主人公の友達   作:quiet

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01話(後)

 

 

『地震のニュースが入りました』

 

 とラジオが話すとき、やはり八坂山蔵は机に向かって書き物を続けている。

 

 目の前にしているのは、スペイン語の小説だ。元はメールで送られてきたものを、プリンターで紙に出力して、目の前の紙束に変えた。印刷途中で黒のインクが切れたのには難儀した。このあたりは最近大型の電機店が撤退しっぱなしで、しかもインクの値上げも止まらない。いい加減環境に配慮してこの仕事もペーパーレスで進めるべきか。眼精疲労や老眼を自然の流れと受け入れず、抗ってみるべきか。そもそもこの仕事は資料代を考えると単純に赤字なのだが、果たして翻訳小説という営みにいつまで自分は付き合い切れるのか――

 

『震源地及びマグニ……不明……と思われ……近隣……避難の準備を……』

 

 異音がする。

 顔を上げると、古くなった蛍光灯がカチカチと瞬いた。

 

 ラジオは、ノイズ混じりの地震速報を吐き出している。東京、という言葉はかろうじて聞こえる。もう何度か、蛍光灯が白く、黒く、〇か一かの色に部屋を染め変える。ぼろぼろになった西西辞典が、水滴にまみれた麦茶のコップが、今朝のうちに読み終えた新聞が、家とは不釣り合いに新しいエアコンのリモコンが何度も、何度も浮かび上がる。

 

 暗い夜の向こうから、窓の軋む音がする。

 風が出てきたな、と山蔵は呟いた。

 

 

 

 

 

「……どっきり?」

『教えてくれよやり方を!』

 

 逆に訊かれてしまったけれど、絶対自分は悪くない、と廻は思う。

 

 だって、普通に考えて、信じられない。さっきまで、嶺一は同じ部屋の中にいた。それが今は、テレビの中にいる。テレビの中には、東京の景色が映っている。ということは嶺一は、今、東京にいる。

 

 ダンジョンにいる。

 

 ここから五分で、ダンジョンの中に移動した。

 テレポーテーション、としか思えない。

 

「何、どういうこと?」

 

 映像をリアルタイムで合成してるとか、そういう種明かしをされた方がまだ納得がいく。そうだ。そもそも、会話が成立していることが変だ。どこかに隠れて、こんなことを本気にしている自分のことをけらけら笑っているのかも――部屋を見回す。床に置いたEコンがぴかぴか光って、「ぼくが通信してますよ、ぼく」と健気に自己主張している。

 

『俺にもわかんねえよ。廊下歩いてたら急になんか、ぐらっと来たと思ったら突然……』

 

 説明は、支離滅裂だった。

 それでも廻は、床のEコンを手に取る。もう、嶺一がふざけているだけかもとか、そういう考えは随分と頭の中で小さくなっている。

 

 ダンジョンに迷い込むことは実際にありえると、知っているからだ。

 

 むしろ、それ以外の方法では発見されてこなかった。衛星でも飛行機でも、水平を臨む写真機からも見えないのだから。たまたま誰かがその場所に踏み入って、急に景色が変わって、右も左もわからなくなる。そういう形でしか見つけようがない。

 

 いきなりワープした、なんて言われても信じがたい。

 けれどそもそもダンジョンなんてものの存在自体が、信じがたい。

 

 そしてその信じがたいものは、ある。

 

 少し前だったら存在しなかったはずの場所――瞼を薄く閉じれば、廻は嫌でも思い出す。落とし穴に落ちたみたいに突然道を見失って、声を張り上げても誰にも届かなくて、どうやって出られるのかも、今まで自分が現実だと思っていたものが本物だったのかすらもわからなくなって、さまよい続けて、食べるものもなくて、飲めるものもなくて、

 

 それで――

 

「わかった」

 

 正直に言うと、そうやって、嫌な記憶は蘇った。

 だから、ダンジョンに繋がるコントローラーなんて、全然握りたくない。

 

 それでも、廻は言った。

 

「とりあえず、ここから出よう」

 

 嶺一の声は、少なくとも自分には届いているからだ。

 

『頼めるか。俺、そっちにスマホとか全部置きっぱで』

「大丈夫……だと思う。画面のマップって、これ正しいんだよね」

『そう。その三角のところがEロボの発着口だから、そこまで行けば多分』

「了解。じゃあ、ロボット動かすから、ちょっと離れて。あと、掴まれそうなところとか、乗れそうなところってある?」

『ある……けど、ちょい怖えーな』

 

 挟みそうで、と言いながら嶺一がEロボによじ登っていく。もう一枚のモニターにそれが映っている間、廻は何をするでもない。ただ、普段からそんなにゲームをする方でもないのにいきなり大役を担う羽目になったプレッシャーと戦っている。手汗がすごい。シャツで拭く。風がすごい。台風というわけでもないだろうに、夏の夜の気まぐれなのか。ごぉう、ごぉう、と動物のうなり声みたいに、響き渡っている。

 

『てか、なんか聞こえね?』

 

 嶺一が言った。

 

「風? すごいけど、こっちも」

『いや、別にこっちに風は……。何だろ。声、かな』

「――どんな?」

 

 声が強張ったのは、嶺一ひとりだけとは限らないと、咄嗟に想像したからだ。

 

 突然、嶺一は東京ダンジョンにワープした。それが、他の人に起こらない理由があるだろうか? もし、他にもこの場所で遭難している人がいるとしたら……。余計な思考が、ふつふつと湧いてくる。我知らず廻は、Eコンを握り直す。

 

 そんな気持ちを知ってか知らずか、嶺一は、平然と続けた。

 

 

 

『日本語でも英語でもない、知らない言葉?みたいな……』

 

 

 

 耳を澄まそうとしたのは、まるで無駄になった。

 

「何?」

 

 ピキッ。みしっ。テレビ越しでも聞こえたから、嶺一に聞こえないわけがない。咄嗟に彼が、上を見た。それが廻にもわかった。カメラを操作した。同じように、上を見た。

 

 天井がある。

 

 亀裂が、

 

『降ってくるぞ!』

 

 土でカメラがいっぱいになった。

 

 反射的に動いた手指が、どんな操作をしてくれたのかもわからない。雪崩落ちてきた土砂で、Eロボのカメラが覆われた。土を払おうにも、体勢がわからない。下手に動かせない。

 

 嶺一が咳き込む声がする。

 

『なんだ、一体――』

「大丈夫!?」

 

 大丈夫、と嶺一は答えた。まだ砂混じりの声で、

 

『廻、一回ファン回してくれ! 煙が、すごい、』

「ファン? どれ!?」

『Y押して、多分、環境機能のタブから、』

 

 どれだよ、と廻は悩みながらメニュー画面を睨みつける。老眼になった気分だ。Yボタンを押してから出てくるものが多すぎる。アイコンが小さい。わけがわからない。明らかにこのボタン数しかないもので操作するような機械じゃない。そうこうしているうちに、モニターがよく見えるようになっていく。なんてことはない。嶺一が起き上がって、Tシャツの裾で拭いてくれたからだ。テクノロジーって不便だ。そう思う。これかな、というアイコンを見つける。

 

 そのアイコンの向こうに、動く何かが透けて見えた。

 

『――廻、左スティック押し込み!』

 

 め、の時点でもう押し込んだ。

 

 これまでとはまるで違う排気音が響いた。大型トラックがフルスロットルで動き出すような音がして、画面が揺れる。景色が変わり始める。時速が画面の右下に表示される。

 

 Eロボが、走り出す。

 右のスティックを回してカメラを操作すれば、後方が見える。

 

 さっき動画で見たやつが、そこにいた。

 

『メムだ!』

 

 こんなときに出てくるなよ、と思った。

 

 機械仕掛けの脅威、Menace Ex Machina――頭文字をとって、『MEM』。人類が初めてダンジョンに足を踏み入れたときから何度も遭遇してきた、いまだ原理不明の謎の存在。足の数が六本も八本もあって、人間が作る機械よりもずっと複雑な機構をしていて、金属で出来ていて、

 

 人を襲う。

 襲ってきた。

 

『おい! すげー迫力だってアレ! 潰されたら死ぬ!』

 

 嶺一は、Eロボに担がれながら余計なことを大声で言う。余計なこと言うなよ、と廻は思う。手のひらの汗が、今は氷のように冷たい。ものすごい緊張状態にあるのに、動かすべき場所が指先しかないから、エネルギーの行き場がない。こんなことなら、と余計な考えばかりが浮かんでくる。今日、来なきゃよかった。ちゃんとわがままを言ってこんなコントローラー売っ払ってもらえばよかった。気楽なバイトなんてとんでもない。目が乾く。鼻血が出そう。だってこんなの、一歩間違ったら――

 

『右!』

 

 そう思うから、間違えない。

 

 嶺一の声に反応して、物陰から飛び出してきた別のメムに肩をぶつけて、アメフトみたいな動きで回避した。

 

『ナイス! スーパープレー!』

 

 最高の瞬間、とか嶺一が叫んでいるのが本当に、心の底からやかましかった。

 

 廻は、必死になってマップを見ている。こんなに必死になって地図を見たこと、これまでの人生で一度もない。こんなに早く読み取らなくちゃいけなかったこともない。住宅街を時速一八〇キロで無免許運転しているみたいな気分だ。後方からはまだメムが追いかけてきている。かしゃかしゃと音を立てて、人ひとり容易に潰せる重たさとスピードで移動を続けている。それを上回る速度でEロボを操作し続けなきゃいけない。転んだりしたら一巻の終わり。呼吸が苦しくなってきた。Tシャツの上からでも鼓動がわかるくらい心拍が高まっていた。汗が背中を濡らしている。頭がちかちかする。酸欠なのか貧血なのかわからない。目も痛い。エアコンが寒い。それでも現在地を示すマーカーは発着所へと止まることなく進み続けて、ようやく、

 

『ヤバい、行き止まりだ!』

 

 指が、止まった。

 頭の中が、真っ黒になった。

 

 二回三回四回、ごく短時間で視線が往復した。地図、前、地図、前、地図。前を見て、道がない。

 

 道が、ない。

 崩落している。

 

 そして、どうしてそんなことができたのか、後になっても廻はさっぱりわからない。

 

「――――!」

 

 喉から、声が出た。

 

 反転して、突っ切った。

 

 画面が、今までで一番大きく揺れる。衝撃がEコンを通して伝わってくる。掴まっててとか、そんなことを言う余裕もなかった。一八〇度、勢いよく反転したEロボが、頭から突っ込んでいく。大してサイズが変わるわけでもない二体のメムを弾き飛ばして、間を抜ける。バランサーが警告表示を出す。どう読むのかわからない。スティックをがちゃがちゃ動かして誤魔化す。勢いそのまま右に曲がって、機体をメムの視界から切る。必死で必死で必死で、他にどう行けばいいか、頭を回す。指を動かす。神経を開く。

 

『抜けた!』

 

 嶺一が大声で、

 

『お前マジですごいぞ! これで食っていけるマジ! ストリーマーのスキル超えて――』

「うるさい!!」

 

 叫ぶのに付き合う余裕が、今はない。

 こんな声量、ここ五年で初めて出した。

 

「今そんなことどうでもいい! カメラの死角とか、何でもいいから報告して!」

『――あ、ああはいはいはい! すみません! 仰る通りです!』

 

 一瞬の絶句の気配とか、低姿勢とか、気ぃ動転してたなんて釈明の言葉とか、そんなものにも当然取り合っている時間はない。

 

 もう、何もかもめちゃくちゃだった。

 

 再設定したルートも、別の場所が崩落していて使えない。あっちへ行ってこっちへ行ってを繰り返すうちに、最初に通ろうとしていた道すらわからなくなっている。メムに鉢合わせしては抜けていくことが何度かあって、ダンジョンの中に今何体いて、何体に追いかけられているのかもわからない。本当に発着口に通じる道があるのかどうかも確かじゃなくなって、いつの間にか完全に分断されて陸の孤島になっているのかもしれなくて、自分は困らないけれど嶺一がばかりが困って、責任は重大で、全てが次の瞬間に崩れ落ちるような気がして、何が何だかわからなくてもとにかく敵のいない方へ、少しでも安全な方へ、一秒なんだか一時間なんだかわからない時間の中で張り詰めて――

 

 ふと、気付いた。

 

「この道、真っ直ぐ行ける!」

 

 涙が出そうだった。

 

 Eコンの機能か何かだったのだと思う。いつからそうなっていたのかわからない。黄色いルートがマップ上に表示されている。同じところをぐるぐる回っていることに気付いて、気を利かせてくれたのか。それともこんな状況だから全ての端末に避難誘導が出ていたのか。いつから表示されていたのか。いつから従っていたのか、廻は自分でもわからない。

 

 少なくとも、目の前の道が開けていることはわかる。

 Eロボの発着口まで、繋がった。

 

「脱出できる!」

『っしゃあ! 廻、お前ホントに――』

 

 声が途切れたことを、廻は気にしなかった。

 

 気にする必要がなかったからだ。後はただ、スティックを思い切り倒し続けるだけだ。発着口に突っ込む速度なんて気にする必要もない。どうにでもなる。とにかくメムに追い付かれないように、アクセルを吹かせばいい。自転車で下り坂をノーブレーキで行くような清々しさで、ただ、真っ直ぐ向かうことだけを考えた。

 

 同じことを、『それ』も考えていたのかもしれない。

 

 向かって右手、三百メートル先、土煙が上がった。

 

 壁が壊れたのだと認識するのは、もう少し後のことになる。轟音が先に来た。視界の異常が先に来た。進行方向に垂直に突き刺さるようなその姿を、廻はしばし、理解もできなかった。

 

 

 

 見たこともない巨大なメムが、進行ルートの正面に現れた。

 

 

 

 ブレーキをかけた記憶がない。焦った記憶すらもない。さっきまでのメムからの逃亡が、急にちゃちな茶番に思えた。人ひとり容易く潰せるはずのメムが、馬鹿馬鹿しい子どものおもちゃに思えた。そんなものを相手に四苦八苦していた人類最新の機械とやらも、同時に。

 

 それは、廻の頭の中にあった想像上のどれからも、かけ離れたものだ。

 

 肌は、どのメムよりも硬質だった。

 そのくせ揺らぐ動きは、どのEロボよりも有機的だった。

 

 二本の足で立っている。Eロボの倍くらいの大きさがある。存在感は、それよりずっと。肩のあたりから、何の機能があるのかわからない装備が生えている。機械に見えない。天使とか、悪魔とか、そういうものに見える。歴史に記されたそれらは全部、これの見間違えなんじゃないかと思う。今までとは、全然違う。ゲームみたいなコントローラーじゃ、どうにもならない。勝てっこない。逃げられない。目を離せない。

 

 そして、天使がこっちを見る。

 画面越しでも思う。

 

 死んだ。

 

「――ぅあ」

 

 咄嗟に後退のボタンを押さなかったらどうなっていたのかわからない。

 

 さっきの轟音なんか、天井の崩落なんか、比べ物にならないくらいの衝撃がEロボを襲った。

 

 今度は、土だけじゃない。煙だけじゃない。赤いものが見えた。光が見えた。爆発だと思った。Eコンが震え続けている。画面上にたくさんのアラートが現れる。夢であってほしいと思う。後退しているはずだと思う。そうであってほしいと思う。何がなんだか、何もわからない。

 

 爆発の中で、とにかく叫んだ。

 

「回り込む! あれじゃ――」

『声』

 

 なのに不思議と、その言葉だけははっきりと聞き取れた。

 

 ありえないと思った。だから、聞き間違いなのだと思った。この爆発の中で、普通に呟いただけの声が聞こえるはずがない。それだけじゃない。こんなことに巻き込まれていて、自分と違って向こうは生身で、それなのに、こんな落ち着いた声になるはずがない。

 

 続きがある。

 

『あの子だ』

 

 荷重が、減った。

 

 目の端で、廻はそれを捉えていた。Eコンとリンクした画面には、採掘したミスティックの量を計測するために、機体搭載重量の表示がある。その数字が、変動した。変動量も一瞬だけ表示されていた。頭の隅に、ほんの一瞬だけ残った。

 

 七〇キロ、減った。

 走り出した嶺一の背中が、カメラに映った。

 

「は――」

『悪い、廻!』

 

 捨て台詞みたいに、嶺一が叫ぶ。

 

『俺、ここであの子のこと見捨てたら一生後悔する!』

 

 何を言っているのか、全然わからなかった。

 

 それでも、遅れて廻は理解した。言葉の意味を、そのまま取ったわけじゃない。早々に解釈を諦めて、嶺一が走り出した理由を、その目で探そうとした。それで気付いた。天使に気を取られて気付けていなかったもの。嶺一が見つけたもの。

 

 声の主。

 女の子が、天使の足元に倒れている。

 

 ありえないほど大量の思考が、廻の頭に浮かんだ。

 

 本当に、浮かんだとしか言いようがない。自分のものではなかったような気がする。あんなに一度に大量のことを考えられないと思う。外側から『思考』を注射器でぶち込まれたと言われた方がまだ納得する。そのくせ、それをどれがどうと吟味する時間はまるでない。わかりやすい答えだってどこにもない。後になって、十分な時間と答案用紙を与えられて机に向かわされたとしても、「わかりません」と書き残して教室を出るほかない。だから廻は、ただそのとき、

 

 友達が危ないと思って、一緒に駆け出した。

 

「嶺一!」

 

 Eロボが、無理やり動く。

 これまでと同じ動作で、けれど何度目かの試みだから、今まででもっとも容赦がない。

 

 機体に恨みでもあるのかという急制動だ。Eロボは、全身から火を噴くような動きをして、嶺一の真横すれすれを追い抜いていく。天使がいつの間にか、その腕を振り上げている。いつの間にかじゃないのかもしれない。廻は、ずっと前からそれに気付いていたのかもしれない。懐に飛び込まされたEロボにとっては、そんなこと知る由もない。走りながら、その背を丸める。背中で受ける。アルマジロの物真似に大した意味なんかない。地方の、夜の、一階で老眼鏡をかけた爺さんが辞書を片手にのんきにラジオを流している二階建ての住宅の畳の上で、テレビのモニターに無数の数字が浮かぶ。真っ赤に染まる。画面が吹き飛ぶ。揺れる。カメラが地面の上を転がって、土にまみれて、ぶっ壊れた機体の半分を映して、

 

 

 

 嶺一の手が、倒れた女の子に触れる。

 

 光った。

 

 

 

 何の光なのか、廻にはさっぱりわからない。爆発なのかと思った。けれど、そうじゃない。土煙はもう起こらない。火炎はふたりを取り巻かない。月とも星とも太陽とも違う。もっと、見たことのない光。無機質で、それでいてどこか秘密めいた光が、ふたりの肌と肌の触れ合う場所から放たれている。 

 

 その光の意味が、言葉になる。

 

 理解は及ばないはずだ。それは、知らない言語だったから。音でしかなくて、声ですらなくて、焼け落ちたEロボの翻訳機能なんて生きているはずもなくて、

 

 なのに、廻にはこう聞こえた。

 

 

 

『――接触(コンタクト)

 

 

 そして、真っ赤に色付いた。

 

 

 

 赤く変わった光が、ふたりを包み込んでいく。画面上のエラーにも見えた。でも、違う。廻はこれから、それを何度も何度も見ることになる。その始まり。真っ赤な真っ赤な、熱くて激しくて、何か温かいものが、ふたりを包み込んでいく。形を取っていく。変えていく。見たこともない金属がいつの間にか赤い光に取り込まれて、溶け出して、ふたりを覆っていく。出来上がっていく。今までとは比べ物にならない。さっきまでやっていたのとは何もかもが違う。天使を一目見たときに思ったことと、全く同じことを、廻はもう一度思う。

 

 

 カメラの前に、それは現れる。

 

 真っ赤な、スーパーロボットだ。

 

 

『うぉおおおおおお!!!』

 

 嶺一の叫びが聞こえて、それは、眩暈がするような軌道で駆け出した。

 

 天使が戦闘態勢に移行した。それもまた、高速の機動を取る。その腕に光が宿る。電気だ、と不思議と廻は理解した。天使は今、明確に攻撃の態勢を取っている。人類の最先端技術をたった一発の腕振りで破壊しておいて、この赤いロボットを前に、初めて迎撃の姿勢を、交戦の姿勢を取っている。

 

 目にも留まらない速度で、稲妻が放たれる。

 目にも映らない速度で、赤いロボットがそれを掻い潜る。

 

 風よりも、稲妻よりも速かった。全てを置き去りにする速度で、光のように赤いロボットが全ての電撃を躱していく。天使が後退る。電撃を諦めて、腰に提げた巨大な剣に手をかける。

 

 抜き放つよりも、到達する方がずっと早い。

 

 一瞬、きらめいた。

 

 観客の誰にも気付けなかったことだ。いつの間にか、真っ赤なロボットの手には、真っ赤な剣が握られている。奇妙な金属から生み出された、澄み渡る刃。テレビの向こうに、かろうじてその後姿が映る。剣には刃こぼれ一つなく、天使はただ、その赤色の前に黙して佇んでいる。

 

 少しずつ、その胸から光が漏れ出ていく。

 光はやがて閃光に変わり――爆発とともに、天使は崩れ落ちた。

 

 廻は、呆然と見ていた。

 

 映画のような、その光景を。けれど、それは現実だった。目の前で――モニター越しに、日本のどこかで、歩いて辿り着ける場所で起こった、現実だった。

 

 奇妙な浮遊感が、その身に充満していることに廻は気付く。

 

 こんな気持ちになったことが、前にもあった。

 

 それは、初めてこの国でダンジョンが見つかったときのことだ。アニメとか、ゲームとか、漫画の中にしか存在しないと思われていたものが、初めて見つかった日。日本で初めてある中学生が――卯井廻という少年が、その場所に迷い込んで、救出されて、その様子がインターネットで、テレビで、無際限に流され続ける。毛布にくるまって、乾いた唇で、憔悴した頭で、それでも眠ることを許さない張り詰めた神経で、それを眺めていたあの日。

 

 あの日が、もう一度来たのだと思った。

 何かがまた、決定的に始まってしまったのだと思った。

 

「ぅおっ!」

 

 ぼすん、と後ろで音がした。

 

 驚くべきことが起こった。が、今夜に限ってはそれほど驚くには値しないかもしれない。廻は、振り向く。もう少し早くさあとか、タイミングがさあとか、口にしてしかるべき不平不満が、まだ口にも気持ちにも追い付いてこない。

 

 そうして、彼は見た。

 

「いってぇ……」

 

 煤だらけの嶺一が、ベッドに横たわっている。

 ところで、このときふたりはまだ気付いていなかった。

 

 ついさっきまでの、永遠にも感じた大騒ぎ。実はこれが、この部屋の中に佇むふたりの少年だけの問題ではなかったこと。地方都市の、十畳そこらの和室の中だけで披露されたわけではないこと。東京ダンジョンの中にはモニタリング用のカメラが大量にあって、配信用のカメラも大量にあって、それらがばっちりと、撮影をしていたこと。各々の保存先の端末から始まって、全世界に配信されていたこと。

 

 赤いロボットに変身した少年の動画が出回って、すでにどこの高校に通っているのかも、どんな名前なのかも調べられ始めているということ。

 

 そして、もうひとつ。

 

「おわっ!」

 

 夢から覚めたように、嶺一が飛び起きた。

 

 ついさっきまで信じられないような場所にいたから、いつも寝起きしているはずの部屋すら信じれなくなったらしい。きょろきょろと辺りを見回す。放り出したままの数学の課題とか、ふたりで譲り合ってちょっとだけ残っているスナック菓子とか、ハンガーラックにかけられた夏制服のスラックスとか、そういうのをひとつひとつ確かめていく。少しずつ瞳から警戒の色が抜けていって、最後にはとうとう、廻を見つける。

 

 心底安堵したような顔の後、やっぱり彼は、「信じられない」と言いたげな声色で、

 

「なあ、今のって現実――」

「嶺一」

 

 ふたりのうち、片方は気付いていた。

 片方だけが、まだ気付いていなかった。

 

 だから廻は、ゆっくりと、ゆっくりとその指を持ち上げる。あらゆることが不確かで、意味不明な夜の真っ只中で、ただひとつ、その目ではっきりと捉えたものを、健気にも彼は友人に伝えようとする。

 

 人差し指が、それを差した。

 

「隣、いる」

 

 夢じゃない証拠。

 

 言われた嶺一は、何を言われたかわかっていない。だから彼は素直に、本当に素直に、廻の指の先を見た。

 

 

 

 ベッドの上。

 隣に、眠っている女の子。

 

 

 

「――は」

 

 ご近所一帯、嵐でもなければクレーム間違いなしの大口を開けて、

 

「はぁあああああああ!!!???」

 

 嶺一は、叫んだ。

 

 

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