主人公の友達   作:quiet

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02話(前)

 

 

 嫌なことがあったときは、眠るに限る。

 それでもときどき、嫌なことは夢の中まで追いかけてくることもある。

 

 廻は、暗い場所にいた。

 

 音もしない。声を上げても、何も返ってこない。空気は暖かくも冷たくもなくて、今自分がここにいるということが上手く感じられない。そんな場所に、ひとりで立っている。

 

 何かに追いかけられて走れるなら、その方がよかった。

 他に何もないんじゃないかと思いを巡らせることの方が、ずっと怖かった。

 

 走った。

 足が疲れても、息が乱れても、「しょうがないなあ」とは誰も言ってくれない。立ち止まって、声を上げて、歩き出して、何度も何度も繰り返して、それでようやく、光が見える。

 

 出口だ。

 

 息も絶え絶えで、ふらつくように這い出せば、ぱしゃ、とシャッターの音が出迎えた。

 

 さっきまであれほど恋しかった光が、今度は怖くてたまらなくなる。四方八方から、フラッシュが焚かれる。口々に言葉を投げつけられる。今度もまた、廻は怖くなって逃げ出す。今度は、声が追いかけてくる。

 

 ――自分で入ったんでしょ?

 

 どうしてあんな場所にいたんですか? 怪しいよ。何かを隠してる。何考えてるんだろう。中学生にもなって。ガキって馬鹿だから。それにしたってもっとさあ。常識がないんだよ。親が悪い。学校の程度が低い。信じられない。目立ちたがり屋なんでしょ。最近の子どもってそんなのばっか。炎上して満足なんじゃない? 人気者になれてよかったね。そんなことのために人に迷惑かけてさ、どっかおかしいんだよ。

 

「考えなしのガキなんて、死ねばよかったのに」

 

 扉を閉める。

 家だ。

 

 鍵をかける。チェーンをかける。ドアノブを握ったまま、じっと、廻は耐えている。自分の呼吸の音だけが聞こえる。東京にいた頃の実家。森の香りの大きな消臭剤がいつも置いてあった。シューズボックスに靴べらが三つもかかっていた。傘は六本。ペンギンの玄関マットは、白いところが少しだけ汚れているのに、自分が「捨てないで」と泣き喚いたものだからずっとそのままにしてあると、昔に教えられた。

 

 けたたましく、スマホが鳴る。

 

 ポケットから取り出して、床に叩きつけた。

 

 ガラスが飛び散る。着信音が消える。私立に行く友達とも連絡が取りたいからと言って、買ってもらった。本当は白色が良かったけれど、在庫がなかったから紺色で我慢した。GPSを入れないのは信頼の証だと、だから日頃からちゃんとするようにと、たった一回だけ言われた。

 

「廻」

 

 肩に、手を掛けられた。

 

 何度も見る夢だから、この先の言葉を廻は知っている。知っていて、動けない。息は荒く、鼓動は高く、耳を塞ぐこともできずに、立ち尽くしている。

 

 母が、静かに呟いた。

 

「お母さん、もう限界みたい」

 

 

 

 

 

 

 目を開けると、知らない女の子がいた。

 

「うわっ!」

 

 というのも人の顔を見て失礼な話だけれど、びっくりしたのだからしょうがない。廻は飛び退る。向こうも向こうでびっくりしている。飛び退る。

 

 部屋の中、小リスと子ウサギが睨み合うような、緊張の一瞬。

 

「おう、卯井くん。起きたかい……」

 

 そこに山の名を持つ翁が襖を開けて闖入し、目を丸くする。外ではすずめがチュンチュン縄張り争いする声が聞こえる。

 

 にっぽんむかしばなしみたいな朝だ。

 

 それからようやく、ゆっくりと廻の頭は目覚めていく。どうして自分の部屋以外の場所で目覚めたのか。寝る前まで何をしていたのか。なぜ身体がすっかり冷え切るようなエアコン直撃の場所で横になる羽目になったのか。

 

 全部思い出して、考え込んだ末に、

 

「――夢?」

「じゃないんだな」

 

 山蔵の後ろから、のそっと嶺一が顔を出した。パス、と言うから廻は身構える。飛んでくる。高カロリーの菓子パンと紙コップ。昨日冷蔵庫から出した麦茶のポットは、まだテーブルの上に置いたまま。

 

 嶺一はちょっと疲れた顔で、同時に何となくの笑みを滲ませて、言った。

 

「寝ても覚めても、全然現実」

 

 昨日は結局、諦めて寝た。

 

 としか、廻も回想のしようがない。コントローラーを握って、ダンジョンに潜った。そうしたら嶺一が突然テレビの中にワープした。ダンジョンの中で大変だった。ものすごく嫌な気持ちになりながら頑張って嶺一を護送していたら、もうひとりダンジョンの中に迷い込んでいるのを見つけた。見知らぬ女の子。放っておけなかったらしくて、嶺一は勝手に駆け出した。

 

 赤いロボットに大変身。

 敵を倒して、一件落着して、女の子ごと部屋に帰ってきた。

 

 何ができるというのだろう。

 

 わかる人がいるならぜひ教えてほしい。少なくとも廻は、そう思っていた。女の子は死んだように眠っていて、何も話さない。わからない。本当に死んだのかと思って救急車を呼ぼうかと思ったら、すぴー、すぴー、と寝息が聞こえてくる。嶺一に「この子何なの」と訊いても「わかる人がいるならぜひ教えてほしい」なのはまるで同じで、何も埒が明かない。手がかりも何もない。あーだこーだ言って何の意味もない。ついでに言うと本当に疲れて疲れて疲れ果てて、体重が三キロくらい落ちた気がしていた。

 

 だから寝た。

 

 だから、問題は今に至るまで持ち越されている。

 

「……えーっと、」

 

 廻は、『問題』をじっと見た。

 

 向こうもまた、じっと見つめ返してきた。あるいは彼女にとっては、自分たちが問題なのかもしれない。それでも何か、折角こうして目を覚ましてくれたわけだし、何か訊いてみよう――でも、その前に、

 

「嶺一。この子、名前なんて言うの?」

 

 振り向いて訊ねてみて、嶺一は即答しなかった。

 案外起床時間にそれほどの差はなかったのかもしれない。言われてみれば、という顔を嶺一はして、女の子の方を向いて、

 

「名前は?」

「?」

 

 お手本みたいな首の傾げ方で、何を言いたいのかはっきりわかった。

 

 何を言っているのかわかりません。

 

「……一応、もう一度確認するんだが」

 

 山蔵が口を開いた。

 

「どこかから攫ってきたお嬢さんってわけじゃないんだな」

「どんだけ信頼ねーんだ俺は」

 

 いやいや、と廻は思った。

 いつ説明したのか知らないけれど、あの話を頭から懇切丁寧に語ったとして、「誘拐の言い訳は終わったか?」と言われないだけ、ものすごく信頼されていると思う。

 

 というかこの子は、本当にどこから来たんだろう。

 

 ダンジョンからというのはわかるけれど――いや、わからないけれど。さらにその前。日本語、通じてるのかな。通じてなさそう。

 

「当ててみるか」

 

 嶺一が言った。

 

「アリス。かぐや」

 

 ぽつぽつと、名前を挙げ始める。ラインナップに廻は、思うところがないでもない。

 

「シンデレラ。グレーテル。ラプンツェル」

「なんで童話縛り?」

「親指……」

 

 んなわけないでしょ、と廻が呆れても、嶺一はまだクイズゲームを諦めない。ミチルとかドロシーとか、そのくらいまでならついていけたけれど、ゲルダとかカーレンとか、全然ピンと来ない名前まで出てくる。白雪、の後についた「ヤシャガイケの方」という補足の意味もわからない。白雪って、白雪姫以外にあるのか。雪女の名前とかかな。

 

 嶺一って、実はそういうの詳しいんだ。

 思っていると、肝心のご本人も廻と同じく、全く話を聞いていなかった。

 

 代わりに、じーっとこっちを見つめている。目と目が合っているわけじゃない。彼女の視線は、廻の右手に注がれている。だから廻は、自分の右手に視線を下ろす。

 

 さっきパスされたメロンパン。

 名前がわからなくたって、身振り手振りで伝えるくらいはできるはずだ。

 

「要る?」

「!」

 

 そうしたら、すごい反応だった。

 

 ぴょん。座ったまま、彼女は飛び上がった。どん、と床に膝をぶつけた。うわ。あまりにも痛そうな音で、とうとう廻はベッドから降りる。ていうかずっと感じ悪かった、と今更気付く。喋るならベッドを降りてからがよかった。降りた。

 

「大丈夫?」

 

 しばらく、本当に痛かったらしい。

 じっと彼女は、黙っている。こちらとしても、血が出ているわけでもないしどうしようもない。痛みが引くのを待つ。多分、まだ引いてない。なのに彼女が顔を上げる。目に涙が溜まっている。可哀想になる。

 

 自分を指差す。

 

「イル!」

 

 勢いよく、彼女は言った。

 勢いを真正面からぶつけられた廻より、はす向かいでそれを見ていた嶺一の方が、反応は早くなる。

 

「イル?」

 

 反応。彼女が、嶺一を見る。嶺一は視線を受け止める。訊ねる。

 

「イル。それが名前か?」

 

 そして、『イル』がしたように、自分自身を指差した。

 

「嶺一」

「リョーイチ!」

「山蔵」

「サンゾー!」

「廻」

「メグル!」

 

 自信満々で、ひとりひとりを『イル』が指差して復唱するものだから、「おぉ~」と誰からともなく拍手が起こった。

 

「ようし! 名前がわかりゃ話は早い!」

 

 そして、嶺一はどっかとイルの目の前に座り込んだ。

 

 目を丸くする彼女になんて、お構いなし。

 

「どっから来た? ウェアァユフロム? 帰り方は? 親は? ハウ……ハウ何?」

「そもそも英語なの?」

 

 ていうかびっくりしてるからやめなよ、と廻は嶺一の襟を引っ張って、

 

「混乱してるだろうし、もう少しおれたちも落ち着いて話そうよ。……おれも、いきなり色々訊かれてもわかんなかったし」

 

 ん、と嶺一が言葉を呑む。

 

「……まあ、そうだけど。でも、教えてもらえなきゃわかんねーだろ。どっから来たのかもそうだけど、どこに帰るつもりなのかとか」

「とりあえず、こっちで質問を絞ろうよ。日本語も英語もあんまり通じてないみたいだし、何語なら話せるかとか。あの、もしかして……」

 

 ん、と部屋の入り口で山蔵が頷く。もしかしたら、山蔵さんならわかるかも。なんか色々外国語できるみたいだし。そういう期待が伝わっての「ん」だったのか、わかる前に音がした。

 

 ばたん。

 全員、動きが止まった。

 

「――今、誰か来たくね?」

 

 嶺一の呟きは、普段だったらなんてことはないものだったのかもしれない。

 けれど、大冒険の次の朝だから――しかも、連れて帰ってきた誰かもいるものだから、今ばかりは、緊張の種になった。

 

 今のは、車のドアが閉まる音だった。

 

 インターフォンが鳴る。

 

 咄嗟に廻は、部屋の時計を見た。

 午前七時半。

 

「…………」

 

 最初に、嶺一が動いた。

 

 抜き足差し足。そっと、廻は身を屈める。イルは、はいはいでもするみたいに嶺一の後ろについていく。嶺一が壁に突き当たる。壁に背をつける。廻はイルと一緒に窓の下に着く。

 

 窓から顔を出すまでもなく、何が起こっているのかはわかった。

 

「すみませーん! 取材なんですけどー!」

 

 インターフォンが、今度は連打される。

 

 廻は凍り付く。イルは驚いた顔をして、さらに身を縮こまらせる。嶺一はぎょっとした顔をして、癖のようにスマホを取り出す。指紋認証。一回タップ。フリックフリックフリック、タップ、

 

「うおい!」

 

 叫んだ。

 

「がっつり出てる! 昨日の俺!」

 

 何、と訊ねれば画面を見せて答えてくれる。

 

 それは、高校生なら誰でも知っているような全国紙の電子版だった。そして、全国紙にあるまじきセンセーショナルな書きぶりで、大体こんなことが記されている。ダンジョン内で異常事態。未知のMEMが出現。構内で崩落、被害者の有無の確認を急ぐ。近隣住民不安の声。政府見解は「コメントは控える」の一言で、一番最後には『yuca/超開運☆3日で15万円稼げちゃう裏技公開中』なる一般視聴者が提供したノイズまみれの動画がそのまま掲載されている。

 

 高校生の男の子が、ロボットに変身して、華麗に戦う姿が、ばっちりと。

 

「出てきてくださーい! 我々はジャーナリストですー! 市民の知る権利を行使しに来ましたー!」

 

 どうすんのこれ、とか相談する余裕もなかった。

 

 まさかこの声の主が主要メディアのスタッフだとは思わない。多分、便乗してやってきた一般の配信者とか、そういうのだと思う。インターフォンの次はドアを直接叩き始めていて、廻はすっかり嫌な記憶に襲われ始めている。ぐんぐん顔色が悪くなっていくのが自分でわかる。

 

 久しぶりに最悪の日だ、と思った。

 そのとき、山蔵がひとりで歩き出した。

 

「おい、」

 

 じーちゃん、と嶺一が止めるのも全然聞かなかった。山蔵は、子どもたち三人の間に堂々と仁王立ちをする。カメラが向けられて、シャッターが切られて、注目を浴びに浴びて、全く動じずに、

 

「これより、日本国現政権のメディア工作について一席弁じ奉る!」

 

 悲鳴が上がった。

 わけがわからなかった。

 

「廻、廻!」

 

 悲鳴の中で、嶺一が手招きをしている。ちょっとだけ身体を寄せる。間にイルを挟むからそこまで近付けたわけでもないが、とりあえずのところ声は通るようになって、

 

「何これ」

「政治の話で一発BANとかあるからそれじゃねーの」

 

 変なことばっか詳しいんだよなうちのじじい、と横目で山蔵を見て、戻して、

 

「今のうちに外出ちまえ」

 

 と言う。

 

「裏の方から行けばまだ人いねーだろ。あ、で、ついでにこっちも連れてってもらえると」

 

 それはいいけど、と廻は頷く。こっちも、はどう聞いてもイルのことだ。裏の方からというのも、何となくのイメージはつく。

 

 けれど、

 

「嶺一は?」

「まあ、じーちゃんひとりだけ残すってわけにもいかねーだろ」

 

 この道三十年、みたいな堂の入り方で窓の外に演説をぶつ祖父を見ながら、そう答えた。

 

 廻はもちろん、引け目を感じる。

 

 が、ここにいたところで何ができるわけでもなく、体調の限界が近付いてきているのもわかった。だから、まずはイルと目を合わせる。扉を指差す。それでどうにか伝わってくれたらしくて、イルが頷く。中腰で、先に歩き出す。

 

 続く、

 

「廻、カバン!」

 

 嶺一が気付いて、こっちに放り投げる。キャッチする。あとごめん、と振り向いたままで嶺一が言う。

 

 一個だけ、

 

「昨日、ありがとな。いや、超迷惑かけてて申し訳ないのはそうなんだけど。……あー。なんてーか……」

 

 言い淀む。イルが止まる。廻も止まる。山蔵は止まらない。そろそろ外の記者たちも慣れてくる頃なのではないかと思う。

 

 いいや、と嶺一が吹っ切る。

 言った。

 

「昨日誘ったのがお前で良かったって、正直思ってる」

 

 うん、とは。

 廻には、答えられなかった。

 

 

 

 

 

 

 思いのほか、世話の要らない同行者だった。

 

 嶺一が言ったとおり、家の裏の方にはまだ人だかりはできていなかった。とりあえず塀の空いているところから外に出て、何となく道を進んでいくと、見慣れた通りに出た。このあたりには残念ながら、時間を潰せるおしゃれな喫茶店みたいなものはない。いつものように、駅を目指して住宅街の隙間を歩いた。

 

 券売機に千円札を入れて、切符をふたり分。

 

 改札を先に通り抜けてから「しまった」と振り返ったけれど、特に問題はなかった。イルは廻の真似をして、とてとて後をついてくる。「降りるまでなくさないように」の説明がどれだけ通ったのかはわからないけれど、切符を胸の前で握り締めて、とりあえず頷く。

 

 十五分後に電車が来て、幸いなことにがらがらだった。

 

 座るだけ座ってみる。隣にイルも座る。ほんの十秒の間だけ、突っかけてきたサンダルをぺたぺた踵にぶつけて音を出して、他の乗客からちょっとした視線を集めて、急にしゃきっと背筋を伸ばす。大人しくなる。ちょっと変わった服には見えるけれど、そうしていれば、さして注目されるほどでもない。

 

 目を、大きく大きく開いて、窓の外の景色を眺めていた。

 川と、田んぼと、日に照らされたマンションと、そのくらいしかない風景を。

 

 もしかして、と廻は改めて思った。どこか、外国から来た子なのかもしれない。言葉が通じない……くらいだったら、今やそう珍しくはない。けれど、こんな何でもない地方の車窓を興味津々で眺めているというのは、ちょっと考えづらい気もする。パスポートは、とか訊いてみようか。そのくらいの言葉だったら、もしかするとどの文化圏の人でもわかるかもしれない。一方で、でも、と思う気持ちもある。うっすら心の中で、廻は思っている。言葉がどうとか、景色がどうとか、国がどうとか。そんなの全部言い訳で、本当に怖いところに近付かないように、どうでもいいところでぐるぐる回ってるだけなんじゃないの。

 

 だってこの子が出てきた場所は――

 

『次は、祭台。祭台でございます。お降りの際は――』

 

「行こ」

 

 土曜日だと、今更気が付いた。

 

 普段、廻は通学に電車を使わない。それでも思った。この駅が、この時間帯で、こんなに人が少ないわけがない。十両編成の電車が、風を帯びて走り去っていく。ホームドアのない駅って、いつ見ても殺人的だと思う。立ち食いそばの無人店舗に背を向けて、土日は閉まっている売店の前を通り過ぎる。電車に乗る前と乗る後で大した時間は過ぎ去っていないはずなのに、夏はすっかり盛りだった。階段を上る間に、セミが鳴き始める。イルは切符をなくさなかった。改札を出て、物産展の予告を通り過ぎて、駅周辺の地図の前。西口に出るか、東口に出るかの分水嶺。両方とも下りの階段に続いていて、恐竜みたいにぽっかり大口を開けている。

 

 どうしよう、と廻は悩んでいた。

 

 西口に出れば、自分の家の方だ。が、見知らぬ女の子をいきなり家に……というのも何だかだと思う。イルも、嫌だと思う。では、と東口に出れば学校の方。ショッピングセンターが撤退して今は市役所になった駅ビルがあって、地下まで降りると駐輪場。何かあるように見せかけて、実は意外と何もない。なくなった映画館の看板とか、カラオケ屋とか、パチンコ屋とか、シャッターの閉まった商店街とか、そういう街並みが待っている。

 

 強いて言えばカラオケくらいかな、と思う。

 でも、土曜の昼ってどのくらい混んでるんだろう。どのくらい居られるんだろう。とりあえず財布の中身を確認しようとして、ああそうだあそこって今会員証が電子オンリーになったとかそういうのがあったけどおれひとりで入れるのかな――

 

「あれ?」

 

 と、声がした。

 

 若々しい声で、しかしイルのものではない。けれど廻は、振り返る直前に珍しく、本当に珍しく、それほど緊張しなかった。

 

 知っている声だったからだ。

 

「廻くん。どうしたの?」

 

 振り向く。

 土曜日だというのに、簡易制服を着た女子生徒がちょうど改札から出てきて、そこに立っている。

 

 

 

 

 

 

 高校一年の春は、心底憂鬱な春だった。

 

 今でも廻は、その春のことを覚えている。転居が決まったのはもう半年以上前のこととはいえ、「じゃあ今のうちに向こうで友達を作って生活基盤を整えて……」なんてことにはならない。何も知らない高校を受験して、一度も見たことがない制服を着て、何の馴染みもない土地で生活を始める。ぶっつけ本番。多分、その前のあーだこーだがなくたって、憂鬱になるには十分な理由があったんじゃないかと思う。

 

 それでも、ここで外に出られなかったら、多分一生無理になる。

 そう思ったから、祭台一高の新入生説明会に、必死になって顔を出していた。

 

 春。もちろん、一言も話さなかった。ぶかぶかのマスクを目の下いっぱいのところまで引き上げて、ずっと自分の爪先を眺めて、体育館に入ったのだって時間ギリギリ。壇上の部活紹介で何の取っ掛かりもない内輪ネタが楽しく繰り広げられているのを、無麻酔で盲腸の手術を受けているみたいな気分で耐えていた。

 

 そこまでは、何とかなった。

 その後が、特に問題だった。

 

 誰かに話しかけられる前にさっさと帰ろう。そんな早足が仇になった。体育館を出ると、ぎょっとするほど多くの生徒がそこに立っている。部活紹介には延長戦があった。一体各部どれだけの印刷費が割り当てられているのか、両手いっぱいにチラシを持っている。立ち会いの教員がファウルの笛を吹くけれど、レッドカードはない。廻は人波に飲まれていく。飲まれて、すれ違うたびに「あれ?」という顔をされる。声も聞こえる。サッカー部のチラシを四回渡される。春先に水着一丁の男子生徒に肩を組まれる。すぐ傍の自販機がひっきりなしの人の流れにいちいち反応してぴかぴか光る。人並みから出てもしばらく動けなくて、目が回って、そのくせ桜の花なんかが春の明かりを浴びて美しく咲き誇っている。

 

 明暗のコントラストで神経をやられて、喧騒は止まない。

 倒れる、と思った。

 

「大丈夫?」

 

 うずくまっていたのに、気付いてくれた人がいた。

 

 全然、廻はその人のことを知らなかった。ずっと下を向いていたからだ。体育館の前の方でマイクを握って進行を務めていた人の顔を、覚えていなかった。

 

 女子生徒だった。手に、チラシを持っている。多分上級生だと思う。それ以上のことは何もわからない。心配そうに覗き込んでいる。

 

 ちょうど、太陽を背負うように立っている。

 

「すみません、」

 

 彼女の作る日陰の中で、廻は、息も絶え絶えで呟いた。

 

「今、あんまり話しかけないで……」

 

 目眩は、クライマックスを終えようとしなかった。

 

 頭がぐるぐる回って、ちかちかしている。このまま人が集まってきたらやだなとか救急車は絶対嫌とか考える余裕はあるのに、家まで無事に帰れる自信は全くない。

 

 そのときの彼女の表情も、廻は全く見ていなかった。

 だから、どういう考えがあってそうなったのか、今でもわからない。

 

「――来て」

 

 手を取られた。

 

 素直についていったとか、従ったとかいうより、他にどうすることもできなかったという方が正しい。リードで引きずられる犬みたいに、廻は校舎の中に連れ込まれて、スリッパを出されて、渡り廊下を渡って、それまで一度も足を踏み入れたことのない薄暗い校舎に入っていく。

 

「階段上れる?」

 

 一度だけ彼女が振り向く。頷けば、二階に上る。左を向いて、彼女はポケットから小さな鍵を取り出す。扉に差し込む。当たり前のように開ける。

 

 第二理科室、と表札が出ていた。

 

「ここ、使っていいから」

 

 自分の家でも案内するみたいに、彼女は言った。

 

「物とかはあんまり触らないでね。落ち着くまでいてもらって……今、連絡先とか交換できる?」

 

 首を横に振る。

 振ってから、うっすら「相当感じ悪いな、おれ」という気持ちが湧いてくる。けれど彼女は、嫌そうな顔ひとつも見せない。

 

「じゃあ、鍵も貸してあげる」

 

 手に持った鍵を、一番近くの大机に置いた。

 

「帰るときはそのまま持ってっちゃっていいから。返すときは下の階の理科教官室……それか、直接私に。大体二年一組の教室か、生徒会室か――」

 

 ここにいるから、と。

『料理科学部』のチラシを片手に、その先輩――梓間(あずさま)千鶴(ちづる)は、言った。

 

 

 

 

 

 

「美味しい~!」

 

 と千鶴が言うのは、二年一組の教室でも生徒会室でも第二理科室でもなく、家庭科室でのことだった。

 

 前の年の名残なのだ、と廻は教わっている。

 発足時点では、料理部と科学部が別々にあった。が、どこの公立学校にも訪れた定めとして、少子化のあおりを受けた。文化部なんてこんなに要らないだろと文化の軽視が行われ、市町村のごとく統合が始まった。その中でも「まあ近いか」と妥協できたこのふたつの部活は料理科学部として生まれ変わり、しかも廻が入学したのと入れ替わるように部員のほとんどが卒業。残されたのは『もっぱら科学部』な梓間千鶴部長がたったひとりで、その新入生勧誘にまんまと引っ掛かったのが『どちらかと言うと料理部』な卯井廻平部員、たった一名。

 

 合計二名の小さな部活は、第二理科室と第二理科準備室、家庭科室と家庭科準備室の計四室を部室とする、広大な領有権を主張している。

 

 そして今は、厳しい縦社会の掟の下、平部員が朝食を作らされていた。

 

「今朝ね、冷蔵庫見たら牛乳の賞味期限が切れてたの。水でシリアル食べたらもう、囚人番号一番って感じじゃない? それで朝からおなか減っちゃって」

 

 家庭科室の方の冷蔵庫には、夏前に使い残したホットケーキミックスが入っていた。

 卵と牛乳は、学校の目の前のコンビニで買い足してきた。後は、そう難しいこともない。『どちらかというと料理部』の廻が工夫を凝らすまでもなく、箱に書いてあるとおりの手順で美味しいホットケーキは出来上がる。

 

 学校。

 素晴らしい隠れ場所だった。

 

 だって、まず部外者は入ってこられない。その上、夏休みだから大して人もいない。受験生にだって執行猶予というものがあり、終業式の次の日から呼びつけられるのはほんの一握りだ。図書室でも教室でも生徒側に自主的なエアコンの使用権限は認められていない、嫌がらせみたいなところのある高校だけれど、ついさっきどういう魔法を使ったのか千鶴が家庭科室のエアコンを稼働させ始めたりもした。だからもう、何も言うことはない。

 

 しばらく潜伏するには、これ以上ない場所だ。

 

 潜伏。

 すごい言葉だ、と思う。

 

「それで? 妹さん?」

 

 すごい言葉の原因であるところの彼女は、さっきからずっと隣でこっちを凝視している。

 

 どういう意図なのだろう、なんて探るまでもない。こっちがホットケーキにフォークを押し当てれば押し当てて、押しつぶせば押しつぶして、刺せば刺して口に運べば運ぶ。咀嚼のテンポまで完全に同じなのは何かのおふざけなのかと思ったけれど、あまりにも真剣な顔をしているから、本気なのかもしれないとも思う。本気で、物を食べるのが初めてなのかもしれない。

 

 そんな馬鹿な。

 

「妹……は、確かにいるらしいですけど」

 

 一瞬、廻の頭には『いけそうな言い訳』を頼る気持ちもあった。

 けれど、「そうだよね」と千鶴が頷いたとおり、その言い訳は通用しない。

 

「この間生まれたばかりって言ってた気がしたもん。生まれたとき四万グラムくらいあったなら別だけど」

「はい」

「では?」

 

 それが聞いてください、先輩。

 きのう嶺一と――ほらあのいつも結構一緒にいるあの背の高い子ですあの子と一緒にダンジョン?に潜る?ゲーム?的なもので遊んでたんですけどそしたら異常事態でこの女の子がいてどかどかばきーんでびゅーんでばーんでロボットが変身して倒したと思ったら家についてきちゃってどうしましょう予防接種とか戸籍とかってとりあえず市役所に相談してみたらいいんでしょうか弁護士の知り合いとかいませんか今から一緒に事務所まで相談に行ってくれませんか。

 

 言えない。

 そんなことは、いきなりは。

 

「ちなみにこの子――」

 

 チャイムが鳴り、廻は『ゴングに救われる』という言葉の意味を知る。

 

 あ、と慌てて千鶴が立ち上がった。

 

「ゆっくりしすぎちゃった。ごめん、お皿そのままにしておいて!」

 

 そのままにしておくわけもないけれど、洗っておきます、とは特に言わない。はい、とだけ言っておく。千鶴が立ち上がる。これ、と鍵を投げてくれる。受け取れば、

 

「戸締りだけしっかりね。あと火の用心!」

 

 いかにもしっかり者の部長らしいことを言い残して、千鶴は終業式の次の日から行われる謎の夏期講習に、足早に向かっていった。

 

 扉が閉じる。チャイムの余韻が消える。はーっと息を吐いて、廻は思う。

 

 先輩がいなくなってほっとしたことって、今までで初めてかも。

 

 そして、隣を見た。

 

「っ、」

 

 見たら、びっくりした。

 じっと、イルがこっちを見つめてきていたからだ。

 

「えーっ、と……」

 

 一対一。

 潜伏場所も見つかって、ようやく廻には、考えごとの時間が訪れた。

 

 丸い丸い、天体望遠鏡みたいな瞳で見つめられながら、廻は本当に改めて、ついさっき千鶴に言いたくても言えなかったことや、なんで言うのを躊躇ったのかとかそういうことに思いを馳せて、その末に、とても率直な疑問に突き当たった。

 

 

 この子、誰?

 

 

 急に、イルが立ち上がった。

 

 うわっ、とは今度は声に出さない。妙に決断的な足取りで、彼女は歩き出す。ホットケーキミックスの空き箱を手に取った。掲げた。指差した。

 

「イル!」

 

 自分を。

 

「ん!」

 

 それから、空き箱に書かれたそれを。

 

「……ホットケーキ?」

「ホットケーキ!」

 

 空き箱を手にしていない方の手を、彼女はぎゅっと握る。空き箱を握ったままの手と一緒に、胸の前でぶんぶん降り始める。

 

 ジェスチャーを読むよりも、表情を読むほうがずっと簡単だった。

 

 笑っていた。

 

「美味しかった?」

「おいしかった!」

 

 我が意を得たり、という顔をする。イルは戻ってくる。椅子には座らない。廻の前に立つ。指を差す。

 

「イル!」

 

 自分。

 

「メグル!」

 

 廻。

 

 そしていきなり手を取る。ぶんぶんぶんぶん。

 

 当てずっぽうで、廻はクイズに参加した。

 

「……ありがとう、かな」

「ありがとー!」

 

 にこーっと笑ったから、ひょっとしたらそれが正解の合図だったのかもしれない。そうして廻は、クイズに答えたついでに、ひとまずの疑問の答えにも辿り着いた。

 

 まあ、誰でもいっか。

 とりあえず、悪い子じゃなさそうだし。

 

 どういたしまして、とその手を振り回されながら、廻は不思議なくらいに落ち着き始めていた。安全な場所に来られたから、というのもきっとあったのだと思う。見知らぬ女の子が、とりあえずこっちに敵意を持っているわけじゃないと確信できたからでもあったのかもしれない。とにかく、不安が大きく減った。この子誰とかどうしようとか、そういうことはひとりで向き合わなければならない問題ではないと思えた。あれやこれやを棚上げすることに成功した。

 

 そう、別に。

 そもそもこの子を連れてきた張本人だって、落ち着けば合流できるはずなのだし――

 

 音が鳴る。

 イルが飛び上がって、そのせいで廻も驚く。

 

 けれど、なんてことはなかった。ピリリリリ。昔ならそれだけで息が止まるくらいに怯えていたけれど、今はようやくそうでもない。ただの着信音だ。今時誰も使っていない、折り畳み式の携帯電話。それでも――ひょっとするとスマホネイティブには驚くべき機能かもしれないが――ポケットから取り出してパカッと開けば、着信元がどこかくらいは表示されている。

 

 だから、迷いなく通話のボタンを押した。

 

「もしもし」

『おす』

 

 嶺一だ。

 

 

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