なぜダンジョンで配信するかと言って、他の選択肢が削られたからだ。
と、少なくとも白幡早絵は思っている。
「はい、それじゃあ今日も続きをやっていきま~す……と見せかけて! なんと今日はコラボ! Eロボストリーマー界に現れた超新星、売れっ子声優の田名もちかさん、松弓牡丹さんと初共演――え? 学校行かなくちゃ? おはよう合言葉早く教えて遅刻しちゃう? 一体何のことやら……」
インターネットが狭まった、という話がある。
ダンジョンができてから、世界各国は多かれ少なかれ、孤立主義の道を歩むことになった。
能動的にその道を選んだ国もあれば、受動的に、大きな流れの中で否応なくその道に押し込まれた国もある。元々、SNSの及ぼす悪影響は民主主義国家でも壊滅的なものになっていた。誹謗中傷、社会不安の増大、デマと扇動、資金力による選挙のコントロール……。そこに、理由が現れた。世界待戦と呼ばれる時代に入り、情報の遮断と独占が始まる。開かれたネットワークの中で利益を得ていた企業はもちろんかつての広場を維持しようとしたし、特にダンジョン条約を批准した中規模国家を中心に、新たなネットワークを構築する動きも起こった。しかしそれも全盛期の、一種の無秩序にも似た状態とは比べ物にならない。海外市場は事実上半壊し、ストリーマーを含めたエンタメ業界は大打撃を受けた。実際、白幡が以前に『マックス・ジェットバーン』の名義で所属していたタレント企業も、そのあおりで事業を大幅に縮小している。
けれど、国の補助金がある。
『イセカイ・ジャパン』と呼ばれる文化政策の一環に、配信者に対する支援制度がある。Eロボストリーマーとして一定の基準を満たす配信を行った場合、いくつかの大手配信プラットフォームから得られる広告収益が割り増しされる。手続きの簡便のため、スマホでアプリをインストールすれば、五分もかからずその申請は完了する。Eコンの開発段階で国内ゲーム企業の協力を得ていたという背景もあり、Eロボの操作感は既存のFPSゲームとそう変わりはない。間口は広く、見返りは大きい。
だから、かつて白幡がマックス・ジェットバーンとして朝の子ども向け情報番組で共演していた田名もちかも、あれから十年が経ち、子役から声優に移行し、配信活動を始めるに当たってダンジョンを取り入れようとしている。ガイド役を求めてかつての伝手を辿り、白幡にまで連絡を入れてきた。
そして、誰もがやっている配信というのは、自然と視聴者の目に馴染んでいく。
初動の認知負荷が軽くなり、何となくクリックするようになり、何となく垂れ流すようになり、数字が生まれ、さらなる人々が呼び込まれていく。今やダンジョン配信は、国内エンタメ業界の欠かせないコンテンツのひとつとなりつつある。
そのことに白幡は、実は疑問を抱いている。
「というわけでね、最初は機体のメイキングから……と思ったんだけど、おふたりはもう、大変しっかり者です! あらかじめ色々デザインしてきてくれました! というわけで――っと。そうそう。今日の配信レイアウトね。ロボもおふたりのかわい~姿も見えるように、ちょっと工夫してみました。どう? 見やすい? ねー。大きくなったよね~。牡丹さんもね、実はあれ、知ってる? まだあのころ高校生だったかなあ? あ、そうだよね。前に映画の宣伝に出させてもらったときに――」
武蔵野市の、3LDKのマンションに住んでいる。
そのうちの一室に防音室が置かれて、配信はいつもその中。机はサイズに合わせてほとんど横幅いっぱいのものを。机上にはモニターが三つ置かれて、キーボードもマウスも、何とEコンとほとんど値段が変わらない。マイクは機材にこだわる友人から貰った型落ちのハイエンド製品で、昔ほど大声を出すことは少なくなったけれど、エアコンは音漏れに配慮して持ち運びのできる設置型を使っている。やや性能面には物足りなさがないでもないが、防音室の外でもエアコンを点けておけば、これで大抵のことは事足りる。
防音室は思ったよりも大きくて、結局、家の三つの個室のうちのひとつはそれでほとんど埋まってしまって、かろうじて残ったスペースも、前の名義からの分も含めたグッズやファンレター、生命保険なんかの重要書類を保管する倉庫と化している。
『内閣府ダンジョン庁技術推進部技術開発課特殊装備室』と肩書かれた名刺も、その中にある。
ファミレスの夜、白幡は詳細な説明を受けた。
室長を名乗る高校生が姿を消した後に、真夏に真っ黒な背広を着た国家公務員が現れて、事情を丁寧に解きほぐし、我々は怪しいものではない、というようなことを伝えてきた。のち、インターネットを通じた知り合いが、そこに就職する。タキナダというハンドルネームを使う彼は、いつの間にか臨時職員の名刺を持つようになり、「都築さんが心配するほど悪いとこではないすよ」と保証してくれた。
それでもいまだに、不気味な感覚が拭えない。
休憩と称して防音室を抜け出して、我が子の通う小学校の方向を、窓から眺めることがある。
トレンドが、上から作られている。白幡は、何の気なしに企業のタレントオーディションに応募してから十数年、インターネットに関わって生きてきた。だからわかる。自然な動きの中にない。自分で選んでいるわけではなく、選ばされて、特定の場所に追い込まれている。気味が悪い。そう思うなら下りたらいいのに、防音室に、モニターに、キーボードに、マウスに、画面の中に映るキャラクターにかけた時間と労力と金額が、生活が、いつまでも自分の髪を引いている。
思うことがある。
今、自分はどこに連れ去られようとしているのだろう。
「って、オープニングめちゃ長くなっちゃった。積もる話もありますが……一旦、ということで!」
まさかそんなことを、配信で語るわけにもいかない。
プロだ、と白幡は自分に言い聞かせる。個人としてのあれこれは除いて、今、自分は『都築楓子』というキャラクターを演じる、ひとりのプロだ。企業所属でなくなっても、むしろなくなって個人でやりくりするようになったからこそ、その意識はさらに高まっている。
やるべきことをやろう。
明るい声で、彼女は言った。
「たなぼたもちのおふたりを引率しつつ、今日も早速ダンジョンに――」
行ってみよう、の言葉が電波に載っていく。
画面には、見慣れた殺風景がある。よくこんなものが人気コンテンツになるなと毎度白幡に思わせる、彩りのない壁と床。そして今は、星のない空を遮る、床と大して変わりのない見栄えの天井がカメラに映り込む。
いつものダンジョン。
そこに、亀裂が入った。
◇
高校二年生も塾に行く。
夏休みは、長いからだ。
鈴尾唯子は、その日も母に勝手に申し込まれた夏期講習に律儀に出席していた。逃げ切れると思ったが、逃げ切れなかった。実際夏休みの始まる七月の頭から今に至るまで、勉強らしい勉強はほとんどしていない。あんたその調子で学校始まったら授業についていけなくてボロ雑巾になるよという母の言葉も、脅しというより単なる事実の指摘に聞こえる。何事にも年貢の納め時というものはあり、それが来た。暑いから学校に来るんじゃねえぞと公教育から見放された三ヶ月のうち最後の一ヶ月、競争社会に首までどっぷり浸かった暑苦しい学習塾に、唯子は毎日のように足を運んでいる。
むなしい。
褒めるところと言えばエアコンがよく効いていることくらいで、クッションを持ち込まないと半日で尻が痛くなる木の椅子も、ささくれ立った机も、空気のこもった教室も、これ見よがしに有名大の合格者を張り出した廊下も、何もかもが味気ない。休憩時間に見る恋愛リアリティ番組ではみんなあんなにきらきらしているのに、一方私は何なんだ。一日八時間も拘束されている。しかも、週四。普通に学校に行った方が息抜きできるだけまだまし。夏季講習の費用がどれくらいになっているのか、それに見合うだけの結果を自分が出せているのか、考えると怖くなる。受験になるとこれより上か……と今から憂鬱になったそのとき、数学講師の水田が言った。都会の小学生もこんな感じのスケジュールでやってるよ。いや~。頭が下がるよね。確かに。のどかな地方都市の高校生でまだよかった。
何か騙されている気がする。
と思っていると、一丁前にチャイムなんかが鳴り響いて、午前中の講習が終わった。
そして塾生たちの大移動が始まる。唯子も当然一緒だ。入口を出て、コンビニを通り過ぎて、スーパーに吸い込まれていく。
世知辛い話として、最近はコンビニが高すぎる。電子マネーに一万円を突っ込んで、何が悲しくて一週間のお昼代が持つか心配しなくてはならないのか。インフレーションだ。スタグフレーションだ。薄っぺらいサンドイッチに貼られた『八七〇円』のシールを前に、唯子は思う。果たして私は無事に大学に行けたとして、そこから自活できるのか? このサイズなら二個……いや、一個。そして飲み物でカロリーを取る。絶対身体に悪い。本当はあっちのカレーの方が気になる。教室にカレーの匂いを充満させる度胸がない。ないから、仕方ない。
レジは並んでいた。
当然のことだ。あれだけの塾生が一斉に移動して、店員が足りているわけがない。しかし店舗側はこの事態も当然想定していて、棚と棚の間にまで『こちらでお待ちください』の足型プリントが伸びている。そのうちのひとつに、唯子は立つ。すぐに支払いできるよう、スマホを出しておく。そしてそんな僅かな時間にもついSNSを開いてしまい、我ながら悲しくなる。別に、何か気になることがあるわけでも、今すぐ見たいものがあるわけでもないのだけど。
店内放送から、やけに耳に残る声が流れてくる。
おかげさまでヒットチャート入りの新曲、なんて紹介から音楽も始まる。
ああでもこれ聴いたことあるや何だっけ。曲を聴きながら思う。ダンス動画で使われてたのは知ってる。歌詞の一部を検索窓に打ち込む。曲名が出て、曲名で検索する。アイドルデュオが出てくる。へー。子役から声優。ほー。
あ、配信やってる。
リンクをタップして、音楽が途切れる。
スーパーの電気が消える。
◇
すごく強かったらしいよ、とイルは言った。
「ドレスの拡張率が高かったから」
「……あの、ロボのことか?」
「そう。あれね、わたしの世界では誰でもできるんだよ。そんなに難しいことでもなくて、自転車に乗ったり、火を起こしたりするのと同じ。できるようになったら、誰でも簡単なんだ」
メムとはまた違うんだけど、とイルは言う。
あれはわたしたちもまだ研究がそんなに進んでなくて、野生動物みたいなものだって思ってて、なんでいるのかとか、なんでドレスに形が似てるのかとかはわからないんだけど、そういうのに対抗する目的もあって編み出された技術で、
「どう言ったらいいのかな。生体電流を用いて基層世界にアクセスして、複重次元を縦に貫いて特殊金属を取り出す……これじゃ、全然わかんないと思うけど。そういう仕組みがあって、そうやってできたロボットのこと、わたしたちは『ドレス』って呼んでる」
「……ってことは」
「うん。わたしが手伝わなくても、嶺一はドレスを着れると思うよ。……ていうか、わたしが手出ししない方が、ずっと強いドレスになると思う。って言うのもね、」
イルは、両手を後ろで組んだ。
欄干の前で、まだ嵐の名残を含んだ風に、身を揺らしている。ずっと遠くに置いてきたものを思い出すみたいに、視線は少しだけ、空に引かれていく。
「リョーイチがいた世界は、わたしたちとは比べ物にならないくらい強いドレスを使ってたから。こっちが千機で向かって、あっちは一機で、ようやく互角とか、そんな感じだったって。昔、歴史のドラマで見たことある」
千対一とか、向こうの歴史のドラマとか。
クリムゾン・スパークよりもずっと強いロボットとか。そういうものを嶺一は、懸命に想像しようとする。でも、できない。できなくて、イルが続きを話すのをただ待っている。
「でも、そっちは人口が少なかったんだって。今、ほら。こっちでも問題になってるでしょ。少子高齢化。リョーイチのいた世界はわたしたちの世界より……この世界より、ずっと文明が進んでて、人口も減少してた。千対一で交換していっても、最後にはこっちが残ったの」
実感は、湧かない。
そうか、とだけ短く呟いた。うん、とイルも短く頷いた。
「それはわたしがいた世界では何百年も前の話で……でも、時間はそんなに問題じゃないから。どういう経緯なのかはわからないけど、リョーイチは向こうの世界から基層世界に迷い込んで、それで、こっちの岸辺についたんだと思う。わたしが、こっちに迷い込んだみたいに」
嘘には、聞こえなかった。
いつもはぺらぺら能天気に話すイルの言葉には今、ひとつひとつに重みがあった。知らないことばかりで、理解も及ばなくて、けれどはっきりひとつ、わかることがある。
自分は、この世界に最初からいたわけじゃない。
イルと、同じ世界から来たわけでもない。
予想していたわけじゃないけれど、何となく腑に落ちた。その理由が、嶺一は自分でわかる。
積み重ねた時間の違いだ。イルと出会って、もしかしたら自分と一緒なのかもと思っていた時間より、どこでもない場所から来た自分を想像していた時間の方が、これまでの一生で、遥かに長かった。
「……最初から、覚えてたのか?」
「ごめん」
ばつが悪そうに、ごまかすみたいに、イルは笑った。
「その、ほんとに正直な話なんだけど、怖かったんだ。最初はリョーイチのこと、この世界の人間だと思ってたから。こんなに高い拡張率を持ってる人たちがいて、前のときは戦争で、それで、どうしたらいいんだろうって」
ほんとはね、と。
それでも、正直な言葉で彼女は言う。
「わたし、どうやったら逃げて帰れるかとか、最初の頃はそんなことばっかり考えてた。融合率が足りてないみたいで、向こうと連絡も取れないし。ようやく取れたと思ったら、向こうから『しばらくそのまま潜伏してるように』って言われるし」
「――は?」
そしてその告白も、嶺一は、予想していたわけじゃなかった。
「向こうから?」
「あ、うん。電波通信でね。向こうと交信してた。これも本当に、黙っててごめん」
「……いつから?」
「喋れるようになったあたりから。これ、わたしが言語の天才ってわけじゃなくて。ちょっと待ってね」
イルが喉に触れる。
あー、と声を震わせて、
「わたし、ひとりだけ、こん、くらい。ぎりぎり? ……向こうから翻訳機能を送ってもらったんだ。元々わたしたちの世界だと、存在してる言語分はプリセットみたいに生体ダウンロードしてるものなんだけど、追加のを作ってくれて」
しかしそれも、考えてみれば大して驚くべきことではなかったのだと思う。
嶺一だって思った。こいつ、いきなり喋れるようになったなと。いくら頭が良くたって、こんなにいきなり滑らかにはならない。むしろさっきの『独力』だって、夏休みが始まってからの短い期間と思えば、十分な成果だ。
だから本当の問題は、一緒に伝えられた、もうひとつの方。
怖かった、とイルは言った。
「で、それと一緒に向こうの行政の人から連絡が来たんだけど、まだフラッドが進んでなくて、こっちに渡る手段がないって。リョーイチもそうだったでしょ? こっちに来るのはできたけど、向こうに帰るのはできなかった。満潮とか干潮とか、そういうのってわかるかな。融合率が浅いうちは、渡れるときと渡れないときがあって、迎えに行けないし、勝手に帰ったりもできない。……だから、こっちにひとりでいるようにって」
嶺一は、想像した。
イルが、今まで自分を記憶喪失と偽っていた意味を。
逆の立場だったら。見知らぬ場所で、ひとりぼっちで、帰る方法もない。滞在先には偏屈な爺さんと無神経なガキがいて、戦争があって、周りは敵ばかりかもしれなくて、
今になればわかる。
イルは、ダンジョンから出てきて、ロボットを作れて、不思議なことができて、それだけの、普通の人間だ。
廻に言えば、また呆れた顔をされてしまうだろうか。そんなこと今更気付いたの、と。知ってるなら教えてくれればよかったのに。だって俺、そんなこと夢にも思ってなくて、見たままが全部だって思ってて、それだって勝手に、自分の基準で思い込んでただけで、
「……ごめん」
「え?」
「もっと、優しくしてやればよかったな」
驚いた顔を、イルはした。
それから、肩が下がっていく。そこでも初めて、嶺一は気付いた。ずっと、イルの身体が強張っていたことに。
「……怒られると思ってた」
「怒んねーよ。別に」
「だって、嘘ついてたから」
ほんとはね、ともう一度イルは言う。胸の上に、手を当てる。
「今日も、すごくドキドキしてた。そんなことする奴もう友達でも何でもないって言われたらどうしようって」
「言わねーよ、だから。心配すんな」
「うん。それでも、今言ったみたいなこと、言わずに済ませられたらいいなって、正直ね。ずっと思ってた。でも、ちゃんと説明して、どうしてもお願いしたいこともあって……」
「お願い?」
うん、と頷く。
恐る恐るの声で、言った。
「写真、見せていい?」
何のだろう、と初めは思った。
けれど、すぐに思い至る。この夏をずっと一緒にいたから、多少の形容詞がなくても、漠然とした単語でも、どういう文脈がそこにあるのか思い出せる。
やたらにこの夏、イルがこだわっていたこと。
「動画の話か?」
「そう。見せたいの」
言って、おなじみのそれを取り出した。
特装室から連絡用にと持たされて、連絡以外にも使い潰している、マスコットのシールがぺたぺた貼られた最新機種のスマートフォン。
「作ったんだ。こっちの世界の……地球を紹介する用の、動画」
あのね、とイルは操作を始めながら、
「わたし、最初はリョーイチのこと、すごく怖かった。リョーイチだけじゃなくて、みんなのことも。でも、メグルと比べてリョーイチの融合率がものすごく高いって気付いて、行政の人から『もしかしたらリョーイチだけは第一次フラッドの向こう側から来たのかも』って聞いたときには、もう、怖くなくなってた」
こっちの世界ではね、と続けて、
「フラッドっていうのは、ものすごく怖いことだって言われてる。そういうものなんだって。わたしたちが経験したことないような大戦争が、必ず起こるって。でも、ふたりのこと見てたら、そうじゃないってわかった。メグルは優しいし、リョーイチはちょっとぶっきらぼうだけど……」
おい、と口を挟む気にならなかった。
だから代わりに、イルは憎まれ口を叩いた自分に、自分ではにかむ。
「ふたりとも、仲良しだから。言葉の通じない悪魔でも、眠らない子どもを攫っちゃうおばけでもない。そうやって信じられた。わたし、向こうの世界にいる人みんなにも、そうやって信じてほしい」
そうして、急に。
急に嶺一は、イルが大人になってしまったような気がした。
記憶喪失だからと、舐めてかかっていたからかもしれない。それともそんなの関係なくて、普段のあのわがまま放題のマイペースぶりのせいなのかもしれない。
どこかで嶺一は、イルのことを「しょーがないやつ」だと思っていた。
だというのに、出るわ出るわの大洪水。あの高校生官僚の先輩よりもすごい。何も考えてなさそうで、幸せそうで、自分と大して変わらなそうな普通の女の子は、とんでもない情報を秘密にしていて、とんでもないものを背負っていて、
何となく、握っていた手が、離れた気がした。
「……そっか」
今度は、ごまかすように笑うのは嶺一の番だった。
俯いて、取り繕って、顔を上げる。
「俺はいいけど、それ廻も混じってんだろ」
「……やっぱり、嫌がるよね~」
「いや、多分その話ちゃんとしたら廻は嫌とは言わないだろうけど……嫌って言えないこと頼んでんだかんな」
立ち上がると、日に焼けて温まった服が、腿に張り付いた。
背中はいつの間にか、ぐっしょりと濡れている。首筋が少しひりつく。こりゃ今日の風呂はしみるぞ、と覚悟しながら、
「ちょっと見せ方工夫するとかしてやれよ」
「どんな感じがいいかな?」
「顔モザイク」
「あ、怪しいよ……。あ、ちなみにね、メグルがどうしてもダメって言ったらチヅルに頼むつもりなんだ」
「何を」
「だから、仲良し動画の出演。珠ヶ浜のやつとか、多めに出てもらおうと思って」
「……いや、イメージダウンだろ。特に俺と会話してるとことか」
「そんなことないよ。リョーイチとチヅルって、傍から見ると仲良しだもん」
「はあ?」
メグルもそうだねって言ってたもん、とイルは言う。あいつは何でもそうだねって言うだろ。そう言い返してから、いくらなんでもこれはひどいか、と嶺一は自分で笑ってしまう。ちなみに、とイルがスマホを弄り始める。もう実は試作品があったりして。見せてあげる。んーとね、どれだっけ。どんだけ作ってんだよ。感心しながら、やっぱり笑って、嶺一はイルの傍に歩み寄っていく。
夏で良かった、と思った。
それも、嵐が去った後の夏で。
周囲の空気は、ものすごく重い。暑くて、蒸していて、逃げ道がないから、下手なサウナに入るよりもずっと息苦しく感じる。何もかもが白く滲んで、膨らんで、それが今だけは安心に繋がった。自分の肌を包んで、押す何かがあるから。ここにいると思えるから。
何もなければ、どこかへ飛んで行って、何もなくなってしまいそうだった。
「イル」
ん?と言って彼女は顔を上げる。名前の後は、何も考えていなかった。ただ、何も声にしないと叫び出してしまいそうで、ダメになってしまいそうで、何でもいいから、何かを話したかった。
「あのさ――」
声にしながら、嶺一は決めた。そうだ。昼の話にしよう。昼、何食う? そういうことを訊こう。護衛に来てくれてた戸渡さんも誘おう。あわよくば奢ってもらう……のはやりすぎか。あの人、いかにもおっさんだし店とか詳しいかもな。イルは何食いたいかな。また俺、変なの食わされんのかな。
それでもいいよ。
「昼、」
その先は言葉にならなかった。
イルが展望台から落ちていくのを、見つめるしかなかったから。
◇
「……結構経つな」
戸渡彰吾は元警察官で、つい最近まで大学の守衛をやっていた。今年で四十三歳。一女一男で大きい方が今年から中学生。そんな大の大人が、何がどうしてこんなアニメみたいな状況に巻き込まれているのか。高校生の上司。高校生の護衛対象。記憶喪失の女の子。そして極めつけに、みんなを守る巨大ロボット。
何が悪かったと言って、縦社会でお上に物を申したのがマズかった。
いくら何でも証拠を揉み消しちゃいかんだろ。証拠を捏造するのもいかんだろ。お年寄りの家回ってついでに小遣い貰うって正気かあんた。捜査対象の先生方に事前に内容をご連絡ってちょっとでもおかしいと思わんのか。あんたらなんで警察官目指したんだ。正義の心はどうした。それで街の子どもたちに胸張れんのか。
バカヤロー!
とまでは言えず、粛々と手続きを踏んで適切な形で内部告発したところ、あれよあれよという間になぜか自分が退職に追い込まれた。宮仕えはもう懲り懲りだ。真面目に勉強する若者たちの安全を直接守っている方がよっぽどわかりやすくていい。いずれこの大学にうちの姉弟も通うことになるかもしれん。早くてあと六年。いやあ、その頃俺も五十か。おっさん通り越して爺の入り口だな。
なんて思っていたのに、いつの間にかこんな変な場所に立たされている。
コネで仕事をするのはこういうものだ、と半ば諦める気持ちも、どこかにはある。
守衛をやっていた大学の先生の自慢の教え子の国家公務員の副室長とやらのあのへらへらした態度はどうかと思うが、「仕事の内容が内容だけに、とにかく誠実な人でないと」という誘い文句には、正直グッとくるものがあった。その後に提示された金額も、結構。実際の仕事の内容を思えば、あれは半ば詐欺に近いものがあったのではないかとも思う。
だって、山の中で少年少女の青春を監視中だ。
首にかけたタオルで、汗を拭った。
俺は反対したぞ、と戸渡は思う。朝方、八坂嶺一が隣の家で警備中の自分を訪ねてきて言った。山、行くす。行くすじゃねーよと思うが、なぜか副室長の許可が出た。正気かよ、と戸渡は思う。つい昨日室長が爆発で吹き飛ばされて、ちょっとでも危ないとは思わんのか? 俺は思う。室長の怪我も痛恨の極みだと思う。もっと人を雇って朝から晩まで室内の職員を全員警備してやった方がいい。そんな予算はないと言われればそれまでだが、悲しい。
反対は押し切られて、山まで連れてこられた。
そうしたら、新たなダンジョンをここで発見した、とふたりの子どもは言う。
もう、わけがわからない。
自分の理解の範疇に、事件はない。
だから戸渡は、大人しく自分の仕事をまっとうし続けている。「こっからはふたりで行きます」とこのありえない真夏に山へと向かうふたりを「おう、下で待ってるぞ」と快く送り出し、血の涙を流しながら車のエンジンを消し、降りて、それとない距離で後をつける。プライバシーへの配慮というより、聞いちゃいけないことを耳に入れないようにある程度の距離を取って木陰に佇み、下からここまで駆け付けてくる不届き者がいないか、目を皿にして気を張り続けている。
ときどきは、無線も取る。
「――こちら戸渡。何か動きはないか」
遅れて、いくつか声が返ってくる。
八染山の入り口は、ざっくり分けて三ヶ所ある。
その全てに、同僚が張っている。元警察だの元自衛官だの、それなりの経歴の奴らばかりだ。正直なところ、映画に出てくるような凄腕SPの集まりというわけではないが、そもそもそんなのは映画の中にしかいない。現実にはいない。とにかく真面目なことだけは確かで、自分がこいつらと同じ基準で採用されたと思うと、なかなか誇らしいものがある。
『何か異状が?』
「いや。展望台から動きはなし」
本当のことを言えば、このくらいの山なら入り口でも何でもない場所から、道なき道を無理やり分け入って入ることはできる。
しかし、ふたりの目的地が展望台なのは幸いだった。ここなら、ふたりに近付くためのルートが限定される。ここに立っておけば、少なくとも自分は気付ける。不審者がやってきたら、特装室お手製の『なぜか合法な』武器で取り押さえてやる。不審者がアサルトライフルを腰だめに乱射しながら突っ込んできたら、目の前に飛び出して、あのふたりに大声で叫んでやる。
ダンジョンに逃げ込め!
それで解決と思えば、ある意味では気楽な警護任務だ。しかしもちろん、その想像を頭に思い浮かべるとき、妻の、子どもたちの顔が浮かばないわけもない。浮かぶから余計に高校生の上司が病院に搬送されたという事実で心は痛むし、この場を譲ることもできずにいる。
だから戸渡は、祈った。
何事もありませんように。
そして機械は、空から降ってきた。
それを戸渡は、はっきりと見た。目に見えない穴が開いた、としか言えない。展望台の向こうから、マジックのように何かがせり出してきた。機械体。メム。いつもあの高校生たちが戦っているような、とんでもないでかさのものじゃない。それでも十分な重みと体積を備えている。小柄なクマくらいの大きさで、出来の悪い合成映像みたいに、それは突然飛び出てきた。
何を考えるより先に、彼は走り出した。
まっすぐ一直線だ。凄まじい勢いで、通りがかりの樹々に肩がぶつかる。擦れる。口を開ける。息を吸い込む。腹に力を入れて、思い切り叫ぶ。
「ダンジョンに――」
それはそもそも、ダンジョンから来た。
間に合うことなんて、この場には何もない。イルが、メムに襟首を掴まれる。欄干を背にしていた彼女は、そのまま背中で滑るように宙に持ち上げられる。握力が緩んだ。スマホが落ちていく。落下防止のスペースに一度だけぶつかって、跳ねて、もう止まらない。取り返しのつかない動きをして、登山道でも何でもない山の中へと落ちていく。
取り返しがつかないのは、スマホの持ち主も同じだった。
靴の踵が、最後に欄干に当たって音を立てた。彼女はまだ、身に起こったことがわかっていない。呆気に取られている。戸渡は走る。もう彼は、何の言葉も思いつかない。
嶺一は、咄嗟の一瞬に、できる限りのことをした。
「イル!」
名前を呼んで、手を伸ばす。
「りょ――」
イルもまた、反射のように手を伸ばす。
その指先は触れ合うこともなく、ただ、幻のように消えてしまった。