『千代田区で爆発です。
今日正午ごろ、東京都千代田区で「爆発があった」との通報がありました。現場では複数人がけが、また周辺の建物に小規模な火災が起き、複数台の消防車両が出動する騒ぎになりました。場所はダンジョン庁の敷地内で、駐車されていた車両が何らかの原因で爆発したのではないかと見て、警察は事件と事故の両面から捜査を進めています。
――話題の防衛大臣が、またもお騒がせです。今日、都内で開かれたファッションショーに真っ赤な衣装で登場し……』
「――あ、もしもし。タキナダくん?」
「おかーさーん。アニメにしていーいー?」
武蔵野市のマンションの一室で、白幡早絵は通話口を押さえながら、今年七歳になる我が子の季早に「声抑えて」のジェスチャーをしている。
電話中。季早は両手を口で押さえて、何度も頷く。白幡は少しだけ笑みを漏らすと、リビングを出てキッチンに立てこもった。
「ごめんごめん。リビングで話し始めたから。はは。そう、子フラ。……ショックぅ? ないない。ていうか、公表してるし。配信観てないな。言うほどタキナダくんってファンじゃないでしょ」
いやそんな、と焦ったような声が通話口から漏れ出てくる。ははは、と白幡はもう一度笑った後、真剣な声で、
「ニュース見たけど、大丈夫?」
しばらく、暗いキッチンに細い声が続いた。
時刻は午後六時を過ぎた。いつもなら焦げ跡のようにしぶとく残る夏の日が、今日の出窓からは差し込まない。代わりに降り出した雨の音がぼつ、ぼつ、とやけに重たく外壁を叩く。洗い終えたフライパンは、まだ少し水滴を残したままラックに横倒しにされている。飲み干した牛乳のパックはその隣でさかさまになって、明日の朝に開かれるのを待っている。デミグラスソースの濃い匂いは三十分程度の換気扇では消えずにまだ室内を漂い、テーブルの上には輪ゴムで縛られたコーンフレークの袋が置かれて、冷蔵庫には少し前に流行ったマスコットキャラクターのマグネットが並び、そのうちのひとつが、六月分の小学校の献立表をいまだに張り付けたままにしている。
遠くで、消防車のサイレンが聞こえた。
まさか今になって千代田区のそれがここまで届いたというわけでもないと思う。わかっていても、それは白幡にキッチンの灯りを点ける気を失わせ、自然、普段の配信よりもずっとささやかな声を出させた。
「そっか。心配したんだよね。今日、ダンジョン庁のHP更新もなかったから」
一拍、
「あ、そうそう。え、あれって日曜日も更新してるよね? ……うん。あー、そうなんだ。え、現場にいたの? えー、うん。うん。え、じゃあ大変だったね。今は? うん。そうだね、台風だし。うちの旦那も出張でさ。新幹線。そう、そうそうそう……あ、ほんと? ねー。すごい人がごった返しちゃってね。あ、ううん。そういうとこ要領良いから、途中で止まるかもって開き直って、向こうでホテル取ったみたい。そうそうそう。あ、ねー。今ホテルたっかいよねー」
うん、うん。
そっか。
あのさ、
「今更なんだけど……ダンジョンって、本当に大丈夫なの?」
◇
「大丈夫かなあ。チヅル」
何度目になるかもわからない呟きで、いよいよ嶺一はイルへの返答を省略した。ちょうどよくやかんがピーッと鳴って、わかりやすく湯が沸く。手に取って嶺一は、イルが選んだ『超必殺! 山椒たっぷり毒霧ラーメン』から湯を注ぐ。
咳が出た。
「おい、これ毒ガスみたいなの出てんぞ! ほんとに食えんのか!?」
「わかんない。そもそもそれ、何味なの?」
お前ちゃんと最後まで食えよ、と口にするとき嶺一は、どうせ最後には自分が残飯処理をする羽目になるのだろうと半ば未来を諦めている。毎回こうやって諦めるのがいけないのではないかという気は、若干する。
「コロッケ、あっためるぞ」
一方、山蔵は我関せずとばかりにさらりと逃げ出して、冷凍コロッケをレンジに突っ込み始める。
咳をひとしきり終えて、嶺一は続けて山蔵の天ぷらそばと、自分の豚骨ラーメンに順に湯を注いでいく。ここに来て、自分のだけが五分かかることに気が付いた。まあいいか、とまとめて三分でタイマーをセットしてしまう。
「お前それ半分は頑張れよ」
「全部いけるし」
拗ねたように言いながら、イルは両手で頬杖をつく。カップ麺の蓋にはシロクマのヌードルストッパーが置かれ、北極からこんな島国に連れてこられて、とんでもない蒸気熱をその腹に食らう羽目になっている。
そして、
「大丈夫かなー……」
何回目になるかもわからないそれを、イルはもう一度口にした。
もう一度、嶺一は返事を省略する。その代わりに、もう一度スマホを点灯させる。イルのように声には出さない。けれど、かく言う自分もだった。
先に、ニュースで見た。
遅れて、佐藤から電話が来た。
後のことは瞬く間だった。搬送先を聞いて、廻が先に飛び出す。電車が止まる前に何とか向こうに着く算段で、それだって上手くいくかは怪しい。だからここで、嶺一は何度も着信を確かめている。
廻は、SNSだのメッセージアプリだのと言ったちまちましたものはひとつもやらない。何をするにも電話一本。かえって豪快というか、そっちの方が気苦労が多くなるんじゃないかと嶺一なんかは思ってしまうけれど、そうなっているものはそうなのだから仕方ない。そしてあの性格だから、電車の中では決して電話に出ないはず。掛けても来ないはず。わかっているのに、嶺一は何度もそうして確かめてしまう。そのくせ無駄に格好つけて、口では全然違うことを言う。何かあったら連絡してくんだろ。それだけ。
本当は、心配でたまらないくせに。
電気が消えた。
「お、」
「えっ!?」
一瞬遅れて、音も消えた。
点けっぱなしだったテレビが、ぶつんと心配になる音を立てて切れる。回っていたはずの電子レンジも止まって、まだ目が慣れない。真夜中に壁を手探りしてトイレに向かうときだってこうは暗くない。自分の手のひらの輪郭すらもはっきりとは掴めなくて、強まる雨風の冷たさばかりがはっきりと耳に届く。
停電だった。
「レンジか?」
「いや、停電だろ」
嶺一は椅子を立った。懐中電灯だって机の上にあるけれど、スマホで十分だ。ライトを点ける。廊下に出る。玄関口、キーフックの上にそれはある。
ブレーカーのスイッチを全部一回下ろして、上げて、やはり電気は点かない。
「元の方見てくるわ」
「やめとけ」
続けて出てきた山蔵が言う。
「どうせ他のところも点いてないし、この雨だろ。折角風呂入ったのに、風邪引くぞ」
「つっても、落ちてたら復旧してもわかんねーだろ。見るだけ見てくるよ」
大丈夫大丈夫、と話を途中で切り上げた。キーフックにかけられた、赤いホルダーのついた古い鍵を手に取る。下駄箱に引っ掛けた傘も掴んでおく。一番でかいサンダルを突っかけて、外に出た。
まあ、傘は意味がなかったと思う。
扉を開けた瞬間の風の勢いで前髪は全部上を向いたし、雨は横殴りで、一瞬でサンダルごと足がずぶ濡れになった。が、そこまで悪い気はしない。過ごしやすい気温といえば過ごしやすい気温で、冷たいシャワーを外で浴びているようなものだ。それに、家の中にいるときよりは多少目も慣れてきた。
大元のブレーカーは、どういうわけか裏の物置にある。
そう長くない距離を大して急ぐでもなく歩いたのは、雨風と暗闇の中で、考えたいことがあったからだ。
宙ぶらりんだった。
まさかな、と最初は思っていた。何の気なしに触れたスマホで、見慣れた景色が『爆発』という言葉と結びついていたとき、正直なところ、そこまで深刻には捉えていなかった。あぶね。今日向こう行ってなくてよかった。セーフ。……そんなことだから千鶴とあんな大揉めを演じる羽目になったのだと、今になればわかる。
その千鶴が、巻き込まれた。
病院に担ぎ込まれて、命に別状はないが、意識が戻っていないと言う。
もちろん、心配になった。イルがあれだけ何度も同じことを言う理由も、よくわかる。自分も廻と一緒に病院に行こうかと思ったくらいだ。けれど、三人揃ってどこかで電車が止まって立ち往生じゃまずい。こんなときだからこそ落ち着いて状況を見てほしい。そういう佐藤の言葉に納得して、家に残った。
じっとしていると、わかる。
どうも自分で思っていたより、あの先輩を頼りにしていた。
親のコネだの何だの、たったひとつ年上の学校の先輩が、政府の要職に就くに至った経緯はたっぷりと聞かされた。同じことができるかと言われたら、できない。そう考えている自分が懇親会の前から存在していたことには気付いていた。屈服していた……とまで言うのは癪なので言い換えると、感服していた。それは前からだ。自分でわかっている。
ただ今は、それ以上のものを感じる。
問題を……疑問を共有できていたたったひとりが姿を消して、気勢のやり場もなくなって、身の置きどころに戸惑っている。
ようやく軒下に着いて、脛のあたりから冷たい水の流れ落ちていくのがわかる。
玄関からここまでのほんのわずかな間に、手はかじかんだ。傘を立てかけて、ぎこちない手つきで南京錠を手に取って、鍵を差し込む。妙に高い上がり框が、手堅く浸水を防いでいた。スマホのライトを取り出して、足元を照らしながら中に入っていく。一応、入り口のスイッチを押してみたりもした。点かない。こっちは元々電球がダメになっていたのかもしれない、と思う。
夜の暗い物置は、昼間に入ったときよりも幾分埃っぽく感じた。
ブレーカーが目当てだから、余計なことまで気が回る。こんなんだと火事になるんじゃねえの。掃除した方がいいだろ。でも夏じゃあな。もうちょい涼しくなったらにすっか。イルも毎日家でぐうたらしてるし、宝探しとか言えば喜んでやるだろ。
イルの顔を思い浮かべる。
もうひとつ、余計なことを考える。
「……言えなかったな」
「何が?」
心臓が止まるかと思った。
「――――お、おまえばっ」
「え?」
想像の中にいたはずの顔は、いつの間にか後ろに立っていた。
どっと汗が噴き出た。別に、見られて困ることは何もしていない。しかし通常、ひとりきりだと思っているタイミングで死角から人が現れると、心臓は止まる。
胸を押さえて、二歩下がって、
「足音殺して背中に立つなっ!」
「あ、びっくりしちゃった?」
ひゅ~どろどろ~、とイルは両手を胸の前に出しておどけ始める。実際、と嶺一は思う。本当に気配を消していたわけじゃないんだろう。自分がとろとろ歩いている間に追いかけてきたのが追いついて、雨風に紛れてその足音が聞こえていなかっただけなのだ。
「ブレーカーってどれ? これ?」
大して広くもない物置だ。
そう、と頷いてスマホを傾ければ、それで照らせる。もう少しよく見えるように奥まで歩いて、これスイッチ全部入ってない? 入ってるな。そんな話をする。どうするの。電気が来てないわけだから、後は放っとくしかねーな。そうなんだ。なんで電気が来なくなったの? さあ。どっかで電線でも切れたんじゃね。やばいじゃん。まあな。
と言ったとき、イルもまた、自分と同じく足をびしょ濡れにしていることに気が付いた。
振り向いてみると、ふたり分の足跡がくっきり床に残っている。なるほど、とそのとき思った。じーちゃんが止めるわけだ。傍から見ていると、こう言いたくもなる。
「お前風邪引くぞ、それ」
「リョーイチもじゃん。引くときは一緒だよ」
そう言われると思ったから、何の反論もない。
だな、と笑って答えた。
イルはしばらく、熱心にブレーカーを見ていた。何が面白いんだか、と嶺一は後ろからずっとそれを照らしてやっている。もちろん、その時間も延々と続くわけではない。やがてイルは振り向いて、
「それで?」
と訊いてきた。
「何が」
「何が言えなかったの?」
蒸し返すなよ、と嶺一は思った。
流せたと思っていた。流せていなかった。しかも、会話のついでという感じもしない。イルはしっかり自分を見ているし、しっかり問い質すつもりでいる。なんでだよ、と思う。余計なことばっか拾うなほんと。
「――いや、今日さ」
そういう憎まれ口で誤魔化さなかったのは、内心で、そうして訊いてもらえることを期待していたからなのかもしれない。
「全員揃ったら、ちょっと話したいことがあったんだよ」
「全員?」
そう、と頷いて指を折った。
俺と、じーちゃんと、あの先輩と、廻と……
「わたし?」
最後は、イルが自分で指を差す。
頷いた。ここに三条と佐藤と真田と……そうやって、世話になっている大人を含めてもいいと思う。思うけれど、実際のところ自分が声をかけたかは微妙なところだろう、とも思う。
この四人なら。
「なになに~?」
能天気な顔で、イルは笑った。
両手を背中で組む。肩をぶつけてくる。本当に遠慮のない奴だった。最初からずっとこの調子で、妙に人懐っこくて、気付けばずっと昔から同じ家に住んでいるような気がする。
「俺さ」
それが、理由の半分。
「もしかしたら、イルと同じなのかもしんない」
もう半分はきっと、抱え切れなくなったからだ。
イルはまだ、何も言わない。けれど嶺一は、一度堰を切ったら止まらない。
「この間の健康診断の結果、教えてもらったんだ。何だっけ。ミトコンドリア?に異常があるとか」
宙ぶらりんだったからだ。
本当は、今夜言うはずだったのに。千鶴が来られなくなったから。廻も行ってしまったから。タイミングを外した。気持ちのやり場がなくなった。胸のうちでそれは膨れて、この物置みたいにものすごく古い、埃を被ったものまで一緒になって喉に上ってくる。
「なんでとかそういうの、そのときは心当たりがないって言ったんだけど、ホントはあるんだ」
廻にも言ったことがない。
他の誰にも、自分から言ったことはない。
それを今、イルに伝える。
「俺、じーちゃんに山で拾われたらしいんだよ」
生まれたばかりだった、と聞いていた。
「この近くに八染山って山があってさ。山ってか、ちっさい丘みたいなとこなんだけど。小学生とかでもスニーカーで登れるような、まあ、お遊びの山みたいなやつ。そのころじーちゃん、そこで清掃ボランティアやってたらしくてさ。見つけたときは、心臓止まるかと思ったって」
落ち葉の中に、埋もれるように眠っていたらしい。
一言も泣かないものだからてっきり死んでいるものかと思われて、それでも警察に連絡するよりずっと先に、咄嗟に山蔵は箒を投げ捨てて、落ち葉の上に膝をついて、抱き上げて、それでようやく、まだ温もりが消えていないことに気が付いた。
「で、どういう紆余曲折があったのか知んないけどさ、それから俺も、ずっとこの家に住んでて……」
だから、ずっと思っていた。
あの日、イルに出会った日からずっと。いや、その前から。名前も知らない男の子が、珠ヶ浜で知らない世界の扉を開けた、その日から。
もしかして、自分は、
「ダンジョンから来たんじゃないかって、ずっと――」
「リョーイチ」
手を、握られた。
ふたり揃ってかじかんで、それでも驚くくらいの冷たさに、嶺一は不意に我に返ったような気持ちになる。いつの間にか下がっていた顔を上げる。
イルを見る。
微笑んで、彼女は言った。
「それって、こんなところ?」
嵐の中に、投げ出された。
そこからは、ほんの数秒の出来事だ。
激しい雨と風をもろに顔に食らった。けれど、それ以上の衝撃がある。いきなり目の前の光景が切り替わるというのは、相当の混乱を脳にもたらす。頭が真っ白になる。目の前にある形が何も掴めなくなる。かろうじてイルの顔を認識し直して、そこまでできてからようやく順番に、目に入ったものの意味を捉えることができる。
見覚えがあった。
いつの間にか針を止めてから、誰も手入れをしていないポール時計。木材の随分と古くなって、煤けたような座り心地の東屋。街を一望する展望台。その手すりについた、塗装が剥がれて元が何の鳥だったのかもわからなくなったオブジェ。錆びついて動かなくて、百円を入れなくても勝手に覗ける双眼鏡。
押しつぶすように広がる雨雲と、広がる街。
八染山だ。
そう気付いた次の瞬間には、自宅の物置の中にいる。
まだ、鼓膜に雨の叩きつける音が残っている。夢かと思った。けれど、違う。Tシャツはずぶ濡れになって、床に雫をぼたぼたと垂らしている。温度の失せた首筋が、目の前のイルの顔が、額に張り付いた濡れた前髪が、それは現実だったと教えている。
「――びっくりしたぁ!」
場違いな日差しのように明るく、イルは笑った。
「向こう、めっちゃ降ってるね! ごめん、びしょ濡れにしちゃった!」
いやそれはいいんだけど、とか。
そういう普通の相槌が、今は出せない。嶺一は、こういうのには慣れているつもりだった。何度もやってきたから。クリムゾン・スパークに乗り込む前、いつもこの超能力に付き合ってきたから。
でも、イルは廻の家に行くのにこれを使わない。
ダンジョン庁に行くときは、電車に乗る。
台風の中、廻に「病院まで送ろうか」とも言わない。
自然に、そういうものだと思っていた。
ダンジョンに飛ぶときにだけ使えるものだと、思っていた。
「合ってた? 今の場所?」
「そう、だけど」
「そっか」
イルは、まだその手を離さずにいた。
ゆっくりと、それが持ち上げられる。まるでダンスのリードでもされているみたいに、嶺一の手が導かれていく。
物置の隅の、停電中のブレーカー。
何かが起こる、と思った。
あの日、イルの声を聞いたときと同じくらいの、強い予感がした。
嶺一の手が、ブレーカーに触れる。イルの手が、一度離れる。今度は手のひらで手の甲を押される。上から力を込められて、嶺一の手のひらは、ぴたりとブレーカーに張り付けられる。
ぱちり、と指の間で小さな光が弾けた。
「今の、わかる?」
何を訊かれているかは、わからない。
なのに、嶺一は頷いた。
何かが、わかっていた。
「そんなに難しくないよ。口で呼吸してたのを鼻に切り替えるとか、そのくらい」
感覚で覚えて、とイルが耳元で囁く。重なった手から、じわじわと、奇妙な感覚が生まれ始める。これ、何だったっけ。探して、見つけた。小学生の頃だ。下敷きで、髪の毛を擦っていた頃。あのときの感覚によく似ている。
それが指先から通って、二の腕を通って、太ももに下りて、口の中に入って、心臓まで辿り着く。
イルが、手を離した。
「やってごらん」
何も確かなことは言われていない。
なのに、何を言っているのか、不思議なくらいによくわかる。
嶺一は、その手に力を込めた。
電気が、点いた。
ぱちん、ぱちん、と破片の砕けるような音と共に、古臭い白熱電球に明かりが灯る。もっと暖かい色ならよかったのに。色味のない白と、青が、ふたりを照らす。嶺一にはわかる。この電気が、居間にいるはずの山蔵の下まで届いたことが。ブレーカーから手を離した後にも、それを維持しておける方法が。
冷たい光の中で、口を開いた。
「俺、やっぱり、」
イルが傍にいてくれてよかった、と思った。
それ以外に誰もいないのが、妙に心細かった。
「イルと、同じなのか」
「……リョーイチはさ」
そうして笑ったイルの顔を、嶺一は今まで見たことがなかった。
いつもの能天気な顔じゃない。底抜けに明るくて、見てるだけで何だか色んなことが馬鹿らしくなってしまうような、そういう親しんだものじゃない。何か、もっと複雑なものがある。瞳の奥に、何か、自分の知らないものがある。
その奥から、イルは言った。
「そうやって言ってもらえるのがわたし、どれだけ嬉しいか、多分わかんないんだよね」
外の嵐は止まず、風が吹いている。
その風がどこかから入り込んでいるのか、電球がぱちん、ぱちん、と揺れている。狭苦しい物置の中で、何か、きっと、自分の人生にとってとてつもなく重大なことが起こっている。
「特別なのはわたしじゃないって言ったら、リョーイチはどうする?」
だというのに、イルはまだ、その本当の答えを口にはしなかった。
「リョーイチと違って、わたしは何の変哲もない、普通の人間だって言ったら、どうする?」
だから、嶺一もまた、何の答えも口にはできない。
「どうするって……」
言葉は、足元に落ちていく。
イルは、困ったように笑う。何もかも知っているような顔をして、嶺一の手をもう一度取る。
「明日でも明後日でも、雨が止んだらそこに行ってみようよ」
物怖じもせずに、真っ直ぐに瞳を見つめて、彼女は言った。
「そこならわたしが言うこと、全部、わかってもらえると思う」
その晩は、それからもずっと雨が降り続いていた。
もう一回お風呂に入ろう、とイルは言った。カップ麺は伸びても美味しい大丈夫。わたしが誘っちゃったから、お風呂はリョーイチが先でいいよ。物置を出て、傘を手に取って、ほんの数分の間に強さを増した嵐に笑って、彼女は、もう一度振り向いた。
風邪引いたら、嫌だもんね。