「でっ……か」
と嶺一が隣で口をぽっかり開けているとき、イルは建物の屋上の場所を見極めようと、額の上に両手をかざしている。
そんなふたりの真正面には、今まさにその建物から出てきた、青メッシュの男が立っている。彼は両手を広げて、笑って、
「ようこそ、ヒーロー諸君! 内閣府ダンジョン庁へ!」
ぱちん、と妙に堂に入ったウインクをして、三人分の入館証を、右手に提げている。
三人分。
三人。
嶺一と、イルと、そしてその横で、廻は何とも言えない顔で立っている。考えている。
結局、どうしてこうなったんだろう。
◇
家出した子どもたちは、夜が明けて、朝食を摂って、それで結局、元の家に帰っていった。
お見送りというお見送りも、廻はしなかった。収まるところに収まってくれれば、こちらとしては何も言うことはないのだ。ふたりが残していった食器を洗ったり、シーツやクッション、洗濯物を洗ったり、干したり、一時間もせずに乾いたそれを見て「とんでもない夏だ」と慄く午前十時を過ごしたり、カレーの残りをひとりで食べ切ったり、歯を磨いたり、二日ぶりにベッドで寝たりしていた。
次の日、またインターフォンが鳴った。
嫌な予感がした。
何だかこの展開には覚えがある。そう思いつつ仕方なく開けると、ほとんど同じ光景が待っている。違うのは、ひとつだけ。前後の並びが違うこと。
「……すまん」
と謝る嶺一は、ふたり組の後ろ側。
前側の方は、ずいっとこっちに詰め寄ると、親切なことにジェスチャーまでつけて、端的に用件を伝えてくれた。
「カモン、ベイビー」
英語圏の出身なのかも、と廻は思った。
「まあ、言ってもこのビル全部が僕らのものってわけじゃないんだけどね。『特装室』は九階だけ――でも、ほら。特撮だってメインは五人とか七人でしょ? 少数精鋭!」
嶺一と山蔵の話し合いがどうなったのか、廻は知らない。
けれど少なくとも、何かしらの決着はついたのだろう――二十三階建てのビルで、青メッシュの男が呼び出してくれたエレベーターを待ちながら、ついさっき渡された名刺をじっと見て、廻はそう結論付ける。
内閣府ダンジョン庁技術推進部技術開発課特殊装備室。
あまりにも長くて潰れかけている名刺の肩書には、そう書かれていた。
「ダンジョン庁自体はかなり大所帯になってきてるんだけどね。経産省から人借りてきて官民連携とか、外務省と抱き合わせで国際渉外とか。この間君たちを拉致した暴漢もあれ、国内で重火器携帯してもいい感じの部局の人たちなんだけど、そういうプロパーじゃない人たちも合わせたらかなりの勢力圏が――お、来た来た。でね、エレベーターに乗るときはここでピッとして。で、顔も。そうそう。オッケー。未来の電車に乗るみたいでわくわくするでしょ? しないか」
次はひとりで来い、と言われてもお断りさせてほしい道のりだった。
何せ、上に行ったり下に行ったりする。たかがオフィスのエレベーターのはずなのに、祭台から東京に来るまでの電車よりも乗り換えが多い。なぜか途中に改札みたいなところもあって、改札があるということはそこを通る前と後で区画が異なっているはずなのだが、何が変わったのか全くわからない。
導かれるがまま、三人で歩く。嶺一が一番前。イルが次。廻が一番後ろ。
「でも、根っからの技術畑で、直でダンジョンのことやってますよ~っていうところは今でもそんなに多くはなくてね。その数少ないところが――」
そして、最後にはいかにも仰々しい鉄扉が待っている。
三条は、迷わず開け放った。
「うち、『特装室』ってわけ!」
拍手が待っていた。
あまりの音量に圧倒されて、同時に鉄扉に相応しい仰々しい部屋の中身も目に入る。
SFめいた部屋だった。まず、想定していたような平面の形状ではない。映画館みたいに、入り口から奥に向かってぐっと床が下がっていく。客席に相当する部分にはいくつものコンピューターが置かれていて、当然、そのオペレーターらしき人たちが拍手の主だ。それだけじゃない。操作パネルのようなものもいくつか設置されていて、飲み物なんかを零したら、一生返し切れない借金を背負わされそうな空間だ。
そして、拍手の主たちは、妙に若い。
ここ数年で新設されたばかりとはいえ、官公庁のひとつだ。廻はもちろん、もっと肩肘の張ったところを想像していた。けれど、見えた顔はどれも若い。市役所と言われても緩すぎるくらいの髪型と服装で、主だったメンバーが自己紹介をしている間、廻はずっとこう思っている。
ここ、本当に大丈夫な場所?
「実は、ここも普段から働いてる場所じゃないんだけどね」
自己紹介もそこそこに、三条が言った。嶺一が反応して、
「え、そうなんすか」
「そうなの。同じ階にあるんだけどね。普段はもっと普通のオフィス。なんだけど、別に若い子の前で見栄張って良い部屋取っちゃったとかじゃなくて、ちゃんと理由があってね」
まあ見て、と三条が促す。
職員のひとりがパネルを叩くと、入り口からまっすぐ視線を伸ばした先、巨大なモニターが点く。映像が映し出される。
ダンジョンの中だ。
「ここはオペレーションルームって言ってね。ダンジョン内部に固定・非固定問わず設置した一千万台のカメラで、異状がないかを監視してる。でも、別に普段はここに籠って肉眼で確認してるわけじゃなくて。たとえば……」
三条は、近くのパネルを自ら叩いた。
ぱちぱち、といくつか簡単な操作をする。それだけで、一気に画面の情報量が変わる。
EコンのYボタンを押したときの、二千倍くらい細かな画面が、オーバーレイで表示された。
「温度、湿度、それからミスティックに関わる磁場とか、そういうのが色々。普段は別のオフィスで、こういう数字をベースにして確認してる。で、たとえばいざというとき。八坂くんたちがこの間ドンパチしたときとか。そういうときは、ここまで来て肉眼で色々確認するってことになってるんだけど……」
ほうほう、と嶺一はのんきに感心の顔をしている。
それに三条は、大したためらいもなく、言った。
「実は、今日もここに異常が発生してる。もしかしたら、あの大きなメムがまた現れるかもしれない」
「――え!?」
嶺一は、驚いた。
廻もだ。今日は、ただの見学なのだと思っていたから。だからここまで、イルのお願い通りについてきたのだ。
「んなのわかんすか!?」
「わかっちゃうんす。って言っても、この間までは上手く処理できてなかったんだよ。君たちが倒してくれたギガメム――ああ、とりあえず呼称がないと不便だから、今はそう呼ぶことにしたんだ。その発生前後の磁場の変動パターンを分析して、どうもこれじゃないかっていう特徴が掴めてきた。もちろん断言はできないけど、かなり怪しいと睨んでる」
そういうわけで、と三条は振り返った。
嶺一と、イルを、じっと見つめた。
「早速なんだけど、現場で調査に協力してもらえないかな」
調査、とオウム返しに嶺一が繰り返せば、三条は頷いて、
「一部の旧式カメラが停止してる区画があるんだ。ミスティックの利活用が始まってから、この手の技術は日進月歩だからね。どうも、磁場に耐えられなくて一部の区画がモニタリングの死角になってる。もしかすると、すでにギガメムが発生して、中に潜伏している可能性もある」
なるほど、と。
こっちはこっちで、大したためらいもなく頷いた。
「そういうことなら……イル、頼めるか?」
「いいよ~」
嶺一は今日、エナメルのバッグを肩に掛けていた。
中学の部活で使っていたものらしい。着替えでも入れているのかと廻は思っていた。そのチャックに指をかけて、開けて、中からEコンを取り出す。
嶺一とイルが、それに触れる。
当たり前みたいに光って、消えた。
「おぉ……!」
職員がみな、同じ方向を見た。
モニターだ。カメラは、随分と引きで映していたらしい。ひどく小さなふたりが、大きなモニターの真ん中に映っている。ちらほらと拍手が起きる。声が聞こえてくる。本当だったのか。いや、聞いてはいたけど実際に見るとすごいな。実用化できたらこれえらいことになるぞ。
「はい、集中!」
パン、と手を叩いて三条がそれを引き締めた。
「楽しいおしゃべりは後! 八坂くん、イルくん。こっちの声は聞こえてる?」
ふたりが、画面の中で反応する。
最初に出会ったときのような緊張感は、もう見えなかった。のんきにうろちょろ歩き回って、それからこっちを指で差す。あったあった、と近付いてきて、画面の六割を埋め尽くすような距離で、
『はーい』
『聞こえてます!』
「オーケー。それじゃあね、ここからは僕はこっちの統括の方に回るから。基本的な指示は、今から聞こえる声――隅田くんの言うことを聞いてくれ」
「口頭通信を担当する隅田です。よろしくお願いします。それでは早速、例の赤いロボットの状態に――」
仕事は、ちゃんとしていた。
隅田と呼ばれた眼鏡の職員が、聞き取りやすい声で淡々と、明快な指示を出していく。嶺一とイルも、それに応えた。ロボットに変身したときは、流石にもう一度声が上がる。それでもすぐに収まって、『作戦行動』とやらが始まる。
廻は、黙ってそれを見ていた。
居心地の悪さを感じながら。
知らない人が大量に働いている職場にいきなり突っ込まれたからというのも、もちろんある。ベンチャー企業みたいな面々とはいえ、社会人の集まりに、官公庁のビルに入った特別な部屋に、何の変哲もない高校生がひとり。場違いにもほどがある。
でも、それ以上に――
「あの子、喋れるでしょ」
唐突に、ほんの小さな声で、三条が呟いた。
「――え?」
「イルくん。あの子、喋れないふりしてるだけでしょ。さっきから僕らの言うこと、全部わかってる」
カマかけなのか確信なのか、廻にはわからなかった。
いつも半笑いみたいな顔をした男だ。これだけ若くてこの位置にいるというのも、いまいち得体が知れない。けれどどんな人間が相手だとしても、この場面でこういうことを言われたら、廻が言うべきことは決まっている。
「そうなんですか?」
「とぼけなくていい……っていうのも酷か。まあでも、本当に無理に隠そうとしなくていいよ。ここにいる僕らはともかく、室長はこれ、確信してるみたいだし」
室長、と廻は繰り返す。話を逸らす先が、それしか見当たらなかったからだ。
「今日は、来てないんですか」
「忙しいんだよね。あの人」
三条は、それに大して抵抗しない。
さらりと答えて、
「ただ、凄まじく優秀な人だよ。ダンジョンが出現してから実質一年でミスティック関連の博士号も取ってる。まあ、最近はちょっと学位バブルで基準が緩んでるのもあるけど……それにしたってね。僕も結構周りにちやほやされて生きてきた方だけど、正直、格が違う」
はあ、と冴えない相槌を打ちながら、廻は思う。これは脅しなんだろうか。お前みたいな凡人が考えてることは全てお見通しだという、警告なんだろうか。
「だからね、安心してくれていいよ」
「……はあ」
「あ、これは別に安心してイルくんがお喋りできることを吐いてねってことじゃなくて。ただ――」
三条は、モニターを注視したまま、目も合わせずに言う。
「卯井くんって、この場所にいるのもギリギリな感じでしょ?」
やっぱり、と廻は思った。
さっきのは、脅しだったのかもしれない。
「不躾なこと言ってごめんね。でも、こっちでも君の情報はちゃんと仕入れてる。仕事だし、うちに入れるってなったら安全管理の問題もあるしね。あれ以来、君はインターネットどころか電子機器にすら忌避感を抱くようになってる。ダンジョンとか取り調べで疲弊するのはもちろん……僕は心の専門家ってわけじゃないけど、きついんだろうなって想像するくらいはできるよ。Eコンを触るのだって、本当は結構嫌だろう」
だから僕が言いたいのは、と。
優しいカウンセラーのような口調で、三条は言う。
「それでもここまでついてきてくれるくらい八坂くんを心配してるんだろうけど――」
「あの」
割り込めば、だから、三条はあっさりと口を噤んだ。
「すみません。ちょっと、お手洗い……」
ああ、と彼は頷く。ちらりと職員に目をやった後、結局自分で道案内をする。外に出てそのまま右の突き当たりだよ。
どうも、と頭を下げて、廻は部屋を出ていく。
三条は背中越し、誰にも聞こえない溜息を吐く。
◇
煙草の臭いがする。
「室長。お疲れさまでした」
それが佐藤すみれが運んできたコーヒーの匂いに多少かき消されて、紙の資料から顔を上げた梓間千鶴は、小さく微笑んだ。
迎車はすでに停まっているのに姿が見えなかったから、そんなところだろうと思っていた。佐藤が隣に乗り込んできて、後部座席のドアを閉める。発進しますね、と運転席の菅原が言って、ウインカーの音が響き出す。
佐藤が紙袋を開けながら訊ねる。甘いのと苦いの、どっちがいいですか。
苦いの。
「あ、そうだ。菅原さん、多分まだ交通規制――」
「把握してます」
ですか、と佐藤は頷いて、
「にしても、だいぶ長いですよね。あれ、結局ダンジョン周りの被害とか何も出てないのに」
「デモ潰しの関係でしばらく国会前を閉じておきたいらしいですよ。被害どうこうの話ではなく」
千鶴の言葉に、佐藤は「うへえ」と声に出して、
「制限で思い出した。今日の議事録はどうします? 閲覧権限は」
「大臣レクなので、私と佐藤さんだけにしておいてください」
「三条さんは?」
「口頭でいいかな。どうせ大したこと話してないし。それより、向こうの方はどうなってますか?」
「あ、はい」
言われて佐藤は、タブレット端末を取り出した。
画面を点けて、指先で操作を始めながら、
「一応、状況は同期してもらってます。レクの前に三条さんから調査開始の連絡は貰ってますけど~……っと。ほんとだ。『赤』が動いてるみたいですね。一応周辺のモニタリングはこんな感じで――室長?」
有無を言わせなかった。
千鶴は、佐藤のタブレットを自分の手元に引き寄せた。
こっちは、もっと指先に迷いがない。大して素早い動きでもないが、佐藤が操作していたときよりも遥かに展開目まぐるしく、大量の数字と、文字が、画面上に表示されていく。千鶴の視線が、それを追う。到底隣にいる佐藤には処理できない速度で流れる情報を、瞬く間に読み取っていく。
そして、彼女は言った。
「中止」
◇
尻尾を撒いて帰ればいいのに。
マスクを外して廻は、悪あがきみたいに洗面台で顔を洗っている。
新築の庁舎だけあって、それはもう綺麗なトイレだった。地方自治体がそれ一本でやっていこうとしている博物館とか美術館とか水族館とか、そのあたりと比べても遜色ない。白が基調で、なのに目立った汚れもない。流石に手をかざして温水が出てくることはないけれど、冷たい水だって、夏場にはありがたい。
顔を上げると、そのトイレの壁よりも真っ白な自分の顔が目に入る。
思う。
何やってんだろ、おれ。
卯井廻は、四年前、世界で初めてダンジョンに足を踏み入れた人間のひとりだ。
本当に最初のひとりだったのかどうかは、今でもわからない。他の国には、大してこういう情報を公開していないところもあるからだ。でも、少なくとも国内では一番最初。一番最初の、たったのひとり。
中学一年の、宿泊学習の途中だった。
夏になる少し前のことだ。今更になって、クラスメイトの皆さんで仲良くなりましょう。時期は外れていたけれど、学校がツアーを組んでくれた旅行と思えば、まあ楽しい。海辺の街なのになんで夏に来なかったんだよとか、そんなことを話しながら、ちょっとした遠足みたいに水族館に行ったり、レクリエーションをしたり、これからの観光のあり方について現地の人の話を聞いたり、やたら広い温泉に入ったり、そういう時間を過ごした。
帰るとなって、通りの土産物屋でまんじゅうを買った後のことだ。
しまった、と思った。二十四個入より三十六個入の方がひとつ当たりが安いなんて気付いたのが良くなかった。箱がでかすぎて、上手くカバンに入らない。通りは人がごった返して、突っ立っていたら邪魔になる。そう思ったから、店と店の間の小道を見つけて、そこで荷物を整理しようとした。
そうして廻は、見知らぬ場所に迷い込んだ。
後のことは、思い出すだけで嫌になる。
執拗に長くて、頭がおかしくなりそうな回数の取り調べ。夏だというのにシャワーも浴びられなくて、両親とも、学校とも連絡が取れない。ようやく出てきたと思ったらありえない数のテレビクルーが正面に陣取って、脳が熱で腐りそうな量のシャッターを焚かれる。家に戻っても、昼夜問わずの突撃取材。取材車がずっと家の近くに陣取っているから窓も開けられなくて、近隣住民からの苦情もすごい。外に出れば行く先々で振り返られて、写真を撮られて、迷惑がられて、部活を辞めるまでにそれほど時間はかからない。テレビを点ければ必ずその話題が出るからテレビを消して、ネットを消して、一番効いたのは電話番号の流出だった。知らない番号がディスプレイに常に表示されている。ろくに触れもしなくなって、無視していれば母親からの連絡が混じっていて、叱られて、癇癪を起こして、床に叩きつけてぶち割って、「壊した」の一言で周りに説明したとき、とうとうクラスメイトが各自持ち寄ってくれた同情心の在庫が枯れたのがわかった。それから今に至るまで、一度も連絡を取っていない。
マシになった、と自分では思っていた。
そうじゃなければ、いくら何でもEコンを握ってダンジョンになんて、試しもしなかった。
いきなり道端で動けなくなるとか、目の前が暗くなって気付いたら身体に擦り傷を作って突っ伏してるとか、そういうことはなくなった。トイレに駆け込んだ後も、精々が顔を洗うくらいになった。携帯電話だって持ち歩けるようになった。新しい番号はほとんどの人に教えていない。けれど、家族以外にたった二件、連絡先が保存してある。
このふたりのおかげだと、事実としてそう思う。
だから、そのうちのひとりを心配して、こうしてここまでついてきた。
そのとおりだ。そのとおりだよ、と廻は、今はこの場にいない三条に思う。瞼をきつく閉じる。深く息をする。
こんなことになるなら、あの日、嶺一の誘いを断っておけばよかったのだ。
もしかしたら、今なら大丈夫かも。元通りになっているかも。ここから先の人生で、ここまで頼れる相手もそう見つからないかもしれない。確かめてみるチャンスかもしれない。この先ずっと『二件』のままだとしたら――あるいは、これすらもやがて失われるものだとしたら――これが、最後のチャンスになるかもしれない。
飛び乗って、その挙句がこの有様だ。
別に、自分が何をするわけでもないのに。
ただ、近くで見ているだけなのに。人が危ない場所に踏み込んでいくのを、他人事で眺めているだけなのに。そんな簡単なことすらできなくて、こんな場所に逃げ込んでいる。危ないことをしている本人たちがあれだけ立派に、ちゃんとやっているのに、赤の他人が勝手に追い詰められて、本人より疲弊している。こうして弱っているのも何かの言い訳みたいで、血の気の失せた顔に向かって、廻は言ってやりたくなる。
本当に心配してるなら、「何か手伝うよ」の一言くらい、自分から言ってみればいいのに。
「……馬鹿みたいだな、おれ」
呟いたそのとき、建物が揺れた。
◇
「なあ、なんか暑くね?」
嶺一は、思わず周囲の様子を伺いながら、そう呟いた。
呟いてから、やべっ、と思う。思い出したのだ。イルは、自分と廻と山蔵と、それからあの弁護士の人の前以外では、何も喋れないし理解もできないという体でやっている。今日もそうだ。そういう打ち合わせの上でここまで来た。
だというのに、普通に話しかけてしまった。
イルからの、冷たい視線を感じないでもなかった。
もっとも、それが本物なのかは嶺一にもわからない。何せ、この赤いロボに変わっているとき、イルが実際にどこにいるのかは嶺一にもわからないからだ。自分自身は、ロボットのパーツのように組み込まれている。感覚としてはパワードスーツ……がどんな着心地かは知らないが、全身を覆う鎧なんかを着たらこんな感じになる気がするから、そう遠くはないと思う。となるとイルがすぐ傍にいても直感としてはおかしくなさそうだが、機体が巨大だからか、互いのコックピット的なものは重なっていないらしい。助かった、と嶺一は思っている。女子と至近距離で密着することになった場合、男子高校生は、死ぬ。
『周囲の気温も上昇していますからね』
そして幸い、嶺一のその問いかけは、喋れない設定のイルに対するものではなく、オペレーターの隅田に対するものとして処理された。
ほっと嶺一は息を吐く。今朝方、「リョーイチは気が利かないから不安」「メグルも連れてく」
「何かあったとき困るから」と言われて何の反論もできなかった自分の情けなさを思う。いざとなったら、廻が華麗な話術で誤魔化してくれたりするだろうか。自分より頼りになることは、とりあえず確かだけれど。
『気を付けてください。今までのギガメムのデータから、もしかするとすでに近くにいるかもしれません』
「いや、近くってーか……」
言われて、嶺一は機体の首を回す。
いつも思う。ダンジョンは、妙に入り組んでいる。入り組んでいるからこそあちこちでEロボを使った採掘を行えるのかもしれないが、今みたいに天井まである場所に立っていると、妙な圧迫感がある。見通しが効かない。
それに、隅田の言うことが、いまいち肌感覚に合わない。
「なんか、もっと遠いところから焙られてるみてーな――」
「リョーイチ!」
叫ぶ声が、すぐ近くで聞こえた。
「避けて!」
◇
部屋に入ると、ありえない量の警告音が、波のように廻の顔を覆った。
モニターから迸る光が、ちかちかと輝いて現実感を失わせる。十数人のオペレーターがそれぞれに好き勝手なことを喋って、言葉に、数字に、耳から脳にかけてが一息に圧倒される。
大変なことになっている、ということだけはわかった。
「三条さ――」
「距離を取れ、八坂くん!」
さっきまでの得体の知れない優男の面影など、微塵もなかった。
焦燥と気迫に満ちた声で彼は、
「機体の装甲がギガメムの熱に耐え切れてないんだ! その間合いじゃ溶け落ちるぞ!」
言われてから、ようやく理解できた。
モニターに映った数字と警告を取り除いた先にあるものの意味が。歪んだ画面は、熱のせい。見慣れない真っ赤な形は、嶺一とイルが乗るあの赤いロボットが変形した姿。
サイとトドを混ぜ合わせたような巨体が、向こうにいた。
一角の獣だ。いかにも鈍重そうに見えるその『敵』に、全く嶺一たちは、近付けていない。
一角獣の放つ光線が掠りもしないのに、たかが余波で装甲が融けて、赤いロボットは、その形を崩している。
『近付くなって――』
反対に、嶺一の放つ光線は、まるで意味をなしていなかった。
まず、最初の変身のときに使っていた赤い剣は、もうその手の中にない。地面の上に落ちたそれを見れば、大体の流れは読み取れた。近付けなかったのだ。剣を持っても、それが届く間合いまで。
だから嶺一は苦し紛れに、一角獣の攻撃を真似るように、光線を放つ。
出力違いの光線に、それが呑み込まれていく。
『こんなやつ相手にできねえよ! 近付かなきゃ、攻撃が届かねえ!』
廻は別に、嶺一のようにたくさんのダンジョンの動画を見てきたわけではない。
格闘技に詳しいわけでも、戦争や兵器に詳しいわけでもない。この場所にいるほとんどのダンジョン庁職員のように、科学に詳しい専門家というわけでもない。
それでも、モニターの中に映るのが、今までとは段違いの敵だということくらいは、察せた。
呆然としていた。
とうとう現実感が、底をついた。
「わかってる! そのまま退却していい! 退くんだ!」
『たい――じゃあどうするんすか! この敵は!』
どうなるんだろう、と思った。
嶺一とイルは。送り出したふたりは。ついさっきまで一緒にいたふたりは。一緒に居られない場所で、戦って、それでどうなるんだろう。戦うって、なんだろう。ついこの間まで、そんなものは生活の中になかったのに。どうしてこんなものが割り込んできたんだろう。
ふたりは、逃げられるんだろうか。
逃げて――そのあと、何がどうなるんだろうか。
「とにかく仕切り直すんだ!」
考えごとの間も、時間は止まってはくれない。三条が、喉を裂くような大声で叫ぶ。
「このまま君たちを失うことが、一番マズい!」
『なわけねえだろ!』
失う。
嶺一の叫びが重なる、その直前の言葉が、妙に耳に残った。
『あんたここがどこかわかってんのか!? 東京のど真ん中だぞ! こんなところで俺らが引っ込んだら――』
議論の間、大人しく待っている敵もいない。
光線が一撃、とうとう掠めた。
『づっ――』
オペレーションルームに、悲鳴が上がる。
「やめろ八坂くん! イルくん! 撤退だ!」
装甲の金属板が、直撃したら人が死ぬような勢いで吹き飛んでいく。どこからか駆け付けた配信用のドローンカメラが、それに当たって弾き飛ばされていく。画面の数字は、思い思いに勝手な上昇と下降を続ける。
「君が死んだら――」
演技の気配は微塵もない。
三条もまた、悲鳴にも似た声で叫んだ。
「君が死んだら、みんな死んでしまうぞ!」
『誰も死なせたくねえって言ってんだ!』
叫び返して、赤いロボットの脚が、光った。
警告音は、もうどれが何を意味しているのかわからない。オペレーターの声を勝手に拾って、組み立てるしかない。
「高エネルギー確認!」
「『赤』脚部にさらなる赤熱反応――」
「フレーム崩壊――」
「この子、突っ込む気です!」
「やめろ、八坂くん!」
全部の声が、遠い世界の出来事に聞こえた。
オペレーターが口々に叫び続ける。強制停止は取れないのか。うちのEロボを回せないのか。頼むから抑えて。機体が耐えられない。室長からプロトタイプの出動許可を。ギガメム侵出時の被害予測は、関東一円、自衛隊はどうなってる、そもそも本当に侵出できるのか、何かの勘違いじゃないのか、理論上可能だって、最悪の事態を想定して、避難区域の指定すらこれじゃ、
――メグル。
なのに、そのたったひとつだけが、すごく近くで聞こえた。
他の誰も、反応していなかった。廻は、無意識のように視線を巡らせた。ごく普通の、当たり前の反応だった。名前を呼ばれたから、その声のした方を見る。誰が自分を呼んだのか、確かめる。
テーブルの上に、取り残されたように、Eコンが置かれている。
一歩が、とてつもなく重かった。
物理的な話じゃない。精神的な問題だ。インフルエンザには今まで二回罹ったことがあるけれど、そのときの方がずっと元気だったと思う。足が鉛に変わったのかと思う。踝から先の重みに、身体の全部を振り子のように持っていかれているのではないかと思う。泥の中にどっぷり沈んで歩くのにも、これほどの抵抗はあるまい。下り坂は天秤の上でも歩くように不安定で、手すりに掴まらなければ一番下まで転げ落ちてしまいそうになる。
だって、嫌だった。
画面越しに見た、一体目と二体目。あれだって、本当は怖かった。嶺一の誘いに乗らなきゃよかったと思った。この世にはたくさんの人がいて、ほとんどの人はダンジョンと関わらずに過ごせているのに、どうして自分ばかりこうなるんだろう。嫌なものから目を背けるのって、そんなに難しいことなのか。世界って、そんなに狭いものなのか。赤いロボットが二体ともぶった切って、それはとても爽快で、なのにそれが今、負けそうになっている。多分負ける。余計に近付きたくない。対処できないものが、自分にはどうにもできないものが、廻はずっと怖い。
迷い込んだだけで、あんなことになったのに。
この先で何を『失う』のかわからない。
「――卯井くん?」
画面の向こうの、手の届かない場所に、嶺一が映っていた。
赤いロボットをその身に纏った、嶺一が。
――変なの来たら全部、俺が追っ払ってやるからさ!
あれは嘘だった、と廻は思う。
嶺一は、何でも全部を追っ払えるほど強いわけじゃない。それは本当は、何となくわかっていた。赤いロボットになんて、ついこの間まで嶺一は乗っていなかったから。そして、乗っても。けれど、何度も心に浮かべてきたあの質問の答えは、ずっと目の前にあった。
この先に待ち受けているものが、廻は嫌で仕方ない。
なのに天秤は簡単に傾くから、重たい方に向かって歩くしかなかった。
「イルさん」
そんなこと言って、手に負えない相手が出てきたらどうするの?
嶺一は、ずっと答えを出している。
だから廻も、答えを出した。
「おれにも、手伝わせて」
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
モニターの向こう、赤いロボットが姿を消した。オペレーションルームの真ん中に、唐突に八坂嶺一が戻ってくる。三条が、隅田が、他の職員たちが驚愕に浸る時間もない。もっと信じられない光景が、向こうに映る。
ダンジョンの中で、廻とイルが、並んで立っている。
どちらからともなく指先が触れて、声を合わせた。
「――『接触』」
そして、薄青く色付いた。
ついさっきまで、ダンジョンで人類を庇っていた背中とはまるで違う。鋭角の赤は姿を消す。代わりに現れたのは、流線型の青い機体だ。オペレーションルームを沈黙が支配する。一方でその青色の中、奇妙に冷静なパイロットは、機体の感触を確かめている。
不思議だった。
Eコンを握ったときにはあれだけ操作に手間取っていたのに、いざこうして機体を纏ったら、何ができるのか、何をすべきなのか、自然とわかった。
イルが背中を押してくれるのも、わかった。
「おれが近付く!」
青色が、突っ込んだ。
氷の上を滑るような、なめらかな動きだった。迷いもなければ、細工もない。ただ真っ直ぐに、ついさっきまで嶺一が心に描いていたような、真正面からの突撃を廻は選んだ。当然、それを大人しく受ける敵はいない。角が光る。熱が籠る。
一角獣が、光線を放つ。
流線型の装甲が、その光線を真後ろに受け流した。
たったそれだけで、見るべき人間が見ればわかる。
『――防御型か!』
「うぉおおおお――!」
聞いたことのないような声が喉から迸るのを、廻は感じていた。
一度駆け出したら、考える余裕なんか何もない。それがよかった。考えたくないことばかりだった。目を背けたい過去のことも。これから訪れるであろう後先も。何もかもが光って、何も見えない。白く染まり、青く色付く視界の中、廻はイルの声を、確かに聞いた。
「蹴っちゃえ!」
ガキン、と音がした。
角が折れてくれれば、それが一番だった。けれど、それほどじゃない。足の上げ方が、強い蹴りの出し方が、きっと上手くイメージできなかった。
ただ角が上を向いただけ。
それで、十分だった。
「スイッチ!」
イルが叫んで、青いロボットが消える。
卯井廻が姿を消して、代わりに現れたのは、八坂嶺一。
赤く光れば、
「行け、嶺一!」
『――まっ、かっ、せぇっ、』
見慣れたロボットが、剣を振りかぶって、
『ろぉおおおー!!!』
斬り裂いた。
赤熱する刃が、上向いた角に、落雷のように真っ直ぐ落ちる。形を保ったのはほんの一秒にも満たない間のこと。断面が灼熱する。赤いロボットが後ろに飛ぶ。無闇に華麗に剣を取りまわして、ぴたりと止まる。
「勝っ、」
モニターを前に、廻は言った。
「勝った……」
そうして、景気の良い大爆発。
負けないくらいの音量で、オペレーションルームに歓声が沸き起こった。
職員たちが口々に言う。ふたり目だ。今度は青い。性能も形状もコンセプトから違うぞ。他にもパイロットは代われるのか。こんなことができるならこの国のダンジョン開発は……。そしてもちろん、労いだって忘れない。彼らは席を立つ。廻の肩を叩く。変身を解いた嶺一は、疲れ切って目を回してるイルの肩を支えている。カメラに向かって親指を立てる。
部屋の中は、歓喜に沸いている。
「……いやいや」
その中でひとり、三条だけが冷や汗を流している。
「これ、大丈夫か?」
◇
「すごい!」
と、車の中で佐藤すみれもまた、歓喜の声を上げていた。
渋滞に嵌まり込んだ車は、なかなか動きを見せずにいる。後部座席では佐藤が千鶴に身を寄せて、ふたりで同じタブレットを覗き込んでいる。
もちろん、そこにはついさっきまで、二機のロボットの奮闘が映っていた。
「コンビネーションですよ、コンビネーション!」
佐藤は、大喜びで手まで叩く。
「これだけできるなら、さらに戦術も広がりますね! 室長、これ早速交渉して――」
そして、隣を見る。
様子がおかしいことに、気付く。
「――室長?」
じっと、千鶴は画面を見ていた。
その手には、ついさっき佐藤から渡されたコーヒーの紙コップが握られている。集中して見ていたらしい。まだほとんどそれは満杯付近まで注がれたまま、残っている。
握りつぶした。
「ぅえええっ!?」
佐藤が驚いても、全く千鶴は動じない。視線が外れない。カップを握る手だけが、小さく震えている。
「や、やけど! 冷やさないと!」
「ふたりの」
わたわたと慌てる佐藤の横で、低く、小さく、千鶴は呟いた。
「ふたりだけの秘密だって、言ったのに……」