『誰にでも戦争を止める権利はあるのか
著・梓間千鶴』
電車の中に、知っている人の広告が出ている。
すごい、と廻は思った。
海を右手に、車両は進んでいた。水面から反射した光は架線柱にときどき遮られて、土の足跡がついた床に、気の長い縞模様を作る。座席はふかふかに温められて、どんな虫もそこでは生きていけそうにない。
廻はカバンを胸に抱えて、その席のひとつに座っている。
あまりの眩さに、ずっとは顔を上げていられない。サングラスでもかけてくればよかった。座る場所、こんなに日の当たる場所にしなければよかった。そうしたら、もっとまじまじ見ていられたのに。目を瞑っても、光が瞼の裏に残っている。少しだけ俯いて、帽子のつばを下げた。
「――あるのかって、なくね?」
だからかもしれない。
人の声が、はっきりと聞こえた。
目線を床の上に滑らせると、光の中に、薄汚れたスニーカーが二組見えた。片方は裾を捲って、足首に巻いたミサンガを見せている。もう片方は右足だけで立って、多分つり革を掴んでいるのだろう。左足はほとんど浮き上がるようにして、爪先だけが床についている。
多分、高校生。
ふたりとも似たようなスラックスを履いていたから、そう思った。
「法律で『この人の命令に従え』って決まってんのに無視したらダメだろ。フツーに」
たかが二両編成の電車で、乗客は、それほど多くはない。
だから自然と、廻の耳にその会話は届いてきた。
「法治国家だし?」
「てか、陣ヶ鉢さんも言ってたけど、こいつらやってることテロリストと同じじゃん。なんで国のために戦った方が逮捕されてこっちが本とか出してんのか、わけわかんなくね」
頭腐ってんだろ、と片方が笑う。
もう片方は、そんなに笑わない。
てか二百万部ってすごくね、と話は続く。すごいか? 漫画とか何億部って売れてね。確かに。じゃあ、そんなすごくねーか。つかこの対談してる相手誰? 学者らしいけど、有名? 知らねー。まあ、どうせこんなことやって小遣い稼ぎしてるような奴ら、見掛け倒しか。本物の理系の学者とかなら、人前に出てきて喋ったりする必要ねーもんな。
てかさ、
「ぶっちゃけ、戦争になった方が面白かったよな。したら今頃俺ら、受験とかすっ飛ばして超偉くなってたかもよ」
答えはない。
次の駅を知らせるアナウンスが流れて、廻はようやく席を立つ。
片方と、目が合った。
「――おい、」
そして、もう片方が脇腹を肘でつつかれる。なんだよ、とやり返す。いやなんだよじゃなくて、
「おれは、」
目の前に立つと、ふたりとも口を噤んだ。
「全然、面白いとは思いません」
返答を待つ時間はなかった。
開いたドアが閉じていく。少しの余裕を持って廻はそれをくぐって、言い逃げになるのも格好悪い。もう一度振り向くけれど、ふたりは顔を見合わせるばかりで、それ以上の言葉はない。そりゃそうだ、と廻は思う。逆の立ち位置なら、自分もそうなる。言葉が何であれ、咄嗟に言い返せる気はしない。
ドアは閉まり、列車は行く。
電車が去ると、その向こうにもまた海が見えた。
ずっと昔にも、こうしてこの場所に来たことがあった。自動改札はなくて、駅員がひとり立っている。数人の並んだ後に廻も続いて、切符を見せて、先へ進む。
『珠ヶ浜』と書かれた駅舎を出ると、真っ白だった。
激しい陽光が、アスファルトに当たって霧のように散っている。意外にも、それなりに賑やかな空気だった。先に駅舎を出た人々は、テレビ会社のロゴが入った軽バンの周りに集って、首にタオルを掛けながら、何事かを話している。海辺の街で、けれど再び、セミの鳴かない夏が来ていた。駅舎の軒下で、燃えるような高温を肺に感じながら、廻はじっくりと覚悟を決めている。帽子を深く被り直して、スマホなんか、この明るい中では画面もよく見えない。
それでもとりあえず、歩いていればそのうち着くだろう。
徒歩二十分。
海までの第一歩を踏み出したとき、ぷぷ、とクラクションの音がした。
「――真田さん?」
よ、と。
いかにも高そうな青い車の窓から手を出して、気さくに挨拶してくれる。乗れよ、とジェスチャーをされて、少し悩む。悩んでから、うっかり後部座席に乗りそうになって、慌てて助手席のドアを握り直す。開けて、乗って、さっきまでいた電車よりも遥かに涼しい。
「お前さあ」
なんと、一言目から説教だった。
一年ぶりに会ったのに。
「電車で来るか? ふつー。三条にタクシーでも手配してもらえよ」
「タクシー、ちょっと苦手で」
「なんで」
「嫌じゃないですか。知らない人と密室」
左折のウインカーが二度鳴る。
大した車通りはない。ぐいっと我が物顔で車道に出て、すぐの信号で止まる。とん、と人差し指でハンドルを叩いて、真田は言う。
「……ああ。そういう顔してる」
どういう顔ですか、の質問に答えはない。
赤信号は、無意味に長かった。だから、廻も多少話を振らざるを得ない。車は買ったのか。普段から運転はするのか。何か他についでの用事があって拾ってくれたのか。答えは順に、いいえ、いいえ、いいえ。若干の不安を覚えた頃になって、信号は青に変わる。
カーラジオから、微かな声がする。
『陣ヶ鉢緊急政権については、軍事クーデターであるとする見方が専門家の間では主流となっているところですが――』
『いや、あのねえ。クーデターだとか何だとか、あなたたち安全圏にいた人たちは好き放題言いますけど。知ってます? あのとき我々がどれだけの重圧と向き合って決断を推し進めてきたか。はっきり、これははっきりね、言いますよ。今までのこの国が下したどの決断よりも重かった。陣ヶ鉢くんもそうですが、我々もね、この国を愛してるんですよ。大体、学者や裁判官が、公務員が、国民から選ばれていますか? こういうね、高度に政治的な判断を上から目線でジャッジしようなんてそれこそ本当の――』
「最近どーよ」
今度は、真田から言った。
「受験勉強とか。高三だろ、確か」
「ああ、まあ。全然」
「全然捗らない?」
いや、と廻は口ごもる。どこから話そうかと考えて、それなりに根元の方から話すことに決める。
「どっちかって言うと、進路の方が問題で」
「ほう」
「向こうの大学に行ってみないかって言われてるんです。おれ、ほら。向こうの人とちょっと近くなったから。多少生活しやすいだろうって、最初の交換留学生の枠で」
「そんなんあんの」
「あるんです」
「行くの」
「多分。一応、今は向こうの同年代くらいまでの教科書とか送ってもらって詰め込んでて、間に合いそうではあるんですけど。向こうに行って何を学ぶかとかは、まだイメージがつかなくて」
ふうん、と真田が相槌を打つとき、それはそれは広い三叉路に差し掛かる。
馬鹿げた広さだ。しかも、他に車もない。これなら自分でも運転できるとすら廻が思うような道を、ゆったりと車は右に曲がっていく。駐車場はこちら、の色褪せた看板を通り過ぎて、カーナビは『目的地付近です』とだけ告げると、急に仕事を放棄して案内をやめてしまう。
ま、と真田は言った。
「何とでもなるだろ」
投げやりな男の運転する車が、丁寧に大駐車場に停まる。
ここもまた、信じがたい広さだ。近隣のショッピングセンターのそれにも匹敵するような広さで、やはり駅と同じように、テレビや新聞社のロゴの入った車が並ぶ。アスファルトは熱されすぎたのか無数に罅割れて、ドアを閉じれば、街の隅々までその音が響いた気がする。こっち、と真田が指差した方に一緒に歩いていくと、
「お、」
見知った顔が待っている。
澄み渡る海を背負って、特装室の面々が揃っていた。
しかも、それだけではない。この炎天下に、テレビクルーが数十人とたむろっている。あの真っ黒なカメラは、日の光を吸って壊れたりはしないのだろうか。砂浜でバランスを崩したりはしないのだろうか。かろうじて海風が吹いているのが救いと言えば救いで、白い波は何度も打ち寄せて、巻き上げられた緑色の葉が沖の方まで攫われていく。真田がひょいと放り投げた車のキーは、三条の少し手前で失速する。
それでもキャッチして、
「久しぶり。卯井くん」
「久しぶりです~!」
三条と佐藤が挨拶してくれれば、後はもう、囲まれるだけだ。
親戚の集いって、もしかするとこんな感じなのかもしれない。最近どうとか元気にしてるかとかちゃんと食べてる困ったことないここに来るまで迷わなかった? そういうことを立て続けに訊かれて、まあそれが、廻はそんなに嫌じゃない。ただ、本当は自分のことを話すより、みんなが今どうしているかの方が気になる。進路困ったらうち来なよと声を掛けてくれる人が、特装室が解散した後どこで働いているのか、実のところ廻は、全然知らないままでいる。三条の髪はいつの間にか短くなっていたし、佐藤は千鶴の傍にいない。
ああ、と佐藤が頷いて、
「千鶴さんなら、向こうにいますよ。今――」
浜辺で総理大臣と喋っている。
すっかり包帯の取れた、山蔵とともに。
おぉ……と真田が代わりに、廻の心情を代弁してくれた。一緒に挨拶行こうか、と三条が冗談めかして言う。冗談でもやめてくれ、と廻は思う。佐藤が言う。やめた方がいいですよ。千鶴さん、ずっと政界から引っ張られてますから。山蔵さんもそうらしいですし、卯井さんが顔を見せたら一緒に連れていかれちゃうかも。こっちはなんと、冗談めかさない。勘弁してくれと廻は思う。思うが、ほんのちょっと前の電車での一件が頭を過る。
やっぱり、自分も少しくらいは。
そう思って一歩踏み出そうとした瞬間、千鶴がこっちを見た。
「――――、」
一瞬だけ彼女はやわらかく微笑んで、唇が何かを伝えようとする。
でも、すぐにそれどころじゃなくなった。
「はい。それではこちら。珠ヶ浜から中継しております」
次々に、テレビクルーたちが動き出したからだ。
リポーターがカメラに向かって話しかけ始める。千鶴が何かを言う前に、新しい首相の後ろから秘書官が現れて、何事かを伝える。いよいよだ、と三条が呟いた。いいんですか真田さん、と佐藤が言った。配信とかしなくて。うーむ、と真田は腕を組んだ。結構頼まれてんだけど、いざ来たらあんま気分じゃねえな。でも、歴史的瞬間ですよ。うーむ。
悩んでいるうちに、その時は来る。
海の向こうから、それはゆっくりと現れた。
大きな、大きな船だ。
奇妙な形は、メムと似ている。より正確に言うなら、AMEMに似ている。けれどもう、そういう呼び方を廻たちはしない。もっと簡単な移動の仕方があるのだからそれを使えばいいのに、外務省とか首相官邸とかそういうところが、一年弱をかけて何度も何度も協議を重ねて、公海に一度姿を現してからのんびり領海内に入場してくる。そういう手筈で招待した、一隻の『船』がやってくる。
砂浜に直接上陸は、技術的な問題なのか、それとも気持ちの問題なのか、してこない。
代わりに、その甲板から何かが飛び立った。
それは、この場にいる人間にはひどく見慣れた機械だ。
それでもいくつものカメラが天を仰ぐ。シャッターの音が響く。真っ青な空を惜しげもなくまっすぐに、そのロボットは駆けてくる。とんでもない砂煙を巻き起こすかと思ったら、いつの間にそんな練習を積んだのか、そうでもない。ゆっくりと、音もなく降りてきて、
クリムゾン・スパークはその鎧を解いていく。
歓迎の拍手が、彼らを出迎えた。
廻は、その場にいた人々の顔を知らない。四十半ばくらいに見える女性は、位置関係からして一番偉い人に見えるが、外交大使なのか首相なのか大統領なのか、向こうの歴史の教科書には、まだ載っていない。その周りにいる人たちも、秘書官なのか大臣なのか、全くわからない。流暢な言葉で彼女が訪問の挨拶を告げる。カメラはみな、彼女の方へ向く。
けれど廻は、全然違うところを見ている。
向こうもそうで、だから、手を挙げて名前を呼ぶ。
そうしたら、応えてくれた。
「メグル!」
長く、奇妙な夏だった。
それでもそれは、永遠には続かなかった。
毎日のように顔を合わせる日々は終わった。あの小さな部屋の中でふたりで肩を並べていた時間も、三人で額を寄せて笑い合っていた時間も、やがては過ぎ去った。破局が訪れた。それを乗り越えた。それでも、離別はやってくる。イルは自分の家に帰り、千鶴はさらに大きな責任を負う場所へと歩みを進める。嶺一もまた自らを知り、より多くのものと繋がるための旅に出た。
そして、廻はといえば――
「ね、おねがいおねがいおねがい!」
「わ、」
まるで昨日の続きのように、イルに手を引かれた。
彼女は、人波なんてまるで気にしない。違う世界に来たことなんて気にも留めていないような顔をして、我が物顔で砂浜を走ってくる。おい、とそれを困った顔で追いかける嶺一がいて、追いつく前からイルは言う。
「渡航許可が出たから、めっちゃやりたいことあるの! あのね、こっちの観光vlogみたいなの作って流したいなと思うんだけど、折角ならメグルにカメラを回してほしくて――」
会えない間、ずっとそんなことばかり考えていたのだろうか。
あれもこれもと、にこにこ笑いながらイルはまくし立ててくる。こいつ向こうにいるときからこればっか、と嶺一が苦笑する。
そう。
そして、自分はと言えば――
「真田さん」
ん、と真田は驚いた顔をする。
その場の全員が想像していなかっただろうことを、廻は言う。
「一枚、撮ってもらっていいですか」
佐藤が、一番最初に動いてくれた。
室長、と昔の呼び方で彼女を呼ぶ。ちょっと、と千鶴は少し困ったような、怒ったような顔でこっちに来てくれる。挨拶中に失礼でしょ。それはそのとおりなのだけど、そこまで説得力はない。握手の最中だったこっちの首相と向こうの代表まで騒ぎに気付いて、肩を竦めてこっちに来てしまう。どんどん大事になって、カメラの全てがこっちを向く。
ついさっきまでにこにこ笑っていたくせに、知り合いは全員、廻の顔色を窺い始めている。
だから廻は、最初にまず、嶺一の手を固く握った。
真田は、持て余していたスマホを片手に、にやりと笑った。
「――っしゃ。任せとけ」
驚いた顔なんて、後はほんの一秒もさせない。
真田が言えば、反射みたいに嶺一がイルの手を握る。イルと一瞬目が合って、ようやく笑顔が戻れば、有無を言わせず千鶴が巻き込まれる。真田がスマホを構える。本職らしい堂に入った構え方で、とても配信者のトップ層とは思えない、ありきたりな言葉を口にする。
一足す一は?
答えとともに、飛び上がる。
夏が過ぎてゆく。
そして廻はといえば、一枚くらい、友達と笑顔の写真を残せるようになった。
(了)