前のときは一週間くらい留置所みたいな場所に入れられていた。
だから、今回もそのくらいかかるものだと思っていた。
「お疲れー、卯井くん。終わりだよ~ん」
「……はい?」
なのに捕まったその日の夕方のうちに、そう告げられた。
そのとき廻は、いかにもな場所にいた。
部屋の真ん中に机がひとつ。椅子がふたつ。隅の方に机と椅子がもうひとつずつ。窓はあるけれどブラインドがぴっちり閉まって外の様子はうかがえず、行き着くところまで行き着いたシンプルな一人暮らしみたいな部屋で六十回くらい同じことを訊かれて、九十回くらい「わかりません」「知りません」を続けていた。
そして不意に、いかついスーツの男ふたりが席を立って、帰ってきたときは全然知らないスーツの男がひとりになっている。
「取り調べはおしまい。申し訳ないね! 十六歳の夏をこんなしけた場所で過ごさせちゃって」
新しい男も、いかついと言えばいかつかった。
さっきまでのごつい男ともっとごつい男と比べれば、まあひょろっとした感じの男ではある。年は二十代の後半くらいか、あるいは若作りの三十代か。学校教員にいたらまあまず舐められてはいただろうという優男で、だというのに一点、すごいところがある。
髪の毛に、青いメッシュが入っている。
「かつ丼とか食べた? あ、出てない。気が利かないね~」
言いながら、男はスーツの内ポケットから小さな鍵を取り出してくる。ん、とそれ以上のことは言わない。鍵を差し出してくる。廻は、促されるがままに両手を机の上に出す。
手錠に鍵が差し込まれる。
回る。
先導されて外に出ると、それはそれは変な色の夕焼けが待っていた。少し雨が降ったらしい。正面玄関から見える駐車場はどれも車の背中がぴかぴかと光っていて、日が沈みかけた西の空は紫と橙の中間のような色をしている。アスファルトの濡れた匂いがして、運転免許証を素手で持ったおばあさんが、玄関へと続くスロープを杖をつきつつのろのろ上っている。
隣で、青メッシュの男はスマホを弄っている。
もう帰っていいよ、なのか。自信がなくて、廻は問い掛けた。
「あの、終わりって、本当に?」
「お? ほんとほんと」
もっと続くと思った?と訊かれたら、はい、としか言えない。そっかそっか、とあまり聞いていない感じで男は答える。だから廻も、ちょっと口が滑る。前はもっと……。
「あれね!」
急に、聞いている。
「いや、記録で見たんだけどさ。あれちょっとどうかしてるよね! 人質司法だなんだって前から言われてるけど、名目すらろくに立てないで中学生相手にあの拘束ってほんっと……。まあ、それでいいってやってきた結果がこれだから、何ともなんだけど――っと」
そして、スマホから顔を上げた。
駐車場を見渡して、
「あ、あそこか。見える? あのタクシー」
「え?」
「あれ、うちの奢りだから。ちょっとここから駅まで遠いでしょ? 使って使って。慰謝料……っていうにはマッチポンプすぎるけど、まあ遠慮せず」
実際、駐車場の端の方に黒いタクシーは停まっている。寝起きのカブトムシみたいに背中を光らせて、おーい、と男が手を振れば、ゆっくりと発進し始める。
こっちに回ってきてくれるらしい。
「一応言っておくと、君が早めに出られた理由は三つね」
それを待つ間に、男が言った。
「一つ目。普通に、赤ロボの方の男の子のお友達ってことで、気を遣ってるから。二つ目は、その子が引っ張ってきた弁護士がやり手だったから」
このふたつの時点で、廻は驚いている。
「弁護士?」
「そ。あのおじいさん、そっちのツテがちゃんとある人らしくて。お孫さんのお友達だからかな。一緒に頼んでくれたみたい」
後でお礼言っときな、なんて男は言う。
はあ、まあ。それはもちろんそうだけれど、同時に廻は、男の言いぶりに――振る舞いに、ずっと違和感を覚えている。
この人はこの人で、誰なんだろう。
「三つ目」
タクシーが、玄関前に到着した。
勝手に後部座席の扉が開く。男はにっこり笑って、エスコートするみたいに手のひらを向ける。いいんだろうか。廻は、誘導に従ってみる。乗ってから気付いた。これ、知らない人の車に乗っちゃいけませんの別パターンかも。このまま押し込まれて、全然意味不明なところに連れ去られるのかも。
別に、そんなことはなかった。
ただ、男は車のドアに手を掛けている。最後の最後に、こう告げる。
「うちの室長が、君のことお気に入りなんだよね」
「――室長?」
「そ。ま、会うことがあったら笑って挨拶とかしてあげて。喜ぶよ~、きっと」
じゃ、と男は笑って言った。
「今日はお疲れさま。とりあえずはこれで終わりの予定だから、後はおうちでゆっくり休んでね」
バイバイ、と手を振るわけでもない。
ドアを閉じて窓の向こう、男は妙に慣れた調子でウインクをした。
◇
それから三日は、何事もなく過ぎていった。
タクシーはしっかりと家まで送り届けてくれた。支払いは済んでいて、メーターすら回らなかったその車を後にして、自宅のマンションに一日ぶりに廻は帰宅した。
扉を開けて、特に誰の気配もない。
だから靴も脱がないで、上がり框に腰掛けて、そのまま携帯を開いた。短縮番号二番。八坂嶺一に、電話を掛けた。
出ない。
嶺一は留守番の設定をしていない。前に「普通に電話かけてくるのってお前とじーちゃんくらい」なんて言っていたことを思い出した。
一方で、
『大丈夫だった!?』
嶺一の次に電話を掛けた先――千鶴は、すぐに出てくれた。
こっちは短縮番号を使うまでもなかった。携帯を開けた瞬間から、大量の不在着信のアイコンが待ち受けていたからだ。何とその数、二十三件。
「大丈夫です」
とひとまず答えて、そこから話はもう少し続く。
「先輩の方こそ大丈夫でしたか。すみません、巻き込んじゃって」
『ううん。私の方は二、三個質問されてそれで終わりだったから、全然。それより、廻くんの方は? 酷いことされたりしなかった? 本当は落ち込んでるとかない?』
信じてもらえるまで、少し時間がかかった。
半日くらいで済んだんで全然、という説明は、千鶴にとっては『半日も!』という受け取り方になった。自分だって銃を突き付けられたはずなのに、まるでそんなことはなかったかのように、千鶴はこっちの心配ばかりする。かえって拍子抜けしたくらいだというのを何とか伝えて、受験生の邪魔しちゃって……の謝罪に『そんなの気にしなくていいよ』を貰って、最後には『ゆっくり休んで。何かあったら連絡してね』の言葉まで贈られる。
じゃあまた、と日付のない約束をして、電話を切った。
顔を上げると、玄関に提げたホワイトボードが目に入った。
珍しく、自分の筆跡以外で書かれた文字がそこにある。廻は立ち上がる。読む。
父の欄だ。
『長期出張 生活費はいつもの口座』
別に、今更確かめる必要もなかったのに。
廻は、携帯をもう一度開いた。不在着信のアイコンは、もう消えている。だから通話履歴をわざわざ呼び出す。さっきの数字を、廻は覚えている。不在着信、二十三件。
二十二件は、千鶴だった。
残りの一は、後になって掛けてみればわかる。山蔵が手配してくれたという、弁護士の人。
その他には、何もなかった。
◇
「えーっと……」
そして、短縮番号二番からの折り返しは、電話ではなく直接になった。
帰宅直後からも何度か、廻は電話を掛けた。出なかった。弁護士の人や山蔵にも連絡を取ってみたけれど、二日目の夜に「これから立て込むかもしれない」と曖昧な予定を告げられただけ。それでも三日目も朝夜くらいは電話して、何もなくて、そして四日目の朝。
インターフォンが鳴った。
扉を開けると、嶺一とイルが立っていた。
「お、おかえり?」
イルは、何もわかってなさそうな顔で隣の嶺一を見上げていた。
嶺一は、何だか思いつめたような顔をして、じっとこっちを見つめていた。
「頼む、泊めてくれ!」
ついでとばかりに、両手を合わせて頭を下げた。
それはもう清々しい頭の下げっぷりだったけれど、廻としてはわけがわからない。訊くべきことはいくらでもあるし、嶺一にだって、答えるべきことはいくらでもあるはずだった。
それでもわからないなりに、こう答えてみた。
「いいけど……」
「だからさあ、全然こっちの言い分を聞かねーんだよ。石頭のじじいだから」
ほとんど初対面の、出身地すら知らない女の子に手料理を食べてもらおう企画の第二弾を、なんと廻は自宅で行うことになった。
カレーって大丈夫なのかな。そう思って試しに写真を見せてみると、意外にもイルは頷いた。カレーを直接知っているからなのか、それとも煮込み料理は全世界共通の『美味しそう』だからなのかはわからない。スパイスの合う合わないがあったらどうしよう。そう思いつつ具材を炒めながら、いざというときは肉じゃがやシチューに路線変更できるよう、もうひとつ鍋を用意しておいたりしている。
廻が住むのは、祭台駅西口から徒歩十二分のマンションだ。
間取りは2LDKの風呂トイレ別。父の部屋と廻の部屋がそれぞれあって、玄関入って廊下右手の手前が父の部屋。奥が廻の部屋。さらに廊下をまっすぐ行くとリビング、ダイニング、キッチンが一体になった部屋がある。入ってすぐはリビングで、右手にセミオープンキッチン、ダイニング。
廻は当然、キッチンに立っている。
イルはカウンターの向こうでうろうろ様子を窺って、嶺一は手伝いもしないのに大して広くもないキッチンで冷蔵庫に寄り掛かって腕組みをして、エアコンの設定温度は二十五度。日差しが奥の窓から降り注ぐ。洗濯物は、夏の薄着だ。午前中のうちにはすっかり乾いて畳まれてしまった。
「まあでも、心配してくれてたんでしょ?」
石頭、という言葉自体がそもそも爺臭い。
なんてことを思いながら、廻は豚コマの包装を剥がしている。驚愕の数字がバーコードと共に張り付けられているが、驚いたところで物価の上昇は止まらないし、一日に必要な摂取カロリーも減らない。そういえば、と思った。ダンジョンで働いた――ロボットに働かせた分のお金、結局手元にひとつも残らなかったな。
「そりゃわかってるけど。言い方ってもんがあるだろ。言い方が」
「それならそれでもいいけど、連絡だけはしておいてよ。向こうも心配してるだろうし」
「……」
「おれが代わりに電話するの? 家出したお宅のお子さん、うちに泊まりますって」
何でも、大喧嘩をしてきたそうだ。
一日足らずで終わったこっちの取り調べとは違って、向こうの取り調べは相当に長かった。かつ丼の累計消費量、何と十二杯。その間、しかし嶺一は、大変丁寧な取り扱いを受けた。糾弾なんてもってのほか。君は素晴らしい。日本の希望だ。いや、人類の光だ。……なんてことまで言われたのかは知らないが、話の流れからして、似たようなことは言われてきたらしい。
ただでさえやる気になっていた嶺一だ。
出てくるころにはもうすっかり腹を決めていて、それに対して保護者、八坂山蔵氏からのコメントは、こう。
「子どもの身柄押さえて前線に送り出そうとする奴らなんて、ろくなもんじゃない。やめろ」
お説ごもっとも、と言うほかない。
が、そこから続く言葉も悪かった。大それたことなんて考えてないで、ガキは夏休みの宿題でもやってろとか何とか。こうなると嶺一も黙ってはいられない。じゃあ黙って見過ごしてりゃよかったのかよそりゃねえだろそんな育てられ方した覚えねえぞじじいこら――そうやって、余計なところまでどんどん戦線が拡大していく。考えなしの戦線拡大がどんな結果をもたらすかは歴史がすでに明らかにしているところで、口論があり、決裂があり、亡命がなされた。
亡命先で、王子は無言でスマホを取り出して、国王に向けて『今日泊まる』のメッセージを打ち込み始めている。
まあ、こっちはどうとでもなるだろう。
苦笑しながら、廻は鍋に水を入れていく。問題は――と目を向けるとき、ちょうどパキッと音がする。
具材の煮える前から、気が早くも甘口のカレールーを割っている。包装をちょっと開けて、匂いを嗅いでいる。いまいち匂いと味の全体像を掴み切れていないのか、嗅ぎながら怪訝な顔をして、天井の明るいところを眺めている。
イルだ。
「ていうかその話、イルさんには許可取れたの? あれって、イルさんがやってくれてるんでしょ。ロボ」
「ん、ああ」
打ち込み終えたのか、それとも上手く言葉が出ずに棚上げにすることを決めたのか。
嶺一がスマホから顔を上げて、
「結局、イルって取り調べ中も何も話さなかったらしいんだよな。だから許可取れたか取れなかったかっつーと微妙なとこではあるんだけど……」
「ダメじゃん」
「いやでも、一回目はともかく二回目は――」
「いいよ」
本当は、その手前で気付くべきだったのかもしれない。
イルが、『何も話さなかった』という時点で。
「めむ?だっけ。あれを駆除すればいいんでしょ? 全然いいよ。やったげる」
ちょうどそのとき、鍋が沸騰した。
いつもならアク取りを始める。キッチンペーパーを手に取る。タイマーも入れる。けれど廻は、固まったままだった。嶺一は、あんぐり口を開けていた。
イルはくんくんと、まだ何度も匂いを嗅いでいた。
「ねー、メグル」
それから、笑って訊いた。
「これ、すごい良い匂いするけど、何で出来てるの?」
「うぇええええええええええ!?!?!??!」
廻が言葉を失っていたからかもしれない。
嶺一が、ふたり分の音量で叫んだ。
「は!? おま……ぺらぺらじゃん!!」
なぜか嶺一は、廻の肩を後ろから掴む。前後にぶんぶん振り回してくる。
「全然喋れてんじゃん! 喋れねーって言ってたのに!」
「言ってないし」
そう、言っていない。
そして思い返してみればいい。警察署に連行されていく前のことを。嶺一の家から電車に乗って、学校に行って、ホットケーキを食べただけ。それだけなのに、「リョーイチ」だの「ありがとう」だの「おいしかった」だのを使いこなせるようになっていた。
そのイルが警察相手に三日も四日も向き合って、一言も『喋れない』わけがない。
「こ、」
思い当たってもよかったはずなのに、全く意表を突かれたから、廻は、
「香辛料とか、そういうので出来てる……」
「解説してる場合か!」
キッチンから、ようやく嶺一が出ていった。ダイニングに回り込んだ。今度は、イルの肩を掴んだ。
「おい!! どっから来た! そんであの謎パワーはなんだ! つーかなんで今まで喋れんの黙ってた!?」
「たーすーけーてー」
がっくんがっくん揺さぶられながら、イルは余裕のコメントをかましている。
が、身体の高さも厚みも全然違うから、見ている方としては不安でならない。真ん中からばきっと行きそうで怖くて、廻は間に割り込む。嶺一、やめなそれ。
素直にやめて、解放されて、それからもイルは余韻のようにしばらく揺れている。ゆらゆら揺れながらリビングに迷い出て、ソファにどっかり座り込む。そのまま沈み込んで、
「黙ってたのは~……。喋れるってわかったら根掘り葉掘り拷問されるかもって思ったから~……」
「おい。ペラペラな上に狡猾だぞこいつ。慣用句も使いこなしてる」
「こいつって言うのもやめな」
そこで廻は、鍋が煮えていることにようやく気付いた。危ない。キッチンの中に戻る。弱火にして蓋をして、タイマーを入れる。アクはまあ、いいだろう。取らない日があっても、たまには。
「でも、おれもびっくりした。イルさん、元々日本語喋れたの?」
「んーん。でも、みんなずっと説明しながら喋ってるから、覚えちゃった」
「……」「……」
そんなことあるだろうか。
少なくとも廻は、たとえば東南アジアやそこらの国に迷い込んで、何日か取り調べを受けたとして、こんなに流暢に自分が他言語を喋れるようになるビジョンは、全く見えない。いまだにカオマンガイがどんな料理なのかすらパッと思い出せない。何事にも、程度の問題というものがある。
先に、嶺一が気を取り直した。
「んで、どっから来た?」
直球。
けれど、すぐには返球されない。んー、とイルは口をへの字に曲げた。さっきと同じように、天井の方を見上げた。ずぶずぶと、どんどんソファに身体が沈んでいった。
「ぜんぜん、おぼえてない」
「覚えてない?」
「どこから来たとか、なーんにも覚えてない。起きたらあの……ダンジョン?っていうところにいて、その前のことは名前だけ。ていうか、それもメグルに言われて思い出した」
「……」「……」
「ほら!」
ぴょん、とイルは飛び起きて、
「っていう感じになるでしょ? だから、喋れない感を醸し出してごまかしてたの。本当のこと言っても信じてもらえないから」
「なんだよ『感を醸し出して』って。日本語に馴染みすぎてんだろ。俺の予想だとお前、東京生まれ東京育ちの高校二年生、入間幸代さんだぞ」
じゃあそれ、とイルは言った。なんだそりゃ、と嶺一は言う。どう思う、とこっちを見てくる。おれ?と廻は困ってしまうけれど、それでも一応、会話を繋ごうと努力する。
「でも、確かに使いこなしすぎだし、一時的に忘れてただけで元々日本語話者っぽい気も……」
「また取り調べが始まる」
「いや、疑ってるとか、そういうことじゃなくて。それってヒントになるんじゃないの。イルさん、自分がどこの誰かわからないんでしょ?」
「確かに。警察に捜索してもらえれば、身元とかわかるかもしんねーぞ」
「でもわたし、途中で顔写真とか色々撮られてたもん。それでわかんないってことは、ここの人じゃないんじゃない?」
まあ、確かに。
と納得してしまえば、その話はそこで終わり。代わりに次の疑問が現れる。
じゃあ、結局どうするの?
「ね、これって今からそのスープに溶かすの? 味つける?」
イルは、立ち上がったついでとばかりに、テーブルの上に置いたそれを手に取る。カレールー甘口。満面の笑みで彼女は言う。
「それ、やりたい!」
味は、大絶賛だった。
◇
「……廻」
このあたりは、夜になるとひっそり静まり返る。
駅から徒歩十二分とは言っても、少子高齢化は国全体の宿命だからだ。夜更かしして遊ぶようなところなんてどこにもないし、春先にげこげこカエルが鳴いているのを除けば、夜のうちにと国道をぶっとばす大型トラックの音がたまに聞こえるくらいが精々の、宇宙の端っこみたいな夜が来る。
大して遮光性のないカーテンでも、リビングは真っ暗になる。
その暗闇で廻と嶺一は、ふたりでいた。
「床、硬くねえの?」
「硬い」
「……ソファ、上がってこいよ」
「ふたりは無理でしょ」
当たり前のことながら、イルは別の場所で眠ることになった。
廻の部屋は、ちゃんと鍵が掛かる。だからとりあえずそこに押し込めて、男ふたりは別の場所。父親の部屋を使うのも気が引けて、ふたり揃ってリビングに留まることにした。
じゃあおやすみ、と廻のジャージを借りたイルが部屋に引っ込んだ後、こんなことを嶺一は零した。
「なんか……喋り出したら普通に女子感あって、気まずくなってきた……」
もしかして馬鹿なのかな、と廻は思った。声には出さずに、「もう寝な」と返した。
それでもまだ、嶺一は眠っていない。
ごそごそと、ソファの上で嶺一が動く音が聞こえてくる。特に廻は、それに何も言わない。目を瞑って、眠る準備をしている。音が止む。数秒経ってから、
「……あのさ」
と嶺一は切り出してくる。
またしょうもないことを言い始めるのかな、と思っていた。
「ごめんな」
「いいって」
「あんま考えたくないだろ。ダンジョンのこと」
だから、驚いた。
「自分でもやらかしてんなーってのはわかるんだけど、ごめん。正直、他に相談できるやつがいなかった。事情がどうこうってのもそうだけど」
気にしてないんだろうと思っていた。
別に、気遣われたかったわけではない。必要な分は、もうずっと昔に貰った。貰ったから、あのコントローラーを握ってもう一度ダンジョンにという誘いに乗る気になった。誘っても大丈夫だろうと、外から見てわかる程度の状態にまで、戻ってこられた。
表面上の問題が少なくなって、だから自然と『頼っても平気なやつ』にカウントされていたんだろうと。後のことがこれだけ起これば、流石に自分の問題も霞んだのだろうと、そう思っていた。
「明日には目途つけて出てくから。今日だけ、悪い。付き合ってくれて、ありがとな」
声は、弱々しい。
夜だからなのかもしれない。イルが、そう遠くない場所で眠っているからなのかもしれないし、この家の壁を薄く感じているからなのかも。あるいは……何にせよ嶺一は、眠ってしまえばそれで起きることはないような小さな声で、呟くように喋っている。
図星ではあった。一度背を向けて逃げ出したものに向き合うというのは、きつい。リモコンを通して遠くからなら何とか、と思っていたけれど、今度は画面を乗り越えてきた。引きずり込まれないだけマシと見るべきか、さらに逃げ場がなくなったと見るべきか。何にせよ、穏やかならざる夏休みになっていることは、間違いない。
それでも――
「いいよ」
と、廻は言った。
「それより、家の方を気にしなよ。仲直りはできるうちにしといた方がいいよ」
「……言われて思ったけど、そっちもさあ」
「だからいいって。ていうか、イルさんの方が振り回されて大変でしょ。気を遣うなら、おれじゃなくそっちにしなよ」
「……うす。あざす」
うん、と小さく廻は答えた。
じゃあ、とかすかな寝返りを打つ。どう寝転んでもどこかの骨が床に当たって痛いけれど、それでも何とか、クッションに身体を乗せ切れるような体勢を探して、
「おやすみ」
◇
その夜、懐かしい夢を見た。
ぱしゃ、と音がして、光って、そこから始まる抽象化された、古い記憶だ。
場所は、駅前のカラオケ屋と、東京にいた頃の最寄りの駅ビルが混ざっている。本当はどんな場所だったか、廻はもう覚えていない。でも、どうしてその音が響いたかは、はっきり覚えている。
カメラを向けられていた。
持ち主が誰だったかなんて、どうでもいい。ひとりひとりを覚えているわけでもないし、向こうは自分のことを知っていても、自分は向こうのことを知らなかった。
声にならない言葉が聞こえる。
――あれ、やっぱりそうじゃない?
マスクの上の顔、そっくりだし。芸能人気取り? うわ昔テレビで見た。なんでここにいんの? なんか炎上すごかったらしいし、実家にいらんなくなったんじゃね。そりゃそうだろあんなことしたら。税金で警察に捜索させてさ。自業自得。でも運あるよねー、いろんな意味で。馬鹿発見。面白いと思ったんかな。思ったんでしょ。常識ないやつってほんと迷惑。
あいつにも教えてやろ。
「あんたそれ、盗撮だろ」
その時点では、多分、まだ一言も話したことはなかったと思う。
環境を変えると言って遠く離れた高校に進んでも、性根はなかなか変わらなかった。教室では必要最低限の会話しかしないで、困ったことがあれば家庭科室で、理科室で、あるいはその準備室でやり過ごして、黙っていれば勝手に噂は広がって、教室にまで見にくるような人たちから目を逸らして、ますます黙りこくっていた時期だから。
「消せよフツーに。その写真」
どうしてそのとき嶺一がその場にいたのか、覚えていない。
それからどうなったのかも、全然。
本当に消させたのか、それともなあなあで終わったのか。嶺一の性格だと、何かの決着はつけていそうな気もするけれど、ごちゃごちゃ言ってスマホをしまって逃げ出されたら、走って追いかけて蹴っ飛ばして……まではしないように思う。
夢の中では、そそくさと逃げていく人影に向かって、こう吐き捨てた。
「なんだあいつら。信じらんねー」
庇ってもらって嬉しかったとか、そんなことはまず思わない。
とにかく自分を隠すように、廻はこういうことを言う。
大丈夫。慣れてるから。
「はあ?」
嶺一も、知っていたはずだ。
あれだけ何度も流れたニュースなのだから。教室にいる誰だって、一度は話題に上げたことがあるのだから。
「もしかして卯井って、それでクラス会とか来ねえの?」
けれど彼は真正面から、「そんなのおかしいだろ」とばかりに、言い飛ばした。
「勿体ねー! 気にすんなよ、そんなこと!」
周りが振り向くくらいの、大きな声だったと思う。
面食らった廻に、まるで構いはしない。まるで何十年もの友達のように、嶺一は言った。
「変なの来たら全部、俺が追っ払ってやるからさ!」
それができたら苦労しないんだよ、と今でも思う。
そりゃあ、嶺一は体格が良いから、多少は自信があるだろうけど。自分よりいかついのが出てきたら? 複数人だったら? 集団犯罪のバックがあったら? 記者とか、公務員とか、一般人が逆らったら社会で生きづらくなるような相手だったら? そのくらいのことは、当然思う。思うから、今でも廻はマスクを外さない。生活圏からは滅多に出ないし、通学ルートも人気の少ない道を選んでるし、嶺一の家まで行くときも、時間ギリギリにホームの端まで歩いていって、俯いて電車を待っている。
それでも廻はそのとき、「こんな人が友達だったらいいな」と思った。
そんな昔の、夢を見た。
「ん……」
薄手のカーテンが、朝日に負けて輝いている。
ちょうどその日照が、顔のあたりまで差し掛かった。眩しくて、本当に自然に廻は目を覚ます。とにかく浅い眠りで、まだ眠い。意外と身体が痛くないのは若さのおかげなのか、それともぐっすり寝られなかったためなのか。起きてテキパキという血圧でもない。もう一度、寝返りを打つ。
嶺一の顔が、目の前にある。
驚きすぎて、一気に目が覚めた。
身体を起こす。何がどうなったのか確かめる。貸した毛布は、無残に床に転がっていた。枕にしていたはずのクッションも同じく。嶺一はそれに右ひじを落としていて、左足と左の尻のあたりまでがかろうじてソファの上に残っていて、後はめちゃくちゃに投げ出されている。素晴らしいバランス感覚だけれど、寝違えるとか、そういうレベルの話じゃない。
折角ソファを貸してやったのに、結局同じ床で寝ている。
「……なんだ、それ」
呆れて、廻は笑った。
起きたときに危なくないようにと、自分がさっきまで使っていたクッションを、嶺一の頭の下に差し込みながら。
◇
そして地上二十三階建ての、九階にも朝が来ていた。
うぃーん、と自動ドアが開く。下半分がすりガラスで、上半分が普通のガラス。いくつもの机とデスクトップPCが並んだ雑然とした部屋で、夜っぴて点きっぱなしの照明の横には、『特殊装備室』の名札がエアコンの風で揺れている。
「お」
部屋の奥の方で、椅子を回した男がいる。
髪に青いメッシュを入れた、若作りの男だ。首からは、これもまた青いストラップをかけている。職員証だ。『ダンジョン庁』から始まる長ったらしい肩書きの横に、『三条遥人』なる名前が記されて、さらにその横には黒一色の髪型で、いかにも反抗的な顔つきの証明写真がついている。
男は証明写真の面影が残る、けれど全く趣の異なる表情で、笑った。
「おはようございます、室長。早いですね」
ええ、と入室者は小さく頷いた。
こっちのストラップは、赤色だった。肩書きはない。証明写真もない。彼女はストラップを外して、『ゲスト用』のそれを手に握る。
三条遥人に、こう語り掛ける。
「報告は見ました。ギガの発生に向けて、『赤』と合流する前に色々と準備をしておきたいですしね。三条さんもお疲れさまでした。私が引き継ぎますから、夜番は明けてもらって結構ですよ」
「そうですか。それじゃお言葉に甘えて」
三条は、ぐっと背伸びをした。肩と背中が鳴る。下ろす。そのときにはもう、彼女は奥の部屋に入っている。扉は開けたまま、複数のモニターに向き合っている。三条は席を立つ。奥の部屋の入口あたりに立って、
「聞きましたよ。『赤』の管轄、うちでぶんどっちゃったんですって?」
「人聞きが悪い。本来うちの管轄だと丁寧に説明しただけですよ」
「怖いなあ。勘弁してくださいよ。うち、政治に強いメンバーいないんですから」
「そうですね。私と似た人ばかり集めてしまったので」
はは、と三条は苦笑と共に肩を竦めて、
「忙しくなりますよ。結果が出ないことには、無理筋は通りませんから……っと。終了処理も終わったので、先に失礼します。何かあったら呼んでくださいね。嫌々出てきますから」
「嫌われないように気を付けます」
「あと、室長もあまり無理はせず。ただでさえ遠隔地で二足の草鞋……あ、いや」
そうか、と三条が呟くのと、ええ、と『室長』が頷くのは同時だった。
彼女は、もう三条のことを見てはいない。ディスプレイに表示された数字に、映像に、忙しなく目を動かしている。夜勤の職員の他にはまだ誰もいないオフィスで、彼女の仕事を始めている。
「大丈夫です。今は、夏休みですから」
それでも梓間千鶴は、笑ってそう言った。