映写会は、ホテルの映画室で行われた。
元は、公務員の研修に使われていた部屋らしい。プロジェクターの説明書を探す過程で、古い資料も見つかった。珠ヶ浜町職員マナー研修。新規採用県職員交流会。管理職心得~ハラスメントのない、安全な職場をつくるために~。それがホテルに改装されたのちには、これだけ広いのだから宴会場にでも使えばいいのに、なぜか娯楽部屋の一室と扱われるようになった。果たしてどんな映画を上映していたのか、手がかりになるのは、まだ誰も気付いていないホテルの外の町内会掲示板に貼られた水色のチラシだけだ。珠ヶ浜児童会。夏の映画祭り三本立て。
衝立が、部屋を半分ほどの大きさに見せていた。
それでも、天井の高さだけで立派な部屋に思わせる。映画館のように大きくて、映画館ほど立派な椅子は、特にない。他の階でも使われているような『ホテルらしい』椅子もいくつか並んでいるけれど、多くは大したことのないパイプ椅子だ。その不揃いが、かえって部屋の不器用を際立たせる。廻は一度、パイプ椅子に腰を下ろした。けれど佐藤に促されて、千鶴の隣に座り直す。つまり、一番良い席の隣。三条が数名の職員とプロジェクターを相手に格闘して、大した時間はかからなかった。黄ばんだような古い機材に、最新のスマートフォンが繋がれる。
部屋の明かりが落とされる。
何が流れるのかは、もうわかっていた。
イルが動画に添付していた文章は、すでにこの場の全員に共有されている。だから、後はその答え合わせが待つだけ。
この夏の総集編は、そうして、静かに再生を始めた。
少しして、すすり泣くような声が聞こえ始めた。特装室には涙もろい人が多い、と廻は思う。隣を見ると、けれど千鶴は泣いていなかった。暗い部屋の中、拙い動画が発する光が、彼女の頬を白く照らしている。それを廻は見た。見て、画面にもう一度向き直る。
おれって笑うの下手だな、なんてことを思っていた。
動画が終わる。全てが決まる。特装室は――『旧』特装室は、クロガネもなくて、権限も、機材も取り上げられて、それでもまだ自分たちに何かできることはないか、試してみることを決めた。
「私も、同じ気持ちです」
千鶴が、それでも全員を代表して言った。
「この夏の間、私たちはずっとダンジョンの脅威と対峙してきました。その中で、未成年者を戦わせることに精神的な葛藤を覚えたスタッフが少なくないことを、私は知っています。だからこそ、ここにいる全員がわかっているはずだと思います。特装室の活動は、イルさんと八坂さんを始めとした全員の『人々の生活や社会を守りたい』という思いに支えられてきたのだということを。私は、その気持ちを裏切って、この日々をもっとも悲惨な形で終わらせることを、許すことができません」
きっと、と口にするとき、千鶴はきつく瞼を閉じた。
自分にも言い聞かせるように、まっすぐな言葉で、
「向こう側にも、そうしたことを考える人々は、存在しています」
そう、言い切った。
「イルさんのように、知らない世界に飛び込んで、一緒になって戦ってくれた人がいた。互いを知って、戦争を忌避して、自分が元居た世界にメッセージを送ろうとしてくれた人がいた。平和とは、互いの集団の構成員が必死になって『内側から引っ張る』ことで達成されるものです。信じましょう。我々がそうであるように、向こうにもそうしようとする集団があることを。こちらの停戦交渉に、応じてくれる人がいることを」
開戦の日は、割り出すまでもなく伝わってくる。
この翌日に、政府がテレビで大々的に発表したからだ。
陣ヶ堂が出てきて、以前と同じ調子で演説をした。この日に我々は打って出る。主役になるのはご存知我らがヒーロー、クリムゾン・スパーク。当日はリアルタイムで配信をするので、全国民ぜひテレビやスマホの前で応援を。
『日本の力を、一丸に!』
そこに割り込もう、と決めた。
まずはどうにかして嶺一と接触する。そこから話を始めよう。戦力としても士気としても、明らかにクリムゾン・スパークがこちらの要になる。初戦であること考えれば士気高揚のために圧倒の光景を見せたいはずで、もしかすると単騎で出てくる可能性だってある。そこを押さえる。押さえて、戦いの場を交渉のテーブルに変える。
無茶だと、誰もがわかっていた。けれど、そもそも選択肢なんてこの期に及んでほとんどない。少しでもマシだと思えるものを選ぶしかない。
現場に乗り込むための手段が、珠ヶ浜には残っていた。
ダンジョン開発初期にここで製造され、廃棄されることもなく放置された、Eロボの初期型だ。倉庫を開けて、特装室の面々が、同じくこの珠ヶ浜まで駆け付けてくれた志を同じくする製造ラインのスタッフが、短い期間に突貫でその整備と改良に当たってくれる。
打ち捨てられた街で、明かりの消えない日が続く。
廻にやれることは、何もなかった。
パイロットにすら、選ばれなかった。
◇
『地元の星、八坂嶺一くんをみんなで応援しよう!』
そうなんだ、と鈴尾唯子は渡り廊下の向こう、校舎にかかった垂れ幕を見ていた。
昨日の昼に連絡があっての今日だから、多分生徒主体の行事ではないんだと思う。突然決まって、突然準備が始まって、突然招集した。多分、そんな感じ。
そのメッセージがクラスグループに届いたとき、唯子は、テレビの前にいた。
珍しいことだ、と自分で思う。鈴尾家でのテレビの流行は、随分と前に終わった。特に中学に上がってからは、唯子はリビングでだらだら時間を潰すこと自体がなくなっていく。自分の部屋で、スマホで、動画三昧。けれど最近は違った。塾が一瞬だけ休みになって、ぼちぼち再開し始めて、母が言うところの「返金を嫌がってるに違いない」塾が後れを取り戻そうととんでもない時間割のスケジュールを送ってきて、その合間、唯子は一日の大半をリビングで、テレビの前のソファに座って過ごしていた。
昔のことを、思い出した。
もっと小さい頃、夏休みのテレビでは、昔の戦争の話ばかりをやっていた。ニュースとか特番とか、そういうのはよくわからなかった。ドラマは怖かった。でも、アニメは結構見ていた気がする。自分と同じくらいの年の子が主人公なら、何でもよかったのかもしれない。古臭い服とか、真っ赤な空とか、爆発とか、そんなものをリアルに受け止めていたわけではなくて、きっと、どこか知らない世界の出来事を見ているようなもので、それで何かを学んだわけでも、真剣に考えていたわけではないのだけど。
そのテレビで、ドラマでもアニメでもない、今の戦争の話が流れていた。
二時間に、精々五分か十分。総理大臣ではないはずのおじさんが、スタジオに現れて言う。今回の軍事作戦は国際的なバックアップがある。何と鎖国中のアメリカが我々の決断を後押ししてくれた。そうして顔も知らない大統領が、日本の勇気だとか、責任感だとか、そういうのを褒め称える映像が流れる。キャスターもゲストも、みんな拍手して終わる。美しいですねえ。誇らしいですねえ。でも別に、そんなの見たって面白くもなんともない。ためにもならない。けれど唯子は、ずっとそこに座っていた。両親の声掛けにも、弟のからかいにも生返事をして、ずっと、その画面を見ていた。
目を離したその瞬間に、決定的な『何か』が映るような気がしていた。
そのとき、連絡が来る。
応援上映会をやるという。大ヒット映画でも観るみたいに。あるいは、甲子園やオリンピックを観るみたいに。九月下旬某日、つまり明日。とうとう我らが大友人、八坂嶺一くんが出陣されます。地元の皆さんで集合し、大いに盛り上げましょう! しばらく、唯子は何の反応もしない。スタンプも返さない。
みんなが行くというから、自分も行くことにした。
そして今、あの垂れ幕を見て思う。
地元の星なんだ、八坂くんって。
いつの間にか、そんなことになってたんだ。
「――ごめんね。ちょっといいかな?」
びっくりした。
ぼーっとしていたところに、いきなりだったから。
「はい」
そのせいで、唯子は簡単に頷いてしまう。頷いてから、目の前にカメラとマイクがあることに気が付いた。渡り廊下はすでに通り過ぎた。新体育館の玄関口に、いくつものテレビカメラが入っている。地域住民と思しい大人の人たちもいて、出入りの車はひっきりなしで、教員がその交通整理をさせられている。
報道、と書かれた腕章をつけた人たちがいる。
明かに、自分に狙いを定めていた。
「上履きの色、二年生みたいだけど。もしかして八坂くんの同級生?」
はい、ともう一度頷く。
「クラスメイト?」
はい。
「友達?」
まあ、と自信のなさを滲ませてみたのに、向こうはそんなこと気にも留めない。ちょうどよかった、とばかりにカメラに合図をする。
「ちょーっとインタビューさせてもらっていいですか? あ、もちろん顔とか嫌なら後で隠すので!」
はいとかいいえとか、そんな返事をする暇もない。質問が来た。
「どうですか、お友達としては。異世界との戦いに挑むわけですが!」
立ち止まらなきゃよかった、と唯子は後悔をしている。
昔からこういうのに捕まる性質だ。顔立ちなのか何なのか、よく道も訊かれる。ティッシュも配られる。中学生のころ、ちょうどダンジョン関連の怪しい団体が学校の前でパンフレットを配っていたときも、クラスでひとりだけ強引にカバンに押し込まれた。
身内のSNSに写真を上げたりは、別にいい。
でも、それより広い場所に顔を出すことには、何となくためらいがある。いや、何となくじゃない。すぐさま反論が浮かぶ。ほぼ十割、卯井くんのことがあるからでしょ。まあそれはそうなんだけど、でも別に、そういうことがなくたって。そんな取り留めない考えごとが延々頭の中でぶつかって、結局どこにも接続されなくて、
素直に、
「可哀想だと思います……」
「え?」
「あ、いたいた!」
間違った、と気付いたその瞬間のことだった。
腕を取られる。たたらを踏みそうになって、すぐに誰の声なのか気付く。
「探したって、もー! 席取ってあるから行くよ、こっち!」
有無を言わせず自分を引っ張るのは、愛佳だった。
体育館には、一体どこから持ち出して来たのか、全面にブルーシートが敷かれていた。古い方と違って新しい方は、ちゃんとクーラーがかかっている。しかも快適。入学式も卒業式もこっちでやればいいのにと全校生徒が思っている。パイプ椅子が所狭しと並んで、後ろの方は知らない人たちで、前の方が在校生。知った顔が何人もいて、あ、とか。久しぶり、だとか。そういう小さな挨拶を交わす。耳元で愛佳が言う。
「やめな、ああいうこと言うの! 目立つから!」
小さな声で、本気の心配の声色だった。
「……やっぱそう?」
唯子は、なぜそういうことを言われるのか、半ば自分でわかっている。キャスターの顔も、カメラマンの顔も、はっきりこう言っていた。
期待外れ。
「当たり前」
と愛佳は頷いた。
「あんたほんと、のんきなのはいいけど、水差すようなことだけは言わない方がいいよ。今、こんな感じだし。誰がどこで聞いてるかわかんないんだから」
それ以上は、愛佳も責めなかった。
そして、席を取っていたというのも満更嘘ではない。何と二年五組は特別待遇だ。最前列近くの席がすでに確保されていて、いくつものテレビカメラが自分たちを監視している。最悪の席、と唯子はうっすら思うけれど、近付いてみれば、見知ったクラスメイトたちは皆、自分とは比べ物にならないほど意気揚々とインタビューに答えていた。
「いや、八坂はすごいっすよ」
訳知り顔で、
「ちょっと普段は大雑把だけど、やるときはやるっつーか」
「気合入ってるよな」
「なんか主人公って感じで」
「色々ネットで言われてるらしいけど、ああいうのマジで腹立ってます。八坂の文句は俺らに言え!」
「自慢です。うちらの」
できるだけ後ろの方の席に座って、びっくりしたよねとか、そういう普通の話をした。
するとそのうち、スティックバルーンが配られ始めた。野球部の夏の応援なんかに使う、叩くとバンバン音が鳴るやつ。そのうち「バルーンの使用は応援上映が始まってからお願いします」のアナウンスが入るくらいには、みんな手元で鳴らしていた。唯子も同じように一度だけ、ばす、とそれを鳴らす。二度はその気が起きない。薄っぺらの背もたれに身体を預ける。
そうなんだ、と思う。
私はこれから、八坂くんのことを応援するんだ。こんなの必死になって鳴らして、応援上映会なんだ。思ってること、言っちゃいけないんだ。カメラが寄ってきたら、「自慢に思ってる」とか言った方がいいんだ。
でも、と顔を上げたとき、壇上にはすでに薄く映像が流れている。
こっちの体育館にスクリーンがあるなんてこと、初めて知った。会場が明るいから、まだすごく淡い光で、見えないくらいの色の濃さで、国営放送が流れている。音はしない。その脇には生け花みたいに、燃やすと刑務所に入れられる旗が掲げられている。その上には、どこの誰に書いてもらったのか、随分立派な筆文字で、今日のイベント名が書かれている。
『日本の救世主 八坂嶺一さん応援会』
戦争に行って、国を背負って戦う。
私だったら、絶対嫌だけどな。
取り留めのない、答えのない疑問ばかりが頭に浮かんでいた。八坂くんは違うんだろうか。卯井くんは、今どうしてるんだろう。学校に来て、この席に座って、一緒に隣り合って、バルーンを鳴らして、画面の中の『救世主』を応援するんだろうか。それとも別の場所にいるのか。今、どんな気持ちで、何を考えて、何をしてるのか。
聞こえる喧騒の、全てが遠い。
私がおかしいのかな、と唯子は思った。
◇
松市勇気は、こんなことになるとは思っていなかった。
十七までは野球部で、大雨が降って最後の大会に出られなくなった。そのとき地元にやってきた自衛隊の働きを見たのが、進路の分かれ道。体力には自信がある。やる気もある。頭の方もまあ、成績はともかくとして、野球がこれだけできたのだからそれなりのものがあるはずだ。隊に入ってからの生活も、強豪の大学野球部に入ったと思えばこんなものだろうという気がしたし、転職先がはっきり見えるような仕事でもない。このまま各地で災害救助に励んで、もちろん上手くいくことばかりではないし、後悔だってすることもあるけれど、きっと最後には人に胸を張れる。そういう人生になると思っていた。
だから、ボコボコに弱った爺さんの見張りなんて、一生するつもりはなかった。
人質を取るなんてことは、自分じゃなくて『敵』のすることだと、固く信じていた。
『嶺一さんは中学時代、その恵まれた身体能力とリーダーシップを活かし、バスケットボールではチームを勝利に――』
テレビからは、中継映像がずっと流れている。
スイッチは、ボコボコに弱った爺さんが入れた。
松市は、命令に「なぜですか」とか余計なことは言わない。特にこういう非常事態とあっては、いちいちそうやって問い掛けること自体が時間の無駄になるはずだと思っている。考えるのは頭の仕事で、手足の仕事は動くこと。俺は手足。同じようにして東京ダンジョン周りで待機している同僚も、多くいるはずだ。
それでも、集合場所に都内の総合病院を指定されて、病室に連れてこられたのには驚いた。
はっきり言って、まだ心の整理がつかない。
そもそも、テレビなんか流していていいものなのかとずっと疑っている。監禁中なら、こんなの以ての外ではないのか。しかしもしかすると、監禁ではないという体でこの空間が作られているのかもしれない。となると場を乱してはならない。そもそもダメなのだったら、ハナからテレビのない部屋を選ぶはずだ。何かあったとて、俺の責任ではない。上が決めたことだ。自分に言い聞かせる。
上が決めたことだ。
「――君」
だから、話しかけないでほしかった。
「窓を――」
「黙ってろ、爺さん」
靴を鳴らして、ちんけな威嚇をした。
「頼むから、俺に余計な仕事をさせないでくれよ」
ろくな説明を受けていない。だというのに、よりにもよって、「いざというときは」という話だけはたっぷりされている。
発砲していい。
いいわけないだろ、と松市は思っている。
本当は言い返してやりたかった。自分より十は年上の上官に向かって、お前それ同じこと言われたら「はいわかりました」って心から言えんのかと。発砲も何もちょっと小突いたら骨折ってお陀仏になりそうな死にかけの爺さん捕まえて、熊でも相手にしてるつもりなのかと。言えない。言わない。普段からそういう態度でいるから、今更変えられない。だから松市は、ずっと思っている。話しかけるな。思い出している。あれは今や十年近くも前のこと。高校の球技大会でのことだ。卓球部がさっさと卓球の枠を埋めてしまって、後はバスケとバレーのどっちか。本当はバスケが良かったのに、いつの間にかバレーに入れられていた。バレーってやったことないと難しいじゃんというのが理由で、いや俺だってやったことねえよ野球部が全員運動神経良いと思うなよ。そうして人生で初めて、憂鬱な体育の時間というものがやってくる。頼む神様ボールがこっちに来ませんように何事もないまま終わりますように――
山蔵が、咳き込み始めた。
「おい」
声なんかかけなきゃいいのに。
放っときゃいいのに。そう自分でも思うのに、松市は声を掛けてしまう。
「大丈夫かよ。医者呼ぶか?」
ひとしきり、咳は続いた。
人質に死なれたらたまったものではない、なんて賢いことを考えていたわけではない。普通に、困った人を見ればいつでもそうするように、松市は身を屈めた。死にかけの爺さんの、どう考えても自分に危害を加えることのできない無力な老人の背を、優しくさすった。
咳が収まる。
八坂山蔵が、じっとこちらを見つめていた。
「なあ、君」
まずい、と気が付いた。
山蔵の手が、自分の手首にかかっている。まさか振りほどけないわけじゃない。合気道の達人とか、そういうわけじゃないと思う。力も入っていない。首に手を掛けられているわけでも、腹に銃を突きつけられているわけでもない。
だというのに、その目を見たとき、松市は悟った。
「良心は、あるか?」
間合いに入っちまった。
振りほどきゃいい。頭ではわかっている。余計なことを言うな。黙ってろ。そう言って、適当に番号でもつけて無視してやりゃあいい。わかってる。
「か、」
声が裏返った。
それで、ほとんど勝負は決まっていたのだと思う。
「勘弁してくれよ、爺さん。こっちだって仕事でやってんだ」
訊かれてもいない言い訳が、頭の中をぐるぐる回った。
そうだよ。仕事だよ。別に悪いことしてるわけじゃない。法律を破ってるわけじゃない。上が決めて、上が命令してんだ。末端が余計なことを考えちゃいけない。組織はそれじゃ立ち行かない。だから別に、俺だけが悪いとかそういうわけじゃなくて、
「家族のことなんだ」
なのにどう客観的に見ても、ここで、この場所で、この痩せた爺さんと向かい合っているのは、自分自身に他ならない。
「頼む」
頭を下げているのは、向こうの方だ。だというのに松市は、頼むから、と思っている。
頼むから、とんでもないことを言われますように。
どうか、自分が鼻で笑って断れるようなことを、この爺さんが言いますように。
◇
クリムゾン・スパークを纏っているときが、一番落ち着く。
分厚い鎧が、自分を守ってくれる気がしたからだ。
東京ダンジョンの、Eロボの格納庫でひとり嶺一は丸まっている。ここに来たのは結局、初めてのことだ。一番最初、あのギガメムが出たときも、途中でイルにテレポートで家まで送ってもらったから。踏み込めば、中は異様な雰囲気だった。自分より遥かに背の高いロボットが、暗がりの中でいくつも並んでいる。空調がよく効いている。寒い。空間のスケールもおかしい。人間じゃない、それこそロボットくらいの大きさの巨人が残した、ずっと昔の遺跡のようにも思える。床が妙に硬くて、靴で踏むだけで甲高い音が鳴る。ずっと、何かの機械が稼働する低い音が響き続けている。
妙に広くて、妙に寂しい。
だから待機を命じられてから、誰に言われるでもなく、嶺一は赤い鎧の中に閉じこもっていた。
それは、イルの手助けを借りて『着て』いたときともまた違った感覚だった。自分の電気だけで、自分の意思だけで、この『ドレス』を着ている。目を閉じれば、何も見えなくなる。風もなくなる。何もかもから閉ざされて、この場所で、機械の洞窟の奥底で、永遠に生きていられる気がした。
『――準備はできたか?』
そんなのは幻だと、わかっている。
目を閉じるみたいには、耳を塞ぐことはできない。嫌でも声は頭の中に入ってくる。返事をせずにいれば、勝手に笑った。
『緊張しているようだな。ま、しょうがない。だけどな、嶺一。男たる者、いつかは一端の戦士として戦わなきゃならん。お前のところはどうだか知らんが、この国の先人たちはそうしてやってきたんだ』
別のことを考えよう、と思った。
『はっきり言ってしまえば、お前みたいなやつには居場所はないよ。何も意地悪で言ってるんじゃない。純然たる事実として、どこかよそで生まれた奴っていうのは、どこにも根っこってやつがない。居場所がないんだ』
廻といた頃は楽しかったな、と思った。
過るのは、この夏の始まりのことだ。あんなものが当たるなんて思わなかった。コンビニで半額のチョコパンを買っただけで、海老で鯛を釣るとはこのことで、ぶったまげた。誰とやろうか。バカでかい箱を抱えて六月、いきなり炎天下になった街をえっちらおっちら歩くうち、廻の顔が思い浮かんだ。いつからだろう。中学の友達がみんな別の高校に進んで、悪い意味じゃなくお互いの距離が開いた。クラスの友達もたくさんいたけれど、このへんはやっぱり、電車が五十分に一本だったりするから、家が遠いとなかなか付き合いも難しい。その点廻は、あれで付き合いが良いから、いつの間にかそういう枠になっていた。
嫌がるかも、と思わなかったわけじゃない。
今思えば、ひどく勝手な理由が、そこにある。
高校に入ってバスケを辞めた理由と、それはよく似ていると思う。弱小チームから始まって県大会へ。柄にもなくキャプテンなんか務めて、あの頃は間違いなく、眩いくらいの青春だった。それでももう、今ではボールすら触らなくなったのは、本当のところバスケが好きなわけじゃなかったからだ。他に誰も行かなかった県選抜の練習で気が付いた。好きだったのはチームだ。改めてボールに触って、それがなくなったことを実感するのが怖かった。
だから、ずっと一緒にやれる奴がいい。
ずっと、自分と付き合ってくれる奴がいい。
もちろん、甘えてるばかりじゃない。どこかでは思っていた。廻を何かに誘おうとするたびに頭に過る「嫌がるかも」とか「これダメかも」とか、そういうの。廻のせいじゃないとわかっている。だから余計に腹が立って、苛々して、そんなもの、確かめてみたら綺麗さっぱりなくなってましたって、わがままついでにそんなオチがついてくれたらいいと、心のどこかでは、本気でそう思っていた。
余計なお世話だっただろうか。
『だが、日本という国はな、とても寛容で美しい国なんだ。多神教ということひとつとってもわかるだろう。外から来たものを受け入れて、自分たちのものにする力が――』
そんなこと、しなければよかっただろうか。
今にして思えば、最初のことすら偶然ではなかったのかもしれない。
Eコン。当たれ、と願っていたから。
いつの間にか、力の使い方がわかるようになっていた。電気を出そうと思えば簡単に出せる。ドレスを着ようと思えば着られる。どこをどう動かしたら何ができるのか、知識でも理解でもなく、直感でわかる。イルと乗っていたときとは、比べ物にならない。
でも本当は、ずっと前から無意識に、それはできていたのかもしれない。
こういうことができるなら、Eコンが当たったって何おかしくない。考えてみる。イルならどうだろう。一等当たれば本マグロ。腕まくりして、気合を入れて、やっぱり、それだけで当てられそうだ。
格納庫の扉が開いていく。
『さあ、嶺一』
イル。
イルは今、どうしているだろう。
タイミングが合わないと、向こうに帰れないと言っていた。だったらまさか、まだこっちにいるのか。このダンジョンのどこかに、あの日のように隠れているのか。そうじゃなければいい、と思う。銀行の金庫扉を百倍巨大にしたみたいなシャッターが開く。歩き出せば、いつもの殺風景。その景色の中に展開する向こうの世界のEロボたちに、電波を飛ばす。届く限り、わかる限り、人間なんかどこにも見当たらない。無人機が、無人の兵器だけが、自分の対峙する相手になる。
その先に人なんて、いなければいい。
本気でそう思うから、嶺一は願う。
ここで、
『先人たちの雄姿を胸に、勇敢に戦うんだ。大丈夫、俺たち頼りになる兄貴分がついてるぞ!』
誰も殺さないでいられるうちに、ここで誰か、俺を殺してくれ。
『行け!』
真っ赤な翼が、開いた。
奇襲だとか先制攻撃だとか、そう大したものではない。だというのに、向こうの機械の反応は、遥かに鈍かった。何も難しいことをしているわけじゃない。ただ速度を上げて、突っ込む。特装室のバックアップも失って、ゲームなんかてんで下手で、嶺一がひとりでできることなんて、精々がそのくらい。
それだけで、向こうの兵器が弾けていく。
掠ればまっぷたつになる。
ぶつかれば、粉々になる。
疾駆し、飛翔する。十三番格納庫から出てすぐのダンジョンは、空の見えるダンジョンだ。天井がなくて、ついでに月も星もない。太陽もない。迸る淡い稲妻だけが光源になる小規模な宇宙を、あるいは宇宙よりもずっと広大な空間に、一羽の赤鋼の鳥が、翼を広げる。風を切り、火焔を吐いて、縦横貫き飛び回る。引き裂かれた機械の残骸が宙を舞い、鳥は、全てを見下ろした。
生身で見たときには、途方もない場所に見えた。
それが今や、小さな庭にも映る。
それはあの嵐の日、家の物置がひどく小さく見えたこととも重なって――
「は」
妙な笑いが、ついて出た。
『いいぞぉ嶺一!』
その声が聞こえたのかどうなのか、耳元の声はさらに大きくなった。
『良い調子だ! お前は日本を背負って大いに――』
舌打ちを抑えるだけの理性が残っていることに、むしろ驚く。けれど、苛立たないわけではない。こんなもの届かなければいいと思う。
やり方は、もう知っていた。
前後左右を見回して、味方なんてひとりもいないことを確かめる。ほんの一瞬の間に、向こうだって黙っちゃいない。兵器が立ち上がる。光を放ち、こちらに砲口を向けてくる。こういうときに使うものだ。嶺一は、その技の名前を頭に思い浮かべる。今なら使える。理屈はわからないけれど、感覚がわかる。
ヤサカニ。
特装室がくれた身を守る術を、戦場に解き放つ。
妨害電波が、壁に、床に当たって広がっていく。一瞬、向こうの兵器が停止する。再起動する。別に、これで決着なんて期待してたわけじゃない。動けばいい。向かって来ればいい。必要なことは、もう達成できている。
耳障りな音が消える。
誰の声も届かなくなる。
ダンジョンの中、嶺一は、あの日のようにひとりきりになって思う。
俺は、どこへ行くのだろう。