「だからその強制徴収やめろって! チームプレイしろよちゃんと!」
「四人のうち誰かが一位になればいいんだから、私にお金を集めるのも間違ってないでしょ」
「自我の強いフォワードかあんたは! 自由な個々人の活動が経済の流れを活発に――あ、また結婚できる」
「は!? この世界重婚できるの!?」
「いつもありがとうな、独身貴族の姉さん」
すごい盛り上がりだった。
「メグル。もうわたし借金十億くらいあるんだけどどうしたらいいかな?」
「昔カエサルって人がいて、借金しすぎて逆に立場強くなってたらしいよ」
「そんなことある?」
「ヤバ。また仕事クビになった。佐藤大臣仕事紹介してくんね」
「そんなシステムあるんですか? どこ?」
「いや、言ってみただけで別にない。でも連帯保証人になるコマンドはあるから、ちょっと選挙運動と思ってサインしてくれ」
「絶対嫌です」
「メグル」
「ごめん。多分社会的信用の値低くてそのコマンドない」
「いや政府に陳情して徳政令出してもらうから署名だけして。それか一揆の頭数になって」
『人生ゲーム~ライフ。それはスリル。~』は二〇三二年発売の家庭用ゲームで、主にそのドラマティックなイベントの数々で特に配信者界隈で人気を博した。
九〇年代の美少女ゲームを思わせるどこかレトロなタッチから繰り出される恋愛関係のもつれと刃傷沙汰はもちろんのこと、旅行先で太古の神々の怒りを買いマイホームの洋館を舞台に連続殺人事件が起こる、UFOに連れ去られてからというもの金属探知機を突破できず外交官としての仕事を失う、突然全員タイムスリップして戦国国盗り合戦にゲームチェンジする等、予測のつかない展開が魅力の作品で、制作陣は「仕事中は一滴も呑みません」とインタビューに語る。
確かに面白い、と廻も思っていた。
久しぶりにゲームをしたからというのもそうだけれど、起きるイベントがいちいち派手で飽きない。デパートの福引で当たった旅行券で地下帝国送りになったときはどうなることかと思ったけれど、帝立地底大学で社会基盤の学位を取得するとインフラ関係の事業で莫大なメリットが手に入る等、その先のプレイングにも幅が出て、偶然と堅実が織りなす人生の妙を味わえる。今は北海道から沖縄までを通貫するリニアの建設中で、同窓会に行けず、結婚が遅れている。段々操作キャラクターの精神状態が落ち込んできたので試しにアイドルライブでストレス値を緩和しようとしたところ、財布にスリップダメージが入るようになってしまった。
人生は、なかなか難しい。
まあでも今は、そういう問題じゃない。
「おい警察の強制捜査であんたの会社吹っ飛んでんじゃねーか! メガコーポがぶっ壊れて大不況来てるぞ! 大不況!」
「そっちこそさっきから流言ばっかりやって相場の操作するのやめてくれる!? 不動産以外全部紙クズになってるんだけど!」
さっきまで全敗だったというのもあると思う。
案外ふたりにとって、こういう敗北続きの状況は珍しいものだったのかもしれない。いざとなれば、何とでもできてしまうようなふたりだから。いつの間にか嶺一は普段自分と遊んでいるときのような熱血の調子を取り戻しているし、千鶴はもう、廻ですら見たことがない領域に突入している。
初めの頃、廻は気を張っていた。
盛り上げなくちゃ。第一戦目の卓球からそう思っていたし、多分、イルもそうだ。ふたりで思い切りはしゃいで見せていたし、観客席から声援を飛ばしたりもした。
けれど、今となっては段々と。
そう、段々と――
「廻おい! 地下にリニア乗り入れて地盤沈下させるのやめろ! 俺の不動産が――」
途中で、嶺一の言葉が止まる。
目が合っている。驚いた顔をしている。
「何?」
「いや、なんかめっちゃ笑ってるから……」
やっぱりそうだよな、と廻は思っていた。
初めからこの懇親会の成功は、決まっていたのだ。
嶺一は、憂鬱だと言っていた。何をさせられるかわかっていたからだ。それでも、この場に来てくれた。
千鶴は、海に行くのは許可できないと口を出した。けれど、それだけでは終わらなかった。代案を出してくれたし、そもそも不許可の理由だって、ちゃんと筋の通ったものだった。
結局、それが全てだ。
胡散臭いジンクスなんかと同じような種明かしが、ここにはある。高校の文化祭で朝から晩まで一緒にいてキャンプファイヤーの前でふたりで踊って美しい桜の木の下で告白できたら恋が叶うとか、そういうの。そんなことができる時点でもう大体結果は見えてるだろと、望みのない者たちがむせび泣くようなしょうもないやつ。
同じことだ。
仲直りの場に、ふたり揃って顔を出してくれた。
それだけでもう、目的なんて達成されているのだ。
「――何でもないよ」
でも、それを口に出してしまえば、かえってこじれてしまうだろうから。
廻は、笑顔の奥にそれをそっとしまい込む。水を差すことはない。ふたりとも、物心もつかない子どもじゃないんだから、何もかも手取り足取り言葉にする必要はない。
同じことを、イルも考えていたのかもしれない。
ふと隣を見ると、目が合った。
微笑み合う。人差し指を、唇の前に立ててみる。
同じことを、彼女もした。
◇
灯りで、うっすらと目が覚めた。
「ん……」
瞼を開けると、天井はまだ暗い。今は何時だろう。携帯を枕元に置く習慣がない。時計を探す。探しながら思い出す。テレビの前に置いてあったけれど、そうだ。確か乾電池が入ってなくて、ずっと同じ時間を指し続けている。六時七分。見ても、大した意味がない。閉めた障子の方から、妙に明るい光が漏れ出ている。隣で布団を蹴っ飛ばして寝ている嶺一の姿も、しっかりと目に入る。エアコンがぐおぐおと音を立てていて心地良い。浴衣の裾がはだけて、ちょっと寒い。
障子の向こうから、何の明かりなんだろう。
カーテン、閉めておこうか。
廻はのっそり起き上がる。障子を薄く開けると広縁……あの旅館にありがちな、小さな椅子と机とテレビが置かれたスペースに続く。
真夜中の海があった。
波の揺れているのがはっきりとわかるのは、水平線の向こうに、月でも星でもない光源があるからだ。
身体を滑り込ませるように広縁の中に入って、障子を閉じた。椅子に膝を置きながらカーテンを掴んで、閉めるまでの少しの間に、夜だからだろうか。少しの感傷が湧いてくる。
この場所も、随分と変わった。
たかが四年前の、たった一日と比べて、廻は束の間、この窓からの景色を眺めた。
だから、そこにいるのに気が付いた。
「――イル?」
「メグル?」
誘われるように出てみると、イルはまだそこにいた。
もう夜も遅いというのに、昼に見た姿のままだった。浴衣を着て、けれど編み込んだ髪はもう下ろしている。白い髪を夜風になびかせて彼女は、堤防の上をサンダルで歩いている。
誰もいなくなった街の夜だから、風と波の音ばかりが、妙に耳に響いている。
「窓から見えたから。何してるのかなと思って」
本当は、心配で出てきただけだ。
大丈夫だろうとは思う。調査を担う特装室の面々が、「ここには立ち入らないように」という知らせを自分たちによこさないわけだから。きっと、こんなところを無防備に歩いていても、かつてのように急にダンジョンに迷い込むことはないはずだと思う。
心配のしすぎだとわかっているから、はぐらかして答えた。
「泳ごっかなーって思ってたんだ」
そんな内心の機微なんて、イルが知る由もない。
あっさりと彼女は答えた。
「チヅルに止められて、お昼は海、入れなかったでしょ? 夜なら涼しいかなーと思って、リベンジ」
だったんだけど、と続くから、廻もうるさいことは言わなくて済む。
「夜の海って、ちょっと怖くない? ビビっちゃって、お散歩に切り替えたとこ」
そりゃそうだ、と思う。
向かってくる灯りは、そりゃあ多少はある。けれど、背負う灯りは何もない。その上、向かってくる灯りだって、まさか街を昼のように照らし出すような、凄まじいものじゃない。懐中電灯なしで歩けはするけれど、それくらい。祭台の街灯のある夜道と大して変わらない。海に入って、波に足を取られてひっくり返ったりしたら、もう上も下もあったものじゃない。
泳ぐなんて、もってのほか。
「でも、メグルが来てくれたなら挑戦しちゃおっかな」
わかっていて、イルも言ったのだと思う。
浴衣の襟をちょっと引っ張って、
「どう? 今、下に水着着てるんだけど。ちなみにね、めっちゃセクシー」
「それは……反応に困るかも」
素直に言えば、あはは、とイルは明るく笑った。
「だよね。困んなかったら言わないもん」
言いながら、イルは堤防の階段を下り始めた。
え、とだから廻も驚く。階段の入り口に立って、手すりを掴まえて一段一段降りる彼女に、
「ほんとに泳ぐ気?」
「泳がなーい。でも砂浜は歩きたーい」
足元気を付けてね。階段もそうだけど、ガラスとか落ちてるかもしれないから。とりあえずそんなことをイルの背中に呼び掛けるけれど、うん、と彼女は小さく頷くばかりで、聞いているのかわかりはしない。まさか上からずっと眺めているわけにもいかなくて、続けて降りる。気温から想像していたよりも、砂浜はずっと冷たくなっていた。サンダルを乗り越えて足の裏に触れた砂の粒が、真夜中の思考をもう少しだけ冴えさせた。
ざくざくと、砂を蹴るようにイルは行く。
追いかければ、自然と隣に並んで、
「ね。てか今日、めっちゃ上手くいったね!」
夜だのなんだの、まるで関係がない。
いつもと同じ調子で、満面の笑みでイルが切り出した。
「リョーイチとチヅル、すごい盛り上がってなかった?」
「ね。あのふたり、実は相性良いよね」
「ねー。ツンデレだよ、ツンデレ」
「ツンデレ?」
「気が強いし、素直じゃないし、似た者同士っていうか」
これで少しは大丈夫になったかなあ、とイルは少し不安げに零した。
だから、必要以上にはっきりと、廻は答えた。大丈夫だよ。それに、明日もあるし。
そうだね、とイルが頷く。
浜辺は長く、それからも話は途切れることなく続いていく。
ていうかわたしたち卓球上手くない、とか。あれ明日もやろうよお風呂入る前、とか。前なの? 前だよ。汗かくもん。まあそうか。明日もダブルスだよー。あれならわたしたちでもリョーイチとチヅルに勝てると思う。どうかなあ。千鶴先輩ってテニスもやってたらしいよ。テニス知らない。卓球のテーブルない版みたいな。それゲーム成立する? するよ。そっちが先……だと思うし。そういえばチヅルって話し方はどっちが素なの? 今? おれもわかんない。どっちも本当なんじゃないかな。どっちも? うん……あ。素と言えば、佐藤さんの最後の追い上げすごかったね。人生ゲーム。ね! あれ、世界を破壊してたよね。ね。容赦なかった。人生ってむなしいなー。ねー。でもスミレもタカキも、どっちも料理できないのになんであんなに必死だったんだろうね。盛り上げてくれてたんでしょ。感謝しようよ。あのヤバいカレー、どうやって立ち直らせたの? どうにでもなるよ。
カレーだもん。
「わ、」
イルが、バランスを崩した。
咄嗟に廻は、その手を取る。手だけじゃ危ないから、背中も取る。ちょっと気遣って身体を離し気味で、それでも何とか踏みとどまれた。
息を吐く。
「あぶな。大丈夫?」
「突っかけちゃった。砂……」
ちょっと肩貸して、と言われて肩を貸す。
イルが片足立ちになって、ビーチサンダルを取る。よいよいしょ、とジャンプするように振って、砂を落とす。浴衣だからものすごくやりにくそうで、手伝ってあげたい気もするけれど、過保護すぎる気もする。悩んでいる間にイルがサンダルをもう一度砂の上に落とす。履き終わるのを、肩に体重をかけられたまま、廻は待っている。
波の、砂を呑み込む音がする。
「あの光って、何?」
訊ねたとき、イルの方が海の近くにいた。
同じ方向を見る。彼女の頬の輪郭に、後ろ髪に、淡い緑色の光が透けていた。
「国境警備ドローン」
「こっきょうけいびどろーん」
「らしい」
「らしい?」
「あんまり、ここ以外にはないんだって」
淀みなく答えられたから、少し調子に乗ったのかもしれない。
廻はぽつぽつと、古い話から語り始めた。
「ここ、ダンジョンが最初に見つかった場所だって言ったでしょ」
珠ヶ浜は、順当に進めば国内ダンジョン産業の中心地になるはずだった。
東京ダンジョンから、遥かに先んじて発見された。元が観光地だっただけに、人を迎え入れるキャパシティも、態度も揃っている。沿岸部にあるために、物資の輸送にも優れる。当時初期段階で発見されたダンジョンは十近くにも及んだけれど、中でも『ダンジョン都市』としての発展がもっとも期待され、官民問わずの大開発が準備された。
けれど、
「ミサイルが落ちてきたんだって」
「――ダンジョンから?」
驚くイルの疑問に、廻は答えられない。
知らないからだ。廻だけではなく、ほとんどの人間が。
「調べてみたんだけど、ミサイルが街のすぐ近くに落ちてきたってところまでは報道されてて、そこからは何も。他の国からとか、自衛隊の誤射とか、イルが言うみたいにダンジョンから飛んできたとか、色んな説はあるんだけど、政府発表もないままだから、どれが本当かもわからなくて……」
ただ、とにかくそれは飛んできた。
飛んで、落ちて、今見ている海の向こうで、大きな波柱を立てた。その映像だけが、複数のアングルからはっきりと記録に残っている。
「それで、さーっと人がいなくなっちゃったんだって。戦争になるとか、色々噂が立って」
「戦争……」
「そのまま何だかよくわからないうちに立ち入り禁止区域になって、それっきり。あのドローンも国境警備に使ってるって説明されてるらしいけど、実際はどこの管轄なのかもわからないみたい。もしかすると、特装室のなのかもね」
「それって、チヅルから聞いたんじゃないの?」
不思議そうに訊ねるイルに、ううん、と廻は答えた。
「ここに来る前に、自分でちょっと調べただけ」
自分でも、と思ったのだ。
ついこの間の騒動で、廻もいよいよ反省した。何も知らないままでいたから、千鶴のことにも気付かなかった。知らない間に、悪い影響を及ぼした。嶺一もあのときは千鶴に相当言われていたけれど、本当のところ、あれは自分にも同じように刺さる言葉だった。
受け身になるばかりじゃなく、自分から何かをしてみよう。
そう思ったから、ニュースを見るようになった。ネットにも、多少なり触るようになった。
それでわかったのは、確かな情報というのは、思った以上に手に入りづらいということだ。
特に珠ヶ浜については、こうして封鎖された区域だけはある。手に入った情報も、どれが本当なのかわからない。それなりにこの場所の中核に食い込んでいるはずの、廻をしても。
そうなんだ、と小さくイルは呟いた。
そうしてしばらく、国境警備ドローンの明かりを、じっと眺めていた。
やがて再び歩き出せば、不思議と会話は続かなくなった。けれど、大した問題でもない。砂浜は、広大な砂漠というわけでもない。すぐに突き当たる。
終わりにあったのは、『珠ヶ浜水族館』の看板だった。
戻ろっか、と後から来た身で決めるのはいかにも図々しい。廻は足を止める。イルが看板をじっと見つめるのを、隣で待っている。
どうでもいい思い出が、ふと蘇る。
「そういえば、ここ……」
「んー?」
「宿泊学習で来たとこかも。珠ヶ浜水族館」
イルが振り向いた。
へー、と頷けば、迷いはしない。看板の表示の通りに、イルはやけに急峻なコンクリートの階段を上っていく。急なだけに、すぐ着いた。いかにも観光地らしく、その上にひとつやふたつのデパートでも立てられそうな――けれど一台も止まってはいない――広大な駐車場。ぐるりと周りを取り囲む転落防止の柵の向こうには、やはり紺色に翳った海がある。水族館本体は、暗闇の中で輪郭を薄くして、何だか打ち上げられたクジラのようにも見える。
イルが、軽い足取りでその入り口に向かっていく。
中まで覗けた。
動かない自動ドアの向こう、動かない自販機と、動かないアニメキャラクターのパネルがある。エントランスの狭さは気になるけれど、いくつも張られたポスターも、立て看板も、ガチャガチャも、在りし日の風景を思わせる。
今は、ただ暗い。
「水族館、好き?」
「結構好きかも。静かだし、涼しいし」
答えると、イルは笑った。
「ぽいね」
どこが「ぽい」んだろう、と廻は自分で自分を思う。
が、長くは続かない。ありのままを理解されていると思えば、気分は悪くなかった。
「じゃあさ。水族館に行けたりしたら、わたしのお願い聞いちゃってもいいやみたいな気分になる?」
「え?」
後半よりも、前半の方が気になった。
水族館に行けたりしたら? 確かに好きだけど、やっぱり人の多いところはなあ。でも、田舎の小さいところなら……いや。そもそも自分たちは今、そんなに気軽に出かけていい身分なのかな。普段が普段だから、全然気にしてなかった。千鶴先輩に訊いてみないと。
なんて、悠長なことを考えていたのがいけない。
イルが、入り口の扉に手を掛けた。
「――イル?」
見ればわかる。
自動ドアだ。それも、廃墟になった水族館の自動ドア。一目でわかる。
開くわけがない。
「よっ」
のに、開いた。
廻が驚いても、イルは気にしない。ぎぎぎ、と音を立てるからには相当久しぶりに動くはずの自動ドアを、一生懸命に開けていく。アニメのパネルが、じっとその光景を見ている。でも、警報機能もきっと同じくあの頃から止まったままで、誰も何も、イルのことを咎めはしない。
開き切る。
一歩、何のためらいもなく踏み出して、振り返って、
「おいで」
と、イルは笑って手招きをした。
◇
「写真をねー。撮りたいんですよ」
真っ暗な水族館の中には、当然空っぽの水槽くらいしか見るものがない。
頼りになるのは、スマホのライトだけ。廻はイルから離れないように、壁に貼られたとおりの順路を歩いていた。
「まだ諦めてなかったの、動画」
「ちがうちがう! ……いや、ちがくない。狙ってます。虎視眈々」
「……ごめんね。結構嫌かも」
「そこを何とかしていただきたく、本日はお話に参りました」
来たのはおれの方でしょ、と言えば、あはは、と暗闇の中でイルは笑った。その声が、驚くほど遠くまで響いていく。吹き抜け二階のガラス窓から差し込んでいるのは、もしかするとようやく本物の月明かりかもしれない。
青白く光るのは、きっと、壁や天井の色のせいなのだと思う。
試験管のような水槽の横を、影から逃げるように歩いていく。
「ゆくゆくはそうしたいと思ってるんだけど、まずは使い捨てカメラからどうかなーって」
知ってる?と訊かれるから、まあ、と廻は頷く。聞いたことくらいは、ある。
「どうやって使うのかは知らないけど」
「わたしもね、サンゾーに教えてもらったんだ。流出とかそういうのが心配ないやり方ってなんかない~?って訊いたら、フィルム?で撮るやつならいいんじゃないかって。でも、そのカメラって今は一個五千円くらいするんだって。三十枚くらいしか撮れないのに」
「それ、本体は使いまわせてフィルムだけ交換するとかじゃないの?」
「え、そうなのかな。でもサンゾー、腰抜けてたよ。一緒に調べてくれたとき、昔は千円もしなかったって」
だから、とイルは腕を組んで続ける。思い切って奮発して、普通のフィルムカメラ?ってやつを買う選択肢もあるんだな。かわいいのも結構あるし。見てるだけでちょっと欲しくなっちゃったし。悩まし気に首を傾げて、戻して、
海の底へと続くトンネルのように、通路がふたりを待っている。
踏み入った。
「で、これならどう? サンゾーの知り合いにゲンゾーがいるらしいから、全然知らない人にデータが取られる心配はなし。で、撮った写真は世界で一枚限り!」
どう、ともう一度イルは訊く。
どう、と訊かれても。
「……そのカメラ、イルが自分で買うの?」
「もちろん! お給料貰ってるし!」
通路は下りのスロープになって、段々と足音も静かになっていく。
本物のクジラがするみたいに、ふたりの声ばかりが壁に当たって跳ね返る。上下左右、スマホのライトが照らす先は、全てが水槽だ。きっと、水槽の真ん中を潜り抜けるチューブの中を、ふたりは歩いている。
「……別に、いいよ」
片方の足が止まった。
気付くのが遅れて、もう片方は、片方にぶつかってしまう。ごめん、と言うより早い。かえって向こうは距離を詰めてきた。下から、けれどものすごく近い距離で、覗き込むように、
「いいの!?」
と言う。
やんわりとその肩を押して、廻は答えた。
「ていうか、そのスマホで撮っちゃっていいよ」
「えっ? でも――」
「お金もったいないし。先輩が支給したスマホなら、セキュリティも問題ないだろうから」
と言いながら、廻の頭の中を掠めた記憶がある。思えば、あれも夜だった。特装室長は、こっちの携帯の中身を覗き見することもある。そこだけは変態っぽくてかなり嫌だなと思いつつ、でも、まあ、いいか。そう思う。千鶴に見られる分には、何がどうってこともない。
「……水族館効果?」
とイルは笑った。
「えー。うれしいなー。だったらもう、これからメグルにお願い事するときは毎回――」
「イル」
話は一段落ついた。
そのはずだと廻は思う。だからそろそろ、腰を折ってもいいと思う。言うべきことを言ってもいいと思う。ん?とイルが振り向く。恥を忍んで、廻は言う。
「実はさっきから、普通に怖い。暗くて人いない廃墟だし」
きょとん、とした間があった。
「――うそ!」
そして、イルはさっきに輪をかけて笑った。
「ぜんぜん――え!? 楽しんでると思ってた!」
どちらかというと、さっきまでより今の方が楽しそうな声色だった。
イルは言う。建築とか雰囲気とかそういうの良い感じだし何ならロマンティックで幻想的じゃんとか思ってたんだけどうそごめん怖かったんださっきからもしかして脅迫してたわたし全然大丈夫だよこわくないよわたしがついてるからねほーらこっち見てべろべろば~。
いや別に、と答えはするものの、
「妙にここ、涼しいし。水槽の中に住み着いた何かが出てきて襲い掛かってきそう」
「何かってなに?」
「魚の化け物とか」
あははははは、と笑った声は、洞窟みたいに深く響く。
そこまで楽しんでいただけるなら、こちらとしても何よりです。そう思いつつも、怖いものは怖い。よく平気でいられるなと思う。暗いし、広いし、妙に涼しいし。ていうか、廃墟だし。トンネルの通路を抜ければマシになるかと思ったけれど、中くらいの水槽が並ぶ開けたスペースに出たら、余計に怖くなってきた。あの向こうに見える通路の暗がりから、包丁を持った何者かがぬっと姿を現してくる気がする。そこの水槽をぐるっと回った先で、ぐにゃぐにゃで身長三メートルの奇怪な海生生物が、自分たちを待ち構えている気がする。よく笑っていられるなと思うし、笑ってくれているのが救いでもある。
「――あ」
その笑い声が、不意に止まって、
「ごめん! そっか、不安だよね! ちょっと待って。えーっとね……」
急にイルが慌て出す。真剣な声に変わる。
何だろう、とかえって恐怖が増した。嫌な想像が頭を過った。あれを思い出した。あの、友達と一緒に部屋にいたらなんかやたら外に出よう外に出ようって誘われて誘われてったら「ベッドの下に殺人鬼いたよ間違いないそういう顔だった」と人を見た目で判断するやつ。魚の化け物を本当に見つけたのかもしれない。自分がパニックを起こさないように、それとなく伝えようとしてくれているのかもしれない。
そんなわけがない、と気付いてからは早い。
思い至った。
多分、ダンジョンのことだ。何にでも顔を出してきて迷惑極まりない場所で、記憶だけれど、自分だって元々、それを心配してここまで来たのだ。イルも、もちろん自分のことを知っている。それに思い当たったとしても不思議じゃない。今ここにいてそれを思い出して不安に思っているのかもとか、思わせちゃったかもとか、そういう責任を感じてもおかしくない。
違うよ、と言おうとしたときのことだった。
「こうだ」
水族館の電気が、点き始めた。
心臓が止まったかと思った。
水族館の化け物の想像なんか、一息で頭から消え去ってしまった。
薄青い明かりが、次々に灯り始める。何かが動くと、誰かがいるのではないかと思ってしまう。飛び上がりそうになる。何が入っていたのかもわからない水槽が次々とライトアップされて、足元も照らされ始めて、ようやく視界が開けてくる。元の水族館と同程度の明るさと暗さが――きっとここ数年、ずっとそのままでいたはずの場所に、戻ってくる。
「平気?」
そして、心配そうにイルは手を握ってきた。
同世代の女の子に本気で心配される自分の弱々しさとか、情けなさとか、そういうことに対する感覚は、実のところこのとき、ずっと後ろの方に置いていかれていた。代わりに、そんなものよりずっと重要なことが、頭の中から抜け出そうとしている。
イルは、じっと廻を見上げている。
別に不思議なことじゃないのかもしれない、と思う。
だって、初めから彼女はずっと不思議な存在だったのだから。人を呼んで、ワープさせて、ロボにして、そんな説明のつかない力を持っているのだから。固く閉ざされた自動ドアを開くことなんて、きっとわけない。廃墟になった水族館の明かりを点けることができたって、何もおかしくない。
「イル」
でもそのとき、不意に、廻は気が付いてしまった。
「もしかして自分が誰なのか、覚えてる?」
何の確信もない。
けれど一瞬、意表を突かれた顔をイルはした。
ゆるやかに、彼女は目を逸らしていく。逸らした先は、空の水槽だ。クラゲのプレートがいくつも置かれているのが目に入って、もうそこに生き物はいないのに、水で満たされているわけでもないのに、ひとつひとつがライトアップされて、
「――ここ、今でも綺麗だけどさ」
イルは、答えなかった。
横顔は、何も語らない。それでもその頬を照らした青い明かりは、ついさっきあの海の向こうに見た人工灯にも重なって、
「きっと、ここにちゃんと街が残ってたら、もっと綺麗だったんだろうな」
メグル、と名前を呼んで、指先にほんの少しの力を込める。
本当に静かな、世界にふたりきりのときに使うような声色で、イルは小さく囁いた。
「戦争なんて、起きないといいね」
◇
調査は、四日間に及んだ。
バカンスも、だから四日間。
豪華賞品は実のところ、一日目に出したものだけで終わりではなかった。真田のアドバイスで遊び方はさらに広がって、午前中にはまた遊技室で景品を争奪して遊んだり。そういえばと本分を思い出したように、エアコンに当たりながら勉強に励んでみたり。千鶴は「人生の無駄だから」と言ってゲームを嫌がる割に、負けず嫌いだから一度始まるととことんやる。嶺一は「やらなきゃいけないことはどうせやるんだから今じゃなくていい」と勉強を嫌がっていたのが、横で見ていたイルの方が歴史の問題に早押しで勝るようになり、急に慌て出す。
日が暮れたら、バーベキューもした。
今度は、日中真面目に働いていた特装室のメンバーも一緒に。
しかも、これだけ仕事をしていてどこにそんな時間があったのか。三条たちは、内緒でこっそり肝試しや花火も企画してくれていた。肝試しはもちろんホテルの中で、一方花火は、今時こんなに周りを気にせずにやれるところもなかなかない。嶺一とイルは両手でススキ花火を振り回す。特装室の人たちも年甲斐もなく暴れ始めて、蛇花火とか何だとか、よくわからないものではしゃいでいる。廻の隣には、気付くと千鶴が座っていた。線香花火の火を、勝手に持っていかれる。何も言わずに隣にいるから、ちょっとだけ、気になっていたことを訊いた。本当は、と千鶴は言った。いつも穏やかでいたいし、優しい人になりたい。あっちの方が本物になってくれたら嬉しい……。そういうことを、教えてくれた。
一日だけ、雨も降った。
驚くくらいに気温が下がって、これ幸いと雨傘を手に街に繰り出した。もちろん、珠ヶ浜に商店街は残っていない。けれど、商店街の跡地は残っている。千鶴がARデバイスを使って、過去の風景を見せてくれた。お土産屋に売っていた変なTシャツ。ベンチに座って食べるお酒の味のソフトクリーム。海鮮丼店の軒下で飼われていた謎の巨大魚。足湯と団子屋。階段の先にあった神社と展望広場。一番良い場所に置かれていたイルカの像は、雨上がりに濡れて、本当に今さっき海から出てきたみたいに見える。
写真を撮ろう、とイルが言った。
いいよ、と廻は答えた。
嶺一と千鶴が驚く。大丈夫なのかよ、と嶺一が言う。うん、と答えたそのときのあの表情は、一体どういうものだったのだろう。少なくとも悪いものではないはずだと、廻は思う。
「はい、チーズ……ぎこちないって、メグル!」
思い出が、たくさんできたと思う。
撮った写真をイルに見せてもらいながら、本当にぎこちない自分の顔に自分で笑ってしまって、ああそれその顔それでいいのにリョーイチ今だよ今シャッターチャンス。俺が撮るのかよ。……。あ、チヅルが撮ってくれた。おい。そんな会話を交わしながら、笑いながら、それでもふとしたとき、廻は思う。
イルの横顔に、思う。
この時間は、永遠に続くものなんだろうか。
◇
特装室は、いつものオフィスの他にもうひとつ部屋を持っていた。
コンコン、と嶺一はその扉をノックする。返事を待つ間に、何度もプレートを確認する。襟を正す。廻もイルもついてきてくれりゃいいのに。中におっさん連中が大挙して待ち伏せしてたらどうしよう――「どうぞ」と返ってきた声に聞き覚えがあって、ほっとしてしまったことを自覚せざるを得ない。
入る。
緊張して損した。
「おつかれす」
中で待っていたのは、千鶴ただひとりだったからだ。
狭苦しい部屋だ。ダンジョン庁自体は広いのに。特装室は目立っているようで大して扱いが良くないのだろうか。エアコンこそ効いているけれど、机はひとつに椅子は二人掛けのがたったふたつ。ブラインドが下りて部屋の中は薄暗く、仕事をするのに適した部屋とも思えないが、用件を済ませるに最低限の機能だけは備わって見える。
「なんすか。個人面談って」
「鍵、閉めてもらえますか」
ちょっとビビった。
以前ほど、千鶴との距離が開いているとは思わない。懇親会まで開いてもらっておいて前と同じだったら開いてくれた人たちに失礼――というのが、嶺一なりの決着のつけ方だ。
けれど、密室にふたりきりとなると、また話が違ってくる。
はあ、と言われたとおりにして、勧められたとおりに千鶴の対面の椅子に腰かけて、
「先日の健康診断の結果が出ました」
なんだそんなこと、と肩の力を抜くには、随分と重々しい言い方だった。
一応プライベートのことだからとか、そういう雰囲気ではない。思わず焦って、身を乗り出して、
「え? 俺、どっか悪かったんすか」
「……八坂さん」
まっすぐに、千鶴は嶺一を見つめる。
何の遊びもない声色で、嶺一が全く予想しなかったことを、彼女は言った。
「あなたは、どこから来たんですか?」