「ミトコンドリアに奇妙な働きがあります」
「ミト……え?」
ミトコンドリア、という言葉自体は知っていた。
けれど、生物のテストで穴埋めするために覚えただけだ。どういうもので、どんな機能があって、自分の身体にどう働くかなんて、全く覚えちゃいない。
「ざっくり言ってしまえば、呼吸を介して有機物をATPに変え、生命活動のエネルギーを生み出す、細胞の中の小さな器官です」
丁寧に説明されても、はあ、としか言えない。
「しかしあなたの場合は、ATPの他にごく少量ながら、エネルギーに関わると推測される、特異な分子が生み出されています」
そこに付け加えられたって、何の意味もわからない。
「どう、どういう……?」
「生物の体内で確認されたことはありません。ダンジョンの土壌中で、初めて発見されたものです」
どじょう、鰌、土壌、
「ダンジョンの?」
「おそらくATPと同じく微生物がその細胞中に保持しているエネルギー媒介物質の一種……と推測しますが、当てにしないでください。今のところ、世界で誰もその分子の正確な意味を知る人はいないと思います。私も、予断を与えずにあなたに説明できる自信はありません」
わけがわからない。
だというのに、詰問するでもなく淡々と、千鶴は訊ねてきた。
「何か、この件に関して心当たりはありますか?」
「ない、」
声が上ずったのには、理由がある。
「ないっすよ。いや、え? すんません。今……」
嘘だからだ。
心当たりが、本当は、ある。
ずっとだ。イルと出会った日からどころではない。もっと、ずっと前から。ダンジョンがニュースに流れ始めたころから、本当のところ嶺一は、ずっと思っていたことがあった。
「――廻は?」
呑み込んで、つい、縋った。
「あの、あれじゃないすか。あのロボに変身してるからとか、そういうので。だったら、あれすか。もしかして病気とか、」
「念のため、卯井さんにも同じ検査をしてもらいました」
千鶴は、そんな咄嗟の逃げ道すらも塞いでしまう。
決して悪意からではないのは、顔を見ればわかった。
「卯井さんの体内には、この分子は見られませんでした。八坂さんに特異の状態です」
じっと、千鶴は嶺一を見ている。
嶺一には、何の言葉もない。
「判断が、つきかねています」
苦手な声だ、と嶺一は思った。
あまりにも真剣だったから。これならこの間の、人生ゲームで陰湿な高笑いをしていたときの方がずっとマシだと思う。
逃げ場が、どこにもない。
反抗して暴れたりする余地が、ない。
「非敵性メムとしての戦闘行動時間が、卯井さんと比較して八坂さんの方が遥かに長いのは認めます。おふたりの状態の違いがそれに起因するものであって、卯井さんもまた、変化の途上にある可能性も考えられます」
ただ、と千鶴は言う。
珍しく言い淀む。絶対に答えろ、という強い調子ではない。どこまで踏み込んでいいのか、踏み込むべきなのかを窺うように、とても慎重な、気遣いに満ちた態度で、
「……本当に、何も心当たりはありませんか?」
◇
「やっぱりコロッケだよ。ね、リョーイチ!」
「ん、おう」
起きているのに、夢から覚めた気分になる。
合宿も終わって、しばらくギガメムの音沙汰もなくて、久しぶりの八坂家だった。
場所は居間だ。中学高校と自分の部屋でひとりで過ごすことも増えていたけれど、イルがこっちに来てからというもの、嶺一はこの部屋で過ごしてばかりいる。明るくてさっぱりした記憶喪失とはいえ、同年代の女子と狭い部屋で……というのに思うところがないほど、鈍い性格にはなれない。九月になってからは、とうとうテレビも部屋からこっちに下ろしてきた。洗面所に増えた歯ブラシとコップといい、鍵付きのランドリーボックスといい、少しずつ変わりゆく我が家である。
「ほら、嶺一もそう言ってるじゃん」
「いや、絶対聞いてなかったでしょ。寝てたもん。目開けたまま」
「そんなことないよー。台風の日はコロッケって決まってるんだよね、リョーイチ?」
「台風?」
訊き返したとき、ちょうどよく風が吹いた。
ひゅおおおお、と動物の悲鳴のような声がして、窓と、その向こうの雨樋がみしりと揺れた。わ、とイルが声を上げる。廻が黙ったまま――本当に珍しく――リモコンを取って、テレビを点ける。
『発達した台風は、今夜にかけて――』
道理で、空が暗かった。
九月半ばの午前十一時に、今にも日が沈むのではないかというくらいに空が暗い。庭木の葉は絶えず震える大気に揺れて、エアコンの効いた部屋だというのに、じっとりと冷たい湿気がまとわりついてくるような心地がする。
「今日どうすんだ。電車動いてんのか?」
訊くと、廻はイルと顔を見合わせた。
「なんだよ」
「重症だ」
「さっきその話ずっとしてたんだけど」
廻が言う。夕方から計画運休するらしいから、帰るなら早めに帰んなきゃ。冷蔵庫空っぽだからスーパーも寄っていきたいし。イルが言う。今夜は帰さないぜ、ベイビー。
「てか、コロッケパーティしようよ!」
そしてどうやら、本題はこれらしい。
「色んなコロッケ作ってさ。なくなるまで映画とか観ながら夜通し食べるの」
「拷問か?」
「夜通しはうそ」
コロッケねえ。
スマホで『コロッケ 台風 なぜ』を検索しながら、嶺一は思う。能天気な奴らだな。人がこんなに悩んでるってのに――
――検査データは、破棄することもできます。
拍子に、千鶴の言葉を思い出した。
――個人のプライバシーに抵触しますから。ダンジョン条約があっても、イルさんの素性や検査実施の有無と同じく、特装室で守ることはできます。ただ、これが何らかの変化の最中なのだとしたら、データを保存しておいた方が健康上のリスク管理になるということだけは、伝えさせてください。けれどもし、何か他に心当たりがあるなら……。
――私でも、信頼できる他の誰かでも構いません。何か心当たりや不安があれば相談を……いえ。
――『報告』を、してください。
「チヅルも呼ぶ?」
イルが言った。
「あんまり家族が家にいないって言ってたし、メグルと一緒で寂しいでしょ」
「おれが寂しいのは確定なんだ」
「え、でもこんな天気でひとりだったら不安にならない?」
「どうだろ。こっちにいるのかな……ていうか、そもそも呼んでいいの」
「いいよね、リョーイチ?」
「……なあ、廻」
答えるより先に、訊きたいことができてしまった。
ん?と廻が訊き返す。元々そういう性質だとは思っていたけれど、最近、廻の表情は前にも増してやわらかくなった。何を訊いても大丈夫な気がして、大丈夫なはずだと信じて、口を開く。
「あの先輩が『相談』じゃなく『報告』をしろって言うときって、どういう意味?」
「なんかやらかしたの?」
「なんで即答で俺がやらかした想定なんだよ」
「いや、だってそれ……」
ちょうどよく、話は逸れてくれた。
うーん、と廻は口元に手を当てて、記憶を探るように天井の縁のあたりを見て、
「『相談』だと遠慮させちゃいそうだから、『報告』で義務っぽくして言いやすくしてるんじゃないかな。それか、すごい怒ってるか。何かしたの?」
まあ、と嶺一は思う。
まあ、そうだよな。
この間の懇親会を経て……というより、その前から、実は嶺一はわかっていた。あの高飛車で陰険でキツく見える室長とやらが、あんな態度を取っていてなお、廻に慕われている理由とか。そもそもあの時期の廻をちゃんと懐かせて、コミュニケーションを取れていた理由とか。多分、その理由は自分との関係にも適用されつつあることとか。
信頼できる相手。
家に呼んでも、平気な相手。
そういう人間が、今の嶺一には何人か思いつく。その中に、千鶴も入りつつある。
「呼ぶか、室長も」
良い機会かもしれない、と思った。
「許可出た! 行くぞメグル隊員! 電話電話!」
「あ、おれがかける? ていうか嶺一、いま話逸らさなかった?」
「気のせいだ」
まあいいけど、と廻が化石みたいな携帯を取り出す。嶺一はこれを見るたびに、何だか昭和の時代にタイムスリップしたような気分になる。通話専用についていると思しき謎のボタンを押す。キーパッドの1を押しただけなのに、なぜか『千鶴先輩』と題された番号が表示される。
掛ける。
なんと、ワンコールもかからない。
「あ、先輩。今大丈夫ですか?」
『んん~……』
そして、何か聞こえちゃいけないものが聞こえた気がした。
「ちょ、イル。俺らは向こう行っとくか」
「なんで?」
「いやだってこれ……」
「今どっちにいますか? 東京かこっちか」
『なんで~……? 会いたくなっちゃったのかにゃ~……?』
「おい絶対聞こえちゃいけないもん聞こえてるって!」
絶対にヤバい。嶺一は慌てて立ち上がる。イルを羽交い絞めにしてでも撤退しようとする。
が、廻は容赦なかった。
「今、嶺一の家にいて、台風だからみんなで集まってコロッケでも作ろうって話になってるんです。先輩もどうかなって」
沈黙が聞こえた。
すごい体験だった。今まで考えていた深刻な悩みが一気に吹き飛ぶ。電話越しに、『黙っている』のが聞こえる。身体が固まる。唾を呑めない。死ぬ気がする。
そして、沈黙が破られる。
化石の携帯が、何事かの音を発した。
「今近くにいますよ。代わりますか?」
必死で首を横に振った。
人生で一番必死だったかもしれない。
「あ、なんか『やだ』って言ってます。よくわかんないですけど」
わかれよ、と嶺一は思う。本当にわからないで言っているのか、わかっていて言っているのか。後者だとしたら、急に目の前の友人が得体の知れない化け物に思えてきた。
化け物が、携帯から少し顔を離す。イルに言う。
「先輩、夜勤明けだから来ても寝てるだけになっちゃうかもしれないって」
「それでもいいよー!」
「だそうです。……はい。わかりました。いつもお疲れさまです。じゃあ、先に色々やって待ってますね」
はーい、と言って電話は切れた。
「ちょうどこっち戻ってくるから、一回家寄ってお風呂入ってから来るって」
「よーし」
「……お前、すげえな」
「? 何が」
いや今の、と言う。言っていいのかわからない。口に出すと呪われる気がする。しかし、言わないことには心の整理がつかない。
「猫語……」
ああ、と廻は頷いた。
なぜか、ふんわりと笑った。
「先輩って、学校だとあんな感じだよ」
んなわけない。
絶対に、ない。
やめときゃいいのに、勝手に頭が動き出した。凄まじい速度で、状況の種明かしを始めた。廻は多分、顔からして本当にあれが千鶴の素のひとつだと思っている。大して不思議そうでもないから、きっとこれが初めてのことじゃない。しかしあの千鶴が、元々ああいう性格で働いている人間が、あんなキャラで学校生活を通しているわけがない。つまりあの甘えん坊の猫ちゃんみたいなのは家庭科室とか理科室のみで使われてきた後輩専用の顔というわけで、かつそれを向けられた張本人は「先輩ってときどきお茶目で面白いなあ」くらいの感覚でそれを処理してきていて、まさか千鶴がそれを自覚していないわけもなく――
「――いや、俺は何も言わなかった。聞かなかった」
「え?」
武士の情け、というものがある。
武士以外も、多分使っていいはずだ。
そもそもただでさえ頭が爆発しそうなのに、これ以上余計な情報を入れたくない。本当にあの人、信じて大丈夫なのか? そこまで今更後戻りしたくはない。それ以上考えないことにして、話を元に戻す。
とりあえず、千鶴が来ることは決まった。
相談とか報告とか、それは流れで何とかしよう。
というわけで、
「んじゃ買い物今のうちに行っとくか。じーちゃん、昼――」
でかい声で呼びながら、嶺一は居間を出た。普段の山蔵の居場所は、この居間か書斎だ。台所を抜けて、トイレに続く廊下をさらにまっすぐ突っ切っていく。右に曲がって一番奥の部屋を、
「買ってくるけどどーする……って、」
覗き込んだのに、誰もいない。
開いた扉をノックするはずだった手が、途中で止まる。
「あれ、どうしたの」
「いや、じーちゃんがいねえ」
居間に戻ると、怪訝な気持ちが顔に出ていたらしい。今度は玄関の方に回ってみる。靴はある。が、サンダルがない。ということは、と結論付けた。
「ちょっと声掛けてくるわ」
「はーい」
一声かけて、外に出る。
想像していたより、風は強くなっていた。
安っぽいTシャツが、腹のあたりをばたばたと慌ただしく打ってくる。前髪が乱れて、軽く持ち上げる。気温が低くなって、普段の炎天下よりはよほど過ごしやすい。けれど、低気圧から来る圧迫感も同時にあって、少し息苦しい。
空は、一度降り出したら止まらなそうな、重たい鈍色の雲が覆っていた。追い立てられるように、早足で砂利を蹴っていく。
思った通り、山蔵はそこにいた。
家の裏で、ひとりで植木鉢だの洗濯竿だのを、物置の中にしまいこんでいる。
「呼べよ!」
「ん」
言えば、振り向いた。
そして爺さんに特有の、周りのものに大して興味がありません、な顔で物置の方にまた振り向いて、
「いいぞ。別にこのくらいひとりで」
「別にふたりでもいいだろ。見えねーのかこの男子高校生のガタイが」
そのくせ、「悪いな」とかそういうことばかりはきっちり言う。
相槌も打たずに嶺一は手伝いに入った。盆栽なんだかガーデニングなんだか知らないが、山蔵はホームセンターに行けば、嶺一が全然興味を示さないコーナーでしばらく時間を潰している。その結果がここにあり、犬と同じで、屋内に入れないと台風でどこかに吹き飛んでいってしまう。
ついでに、嶺一は言った。
「今日、廻泊めるけどいいよな」
「おう」
「んで、もうひとり来る」
反応が劇的で、むしろ嶺一の方が驚いた。
目を見開いて、山蔵が振り向いたのだ。
「――なんか、マズかったか?」
「いや、そういうわけじゃないが……誰だ?」
「室長。ほら、廻とイルが仲良いから」
その割に、それが誰かには驚かなかったらしい。
少し遅れて、ああ、と納得したように頷いた。
「んでイルがコロッケ作ろうって言っててさ。今から買い物行くんだけど、昼どーする? 買ってくるか?」
そうだな、と山蔵は頷く。金は、とポケットを叩いて、財布が出てこない。どうせどこかに置きっぱなしなのだ。レシート貰ってくるから後でな。多分総菜買ってくるから米だけ炊いといて。おう。
そんな話をしながら、薄暗い雲の下よりもさらに暗い物置の中に、脚立とかスコップとかも含めて、ひとつひとつのものを運び込んでいく。裸のままでぶら下げられた白熱電球は灯っていないけれど、徐々に目が慣れてくる。そのうち、ふと嶺一は気が付いた。
もっと小さい子どもの頃は、この物置の中にバットだのグローブだのバスケットボールだの、何でもかんでも突っ込んでいた。何でもここで探していた。
いつから寄り付かなくなったのか、覚えていない。
それでも久しぶりにこの場所に入って、思うことがある。
ここ、もっと広くなかったっけ。
「これで最後だ」
鉢植えを、山蔵が置いた。
はあ、とたったこれだけの動きで疲れ切ったように彼は額を拭う。肩を落とす。先に外に出た嶺一を振り返って、
「車出すか?」
「いいよ。ちょっとそこまでだし」
そうか、と山蔵は頷く。おう、と答えてからも、しばらく嶺一は動かなかった。
「……あのさ」
改めて言ったのに、山蔵はまるで気にも留めない。
おう、と物置を閉めながら、こっちを見もしない。だから嶺一は、かえって平静のままで言えた。
「もしかしたら今日、訊きたいことあっかも」
心当たりはあるのか、ないのか。
鍵を閉める音がする。抜いて、手に持って、山蔵がもう一度振り向く。
目が合った。
生温かい風が、ほんのわずかなその隙間を抜けていく。
「リョーイチー! 行くよー!」
誰の声なのか、一発でわかる。
表の方から、イルが呼んだ。
「あいよー!」
返事をすれば、それで区切りがついた。言うべきことは言った。そう思って、じゃ、と踵を返す。ああ、と低く山蔵も答える。
背中に、声がした。
「気を付けてな」
◇
「よ」
と真田隆輝が扉を開けると、
「もう食ってんのかい」
「おふふぁれえす」
「あれ、どうしたの」
カップ麺を仲良く啜る佐藤と三条が、そこにいた。
ダンジョン庁九階、特装室のオフィスでのことだ。
人気はほとんどない。だから真田は気軽に、臨時職員用のパスケースをぶら下げて部屋の中に入っていく。佐藤と三条のすぐ傍にある机に、手に提げたコンビニの袋を置いて、
「午前中に人と会う用事があったから、ついでに誰か引っ掛けて飯行くかと思って。これ差し入れな」
「プリンだ」
「嬉しいね~。カップ麺食べる?」
「……食うか。なんか萎えたし」
どれ、と訊ねて指差された先で、隅に置かれたバッグをためらいなく真田は開けていく。つーか何この袋。非常食。でも賞味期限近いからみんなで処理してるんです。今日で三日目。あー、俺もそういうの作らないとな。でもめんどくせえんだよな。
手に取る。
みそ。
給湯室のポットで、お湯を入れて三分。待つ間に、話し始めた。
「今日ふたりだけ?」
「日曜ですからね」
「あ、そうか」
「でも土曜の夜勤明けが実はまだ――」
「ぅわーっ!!!!!」
すごい声がした。
ぎょっとして三人でその音の元を見る。薄青いアクリルに遮られた区画で、珍しく扉は閉まっていて、『在席中』の札がかかっていて、しかも、開いた。
「あれ、お疲れさまです」
背景に百合の花でも背負っていそうな笑顔で、夜勤明けの梓間千鶴は出てきた。
「今日はどうしたんですか?」
真田は、無言で三条を見た。
「飢えてたらしくて、カップ麺を食べに迷い込んだみたいです」
「そうですか。たらふく食べていってください。うち、小食の人が多いからなかなか減らなくて」
一礼して、
「それじゃあ私はお先に。今日は実家の方に戻るので、何かあったら」
「はい」
「お疲れさまでしたー。気を付けて帰ってください」
どうも、と真田が最後に言えば、千鶴は振り返らずにオフィスを出て行った。
足音が聞こえなくなって、ようやく真田は言う。
「……大丈夫なのかよ。スーパー高校生の精神状態は」
「いやー、どうだろう……」
「でも、今日はちょっと足取り軽かったですよ」
あっけらかんとして、佐藤が言う。
「本当にひどかった時期はあんなものじゃ済まないですからね」
どういう上司、と真田が呆れたそのとき、ぴぴぴ、とタイマーが鳴る。箸、と三条に渡されたのを受け取って、
「これも良い機会と思って、そもそもの前からの疑問を言っていいか?」
「どうぞ」
「予想つくな~」
「なんでちびっこが管理職やってんの」
やっぱりね。
だと思った。
そんな相槌に、ふぇふに、と真田は麺を頬張りながら、
「ほうりょくを、疑ってるわけじゃなくて。クリパが出てきてからクロガネができるまでのスピードがありえないのはわかるし。ただ、別に管理職やる必要はないだろ。ポジションとしては八坂とかと同じようなとこの方がいい……ってか、そっちであるべきなんじゃねえの。未成年なんだから」
「ねえ」
「ほんとに」
「なんだそりゃ」
「順序が逆なんだよね」
三条が言った。
「先に特装室があって、室長がポストについたんじゃなくて、まず室長がいて、その後特装室ができたの」
「……ん?」
「室長って、政治家一族なんですよ。本人嫌がるから、あんまり話題に出さないであげてほしいんですけど」
佐藤が名前を挙げる。へえ、と真田は驚いた。俺でもうっすら知ってるぞ、と。
「で、室長がコネとか使って無理やりこの部署を作ったわけ。僕ら大人が代わりにやるべきっていうのもわかるんだけど、そもそもそんな権力ないんだよ。寄せ集めで、室長ありきの人員だから。マンションの借主名義が室長でとかじゃなくて、室長が建てた家にみんなで転がり込んでる状態なの」
「三条さんって、元は民間にいたんですっけ」
「いや、フリーからのスカウト。マジで大変だよ。会社勤めなんて一回もしたことないし。佐藤さんみたいに新任研修もないから、全部その場で手探りだもん」
「変わりませんよ……。私なんかまだ新卒三年目です、三年目」
「高校なら卒業間近だ。室長も今年で最終学年だし」
二秒、佐藤が黙る。それから箸を置いて、頭を抱えて、ぐっと椅子を引いた。わ、ほんとだ。こわ。
「……ほう」
真田も、箸を止めた。
「それは、ちょっと見る目が変わるな」
「気付いた? 実は目の前にいる公務員も自分と大して立場が変わらないって。いいよ~。全然大人の責任として室長相手に下剋上起こしても。応援する。冗談じゃなくて、本当に」
「…………」
「一応、私たちも色々頑張ろうとはしたんですけどね」
つまらなそうな顔で佐藤は、オフィスの電灯をぼーっと眺めて、
「全然ダメです。コネないし、発言権もないし」
「名門一族の天才少女って看板がないとどうにもね」
ほんとかよ、という目で真田は三条を見た。
「佐藤さんは知らないけど、お前はまずその長髪と青メッシュだろ。公務員の髪型じゃなさすぎる。本気でやるならせめて俺みたいに黒髪にしろ。黒髪」
「前は黒髪短髪だったんだよ」
「え、それ私知りません」
「あれ、佐藤さんまだ来てなかったっけ。職員証の写真とか今でも……あれ、まあいいや。そのころ折衝に行くとみんな僕の方見ながら喋ってたから、室長がご立腹でさ。特装室の天井がコネなし未経験だと思われたらマズイから印象悪くしてきてください、って」
この髪型業務命令なんだよ、と三条はメッシュを引っ張った。
はあ、と納得いったような、そうでもないような声を真田は出して、
「……この際聞くけど、あんたら良心の呵責とか起こんないわけ。俺は正直、結構思うところありつつで働いてんだけど。八坂とか、あのへんも含めて」
「あるよそりゃ」
「ありますよ……」
三条は平然と、佐藤は沈んだ声で答えた。
「何してんだろって結構思いますもん。実際うちの部署がバリュー出してるのは間違いないですけど、室長ってまだ十七歳ですよ? 大人は何を……なっさけない……」
「でもあれ、佐藤さん聞いた? 探検隊の話」
「なんですかそれ」
「陣ちゃん、憲法改正で国防軍が無理そうだっていうから、今度は探検隊で行ってみようって言い出してるらしいよ。自衛隊の名前。それでダン庁を吸収合併したいんだって」
一拍、
「――はぁああああ!? またそんなくっだらな――ばっかじゃないの!?」
おおう、とかえってその熱気に真田が押されてしまった。
「そんな情熱あんだ」
「ありますよ!」
「あるから抜けらんなくなっちゃったんだよね。正直、真田の言ってることもわかるけど。でも八坂くんとかイルくんとか、室長が横からぶんどれなかったら相当ひどいことになってると思うよ」
本当にそう!と力強く佐藤は言った。
「子どもを預けるのは子どもの下が一番安心……」
「途中で正気に戻った?」
「戻りました。何を言ってんだ私は……」
「でも実際、室長の潔癖なところって八坂くんたちを守るのに一役買ってると俺も思うなあ」
「……俺の記憶が確かなら、八坂周りのことって相当室長サンが手ぇ入れて揉み消してないっけ」
「法令順守してます」
「今、国の権力強すぎるんだよね。やろうと思えばもっとえげつないこともやれるんだけど、室長ってそういうの嫌いで、最小限で済ませようとするから」
ね、と佐藤は頷いた。怒りのあまり、早食いになったらしい。彼女のカップ麺はすっかり平らげられて、スープの油が固まり始めている。その後に開けられたエナジーバーも、すでに半分が齧り尽くされていた。
「報道規制も、八坂さん周り以外は全然です。全然」
「いや、それは嘘だろ」
真田が言った。まだ、彼の箸は動いている。
「テレビでもネットニュースでも、全然やってないぞ。ギガメムの話。詳しいところは」
「あれねえ。うちじゃなくて別のどっかが圧力掛けてるみたいなんだよ。それで各社委縮しちゃったらしくて、結構うちからは公式発表出してるんだけど、最近追加取材すら来なくて」
三条が答える。まだ、彼の箸も動いている。
「まあでも、室長のあれは時期的なものが大きいと思うな。十年後とか二十年後なら、もっとあくどいことやりそうだし」
「やりませんよ。室長は」
「僕はやると思うなあ。個人的にだけど、室長って別に今が完成形じゃないと思うよ。だってぶっちゃけ、工学の方と比べてこっちは処理能力高いだけでしょ。高速を逆走するみたいなことをしないからそれだけで優秀な感じになってるけど、それは周りがアレなだけっていうか……」
聞いておいて真田は、だいぶついていけなくなっていた。
元々、大して政治だの何だのに詳しい方でもない。公務員になる自分なんて、小学生の頃ですら思い描いたことがない。何となく肩身が狭くなったころに、
「真田、コーヒー飲む?」
「ん、」
「私もおかわり欲しいな~」
はーい、と三条が給湯室に引っ込んでいく。職階の高い方がコーヒーを淹れてくれる風通しの良い職場で、一度会話は途切れる。
佐藤が溜息を吐いた。
「すみません。熱くなっちゃって」
「いや、俺こそすみません。興味本位で訊いちゃって」
「まあでもほんと、真田さんの言う通りではあるんですよ。なんか今の体制で回っちゃってるんですけど、全然健全ではないですし……」
その後も、佐藤はまだまだ語る。ギガメムが出る前はなあなあでやってきてたんですけど、いよいよ事ここに至っては室長の負担もすごいことになってるし。できることならほんと代わってあげたいんですけど私そもそも専門職ですらないし。でも正門から入った宮仕えの総合職がそんなにすぐ権限持てるかっていうと……。
うん、うん、と真田はそれを聞く。
あーあ、と佐藤は呟く。
「なんでもっと、ちゃんとできないのかなあ……」
窓が揺れた。
「お、」
カップを三つ手に取った三条が、戻ってきた。
「今日、台風なんだっけ」
「え」
その一言で、完全に話が区切れた。
佐藤が立ち上がる。
「そうなんですか? 見てなかったー、天気予報」
「どうせ夜には低気圧に変わってると思うけどね。真田は大丈夫? 電車」
そんなにヤバいんかい、と真田も立ち上がる。佐藤と同じく窓辺に歩み寄って、外の景色を覗き見る。
すると、分厚い雲の下にちょうど見えた。
「あ、あれ室長かも」
よくわかるな、と佐藤の言葉に真田は目を細めた。
そもそも、傘を差していた。透明のもので、確かオフィスを出るときは手に持っていなかった。それなりに時間が経ったはずなのにまだあそこにいるのは、一階の売店でそれを買っていたのか。それとも単純に帰りのエレベーターの乗り換えがいつもより複雑だったか。その姿はとんでもなく小さい。佐藤がそう言うなら信じるしかない、というくらい。
それなりに降り出しているらしい。
ダンジョン庁前の広場はすでに薄黒く濡れ始めていたし、広場の向こうに止まるタクシーの列も、夜明けの昆虫のように背を光らせていた。
傘は進む。その待機車列のどれかに向かうのか、あるいは駅まで歩いていくのか。どちらにせよ、と真田はその小さな姿を見て思う。
佐藤の言うとおりだ。雇われのオペレーターのつもりでいたけれど、ここまで聞いてしまえば、他人事でいられるにも限りがある。そろそろ、と真田は思う。もちろん仕事には真摯に向き合ってきたけれど、そろそろ。
もう少し俺も――
三条が、椅子を振りかぶって窓に叩きつけた。
驚愕する時間もなかった。死角から突然猛スピードでそれは振りかぶられて、猛スピードで窓にぶつかった。一体どれだけの力が込められていたというのか、九階の分厚いガラスが割れた。細い風が吹き込む。細かい破片が散る。ガラスは蜘蛛の巣状になって向こうが見えなくなる。咄嗟に真田は佐藤を庇い、自分の顔のあたりをもう片方の腕で覆う。
三条が手のひらを窓に叩きつけるのが、最後に見える。
その先は、声だけが聞こえた。
「室長、逃げろ!」
それから、遠くで爆発音。