんないって暴れてて、

 

『――負けちゃいそうなんだけど! ど、どうしたらいいと思う!?』

 

 おれがそっちに行って倒すよ、とか。

 そういう格好いいことは、言えなかった。

 

 電話機からは、ずっと激しい戦闘音が聞こえていた。イルが説明する間も、千鶴が自分たちに言葉を叩きつけている間も、ずっと。奇妙な状況だった。だって、こっちは何ともない。八坂家の周りは、どころか祭台市を含めたこのあたり一帯には、警報すら出ていない。どういうわけなのか、今回はニュースにすらなっていない。東京までは地続きで続いているはずなのに、テレビの中のフィクションみたいに、電話機の中にもうひとつ別の世界があるみたいに、こっちとそっちで何かが途切れている。

 

 千鶴が言うことも、そうだった。

 同じ学校にいて、同じ部屋にいて、同じものを食べていたはずなのに、知っているものも、感じているものも、全く違った。廻の生活とは何も繋がっていない場所があって、今、それを目の前で広げられた。

 

 だから、言えなくなった。

 

 一度はそれで解決できたのだから、今回もイルに自分を呼んでもらって何とかしよう。そういう気持ちが、なくなった。思ったからだ。あのとき、自分としてはすごく頑張った。やれるだけのことどころじゃない。やれる以上のことをした。そんなのは、勘違いだったのかもしれないと。千鶴の言葉を聞いているうちに、そう思えてきた。余計なことをした。そのせいで歯車がおかしくなった。もっと周りに気を遣うべきだった。見え方を気にするべきだった。

 

 勝手なことをするべきじゃなかった。

 イルもそう感じたから、『こっちに来れる?』ではなく『どうしたらいい?』と訊いたのだと思う。

 

 そして、状況は何も好転しない。

 

 千鶴が言うべきことを言って、何も解決しない。嶺一も、言いたいことを言い返す。交渉は決裂し、戦闘は続く。こちらからは映像も何も見えないけれど、少なくとも何の歓声も聞こえてこない。イルもまた、きっと通話の余裕をなくしている。もう声は聞こえなくて、世界の『こちら側』には、ただ静寂が訪れている。

 

 もしかしたら、放っておいてもいいのかもしれない。

 そう、電話の前で廻は考えた。

 

 嶺一は、ここからものすごく頑張って、自力で何とかするのかもしれない。イルは、電話回線に乗り込んできたみたいな奥の手をまだ持っていて、いざとなったらそれを使ってくれるのかもしれない。あるいは千鶴は――ダンジョン庁という巨大な国の機関は、この状況まで織り込み済みで、新兵器でも何でも投入して、ふたりが苦戦しているギガメムも、あっさり倒してしまうのかもしれない。

 

 別に、自分は関係のない人間なのかもしれない。

 千鶴が言うみたいに――出ていってくれるならさっさと出ていってほしい、無関係な、余計者なのかもしれない。

 

 

 

「先輩ってきっと、おれが可哀想だから庇ってくれてたんですよね」

 

 それでもわざわざ口に出したのは、相手が、今日初めて会った人ではなかったからだ。

 

 

 

 返答は、ない。

 伝わっているのだろうか。不安になって廻は、もう一歩歩み寄る。電話機を前に屈み込むような格好で、続ける。

 

「嶺一は今、ああ言いましたけど。おれは……自分では、先輩が言うこと、よくわかります。おれ、あんまり信頼ならないですよね」

 

 ゆっくりしている時間も、きっとなかった。

 だから廻は懸命に、懸命に思い返して、間違いのないように伝える。伝わるように、言葉にする。

 

「最初に会ったときは、倒れそうになってたし」

 

 それは、春の入学式から。

 

「あれって、多分先輩は、あの頃からダンジョンに関わってたんですよね。偶然じゃなくて、元々そういう……なんだろう。背景込みで、同情して近付いてくれたっていうか」

 

 入学して、最初の夏を越えるまで、何度も廻の頭を過る考えがあった。

 

 もう、やめてしまおう。

 

「おれ、今でもそんなに変わらないですけど、ずっとくよくよしてて、落ち込んでたし」

 

 あの頃は、不安に突き動かされていた。

 

 想像できなくて、外に出た。このまま家の中で丸まっていたら、自分はどうなるのか。どう終わるのか。どう続いてしまうのか。それを振り切るために、外に出た。

 

 けれど、そうやって出ていった先では、その不安の原因が待っている。

 

「暗いし、喋るの下手だし。先輩しか友達がいなかった……友達だと思ってるのが、先輩しかいなかった時期もあったし。生命力みたいなもの、全然なくて」

 

 最初は、視線が嫌だった。

 そのうち、視線を浴びる自分自身が嫌になった。

 

 そういう意味じゃないと、わかっている。祭台一高は穏やかな校風だったから。でも、視線の温度が変わっても、視線を浴びる自分自身の温度はずっと変わらない。何度も思った。この場所から逃げ出したい。

 

「なのにいきなり首突っ込んだり、周りのこと疑って動き回ったりし始めて、そういうのが信用ならないっていうのは、それはそうだと思います。でも――」

 

 逃げ出して辿り着いた先でも、まだ逃げたがっている。

 途方に暮れて、成す術もなくて、進むことも引くこともできずにいる。膝を抱えて、うずくまって、とにかく自分自身から逃れたくて、目を瞑る。

 

 目を開けた先に、千鶴はいた。

 

「そんな奴のこと、ずっと気にしてくれてましたよね」

 

 それからは、魔法のような日々だった。

 

 何か、劇的なことがあったわけじゃない。ただ、もうひとつの逃げ場所が手に入った。困ったときに、隠れる場所が手に入った。いつの間にか、その場所にもうひとり誰かがいることを許容できるようになる。人が扉を開けることに、怯えなくなる。どこでどう切り替わったのか、廻自身にもわからない。理科室が家庭科室に変わって、下校を急かすチャイムを惜しむようになって、

 

 いつの間にか、また笑っている自分に気付く。

 

 とても些細な、ありふれた、けれどかつての自分には想像もつかない奇跡だった。

 

「仕事なら仕事でもいいんです」

 

 そこまでしてくれたのには、何か理由があったのかもしれない。

 今電話越しに聞いたみたいな、自分には想像もつかない、壮大な理由が。それでもいい、と廻は思う。

 

「先輩が言ってることも、当たってるところはすごく多いと思います。でも……」

 

 それでもいいのに、言った。

 

「今、必要以上に自分を悪く見せようとしてませんか」

 

 口にした自分でも、これが惰性なのか未練なのか、それとも何かの決意なのか、わからない。

 

 何となくの言葉でしかない。千鶴は、全てを明かしたように見せている。見せているだけで、本当のことじゃない。あのファミリーレストランの夜に感じたのと同じ違和感が今もあって、だから廻は、そうやって彼女に問い掛けた。

 

 勘違いかもしれない。

 

 今まで千鶴が見せてくれた顔の全ては偽りで、今口にしたことが彼女の全てで、違和感なんて、自分の妄想かもしれない。何も確かなものはなくて、永遠に続くことなんてなくて、これからもずっと、こういうことを繰り返していくのかもしれない。

 

 それでも、行けるところまで行こう。

 

 鼓動が速くなって、胸を押さえる。

 静かに静かに、息をする。

 

 そうして廻は、千鶴の答えを待っていた。

 

 

 

 

 

 

「おじいさんの後を継ぐのは千鶴ちゃんかもねえ。ほら、今は女の人の時代だから」

 

 どうしてあんなに空々しいおべっかで自分が喜んでいたのか、今になると千鶴は、何も理解できない。それでも多分、今の自分を作ったのはそういう嘘臭い言葉の数々で、それがときどき、ひどく憎らしくなる。

 

 千鶴は、政治家の家系に生まれた。父方の祖父は衆議院で数十年の禄を食んだ妖怪みたいな男で、父はその秘書。父方の祖母は地元の知事の娘で、母は東京に本社を置く巨大商社の取締役の娘。新年になるとやたらに巨大なパーティにいくつも出席して挨拶周りをさせられるのを、普通のことだと思って生きてきた。

 

 どうやら自分の頭は良いらしいと気付くのに、そう時間はかからなかった。

 

 無数にやらされた習い事のうち、もっぱら頭を使うものだけ教師からの受けが良すぎる。家の方針で私立受験の予定はなく、地元の公立に進むことは決まっていたけれど、父母はこれ幸いと大層な期待をかけた。国際科学オリンピックに関連する問題集を突然ポンと渡される。わからないのも腹が立つ。解くために必要な書籍を次々注文して、片っ端から読んでいく。両親がついていけない話を始めるまでに一ヶ月。大学受験の心配が一通り要らなくなるまで、一年と少し。

 

 自分は特別な人間だ、と思っていた。

 自分でそう思うだけではなく、周りにもそう思われていた。

 

 教室の隅に並べられた児童書の主人公や、漫画のキャラクターになぞらえられたのだって、一度や二度の話ではない。けれどそのころ千鶴は、むしろ児童書の隣にあった伝記の主役に自分を重ねていた。家系も手伝った。自分は『そう』なのだと思っていた。もちろん、人当たりだって悪くない。あらゆる分野に精通するには時間が足りないと気付き始めるのも早くて、それなら、後はどれを選ぶか。学校生活を万全にこなしながら、そういうことに悩むばかりの日々だった。

 

 そして、それは現れた。

 何をするかは、決まった。

 

 中学二年生のときだ。世界情勢は、一気に混乱に陥った。どのニュースもそればかりで、どの紙面もセンセーショナルで、とても現実の出来事とは思えない。だから、千鶴の胸は躍った。自分のための舞台だと思った。ダンジョン条約の都合で、日本国内ではミスティックに関する情報を多く得られる。それを引っ張って、ミスティックを素材とした半導体の理論的なモデルをいくつか作って、論文に仕上げた。苦戦したのは最初だけで、やり方を覚えれば二つ三つと仕上がって、論文博士まで取れた。中学生で博士号。ステータスとしてはなかなかに思えて、満足で、だからふと他に目をやる余裕ができた。

 

「この国は、ダンジョンに関してどういった将来像を描いているんですか?」

 

 親戚の集まりで、千鶴は祖父に訊ねた。

 特に、何か確固たる決意のもとにそう訊ねたわけではない。何の気なしだ。博士号の件を褒められて、それでも社会勉強のために公立高校に進みますと告げてまた褒められて、気分が良いからもう何往復か会話してやろうと、敬老精神を発揮した。ただそれだけ。

 

 けれど、全く気になっていなかったわけではない。

 その論文博士が取れたのも、一種のバブルに乗った結果だったからだ。ダンジョンは出現したばかりで、ミスティックも研究の俎上に乗って間もない。各国は巧遅より拙速を尊び、あらゆるアイディアが求められ、巨額投資の一環であるかのように、そうした学位が報酬として乱発される。その上、それからたったの一年後にアメリカ合衆国が国連を脱退して本格的な鎖国政策に舵を切ったことからもわかるように、次は知識の独占が始まった。どこがどこまで、何を進めているかわからない。外交ルートも混乱を極め、国際情勢はゲームチェンジの色を滲ませ始めている。

 

 訊けば、何かしら自分の糧になるだろうと思っていた。

 

 それからの恐怖の十分間が、千鶴を決定的に変えた。

 

「おお、それはな……」

 

 からかわれているのかと、最初は思った。

 

 元々、高齢のくせして武闘派で知られるような祖父だ。自分も中学生になって、とうとう対応が変わったのか。めちゃくちゃなことを言い出して困らせてくるような、しょうもないコミュニケーションを取られるようになったのか。仮にそうだったとしたら、どれだけ心が楽になっただろう。

 

 自分が舵取りしているはずの船の大きさを、十倍も二十倍も勘違いしてるような言葉ばかりが祖父の口からは出てきた。

 

 日本の技術力で、日本の研究力で、日本の、日本の、日本の。他国が抱えているダンジョンの大きさの見当すらついていないのに、あたかも自国が最大のものを持っているかのように喋る。何十年も前の栄光を、いつでも取り戻せるかのように語る。誰でも思いつく基本の手を、あたかも自分だけが知る最終手段のように話す。ニュースを流し見しているだけで手に入る、専門家の基本的な認識が、全然頭に入っていない。

 

 挙句の果てには、「ダンジョン条約を結んだのは間違いだった」なんて今更取り返しのつかない後悔を口にして、そのくせ挽回についても、条約を活かした国際協力の枠組みに関するヴィジョンも、具体的な取り組みも、何も出てこない。

 

 正直に言う。

 千鶴は、ビビった。

 

 直感を否定したくて聞いてまわって、調べ尽くして、結論を出して、怖くなった。

 

 自分がやらなければ誰も、何もしてくれないのだと気が付いて、飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 その結果がこれだ、と。

 千鶴はぼんやり、モニターを眺めている。奇妙なくらいに冷静な思考が、あるいは麻痺してしまったような、夢でも見ているような、何もかもが他人事のような、そんな分析が彼女の頭の底を冷たく走っている。

 

 問題は、なかった。

 強がりではなく、客観的に見て、そう思う。

 

 確かに揉め事は起こっている。トラブルに発展している。けれど、解決の道筋は依然としてはっきりと見えている。クリムゾン・スパークは、このギガメムとのたっぷりの戦闘データを提供してくれた。クロガネが到着すれば、適切な手順でクサナギを放って、それで終わりだ。速度差は明白だが、真田の技量ならまず外すことはない。むしろクロガネの輸送ルートが市街地を突っ切っていることの方がどう考えても問題で、その後処理を思うと頭が痛くなる。痛くなるが、少なくともこの場は切り抜けられる。

 

 だから、放っておけばいい。

 

 むしろ、万々歳だ。素性不明の非敵性メムなんて、長期的に、安定的に運用できるものではない。それに、上手くいけば『クリムゾン・スパークを破ったギガメムを、国産のEロボが撃破した』という物語ができる。これが予算取りでどれだけのアドバンテージを生むか。他国に対する牽制になるか。この国の価値も、特装室の重要性も、一気に跳ね上がる。やれることが格段に増える。

 

 

『――今、必要以上に自分を悪く見せようとしてませんか』

 

 だというのに、こいつは一体何なのだろう。

 

 

 さっさと通話を切ればいい。頭では、千鶴はそうわかっている。ここ数日そうしてきたみたいに。今の政府関係機関がみんなそうしているみたいに。知らないふりを決め込んで、高い場所から指図する。

 

 そうやって、鼻であしらってやり過ごせばいい。

 

「――どういう意味か、わかりかねます」

 

 それができるなら、今頃千鶴はこんなところにいないで、普通の高校生をやっていたはずだ。

 

「伝え方が悪かったということでしたら、すみません。事態が差し迫っていたので、率直にお伝えしました」

『先輩の言うことなら、何でも聞きましたよ』

 

 応じれば、廻は重ねて言った。

 

『この間、白幡さんに会ったときに言われました。信頼できる人に相談すべきだって。そのとき、一番最初に浮かんだのは先輩の顔でした』

 

 はっきり言う。

 

 千鶴は、この後輩が嫌いだ。

 

『先輩が最初から立場を説明して、協力してほしいって……逆に、何もしないでほしいって言ってくれたら、おれはそのとおりにしました』

 

 最初に会ったときから、ずっとそうだ。

 

 顔は、元々知っていた。初めてこの国にダンジョンが現れたときに巻き添えになった、可哀想な男の子。知っていたけれど、気にも留めなかった。だって、大した怪我もなかったのだし。死んだわけでもなければ、何か重要な手がかりを持って帰ってきたわけでもない。事件の添え物。一応名前がついているだけの、負傷者一。どうでもいい。関係ない。気に留める価値もない。

 

 それが、目の前に現れた。

 世界で一番ぼくが可哀想なんです、みたいな顔をして。

 

 不吉な予言みたいだ、と思った。自分のこれからの未来と、ほんの少し形が重なったから。ダンジョンに触れただけで、こんなことになる。箱を一番最初に開けたせいで、大したことは何もしていない癖に延々と名前だけが独り歩きをして、苦しんで、そういうことが自分の未来にも待ち受けている気がする。これから何が起こるのかを端的に表しているようで、大事な日に目の前を横切っていく黒猫みたいで、辛気臭くて、目障りで、消えてほしかった。

 

 そんなものから目を逸らしていられるなら、やっぱり千鶴は、こんな場所には座らずに済んでいたのだと思う。

 

『どうして、一番簡単な解決法を取らないんですか。今だって――』

「どうしていちいち首を突っ込むんですか?」

 

 遮って、言った。

 

「前から疑問でした。卯井さんは、どうしてこの話に巻き込まれようとするんですか。だってあなた、関係ありませんよね?」

 

 弱虫のくせに。

 強く、千鶴はそう思う。

 

 ニュースを見ないと言っていた。テレビも新聞も、どころかネットすら見ない。携帯を持たせるのに半年かかった。世界中の全てを怖がるみたいに逃げ回って、何も見ようとしない。自分が嫌いな人間、そのものだ。

 

「始まりはイルさんと、広めに見ても八坂さんだけでしょう」

 

 誰も、向き合おうとしなかった。

 誰も、責任を取ろうとしなかった。

 

 そのせいでどんどん自分の肩は重くなる。考えなしの代償をひとりで支払わされる。憎い、とすら思う。そのくせ、こんなところで牙をむく。腹が立つ。イライラする。大人しくしていたいなら、ずっとそうしていればいいのに。疑うな。嗅ぎまわるな。余計なことをするな。表舞台に出てくるな。

 

 お前なんて、

 

「あなたは、何も関係がないのに」

 

 ずっと、あの隠れた部屋の中で――

 

 

 ――大袈裟ですよ、オムライスくらいで。こんなの誰でも……。

 ――あ、いや。先輩を馬鹿にしたわけじゃなくて。

 

 ――……あの、他に。

 ――他に何か、ありますか。食べたいもの。

 

 ――え、ケーキ。

 ――……いや、作ったことないんで、わからないですけど。

 ――……じゃあ。はい。

 

 ――美味しくできたら、また食べてください。

 

 

 

『友達のことは自分のことだって、思いたいからです』

 

 廻は、言い切った。

 

 

 

『友達が、危ない目に遭っているのが嫌です』

 

 ガキだこいつは、と千鶴は思う。

 

『友達が、信じられる相手がいないって困ってるのが、嫌です。嶺一とイルのことだけじゃなくて、先輩のことも、そうです』

 

 嫌だ嫌だと言うばかりで、何の中身もない。それで物が解決してくれたら世話はない。そうならないから、こんな世界になっている。

 

『確かに、おれも嶺一も、考えなしです。イルだって、何も覚えてない。将来的には、確かに先輩が言うみたいな形がいいんだと思います。……でも』

 

 だというのに、妙に芯のある声で、恥じらいもなくこいつは言う。

 

『それまでだけでもいいんです。もう少しだけ、おれたちのこと信じてもらえませんか』

 

 こんなのは、話のすり替えだ。

 千鶴には、もちろんわかっている。

 

 信じられないと、最初に言ったのは嶺一の方だ。自分が信じたところで、何が変わるというのか。自覚のある考えなしの、どこを信じろというのか。そうやって主体的に事件にかかわることの意味が、お前ら全員、本当にわかっているのか。ダンジョンに迷い込むのとは訳が違う。人の言いなりで事情も知らずに身体を張っているのとも、全然違う。責任の量も、質も、何もかもが違う。大した覚悟もないくせに。たまたまそこにいただけのくせに。ただの子どものくせに。あの小さな部屋で、誰の目も届かない場所で、能天気にずっと私のことだけ考えていればよかったのに。要らないことをして、歯を食いしばって、痛めつけられて、

 

 そんなのは、可哀想だと、

 

「――室長」

 

 考えていた人間が、きっと、もうひとりいた。

 

 手が、温かくなった。いつの間にか千鶴は、自分の視界がひどく狭いものになっていたことに気付く。デスクの上に置いた自分の手すら、目に入らなくなっていた。

 

 今はそこに、もうひとつ、他人の手が重ねられてる。

 

「大丈夫です」

 

 佐藤すみれの手だ。

 

 ひどく遠慮がちな手つきで秘書は、室長の手を取っている。ふと、千鶴はその手に走る痛みに気が付いた。白くなるほど固く握られていた。手のひらに爪の先が刺さって、小指の側から血の糸が細く流れ出していた。

 

 それを佐藤の手が、優しく力を込めて解いていく。

 

「大丈夫ですよ」

 

 一体何が大丈夫なのか、千鶴にはわからない。

 

 状況は何も変わらない。大丈夫なところなんて、この世にひとつもない。今だって綱渡りの最中で、これまでもこれからもそうで、神経は張り詰めて、疲れ果ててしまって、

 

 だから、

 

「……最初から、言っているとおりです」

 

 その綱を一緒に渡ってくれていた人の言うことに、心が、揺れてしまった。

 

「ダンジョン化の影響で、周辺の構造物にも被害は及びません。仮に出たとしても、すでに防災庁のチームに声掛けして、避難は完了させています。……今この場所で仕留められるなら、人的被害は出ません」

 

 フロントモニターに映し出されたクリムゾン・スパークはボロボロで、子どもが使い古したおもちゃみたいだった。

 

 馬鹿げてる、と千鶴は思う。他人を信じることなんて、とっくの昔にやめてしまった。ここにいる人間も、調査に調査を重ねて、綿密な検討を重ねて、その上で実用に足るとかろうじて認めた職員たちで、だからこんなものに、こんな降って湧いたようなものに、子どものおもちゃなんかに期待をかけたりなんて、今更するわけがない。

 

「私たちは、遊びでやっているわけじゃありません」

 

 なのにたった一言、唇から漏れ出た。

 

「だからあなたも、協力してください。誰も傷付くことのないように」

 

 

 

 

 

 

 意識は朦朧としていた。

 その一言で全てを信じられるほど幼稚でも、ないつもりだった。

 

 それでもきっと、ここしかないのだと嶺一は思う。

 

「……イル」

「う、うん!」

 

 だっせえ、と嶺一は自分で思う。

 

 ここまでやらかしておいて、最後まで突っ張る度胸もなければ、体力もなかった。足も腕も震えているし、歯肉が痩せてくるような疲労に襲われている。そのくせ、何の達成感もない。当たり前だ。何も達成していないのだから。

 

 こんなのは、駄々をこねていたのと同じだ。

 結局最後にやることは同じで、じゃあ、何だ。

 

 今の今まで必死になってやっていたことは、ただの無駄だったのか。

 

「今ので解決、したかな」

「――した! もう、めーっちゃ解決した! 大団円!」

 

 そんなことないよ、と必死になって否定してくれる友達が傍にいたから、は、と笑いにもならない息が漏れて、

 

 

 

「……しゃ。決めるぜ」

 

 クリムゾン・スパークは、もう一度立ち上がった。

 

 

 

 通信の向こうから、歓声が聞こえた。

 

『八坂くん、ありがとう! すでにギガメムの動きは――』

 

 三条が、興奮気味に何かをまくしたてる。その声のほとんどが、もう嶺一には聞こえない。どうでもいいことばかりが、頭をぐるぐる回っている。

 

 俺は結局、この人たちを信じていいんだろうかとか。イルにはとんでもない無茶をさせて申し訳ないとか。三条さんとかにも、申し訳なく思った方がいいんだろうかとか。これから上手くやっていけんのかなとか。喧嘩って、昔はどう終わらせてたっけとか。そもそも終わらせていいのかな、とか。

 

 一度芽生えた疑いの種は簡単には枯れてくれなくて、ようやく祖父が口にしていた心配の意味が、身に染みてわかって――

 

『八坂!』

 

 聞き慣れた声とともに、それは現れた。

 見れば、いつの間にかあの黒いEロボがそこにいた。格好いい声と共に、それは語り掛けてくる。

 

『心配なら、余波は俺が受け止めてやる! 思い切りやれ!』

 

 もちろん、いくら格好良くたって、それだけでは信じるに値しない。

 

 だから憧れの人に駆け付けてもらっても、見ようによってはちょっと渋い新型ロボットが助けにきても、やっぱり最後に浮かぶのは、もっと些細なことだった。

 

「――頼んだ!」

 

 考えなしの若者そのものの割り切りで、嶺一は叫ぶ。

 

 真っ赤な機体が、それに応える。軋みを上げる。悲鳴を上げる。それでも最後の最後、その手に剣が浮かび上がる。稲妻の迸るそれは、抜き放たれるだけで土を掃い、風を起こし、途方もない電気を帯びて、硝子を熔かすような熱を放つ。

 

 ひとまずここは、悩みながら、疑いながら、進んでみることにしよう。

 

 一番親しい友達の顔を思い浮かべて、パイロットはそう結論付けた。

 

 だってあいつは、あの胡散臭い声を、今でも信じてるみたいだから。

 

 

 

 真っ赤な稲妻が、ギガメムを斬り裂いた。

 

 

 

 

 

 

 オペレーションルームでは、喝采が広がっている。

 

 蜃気楼の小学校には、焙られたような焦げ目がついていた。けれど、クリムゾン・スパークの出力が跳ね上がる直前、クロガネがその裏に回った。ヤサカニの力を最大限に活かして、建造物の倒壊を防いだ。

 

 仮に、あの場所に逃げ遅れた人間がいたとしても、まだ生きていることだろう。

 

 長時間の戦闘の末に至った、次善の結果。モニターに映るそれを見て、千鶴は、それを最善に変えることに決めた。

 

「佐藤さん」

「はい!」

 

 何を勘違いしたのか、手を握ったままの秘書は感極まったように瞳を潤ませて、勢いよく返事をした。

 

「小学校に人が残留していた可能性があった、としてください」

「え?」

「あれだけの時間を命令拒否していたとは、報告書には載せられません。避難完了を確かめるための間、八坂さんとイルさんは孤軍奮闘していたという筋書きで上塗りします。できれば今回のクロガネの役割も盛って、出動プロトコル効率化の予算も取りましょう。疲れているところすみませんが、素案を三十分以内に」

 

 唖然としているのは、顔を見ればわかる。

 

 それでも何も頭に入らなかったわけではあるまい。そう思うから、千鶴は佐藤の手からするりと抜ける。いまだ興奮冷めやらぬ一同を尻目に部屋を出ようとすれば、

 

「どちらへ?」

 

 と目ざとく三条が訊ねてくる。

 

「警報の共有までがいくら何でも遅すぎます。再発防止の釘を刺しておかないと。すみませんが、三条さんには現場の処理をお願いします。規定の手順どおりで構いませんので。あと――」

 

 机の上の端末は、置いたままにしてある。

 いつの間にか、その通話は切れていた。

 

「あと?」

「――八坂さんとイルさんに、医療班の手配もお願いします」

 

 返事を待たずに、廊下に出た。

 

 こっちとあっちでは、まるで別世界のような静けさだった。扉が閉まれば、この広く高い建物にひとりきりのような気がしてくる。そのまま、千鶴は歩いた。いくつものゲートに――特装室長権限の付与された――ゲスト用入館証を掲げて、通り抜けていく。

 

 エレベーターのボタンを押す。

 エレベーターを待つ。

 

 待つ間に、スマホを取り出した。公用のものではない。私用端末。大したセキュリティなんてかけていなくて、電源ボタンに指先を当てただけで簡単にアクセスできる。通知の欄に、それはずっと残っている。

 

 消さずにおいた、七件の不在着信。

 

『――もしもし?』

 

 控えめに、声は返ってきた。

 唇を開く。閉じる。エレベーターが着く。扉が開いて、閉じて、

 

『……先輩、あの、』

 

 ゆっくりと、箱はひとりで下へと降りていく。他には誰もいない。誰もいない廊下、静寂の中、永遠と錯覚するような長い長い時間の途中で、

 

『繋いでます』

 

 彼は、言った。

 

『ずっと、繋いでますから』

 

 じっと千鶴は、端末を握り締めている。

 

 

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